第2008話 2019/10/08

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(3)

 西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が「五畿七道の謎」(『発見された倭京 ー太宰府都城と官道ー』収録。2018年)を執筆されたきっかけは、大和を起点とする古代官道「七道」の中になぜ「北海道」がないのかという疑問でした。その「解」を求めるために、太宰府を起点とした九州王朝(倭国)の官道という視点で検討した結果、太宰府→壱岐→対馬→朝鮮半島南岸という海北の道「北海道」を〝発見〟されたのでした(「五畿七道の謎」、『古田史学会報』131号、2015年12月)。
 この太宰府起点という仮説に基づいて、一元史観の通説では不明とされてきた『日本書紀』景行紀に見える「東山道十五國」の謎を解明されたのが山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)による秀逸の論文「『東山道十五國』の比定 ー西村論文『五畿七道の謎』の例証ー」(『発見された倭京 ー太宰府都城と官道ー』古田史学の会編・明石書店、2018年)であることは、何度も紹介してきたところです。
 「東海道」と「東山道」の最終目的地は共に「東」の蝦夷國とした仮説と同様に、「北海道」と「北陸道」が目指した終着点も同じ「北」国としたとき、太宰府から北西(朝鮮半島)に向かう「北海道」と東北へ向かう「北陸道」とは別方向に向かっているようで不自然と思ってきました。西村さんも「北海道」の到着点を朝鮮半島南岸の金海付近と捉えておられましたので、わたしもそのように理解していました。しかし、同じ「北」国へ向かう「道」とする視点を徹底しますと、その「北」国とは北方の大国「粛慎(しゅくしん・みしはせ)」(ロシア沿海州方面)ではないかと気づいたのです。
 『日本書紀』には斉明紀などに粛慎との交戦記事が見え、七世紀には九州王朝と粛慎は敵対関係にあったことがうかがえます。その粛慎は日本海を渡って越国(佐渡島)に侵入しており(欽明五年十二月条、544年)、九州王朝も水軍(阿部臣)で応戦しています(斉明六年三月条、660年)。従って、粛慎との戦闘地域(事実上の「国境」か)である越国(新潟県・秋田県)方面への進軍(陸軍)ルートとしての「北陸道」と、海上からの進軍(水軍)ルートとしての「北海道」が必要となります。そうしますと、「北海道」の終着点は朝鮮半島南岸ではなく、朝鮮半島東岸沿いに新羅・高句麗へと進み、更に終着点としての粛慎に至る「道」として「北海道」が設定されたと考えなければなりませんし、海流を考慮してもこのルートは可能なものです。
 以上のような論理展開(論証)により、「東」の大国「蝦夷国」と「北」の大国「粛慎国」へ向かう官道として「東海道」「東山道」と「北海道」「北陸道」が設定され、それぞれの方面軍と将軍(都督)たちが任命されたと考えることが可能となり、特に説明困難だった「北陸道」の名称と位置づけについてもリーズナブルな理解が可能となりました。そうしますと、論理は更に展開(論証の連鎖)し、残された「西海道」と「南海道」についても、それぞれが向かう終着点はどこなのかという問いが、避けがたく発生するのです。(つづく)

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