金石文一覧

第3238話 2024/02/26

『開聞古事縁起』に見える「中宮明神」

 指宿市から出土した暗文土師器の探索から始まった今回のテーマは、思わぬ研究余滴をもたらしました。その一つが『開聞古事縁起』「一、當末神末社之事」に見える「中宮明神」の記事です。当該部分を転載します。

「中宮明神 在知覧之下郡名
天智帝皇子開聞后宮御子云々。第二宮也イ。別當知覧持寶院真言宗往古ノ別當ハ有中宮寺ト云。真言宗社寺有八箇寺云傳。」

 この記事によれば、開聞神らを祀る枚聞神社(指宿市)の末神末社として、知覧(鹿児島県南九州市)に「中宮明神」があり、それは天智の皇子であり開聞后宮(大宮姫)の御子とあります。「第二宮也イ」とあることから、この伝承には「イ」(異伝)があるようです。そこで『三國名勝圖會』を調査したところ、次の記事がありました。

「神社
正一位山口六社大明神(中略)安楽村にあり、祭神六座 天智天皇、倭姫、玉依姫、大友皇子、 持統天皇、乙姫宮是なり、(中略)按ずるに初め 天智天皇頴娃(えい)へ行幸し玉ふや、當邑に船を着られ、頴娃に到り、復此地に路を取りて還幸あり、 天皇崩後、和銅元年六月十八日、 天皇の廟を御在所嶽に建て、山宮大明神と號す、事は前條御在所嶽に記すが如し、又大友皇子の靈社を、御在所嶽の山下に創建す、山口大明神と號す、山口とは、山宮の口に建る故、名を得たりとぞ、(中略)其後鎭母(ジツボ)神社、〈 天智天皇の后倭姫を祭る、〉若宮、〈 持統天皇を祭る、 天智天皇の第二女にして、 天武天皇の后となる、〉中之宮、〈 天智天皇の妃、玉依姫なり、頴娃の人、 天智天皇の妃となる、〉蒲葵御前社、〈 天智天皇の妃、玉依姫の所生なり、〉の四社あり、是と彼山宮神社、〈 天智帝〉及び此山口神社、〈大友皇子、〉を合せて、凡六社、所々に散在す、」
「神社合記 中之宮大神社 安楽村にあり、祭神 天智帝の妃玉依姫なり、(中略)◁鎭母(ジツボ)大明神社 安楽村にあり、祭神、 天智天皇の后、倭姫なりといふ、祭祀正月未日、打植祭と號す、往古は山口六社の一なりとぞ、」『三國名勝圖會』巻之六十 日向國 諸縣郡

 宮崎県(日向國)では、「中之宮」「中之宮大神社」とあり、天智の「妃」の玉依姫とされています。他方、倭姫は天智の「后」と書き分けられており、鹿児島県(薩摩國)の伝承、天智の「后」としての大宮姫とはやや異なります。恐らく、宮崎側の伝承の方が『日本書紀』の影響を強く受けて、頴娃(えい)出身の「玉依姫」と記し、その立場も「后」ではなく、下位の「妃」としています。大宮姫もこの玉依姫も開聞岳がある頴娃の出身としていますから、同一人物の伝承と思われます。

 この頴娃出身の大宮姫(玉依姫)が、「中宮明神」や「中之宮」「中之宮大神社」に祭られていることに気づき、とても驚きました。三十数年前の研究時点(注①)では、この神社名・祭神の持つ意味に気づきませんでした。現在の研究水準では、野中寺(注②)の彌勒菩薩像台座銘に見える「中宮天皇」を天智の后の倭姫王とし、九州王朝出身の姫とする見解が古田学派内では有力視されており、その「中宮」を、天智の后(妃)の大宮姫のこととして祭っている神社が鹿児島や宮崎にあることは、偶然とは思えないのです。

 ちなみに、「中宮天皇」を九州王朝の天子、筑紫君薩夜麻の后とする説をわたしは「古田史学の会」関西例会(2011年7月)で発表しました(注③)。他方、「中宮天皇」を天智の后の倭姫王であり、大宮姫(『開聞古事縁起』)、薩摩比売(『続日本紀』)のこととする説を正木裕さんが発表しています(注④)。また、「中宮天皇」を九州王朝の天子(女帝)で倭姫王のこととする説を服部静尚さんが発表しています(注⑤)。なお、「中宮天皇」を倭姫王とする説は喜田貞吉氏が早くから発表しています。今回、大宮姫(玉依姫)を「中宮」として祭る神社の発見は、正木説を支持するものではないでしょうか。(つづく)

(注)
①)野中寺弥勒菩薩像銘 大阪府羽曳野市 丙寅年(666年)
「丙寅 年四 月大 旧八 日癸 卯開 記栢 寺智 識之 等詣 中宮 天皇 大御 身労 坐之 時請 願之 奉弥 勒御 像也 友等 人数 一百 十八 是依 六道 四生 人等 此教 可相 之也」
②古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
③古賀達也「洛中洛外日記」327話(2011/07/23)〝野中寺彌勒菩薩銘の中宮天皇〟で紹介した。

 「7月16日の関西例会で、わたしは野中寺の弥勒菩薩銘にある「中宮天皇」を九州王朝の天子(薩夜麻)の奥さんのこととする、仮説以前のアイデア(思いつき)を発表しました。中宮天皇の病気平癒を祈るために造られた弥勒菩薩像のようですが、銘文中の中宮天皇について、一元史観の通説では説明困難なため、偽作説や後代造作説なども出ている謎の仏像です。
造られた年代は、その年干支(丙寅)・日付干支から666年と見なさざるを得ないのですが、この年は天智5年にあたり、天智はまだ称制の時期で、天皇にはなっていません。斉明は既に亡くなっていますから、この中宮天皇が誰なのか一元史観では説明困難なのです。

