2017年07月一覧

第1454話 2017/07/14

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(5)

 前期難波宮「天武朝」造営説の根拠とされてきた白石論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」の基礎データそのものに問題があり、仮説として誤りであることを説明しましたが、考古学だけではなく文献史学の面からも脆弱な仮説であることを指摘してきました。
 それは、「もし前期難波宮を天武が造営したのなら、何故そのことが孝徳紀ではなく天武紀に書かれていないのか」という単純かつ本質的な疑問に答えられないという問題です。この理屈は白石さんの「天智朝」造営説でも同様です。
 『日本書紀』は天武の子供や孫たちにより編纂されており、天武を賞賛することが主目的の一つであることは、天武紀のみを「前編」「後編」に分けて記すという破格の待遇であることからも明らかです。もし、国内初の朝堂院様式でそれまでの王宮よりもはるかに大規模な前期難波宮を天武が造営したのなら、そのことを天武紀には書かずに孝徳紀に書くなどということは考えられないのです。
 孝徳紀には前期難波宮「孝徳朝」造営説の史料根拠とされる次の有名な記事があります。
 「秋九月、宮を造りおわる。その宮殿の状、ことごとくに論(い)うべからず。」『日本書紀』白雉三年条(652年、九州年号の白雉元年と同年)
 いうこともできないほどの宮殿が完成したという記事で、まさに前期難波宮完成にふさわしい表現です。おそらく、前期難波宮の造営を記念して九州年号はこの年に常色から白雉に改元され、『日本書紀』白雉元年条(650年)に転用された大々的な白雉改元の儀式が完成間近の前期難波宮で執り行われたと思われます。
 もし、前期難波宮が「天武朝」で造営されたのであれば、なぜ『日本書紀』は先の孝徳紀の記事を天武紀に記さなかったのでしょうか。この問いかけに対しても前期難波宮「天武朝」造営説論者からは応答がありません。なぜでしょうか。(つづく)


第1453話 2017/07/14

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(4)

 前期難波宮「天武朝」造営説の根拠とされてきた白石説は正しくは「天智朝」造営説なのですが、その白石論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」(『近つ飛鳥博物館館報16』2012年)の基礎データそのものに問題があることも服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)により明らかにされています。そのことについて服部さんからわたしのfacebookに次のようなコメントが寄せられましたのでご紹介します。

【服部さんからのコメント】
 飛鳥編年でもって七世紀中頃(孝徳期)造営説を否定した白石太一郎氏の論考「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」があります。私はこの白石氏の論考批判を、「古代に真実を求めて第十七集」に掲載してもらったのですが、この内容についてはどなたからも反応がありません。こき下ろしてもらっても結構ですので批判願いたいものです。
 白石氏の論考では、①山田池下層および整地層出土土器を上宮聖徳法王帝説の記事より641年とし、②甘樫丘東麓焼土層出土土器を乙巳の変より645年とし、③飛鳥池緑粘砂層出土土器を655年前後とし、④坂田寺池出土土器を660年代初めとし、⑤水落貼石遺構出土土器を漏刻記事より660年代中から後半と推定して、前期難波宮の整地層と水利施設出土の土器は④段階のものだ(つまり660年代の初め)と結論付けたものです。
 氏は①〜⑤の坏H・坏G土器が、時代を経るに従って小径になっていく、坏Gの比率が増えていくなどの差があり、これによって10年単位での区別が可能であるとしています。
 私の論考を読んでいただければ判ってもらえますが、小径化の傾向・坏HおよびGの比率とも、確認すると①〜⑤の順にはなっていないのです。例えば①→②では逆に0.7mm大きくなっていますし、②→③では坏Hの比率がこれも逆に大きくなっています。白石氏のいうような10年単位での区別はできないのです。だから同じ上記の飛鳥編年を用いても、大阪文化財協会の佐藤氏は②の時期とされています。(以下略)

