第1399話 2017/05/17

塔心柱による古代寺院編年方法

  今日、出張先の書店で別冊宝島『古代日本の伝統技術』を購入しました。わたし自身も業界誌『月刊加工技術』に「古代のジャパンクオリティー」という古代日本の各種技術を紹介するコラムを連載したこともあって、同書の内容に興味をそそられました。

 中でも「古代からの建築技術に隠された制振システム」に記された古代寺院の塔の制振構造の図に注目しました。ご存じのように寺院建築において五重塔などの優れた制振構造により、日本のような地震国にあっても寺院の塔が地震で倒れたという例はほとんどありません。その基本技術は中心の心柱とそれを囲む四天柱(してんばしら)と外側の側柱(がわばしら)の組み合わせにあるとされています。とりわけ、心柱の構造は制振技術のキーテクノロジーと見なされています。

 わたしは古代寺院の編年基準として瓦の様式編年の他に、この心柱の構造も編年基準の参考になると考えています。それは、7世紀頃(飛鳥時代)の心柱は基壇の地中に埋め込まれている「堀立型」であり、8世紀頃(白鳳時代〜奈良時代)になると基壇上の礎石の上に心柱が乗る形式(心礎上型)が主流となります。このことを大阪歴博の考古学者で古代建築の専門家、李陽浩さんから教えていただきました。

 わたしがこのことに興味を持った理由は、多元的「国分寺」研究において、7世紀に九州王朝の命により建立された寺院(国府寺)と、8世紀中頃に聖武天皇の命により建立された国分寺の遺構を区別する判断基準として、瓦の編年以外にも何かないものかと考えていたからでした。

 たとえば法隆寺は心柱の下に礎石はなく、地下空洞があり、今では地下部分の心柱は朽ち果てていますが、元々は心柱が地中に埋まっていたと見られています。他方、太宰府の観世音寺は心柱や側柱の礎石が残っており、基壇上の礎石に心柱などが乗せられていたことがわかっています。しかも、観世音寺の場合、心柱の礎石上面が他の側柱礎石上面よりもやや高い位置にあったようです。ちなみに、鎌倉時代以降になりますと、心柱の位置は更に上昇することが知られています。それは「梁上型」とか「宙づり型」と呼ばれているようです。

 わたしの研究では観世音寺の創建年は白鳳十年(670)ですから、九州王朝でも7世紀後半の白鳳時代には、塔の心柱は「堀立柱」方式から「礎石」方式に変わっていたと思われます。こうした塔の心柱の時代変遷が『古代日本の伝統技術』には描かれており、改めて多元的「国分寺」の編年研究に役立つことを確認できました。

 なお、現・法隆寺の移築元を創建・観世音寺とする説がありましたが、塔心柱の様式(礎石の有無)や柱間の距離が両者では全く異なっており、時代も規模も別物であることは一目瞭然です。学問研究の自由、学説発表の自由は尊重されなければなりません。ですから、このように「実証」とは大きくくい違う説が出てくることもあるものです。

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