 従って、大和朝廷の天皇でなければ九州王朝の天皇と考えたのですが、この時、九州王朝の天子薩夜麻は白村江戦の敗北より、唐に囚われており不在です。そこで、「中宮」が後に大和朝廷では皇后職を指すことから、その先例として九州王朝の皇后である薩夜麻の后が中宮天皇と呼ばれ、薩夜麻不在の九州王朝内で代理的な役割をしていたのではないかと考えたのです。」
④正木 裕「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1)」『古田史学会報』145号、2018年。
同「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その2)」『古田史学会報』146号、2018年。
「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その3)」『古田史学会報』147号、2018年。
同「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝』(『古代に真実を求めて』22集)古田史学の会編、2019年、明石書店。
⑤服部静尚「野中寺弥勒菩薩像銘と女帝」『古田史学会報』163号、2021年。
同「中宮天皇 ―薬師寺は九州王朝の寺―」『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』25集)古田史学の会編、2022年、明石書店。
本薬師寺は九州王朝の寺 服部静尚(会報165号)


第3177話 2023/12/11

律令に遺る多元的「天皇」号 (2)

 今日は、娘の仕事の日程調整ができたので、定年退職して初めての家族旅行です。城崎温泉に向かう特急きのさき5号の車中でこの「洛中洛外日記」を書いています。

 王朝交代(701年)前の七世紀において、九州王朝の天子の下に複数の「天皇」が併存したと考えた理由は、『日本書紀』に見えない天皇名(◎印)を含む次の「天皇」号史料の存在でした。

○用明~推古期(「歳次丙午年」586年) 「池邊大宮治天下天皇」「大王天皇」「小治田大宮治天下大王天皇」 法隆寺薬師如来像光背銘(注①。七世紀第4四半期頃の刻字か)
「大王天皇」という古い表現(大王)を持つ表記から、原文の成立は七世紀前半まで遡るものと思われる。

○敏達天皇(572~585年)「乎娑陀宮治天下天皇」 船王後墓誌(注②。戊辰年、668年成立)
墓誌の成立が七世紀第3四半期であり、当時、近畿天皇家は「天皇」号を九州王朝から許されていたことがわかる。

○推古天皇(592~628年)「等由羅宮治天下天皇」 船王後墓誌(同上)
同上。

○舒明天皇(629~641年)「阿須迦宮治天下天皇」「阿須迦天皇」 船王後墓誌(同上)
同上。

◎650・651年 「越智天皇」 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年成立) ※『日本書紀』に見えない。
「一帳像具脇侍菩薩八部等卅六像 右袁智天皇坐難波宮而、庚戌年(650)冬十月始、辛亥年(651)春三月造畢、即請者」とあり、「越智天皇」は、652年(壬子)に完成した前期難波宮造営に関わった有力者と思われる。『伊予三島縁起』に「孝徳天皇のとき番匠の初め。常色二年戊申(六四八)、日本国をご巡礼したまう。」という記事があり、伊予国(越智氏の本拠地)から、九州年号の常色二年(684)に難波に番匠(王宮などの造営技術者)を派遣したのが「袁智天皇」ではあるまいか。また、前期難波宮跡から「戊申年」木簡が出土しており、この記事の「常色二年戊申」と関係があるのではないかとする正木裕氏の指摘がある。(注③)

◎661年 「仲天皇」 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(同上) ※『日本書紀』に見えない。
同縁起の次の記事に「仲天皇」が見える。
「爾時後岡基宮御宇 天皇造此寺、司阿倍倉橋麻呂、穗積百足二人任賜、以後、天皇行幸筑志朝倉宮、將崩賜時、甚痛憂勅〔久〕、此寺授誰參來〔久〕、先帝待問賜者、如何答申〔止〕憂賜〔支〕、爾時近江宮御宇 天皇奏〔久〕、開〔伊〕髻墨刺〔乎〕刺、肩負鋸、腰刺斧奉爲奏〔支〕、仲天皇奏〔久〕、妾〔毛〕我妋等、炊女而奉造〔止〕奏〔支〕、爾時手拍慶賜而崩賜之」 ※〔〕内は小字。

 ここに見える「後岡基宮御宇天皇」は斉明、「近江宮御宇天皇」は天智とされる。「仲天皇」は自らを「妾」と称していることから、天智の皇后倭姫王とする説を喜田貞吉は唱えている。

 『養老律令』儀制令皇后条に「皇后・皇太子以下、率土の内は、天皇・太上天皇に上表するときには、臣妾名称すること(「臣」ないし「妾」と自称し、続けて自分の名を言う)。対揚(対面して称揚)するときには、名称すること。皇后・皇太子は太皇太后・皇太后に対して、率土の内は三后・皇太子に対して、上啓するときには、殿下と称すること。自称するときには、みな臣妾とすること。」とある。

◎666年 「中宮天皇」 野中寺彌勒菩薩像台座銘(注④) ※『日本書紀』に見えない。
「丙寅年四月大朔八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇~」の文字が見える。年代や名前から判断して、先の「仲天皇」と「中宮天衲」は同一人物の可能性がある。

○天武期 「天皇」木簡 飛鳥池遺跡(天武期の層位)出土
同遺跡から天武の子ら「大津皇子」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女)木簡も出土しており、この「天皇」は天武と解するのが妥当。

○697年 「大八島国所知天皇」「遠天皇祖御世」「天皇御子」「倭根子天皇命」「天皇大命」「天皇朝廷」 『続日本紀』文武天皇即位の宣命

 これら七世紀の「天皇」号史料によれば、近畿天皇家に限らず、天子の臣下としての「天皇」号を称することを九州王朝(倭国)は制度として採用していたのではないかとする仮説(多元的「天皇」の併存)に至ったのです。(つづく)

