第1926話 2019/06/19

法円坂巨大倉庫群の論理(4)

 南秀雄さん(大阪市文化財協会・事務局長)講演での③の見解も注目しました。

③ 都市化のためには食料の供給が不可欠だが、上町台地北端は上町台地や周辺ではまかなえず、六世紀は遠距離から水運で、六世紀末には後背地(平野区長原遺跡等の洪積台地での大規模な水田開発など)により人口増を支えている。狭山池築造もその一端。

 上町台地北端の都市化による人口増を食料供給の面で支えたのが、六世紀末では後背地での大規模な水田開発とされました。その水田開発と古代において最大の灌漑施設である狭山池(616年。年輪年代測定値)との関係について質問したところ、平野区長原遺跡等の洪積台地へも狭山池は灌漑用水を供給したと返答されました。
 この質問の真の目的は難波と筑紫との関係を裏付けることにありました。既に紹介してきましたが、難波池の築堤には太宰府の水城と同じ敷粗朶工法が用いられたことが知られており、このことは難波池の築造を九州王朝による難波複都建設に先立つ食糧増産を目的としたものとするわたしの考えを支持するものでした。南さんは①で、上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)について、「その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如く」と指摘されているのですが、両者の類似は都市構造だけではなく、その人口を支える食糧増産施設(狭山池)と太宰府防衛の巨大防塁(水城)の工法にも及んでいたといえそうです。(つづく)

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