2017年01月25日一覧

第1327話 2017/01/23

研究論文の進歩性と新規性

 「洛中洛外日記」1315話「2016年の回顧『研究』編」でわたしが紹介した、2016年の『古田史学会報』に発表された特に印象に残った優れた論文の「選考基準」についての質問が、先日の「古田史学の会」関西例会の参加者から出されました。良い機会ですので、わたしが選考に当たって重視している「研究論文の進歩性と新規性」という問題についてご説明することにします。
 わたしは次の論文を特に優れていると判断し、「洛中洛外日記」で紹介しました。

①「近江朝年号」の実在について 川西市 正木裕(133号)
②古代の都城 -宮域に官僚約八千人- 八尾市 服部静尚(136号)
③盗まれた天皇陵 八尾市 服部静尚(137号)
④南海道の付け替え 高松市 西村秀己(136号)
⑤隋・煬帝のときに鴻臚寺掌客は無かった! 神戸市・谷本 茂(134号)

 これらの論文はいずれも研究論文としての「進歩性」と「新規性」が他の論文よりも際だっていました。
 特許出願に関わられた経験のある方ならよくご存じのことですが、特許庁による特許審査では、その特許申請の内容が社会の役に立つのかという「進歩性」の有無と、まだ誰もやったことのない初めての事例であるのかという「新規性」の有無が厳しく審査されます。そして進歩性と新規性が認められると、それが事実に基づいているかどうかという「実施例」と「実施データ」がこれまた厳しくチェックされます。ここに虚偽データや虚偽記述があると拒絶査定されますし、特許が成立した後で発覚すれば厳しい罰則(企業倒産するケースもあります)が課せられるほどです。
 わたしも勤務先での特許申請においては、特許事務所の専門家と何度も打ち合わせを行い、最後は胃が痛くなるような決断をして特許出願します。場合によっては担当審査官の個人的「性格」まで勘案して文言やデータの修正を行うこともあるほどです。
 学術論文でも同様に「進歩性」と「新規性」が学術誌への採否で厳しく審査(査読)されます。その研究が学問や研究に役立つ進歩性があるのか、まだ誰も行ったことがない、あるいは未発見という「新規性」があるのかをその分野の第一人者とされる研究者が査読します。権威のある学術誌ほど採用のハードルは高いのですが、世界中の研究者はそうした権威ある学術誌(ネイチャー誌は有名)への採用を目指して切磋琢磨しています。従って、投稿されたほとんどの論文は「没」になる運命が待っているのです。
 『古田史学会報』では通常の学会誌ほど厳しくは査定しませんが、進歩性・新規性の有無、そして論証の成立の有無や史料根拠の妥当性は重要視しています。念のため付け加えますが、採否にあたり、わたしの説とあっているかどうかは判断基準とはしませんし、更にいうならば個別の古田説にあっているか異なっているかも採否には無関係です。この点、誤解が生じやすいのではっきりと断言しておきます。
 また、投稿論文の採否検討にあたり、わたしが不得意な分野は、そのことをよくご存じの方に意見を求めることもあります。わたしが「採用」と判断しても、西村秀己さんから「不採用」とされるケースも極めて希ですがありました。掲載後に会員読者から「なぜこのような原稿を採用するのか」という厳しいご指摘が届いたことも一度や二度ではありません。ちなみに最も厳しい意見を寄せられたのは古田先生でした。そのときは、採用理由や経緯を詳しく説明し、その論文に対する反論をわたしが書くことでご了解いただいたこともありました。懐かしい思い出です。
 以上のことを「2016年の回顧『研究』編」で紹介した論文①の正木稿を例に、具体的に解説します。正木さんの「『近江朝年号』の実在について」は、それまでの九州年号研究において、後代における誤記誤伝として研究の対象とされることがほとんどなかった「中元」「果安」という年号を真正面から取り上げられ、「九州王朝系近江朝」という新概念を提起されたものでした。従って、「新規性」については問題ありません。
 また「近江朝」や「壬申の乱」、「不改の常典」など古代史研究に於いて多くの謎に包まれていたテーマについて、解決のための新たな視点を提起するという「進歩性」も有していました。史料根拠も明白ですし、論証過程に極端な恣意性や無理もなく、一応論証は成立しています。
 もちろん、わたしが発表していた「九州王朝の近江遷都」説とも異なっていたのですが、わたしの仮説よりも有力と思い、その理由を解説した拙稿「九州王朝を継承した近江朝廷 -正木新説の展開と考察-」を執筆したほどです。〔番外〕として拙稿を併記したのも、それほど正木稿のインパクトが強かったからに他なりません。
 正木説の当否はこれからの論争により検証されることと思いますが、7〜8世紀における九州王朝から大和朝廷への王朝交代時期の歴史の真相に迫る上で、この正木説の進歩性と新規性は2016年に発表された論文の中でも際だったものと、わたしは考えています。他の論稿②③④⑤も同様です。皆さんも「進歩性」「新規性」という視点でそれらの論文を再読していただければと思います。なお、わたしが紹介しなかったこの他の論文も、『古田史学会報』に掲載されたという点に於いて、いずれも優れた論稿であることは言うまでもありません。この点も誤解の無いようにお願いします。