(注)
①法隆寺薬師如来像光背銘文。
「池邊大宮治天下天皇。大御身。勞賜時。歳
次丙午年。召於大王天皇與太子而誓願賜我大
御病太平欲坐故。将造寺薬師像作仕奉詔。然
當時。崩賜造不堪。小治田大宮治天下大王天
皇及東宮聖王。大命受賜而歳次丁卯年仕奉」
②船王後墓誌銘文。
(表) 「惟船氏故 王後首者是船氏中租 王智仁首児 那沛故 首之子也生於乎婆陁宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之朝天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第」
(裏) 「三殞亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故 戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自 同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊其牢固永劫之寶地也」
③正木裕「前期難波宮の造営準備について」『発見された倭京 太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)、2018年。
④野中寺彌勒菩薩像台座銘文(異説あり)。
「丙寅年四月大朔八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇大御身労坐之時 誓願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等 此教可相之也」


第3176話 2023/12/10

律令に遺る多元的「天皇」号 (1)

 七世紀において、九州王朝の天子の下に複数の「天皇」が併存したのではないかとする、多元的「天皇」という視点(作業仮説)を、近年、わたしは提起してきました(注①)。具体的には、『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年作成)に見える「仲天皇」と「越智天皇」に端を発し、七世紀、九州王朝の時代には近畿天皇家に限らず、多元的に「天皇」号を称することを九州王朝(倭国)は制度として採用していたのではないかとする作業仮説(多元的「天皇」併存試案)に至ったものです。そして、次の例をあげました。

(a) 野中寺彌勒菩薩像台座銘(注②)にある「中宮天皇」は近畿天皇家の天皇とは考えにくく、九州王朝系の女性天皇ではないか(注③)。

(b) 筑紫大宰府の他に「吉備大宰石川王」が『日本書紀』天武紀に見えるが、吉備にも「大宰」を名のることを九州王朝から許された「有力者(石川王)」がいた。そうであれば筑紫大宰と吉備大宰が併存していたことになり、「大宰」という役職が九州王朝下に多元的に併存していたことになる。

(c) 愛媛県東部の今治市・西条市に、「天皇」「○○天皇」地名や史料が遺っている(注④)。管見では、このような情況は他地域には見られず、この地域に「天皇」地名などが遺存していることには、何らかの歴史的背景があったと考えざるを得ないのではないか。

 このように、九州王朝の天子の下に、ナンバーツーとしての近畿の「天皇」が任命されていたとする古田旧説を援用・展開し、近畿以外にも「天皇」号を許された有力者がいたのではないかと考えたものです。

 そして、七世紀における複数の「天皇」の併存という九州王朝の制度が、王朝交代後の大和朝廷の律令にも遺されていたことを見いだしました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2996~3003話(2023/04/25~05/02)〝多元的「天皇」併存の新試案 (1)~(4)〟
同「洛中洛外日記」3024話(2023/05/26)〝多元的「天皇」併存の傍証「野間天皇神」〟
②同銘文は次の通り(異説あり)。
「丙寅年四月大朔八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇大御身労坐之時 誓願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等 此教可相之也」
③古賀達也「洛中洛外日記」327話(2011/07/23)〝野中寺弥勒菩薩銘の中宮天皇〟
同「洛中洛外日記」2332話(2020/12/24)〝「中宮天皇」は倭姫王か〟
④合田洋一『葬られた驚愕の古代史』(創風社出版、2018年)によれば、西条市明里川には字地名「紫宸殿」「天皇」がある。また、当地の文書『両足山安養院無量寺由来』には「長沢天皇」「長坂天皇」「朝倉天皇」が見え、当地の須賀神社祭神は「中河天皇」とのことである。
古賀達也「洛中洛外日記」3123~3127話(2023/09/25~30)〝『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える (1)~(3)〟
同「洛中洛外日記」3126話(2023/09/29)〝全国の「天皇」地名〟
同「洛中洛外日記」3136話(2023/10/15)〝九州と北海道に分布しない「テンノー」地名〟


第3127話 2023/09/30

『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える (3)

 各地に遺る「天皇」地名の多くは牛頭天王(牛頭天皇)信仰に由来すると考えてもよいように思うのですが、それにしても愛媛県東部地域に最濃密分布する理由をうまく説明できません。これには何らかの歴史的背景があったとわたしは推察しています。そのことを説明できる一つの作業仮説として、七世紀の九州王朝の時代、当地に天皇号を称した有力者がいたのではないかと考えました。すなわち、九州王朝の天子(倭国のナンバーワン権力者)の下、当地の有力者がナンバーツーとしての「天皇」を名乗っていたとする仮説です。

 従来の古田説(旧説)では、九州王朝下のナンバーツーとしての「天皇」は近畿天皇家のこととされてきました。他方、ナンバーツー「天皇」が、近畿天皇家以外にも多元的に存在(併存)したのではないかとわたしは考えるようになりました(注①)。その具体例として、『大安寺伽藍縁起』の「袁智天皇」に注目しました。すなわち、九州王朝から許された「袁智天皇」の称号が由来となって、当地(越智国)に「紫宸殿」や「天皇」地名が遺存したのではないか。そして、701年以後、「天皇」号を大和朝廷から剥奪された越智氏はそれを地名や伝承として遺したのではないでしょうか。