 白石説を批判された服部さんの論稿「須恵器編年と前期難波宮 -白石太一郎氏の提起を考える-」は『古代に真実を求めて』17集(古田史学の会編、明石書店。2014年)に収録されています。服部さんは金属工学がご専門で、データ解析処理なども得意とされています。同論文では飛鳥編年の根拠とされた須恵器の外径の測定値が誤っていることや、サンプル母集団の問題点などが具体的に指摘されています。あわせて『日本書紀』の暦年記事の年代の問題点も古田説など多元史観に基づいて批判されています。
 同論文に先立ち、服部さんはその研究報告を「古田史学の会・関西例会」でも発表されていました。しかしその後も、前期難波宮「天武朝」造営説論者からは賛否も意見もないまま、飛鳥編年を「是」とする意見が出されています。なぜでしょうか。(つづく)


第1452話 2017/07/13

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(3)

 前期難波宮「天武朝」造営説の主な論拠として次の三点を紹介しました。

1.天武朝の頃であれば九州王朝は弱体化しており、近畿天皇家の天武が国内最大規模の朝堂院様式の前期難波宮を造営したとしても問題ない。
2.従って、前期難波宮は天武による天武の宮殿と古賀の質問に対して答えることができる。
3.飛鳥編年(白石説)によって前期難波宮整地層出土土器が天武朝の頃と判断できる。

 この中で「天武朝」とする根拠として、3の飛鳥編年(白石説)が正しいとされているのですが、実はこの主張は錯覚ではないかと、わたしは疑っています。というのも、一元史観に基づく白石太一郎さんの飛鳥編年によれば、前期難波宮の成立年代を「早くても660年代の早い時期」で「天武朝までは下らない」とされているからです。従って白石説は「天武朝」造営説ではなく、正しくは「天智朝」造営説なのです。ですから、前期難波宮「天武朝」造営説論者が白石さんの飛鳥編年を自説の根拠とされているのは、失礼ながら錯覚か勝手な思いこみによるものではないでしょうか。それとも白石論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」(『近つ飛鳥博物館館報16』2012年)そのものを読んでおられないのかもしれません。
 白石説によれば前期難波宮が「天智朝」造営であることを服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)は2014年から指摘されてきたのですが、残念ながら前期難波宮「天武朝」造営説論者から応答や反論はありません。なぜでしょうか。(つづく)


第1451話 2017/07/13

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(2)

 わたしの前期難波宮九州王朝副都説への批判として提示されたのが前期難波宮「天武朝」造営説です。これはわたしから提起した次の四つの質問に対する回答として出されたものです。

1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 これらの質問に答えていただきたいと、わたしは繰り返し主張してきました。近畿天皇家一元論者であれば、答えは簡単です。すなわち「孝徳天皇が評制により全国支配した難波長柄豊碕宮である」と、『日本書紀』の史料事実(実証)と上町台地に存在する巨大な前期難波宮遺跡という考古学的事実(実証)を根拠にそのように答えられるのです(ただし4は一元史観では回答不能)。
 そこで古田学派の中の前期難波宮九州王朝副都説反対論者から出されたのが前期難波宮「天武朝」造営説です。その論点おおよそ次のようなものでした。

1.天武朝の頃であれば九州王朝は弱体化しており、近畿天皇家の天武が国内最大規模の朝堂院様式の前期難波宮を造営したとしても問題ない。
2.従って、前期難波宮は天武による天武の宮殿と古賀の質問に対して答えることができる。
3.飛鳥編年(白石説)によって前期難波宮整地層出土土器が天武朝の頃と判断できる。

 およそこのような論旨で説明されており、わたしの質問の1と2に対する一応の回答にはなっていますが、3と4に対する回答(具体的遺跡の提示)は相変わらずなされていません。なぜでしょうか。もし、「そのうち発見されるだろう」と言われるのであれば、それは学問的回答ではなく主観的願望に過ぎません。(つづく)


第1450話 2017/07/13

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(1)

