2018年09月一覧

第1752話 2018/09/18

紀伊國屋書店大阪本町店の調査

 今日は大阪で仕事をしましたが、お昼の休憩時間に紀伊國屋本町店を訪れ、古代史コーナーのマーケットリサーチをしました。同店のロケーションがビジネス街ということもあり、ビジネス書や趣味の関連書籍に多くのスペースが割かれています。古代史コーナーは「日本史」の棚の最上段とその下の二段のみで、約120冊ほどしか並んでいません。従って、古代史関連書籍の棚は激戦区です。
 幸い、その最上段の一番右端に『発見された倭京』(古田史学の会編、明石書店刊。2018年3月)が一冊だけおかれていました。残念ながらその他の『古代に真実を求めて』や古田先生や古田説関連書籍は一冊も置かれていませんでした。その意味では、『発見された倭京』は大阪のビジネス街で善戦しているほうかもしれません。
 同店の日本古代史コーナーは「日本考古学」「縄文時代」「古墳」「邪馬台国」「古代」「記紀」という小コーナーに分類されており、『発見された倭京』は「古代」に分類されていました。9月15日に開催した『古代に真実を求めて』編集会議では、ちょうど『日本書紀』成立1300年に当たる2020年に発行する『古代に真実を求めて』23集の特集テーマとして『日本書紀』を取り上げることを検討していますが、紀伊國屋書店に「記紀」のコーナーがあることからも、この特集テーマはマーケティングの視点からも良いかもしれません。
 『古代に真実を求めて』のタイトルにご批判をいただくこともあるのですが、もし売れなかったら論文を投稿していただいた会員に申し訳ありませんし、「古田史学の会」の財政基盤にも悪影響(単年度赤字決算)を及ぼします。もちろん、売れなければ明石書店も発行を引き受けてくれなくなるかもしれませんし、それは編集部員を任命した「古田史学の会」代表のわたしの責任です。売れる本作りのために編集部の皆さんが特集内容や論文の学問的レベルだけではなく、タイトル選考にも苦心惨憺していることをご理解いただければ幸いです。


第1750話 2018/09/15

『後漢書』の「倭國之極南界也」

 本日、「古田史学の会」関西例会が「i-siteなんば」で開催されました。なお、10月の会場が「大阪府社会福祉会館」506号室(谷町7丁目)に変更となりました。初めて使用する会場でもあり、場所などご注意ください。11月は「福島区民センター」、12月は「i-siteなんば」に戻ります。
 谷本さんから、『後漢書』の「倭國之極南界也」の古田先生の読み「倭國の南界を極むるや」は間違いであり、従来説「倭國の極南界なり」の方が妥当とする理由の説明がなされ、参加者との論争が続きました。谷本さんの理詰めの説明は確かに反論しにくく、古田説の方が良いと考えるわたしとしては困っています。
 正木さんからは11月の八王子セミナーで発表されるテーマ等についての報告がありました。九州王朝から大和朝廷への王朝交代の概要が示されたもので、九州王朝説から見た「大化改新詔(公地公民・皇太子奏請)」研究において参考になるものでした。
 なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。今回の発表は次の通りでした。

〔9月度関西例会の内容〕
①古事記の継体没年について(茨木市・満田正賢)
②孝徳紀の倭習から天群を探る(八尾市・服部静尚)
③講演会の案内と、その中の土偶論の紹介(大山崎町・大原重雄)
④NHKカルチャー梅田教室「弥生時代の大阪湾周辺と出雲〜銅鐸文化圏の謎を考える〜」の案内(神戸市・谷本茂)
⑤『後漢書』「倭國之極南界也」の理解をめぐって(神戸市・谷本茂)
⑥倭人伝の「女王国」は都ではない(姫路市・野田利郎)
⑦「文字使用について」の批判回答(東大阪市・萩野秀公)
⑧九州王朝から大和朝廷への王朝交代と「大化改新詔」(川西市・正木裕)
⑨万葉歌の伊勢と糸島の伊勢(川西市・正木裕)

