2018年02月一覧

第1603話 2018/02/11

前期難波宮と藤原宮の「尺」

 先月、東京古田会の皆さんが大阪文化財研究所を見学されたとき、同所の高橋工先生に前期難波宮などについて解説していただきました。そのとき、「前期難波宮造営を孝徳期と編年された一番の根拠は何ですか。年輪年代ですか。干支木簡ですか。」と質問したところ、高橋さんのご返答は「土器編年です」とのことでした。
 前期難波宮を天武朝造営とされる論者から、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に対して、「大阪歴博の考古学者の意見は信用できない」「大阪歴博の見解を盲信している古賀は間違っている」と批判されることがあるのですが、この批判方法は学問的とは言えません。大阪歴博の考古学者の研究や編年のどこがどのような理由により間違っているのかを、根拠を示して具体的に批判するのが学問論争です。たとえば服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)は、飛鳥編年の基礎データを具体的に検証され、その結果を根拠に「間違っている」と批判されています。これが学問的批判というものです。こうした批判であれば、具体的な再反論が可能ですから、互いの仮説を検証深化させることができ、学問研究にとって有益です。
 わたしは前期難波宮の造営は孝徳期であり、天武期ではありえない理由をいくつも指摘(論証)してきましたが、「論証よりも実証」という方々にも納得していただけるような実証的根拠も示してきました。そこで、改めて考古学的事実に基づいた実証的説明として前期難波宮の造営「尺」と天武朝により造営された藤原宮の「尺」について説明することにします。
 前期難波宮の遺構についてはその規模が大きく、測定データも膨大であり、その結果、造営に使用された「尺」についても判明しています。植木久『難波宮跡』(同成社。2009年)によれば、1尺29.2cmの「尺」で前期難波宮は設計されているとのことです。
 天武朝で造営された藤原宮は出土したモノサシにより、1尺29.5cmであることが明らかになっています。下記のように、造営「尺」は時代とともに1尺が長くなる傾向を示しています。

○前期難波宮 652年 29.2cm
○藤原宮   694年 29.5cm
○後期難波宮 726年 29.8cm

 この数値から、前期難波宮と藤原宮の設計は異なった「尺」が使用されており、両宮殿の造営時期や造営主体が異なっていると考えざるを得ません。両宮殿はその規模から考えても王朝の代表的宮殿ですので、設計にはその王朝が公認した「尺」を用いたはずです。従って、この使用「尺」の違いは、前期難波宮天武朝造営説を否定する実証的根拠となります。この説明であれば特段の論証は不要ですから、「論証よりも実証」という方にもご理解いただけるのではないでしょうか。
 なお、わたしは太宰府条坊や政庁の造営「尺」についても調査を進めています。というのも、3月18日(日)に開催予定の久留米大学での講演で、「九州王朝の都市計画 太宰府と難波京」というテーマをお話ししますので、九州王朝の設計「尺」について調べています。研究が進展しましたら、報告したいと思います。


第1602話 2018/02/10

【緊急告知】3/18久留米大学で講演

 3月18日(日)午後、久留米大学(御井キャンパス)で講演会の企画が進んでいます。「古田史学の会」からは正木裕さん(古田史学の会・事務局長)と服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)とわたしの三人が講演します。演題は次の通りです。詳細が決まりましたら、ご案内します。

①古賀達也「九州王朝の都市計画 ここまでわかった太宰府と難波京」
②服部静尚「古代瓦の変遷と飛鳥寺院の研究」
③正木 裕 「太宰府にきたペルシャの姫と薩摩に帰ったチクシの姫」


第1601話 2018/02/04

『論語』二倍年暦説の論理構造(8)

 中村さんが「孔子の二倍年暦についての小異見」において、50歳を越える古代人が20%以上いたとされた考古学的根拠は次の二つの文献でした。その要旨を同稿の「注」に中村さんが引用されていますので、転載します。

【以下、転載】
注1 日本人と弥生人 人類学ミュージアム館長 松下孝幸 一九九四・二 祥伝社
p一六九〜p一七二 死亡時年齢の推定 要旨
【骨から死亡時の年齢を推定するのは性別判定よりさらに難しい。基本的には、壮年(二〇〜四〇)、熟年(四〇〜六〇)、老年(六〇〜 )の三段階のどこに入るのか大まかに推定できる程度だと思った方がよい。ただし、十五歳くらいまでは一歳単位で推定することも可能。子供の年齢判定でもっとも有効な武器は歯である。一般的に大人の年齢判定でもっとも頼りにされているのは頭蓋である。頭蓋には縫合という部分がある。縫合は年齢と共に癒合していって閉鎖してしまう。その閉鎖の度合いによって先ほど上げた三つのグループに分類するのである。これは単に壮・熟・老というだけではなく、「熟年に近い壮年」、「老年に近い熟年」といったレベルまでは推定することができる。

