第349話 2011/11/15

九州年号の史料批判(4)

 今、東京八重洲のブリヂストン美術館のティールームでこの原稿を書いています。コーヒーも美味しいし、おしゃれなお店なので、東京出張のおり にはよく利用しています。店内には長谷川路可(1897−1967)のフレスコ画が飾られており、とても気持ちのいい空間で気に入っています。

 さて、話しを『二中歴』にもどします。「丸山モデル」が提唱された後も、古田先生は『二中歴』の史料的優位性を主張されていました。その理由の一つは、他の年代暦に比べて『二中歴』は成立が早いということでした。多くの年代暦はせいぜい室町期の成立であり、比べて『二中歴』は鎌倉初期であり、 九州年号群史料としては現存最古のものなのです。
 更に、こちらの方がより重要なのですが、『二中歴』「年代歴」に記されている細注記事の内容が、近畿天皇家とは無関係であるという史料性格です。
 多くの年代暦は近畿天皇家などの事績を九州年号という時間軸を用いて記載するという史料状況(年号と記事の後代合成)を示しているのですが、これは九州年号史料にあった年号を、後代において「再利用」したものである可能性が高く、これら年代歴そのものは同時代九州年号史料の本来の姿を表したものではないからです。
 その点、『二中歴』「年代歴」の九州年号記事は九州王朝内で成立した九州年号史料の集録という史料状況(同時代九州年号史料の再写・再記録)を示しており、それだけ年号の誤記誤伝の可能性が少なく、その年号立てについても信頼性が高いのです。
 そして、古田先生は各年代暦の「多数決」あるいは最多公約数的な年号立てによる「丸山モデル」は学問の方法として不適切と言われていました。学問は各史料ごとの優位性の論証が基本であり、多数決で決まるものではないと主張されたのです。この指摘は大変重要なことで、古田史学が一元史観と根本的に異なる学問の方法論にかかわることなのですが、古田学派内でも残念ながら十分理解されていないケースも見受けられます。
 こうした古田先生の指摘を受けて、わたしも徐々に『二中歴』の重要性を認識するに至ったのですが、同時に、それではなぜ朱鳥のない多くの年代暦が後代に発生したのか、なぜ他のほとんどの年代暦にある大長が『二中歴』にはないのかという、二つの疑問点に何年も悩み続けることとなったのです。(つづく)

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