第1759話 2018/09/26

7世紀の編年基準と方法(7)

 拙論「よみがえる倭京〈太宰府〉」(『古田史学会報』50号、2002年6月)では大宰府政庁Ⅱ期や条坊都市の造営を7世紀初頭としたのですが、それは出土土器の考古学編年と一致せず、観世音寺創建年とのずれという問題もありました。今回はこの政庁と観世音寺創建時期のずれについて紹介し、わたしの当初の編年の誤りについて説明します。
 政庁Ⅱ期の造営を条坊と同時期の7世紀初頭頃と推定していたのですが、その東側に位置する観世音寺の創建は『二中歴』「年代歴」の記事から白鳳年間(661-683)と理解していました。創建瓦が7世紀後半頃とされていた老司Ⅰ式であることもこの年代観を支持していましたので、この点については今でも妥当と考えています。その後、『二中歴』以外にも『勝山記』や『日本帝皇年代記』にはより具体的に「白鳳10年(670)の創建」とする記事が見つかり、観世音寺創建年は確かなものとなりました。
 その結果、政庁Ⅱ期と観世音寺の創建年に約50年ほどのずれが発生することになり、政庁Ⅱ期が7世紀初頭頃に造営された後、その東側に位置する観世音寺の場所が半世紀もの間「更地」だった可能性が発生しました。あり得ないことではないかもしれませんが、やはりそのような状態は不自然と感じていました。
 さらにより決定的な矛盾もありました。当時は気がつかなかったのですが、観世音寺創建瓦は老司Ⅰ式でその白鳳10年創建とする史料と対応しているのですが、政庁Ⅱ期の宮殿の創建瓦も老司Ⅰ式・Ⅱ式であり、観世音寺創建瓦と同時期のものだったのです。複弁蓮華文と称される老司式瓦を7世紀初頭頃に編年するのは無理で、両者の創建瓦が共に老司式なのですから、政庁Ⅱ期も7世紀後半頃と編年しなければならなかったのでした。
 しかし、太宰府条坊都市の造営を7世紀初頭頃とする自説に立つ限り、その条坊都市と一体として造営された北闕型王都の王宮である政庁Ⅱ期を7世紀後半に編年することが、当時のわたしにはできなかったのです。(つづく)

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