2021年07月07日一覧

第2513話 2021/07/07

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (9)

 九州年号「僧要」の出典は『四分律』か

 西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から紹介していただいた『大正新脩大蔵経』の検索サイト「SAT大蔵経DB 2018」(注①)のおかげで、連日のように発見が続いています。
 たとえば、九州年号には仏教関連の用語や漢字が多用されていますが、それらの九州年号の出典はおそらく仏典ではないかと、わたしは推定していました。しかし、膨大な仏典を調べることは大変な作業のため、なかなか調査に取り組めなかったのですが、今回、大蔵経検索サイトを利用して、九州年号の出典を片っ端から調べています。その成果の一端をご披露します。
 かなり確実な安定した成果として、九州年号「僧要」(635~639年)のケースがあります。「僧要」で検索するといくつかの経典がヒットしますが、その中で最も可能性が高いのが『四分律』六十巻で、そこには次の「僧要」用例がありました。

○『四分律卷第四十六三分之十』
 「隨如法僧要。隨如法僧要不違逆。如法僧要不入違逆説中。(中略)如法僧要、如法僧要違犯、如法僧要呵説。入如法僧要呵説中。」
 「云何如法僧要不隨。如因縁相貌。如法僧要不隨、比丘見此相貌。知此比丘、如法僧要不隨。若不見此比丘、如法僧要不隨。聞彼某甲比丘如法僧要不隨。(中略)云何如法僧要違逆如因縁相貌。如法僧要違逆。比丘見此相貌。知此比丘如法僧要違逆。若不見此比丘如法僧要違逆。聞彼某甲比丘如法僧要違逆。(中略)某甲比丘如法僧要違逆。(中略)某甲比丘入如法僧要違逆説中。」

○『四分律卷第六十第四分之十一』
 「隨如法僧要。如法僧要不呵。不隨如法僧要呵説中。」

 このように「僧要」の文字が集中して現れます。この「僧要」の教義上の正確な意味はわかりませんが、〝僧の求め〟のようなことでしょうか。ご存じの方があれば、ご教示下さい。
 『四分律』とは僧侶の戒律として伝えられたもので、罽賓国の僧、佛陀耶舎らにより東晋代に漢訳されています。「オンライン版 仏教辞典」(注②)には次のように解説されています。一部抜粋します。

【四分律】
〔漢訳〕『四分律』六十巻は、カシュミール(罽賓)の佛陀耶舎が、四分律を暗記して長安に来て、自己の暗記に基づいて訳した。訳時は410~412年のことである。
〔特徴〕四分律は曇無徳部、すなわち法蔵部が伝えた広律である。中国における律学は、はじめは鳩摩羅什などが訳出した説一切有部の十誦律が主流を占めていたが、北魏仏教の隆盛と共に慧光(468~537年)らが四分律を宣揚し、その系統に道宣が出るに及んで全土を風靡するに至った。道宣の起こした律宗を〈南山(律)宗〉と呼び、日本律学の実質的な祖と目される鑑真もこの系統に属する。したがって本書は日本や中国の律宗の原典というべき特に重要な位置にある。

 以上のように説明されており、仏教教団にとって重要な律書のようです。なお、「四分律六十巻」は僧要年間に伝来した一切経『歴代三宝紀』(注③)にも小乗経典として収録されており、九州王朝(倭国)に伝わったていたことは確実と思われます。ただ、九州年号の「僧要」改元(635年)までに伝わっている必要があり、『歴代三宝紀』よりも先に伝来していたことになります。こうして、九州王朝(倭国)の仏典受容史の一つを明らかにし得たのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①SAT大蔵経テキストデータベース研究会 https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php。
②「オンライン版 仏教辞典」 http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%97%E3%81%B6%E3%82%8A%E3%81%A4
③隋代(開皇十七年、597年)に成立した一切経。費長房撰述。1076部、3292巻。九州王朝(倭国)へ僧要年間(635~639年)に伝来したことが『二中歴』「年代歴」の九州年号「僧要」細注に見える。