 学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させると、わたしは考えています。ですから、わたしが10年ほど前から提唱してきた前期難波宮九州王朝副都説への学問的で真摯な批判は大歓迎です。聞くところによれば、関東でも前期難波宮九州王朝副都説への関心が高まり、賛否両論が出されているとのことで、とても感謝しています。
 思えば、2013年に開催された最後の「八王子セミナー」で、参加者からの「前期難波宮九州王朝副都説についてどのように考えられていますか」との質問に対して、「検討しなければならない」と古田先生は回答されました。その先生の学問的「遺言」ともいうべき言葉を関東の古田学派の皆さんにより実践していただいているのであれば、とても有り難いことです。もちろんその結果が「前期難波宮副都説は間違っている」というものであっても全くかまいません。学問にはそうした真摯な論争が必要だからです。
 そこでこの検討や論争がより正確に効率的に進められるよう論点整理を兼ねて、前期難波宮九州王朝副都説への反対意見として提起された前期難波宮「天武朝」造営説に焦点を絞って解説し、その疑問点を指摘したいと思います。関東や読者の皆さんの論議検討のお役に立てば幸いです。(つづく)


第1449話 2017/07/12

古田先生の[身冉]牟羅国=ボルネオ島説

 「洛中洛外日記」1448話の「『隋書』[身冉]牟羅国のメール論戦!」をわたしのfacebookで紹介したところ、読者の日野智貴さん(奈良大学生)から、古田先生は「日本の生きた歴史(12)」(『古代史の十字路』ミネルヴァ書房)において、[身冉]牟羅国をボルネオ島とする説を発表されているとのコメントをいただきました。調べてみると確かにそう記されていました。この古田新説をわたしは失念していました。
 古田先生のボルネオ島説の根拠は下記の『隋書』百済伝に見える[身冉]牟羅国への距離(月数)と面積(里程)でした。

 「其の南、海行三月、[身冉]牟羅(たんむら)国有り。南北千余里、東西数百里、土に[鹿/草]鹿(しょうろく)多し。百済に附庸す」『隋書』百済伝
 ※[身冉]と[鹿/草]は一字。

 日野さんのコメントを受けて、わたしは次のコメントをfacebookに書き込みました。

「2017.07.11
 『隋書』百済伝のタンムラ国が古田説の「ボルネオ島」だとしたら、そこは百済国の「属国」ということですから、もしかすると写真の「こうやの宮」のご神体の一人、南洋からの人物はボルネオ島からの使者かもしれませんね。
 これは想像に過ぎませんが、別のご神体が手にする「七支刀」が百済国からの贈答品ですから、南洋からの人物は百済国の属国のタンムラ国(ボルネオ島)からの使者とするアイデアもそれほど荒唐無稽とは言えないように思いますが、いかがでしょうか。」

 以上のコメントとともに「こうやの宮」の御神体の写真も掲載しました。こうしたスピード感のあるやりとりや、写真も添付できるところがfacebookの利点です。「洛中洛外日記」読者の皆様にもfacebookへのご参加をお勧めします。


第1448話 2017/07/11

『隋書』[身再]牟羅国のメール論戦!