注2 日本人の起源 古代人骨からルーツを探る 中橋孝博 講談社 選書メチエ 二〇〇五・一
 中橋氏はこの本の中で、「弥生人の寿命」という項で大約次のように言います。
 『人の寿命の長短は子供の死亡率に左右される。古代人の子供の死亡状況を再現することは特に難しい作業である。寿命の算出には生命表という、各年齢層の死亡者数をもとにした手法が一般的に用いられるが、骨質の薄い幼小児骨の殆どは地中で消えてしまうために、その正確な死亡者数が掴めない。中略 甕棺には小児用の甕棺が用いられ、中に骨が残っていなくても子供の死亡者数だけは割り出せる。図はこのような検討を経て算出した弥生人の平均寿命である。もっとも危険な乳幼児期を乗り越えれば十五歳時の平均余命も三十年はありそうである。』
【転載終わり】

 そして、中村さんは根拠とされたグラフに次のような説明を付されています。
 「この生存者の年齢推移図からは、弥生人の二〇%強が五十歳以上生きていたことを示しています。」

 わたしはこの「注」の解説を読み、中村稿に掲載された「生存者の年齢推移図」グラフを仮説の根拠に用いるのは危険と感じました。わたしの本職は有機合成化学ですが、研究開発などでデータ処理と解析を行う際、データが示す数値からの実証的な判断だけではなく、そのデータは何を意味するのかということを論理的に深く考える訓練を受けてきました。その経験から、同グラフに対して違和感を覚えたのです。理由を説明します。

①松下氏は「骨から死亡時の年齢を推定するのは性別判定よりさらに難しい」とされる。この点はわたしも同意見。
②そして、「壮年(二〇〜四〇)、熟年(四〇〜六〇)、老年(六〇〜 )の三段階のどこに入るのか大まかに推定できる程度」とされる。
③弥生の出土人骨の年齢を三段階に大まかに分けるという手法も理解できる。
④しかし、その三段階の年齢は何を根拠に(二〇〜四〇)(四〇〜六〇)(六〇〜 )と設定されたのかが不明。
⑤出土人骨の相対的な年齢比較はある程度可能と思われるが、その人骨が何歳に相当するのかの測定が困難であることは、①の記事からもうかがえる。寡聞にして、出土人骨の年齢を的確に測定できる技術の存在をわたしは知らない。
⑥従って、弥生時代の壮年・熟年・老年の年齢設定が現代とは異なり、仮に(十五〜三〇)(三〇〜四〇)(四〇〜)だとしたら、この三段階にそれぞれの人骨サンプルを相対年齢判断によって配分すれば、その結果できるグラフは全く異なったものになる。
⑦他方、弥生時代の倭人の寿命を記す一次史料として『三国志』倭人伝がある。それには「その人寿考、あるいは百年、あるいは八、九十年」(二倍年暦)とある。これは倭国に長期滞在した同時代の中国人による調査記録であり、最も信頼性が高い。これによれば、倭人の一般的寿命は一倍年暦に換算すると40〜50歳である。
⑧また、周代の中国人の寿命を記す史料として、たとえば『列子』の次の記事がある。
 「楊朱曰く、百年は壽の大齊にして、百年を得る者は、千に一無し。」(「楊朱第七」第二章)
 百年(一倍年暦の50歳)に達する者は千人に一人もいないとの当時の人間の寿命について述べた記事である。
⑨これら文字記録による一次史料と考古学による推定年齢が異なっていれば、まず疑うべきは考古学「編年(齢)」の方である。
⑩中村さんが依拠したグラフでは、50歳が約20%、60歳が約10%、70歳超で0に近づく。もしこれが実態であれば、倭人伝の記述は「その人寿考、あるいは百二十年、あるいは九十、百年」(二倍年暦)とあってほしいところだが、そうはなっていない。
⑪また、50歳と60歳の区別がつくほどの人骨年齢測定精度があるのか不審とせざるを得ない。

 以上のように考えています。しかしながら、わたしは人骨年齢測定の専門家でもありませんので、専門家の意見を直接聞いてみたいと願っています。こうした理由により、このグラフを仮説(一倍年暦)の根拠にすることや、それに基づく中村さんのご意見にも賛成できないのです。さらに指摘すれば、『論語』の時代(周代)の中国人の寿命を論じる際に、地域も時代も異なる弥生時代の倭人の人骨推定年齢データを判断材料に用いる方法論にも問題なしとは言えません。
 以上、多岐にわたり論じましたが、拙論を批判していただいた中村さんに感謝申し上げ、最初のご指摘から9年も経っての応答となったことをお詫びします。(おわり)


