2020年11月一覧

第2281話 2020/11/02

新・法隆寺論争(5)

法隆寺私寺説と官寺説の論理と矛盾

 法隆寺を「聖徳太子」一族と斑鳩在地氏族らの私的な寺とする若井敏明さんの法隆寺私寺説(注①)は『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』や『日本書紀』『続日本紀』などを史料根拠として成立しています。
 他方、国家(近畿天皇家)による官寺説に立ち、若井さんの私寺説を批判した田中嗣人さんによる、「法隆寺の建築技術の高さ、仏像・仏具その他の文物の質の高さ(一例をあげれば、金銅潅頂幡や伝橘夫人念持仏の光背などは当時の技術の最高水準のもので、埋蔵文化財など当時のものとの比較からでも充分に理解される)から言って、とうてい山部氏や大原氏などの在地豪族のみで法隆寺の再興がなされたものとは思わない。」(注②)という見解も納得できます。
 確かに現法隆寺(西院伽藍)の金堂や五重塔、そして本尊の釈迦三尊像の素晴らしさは、国家レベルの最高水準の技術・芸術力を背景として成立したと考えざるを得ません。このように一元史観では、両者の相反する「合理的」結論を説明できません。
 ところが、古田史学・九州王朝説から両者の見解をみたとき、現法隆寺は九州王朝系寺院を移築(注③)したものであり、釈迦三尊像は「法興」年号を公布した九州王朝の天子、阿毎の多利思北孤のためのものとする古田説(注④)により一挙に解決します。田中さんが主張された「当時の技術の最高水準」とは、近畿天皇家(後の大和朝廷・日本国)ではなく、それに先立つ別の国家(九州王朝・倭国)によるものであり、近畿天皇家側の史料に〝法隆寺は国家(近畿天皇家)から特別な待遇をうけてはいない〟とする若井さんの主張にも整合するのです。
 更にいえば、法隆寺が近畿天皇家(大和朝廷)から特別待遇を受けるのは、701年の王朝交替後(九州王朝・倭国→大和朝廷・日本国)の、天平年間頃からとする若井説にも古田説は整合します。(つづく)

(注)
①若井敏明「法隆寺と古代寺院政策」『続日本紀研究』288号(1994年)
②田中嗣人「鵤大寺考」『日本書紀研究』21冊(塙書房、1997年)
③米田良三『法隆寺は移築された』(新泉社、1991年)
④古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社 1985年。ミネルヴァ書房から復刻)


第2280話 2020/11/01

新・法隆寺論争(4)

法隆寺私寺説の概要と根拠

 田中嗣人さんが「鵤大寺考」(注①)で激しく批判された、法隆寺を「聖徳太子」一族らの私的な寺とする若井敏明さんの「法隆寺と古代寺院政策」(注②)を繰り返し拝読しました。そこには極めて興味深い問題が提起されており、一元史観の矛盾や限界が示されていました。若井さんの法隆寺私寺説の概要とその根拠は次のような点です。

〔概要〕
 法隆寺は奈良時代初期までは、国家(近畿天皇家)からなんら特別視されることのない地方の一寺院であり、その再建も斑鳩の地方氏族を主体として行われたと思われ、天平年間に至って「聖徳太子」信仰に関連する寺院として、特別待遇を受けるようになった。その「聖徳太子」信仰の担い手は宮廷の女性(光明皇后・阿部内親王・無漏王・他)であって、その背景には法華経信仰がみとめられる。

〔根拠〕
(1)『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、大化三年九月二一日に施入され、天武八年に停止されているが、いずれも当時の一般寺院に対する食封の施入とかわらない。これを見る限り、法隆寺は国家(近畿天皇家)から特別な待遇をうけてはいない。
(2)食封停止は、法隆寺の再建が国家(同上)の手で行われてなかった可能性が強いことを示している。
(3)『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、奈良時代初期までの法隆寺に対する国家(近畿天皇家)の施入には、持統七年、同八年、養老三年、同六年、天平元年が知られるが、これらは特別に法隆寺を対象としたものではなく、『日本書紀』『続日本紀』に記されている広く行われた国家的儀礼の一環に過ぎない。
(4)『日本書紀』が法隆寺から史料を採用していないことも、同書が編纂された天武朝から奈良時代初期にかけて法隆寺が国家(同上)から特別視されていなかった傍証となる。特に、「聖徳太子」の亡くなった年次について、法隆寺釈迦三尊像光背銘にみえる(推古三十年・622年)二月二二日が採られていないことは(注③)、「聖徳太子」との関係においても法隆寺は重要な位置を占めるものという認識がなされていなかったことを示唆する。

 以上のように若井さんは論じられ、法隆寺再建などを行った在地氏族として、山部氏や大原氏を挙げています。こうした若井説に対して、田中さんは、「法隆寺の建築技術の高さ、仏像・仏具その他の文物の質の高さ(一例をあげれば、金銅潅頂幡や伝橘夫人念持仏の光背などは当時の技術の最高水準のもので、埋蔵文化財など当時のものとの比較からでも充分に理解される)から言って、とうてい山部氏や大原氏などの在地豪族のみで法隆寺の再興がなされたものとは思わない。」(注④)と批判されています。
 両者の主張にはいずれも一理あり、この問題の〝解〟が古田先生の九州王朝説にあることは自明でしょう。(つづく)

(注)
①田中嗣人「鵤大寺考」『日本書紀研究』21冊(塙書房、1997年)
②若井敏明「法隆寺と古代寺院政策」『続日本紀研究』288号、1994年。
③『日本書紀』は、「聖徳太子」の没年を推古二九年(621)二月五日とする。
④同、①。