 「古田史学の会」の役員や関係者間では事務連絡メールのやりとりの他、古代史論争や意見交換も活発に行われます。多くの方に同時に配信できますから、意見発表や質問・調査協力依頼などを行う際にはとても便利なツールです。もちろん、最終的には個々人で例会発表や論文発表という形になりますが、それに至る前準備としても効果的です。特に自らのミスや不十分さなどが事前に指摘していただけますので、ありがたいことです。
 現在の論争テーマは、どういうわけか『隋書』百済伝の[身再]牟羅国(タンムラ国)は済州島か否かが話題の中心となっています。しかも今回は「古田史学の会」メンバーだけではなく、「多元的古代研究会」の論客、清水淹さんも参画されており、意見交換に厚みを増しています。こうした研究会の枠を越えた「学術交流、論争、異なる意見の交換」は学問研究の発展にとって、とても良いことと感謝しています。
 今回のメール論戦(情報・意見交換)では、わたしは各人のやりとりを眺めていただけだったのですが、『古田史学会報』11号(1995年12月)で拙稿「『隋書』[身再]牟羅国についての試論」を発表していたこともあり、メール論戦の推移に関心を持つようになりました。『隋書』百済伝の[身再]牟羅国記事を済州島の短里表記とする試案をわたしは提起していたのですが、どうも形勢不利のようです。同拙稿では用心のため「一試論」「問題提起」などと「逃げ」を打ってはいたのですが、撤回した方が良さそうな模様です。
 古田先生はこの『隋書』の[身再]牟羅国については、『古代の霧の中から』(1985年、徳間書店。166頁。ミネルヴァ版143〜144頁)で、百済よりもはるか南方にある国と論じられています。今回のメール論戦では、西村秀己さんが[身再]牟羅国を台湾島ではないかとされており、古田説と近いようです。この他にも、正木裕さんから新たな発見も報告されており、しばらく目を離せそうもありません。
 ※[身再]の字はネット上では表示されませんので、このような表記としました。[身再]で一字です。


第1447話 2017/07/09

九州年号「継躰」建元1500年記念

 昨日の久留米大学公開講座では雨の中を百名ほどのご来場者がありました。演題は「失われた倭国年号《大和朝廷以前》 日本最古の条坊都市、太宰府から難波京へ」で、今年が日本最初の年号「継躰」が建元されて1500年になること、建元したのは九州王朝の倭王で恐らく久留米出身の磐井であることを説明しました。特に建元と改元の語義から、大和朝廷の建元は「大宝」と『続日本紀』に記されており、『日本書紀』の大化・白雉・朱鳥はいずれも改元とされていることから、それらは大和朝廷の年号ではなく九州王朝により改元された九州年号であることを力説しました。そして、一元史観はこの『日本書紀』と『続日本紀』に明確に記された「改元」「建元」表記を説明できないでいると指摘しました。
 後半は、太宰府が日本最古の条坊都市であること、前期難波宮が質的にも規模的にも近畿天皇家の宮殿の発展段階とはかけ離れており、九州王朝の副都であるとする説を紹介しました。
 今回の講演では参加者からの質問のレベルが高く、しかも多元史観・古田史学の本質にもかかわるものでしたので、感心しました。それはつぎの三つの質問です。

〔質問1〕近年、箸墓古墳が卑弥呼の墓とされ、編年が古くされてきたが、従来の編年の方が妥当ではないか。
〔質問2〕九州王朝から大和朝廷への連続性はどのように考えられているのか。
〔質問3〕前期難波宮で全国に評制が敷かれたと思うが、それまでの地方豪族支配から律令官制による中央集権的な支配へは簡単には進まないと思われ、前期難波宮の時代はその中間的な支配形態と捉えた方がよいのではないか。

 これらの質問に対して、わたしからは次のように返答しました。

〔返答1〕畿内の古墳編年については詳しくないが、学問的調査の結果、箸墓の年代が変わるのであれば問題ないが、卑弥呼の墓にするために根拠もなく古く編年されているのであれば、それは学問的ではない。
 そもそも「邪馬台国」畿内説は学説の体をなしていない。学説とは学問的根拠(文献・出土物等)に基づいて、その解釈として提起される仮説のことだが、「邪馬台国」畿内説の根拠とされる『三国志』倭人伝には「邪馬台国」の場所を畿内とする記事はない。たとえば、今のソウル付近(帯方郡)から女王国まで12000余里と記されており、当時の1里が何メートルかわかれば、小学生でもかけ算で場所が推定できる。1里約76mの短里では博多湾岸付近であり、奈良県には絶対に届かない。漢代に使用された約450m(正確には約435m)の長里であれば、九州も奈良県も通り越してはるか赤道付近となってしまう。従って、「邪馬台国」を畿内とする根拠が倭人伝にはない。更に言えば原文は邪馬壹(やまい)国であり、「邪馬台(やまたい)国」ではない。邪馬壹国ではヤマトと読めないから「邪馬台国」と自説にあうようにデータ改竄するのは研究不正であり、理系では絶対に許されない方法である。だから「邪馬台国」畿内説は学説(学問的仮説)ではない。