 このことの傍証として、越智氏関連史料中に一族の人物に対して、「伊予皇子」(注②)、「伊予ノ大皇」「伊予土佐ノ国皇」「玉興皇」(注③)という、「王」ではなく、天皇の「皇」の字を用いた呼称が散見されます。こうした史料事実や「天皇」地名の存在から、九州王朝配下の大豪族、越智氏が「天皇」を名乗ることを許されたと考えることができそうです。同時に、近畿の大豪族、近畿天皇家(後の大和朝廷)もナンバーツー「天皇」を名乗ることが許された、あるいは任命されたものと推定しています。この多元的「天皇」の併存という仮説であれば、野中寺彌勒菩薩台座銘の「中宮天皇」や、『大安寺伽藍縁起』の「袁智天皇」「仲天皇」という史料情況を無理なく説明できるのではないでしょうか。(おわり)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2996~3003話(2023/04/25~05/02)〝多元的「天皇」併存の新試案 (1)~(4)〟
②「両足山安養院車無寺(無量寺の旧名)」『朝倉村誌 下巻』朝倉村誌編さん委員会、1986年(昭和61年)、1464頁。
③「玉興越智郡拝志新館ニ移事(抄)」『朝倉村誌 下巻』朝倉村誌編さん委員会、1986年(昭和61年)、1754頁。


第3091話 2023/08/11

王朝交代の痕跡《金石文編》(4)

 ―九州王朝時代(7世紀)の

      近畿天皇家系金石文―

 木簡の記載様式が、七世紀の九州王朝(倭国)時代と八世紀の大和朝廷(日本国)時代とでは、全国一斉に大きく変化しています。行政単位の「評」から「郡」への変更をはじめ、年次表記の様式が「干支」から「年号」「年号+干支」へ、年次記載位置の「冒頭」から「末尾」への変化などが顕著な例です。こうした激変は九州王朝説の視点から見ると、王朝交代に伴うものであり、恐らくは両王朝の制度(律令格式)の差異によると思われます(注①)。ところが金石文には、七世紀段階で既に年次表記位置に変化が現れています。

 「洛中洛外日記」前話で七世紀の金石文を分類し、冒頭に年次表記を持つものを〈α群〉、末尾に持つものを〈β群〉、文章の途中や末尾付近に持つ中間型を〈γ群〉としました。そして銘文に記された権力者(上位者)に注目しました。次の通りです。

 【金石文名(記載年次) 上位者〈年次表記位置〉】
(1)野中寺弥勒菩薩像銘(666年) 中宮天皇〈α群〉
(2)船王後墓誌(668年) 乎娑陀宮治天下天皇、等由羅宮治天下天皇、阿須迦宮治天下天皇、阿須迦天皇〈γ群〉
(3)小野毛人墓誌(677年) 飛鳥浄御原宮治天下天皇〈β群〉
(4)山ノ上碑(681年) 記載なし〈α群〉
(5)長谷寺千仏多宝塔銅板(686年または698年) 飛鳥清御原大宮治天下天皇〈γ群〉
(6)鬼室集斯墓碑(688年) 朱鳥年号を公布した九州王朝〈α群〉
(7)采女氏塋域碑(689年) 飛鳥浄原大朝廷〈β群〉
(8)法隆寺観音像造像記銅板(694年) 記載なし〈α群〉
(9)那須国造碑(689年・700年) 飛鳥浄御原大宮〈α群〉

 この中でとりわけ注目されるのが、〈β群〉〈γ群〉の年次記載位置を持つ次の金石文です。

(2)船王後墓誌(668年) 乎娑陀宮治天下天皇、等由羅宮治天下天皇、阿須迦宮治天下天皇、阿須迦天皇〈γ群〉
(3)小野毛人墓誌(677年) 飛鳥浄御原宮治天下天皇〈β群〉
(7)采女氏塋域碑(689年) 飛鳥浄原大朝廷〈β群〉

 被葬者である船王後、小野毛人、采女竹良が直接的には近畿天皇家の家臣であることと、銘文での年次表記位置が八世紀(大和朝廷時代)の木簡の表記と対応していることは整合しています。なかでも采女氏塋域碑に記された、「飛鳥浄原大朝庭の大弁官」で「直大弐」の冠位を持つ「采女竹良卿」の名前は、「采女竹羅」「采女筑羅」として、次の『日本書紀』の記事に見えることから、天武・持統の家臣であることを疑いにくいのです。

○(秋七月)辛未(四日)に、小錦下采女臣竹羅をもて大使とし、當摩公楯をもて小使として、新羅国に遣わす。〈天武十年(681)〉
○(九月)次に直大肆采女朝臣筑羅、内命婦の事を誅(しのびごとたてまつ)る。〈朱鳥元年(686)〉

 天武十年(681)には小錦下として遣新羅使の大使に任命され、天武十三年(684)には朝臣の姓をもらい、天武崩御の際には直大肆として誅しています。没年は不明ですが、采女氏塋域碑によれば持統三年己丑(689)までには直大弐になり、没しているようです。この『日本書紀』の記事によれば、采女竹良が仕えた「飛鳥浄原大朝庭」とは近畿天皇家のことと考えるほかありませんし、今回注目した年次記載位置もこの理解と整合しています。

 古田先生は晩年、船王後墓誌や小野毛人墓誌の天皇を九州王朝の天子の別称としましたが、わたしは古田旧説(九州王朝天子の下のナンバーツーとしての天皇)を支持してきました(注②)。今回のケースも古田旧説が妥当であることを示唆しています。(つづく)

(注)
①『養老律令』公式令に見える文書様式との関係が注目される。
②古賀達也「『船王後墓誌』の宮殿名 ―大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か―」『古田史学会報』152号、2019年。
同「七世紀の「天皇」号 ―新・旧古田説の比較検証―」『多元』155号、2020年。
同「宮名を以て天皇号を称した王権」『多元』173号、2023年。


第3090話 2023/08/07

王朝交代の痕跡《金石文編》(3)

王朝交代前夜(7世紀第4四半期)の金石文

 王朝交代直前の7世紀第4四半期に入ると、金石文の年次表記にその影響が現れます。第2四半期成立の野中寺彌勒菩薩像銘を含め、7世紀後半成立の次の金石文で、そのことを解説します。

