2017年01月08日一覧

第1319話 2017/01/08

中国南朝と倭国の関係

 わたしのfacebookの読者の方から、中国南朝を継承している九州王朝が天子を称することについて疑問がよせられました。南朝が東夷の国に対してそのようなことを認めないのではないかとするご質問でした。とても鋭い質問なので、この問題についてわたしの考えを説明したいと思います。
 このテーマについては古田先生とも検討を進めたことがあり、懐かしいテーマでした。今から10年ほど昔のことですが、たしか京都大学で開催された日本思想史学会でわたしが九州年号について発表したとき、なぜ九州王朝は年号を制定したのかという質問が会場からなされました。そのとき出席されていた古田先生からも南朝との関係を指摘する意見が出されました。時間不足でそのときは詳しい説明はできなかったのですが、要約すると次のように捉えています。

1.『宋書』倭国伝などから、倭国(九州王朝)が中国南朝の冊封体制に入っていたことは明らか。
2.『宋書』によれば、倭王武は「安東大将軍倭王」の称号を認められていた。
3.『南斉書』でも「鎮東大将軍」を認められている。
4.ところが『梁書』では百済と同格の「鎮東大将軍」「征東大将軍」とされているが(武帝即位の天監元年・502年)、百済はその後「寧東大将軍」に昇格している。
5,他方、九州年号は517年に「継躰」建元しており、この年は梁の武帝の天監16年に相当する。
6.年号を制定するということは、南朝(梁)の冊封を外れるという九州王朝の決意の現れと見なさざるを得ない。
7.『梁書』によれば梁と倭国との国交記事は少なく、恐らく梁と九州王朝(倭国)との間で何らかの関係を悪化させる事情があったのではないか。

 以上のような理解をしています。もちろん状況証拠による仮説ですが、南朝「梁」が健在にもかかわらず、九州王朝が建元しているという事実を説明できる一つの有力な仮説ではないでしょうか。
 それと同時に、この頃既に中国では北朝が並立しており、北方の「夷蛮」が天子を名乗り、年号を制定していることは九州王朝も知っていますから、南朝に対して臣従するメリットが無くなれば、九州王朝も中国北朝と同様に天子を名乗り、建元するという選択肢は当然あったものと思われます。