第1600話 2018/02/04

『論語』二倍年暦説の論理構造(7)

 本シリーズも佳境に入ってきました。残された中村さんからの最大のご批判ご指摘にお答えします。これまでは文献史学の範囲内での応答でしたが、今回は考古学と文献史学の双方に関わる問題です。
 中村さんからの最大の指摘は、『論語』の時代の人間の寿命は50歳が限界ではなく、考古学的知見によれば日本列島の弥生人の寿命は「弥生人の二〇%強が五十歳以上生きていたことを示しています」(中村通敏「孔子の二倍年暦についての小異見」『古田史学会報』92号。2009年6月)という点でした。もちろん、50歳を越える古代人がいたことはあり得るとわたしも考えていますし、「仏陀の二倍年暦」でもそのことを示す記事を紹介してきました。たとえば次の記事などです。

○「是の時、拘尸城の内に一梵志有り、名づけて須跋と曰う。年は百二十、耆旧にして多智なり。」(『長阿含経』巻第四、第一分、遊行経第二)
○「昔、此の斯波醯の村に一の梵志有りき。耆旧・長宿にして年は百二十なり。」(『長阿含経』巻第七、第二分、弊宿経第三)
○(師はいわれた)、「かれの年齢は百二十歳である。かれの姓はバーヴァリである。かれの肢体には三つの特徴がある。かれは三ヴェーダの奥儀に達している。」(中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』岩波文庫、一九九九年版。)

 わたしと中村さんのご意見との最大の相違点は、この二倍年暦で100歳(一倍年暦の50歳)を越える古代人の存在を希(まれ)と考えるのか、20%はいたとするのかにあるようです。もちろん、わたしには50歳を越える長寿古代人がどのくらいの比率で存在したのかはわかりませんが、中村さんが依拠したデータや研究に疑問を抱いていましたので、数年前にお会いしたときに「グラフというものは必ずしも実態に合っているとも言えない」と中村さんにお答えしたものです。(つづく)


第1599話 2018/02/04

『論語』二倍年暦説の論理構造(6)

 ここまで『論語』二倍年暦説における史料根拠とそれに基づく論証方法などの論理展開について解説してきました。次に中村通敏さんの論稿「『論語』は『二倍年暦』で書かれていない-『託孤寄命章』に見る『一倍年暦』」(『東京古田会ニュース』No.178)での、『論語』二倍年暦説へのご批判に対してお答えすることにします。
 今回の中村稿でわたしが最も注目したのは、『論語』の「託孤寄命章」と称される次の記事を一倍年暦の根拠とされたことです。わたしはこれまで『論語』を10回近くは読みましたが、同記事が二倍年暦や一倍年暦に関係するものとは全く捉えていなかっただけに、中村さんのご指摘を興味深く拝読しました。

 「曾子曰、可以託六尺之孤、可以寄百里之命。臨大節而不可奪也。君子人與、君子人也」(『論語』泰伯第八)
 【訳文】曾子曰く、「以て六尺(りくせき)の孤を託す可く、以て百里の命を寄す可し。大節に臨みて奪ふ可からざるなり。君子人か、君子人なり」と。
 【大意】曾子曰く、「小さなみなしごの幼君を(あんしんして)あずけることができ、一国の運命をまかせ(ても、りっぱに政治を処理す)ることができる。国家の大事に当たっても、(その人の節操を)奪うことはできない。(そういう人物は)君子人であろうか、(そういう人こそ、ほんとうの)君子人である」と。

 この一節を中村さんは一倍年暦の根拠とされました。その論旨は次の通りです。

①『新釈漢文大系1論語』(吉田賢抗著。明治書院)の語句説明に【「六尺」は十五、六歳以下のことで、身長で年齢を示した。周制の一尺は七寸二分(二十一センチ半)ぐらいだから、六尺は四尺二寸強(一メートル三十センチ弱)である。又年齢の二歳半を一尺という。】とある。
②『学研漢和大字典』(藤堂明保)には【六尺(ロクセキ):年齢が十四、五歳の者。戦国・秦・漢の一尺は二十三センチで、二歳半にあてる。六尺之孤(ロクセキノコ):十四、五歳で父に死別したみなしご】とある。
③六尺の子供(十四歳)の背丈は、日本人のデータでは一六二・八センチとされる(文科省の2015年度のデータ)。
④これを『論語』の世界は「二倍年暦」であったとすると、約七歳でありながら身長は一六〇センチ強であったということになり、これは常識外れの値である。
⑤結論として、『論語』の世界では「一倍年暦」で叙述されている。