第1326話 2017/01/22

新春講演会でのご挨拶

 「古田史学の会」を代表し、新年のご挨拶を申し上げます。昨年、わたしたちは友好団体と共に、この大阪府立大学なんばサテライト(i-siteなんば)で古田先生の追悼講演会を執り行いました。その後、追悼論文集『古田武彦は死なず』(明石書店)、『邪馬壹国の歴史学』(ミネルヴァ書房)を上梓しました。この出版記念講演会を東京家政学院大学千代田キャンパスや久留米大学福岡サテライトをお借りして開催しました。

 今年は九州年号の「継躰」が517年に建元されてから1500年に当たります。報道によれば今上陛下の御譲位に伴い、数年後には「平成」が改元されるとのことです。これからわが国では年号や改元が注目されることでしょう。
 「古田史学の会」は『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』を明石書店から今春発行します。『続日本紀』に記された大和朝廷にとって初めての年号「大寶建元」記事と『日本書紀』に記された九州年号の「大化・白雉・朱鳥の改元」記事などに焦点を当てた研究論文などが収録されています。「平成」の改元にあたりタイムリーな一冊となることでしょう。

 考古学の分野でも太宰府条坊都市の成立が「日本最古」とする井上信正説(太宰府市教育委員会)が注目されています。その太宰府を防衛する羅城と思われる巨大土塁遺跡も昨年末に筑紫野市で発見されました。国内最大規模の大野城山城や基肄城・水城など、太宰府は日本列島内最大の巨大防衛施設で守られており、九州王朝(倭国)の首都に相応しいことが一層明確となりました。
 他方、7世紀の同時代史料である『隋書』には倭国が北部九州にあることを示唆する記述があり、阿蘇山の噴火の様子まで記録しています。その次の『旧唐書』には倭国(九州王朝)と日本国(大和朝廷)が別国(日本は倭の別種)として表記されており、その王朝交代が8世紀初頭に起こったことをうかがわせる記述があります。これは8世紀初頭における九州年号の終了と大和朝廷の年号開始(大寶建元、701年)や、出土木簡に記された地方行政単位の「評」から「郡」への全国一斉変化と時期的にピッタリと対応しています。
 このように古田先生の多元史観・九州王朝説は日本古代史における最有力説といわざるをえません。他方、わたしたち古田学派には文献史学の研究者が多いこともあり、考古学や自然科学の研究成果に対しての知見が十分とはいえません。わたしたちは、そうした学問分野に謙虚に学ぶ姿勢が必要です。
 そのため本日の講演会には大阪の考古学の第一人者であられる大阪府文化財センターの江浦先生と理化学的年代測定の新分野を切り開かれた総合地球環境学研究所(地球研、京都市)の中塚先生をお招きしました。お二方のご講演をとても楽しみにしています。

 本日は、古田史学の会・東海の竹内会長、古田史学の会・四国の合田事務局長にもお越しいただいています。関東からは「古田史学の会」関東地区窓口担当の冨川ケイ子さん、東京古田会の平松健さんもお見えになっています。遠くからお越しいただき、ありがとうございます。
 昨日開催した「古田史学の会」役員会では、古田史学に基づいた合田洋一さんの論文が愛媛県内最大の歴史研究会で注目されていることなどが報告されました。
 「古田史学の会・北海道」では古田先生の著書の図書館への寄贈や今井会長による古田説普及のセッションを千歳市で開催されています。このセッションは大阪で正木事務局長が続けられてきた「誰も知らなかった古代史」セッションが北の大地へ波及したものです。
 「古田史学の会・仙台」では東北という地の利を活かして和田家文書研究が続けられています。
 「古田史学の会・東海」では、名古屋市で毎年開催される愛知サマーセミナーに参画され、愛知県下の高校生への古田史学普及活動を続けられています。
 「古田史学の会・関西」では活発な例会活動・遺跡巡りが催され、そうした活動は「古田史学の会」ホームページ(新古代学の扉)やfacebookを通じて全国の古代史ファンから注目されているところです。