○事務局長報告(川西市・正木裕)
 新入会員の報告・『発見された倭京 太宰府都城と官道』出版記念講演会(10/14久留米大学)の案内・『古代に真実を求めて』22集原稿募集・10/02「古代大和史研究会(原幸子代表)」講演会(講師:正木裕さん)・9/26「水曜研究会」の案内(第四水曜日に開催、豊中倶楽部自治会館。連絡先:服部静尚さん)・11/10-11「古田武彦記念新八王子セミナー」・9/28「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の案内・「古田史学の会」関西例会会場、10月は大阪府社会福祉会館、11月は福島区民センター・その他

 


第1749話 2018/09/11

飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(2)

 飛鳥浄御原宮を太宰府とする服部新説ですが、もしこの仮説が正しければどのような論理展開が可能となるかについて考察してみました。もちろん、わたしは服部新説を是としているわけではありませんが、有力説となる可能性を秘めていますので、より深く考察を進めることは有益です。
 『日本書紀』では飛鳥浄御原宮を天武と持統の宮殿としていますが、その現れ方は奇妙です。天武二年(672)二月条では、「飛鳥浄御原宮に即帝位す」とあるのですが、朱鳥元年(686)七月条には次のような記事があります。

 「戊午(20日)に、改元し朱鳥元年と曰う。朱鳥、此を阿訶美苔利という。仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮と曰う。」

 飛鳥浄御原宮で即位したと記しながら、その宮殿名が付けられたのは14年後というのです。それまでは名無しの宮殿だったのでしょうか。また、朱鳥(阿訶美苔利)の改元により飛鳥浄御原宮と名づけたとありますが、「苔利」と「鳥」の訓読みが同じというだけで、両者の因果関係も説得力がありません。年号に阿訶美苔利という訓があるというのも変な話です。このように不審だらけの記事なのです。
 他方、「飛鳥浄御原令」という名称は『日本書紀』には見えません。天武紀や持統紀には単に「令」と記すだけです。例えば次の通りです。

「詔して曰く、『朕、今より更(また)律令を定め、法式を改めむと欲(おも)う。故、倶(とも)に是の事を修めよ。然も頓(にわか)に是のみを就(な)さば、公事闕くこと有らむ。人を分けて行うべし』とのたまう。」天武十年(682)二月条
 「庚戌(29日)に、諸司に令一部二十二巻班(わか)ち賜う。」持統三年(689)六月条
 「四等より以上は、考仕令の依(まま)に、善最・功能、氏姓の大小を以て、量りて冠位授けむ。」持統四年(690)四月条
「諸国司等に詔して曰わく、『凡(おおよ)そ戸籍を造ることは、戸令に依れ』とのたまう。」持統四年(690)九月条

 これらの「令」が飛鳥浄御原令と呼ばれている根拠の一つが『続日本紀』の『大宝律令』制定に関する次の記事です。

 「癸卯、三品刑部親王、正三位藤原朝臣不比等、従四位下下毛野朝臣古麻呂、従五位下伊吉連博徳、伊余部連馬養等をして律令を選びしむること、是を以て始めて成る。大略、浄御原朝庭を以て准正となす。」『続日本紀』大宝元年(701)八月条

 「浄御原朝庭」が制定した律令を「准正」して『大宝律令』を作成したとする記事ですが、この「准正」という言葉を巡って、古代史学界では論争が続いてきました。この問題についてはここでは深入りせず、別の機会に触れることにします。
 服部さんの新説「飛鳥浄御原宮=太宰府」によるならば、飛鳥浄御原令が制定された飛鳥浄御原宮は天武の末年から持統天皇の時代の宮殿となりますから、それに時期的に対応するのは大宰府政庁Ⅱ期の宮殿となります。大宰府政庁Ⅱ期の造営と機能した時期は観世音寺が創建された白鳳10年(670)頃以降と考えられますから、ちょうど天武期から持統期に相当します。
 久冨直子さんが指摘されたように、観世音寺の山号「清水山」の語源が「きよみ」という地名に関係していたとすれば、大宰府政庁Ⅱ期の宮殿も「きよみはら宮」と呼ばれても不思議ではありません。しかし、この地域が「きよみ」「きよみはら」と呼ばれていた痕跡がありませんので、この点こそ服部新説にとって最大の難関ではないかと、わたしは思っています。(つづく)


