2017年10月22日一覧

第1521話 2017/10/22

「桐原氏念書」の疑念

 昨日、「古田史学の会」関西例会がドーンセンターで開催されました。11月・12月もドーンセンターです。今日は台風が近づく中での衆院選投票日です。
 例会では、水野顧問から安本美典著『邪馬台国全面戦争 捏造の「畿内説」を撃つ』が紹介されました。同書では、古田先生が和田家文書偽作に荷担(古文書捏造)したとする事実無根の中傷がなされており、その「証拠」として「桐原氏念書」なるものなどが掲載されていました。以前にも同じものが『季刊邪馬台国』誌に掲載されたことがありますが、古田先生が亡くなられたこのタイミングで再掲載されたものと思われます。
 わたしは古田先生とともに桐原氏とは二度京都でお会いしたことがあります。一度目は京都タワーホテルの会議室を借りて、ビデオ録画機材などを持ち込んで長時間にわたり面談しました。水野顧問(当時、古田史学の会・代表)も同席されました。二度目は京都駅前の阪急ホテルのレストランで、桐原氏の娘さんも同席されました。これらの経緯については別途詳述したいと思いますが、今回の和田家文書偽作依頼の証拠とされた「桐原氏念書」なるものも奇妙な内容で、そこには「レプリカ作成」を依頼されたと記されており、「偽作依頼」や「古文書捏造」などとはされていません。このワープロ書きされた「念書」の「自筆署名」部分を桐原氏は自分が書いたものではないと面談では主張されていました。いずれにしても「レプリカ作成依頼」が安本氏の著書では「古文書捏造」へと変質しており、かなり悪質な情報操作と言わざるを得ません。「古田史学の会」としてどのように対応するのか、無視するのかも含めて検討が必要かもしれません。
 この他にも多彩な研究報告が続きましたが、中でも原幸子さんの住吉大社(住吉神)に関する多方面からの調査研究は、九州王朝(倭国)の近畿への進出過程を復元する上で重要な切り口となるかもしれません。これまでの研究成果を整理して、『古田史学会報』への投稿を要請しました。
 大原さんは例会初発表でした。木佐敬久氏の著書の紹介でしたが、わたしは同書を書店で立ち読みしただけでしたので、その内容をより詳しく知ることができました。藤田さんは野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の著書への批判を試みられました。堪能な中国語を交えての発表には驚きました。
 10月例会の発表は次の通りでした。このところ参加者が増加していますので、発表者はレジュメを40部作成してくださるようお願いいたします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔10月度関西例会の内容〕
①三国志は何故「倭人」なのか(高松市・西村秀己)
②『魏志』倭人伝 行程についての再考察(奈良市・出野正)
③木佐敬久氏の「かくも明快な魏志倭人伝」を読んでの感想、紹介(大山崎町・大原重雄)
④なかったとされた「住吉神領」(奈良市・原幸子)
⑤安本美典氏『邪馬台国全面戦争 捏造の「畿内説」を撃つ』掲載「桐原氏念書」について(奈良市・水野孝夫)
⑥仏教と神道の棲み分けと十七条憲法(八尾市・服部静尚)
⑦「台湾史料」探索・後日談(神戸市・谷本茂)
⑧県(縣)と評と郡の関係をめぐって(神戸市・谷本茂)
⑨「南與倭接」を考える -野田説批判-(宝塚市・藤田敦)
⑩近畿王朝内における歴史の改ざん(茨木市・満田正賢)
⑪九州王朝(倭国)の四世紀〜五世紀にかけての半島進出(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 筑紫土塁主要部の取り壊し決定・『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念福岡(10/08)、東京(10/15)の報告。続いて松本市(11/14)で開催(邪馬壹国研究会・松本と共催)・新入会員情報・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内(10/27「難波宮の官衙に官僚約八千人」服部静尚さん)・会費納入状況・「古田史学の会」関西例会の会場、11月・12月(ドーンセンター)の連絡・1月「古田史学の会」新春講演会(i-siteなんば)・会員の活動状況報告・市大樹さんの講演会聴講報告・その他


第1520話 2017/10/22

秩父神社棟札の九州年号「明要」

 先の東京講演会の前日、東京古田会の勉強会に参加させていただきました。テーマは記紀歌謡と和田家文書研究で、「古田史学の会」関西例会ではほとんど扱われないジャンルでもあり、よい勉強になりました。中でも安彦克己さん(港区)による和田家文書の記載内容を現地調査で確認するという研究報告はとても素晴らしいものでした。いつか、和田家文書をテーマとした書籍を安彦さんと共同で発行したいと強く思いました。
 その安彦さんから回覧された史料に『新編武蔵風土記稿』の「秩父神社」の棟札が記された部分があり、興味深く拝見しました。同史料に九州年号「明要」が見えることは知っていましたが、見るのは初めてでした。棟札の九州年号部分は次のような内容です。

(表)合奉造武州秩父郡武光名大宮妙見大菩薩御社檀一宇檜皮葺成就畢[中略]

(裏)右当社開基者仁王三十代 欽明天皇御宇、明要六年丙寅奉祝、 以而来至今天正廿年壬辰一千四十六年也[中略]當初明要六年開基以来天正弐拾年壬辰迄一千四十六年也[後略]