【7世紀第4四半期の金石文年次表記】
(1)野中寺弥勒菩薩像銘 大阪府羽曳野市 丙寅年(666年)
「丙寅 年四 月大 旧八 日癸 卯開 記栢 寺智 識之 等詣 中宮 天皇 大御 身労 坐之 時請 願之 奉弥 勒御 像也 友等 人数 一百 十八 是依 六道 四生 人等 此教 可相 之也」

(2)船王後墓誌 大阪府柏原市出土 戊辰年(668年)
「惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児 那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第」
「三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也」

(3)小野毛人墓誌 京都市出土 丁丑年(677年)
「飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上」
「小野毛人朝臣之墓 営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」

(4)山ノ上碑 群馬県高崎市 辛巳歳(681年)
「辛巳歳集月三日記
佐野三家定賜健守命孫黒賣刀自此
新川臣兒斯多々彌足尼孫大兒臣娶生兒
長利僧母爲記定文也 放光寺僧」

(5)長谷寺千仏多宝塔銅板 奈良県桜井市長谷寺 歳次降婁(686年または698年。降婁は戌年のこと)
「惟夫霊應□□□□□□□□
立稱巳乖□□□□□□□□
真身然大聖□□□□□□□
不啚形表刹福□□□□□□
日夕畢功 慈氏□□□□□□
佛説若人起窣堵波其量下如
阿摩洛菓 以佛駄都如芥子
安置其中 樹以表刹量如大針
上安相輪如小棗葉或造佛像
下如穬麦 此福無量 粤以 奉為
天皇陛下 敬造千佛多寳佛塔
上厝舎利 仲擬全身 下儀並坐
諸佛方位 菩薩圍繞 聲聞獨覺
翼聖 金剛師子振威 伏惟 聖帝
超金輪同逸多 真俗雙流 化度
无央 廌冀永保聖蹟 欲令不朽
天地等固 法界无窮 莫若崇據
霊峯 星漢洞照 恒秘瑞巗 金石
相堅 敬銘其辞曰
遙哉上覺 至矣大仙 理歸絶
事通感縁 釋天真像 降茲豊山
鷲峯寳塔 涌此心泉 負錫来遊
調琴練行 披林晏坐 寧枕熟定
乗斯勝善 同歸實相 壹投賢劫
倶値千聖 歳次降婁漆菟上旬
道明率引捌拾許人 奉為飛鳥
清御原大宮治天下天皇敬造」

(6)鬼室集斯墓碑 滋賀県日野町鬼室集斯神社 朱鳥三年(688年)
「朱鳥三年戊子十一月八日〈一字不明。殞か〉」
「鬼室集斯墓」
「庶孫美成造」

(7)采女氏塋域碑 大阪府南河内郡太子町出土 己丑年(689年)
「飛鳥浄原大朝廷大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四十代他人莫上毀木犯穢
傍地也
己丑年十二月廿五日」

(8)法隆寺観音像造像記銅板 奈良県斑鳩町 甲午年(694年)
「甲午年三月十八日鵤大寺德聡法師片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師三僧所生父母報恩敬奉觀世音菩薩
「像依此小善根令得无生法忍乃至六道四生衆生倶成正覺
族大原博士百済在王此土王姓」

(9)那須国造碑 栃木県大田原市 永昌元年己丑(689年) 康子年(700年)
「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造
追大壹那須直韋提評督被賜歳次康子年正月
二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓
仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貮
照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以
曽子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之
子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香
助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固」

 これらの中で、九州王朝時代(7世紀)の木簡と同様に、冒頭に年次表記を持つものが(1)(4)(6)(8)(9)で、これを〈α群〉とします。末尾に持つものが(3)(7)で、〈β群〉とします。そして、文章の途中や末尾付近に年次表記が記されている中間型の(2)(5)を〈γ群〉とします。

 次に、銘文中に見える、あるいは想定される権力者(上位者)は次のようです。

(1)野中寺弥勒菩薩像銘(666年) 中宮天皇〈α群〉
(2)船王後墓誌(668年) 乎娑陀宮治天下天皇、等由羅宮治天下天皇、阿須迦宮治天下天皇、阿須迦天皇〈γ群〉
(3)小野毛人墓誌(677年) 飛鳥浄御原宮治天下天皇〈β群〉
(4)山ノ上碑(681年) 記載なし〈α群〉
(5)長谷寺千仏多宝塔銅板(686年または698年) 飛鳥清御原大宮治天下天皇〈γ群〉
(6)鬼室集斯墓碑(688年) 朱鳥年号を公布した九州王朝〈α群〉
(7)采女氏塋域碑(689年) 飛鳥浄原大朝廷〈β群〉
(8)法隆寺観音像造像記銅板(694年) 記載なし〈α群〉
(9)那須国造碑(689年・700年) 飛鳥浄御原大宮〈α群〉

 これらの銘文は、九州王朝系表記様式と思われる〈α群〉が過半数である反面、8世紀の大和朝廷時代(日本国)の木簡の一般的な年次表記様式と同じ〈β群〉の上位者が近畿天皇家であることが注目されます。すなわち、近畿天皇家系の金石文は7世紀段階で既に年次表記が末尾にあるのです。

 ところが年次表記が冒頭にある〈α群〉の(9)那須国造碑は、上位者が「飛鳥浄御原大宮」とあり、異質です。これは王朝交代直前(700年)の石碑であることと、近畿地方から遠く離れた栃木県の金石文であることが影響しているように思います。何よりも「永昌元年」という唐の年号を使用していることに、碑文作成者(那須国造)の政治的配慮(上位者である飛鳥浄御原大宮への配慮として九州年号は使用しないが、唐の年号を使用することにより自らの立ち位置を表現した)が感じられるのです。この碑文は、王朝交代時の微妙な政治状況の現れと思われます。(つづく)


