第1626話 2018/03/12

九州王朝の高安城(6)

 『日本書紀』天智6年(667)条の記事を初見とする高安城ですが、次の記事が『日本書紀』や『続日本紀』に見えます。

①「是月(十一月)、倭国に高安城、讃吉国山田郡に屋嶋城、對馬国に金田城を築く。」天智六年(667)
②「天皇、高安嶺に登りて、議(はか)りて城を修めんとす。仍(なお)、民の疲れたるを恤(めぐ)みたまいて、止(や)めて作らず。」『日本書紀』天智八年(669)八月条
③「高安城を修(つく)りて、穀と塩とを積む。」『日本書紀』天智九年(670)二月条
④「是の日に、坂本臣財等、平石野に次(やど)れり。時に、近江軍高安城にありと聞きて登る。乃ち近江軍、財等が来たるを知りて、悉くに税倉を焚(や)きて、皆散亡す。仍(よ)りて城の中に宿りぬ。會明(あけぼの)に、西の方を臨み見れば、大津・丹比の両道より、軍衆多(さわ)に至る。顕(あきらか)に旗幟見ゆ。」『日本書紀』天武元年(672)七月条
⑤「天皇、高安城に幸(いでま)す。」『日本書紀』天武四年(676)二月条
⑥「天皇、高安城に幸す。」『日本書紀』持統三年(689)十月条
⑦「高安城を修理す。」『続日本紀』文武二年(698)八月条
⑧「高安城を修理す。」『続日本紀』文武三年(699)九月条
⑨「高安城を廃(や)めて、その舎屋、雑の儲物を大倭国と河内国の二国に移し貯える。」『続日本紀』大宝元年(701)八月条
⑩「河内国の高安烽を廃め、始めて高見烽と大倭国の春日烽とを置き、もって平城に通せしむ。」『続日本紀』和銅五年(712)正月条
⑪「天皇、高安城へ行幸す。」『続日本紀』和銅五年(712)八月条

 以上の高安城関係記事によれば、白村江戦(663)の敗北を受けて、近江朝にいた天智により築城され、九州王朝から大和朝廷へ王朝交代が起こった大宝元年(701)に廃城になったことがわかります。こうした築城と廃城記事の年次が正しければ、次のことが推測できます。

①九州王朝が難波に前期難波宮(副都)を造営したとき、海上監視のための施設を高安山に造営しなかった。
②このことから、三方が海や湖で囲まれている前期難波宮の地勢のみで副都防衛は可能と九州王朝は判断していたと考えられる。
③すなわち、前期難波宮では瀬戸内海側からの敵勢力(唐・新羅)侵入を現実的脅威とは感じていなかった。あるいは前期難波宮造営当時(白雉年間、伊勢王の時代)は唐や新羅との対決政策は採っていなかった。
④白村江戦の敗北後に金田城・屋嶋城・高安城を築造したとあることから、その時期(白鳳年間、薩夜麻の時代)は唐・新羅との対決姿勢へと九州王朝は方針転換していたと考えられる。この白雉年間から白鳳年間にわたる九州王朝(倭国)の外交方針(対唐政策)の転換については正木裕さんが既に指摘されている(注)。
⑤文武天皇の時代になっても高安城は修理されていたが、王朝交代直後の大宝元年に廃城とされていることから、近畿天皇家は高安城による海上監視の必要性がないと判断したと考えられる。しかも、前期難波宮は朱鳥元年(686)に焼失しており、守るべき「副都」もこのとき難波には無かった。
⑥廃城後の高安山には「烽」が置かれていたが、それも廃止され、他の「烽」に置き換わった。このことから、海上監視よりも連絡網としての「烽」で藤原京防衛は事足りると大和朝廷は判断したことがわかる。

 以上のような推論が可能ですが、そうであれば高安城は九州王朝系近江朝により築城され、701年に王朝交代した大和朝廷により廃城されたとする理解が成立します。これ以外の理解も可能かもしれませんが、現時点ではこのような結論に至りました。(了)

(注)正木裕「王朝交代 倭国から日本国へ (2)白村江敗戦への道」『多元』一四四号(二〇一八年三月)

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