 以上のような論理展開により、『論語』は一倍年暦で記されているとされました。しかしながら、この中村さんの説明は、失礼ですが学問的論証の体をなしていません。その理由は次の通りです。

(a)「六尺」を①「十五、六歳以下」、②「十四、五歳の者」とするのは、後代の学者の解釈です。『論語』そのものには、身長「六尺」の子供の年齢について何も記されていません。
(b)もし周代において、身長「六尺」という表記が「14歳」という年齢表記の代用だとされるのなら、『論語』か周代の史料にそうした用例があることを提示する必要があります。この学問的証明がなされていません。
(c)現代日本人の14歳の子供の身長(160cm)を、周代の身長「六尺」の子供の年齢を14歳とする根拠とはできず、その証明にも無関係な数値です。
(d)『論語』の当該記事は、身長「六尺」の「孤」(孤児)を託せる「君子」について述べたもので、その記述からは、『論語』が「一倍年暦」か「二倍年暦」かの判断はできません。

 なお、「中国古代度量衡史の概説」(丘 光明、楊 平。『計量史研究』18、1996年)によれば、殷の墓から出土した牙尺は1尺約16cm。戦国時代から漢代の出土尺は1尺約23cmとあります。殷代と漢代の間にある周代(春秋時代)は、『説文解字』「夫部」の記事「周制以八寸為尺」を信用すれば、漢代の1尺の0.8倍ですから約18.4cmとなり、時代と共に長くなる1尺の数値としては穏当です。そうすると『論語』の「六尺」は18.4×6=約110cmとなります。
 すなわち、当該記事は「六尺(身長約110cm)」と表記することにより、その孤児が幼い子供であることを示しているに過ぎず、そうした孤児を託せる人物こそ君子であると主張している記事なのです。この記事自体は、一倍年暦とも二倍年暦とも論証上は無関係です。(つづく)


第1598話 2018/02/03

『論語』二倍年暦説の論理構造(5)

 ここまで説明しましたように、周代では二倍年暦が採用されていたと考えざるを得ないのですが、周王朝の歴代天子の在位年数にもその痕跡がうかがわれ、「たまたま超長生きで在位年の長い天子が何人もいた」とは考えにくい状況です。特に『穆天子伝』で有名な穆王は百歳を生きたと伝えられており、これは二倍年暦によると考えざるを得ません。たとえ一人でも二倍年暦と理解せざるを得ない王がいる以上、その王朝では二倍年暦が採用されていたとするのが、史料理解の基本ですが、これだけ在位年数の長い王がいる以上、この史料状況を「誤記誤伝があったのでは」や「学者によって異論が存在する」という解釈の類で否定するのは、学問の方法として不適切です。

○成王(前一一一五〜一〇七九)在位三七年
○昭王(前一〇五二〜一〇〇二)在位五一年
○穆王(前一〇〇一〜九四七)在位五五年
○厂萬*王(前八七八〜八二八)在位五一年
○宣王(前八二七〜七八二)在位四六年
○平王(前七七〇〜七二〇)在位五一年
○敬王(前五一九〜四七六)在位四四年
○顯王(前三六八〜三二一)在位四八年
○赧王(前三一四〜二五六)在位五九年
 ※『東方年表』平楽寺書店、藤島達朗・野上俊静編による。「厂萬*」は「厂」の中に「萬」。

 以上、わたしは古代中国において二倍年暦を採用した王朝(当研究では周代)が存在していたこと確信するに至りました。そして二倍年暦の研究は更に進展し、西洋の古典にも及び、次の論稿を発表しました。いずれも「古田史学の会」ホームページに収録されていますので、ご参照ください。(つづく)

「ソクラテスの二倍年暦」(『古田史学会報』54号。2003年2月)
 古代ギリシア哲学者の死亡年齢
 プラトン『国家』の二倍年暦
 アリストテレス『弁術論』の二倍年暦
 『オデュッセイア』の二倍年暦
 ヘロドトス『歴史』の一倍年暦
 ソクラテスの二倍年齢
「荘子の二倍年暦」(『古田史学会報』58号。2003年10月)
「『曾子』『荀子』の二倍年暦」(『古田史学会報』59号。2003年12月)
「アイヌの二倍年暦」(『古田史学会報』60号。2004年2月)


第1597話 2018/02/03

『論語』二倍年暦説の論理構造(4)

