金石文一覧

第2093話 2020/02/28

三十年ぶりの鬼室神社訪問(4)

 瀬川欣一さんの「鬼室集斯をめぐる謎」(『東桜谷志』日野町東桜谷公民館発行、一九八四年)には、坂本林平『平安記録楓亭雑話』の記事の他にも、偽造の根拠として司馬江漢の『江漢西遊日記』も掲げられています。

〝江戸時代の洋風画家司馬江漢が、天明八年(一七八八)に江戸から長崎へ旅する途中、日野に立ち寄り、八月十二日にこの八角石を見に来ている。司馬江漢がこの旅のことを詳しく書き留めた『江漢西遊日記』という旅日記が後年刊行され、この石のことが次のように記されている。
 「夫れより田婦案内にて人魚塚を見んと行く事四五丁、路の傍に四角なる塚を指し示す。吾が聞く八角なりと云ふに、又一人の老婦来りて、此処より西の方不動堂の前に有りと教ふる。行き見るに小さき草葺きの堂あり。ガマの大樹ありて其傍ら八角の塚あり。是れ人魚塚なり。前に僅の流れあり蒲生河是れなり。人魚塚は八角にして文字見えず。高さ一尺一二寸、下の台石横一尺三寸位、また四角の塚は救世菩薩の塚といふ。」
 以上の記述が『江漢西遊日記』の本文部分であり、その時の江漢のスケッチ(別掲の図参照)にも八角石の解説として「文字ナシ」と記している。画家であり進歩的な科学者でもあった司馬江漢が、天明八年のこの時にかすかでも文字の形跡が、この珍しい八角石に彫られてあったとすれば「人魚塚は八角にして文字見えず」と日記に書くはずがなく、その文字を見落とすとは到底考えられない。
 この天明八年(一七八八)より十八年後の文化三年(一八〇六)に、西生懐忠が同輩の谷田輔長とともに、この八角石が鬼室集斯の墓であると発表するのである。しかも、この石を小野から仁正寺藩庁へ持ち運び、調査したら「鬼室集斯之墓」その他の文字が陰刻されていたとしている。現在でもそれらしく読める文字が、司馬江漢にも坂本林平にもなぜ読めなかったのか。それは仁正寺藩へ持ち帰った間に、何らかの工作がされたと考えてしかるべきではないだろうか。〟

 このように、司馬江漢と坂本林平の「証言」を根拠に、鬼室集斯墓碑は「発見者」の西生懐忠や谷田輔長による偽刻とする説が成立し、江戸時代偽造説が有力説として受け入れられました。(つづく)


第2092話 2020/02/27

三十年ぶりの鬼室神社訪問(3)

 九州年号「朱鳥三年」(688)が刻銘されている鬼室集斯墓碑は、江戸期文化二年(一八〇五)に仁正寺藩(のち西大路藩)の藩医西生懐忠(にしなりあつただ)らによって蒲生郡日野町小野から「発見」され、銘文が解読、広く世に紹介されました(発表は翌文化三年)。
 しかし、発見当時から偽造説が出され、真贋論争が勃発し、現在に至っています。たとえば蒲生郡の郷土誌『東桜谷志』(日野町東桜谷公民館発行、一九八四年)所収、瀬川欣一さんの「鬼室集斯をめぐる謎」には次のような偽造の根拠が掲げられています。

〝西生懐忠と同時代の坂本林平という人が書き残した『平安記録楓亭雑話』に次の記事がある。
 「小野村の三町ばかり上み、西明寺へ行く道の左側の方に高さ三尺ばかりの自然石あり、昔より隣郷の里人人魚塚と言い伝えり、また同村西宮と称する社地に、高さ三尺に足らぬ子石立てり、是も人魚塚と唱へ来れり、然るに此石を西生と申す医、佐平鬼室集斯等の墓なりと申し出て、高貴の御聞に達し人を惑す罪軽からず、元より右の石は能くしりはべりしに文字は決してなし。本より拠なし、只此の辺石燈篭に室徒中とあり付ければ、是にて思い付きしならんか。」
 この記述でもわかるように、直接西生懐忠と出会っている坂本林平は、この石のことをよくよく前から知っており「文字は決してなし」と前に掲げた墓石の文字がこの時には無かったことを記し、鬼室集斯の墓でないと、この時にはっきりと否定している。〟