第1748話 2018/09/09

飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(1)

 本日、i-siteなんば(大阪府立大学なんばキャンパス)で『発見された倭京』出版記念大阪講演会を開催しました。今回は福島区歴史研究会様(末廣訂会長)と和泉史談会様(矢野太一会長)の後援をいただき、両会の会長様よりご挨拶も賜りました。改めて御礼申し上げます。わたしは「九州王朝の新証言」、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は「大宰府に来たペルシャの姫・薩摩に帰ったチクシ(九州王朝)の姫」というテーマで講演しました。おかげさまて好評のようでした。
 講演会終了後、近くのお店で小林副代表・正木事務局長・竹村事務局次長ら「古田史学の会・役員」7名により二次会を行いました。そこでは「古田史学の会」の運営や飛鳥浄御原についての学問的意見交換などが行われたのですが、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、飛鳥浄御原宮=太宰府説ともいうべき見解が示されました。服部さんによれば次のような理由から、飛鳥浄御原宮を太宰府と考えざるを得ないとされました。

①「浄御原令」のような法令を公布するということは、飛鳥浄御原宮にはその法令を運用(全国支配)するために必要な数千人規模の官僚群が政務に就いていなければならない。
②当時、そうした規模の官僚群を収容できる規模の宮殿・官衙・都市は太宰府である。奈良の飛鳥は宮殿の規模が小さく、条坊都市でもない。
③そうすると「飛鳥浄御原宮」と呼ばれた宮殿は太宰府のことと考えざるを得ない。

 概ねこのような論理により、飛鳥浄御原宮=太宰府説を主張されました。正木さんの説も「広域飛鳥」説であり、太宰府の「阿志岐」や筑後の「阿志岐」地名の存在などを根拠に「アシキ」は本来は「アスカ」ではなかったかとされています。今回の服部新説はこの正木説とも対応しています。
 この対話を聞いておられた久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から、太宰府の観世音寺の山号は「清水山」であり、これも「浄御原」と関係してるのではないかという意見が出されました。
 こうした見解に対して、わたしは「なるほど」と思う反面、それなら当地にずばり「アスカ」という地名が遺存していてもよいと思うが、そうした地名はないことから、ただちに服部新説や正木説に賛成できないと述べました。なお、古田先生が紹介された小郡市の小字「飛鳥(ヒチョウ)」は規模が小さすぎて、『日本書紀』などに記された広域地名の「飛鳥」とは違いすぎるという理由から、「飛鳥浄御原宮」がそこにあったとする根拠にはできないということで意見が一致しました。
 わたしの見解とは異なりますが、この服部新説は論理に無理や矛盾がなく論証が成立していますから、これからは注目したいと考えています。やはり、学問研究には異なる意見が出され、真摯な批判・検証・論争が大切だと改めて思いました。(つづく)


第1747話 2018/09/06

古代建築物の南北方位軸のぶれ

 先日の東京講演会(『発見された倭京』出版記念)の終了後、後援していただいた東京古田会・多元的古代研究会の役員の皆さんと夕食をご一緒し、親睦を深めました。講師の山田春廣さん・肥沼孝治さんもご同席いただき、講演冒頭で披露された手品のタネあかしを肥沼さんにしていただいたりしました。

 懇親会散会後も喫茶店で肥沼さん和田さん(多元的古代研究会・事務局長)と研究テーマなどについて情報交換しました。特に肥沼さんが精力的に調査されている古代建築物や官衙・道路の「南北軸の東偏」現象について詳しく教えていただきました。

 古代建築には南北軸が正方位のものや西偏や東偏するものがあることが知られており、7世紀初頭頃から九州王朝の太宰府条坊都市を筆頭に南北軸が正方位の遺構が出現し、その設計思想は前期難波宮の副都造営に引き継がれています。他方、西偏や東偏するものもあり、都市の設計思想の変化(差異)が想定されます。肥沼さんはこの東偏する遺跡が東山道沿いに分布していることを発見され、その分布図をご自身のブログ(肥さんの夢ブログ)に掲載されています。人気のブログですので、ぜひご覧ください。