 『論語』には他にも二倍年暦と思われる記事があります。一例だけ紹介しましょう。それは孔子の愛弟子で若くして没した顔淵についての孔子の述懐です。孔子が「後生畏るべし」と評した最愛の弟子、顔淵(名は回、字は子淵)が亡くなったとき、孔子は「天はわたしを滅ぼした」と嘆き、激しく慟哭したと『論語』には記されています。
 「顔淵死す。子曰く、噫、天予を喪ぼせり、天予を喪ぼせりと。」(『論語』先進第十一)
 「顔淵死す。子、之を哭して慟す。従者曰く、子慟せりと。曰く、慟する有るか。夫の人の爲に慟するに非ずして、誰が爲にかせんと。」(同前)
 哭とは死者を愛惜して大声で泣くこと。慟とは哭より一層悲しみ嘆く状態といわれています。孔子を慟哭させた顔淵は、『論語』によれば短命であったとされています。
 「哀公問ふ、弟子孰(だれ)か學を好むと爲すかと。孔子對へて曰く、顔回なる者有り。學を好む。怒を遷さず、過を貳(ふたたび)せず。不幸短命にして死せり。今や則ち亡し。未だ學を好む者を聞かざるなりと。」(『論語』雍也第六)
 『論語』には顔淵も孔子も、その没年齢は記されていませんが、孔子七二歳の時、顔淵は四二歳で没したとする説が有力なようです(孔子の没年齢は七四歳とされる)。もし、この年齢が正しいとすれば、それはやはり二倍年暦と見なさなければなりません。何故なら、顔淵の没年齢が一倍年暦の四二歳であれば、それは当時の平均的な寿命であり、ことさら「不幸短命」とは言い難いからです。従って、従来説を一倍年暦に換算すれば顔淵は二一歳で没し、その時孔子は三六歳ということになります。これであれば「不幸短命」と孔子が述べた通りです。『論語』は二倍年暦で読まなければ、こうした説話の一つひとつさえもが正確に理解できないのです。(つづく)


第1596話 2018/02/03

『論語』二倍年暦説の論理構造(3)

 「仏陀の二倍年暦」を発表した後、中国古典の二倍年暦調査に入りました。既に古代中国の伝説の聖帝、堯・舜・禹の長寿記事が二倍年暦とする古田先生の指摘がありましたので、わたしは主に周代史料を集中して調査しました。そうして発表したのが「孔子の二倍年暦」(『古田史学会報』53号。2002年12月)です。その中に次の調査報告を収録しました。
 『管子』の二倍年暦、『列子』の二倍年暦、『論語』の二倍年暦、『礼記』の二倍年暦、顔淵(回)の没年齢、周王朝の二倍年暦。
 論証の詳細は「古田史学の会」ホームページに掲載されている拙稿をお読みいただくことにして、拙論の論理展開は次のように進みました。

①春秋時代の管仲の作とされる『管子』は、その長寿記事から二倍年暦で記されていると判断できる。
(例)
「召忽曰く『百歳の後、わが君、世を卜る。わが君命を犯して、わが立つところを廃し、わが糺を奪うや、天下を得といえども、われ生きざるなり』。」(大匡編)

②『列子』も同様に二倍年暦を採用していると判断できる。
(例)
「人生れて日月を見ざる有り、襁褓を免れざる者あり。吾既に已に行年九十なり。是れ三楽なり。」(「天瑞第一」第七章)
「林類年且に百歳ならんとす。」(「天瑞第一」第八章)
「穆王幾に神人ならんや。能く當身の楽しみを窮むるも、猶ほ百年にして乃ち徂けり。世以て登假と為す。」(「周穆王第三」第一章)
「役夫曰く、人生百年、昼夜各々分す。吾昼は僕虜たり、苦は則ち苦なり。夜は人君たり、其の楽しみ比無し。何の怨む所あらんや、と。」(「周穆王第三」第八章)
「太形(行)・王屋の二山は、方七百里、高さ萬仞。本冀州の南、河陽の北に在り。北山愚公といふ者あり。年且に九十ならんとす。」(「湯問第五」第二章)
「百年にして死し、夭せず病まず。」(「湯問第五」第五章)
「楊朱曰く、百年は壽の大齊にして、百年を得る者は、千に一無し。」(「楊朱第七」第二章)
「然り而して萬物は齊しく生じて齊しく死し、齊しく賢にして齊しく愚、齊しく貴くして齊しく賤し。十年も亦死し、百年も亦死す。仁聖も亦死し、凶愚も亦死す。」(「楊朱第七」第三章)
「百年も猶ほ其の多きを厭ふ。況んや久しく生くることの苦しきをや、と。」(「楊朱第七」第十章)