 このように、瀬川欣一さんは墓碑の「発見者」西生懐忠と出会っている坂本林平の証言「文字は決してなし」を偽造の根拠の一つとされました。(つづく)


第2091話 2020/02/26

三十年ぶりの鬼室神社訪問(2)

 三十年ほど前に古田先生と鬼室神社を訪れたのは、同神社に祀られている鬼室集斯墓碑の調査のためでした。雪が降るとても寒い日だったことを記憶しています。同墓碑には九州年号「朱鳥三年」(688)が刻銘されており、同時代九州年号金石文ではないかと、わたしたちは注目していました。当時は江戸時代に追刻されたとする偽造説が有力だったのですが、古田先生とわたしは真作ではないかと考えていました。
 そこで、鬼室神社を訪問し、社殿裏の石祠に祀られている同碑を拝見させていただきました。墓碑は高さ48.8cmのほぼ八角柱状で、頭部は擬宝珠状になっており、下部の水平断面は一辺約八〜九センチのほぼ正八角形です。石質は小野の石小山産黒雲母花崗岩とのことです。
 その前面と左右の計三面に、次のような文字が肉眼で確認できました。他の五面には文字は見えませんでした。
 その正面に「鬼室集斯墓」、向かって右側面に問題の「朱鳥三年戊子十一月八日〈一字不明。「殞」か〉」(戊子の二字は小字で横に並んでいる)、向かって左側面に「庶孫美成造」と彫られています。この刻銘をめぐって発見当時(江戸時代)から真偽論争が起きています。(つづく)

【鬼室集斯墓碑銘文】
「朱鳥三年戊子十一月八日(殞?)」〈向かって右側面。最後の一字は下部が摩滅しており不鮮明〉
「鬼室集斯墓」〈正面〉
「庶孫美成造」〈向かって左側面〉


第2090話 2020/02/25

三十年ぶりの鬼室神社訪問(1)

 今日は仕事で滋賀県日野町へ出張しました。そのついでに近くにある鬼室神社を訪問しました。約三十年前に古田先生と訪れて以来となります。道路や神社も当時とは比較にならないほど整備されており、時の流れを感じました。
 鬼室神社がある蒲生郡日野町小野(この)の集落は、琵琶湖に注ぐ佐久良川の上流部川沿いの奥まった狭量の地にあり、なぜこんな所に近江朝廷に仕えた百済渡来の官人(学職頭)鬼室集斯(きしつ・しゅうし)の墓碑が祀られているのか不思議です。小野の集落には「人魚塚」と呼ばれている比較的小さな「石柱」もあり、今回、初めて拝見しました。このような山間部に「人魚塚」がある理由もよくわかりませんが、住民により古くから大切に祀られているようです。(つづく)


第2035話 2019/11/04

評督の上位職は各「道」都督か(1)

 那須国造碑の碑文についての古田説の論証を再確認するために、古田先生の『古代は輝いていたⅢ』を読み直したところ、三十数年前の同書発刊時(1985年)に読んだとき、かすかな違和感を抱いたことを思い出しました。それは次の箇所でした。

〝この金石文(那須国造碑)の最大の問題点、それは、「評督」という旧称の授与時点と授与者を隠していることにあることが判明しよう。
 では、授与者は誰か。わたしには、それは「上毛野の君」が最有力候補ではないか、と思われる。なぜなら、関東にあって「武蔵国造」などの任命権を近畿天皇家と争った者、それが「上毛野の君」だったからである。〟(『古代は輝いていたⅢ』ミネルヴァ書房版。305〜306頁)

 那須直葦提に評督を授与したのは「上毛野の君」とする古田先生の見解に、わたしは違和感を覚えたのです。評制は九州王朝が全国に施行した制度と古田先生はされているのに、関東の豪族である「上毛野の君」が評督を授与するということに、わたしは納得できなかったのです。しかし、古田史学に入門したばかりの若造だったわたしには、畏れ多くて古田先生に意見などできませんでした。
 今回、この懐かしい著作の一文中の「上毛野の君」に再会し、わたしには思い当たることがありました。藤井政昭さんの優れた論稿「関東の日本武命」(『倭国古伝』古田史学の会編・明石書店、2019年)によれば、『日本書紀』景行天皇55年条に見える「東山道十五國」の「都督」に任命された「彦狭嶋王」は上毛野国の王者で、『先代旧事本紀』「国造本紀」には「上毛野国造」とされているとのこと。
 先の古田説を敷衍すれば、「東山道十五國」の「都督」であり、「上毛野国造」でもある彦狭嶋王が「東山道」各地の評督を任命したということになり、このケースにおいては、「評督」の上位職掌(任命権者)は各「道」の「都督」ということになります。(つづく)