第3089話 2023/08/04

王朝交代の痕跡《金石文編》(2)

 ―大和朝廷時代、金石文の年次表記―

701年の九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代直後、木簡と同様に金石文の年次表記にも変化が見られます。大和朝廷時代(日本国)になると、木簡と同様に年号使用が始まり、その記載位置も末尾が主流となるのです。王朝交代直後(8世紀初頭)の代表的な金石文を紹介します。

【大和朝廷(日本国)時代の金石文の年次表記】

(1) 文祢麻呂墓誌 慶雲四年(707年)
奈良県宇陀市榛原区八滝 文祢麻呂墓出土
「壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻
呂忌寸 慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒」

(2) 下道圀勝母夫人骨蔵器 和銅元年(708年)
「下道圀勝弟圀依朝臣右二人母夫人之骨蔵器故知後人明不可移破」
「以和銅元年歳次戊申十一月廿七日己酉成」

(3) 伊福吉部徳足比売骨蔵器 和銅三年(710年)
「因幡国法美郡 伊福吉部徳足比売臣 藤原大宮御宇大行天皇御世慶雲四年歳次丁未春二月二十五日従七位下被賜仕奉矣 和銅元年歳次戌申秋七月一日卒也 三年庚戌冬十月火葬即殯此処故末代君等不応崩壊 上件如前故謹録錍
和銅三年十一月十三日己未」

(4) 憎道薬墓誌 和銅七年(714年)
「佐井寺僧 道薬師 族姓大楢君 素止奈之孫
和銅七年歳次甲寅二月廿六日命過」

(5) 元明天皇陵碑 養老五年(721年) ※今なし。『集古十種』所載
「大倭国添上郡平城之宮馭宇八洲 太上天皇之陵是其所也
養老五年歳次辛酉冬十二月癸酉朔十三日乙酉葬」

(6) 阿波国造碑 養老七年(723年)
「阿波国造名方郡大領正□位下
粟凡直弟臣墓
養老七年歳次癸亥 年立」

(7) 金井沢碑 神亀三年(726年)
「上野国群馬郡下賛郷高田里
三家子□為七世父母現在父母
現在侍家刀自他田君目頬刀自又児加
那刀自孫物部君午足次蹄刀自次乙蹄
刀自合六口又知識所給人三家毛人
次知万呂鍛師礒部君身麻呂合三口
如是知識結而天地誓願仕奉
石文
神亀三年丙寅二月二九日」

 王朝交代直後、8世紀初頭頃の大和朝廷(日本国)時代に入ると、墓誌や墓碑に見える銘文の主流様式は木簡と同様に、没年や銘文作成などの年次表記(年号+干支)が末尾に移動します。この史料事実から、王朝交代により、金石文も年次表記の変化が全国一斉に発生したことがうかがえます。従って、これらの変化は、王朝交代が平和裏で周到な準備期間を経て、強力な国家意思に基づいてなされたと考えるのが妥当です。
この〝平和裏で周到な準備期間〟(7世紀第4四半期)においては、そのことを示す現象が金石文に現れます。(つづく)


第3088話 2023/08/03

王朝交代の痕跡《金石文編》(1)

 ―九州年号金石文の年次表記―

701年の九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代直後、木簡の年次表記が変更(表記位置が冒頭→末尾)されましたが、九州年号金石文には次のように年号と干支が冒頭に記されています。年次表記を文章の冒頭に記すという様式は、九州王朝時代(7世紀)の木簡と同じです。

【九州年号金石文の年次表記】
(1) 伊予国湯岡碑文 『釈日本紀』所引所引「伊予国風土記」逸文。今なし。
「法興六年十月歳在丙辰~」(法興六年は596年)

(2) 法隆寺釈迦三尊像光背銘
「法興元丗一年歳次辛巳十二月~」(法興元丗一年は621年)

(3) 白鳳壬申骨蔵器 『筑前国続風土記附録』今なし。
「白鳳壬申」(白鳳壬申は672年)

(4) 鬼室集斯墓碑 滋賀県日野町鬼室集斯神社
「朱鳥三年戊子十一月八日〈一字不明。殞か〉」(朱鳥三年は688年)
「鬼室集斯墓」
「庶孫美成造」

(5) 大化五子年土器 茨城県岩井市出土
「大化五子年」(大化子年は699年。注)
「二月十日」

(3)と(5)は骨蔵器に年次だけが記されたものであるため、文書様式判断の対象にはできません。その他の九州年号金石文は全て年次表記(年号+干支)が文章の冒頭に記載されており、この様式は木簡と同様であることから、九州年号を公布した九州王朝が定めたものと考えることができます。ただし、九州年号の木簡への記載が憚られたと推定したことは、先に述べた通りです。
次に大和朝廷(日本国)の時代で、王朝交代直後8世紀初頭の金石文の年次表記を見てみることにします。(つづく)

(注)「大化五子年」は干支が一年ずれている。その当時、関東地方で採用されていた〝異なる暦法〟の影響とする次の拙論を参照されたい。
古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。


第3054話 2023/06/27

元岡遺跡出土木簡に遺る

      王朝交代の痕跡(4)

 元岡・桑原遺跡群出土の二つの紀年木簡、「大寶元年辛丑」(701年)木簡と「壬辰年韓鐵□□」木簡の考察を続けてきましたが、同遺跡からは次の二つの「延暦四年」(785年)木簡も出土しています(注①)。

・口壹升(サイン・花押)
・計帳造書口粮用(伋)口
延暦四年六月廿四日

献上  □□□(沙)魚皮〈折損〉延暦四年十月十四日真成

 701年に王朝交代し、785年にもなると木簡の紀年表記は年号(延暦四年)だけとなり、干支は使用されていません。しかも年号記載箇所は、「大寶元年辛丑」木簡とは異なり、文末に移動します。この頃になると、九州王朝時代の干支表記の伝統が失われていたことがわかります。