 肥沼さんの見解では東偏は中国南朝の影響ではないかとのことで、南朝の都城の方位軸の精査を進められています。この仮説が妥当であれば、東偏した遺跡は少なくとも5〜6世紀まで遡る可能性があり、それは正方位や西偏の古代建築物や遺構よりも古いことになり、古代遺跡の相対編年にも使用できそうです。

 わたしからは土器編年による遺構相対年代のクロスチェックを提案しました。土器編年がそれらの相対編年に対応していれば、学問的にも信頼性の高い相対編年が可能となるからです。このように肥沼さんの研究は、その新規性や古代史学に貢献する進歩性の両面で優れたものです。期待を込めて研究の進展を注目したいと思います。

 最後に、肥沼さんから『よみがえる古代武蔵国府』(府中郷土の森博物館発行)というオールカラーの小冊子をいただきました。これがなかなかの優れもので、当地の遺跡や遺物、その解説がカラー写真で載せられています。これからしっかりと読みます。


第1746話 2018/09/05

「船王後墓誌」の宮殿名(6)

 古田先生が晩年において、近畿から出土した金石文に見える「天皇」や「朝廷」を九州王朝の天皇(天子)のこととする仮説を発表された前提として、近畿天皇家は7世紀中頃において「天皇」を名乗っていないとされていたことを説明しましたが、わたしは飛鳥池遺跡出土木簡を根拠に、天武の時代には近畿天皇家は「天皇」を名乗るだけではなく、自称ナンバーワンとしての「天皇」らしく振る舞っていたと考えていました。そのことを2012年の「洛中洛外日記」444話に記していますので、抜粋転載します。

【以下、転載】
第444話 2012/07/20
飛鳥の「天皇」「皇子」木簡

 (前略)古田史学では、九州王朝の「天子」と近畿天皇家の「天皇」の呼称について、その位置づけや時期について検討が進められてきました。もちろん、倭国のトップとしての「天子」と、ナンバー2としての「天皇」という位置づけが基本ですが、それでは近畿天皇家が「天皇」を称したのはいつからかという問題も論じられてきました。

 もちろん、金石文や木簡から判断するのが基本で、『日本書紀』の記述をそのまま信用するのは学問的ではありません。古田先生が注目されたのが、法隆寺の薬師仏光背銘にある「大王天皇」という表記で、これを根拠に近畿天皇家は推古天皇の時代(7世紀初頭)には「天皇」を称していたとされました。
近年では飛鳥池から出土した「天皇」木簡により、天武の時代に「天皇」を称したとする見解が「定説」となっているようです。(中略)

 他方、飛鳥池遺跡からは天武天皇の子供の名前の「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女のこと)「大津皇」「大友」などが書かれた木簡も出土しています。こうした史料事実から、近畿天皇家では推古から天武の時代において、「天皇」や「皇子」を称していたことがうかがえます。
さらに飛鳥池遺跡からは、天皇の命令を意味する「詔」という字が書かれた木簡も出土しており、当時の近畿天皇家の実勢や「意識」がうかがえ、興味深い史料です。九州王朝末期にあたる時代ですので、列島内の力関係を考えるうえでも、飛鳥の木簡は貴重な史料群です。
【転載終わり】

 7世紀中頃の前期難波宮の巨大宮殿・官衙遺跡と並んで、7世紀後半の飛鳥池遺跡出土木簡(考古学的事実)は『日本書紀』の記事(史料事実)に対応(実証)しているとして、近畿天皇家一元史観(戦後実証史学に基づく戦後型皇国史観)にとっての強固な根拠の一つになっています。

 古田史学を支持する古田学派の研究者にとって、飛鳥池木簡は避けて通れない重要史料群ですが、これらの木簡を直視した研究や論文が少ないことは残念です。「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡典嗣先生の言葉を繰り返しわたしたち(「弟子」)に語られてきた古田先生の御遺志を胸に、わたしはこの「戦後実証史学」の「岩盤規制」にこれからも挑戦します。

〈注〉「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡先生や古田先生の遺訓を他者に強要するものではありません。「論証よりも実証を重んじる」という研究方法に立つのも「学問の自由」ですから。また、「学問は実証よりも論証を重んずる」とは、実証を軽視してもよいという意味では全くありません。念のため繰り返し付記します。


