第1229話 2016/07/11

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(7)

 下記の「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の中でも「致命傷」になりかねない最も深刻で強力なものが《三の矢》でした。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 《一の矢》と《二の矢》については、「お墓」や「お寺」の存在が必ずしも王朝の中枢を示すとは限らないという「強弁」も可能だったのですが、前期難波宮のような全国最大規模で中央集権的律令体制を前提とするようなわが国初の朝堂院様式の巨大宮殿の存在は、全国支配を前提とした王宮と見なさざるを得ないため、先の「強弁」や「わからない」という言い訳が大和朝廷一元論者に対しては通用しないのです。すなわち、「お墓」や「お寺」とはその遺構の存在目的が全く異なるため、わたしは何年も前期難波宮の存在を九州王朝説からどのように説明できるのかを考え続けたのでした。
 しかし、ひとたび「前期難波宮は九州王朝の宮殿(後に副都と理解した)」に至ると、そのことを支持する様々な痕跡(北部九州の土器出土、『日本書紀』の白雉改元儀式の場所など)の発見が続出したのです。もともとは大和朝廷一元史観において前期難波宮の存在を合理的に説明できないという問題点(近畿天皇家の宮殿様式の発展史からみて、前期難波宮は隔絶している)に基づく「消極的」理由を根拠に思い至った作業仮説だったのですが、その後の研究の進展により「九州王朝の王宮と見なければ説明できない」という「積極的」仮説へと変化しました。(つづく)

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