第2011話 2019/10/11

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(6)

 『隋書』に見える「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)を「南海道」の終着点の国とする正木さんのご意見を採用すると、九州王朝官道の各終着点は次のようになります。いずれも起点は九州王朝(倭国)の都、太宰府です。

○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「隋」「唐」(中国の歴代王朝)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)

 従来の大和朝廷一元史観の「五畿七道」の「七道」は、日本国内限定の「国道」か「高速道路網」のようなイメージで捉えられていた側面が大きかったのですが、今回の九州王朝(倭国)官道の名称の論理的検証の結果、それは四至(東西南北)にある外国へ至るルート、そしてその方面軍が展開する「軍管区」(山田春廣説)とする壮大なスケールの仮説が成立しました。
 九州王朝官道には「東西南北」の「海道」があることから、四方面に展開できる強力な水軍を九州王朝(倭国)は擁していたと思われますが、その倭国艦隊は白村江戦の大敗北により壊滅したようです。というのも、701年の王朝交替後の大和朝廷(日本国)には水軍を持っていた痕跡がありません。たとえば『養老律令』「軍防令」に水軍に関する規定が見えないからです。
 そのため、大和朝廷の「七道」の一つ「西海道」は九州島(大宰管内)とその官道のこととされており、「東海道」「南海道」も海岸沿いの官道とその沿道の諸国を意味しており、九州王朝時代の〝方面軍が展開する「軍管区」〟といった意味合いは少ないように思われます。「多賀城碑」などに見える「東山道節度使」「按察使鎮守将軍」にその痕跡がうかがわれますが、これは701年以後に発生した日本国と蝦夷国との戦争により、「東山道」にはそうした「方面軍」名称が存続したのでしょう。(つづく)


第2007話 2019/10/07

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(2)

 古代の東北地方を代表する石碑として、多賀城碑(宮城県多賀城市)と日本中央碑(青森県東北町)は有名です。中でも多賀城碑には「天平寶字六年十二月一日」(762年)と造碑年が記されており、大和朝廷による蝦夷國征討に関わる石碑であることが推定されます。その碑文中に「東山道節度使」「按察使鎮守将軍」という官職名が見え、大和朝廷が東山道を北上して蝦夷征討将軍(大野朝臣東人、藤原恵美朝獦)を派遣したと思われます。

【多賀城碑碑文】
西

多賀城
 去京一千五百里
 去蝦夷國界一百廿里
 去常陸國界四百十二里
 去下野國界二百七十四里
 去靺鞨國界三千里
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日

 このことから、大和朝廷の時代ではありますが、「東山道」の最終目的地は蝦夷國だったのではないかと推定できます。なぜなら、蝦夷国内の官道は蝦夷国により造成され、命名されていたはずですから、大和朝廷あるいは九州王朝が自らの官道を「東山道」と命名できるのは蝦夷國の地までと考えざるを得ないからです。
 この理解からすれば「東海道」も同様で、海岸沿いや海上に造営・設定された「東海道」も、「東山道」と同方向の「東」を冠していることから、最終目的地は共に蝦夷國となります。すなわち、倭国(九州王朝)や日本国(大和朝廷)にとって、「東」に位置する大国(隣国)である蝦夷國へ向かう官道として「東山道」「東海道」が造営され、それぞれの方面軍司令官として「都督」「節度使」「按察使鎮守将軍」が任命されたのではないでしょうか。
 以上の理解を更に敷衍すると、本シリーズのテーマである「北海道」や「北陸道」も同様に「北」に位置する大国への「道」と考えなければなりません。その「北」の大国とはいずれの国でしょうか。(つづく)


第2006話 2019/10/06

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(1)