〔返答2〕九州王朝から大和朝廷への権力交代に関する研究は現在も続けられており、古田学派内でもまだ結論を得ていない。たとえば中国のような禅譲や放伐だったのかという論争も行われてきた。
 考古学的にわかっていることは、王朝交代が起こった701年を境に出土木簡が全国一斉に「評」から「郡」に変わっている。このことから、戦争により徐々に九州王朝の支配地域を浸食したというよりも、何らかの「合意」が両者に成立していたため全国一斉に「郡」に変更されたと考えている。『日本書紀』の記述も中国の禅譲・放伐の概念とは異なっており、前王朝の存在を伏せて、近畿天皇家は天孫降臨以来の伝統を持つ九州出身であり、神武以来日本を代表する王朝であるとしている。
 『日本書紀』成立当時、周囲の有力豪族たちは当然九州王朝のことは知っており、新たな権力者となった近畿天皇家はそうした状況下で九州王朝の権威を引き継ぎ、実は自らが昔から代表王朝だったとする歴史像を造作するため『日本書紀』を編纂・流布したものと考えられる。このテーマは引き続き論争が続けられると思うし、学問はそうした論争により発展する。

〔返答3〕ご指摘の可能性もあるが、考古学的出土事実から見ると、前期難波宮の北西側の谷から「漆」が大量に廃棄されていることが発見された。これは律令制における大蔵省配下の「漆工房」がこの付近に置かれたと推定されている。同じく律令制下の平城京にも同様の位置に「漆工房」があったことが知られており、両者の一致から前期難波宮の時代には律令制が機能していたと考えてもよいように思われる。前期難波宮と九州王朝律令については不明なことが多く、これからの研究課題である。

 以上のような質疑応答がなされ、講演したわたしもとても勉強になりました。終了後は聴講されていた犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)と吉田正一さん(久留米地名研究会・会員、久米八幡宮・宮司、菊池市)と三人で食事をご一緒し、夜遅くまで古代史談義を続けました。とても楽しく有意義な一夕でした。久留米大学の大矢野先生・福山先生をはじめ公開講座運営スタッフの皆様に御礼申し上げます。


第1425話 2017/06/17

7世紀前半の寺院が近畿に集中する理由

 本日の「古田史学の会」関西例会も先月に続いてi-siteナンバではなくドーンセンターで開催されました。これからも会場が変更されることがありますので、お間違えなきよう。

 今回も充実した発表が続き、そのため質疑応答が長引き、司会進行の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からご注意をいただいたほどです。特に感心したのが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が発表された、7世紀前半の寺院が近畿に集中する理由についての新仮説と「飛鳥時代」建立と推定された寺院遺跡出土軒丸瓦の一覧(A4 10頁、81寺)でした。個別の報告書や写真ではそれら寺院の出土軒丸瓦の多くは見たことがあるのですが、改めて一覧表にされて提示されると、7世紀前半とされる寺院が圧倒的に奈良県を中心に分布することが一目瞭然となるのです。

 服部さんによる分類では「素弁軒丸瓦」が出土する「飛鳥時代」の寺院と見なせるものは69寺あり、その分布は次の通りです。
福島2・東京1・千葉3・埼玉1・群馬1・長野1・岐阜1・福井1・愛知6・三重2・奈良26・京都2・大阪13・兵庫1・岡山1・広島2・香川2・愛媛2・大分1、計69寺。

 今後の調査により、この数字は変化すると思いますが、奈良や大阪に濃密分布するという傾向は変わらないのではないでしょうか。この考古学的事実こそ、わたしが提起した次の「九州王朝説に刺さった三本の矢」の一つなのです。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 今回の服部さんの発表は、この《二の矢》に果敢に挑戦されたものです。質疑応答では瓦の編年精度や妥当性、地域差をどのように見るかなど多岐にわたりました。これからの研究の進展が期待されます。