③これらの結果、時代的に『管子』と『列子』の間に位置する『論語』も二倍年暦が採用されていると推察される。
④そうした視点で『論語』を精査したところ、二倍年暦と判断せざるを得ない記事があり、『論語』も二倍年暦で記されていると考えられる。
(例)
「子曰く、後生畏る可し。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞ゆること無くんば、斯れ亦畏るるに足らざるのみ。」(子罕第九)

⑤一旦そうした視点で『論語』の「年齢」記事を読んだとき、従来の一倍年暦による理解よりもリーズナブルな孔子理解が可能となる。
(例)
「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず。」(爲政第二)

 以上のように論理は展開しました。そして④で紹介した「後生畏る可し」では、『論語』は二倍年暦が採用されているとする論証が成立しました。たとえば、孔子の時代(紀元前六〜五世紀)より七百年も後の『三国志』の時代、そこに記されている者の平均没年齢は約五十歳であり、多くは三十代四十代で亡くなっています。従って、孔子の時代の四十歳五十歳(二倍年暦での八十歳百歳)という年齢は、『列子』にもあるように当時の人間の寿命の限界(百年は壽の大齊)と考えられており、一倍年暦での四十歳五十歳で有名になっていなければ畏るるに足らないと言うのではナンセンスです。従って、この表記は二倍年暦によるものと考えざるを得ず、一倍年暦の二十歳二十五歳と理解するほかありません。
 また⑤で紹介した孔子が述べた自らの生涯と類似する表現が『礼記』に見えます。
 「人生まれて十年なるを幼といい、学ぶ。二十を弱といい、冠す(元服)。三十を壮といい、室有り(妻帯する)。四十を強といい、仕う。五十を艾(白髪になってくる)といい、官政に服す(重職に就く)。六十を耆(長年)といい、指使す(さしずして人にやらせる)。七十を老といい、伝う(子に地位を譲る)。八十・九十を耄(老衰)という。七年なるを悼といい、悼と耄とは罪ありといえども刑を加えず。百年を期といい、やしなわる。」(『礼記』曲礼上篇)
 『礼記』のこの記事は、人(役人か)の生涯の一般論を述べたもので、たまたま超長生きした人の具体例ではありません。この「人の生涯の一般論」か「たまたま超長生きした人の具体例」なのかは、史料に見える長寿年齢表記が二倍年暦の根拠として使用できるか否かの学問の方法論上の重要な視点です。「たまたま超長生きした人の例ではないのか」という批判に対抗するために、わたしが二倍年暦での表記であると論証する際に強く意識した問題です。
 『礼記』の次の記事も同様で、元気な老夫婦の特殊例ではなく、一般的な夫婦の関係を述べている記事であることから、これも周代における二倍年暦表記と見なしうると判断したものです。
 「夫婦の礼は、ただ七十に及べば同じく蔵じて間なし。故に妾は老ゆといえども、年いまだ五十に満たざれば必ず五日の御に与る。(夫婦の間柄は、七十歳になると男女とも閉蔵して通じなくなる。だから〔妻は高齢になっても〕妾はまだ五十前ならば、五日ごとの御〔相手〕に入るべきである)」(『礼記』内則篇)
 この古代の記事を、医療も生活環境も人類史上最高レベルの現代日本の高齢化社会での認識で理解するべきでないことは言うまでもありません。(つづく)

新・古典批判 二倍年暦の世界 古賀達也(『新・古代学』古第7集)

孔子の二倍年歴についての小異見 棟上寅七(古田史学会報92号)


第1595話 2018/02/02

『論語』二倍年暦説の論理構造(2)

