第1975話 2019/08/29

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(9)

 飛鳥に君臨した天武天皇の官僚として「大学官」「勢岐官」「道官」「舎人官」「陶官」と称された人々がいたことは、出土木簡から明らかですが、その官僚組織の全体像や人数・規模は不明です。通説のように「飛鳥浄御原令」に基づく行政が近畿天皇家で行われていたのであれば、数千人規模の官僚群が全国統治には必要ですが、当時の天武天皇らの統治領域が日本列島のどの範囲にまで及んでいたのかも、多元史観・九州王朝説の視点からはまだ不明です。
 九州王朝から大和朝廷への王朝交替後であれば、藤原宮(京)や平城宮(京)には全国統治のための官僚群約八千人がいたとされています(服部静尚説)。これだけの大量の官僚群はいつ頃どのようにして誕生したのでしょうか。奈良盆地内で大量の若者を募集して中央官僚になるための教育訓練を施したとしても、壬申の乱(672年)で権力を掌握し、藤原宮遷都(694年)までの期間で、初めて政権についた天武・持統らに果たして可能だったのでしょうか。
 わたしは前期難波宮で評制による全国統治を行っていた九州王朝の官僚群の多くが飛鳥宮や藤原宮(京)へ順次転居し、新王朝の国家官僚として働いたのではないかと推定しています。『日本書紀』によれば朱鳥元年(686)に前期難波宮は焼失していますが、難波京全てが焼けたわけではありません。少なくとも『日本書紀』には難波京全体が焼失したとは記されていません。そのため、九州王朝官僚群の多くは無傷で残ったものと思われます。
 このように想定したとき、7世紀末頃の急速な大和朝廷の立ち上げとスムーズな王朝交替(701年での全国一斉の評から郡への変更)が可能となったことをうまく説明できるのではないでしょうか。(つづく)

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