 6月例会の発表は次の通りでした。このところ例会参加者が増加していますので、発表者はレジュメを40部作成してくださるようお願いいたします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんに発表申請を行ってください。

〔6月度関西例会の内容〕
①出土遺物の考察(犬山市・掛布広行)
②国家仏教の伝来(八尾市・服部静尚)
③今城塚古墳と岩手や真子分、阿蘇ピンク石(茨木市・満田正賢)
④双鉤填墨(奈良市・水野孝夫)
⑤倭国年号史料(古代逸年号)の基礎的検討(神戸市・谷本茂)
⑥「草津」の地名(京都市・岡下英男)
⑦フィロロギーと古田史学【その3】(吹田市・茂山憲史)
⑧「佐賀なる吉野」に行幸した天子とは誰か(下)(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
6/18会員総会議案等の説明・年間活動報告・6/18「古田史学の会」会員総会と井上信正氏(太宰府市教育委員会)講演会と懇親会(エルおおさか)・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内(6/23「盗まれた万葉集」正木裕さん)・『古代に真実を求めて』21集企画案検討中・『古田史学会報』投稿要請・「古田史学の会」関西例会7月会場の件(ドーンセンター、京阪天満橋駅近く)・『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念講演会を大阪(9/09)、東京(10/15)で開催・その他


第1446話 2017/07/08

真摯な論争は研究を深化させる

 今朝は山陽新幹線で久留米に向かっています。久留米大学の公開講座で講演するためです。当地ではおりからの豪雨で深刻な被害や亡くなられた方もあり、心配です。
 車中で野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)からいただいた御著書『「邪馬台国」と不弥(ふみ)国の謎』を熟読しました。野田さんは「古田史学の会」関西例会の古くからの常連で、姫路市から大阪市まで参加される熱心な研究者です。今回の著書では倭人伝解読の新説を発表されているのですが、それは関西例会で数年にわたり発表と論争が続けられたテーマです。
 「古田史学の会」関西例会は、おそらく古田学派の研究例会でも最も激しい論争が行われるところです。特に古田説と異なる新説に対しては容赦のない質問や批判が寄せられます。しかし、それは「古田説と異なる」という理由での批判ではありません。古田説や従来説と異なる新説(異説)だからこそ発表するのであり、同じ内容ならそもそも研究も発表も不要です。「古田先生の説と異なるからダメ」というのは学問的批判でも学問的態度でもありません。それは一元史観の学界が古田説・多元史観を「大和朝廷一元史観の通説と異なる」という「理由」で排除したのと同様の態度でもあるのです。
 そうした関西例会での厳しい質問や辛辣な批判に耐えきれず、参加されなくなった方も少なくありませんが、「学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる」とわたしは信じています。ですから、直接口には出しませんが、それほど批判されるのがいやなら発表などしなければよい、いっそのこと研究などやめて「歴史小説」でも書いていれば誰からも批判されないのにと、わたしは思っています。なお、歴史小説を見下しているわけでは決してありませんので、誤解のなきよう。優れた作家による歴史小説は、研究者でも及ばないような生々しい歴史の真実を復元することができるからです。
 そのような関西例会にあって、わたしと最も激しく論争した研究者の一人が野田さんです。今回の著書は、これまでの論争経過を背景に更に自説を強化、満を持して発刊されたもので、読んでいてもその意気込みが伝わります。倭人伝の女王国は不弥国とされ、その場所を佐賀県吉野ヶ里とする仮説は古田説とは異なりますが、他方、要所では古田説も丁寧に紹介されています。
 わたしは野田説よりも古田説がより論証力があり、考古学などの関連諸学との整合性も優れていると考えていますが、それでも同書の中には「なるほど一理ある」「そういう視点も確かにあり得る」と思わせる優れた指摘が随所にあります。たとえば「倭地参問」「周旋五千余里」の新読解です。古田説では総里程一万二千里から韓国内里程七千里を単純に差し引いた五千里としますが、野田説によれば倭国内の狗邪韓国から侏儒国までの陸地の総里程五千里(計算するとピッタリ五千里になります)であり、海上里程は含まないとされました。すなわち、「倭地」を周旋するのだから、海峡を渡る海上は「倭地」ではないとする理解です。
 この説を関西例会で初めて野田さんが発表されたとき、司会の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から「古賀さん、この野田さんの新説をどう思う?」と意見を求められ、わたしは思わず考え込み、「古田説の方が単純明快で良いように思うけど、確かに野田さんの計算でも五千里になる。う〜ん。」と曖昧な返事をしてしまいました。それほどインパクトのある研究発表だったのです。以後、この野田説はわたしの中でずっと気にかかっていました。
 その日から数年後、「古田史学の会」で邪馬壹国研究の最新論文集『邪馬壹国の歴史学』(ミネルヴァ書房)を発行するとき、この野田説の収録をわたしは編集会議で提案し、承認されました。たとえ古田説や自分の意見とは異なっていても、「古田史学の会」発行の書籍に掲載し、後世に残すべき論文と評価したからに他なりません。このたびの野田さんの新著『「邪馬台国」と不弥(ふみ)国の謎』を『邪馬壹国の歴史学』とあわせ読まれることを推奨します。なお、同書は一般販売されていませんので、下記の野田さん宛にメールで購入をお申し込みください。
 ここまで書いたら、ちょうど博多駅に到着しました。これから久留米に向かう列車に乗り換えです。外はどんよりと曇っています。