第1745話 2018/09/04

「九州王朝律令」儀制令の推定(2)

 九州王朝が木簡への年号使用を規制していたとわたしは推定していますが、その律令の条文は『大宝律令』に受け継がれたと考えています。従って、九州王朝律令の「儀制令」にも「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)のような条文があったのではないでしょうか。そうしますと、「公文」の範囲を「式」(条令)で指定し、そこに指定された「公文」に九州年号が使用されたと推定しています。
 それでは「九州王朝律令」で九州年号の使用が許された「公文」などの範囲について、史料事実に基づいて推定してみます。まず、後代にまで残すことが前提である墓碑銘の没年などについては60年毎に廻ってくる干支表記では不適切ですから、九州年号の使用が認められたと思われます。その史料根拠としては「白鳳壬申年(672)」骨蔵器、「大化五子年(699)」土器(骨蔵器)、「朱鳥三年(688)」鬼室集斯墓碑があげられます。法隆寺の釈迦三尊像光背銘の「法興元卅一年」もその類いでしょう。
 戸籍や公式の記録文書には当然と思われますが九州年号が使用されたのは確実と思います。その根拠は『続日本紀』に記された聖武天皇の詔報とされる次の九州年号記事です。

 「白鳳以来朱雀以前、年代玄遠にして尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一に見名を定めてよりて公験を給へ」『続日本紀』神亀元年(724)十月条

 これは治部省からの諸国の僧尼の名籍についての問い合わせに対して、聖武天皇の回答です。九州年号の白鳳(661-683年)から朱雀(684-685年)の時代は昔のことであり、その記録には粗略があるので、新たに公験を与えよという「詔報」です。すなわち、九州王朝時代の僧尼の名簿に九州年号の白鳳や朱雀が記されていたことが前提にあって成立する問答です。従って、九州王朝では僧尼の名簿や戸籍などの公文書(公文)に九州年号が使用されていたことが推定できるのです。
 こうした公文書には年次記録が必要ですし、60年を超える長期保管が必要な書類であれば、干支だけではなく年号表記が必要であることは当然と思われます。たとえば「庚午年籍」は『養老律令』においても永久保管が命じられていますから、いつの庚午の年かを特定できるように年号(「白鳳十年」、670年)が付記されていたと推定できるのです。
 以上のように、「九州王朝律令」には年号使用を定めた儀制令があり、その運用が「式」などで決められていたと推定できるのですが、本格的な研究はこれからです。


第1744話 2018/09/04

「九州王朝律令」儀制令の推定(1)

 現在、大型台風21号の強風に揺れる拙宅にて「洛中洛外日記」を書いています。築百年以上のおんぼろ家屋ですので、とても不安です。初めて聞くような轟音と家の振動に怯えています。なんとか無事に通り過ぎてほしいものです。

 「古田史学の会」HP読者のSさん(東京都)から九州年号に関する重要な質問をいただきました。「元壬子年」木簡になぜ九州年号が記されていないのかという質問です。この問題は以前からの検討課題ですが、よくわからないままでした。そのため、一週間ほど考えてから、「九州王朝律令に年号使用に関する規制があったのではないか」と返信しました。良い機会ですので、年号使用に関する「九州王朝律令」について考察することにします。

 木簡に関して年次表記を見てみると、701年以降は「大宝」などの年号使用が一般的ですが、700年以前は干支が使用されており、九州年号が使用されているものはありません。この史料事実から、近畿天皇家は公文書に限らず木簡も含めて広範囲での年号使用を指定していたと思われます。ちなみに『養老律令』儀制令には次のように年号使用を指定しています。

 「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」

 使い捨ての荷札木簡が「公文」に属するのかはよくわかりませんが、出土木簡には年号が記されていますから、運用上は木簡も年号使用を命じていたと考えられます。そうした近畿天皇家の時代(701年以後)とは異なり、700年以前の九州王朝時代の木簡には干支で年次が記されています。従って、九州王朝律令には年号使用範囲が指定されていたか、それとは別の「式」などの法令で年号使用範囲を制限していたのではないでしょうか。(つづく)