 この棟札は天正二十年(一五九二)に社殿を造立したときに作成されたもので、同社開基を明要六年(五四六)と記した貴重な史料です。秩父神社の創建年代については諸説ありますが、九州年号「明要」による記録は貴重です(「天武天皇白鳳四年の鎮座」とする記事も見えます)。秩父神社についての研究も機会があれば挑戦したいものです。

《参考資料》
 新編武蔵風土記稿 巻之二百五十五 秩父郡之十
大宮郷
妙見社
下町続にあり、 当社は【延喜式】神名帳に載たる、本郡二座の一秩父神社なり、 人皇四十代天武天皇白鳳四年の鎮座にして、 祭神は当国国造の祖知々夫彦命とも、大己貴尊とも云、 又当社天正二十年の棟札の裏書に、欽明天皇御宇、明要六年丙寅鎮座とあり、明要は逸号なれば、丙寅は即位より七年に当れり、 当今の縁起には、大和国三輪大明神を写など記して、其説定かならず、按に【国造本紀】瑞籬朝御世八意思兼命十世孫知々夫彦命、定賜国造拝詞大神と據れば、崇神の朝国造を置玉ひし時より、国神の祀らしめられしなれば、祭神大己貴命なること疑ひなかるべし、 然に後年知々夫彦命の霊をも配せ祀りしかば、両説となりしにあらずや、 三輪を写せしと云は、いかなる據にや詳ならず、又当今妙見社と号するものは、後年社内に北辰妙見社を勧請して、霊験著しかりければ、終に妙見の名盛に行はれて、本社の旧号は失ひしなるべし、
[中略]
神体白幣を置、社伝云、中古までは末社も七十五宇建てたりしに、兵乱の為に焼亡せられ、神田も掠め奪はれ、神殿瑞籬のみ纔に存せしを、五十七石の神領を御寄附ありしより、神事祭礼旧に復すと云、毎年二月三日祈年の祀り、八月二十三日年穀の祭、十一月三日麦穀の祀りにて、近郷つどひてことに賑はへり、
按に当所へ妙見を勧請せしことは、千葉系譜に據に、天慶年中平高望の五男、村岡五郎良文常陸の国香、下野国染谷川の辺にて、平将門と合戦の時、国香が加勢としてはせ向ひ、難なく将門を追退けし頃奇瑞有し故、良文里老を招て此辺に霊験の神社ありやと問ひければ、里老答て上野国群馬郡花園村に、妙見菩薩の霊場ありと云、夫より良文同国緑野郡平井へ赴き、秩父へ居を移しせし時、彼花園の妙見を当地へ勧請し、其後又良文下総国千葉へ転ぜし時、当所の妙見を彼国へ勧請すといへり、
[中略]
本社 南向一丈七尺余に一丈九尺余、高二丈七尺八寸、前に幣殿り、一丈二尺に一丈八尺、高一丈八尺五寸、拝殿三丈六尺に一丈八尺余、高二丈三尺余唐破風作なり、
鳥居 木にて造る、南向柱間二丈、拝殿距ること四十三間程、此間切石を敷けり、社地には檜・杉生茂り、又大樫など若干株あり、此鳥居内にある末社下に記す、当社棟札左の如し、

合奉造武州秩父郡武光名大宮妙見大菩薩御社檀一宇檜皮葺成就畢
[中略]
右当社開基者仁王三十代 欽明天皇御宇、明要六年丙寅奉祝、 以而来至今天正廿年壬辰一千四十六年也
[中略]
御本事 薬師如来 脇持多門天座像一尊者、甚秘故不顕之、

東照宮御社 本社東南隅にあり
知々夫彦社 天照太神社 日御崎社 豊受太神社
七十五末社 本社の後ろより、少し左右へ折廻し、一棟にて七十五座区別す、片倉明神社 由留伎明神社 伊雑波明神社 羽野明神社 阿野権現社 多戸明神社 中原明神社 多賀明神社 枚岡明神社 大鳥明神社 住吉明神社 敢国明神社 都波岐明神社 伊射波明神社 熱田明神社 事麻知明神社 浅間明神社 三島明神社 寒川明神社 洲崎明神社 玉前明神社 香取大神宮 鹿島大神宮 南宮明神社 水無明神社 諏訪明神社 抜鉾明神社 二荒山明神社 都々古和気明神社 大物忌明神社 遠敷明神社 気比明神社 白山明神社 気多明神社 伊夜彦明神社 渡津明神社 天神地祇社 出雲明神社 籠守明神社 宇倍明神社 倭文明神社 物部明神社 由良姫明神社 仲山明神社 吉備明神社 厳島明神社 玉裡明神社 日前明神社 大麻彦明神社 田村明神社  都佐明神社 筥崎明神社 高良玉垂明神社 西寒田明神社 淀姫明神社  阿蘇明神社 和多積明神社 松尾明神社 吉田明神社 戸隠明神社 丹生明神社 貴布禰明神社 広瀬明神社 龍田明神社 正八幡宮  粟島明神社 恩智明神社 斯香明神社 熊野権現社 水尾明神社 白鬚明神社 御崎明神社 石出明神社 賀茂明神社 許波明神社