 「洛中洛外日記」2002話(2019/09/28)〝九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(6)〟で、山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の「『東山道十五國』の比定 ー西村論文『五畿七道の謎』の例証ー」(『発見された倭京 ー太宰府都城と官道ー』古田史学の会編・明石書店、2018年)を紹介したところ、わたしのFACEBOOKに読者のKさんから意表を突いたコメント(質問)が寄せられました。そして、その質問から〝古代官道〟について、想像もしなかった壮大な仮説が生まれたのです。
 多元史観(古田史学)に基づく九州王朝(倭国)の古代官道に関する画期をなした研究(問題提起)として、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の論稿「五畿七道の謎」(『発見された倭京 ー太宰府都城と官道ー』収録)があります。その西村説によれば、九州王朝の「北陸道」を今の「山陰道+北陸道」のこととされ、同じく「北海道」を太宰府を起点とした壱岐・対馬から朝鮮半島に向かう海上の道とされました。わたしもこの西村説を支持しており、そのことを示す地図をFACEBOOKで紹介したのですが、それを読まれたKさんから、太宰府から東に向かって伸びている道を「北陸道」とすることに対して疑問が寄せられたのです。
 確かにこの疑問には一理あります。日本列島は太宰府から東北方向に伸びており、それに沿って「東海道」「東山道」があります。それらと並行して山陰地方を東に向かう「道」を「北陸道」とするのはいかにも不自然です。「東海道」「東山道」と同じように「東○道」と命名してほしいところです。しかし、「海」と「山」以外の適切な名称(字)が思い当たりません。この「山陰道+北陸道」の「道」の名称が「北陸道」でなければ、九州王朝は何と呼んでいたのだろうかと、この数日間、考え続けてきました。そのようなとき、わたしの脳裏に浮かんだのが多賀城碑の碑文でした。(つづく)


第1985話 2019/09/08

難波宮出土「戊申年」木簡と九州王朝(2)

 前期難波宮の北西の谷から出土した「戊申年」木簡(648年)の文字の字形も特徴的で注目されてきました。『大阪城址Ⅱ 大阪城跡発掘調査報告書Ⅱ』(2002年、大阪府文化財調査研究センター)の解説でも指摘されていますが、特に「戊」の字体は「代」の字形に近く、七世紀前半に遡る古い字体であるとされています。たとえば、法隆寺の釈迦如来及脇侍像光背銘にある「戊子年」(628年)の「戊」と共通する字形とされています。

 「年」の字形も上半分に「上」、下半分に「丰」を書く字体で、木簡では九州年号「白雉元年壬子」の痕跡を示す芦屋市三条九ノ坪遺跡出土「元壬子年」(652年)木簡の「年」と同じです。金石文では野中寺の彌勒菩薩像台座に掘られた「丙寅年」の「年」と同じです。

 九州年号(白雉)「元壬子年」木簡と「戊申年」木簡の「年」の字体が共通していることは興味深いことです。また、「中宮天皇」銘を持つ野中寺の彌勒菩薩像は、九州王朝の「中宮天皇」(筑紫君薩野馬の皇后か)の為に造られたものではないかとわたしは推測しています。

 以上のように、九州王朝の複都・前期難波宮から出土した「戊申年」木簡が、九州年号(白雉)「元壬子年」木簡と同類の〝上部空白型干支木簡〟であり、「年」の字体も一致していることは、「戊申年」木簡と九州王朝との関係をうかがわせるものと思われるのです。

 なお付言しますと、九州年号史料として著名な『伊予三島縁起』には、「孝徳天皇のとき番匠の初め」という記事の直後に「常色二年戊申、日本国を巡礼したまう」と記されています。おそらくは前期難波宮を造営するために各地から宮大工らが集められたのが「番匠」の「初」とする記事や九州年号の常色二戊申年(648年)に巡礼するという記事と、前期難波宮から出土した「戊申年」木簡との年次の一致は偶然ではなく、何らかの関係があったのではないでしょうか。「戊申年」木簡に記された他の文字の研究により、何か判明するかもしれません。今後の研究課題です。


第1973話 2019/08/26

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(7)

 飛鳥の石神遺跡から大量出土(約三千点)した木簡に「大学官(だいがくのつかさ)」「勢岐官(せきのつかさ)」「道官(みちのつかさ)」と記されたものがあり、この「○○官」という官職名は7世紀後半頃の律令官制のものと考えられますが、この官職名「○○官」について、詳述します。