第1743話 2018/09/03

「船王後墓誌」の宮殿名(5)

 古田先生は晩年において、近畿から出土した金石文に見える「天皇」や「朝廷」を九州王朝の天皇(天子)のこととする仮説を次々に発表されました。その一つに今回取り上げた「船王後墓誌」もありました。今から思うと、そこに記された「阿須迦天皇」の「阿須迦」を福岡県小郡市にあったとする「飛鳥」と理解されたことが〝ことの始まり〟でした。
 この新仮説を古田先生がある会合で話され、それを聞いた正木さんから疑義(正木指摘)が出され、後日、古田先生との電話でそのことについてお聞きしたのですが、先生は納得されておられませんでした。古田先生のご意見は、「天皇」とあれば九州王朝の「天皇(天子)」であり、近畿天皇家は7世紀中頃において「天皇」を名乗っていないと考えられていることがわかりました。そこでわたしは次のような質問と指摘をしました。

①これまでの古田説によれば、九州王朝の天子(ナンバー1)に対して、近畿天皇家の「天皇」はナンバー2であり、「天子」と「天皇」とは格が異なるとされており、近畿から出土した「船王後墓誌」の「天皇」もナンバー2としての近畿天皇家の「天皇」と理解するべきではないか。
②法隆寺の薬師仏光背銘にある「天皇(用命)」「大王天皇(推古)」は、7世紀初頭の近畿天皇家が「天皇」を名乗っていた根拠となる同時代金石文と古田先生も主張されてきた(『古代は輝いていた Ⅲ』269〜278頁 朝日新聞社、1985年)。
③奈良県の飛鳥池遺跡から出土した天武時代の木簡に「天皇」と記されている。
④こうした史料事実から、近畿天皇家は少なくとも推古期から天武期にかけて「天皇」を名乗っていたと考えざるを得ない。
⑤従って、近畿から出土した「船王後墓誌」の「天皇」を近畿天皇家のものと理解して問題なく、遠く離れた九州の「天皇」とするよりも穏当である。

 以上のような質問と指摘をわたしは行ったのですが、先生との問答は平行線をたどり、合意形成には至りませんでした。なお付言しますと、正木さんは福岡県小郡市に「飛鳥浄御原宮」があったとする研究を発表されています。この点では古田説を支持されています。(つづく)


第1742話 2018/09/02

8月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 8月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。
 配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

《8月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル》
2018/08/13 ブログ「古田史学とMe」を拝読
2018/08/14 歴採館で『古代氏族系譜集成』を閲覧
2018/08/17 京都府立大学図書館で『古今集』研究
2018/08/19 『古代に真実を求めて』編集部の拡充
2018/08/25 歴彩館で杉本直治郞博士の調査


第1741話 2018/09/02

「船王後墓誌」の宮殿名(4)

 「船王後墓誌」の「阿須迦天皇」を九州王朝の天皇(旧、天子)とする古田説が成立しない決定的理由は、阿須迦天皇の末年とされた辛丑年(641)やその翌年に九州年号は改元されておらず、この阿須迦天皇を九州王朝の天皇(天子)とすることは無理とする「正木指摘」でした。
 すなわち、641年は九州年号の命長二年(641)に当たり、命長は更に七年(646)まで続き、その翌年に常色元年(647)と改元されています。641年やその翌年に九州王朝の天子崩御による改元がなされていないことから、この阿須迦天皇を九州王朝の天子(天皇)とすることはできないとされた正木さんの指摘は決定的です。
 この「正木指摘」を意識された古田先生は次のような説明をされました。

 〝(七)「阿須迦天皇の末」という表記から見ると、当天皇の「治世年代」は“永かった”と見られるが、舒明天皇の「治世」は十二年間である。〟

 古田先生は治世が長い天皇の場合、「末年」とあっても没年のことではなく晩年の数年間を「末年(末歳次)」と表記できるとされているわけです。しかし、この解釈も無理であるとわたしは考えています。それは次のような理由からです。