 九州王朝は早くから干支に強いこだわりを見せていたように思います。それを象徴するのが元岡遺跡群の古墳から出土した〝四寅剣(刀)〟です(注②)。それには金象眼で次の銘文が記されています。

大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果(練)

 「庚寅正月六日庚寅」と、年干支・日付干支があるので、570年の庚寅であることがわかります。冒頭の「大歳庚寅」は『日本書紀』の用例に従えば、九州王朝の天子の即位年干支が庚寅であることを意味しますが、この年に九州年号が和僧から金光に改元されており、天子即位による改元と思われます。ところがこの年干支と日付干支が共に庚寅であることに着眼されたのが正木裕さん(古田史学の会・事務局長)でした。

 正木さんによれば、干支が寅の年、寅の月、寅の日、寅の時に作られた剣を四寅剣(しいんけん)といい、朝鮮半島古来の伝統の剣とのこと。そして、570年が庚寅の年で、正月が寅の月、その六日が寅の日になり、もし寅の時(午前3時~5時)に造られたのであれば四寅剣になることに気付かれたのです。朝鮮半島では古代から中近世にかけて四寅剣が数多く作られ、国家の危機を救う「辟邪」として重宝されたようです(注③)。この四寅剣(刀)のように、九州王朝は干支の持つ意味に関心を示しており、荷札木簡にさえも年号ではなく干支表記を採用したことに、国家としての深い政治思想が込められていたと思われるのです。

(注)
①『元岡・桑原遺跡群8 ―第20次調査報告―』福岡市教育委員会、2007年。
服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。文字の判読については当論文の見解を採用した。花押が古代木簡に使用されていたとする見解を服部秀雄氏は提起しており、興味深い。
②古賀達也「洛中洛外日記」339話(2011/09/25)〝「大歳庚寅」象眼鉄刀銘の考察〟
同「洛中洛外日記」340話(2011/10/01)〝「大歳庚寅」鉄刀銘と「金光」改元〟
同「洛中洛外日記」341話(2011/10/02)〝「大歳庚寅」銘鉄刀の目的〟
同「洛中洛外日記」342話(2011/10/09)〝「大歳庚寅」銘鉄刀は四寅剣(刀)〟
正木 裕「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」『古田史学会報』107号、2011年。
古賀達也「『大歳庚寅』象嵌鉄刀の考察」『古田史学会報』107号、2011年。
③古賀達也「洛中洛外日記」848話(2015/01/03)〝金光元年(570)の「天下熱病」〟
正木 裕「『壹』から始める古田史学・二十三 磐井没後の九州王朝3」『古田史学会報』157号、2020年。
古賀達也「古代日本の感染症対策 ―九州王朝と大和朝廷―」『東京古田会ニュース』192号、2020年。
正木 裕「『壹』から始める古田史学・三十三 多利思北孤の時代Ⅹ 多利思北孤と九州年号と「法興」年号」『古田史学会報』167号、2021年。

Youtube 講演

木簡の中の九州王朝 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=cA5YSIm4o0Y
古田史学の会・関西例会
2023年8月19日


第3003話 2023/05/02

多元的「天皇」併存の新試案 (4)

 九州王朝下の多元的「天皇」の存在(併存)という新試案により、「袁智天皇」「仲天皇」(注①)、「中宮天皇」(注②)、そして西条市の字地名「紫宸殿」「天皇」など(注③)の説明が可能になると考えたのですが、念のため、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)に意見を求めました。日野さんは、九州王朝下の役職としての「天皇」がいたのではないかとする構想を持たれていたこともあり、わたしの試案について批評を要請したものです。日野さんの批評は概ね次のようなものでした。

(a) 倭国(九州王朝)の天子は「法皇」であり、その下の役職として「天皇」がいた、というのが私(日野)の仮説なので、その点では古賀説と大きな違いはない。

(b) 「中宮天皇」の用例からも判るように「天皇」は「中宮」クラス、つまり「皇后レベル」の地位であると考えられ、そのような地位の役職に同時に何人もいたとは考えにくい。

(c) 「越智天皇」は越智氏であると思うが、越智氏が世襲していたという根拠は乏しいのではないか。『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』を見ると「難波宮」時代の大和政権の大王(例:孝徳)が「天皇」とは呼ばれておらず、純粋に「難波宮時代は(大和大王家ではなく)越智氏が天皇であった」という解釈も可能である。

 以上の指摘がありました。七世紀の「天皇」銘金石文(船王後墓誌)の三名の天皇に対する捉え方などにも差があり(注④)、(b)(c)については見解がわかれました。まだ、思いついたばかりの新試案ですので、引き続き慎重に検討します。(おわり)

(注)
①『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』天平十九年(747)作成。
②野中寺彌勒菩薩像台座銘。
③合田洋一『葬られた驚愕の古代史』(創風社出版、2018年)によれば、西条市明里川には字地名「紫宸殿」「天皇」がある。また、当地の文書『両足山安養院無量寺由来』には「長沢天皇」「長坂天皇」「朝倉天皇」が見え、当地の須賀神社祭神は「中河天皇」とのこと。
④日野智貴「九州王朝の『法皇』と『天皇』」『古田史学会報』163号、2021年。


第3001話 2023/04/29

多元的「天皇」併存の新試案 (2)

七世紀(九州王朝時代)での「天皇」号研究を始めてから、いくつもの難題に突き当たっています。その一つが『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年作成)に見える「仲天皇」と「越智天皇」でした。「洛中洛外日記」でも考察の一端を発表しましたが(注①)、未だ自信が持てる仮説提起には至っていません。とは言え、「天皇」史料を概観して、ある試案を思いつきました。七世紀、九州王朝の時代には近畿天皇家に限らず、多元的に「天皇」号を称することを九州王朝(倭国)は制度として採用していたのではないかとする作業仮説(多元的「天皇」併存試案)です。

