第758話 2014/08/03

河内平野の弥生王墓

 先日、大阪歴史博物館で開催されている特別展「大阪遺産・難波宮」を見てきました(8月18日まで、火曜日休館)。山根徳太郎氏による昭和29年 の難波宮第一次調査から60周年を記念して開催されたもので、山根氏が書いた書簡や実測図なども展示されており、日本の考古学の歴史を垣間見ることができました。有名な「はるくさ」木簡や年輪セルロース酸素同位体法で測定された難波宮出土木柱などタイムリーな展示もありました(レプリカ展示もあります)。
 わたしの一番の目的は、四天王寺創建瓦と同笵品とされた前期難波宮下層出土瓦を筆頭とする各地の軒丸瓦の観察でした。会場で販売されている資料集は最新の研究成果に基づく内容が掲載されており、お勧めの一冊です。
 今回、歴博ではとても興味深い展示が常設展示でありました。「河内平野の弥生王墓」(9月1日まで)で、大阪市平野区から出土した弥生時代の大型墳丘墓 (紀元前1世紀)の加美遺跡の展示です。時代と場所からすると「銅鐸国(狗奴国など)」の権力者の墳丘墓と思われます。
 墳丘規模は南北26m、東西15m、高さ3mもあり、弥生時代の墳丘簿としては河内平野最大とのことです。23基の木棺が見つかっており、甕棺が主流の吉野ヶ里遺跡など北部九州の弥生墳丘墓とは全く趣が異なっています。出土土器もわたしが知っている弥生の土器とは文様や色調が違い、倭国と銅鐸国との違いを知ることができました。
 加美遺跡からは銅鏡や銅剣・銅鉾などは出土していませんが、ガラス製の勾玉・丸玉や銅釧が出土しています。こうした副葬品も北部九州とは異なっており、倭国と銅鐸国との文化の差を感じることができました。この展示もお勧めです。

フォローする