2015年09月08日一覧

第1048話 2015/09/08

盛況!『盗まれた「聖徳太子」伝承』

発刊記念東京講演会済み

 今夜は長岡市のホテルで書いています。長岡駅に隣接するお気に入りのお店でおいしいお酒と食事を済ませて、一息ついたところです。

 6日の『盗まれた「聖徳太子」伝承』発刊記念東京講演会は106名参加者(+主催者6名)で盛況でした。「古田史学の会」としては初めての東京講演会でもあり不安でしたが。多くの皆さんにご参加いただき、ありがとうございました。ご協力いただいた「東京古田会」「多元的古代研究会」をはじめ会場を提供していただいた東京家政学院大学の関係者の皆様に心より御礼申し上げます。
 同講演会の責任者の服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)は「これからも年に二回は発刊記念講演会を行います」と挨拶されていましたので、これはやるしかないなと覚悟を決めました。ミネルヴァ書房から『「邪馬台国」論争を超えて』(仮称)の年内発行を予定していますから、来春には発刊記念講演会を開催しなければなりませんが、「古田史学の会」役員会での検討と承認が必要です。来春には『古代に真実を求めて』19集(九州年号特集)を発行しますので、その発刊記念講演会も開催できればと思います。
 講演では、正木裕さんが基礎的な「聖徳太子」多元論を丁寧に解説され、わたしからは多利思北孤の弟を「肥後の翁」とする最新の仮説について報告しました。九州王朝系図の「草壁氏系図」の公表は関心を持ってお聞きいただけたようです。

聖徳太子の原像ー姓は阿毎、字は多利思北孤 正木裕

「日出ずる処の天子と『肥後の翁』」古賀達也

 これからも定期的に東京講演会を開催したいと願っています。関東の皆さんに喜んでいただけるような講演会を続けられればと思います。最後に、お手伝いいただいた関東地区の会員の方々に深謝いたします。


第1047話 2015/09/08

「武蔵国分寺跡」主要伽藍と塔の年代差

 今日の午後は東京で商談を行い、今は上越新幹線で新潟県長岡市に向かっています。明日は朝から新潟県の代理店・顧客訪問です。

 武蔵国分寺跡資料館の中道さんの説明によりますと、武蔵国分寺跡で最も古い「塔1」の造営年代は聖武天皇の国分寺建立命令(天平13年、741年)が出された7世紀中頃で、金堂などのその他の主要伽藍は10年ほど遅れて造営されたとのことでした。この10年ほど遅れたとする根拠も、天平19年(747)に出された、国分寺建設を3年以内に完成させろという命令でした。いずれも『続日本紀』を史料根拠とした造営年の判断ですが、出土瓦からも「塔1」の方が金堂のものよりも古い様式を持つという相対編年に依られているようです。
 「塔1」と主要伽藍の先後関係については、わたしも賛成なのですが、「塔1」を『続日本紀』を根拠に8世紀中頃とする判断には疑問を持っています。「洛中洛外日記」1045話で指摘しましたように、「単弁蓮華文」軒丸瓦はもう少し古く見ても良いよう思いますし、第一の疑念はたった10年ほどの年代差で主軸が7度も振れる設計を同一寺院内の建造物で行うものでしょうか。また、10年後なら「塔1」を設計造営した人たちはまだ健在であり、造営主体が同一の権力者であれば、このような不細工な「設計変更」をするでしょうか。この疑問を中道さんにぶつけたのですが、返答に困っておられたようでした。
 更に、考古学者は出土事物に基づいて編年すべきであり、文献に編年が引きずられるというのはいかがなものかと、遠回しに「苦言」を呈したのですが、真剣に受け止めていただきました。その応答や態度から、とても誠実な考古学者との印象を受けました。大和朝廷一元史観の宿痾は、現場でまじめに発掘調査されている若い考古学者も苦しめているのだなあ、と思いました。
 なお、わたしが難波宮についていろいろと教えていただいている大阪歴博の考古学者は、考古学は発掘事実に基づいて編年すべきで、史料に影響を受けてはいけないと言われていたことを思い出しました。一つの見識を示したものと思いますが、考古学と文献史学のあり方や関係性は学問的に重要な問題ですので、この問題についても考えを述べてみたいと思います。(つづく)


第1046話 2015/09/08

「武蔵国分寺跡」主要伽藍調査報告書の方位

 今朝は新幹線で東京へ「とんぼ返り」です。月曜日は勤務先の定例会議がありますので、どうしても京都に帰らなければなりません。また今日から金曜日までは関東・新潟出張が連泊で続きます。

 武蔵国分寺跡資料館などでいただいた資料を精査していますと、面白いことに気づきました。国分寺市教育委員会発行のパンフレット「武蔵国分寺跡調査のあゆみと成果 -僧寺金銅跡-」(平成26年3月)によりますと、表紙に描かれた「武蔵国分寺跡の主要遺構」では、金堂などの主要伽藍の南北軸は真北より7度西偏しているのですが、別のページに記載された明治36年の図面(『古蹟』武蔵国分寺礎石配列図)では金堂の礎石配列が南北方位印と平行しており、西偏していないのです。同様に掲載されている大正12年発行『東京府史蹟勝地調査報告書』第一冊収録の「金堂址礎石配置図」も南北方位印に平行しており、西偏していません(調査が実施されたのは大正11年)。更に昭和31年の発掘調査の図面も西偏していません。平成21〜24年の最新調査の説明文に付された金堂礎石配置図も西偏していません。
 この国分寺市教育委員会発行のパンフレットを精査して、わたしの頭か眼がおかしくなったのかと不安にかられてしまいました。そこで今度は恐らく最新版パンフレットと思われる平成27年3月に国分寺市教育委員会ふるさと文化財課発行の「武蔵国分寺跡の整備」を見ますと、最も精密な測量図が掲載されており、金堂・講堂・鐘楼・南門などすべてが7度西偏していました。これでようやく「武蔵国分寺」主要伽藍が「塔1」を除いて7度西偏していることが確認されました。もちろん、9月5日の現地調査でも西偏を確認しています(茂山憲史さんのご協力による)。
 それではなぜ明治や大正、昭和31年の測量図面では伽藍主軸方位が真北として作図されていたのでしょうか。これは推定ですが、恐らくそれらの測量図作成において「磁北」が「方位印」として採用されたのではないでしょうか。ということは、明治時代から現在までこの地域の磁北は真北から「7度西偏」していたことになり、そうであればこれらの測量図がうまく説明できます。「磁北」が時期や地域によりどのくらい振れるのかは知りませんが、この地域では明治から現在まで「7度西偏」としてよさそうです。たぶん、明治時代以後であれば「磁北」についての科学的測定データが残されているのではないでしょうか。
 それにしても、行政が発行しているパンフレットや昔の報告書も用心して取り扱わなければならないということを改めて実感しました。よい経験となりました。(つづく)