この試案に至った背景には、次の史料事実を多元史観・九州王朝説の立場からは、どのような説明が可能だろうかという問題意識がありました。

(a) 野中寺彌勒菩薩像台座銘(注②)にある「中宮天皇」は近畿天皇家の天皇とは考えにくく、九州王朝系の女性天皇ではないか(注③)。

(b) 筑紫大宰府の他に「吉備大宰石川王」が『日本書紀』天武紀に見えるが、吉備にも「大宰」を名のることを九州王朝から許された「有力者(石川王)」がいた。そうであれば筑紫大宰と吉備大宰が併存していたことになり、「大宰」という役職が九州王朝下に多元的に併存していたことになる。

(c) 愛媛県東部の今治市・西条市に、「天皇」「○○天皇」地名や史料が遺っている(注④)。管見では、このような情況は他地域には見られず、この地域に「天皇」地名などが遺存していることには、何らかの歴史的背景があったと考えざるを得ないのではないか。

このような疑問に突き当たっていたとき、『大安寺伽藍縁起』の「仲天皇」と「袁智天皇」を考察する機会を得て、多元的「天皇」併存試案であれば説明できるのではないかと気付いたのです。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2969~2973話(2023/03/19~25)〝『大安寺伽藍縁起』の仲天皇と袁智天皇 (1)~(4)〟
②同銘文は次の通り(異説あり)。
「丙寅年四月大朔八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇大御身労坐之時 誓願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等 此教可相之也」
③古賀達也「洛中洛外日記」327話(2011/07/23)〝野中寺弥勒菩薩銘の中宮天皇〟
同「洛中洛外日記」2332話(2020/12/24)〝「中宮天皇」は倭姫王か〟
④合田洋一『葬られた驚愕の古代史』(創風社出版、2018年)によれば、西条市明里川には字地名「紫宸殿」「天皇」がある。また、当地の文書『両足山安養院無量寺由来』には「長沢天皇」「長坂天皇」「朝倉天皇」が見え、当地の須賀神社祭神は「中河天皇」とのことである。


第2996話 2023/04/25

多元的「天皇」併存の新試案 (1)

 古田説では「天皇」号について、(A)九州王朝(倭国)の天子をナンバーワンとして、九州王朝が任命したナンバーツーとしての「天皇」(701年の王朝交代前の近畿天皇家)という概念と(注①)、(B)九州王朝の天子が別称として「天皇」を称するケースを晩年に提起(注②)されました。すなわち、九州王朝時代における天子(上位者)と天皇(下位者)という位づけ「天子≠天皇」(A)と、[天子=天皇(別称)」とする(B)の概念です。わたしは(A)の概念(旧古田説)を支持していますが(注③)、古田学派内では(B)を支持する見解(注④)もあり、まだ論議検討中のテーマです(注⑤)。
他方、古田武彦著『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』(注⑥)には、古代史料に見える「天皇」号について次のように述べています。

〝(前略)日出処天子というのは筑紫の天子です。
それに対して近畿天皇家のほうは大王です。その点については七世紀前半の史料と思われる法隆寺の「薬師仏造像記」をみると、はっきりわかります。ここでは用明天皇のことを「天皇」、推古天皇を二回にわたって「大王天皇」といっています。中国の『資治通鑑』という史料をみると唐代のところで第三代の天子の高宗は「高宗天皇」と表現されています。天皇というのは「殿下」などのような敬称なのです。その上にくるものが問題なので、高宗天皇といえば天子に対する敬称であり、大王天皇といえば大王に対する敬称となるのです。つまり「大王は天子ではない」のです。しかし七世紀前半に多利思北孤は天子を称していました。〟ミネルヴァ書房版、143頁。

 この古田先生の解説は難解です。前半では、用明や推古の「天皇」「大王天皇」号を多利思北孤(天子)の下位・ナンバーツー「天皇」表記で、古田説(A)に対応しています。ところが後半では、「天皇」は「殿下」などのような敬称とされ、天子(高宗)でも大王(用明、推古)でも使用できるとするものです。この理解ですと、位付けとは直接関係のない、「殿下」のような一般的な敬称として「天皇」号が使用できることとなり、その場合は(A)の「天皇」号とは異なる概念になるのではないでしょうか。したがって、「天子の別称」とする(B)に近いのかもしれません。いずれにしても難解な解説ですので勉強を続けます。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代は輝いていたⅢ』「第二章 薬師仏之光背銘」朝日新聞社刊、1985年。
②古田武彦「金石文の九州王朝 歴史学の転換」『なかった 真実の歴史学』第六号、ミネルヴァ書房、2009年。
同『古田武彦が語る多元史観』「第六章 2飛鳥について」ミネルヴァ書房、2014年。
③古賀達也「『船王後墓誌』の宮殿名 -大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か-」『古田史学会報』152号、2019年6月。
同「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」『多元』155号、2020年。
同「大和『飛鳥』と筑紫『飛鳥』」『東京古田会ニュース』203号、2022年。
④西村秀己「『天皇』『皇子』称号について」『古田史学会報』162号、2021年。
服部静尚「野中寺彌勒菩薩像銘と女帝」『古田史学会報』163号、2021年。
同「九州王朝の天皇はどう呼ばれたか」『東京古田会ニュース』208号、2023年。
⑤九州王朝のナンバーワン称号を「法皇」とする次の論稿がある。
日野智貴「九州王朝の『法皇』と『天皇』」『古田史学会報』163号、2021年。
⑥古田武彦『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』原書房、1993年。ミネルヴァ書房より復刊。