 わたしは「○○官」という官職名は九州王朝律令官制によるものと考えています。そのことについて、「洛中洛外日記」100話で論じています。当該部分を転載します。

【以下、転載】
古賀事務局長の洛中洛外日記
第100話 2006/09/30
九州王朝の「官」制

 第97話「九州王朝の部民制」で紹介しました、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」について、もう少し考察してみたいと思います。
古田先生が『古代は輝いていたⅢ-法隆寺の中の九州王朝-』(朝日新聞社)で指摘されていたことですが、法隆寺釈迦三尊像光背銘中の「止利仏師」の「止利」を、「しり」(尻)あるいは「とまり」(泊)と読むべきであり(通説では「とり」)、地域名あるいは官職名であるとされました。後に、同釈迦三尊像台座より「尻官」という墨書が発見され、この古田先生の指摘が正鵠を射ていたことが明らかになるのですが(『古代史をゆるがす真実への7つの鍵』原書房 参照)、尻官が九州王朝の官職名であり、「尻」が井尻などの地名に関連するとすれば、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」の「見乃官」も地名に基づく官職名と考えられます。そうすると、九州王朝は6〜7世紀にかけて「○○官」という官制を有していた可能性が大です。

 このように「尻」や「見乃」部分が地名だとすると、第97話で述べましたように、久留米市の水縄連山や地名の耳納(みのう)との関係が注目されるでしょう。この「地名+官」という制度は九州王朝の「官」制、という視点で『日本書紀』や木簡・金石文を再検討してみれば、何か面白いことが再発見できるのではないでしょうか。これからの研究テーマです。(後略)
【転載、終わり】

 『威奈大村骨蔵器』銘文によれば、「大宝元年を以て律令はじめて定まる」とあり、それ以前の律令は近畿天皇家が定めたものではないことになります。同時代金石文であるこの骨蔵器銘文の証言は重要です。従って、7世紀以前の「○○官」という官職名は九州王朝律令によるものと考えざるを得ません。
このような論理展開により、飛鳥の石神遺跡から出土した「大学官」「勢岐官」「道官」、そして「釆女氏塋域碑」(拓本)の「飛鳥浄原大朝庭大弁官」という官職名は、九州王朝律令によるものを飛鳥の天武天皇らは〝借用〟、あるいはそのまま〝転用〟したのかもしれない、という可能性を想定しなければなりません。更に考えれば、九州王朝の天子の命を受けたという形式にして、自らの臣下にこうした官職名を授与したということも検討する必要があります。(つづく)


第1972話 2019/08/24

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(6)

多元史観・九州王朝説による筑紫「飛鳥」説として、新・古田説(小郡「飛島」説)が出され、その弱点を補うべく正木さんが広域筑紫「飛鳥」説(小郡・朝倉・久留米)を出され、「律令制宮都の論理」というロジックと「飛鳥浄御原令」を根拠に服部さんが太宰府「飛鳥」説を出されました。次に、通説の大和「飛鳥」説の根拠(エビデンス)と論理構造(ロジック)について、その要点を紹介します。

一元史観の大和「飛鳥」説は一言で言えば〝『日本書紀』の記事と考古学的出土事実、現地地名などが対応している〟という論理構造により成立しています。このロジックは単純で平明なだけに、否定しがたい説得力を有しています。それは次のようなものです。

①奈良県明日香村に七世紀後半頃の宮殿遺構が重層的に出土している。
②それら遺構の年代は出土土器や干支木簡などにより、比較的安定して編年が成立している。
③字地名「飛鳥」にある飛鳥池遺跡等から出土した七世紀後半頃の木簡の内容が『日本書紀』の記事と対応している。たとえば「飛鳥寺」「天皇」「○○皇子」など、多数。
④飛鳥寺のすぐ北西にある石神遺跡からは藤原宮の官衙域と状況が似た建物群が出土しており、同遺跡北方域から大量に(約三千点)出土した木簡に「大学官(だいがくのつかさ)」「勢岐官(せきのつかさ)」「道官(みちのつかさ)」と記されたものもあり、当地に官衙が存在したと考えられている。
⑤この「○○官」という官職名は七世紀の律令官制のものと考えられ、近畿から出土した同じく七世紀後半の金石文「釆女氏塋域碑」(拓本)に見える「飛鳥浄原大朝庭大弁官」とも対応している。

この他にも多くの論点がありますが、『日本書紀』の史料事実や考古学的出土事実の存在そのものは否定できませんし、両者の対応も複雑な解釈や屁理屈によるものではなく、単純・平明な対応に基づいています。従って、上記のロジックは強力で説得力があります。先に紹介した筑紫「飛鳥」説が九州王朝論を基盤としたやや複雑なロジックにより成立していることと比較すれば、確かなエビデンスにも支えられている大和「飛鳥」説のほうが分かりやすいことは明白です。