 わたしが二倍年暦の研究に本格的に取り組んだのは2000年頃からでした。そのきっかけは、仏典中の里単位の変遷の調査をしていたときに読んだ鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』に、二倍年暦でなければあり得ないような記事(「信解品第四」の長者窮子の比喩)に気づいたことでした。更に原始仏教経典(『長阿含経』など)やパーリ語で伝わった仏典中に二倍年暦と考えざるを得ない長寿年齢(百歳、百二十歳など)や説話が少なからず存在していることも確認しました。
 また、仏陀の没年(実年代)について、北伝(インド・中国)仏教と南伝(セイロン)仏教では年代差があることから、この現象も一倍年暦で伝えられた北伝(前383年没)と二倍年暦を逆算してより古く伝えられた南伝仏教(前483年没)との差に基づくとすることで説明できることも判明しました。これらの発見を「仏陀の二倍年暦」(『古田史学会報』51号・52号、2002年8月・10月)で発表しました。
 学問の論証方法に関することですが、ある史料に長寿年齢、たとえば70歳とか80歳の記述があった場合、それを根拠に二倍年暦の証拠とするには論証上安定感に欠けます。というのも、古代においてもたまたま超長生きした人がいた可能性もある、という批判に応えにくいからです。これが100歳や120歳であれば、いくらなんでも古代でそれほど長生きできるはずがないという一般的常識論が有効となり、120歳とあるが半分の60歳とする方がよいという理解が有力となります。これは「仏陀の二倍年暦」で紹介したように、仏典に見える長寿記事を根拠としての実証が成立するからです。
 他方、仏陀没年において大きく異なる二説が発生した理由として、二倍年暦と一倍年暦のそれぞれの計算方法から発生したとする説明が、誤記誤伝とするよりも合理的であるという論理的証明(論証)も成立しました。こちらは論理性の問題ですから、「たまたま長生きの人がいた」という類の批判を排除できます。
 このように、わたしの古典における二倍年暦の当否の研究は、論証をより重視するという学問の方法を意識して行ったものです。論文発表後に、「古代でも長生きの人がいた可能性を否定できない」という批判が度々なされたのですが、それらはわたしが強烈に意識した学問の方法への無理解による批判と言わざるを得ませんでした。(つづく)


第1594話 2018/02/01

『論語』二倍年暦説の論理構造(1)

 『東京古田会ニュース』No.178に、古田史学の会・会員(福岡市)でもある中村通敏さんの論稿「『論語』は『二倍年暦』で書かれていない-『託孤寄命章』に見る『一倍年暦』」が掲載されており、『論語』は二倍年暦で書かれているとする拙論へのご批判が展開されていました。
 実は同様のご批判を『古田史学会報』92号(2009年6月)掲載「孔子の二倍年暦についての小異見」でもいただいていたのですが、諸般の事情もあって反論できないままとなっていました。今回の中村稿でもわたしからの応答を求められています。これ以上応答を遅らせるのは中村さんに対して失礼となりますので、反論というよりも、まず拙論の論理構造を説明することにします。なお、二倍年暦に関する拙論や中村稿(ペンネーム「棟上寅七」で掲載)は「古田史学の会」ホームページに収録されていますので、ご覧いただければ幸いです。(つづく)


第1593話 2018/02/01

豊崎神社付近の古代の地勢

 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)より、『ヒストリア』264号(2017年10月)に掲載された趙哲済さんと中条武司さんの論文「大阪海岸低地における古地理の変遷 -『上町科研』以後の研究-」をいただきました。大阪湾岸の古代地形の復元研究に関する論文で、以前から読んでみたいと思っていた注目論文です。
 というのも、『日本書紀』孝徳紀に孝徳天皇の宮とされる「難波長柄豊碕宮」の所在について、通説では大阪市中央区法円坂の前期難波宮とされており、わたしは「長柄」「豊崎」地名が遺存している北区の豊崎神社付近ではないかと推定していたのですが、これに対して趙さんの研究を根拠に、7世紀における当地は川底か湿地帯であり、「難波長柄豊碕宮」の所在地ではないとする批判があったからです。そこで、昨年から趙さんとの接触を試みていたのですが、お会いできずにいました。そのようなときに服部さんから趙さんの論文をいただいたものです。
 「洛中洛外日記」561話(2013/05/25)「豊崎神社境内出土の土器」にも記したのですが、わたしは発掘調査結果から豊崎神社付近は古代から陸地化しており、湿地帯ではないと理解していました。同「洛中洛外日記」を転載します。

【以下転載】
「洛中洛外日記」561話 2013/05/25
豊崎神社境内出土の土器

 『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の宮殿、難波長柄豊碕宮の位置について、わたしは大阪市北区豊崎にある豊崎神社近辺ではないかと推測しているのですが、前期難波宮(九州王朝副都)とは異なり、七世紀中頃の宮殿遺跡の出土がありません。地名だけからの推測ではアイデア(思いつき)にとどまり学問的仮説にはなりませんから、考古学的調査結果を探していたのですが、大阪市文化財協会が発行している『葦火』(あしび)26号(1990年6月)に「豊崎神社境内出土の土器」(伊藤純)という報告が掲載されていました。
 それによると、1983年5月、豊崎神社で境内に旗竿を立てるために穴を掘ったら土器が出土したとの連絡が宮司さんよりあり、発掘調査を行ったところ、地表(標高2.5m前後)から1mぐらいの地層から土器が出土したそうです。土器は古墳時代前期頃の特徴を示しており、中には船のようなものが描かれているものもあります。
 大阪市内のほぼ南北を貫く上町台地の西側にそって北へ延びる標高2〜4mの長柄砂州の上に豊崎神社は位置していますが、こうした土器の出土から遅くとも古墳時代には当地は低湿地ではなく、人々が生活していたことがわかります。報告によれば、この砂州に立地する遺跡は、南方約3kmに中央区平野町3丁目地点、北方約2kmに崇禅寺遺跡があるとのことで、豊崎神社周辺にもこの時期の遺構があることが推定されています。
 今後の調査により、七世紀の宮殿跡が見つかることを期待したいと思います。
【転載おわり】