 昨年からは、福岡市を拠点に活動されている「九州古代史の会」とも友好団体として交流をスタートしました。また6〜7世紀の古代寺院(国分寺)の編年を再検討するため、多元的「国分寺」研究サークルを立ち上げ、主に関東の研究者(肥沼孝治さんら)たちが全国の国分寺遺跡の調査研究を開始しています。その成果はインターネットで見ることができます。
 福岡県の久留米大学からは今年も正木事務局長や服部編集長、わたしへ公開講座での講義要請をいただいています。また江田船山古墳で有名な熊本県和水町では、当地から九州年号史料が発見されたことをご縁に、わたしや正木さんが毎年講演をさせていただいています。

 最後に、フランス・パリ在住の会員、奥中清二さんが昨年秋、一時帰国され、そのとき記念に絵画をいただきました。奥中さんはパリ市公認の画家でモンマルトルのアトリエで絵をかいておられます。長年の古田ファンで、邪馬壹国の「壹」の字をモチーフにした抽象画をいただきました。額に入れ、しかるべきところで保管展示したいと思います。

 「古田史学の会」は全国の古田学派の研究者、古田ファンの皆様と手を携えて今年も前進してまいります。会員の皆様の力強いご指導とご協力をお願い申し上げ、ご挨拶とさせていただきます。


第1325話 2017/01/21

九州年号「継躰」建元の追号説

 本日の「古田史学の会」関西例会では偶然にも九州年号「継躰」建元について二件の研究が報告されました。
 一つは西村さんによるもので、『二中歴』にのみ最初の九州年号「継躰」が見える理由として、九州王朝が梁の冊封から離脱して「善記」という年号を公布したとき、それ以前に「継躰」という年号も遡って「公布」、すなわち追号したとする仮説(アイデア)です。追号という事情により『二中歴』以外の史料には「善記」を「最初の年号」と記されることになったとされました。この仮説の成立や論証過程は西村さんから論文として発表されることと思いますが、単なるアイデアとは思えない説得力もあり、今後の論争が期待されます。
 二つ目は正木さんからの研究報告です。『聖徳太子伝暦』に見える「遷都予言記事」(九州王朝の多利思北孤の記事と思われます)の中に、「聖徳太子」46歳のとき(617年)から100年前(517年)に都を置いたというような記事があるのですが、この517年が九州年号の「継躰」建元の年に一致します。このことから、正木さんは筑後のある場所に筑紫君磐井が遷都し、それを記念して「継躰」建元した史料痕跡ではないかとされました。また、617年の翌年には九州年号が「倭京」と改元されるのですが、この年が太宰府遷都の年とする仮説をわたしは発表したことがあります(「よみがえる倭京(太宰府)」『古田史学会報』50号 2002年、「『太宰府』建都年代に関する考察」『古田史学会報』65号 2004年)。今回の正木さんの報告は「継躰」建元年にも遷都の痕跡を発見されたものです。この『聖徳太子伝暦』の「遷都予言記事」は、九州王朝の遷都関連記事を「聖徳太子」の事績としてまとめて記録したものとする理解が可能となり、とても興味深い発表でした。
 1月例会の発表は次の通りでした。

〔1月度関西例会の内容〕
①『別府の風土と人のあゆみ』の宣伝(奈良市・水野孝夫)
②倭国年号建元を考える(高松市・西村秀己)
③古代九州の国の変遷(茨木市・満田正賢)
④倭国と狗奴国の紛争(相模原市・冨川ケイ子)
⑤出野正・張莉著『倭人とはなにか』-漢字から読み解く日本人の源流-(奈良市・出野正)
⑥洛陽発見の三角縁神獣鏡の銘文から(八尾市・服部静尚)
⑦文字伝来と北朝認識(八尾市・服部静尚)
⑧井上信正氏講演会の報告「大宰府 古代都市と迎賓施設」(京都市・古賀達也)
⑨九州王朝の王都の変遷と筑後勢力(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 01.22 古田史学の会「新春古代史講演会」の準備・02.16 「大阪さくら会」で服部氏が講演・02.25 久留米大学で正木氏、服部氏が講演・7月久留米大学で古賀が講演・「古代史セッション」(森ノ宮)の報告と案内・その他