第1268話 2016/09/07

九州王朝の難波進出と狭山池築造

 わたしのfacebookに下記の記事を掲載しましたが、読者からの興味深いコメントも寄せられましたので、転載します。

九州王朝の難波進出と狭山池築造の作業仮説(思い付き)

 巨大な狭山池を見て、誰が何の目的でこれだけの規模の灌漑施設を築造したのだろうかと、この二日間ほど考えてみました。もちろん水田用の灌漑が目的であることは明白ですが、それにしても規模が大きすぎると思いました。相当な食糧増産の必要性に迫られた権力者でなければ、このような巨大土木事業は行わないのではないでしょうか。そこで次のような作業仮説(思い付き)に至りましたが、いかがでしょうか。

1.7世紀初頭、「河内戦争」(冨川ケイ子説)に勝利した九州王朝はその地に進出した。
2.多くの戦死者を出し、当地の人民からも恨まれたであろう九州王朝は難波天王寺を建立し、敵味方なく犠牲者の菩提を弔った。(619年、九州年号の倭京二年。『二中歴』による)
3.難攻不落の地勢を持つ上町台地への副都建設を想定して、その手始めに、急速に増加するであろう副都の官僚や家族、その他の人々のために食糧増産に迫られた。
4.そこで狭山池を築造し、水田面積を増やすべく西河内の灌漑施設を整備した。(616年)
5.隋や唐の脅威が迫った首都太宰府の防備を固めると同時に、全国に軍事的中央集権体制の評制を施行し(648年頃)、全国支配のための副都前期難波宮と役所群を造営した。(652年、古賀説)
6.条坊も造営整備し、副都防衛のため、関や羅城も造営した。(服部静尚説)

 以上のようなストーリーを思い付きました。今後、学問的検証を進め、仮説として成立するか検討してみます。みなさんの御意見・ご批判をお願いします。《古賀達也》

【写真】狭山池の航空写真と狭山池博物館に掲示されていた当地方の地図です。狭山池の巨大な規模と、それによる灌漑対象地域の広さがわかります。

〔寄せられたコメント〕

冨川ケイ子さん:大和国に基盤を置く勢力にとって、前期難波宮とそこで宣言された評制が非常に脅威だったこと、8世紀以後に権力を握った時に評制を歴史的に抹殺したくなる理由もよくわかります。しかし、そうすると、壬申の乱に難波宮が関わらなかったのはなぜなのか、ちょっと悩ましいです。

西村秀己さん:難波京が副都ではなく首都であったなら、倭京=難波京であったかも・・・

古賀:倭京はやはり大宰府でしょう。難波京の成立は日本書紀によれば652年(九州年号の白雉元年)ですし、九州年号の倭京元年は618年ですから、時期が離れています。

西村秀己さん:九州年号の倭京はもちろん太宰府。ここで言っている倭京は日本書紀の壬申の乱に登場する倭京のことです。

古賀:なるほど。微妙な問題ですね。日本書紀の再史料批判が必要です。

冨川ケイ子さん:私の論文「河内戦争」はほとんどが日本書紀の記述の分析ですが、ちょっとだけ考古学からの指摘に触れました。たとえば広瀬和雄氏に「畿内の古代集落」という長大な論文があって(『国立歴史民俗博物館研究報告第22集』所収)、そこでは畿内(大和・摂津・河内・和泉・山城)における7〜9世紀の集落遺跡が分析されています。集落の構成要素、建物群の類型、首長層の居宅、集落の景観・構成・消長、集落と集落の関係、古代の集団構造といった目次が示すように指摘されている点は多いのですが、私はその末尾の記述に注目しました。
 すなわち、「畿内の古代集落の変遷にはふたつの画期がみとめられることを指摘しておいた。それはそのまま集団関係における画期でもあった。第1の画期が6世紀末ないし7世紀初頭、第2の画期が8世紀初頭。」「第1に、7世紀初頭を前後する時期に、あらたにはじまる集落の多いことを述べた。いっぽうではこの時期に終焉をむかえる集落も顕著であった。(中略)すなわち、畿内各地を対象に広範におこなわれた計画的大開発が、伝統的な集団関係を改変し、それをあらたに再編成した。すなわち、耕地の開発を契機とした集落の成立、勧農を目的とした開墾、その権力による奨励が集落変遷における第1の画期の背景にある歴史的動向であった」「第2に、7世紀後半には畿内の有力首長層は寺院の建立をはじめ、そののち8世紀初頭ごろになると居宅に官衙風配置を採用するにいたる。」
 画期が2つあると言いながら、第2の画期は第1の画期が基盤になっていることは明白だと思います。第1の画期が6世紀末ないし7世紀初頭に始まっているということは、畿内では律令制的な農村が、文献史学が示すよりも早くスタートしていることを意味するでしょう。その画期は、6世紀末の「河内戦争」がきっかけでもたらされた、と考えます。

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