(価格は送料込みで680円。メール nodat@meg.winknet.ne.jp)


第1445話 2017/07/07

筒井康隆編『ネオ・ヌルの時代』斜め読み

 昨晩は名古屋の居酒屋で、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からお借りした筒井康隆編『ネオ・ヌルの時代』(三冊、中公文庫。昭和60年)を斜め読みしました。同書は“SFショートショート”の同人誌『NULL』(復刊)に掲載された作品を筒井康隆さんの寸評を付して収録したものです。
 わたしも学生時代に星新一さんのショートショートにはまった経験があり、それ以来、実に40年ぶりにSFショートショート作品を読みました。というのも、この筒井康隆さん編集の三冊全てに西村さんの作品が掲載されており、筒井さんの寸評が付されているというので、お借りして読んだのでした。昭和60年に文庫化されているのですから、逆算すると西村さん二十代の作品ということになり、その文才に驚きました。西村さんが物理の法則にやたら詳しく論理的思考の持ち主というのは知っていましたが、まさか「若きSF作家」だったとは思いもよりませんでした。
 作品の内容は各人で読んでご判断いただくこととして、タイトルと筒井康隆さんの寸評のみご紹介します。

『ネオ・ヌルの時代』PART①
 「視線」西村秀己
 《寸評》似たような話はあるが、ちょいとしたアイデアなので佳作とする。
『ネオ・ヌルの時代』PART②
 「合流」西村秀己
 《寸評》ずいぶん不合理な点もあるが、ヌルとしては珍しいタイプの作品なので、佳作にしてみた。
  「イカロスの羽根」西村秀己
 《寸評》イカロス伝説の新解釈である。文章がもうひとつなので入選にはできない。佳作とする。

『ネオ・ヌルの時代』PART③
 「邂逅」西村秀己
 《寸評》孤独なテレパスであった男女がはじめて会う---というSFはすでにあるのです。もし誰も書いていなければ、ぼくがすでに書いているでしょう。文章もあまりよくない。しかしラストの面白さはちょっと捨てがたい。参考作品とする。