①「『阿須迦天皇の末』という表記から見ると、当天皇の『治世年代』は“永かった”と見られる」とありますが、「末」という字により「治世が永かった」とできる理由が不明です。そのような因果関係が「末」という字にあるとするのであれば、その同時代の用例を示す必要があります。
②「船王後墓誌」には「阿須迦 天皇之末歳次辛丑」とあり、その天皇の末年が辛丑と記されているのですから、辛丑の年(641)をその天皇の末年(没年)とするのが真っ当な文章理解です。
③もし古田説のように「阿須迦天皇」が九州王朝の天皇(旧、天子)であったとすれば、「末歳次辛丑(641)」は九州年号の命長二年(641)に当たり、命長は更に七年(646)まで続きますから、仮に命長七年(646)に崩御したとすれば、末年と記された「末歳次辛丑(641)」から更に5年間も「末年」が続いたことになり、これこそ不自然です。
④さらに言えば、もし「末歳次辛丑(641)」が「阿須迦天皇」の没年でなければ、墓誌の当該文章に「末」の字は全く不要です。すなわち、「阿須迦 天皇之歳次辛丑」と記せば、「阿須迦天皇」の在位中の「辛丑」の年であることを過不足なく示せるからです。古田説に従えば、こうした意味もなく不要・不自然で、「没年」との誤解さえ与える「末」の字を記した理由の説明がつかないのです。

 以上のようなことから、「船王後墓誌」に記された天皇名や宮殿名を九州王朝の天子とその宮殿とする無理な解釈よりも、『日本書紀』に記述された舒明天皇の没年と一致する通説の方が妥当と言わざるを得ないのです。(つづく)


第1740話 2018/09/02

「船王後墓誌」の宮殿名(3)

 「船王後墓誌」に記された「阿須迦天皇」の在位期間が長ければ『末』とあってもそれは最後の一年のことではなく、晩年の数年間を指すと解釈できるとする古田先生は、西村秀己さんの次の指摘を根拠に「阿須迦天皇」を舒明天皇とする通説を否定されました。

 〝(五)しかも、当、船王後が「六四一」の十二月三日没なのに、舒明天皇は「同年十月九日の崩」であるから、当銘文の表記、
 「阿須迦天皇の末、歳次辛丑十二月三日庚寅に殯亡しき。」と“合致”しない(この点、西村秀己氏の指摘)。〟

 すなわち、舒明天皇は辛丑年(641)10月9日に崩じており、船王後が没した12月3日は舒明在位期間中ではなく、墓誌の「阿須迦天皇の末」とは合致しないとされたのです。この西村さんの指摘はわたしも西村さんから直接聞いていたのですが、次の理由から賛成できませんでした。

①舒明天皇は辛丑年(641)10月9日に崩じているが、次の皇極天皇が即位したのは『日本書紀』によればその翌年(642年1月)であり、辛丑年(641)の10月9日より後は舒明の在位期間中ではないが、皇極天皇の在位期間中でもない。従って辛丑年(641)を「阿須迦天皇(舒明)の末」年とする表記は適切である。
②同墓誌が造られたのは「故戊辰年十二月に松岳山上に殯葬」と墓誌にあるように、戊辰年(668年)であり、その時点から27年前の辛丑年(641)のことを「阿須迦天皇(舒明)の末」年と表記するのは自然であり、不思議とするにあたらない。
③同墓誌中にある各天皇の在位期間中の出来事を記す場合は、「乎娑陀宮治天下 天皇之世」「等由羅宮 治天下 天皇之朝」「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」と全て「○○宮治天下 天皇之世(朝)」という表記であり、その天皇が「世」や「朝」を「治天下」している在位期間中であることを示す表現となっている。他方、天皇が崩じて次の天皇が即位していないときに没した船王後の没年月日を記した今回のケースだけは「阿須迦天皇之末」という表記になっており、正確に使い分けていることがわかる。
④以上の理由から、「西村指摘」は古田説を支持する根拠とはならない。

 このような理解により、むしろ同墓誌の内容(「阿須迦天皇之末」)は『日本書紀』の舒明天皇崩御から次の皇極天皇即位までの「空白期間」を正しく表現しており、同墓誌の解釈(「阿須迦天皇」の比定)は、古田説よりも通説の方が妥当であるとわたしは理解しています。(つづく)