 上記の『葦火』の記事から、わたしは北区の「長柄」「豊崎」付近は遅くとも古墳時代には陸化しており、7世紀段階であればまず問題ないと判断していました。その理解が妥当であったことが、今回の趙さんらの論文でも確認できました。当地の地勢推移について次のように記されています。

 「豊崎遺跡の中心地とされる豊崎神社の西にあるTS88-2と神社の北のTS06-1は直線距離で約七〇mの距離である。上述のように、前者には弥生時代の古土壌が分布し、後者には同時期の遺物を含む河川成砂層が分布する。このことから、両地域の間に川岸があったと考えられ、川沿いに広がる弥生集落の存在がイメージできる。(中略)これが豊崎遺跡の北側を流れた中津川の痕跡と考えられる。出土遺物から古代の中津川流路と推定した。」(10頁)

 この記述から、豊崎神社がある豊崎遺跡付近は弥生時代から集落が存在しており、古代の中津川流路からも外れており、当地が川底でも湿地帯でもないことがわかります。もちろん、7世紀の宮殿遺構は出土していませんから、この地に「難波長柄豊碕宮」があったと断定はできません。現時点では、地名との一致を根拠とした作業仮説のレベルにとどまっています。
 なお付言しますと、豊崎神社には当地が孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」だったとする古伝承が存在します。これも「洛中洛外日記」268話(2010/06/19)「難波宮と難波長柄豊碕宮」で紹介していますので、以下に転載します。ご参考まで。

【以下転載】
「洛中洛外日記」268話 2010/06/19
難波宮と難波長柄豊碕宮

 第163話「前期難波宮の名称」で言及しましたように、『日本書紀』に記された孝徳天皇の難波長柄豊碕宮は前期難波宮ではなく、前期難波宮は九州王朝の副都とする私の仮説から見ると、それでは孝徳天皇の難波長柄豊碕宮はどこにあったのかという問題が残っていました。ところが、この問題を解明できそうな現地伝承を最近見いだしました。
 それは前期難波宮(大阪市中央区)の北方の淀川沿いにある豊崎神社(大阪市北区豊崎)の創建伝承です。『稿本長柄郷土誌』(戸田繁次著、1994)によれば、この豊崎神社は孝徳天皇を祭神として、正暦年間(990-994)に難波長柄豊碕宮旧跡地が湮滅してしまうことを恐れた藤原重治という人物が同地に小祠を建立したことが始まりと伝えています。
 正暦年間といえば聖武天皇が造営した後期難波宮が廃止された延暦12年(793年、『類従三代格』3月9日官符)から二百年しか経っていませんから、当時既に聖武天皇の難波宮跡地(後期難波宮・上町台地)が忘れ去られていたとは考えにくく、むしろ孝徳天皇の難波長柄豊碕宮と聖武天皇の難波宮は別と考えられていたのではないでしょうか。その上で、北区の豊崎が難波長柄豊碕宮旧跡地と認識されていたからこそ、その地に豊崎神社を建立し、孝徳天皇を主祭神として祀ったものと考えざるを得ないのです。
 その証拠に、『続日本紀』では「難波宮」と一貫して表記されており、難波長柄豊碕宮とはされていません。すなわち、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮の跡地に聖武天皇は難波宮を作ったとは述べていないのです。前期難波宮の跡に後期難波宮が造営されていたという考古学の発掘調査結果を知っている現在のわたしたちは、『続日本紀』の表記事実のもつ意味に気づかずにきたようです。
 その点、10世紀末の難波の人々の方が、難波長柄豊碕宮は長柄の豊崎にあったという事実を地名との一致からも素直に信じていたのです。ちなみに、豊崎神社のある「豊崎」の東側に「長柄」地名が現存していますから、この付近に孝徳天皇の難波長柄豊碕宮があったと、とりあえず推定しておいても良いのではないでしょうか。今後の考古学的調査が待たれます。また、九州王朝の副都前期難波宮が上町台地北端の高台に位置し、近畿天皇家の孝徳の宮殿が淀川沿いの低湿地にあったとすれば、両者の政治的立場を良く表していることにもなり、この点も興味深く感じられます。