 更にPART③には筒井康隆さんの「応募作寸評」という一文があり、「最後にこの同人誌寄稿者諸兄の中から、優秀であった人数人を表彰させていただこう。」とあり、西村さんは「努力賞」とされています。そして、「斉藤・脇・和田・西村の四氏の進歩ぶりはすばらしい。安心して読めるようになり、期待が裏切られることはなくなった。いいアイデアを見つけたら自信を持って書いてください。」との高評価です。筒井康隆さんからここまでいわれるのですから、たいしたものです。ちなみに寄稿者の名前に「夢枕獏」が見えることから、人気SF作家の夢枕獏さんでさえ貰えなかった努力賞を西村さんがもらったことに、また驚いたしだいです。
 「合流」という作品には「邪馬台国」論争も話題として取り扱っておられることから、西村さんが若い頃から古代史に関心を示されていたことがうかがえます。ただし、畿内説の他には筑後山門説や宇佐説のみが登場していることから、執筆時点では古田先生の邪馬壹国説をご存じなかったようです。
 以下は蛇足ですが、実はわたしも学生時代に文芸部に「所属」していたことがあります。部員には歴史小説作家として名をなした同学年の阿部龍太郎君(機械科)がいました。わたし(化学科)は全く文才がなかったため、入部早々に部員不足に悩んでいた新聞部へ「出向」させられました。もちろん、新聞部でも使い物にならず、先輩から「君が書いたのは記事ではなくメモだ」と叱られ、記事は書かせてもらえず、新聞の広告取りと集金がわたしの部活動となりました。集めた広告料は先輩の“飲み代”に消えました。情けない青春の思い出の一つです。


第1444話 2017/07/06

「鉄屋は長安寺にあり」欽明紀

 この度の豪雨で被災された福岡県・大分県の皆様にお見舞い申し上げます。明後日の8日(土曜日)に久留米大学で講演するのですが、被災地の様子が心配です。わたしが子供の頃、同じように大雨で筑後川が増水し、近くの田圃まで浸水したことを思い出しましたが、今回はそれ以上の被害のようです。
 テレビニュースで避難勧告が出された地名がアナウンスされるのですが、知っている所が多く、心が痛みました。その中には古賀家墓地がある「うきは市御幸」もあり、お墓の中の父親やご先祖様も驚いていることでしょう。
 中でも大きな被害が出ている朝倉市は九州王朝の故地としても有名なところで、たとえば古田先生が着目された『日本書紀』欽明23年条の次の記事は有名です。

 「鉄屋は長安寺にあり。この寺、何れの国に在りということを知らず。」『日本書紀』欽明23年条(562)

 古田先生はこの「長安寺」を朝倉市にあった「朝闇寺」であると、『太宰管内志』の次の記事を根拠に指摘されました。

 「朝倉社恵蘇八幡宮 社僧の坊を朝倉山長安寺といふ。(註)朝闇寺なるべし」『太宰管内志』

 この朝倉の長安寺廃寺からは複弁蓮華文の軒丸瓦が出土しています。もし長安寺の存在が欽明23年(562)まで遡れるのであれば、7世紀後半頃とされている「複弁蓮華文軒丸瓦」の編年が大きく変わることになるのですが、『日本書紀』の記事からは「鉄屋」が長安寺にあったのが欽明期の頃なのか、『日本書紀』編纂時の情報なのかが判断できません。
 わたしは老司Ⅰ式瓦や大宰府政庁出土品と酷似した鬼瓦が長安寺廃寺から出土していますので、長安寺は7世紀後半頃の造営とするのが妥当と考えています。この問題については、私見とは異なりますが大越邦生さんの先駆的な研究(注)がありますので、論議検討の進展が期待されます。

(注)「コスモスとヒマワリ 〜古代瓦の編年的尺度批判〜」『Tokyo古田会News』94号、2004年1月。「古田武彦と古代史を研究する会」編。
 大越さんは「複弁蓮華文軒丸瓦」を通説よりも古く編年されており、7世紀後半頃とするわたしの見解とも異なります。学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させると、わたしは考えています。大越稿は論争や検討に値する優れた視点を持ったものと評価しています。