第1920話 2019/06/13

「難波複都」関連年表の作成(1)

 「洛中洛外日記」1649話(2018/04/13)〝九州王朝「官道」の造営時期〟において、わたしは九州王朝「官道」の造営時期の史料根拠として次の『日本書紀』の三つの「大道」記事に注目し、確実に九州王朝系史料に基づいた記事は(C)ではないかとしました。すなわち、前期難波宮を九州王朝が複都として造営したときにこの「大道」も造営したと考えたわけです。実際に前期難波宮朱雀門から真南に通る「大道」の遺構も発見されており、考古学的にも確実な安定した見解です。

(A)「この歳、京中に大道を作り、南門より直ちに丹比邑に至る。」『日本書紀』仁徳14年条(326)
(B)「難波より京への大道を置く。」『日本書紀』推古21年条(613)
(C)「処処の大道を修治(つく)る。」『日本書紀』白雉4年条(653)

 他方、この「処処の大道」が太宰府を起点とした「東海道」「東山道」などの「官道」造営を意味するのかは、『日本書紀』の記事だけからでは判断できず、7世紀中頃ではちょっと遅いような気がするとも考えていました。
 今回、改めてこれらの記事を精査したところ、わたしの理解が適切ではないことに気づきました。というのも『日本書紀』白雉4年条(653)の(C)「処処の大道を修治(つく)る。」の「修治(つく)る」とは初めて大道を造ったという意味ではなく、既にあった大道を「修治(修理)」したと解すべきだからです。岩波書店『日本書紀』の「修治」に付された訓み「つくる」に惑わされたようです。
 そうすると、『日本書紀』推古21年条(613)の(B)「難波より京への大道を置く。」の記事が注目されます。難波と京(太宰府か)の間に「大道」を造営したという記事ですから、これこそ難波複都や四天王寺(難波天王寺)造営に先立ち、筑紫から摂津難波へ建設に携わる大量の物資や工人(番匠)たちの輸送のための、九州王朝(倭国)による官道造営記事だったのではないでしょうか。
 なお、この記事の「置く」という表現も微妙です。初めて大道を造営したのなら、「造る」のような表現がより適切と思われるからです。もしかすると、既にあった「道」を官道(大道)として「認定」したことを「置く」と表現したのかもしれません。この点、『日本書紀』に見える他の「置く」の用例を調査する必要があります。
 以上のような視点で『日本書紀』などの難波関連記事を見直すことにより、難波複都の歴史を復元(年表作成)できるのではないかと考えています。(つづく)

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