この大和「飛鳥」説をよく理解し、これら一元史観のエビデンスとロジックを軽視することなく、古田学派九州王朝説論者は自説を構築しなければならないのです。無視したり、解釈だけで逃げてはなりません。(つづく)


第1958話 2019/08/07

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(8)

 本シリーズにおいて、「千仏多宝塔銅板」や「小野毛人墓誌」の年次表記に九州年号が使用されていないことに留意が必要と、わたしは指摘しました。「釆女氏榮域碑」にも九州年号は使用されていません。これらの金石文の史料性格と九州王朝律令における年号使用規定について少し論じておきたいと思います。
 『東京古田会ニュース』No.184(2019.01)に発表した拙論「九州王朝「儀制令」の予察 -九州年号の使用範囲-」において、わたしは九州王朝律令により定められた九州年号の使用範囲について考察しました。たとえば、大和朝廷の『養老律令』儀制令で次のように年号使用が規定されています。

 「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)

 同様の条文が『大宝律令』にもあったと考えられていますが、おそらくは九州王朝律令にもあったのではないでしょうか。九州年号を公布した九州王朝がその年号の使用規定を律令で定めなかったとは考えられないからです。
 公文である戸籍や僧尼の名籍、そして冠位官職の「認定証」などの詔書類には九州年号が記されていたとわたしは考えています。特に庚午年籍のように長期保管を前提とした公文は干支だけでは60年ごとに廻ってくるので、どの時代の「庚午」なのかを特定するためにも年号使用が便利かつ必要です。同様に墓碑や墓誌銘も、没後長期にわたって遺存することを前提としますから、やはり干支だけでは不十分なため、年次特定に便利な年号が使用されたと思われます。そのことについて、先の拙論では次のように述べました。

 〝後代にまで残すことが前提である墓碑銘の没年などについては六十年毎に廻ってくる干支表記だけでは不十分ですから、九州年号の使用が認められたと思われます。その史料根拠として、「白鳳壬申年(六七二)」骨蔵器(江戸時代に博多から出土。その後、紛失)、「大化五子年(六九九)」土器(骨蔵器、個人蔵)、「朱鳥三年(六八八)」鬼室集斯墓碑(滋賀県日野町鬼室集斯神社蔵)があげられます。法隆寺の釈迦三尊像光背銘の「法興元卅一年」もその類いでしょう。
 戸籍や公式の記録文書には九州年号が使用されたのは確実と思います。その根拠は『続日本紀』に記された聖武天皇の詔報とされる次の九州年号記事です。
 「白鳳以来朱雀以前、年代玄遠にして尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一に見名を定めてよりて公験を給へ」(『続日本紀』神亀元年〈七二四〉十月条)
 これは治部省からの僧尼の名籍についての問い合わせへの聖武天皇の回答です。九州年号の白鳳(六六一-六八三年)から朱雀(六八四-六八五年)の時代は昔のことであり、その記録には粗略があるので新たに公験を与えよという「詔報」です。すなわち、九州王朝時代の僧尼の名簿に九州年号の白鳳や朱雀が記されていたことが前提にあって成立する問答です。従って、九州王朝では僧尼の名簿などの公文書(公文)に九州年号が使用されていたことが推察できます。」〟
 (古賀達也「九州王朝『儀制令』の予察 -九州年号の使用範囲-」、『東京古田会ニュース』No.184所収)

 他方、今回紹介した近畿出土・伝来の金石文、特に墓誌(小野毛人墓誌)・墓碑(釆女氏榮域碑)には九州年号が使用されていません。そのため、「小野毛人墓誌」は冒頭に「飛鳥浄御原宮治天下天皇」(天武天皇)と記されていることにより、末尾の年次表記「丁丑年」が天武天皇の六年(677年)であることが墓誌を読む人にも特定できるような構文となっているのです。「釆女氏榮域碑」も同様で、冒頭に「飛鳥浄原大朝廷」とあり、末尾の「己丑年」が持統三年(689年)のことと特定できます。
 もしこれらが九州王朝の臣下の墓誌・墓碑であれば、たとえば「白鳳十七年丁丑」「朱鳥四年己丑」と記すだけで、故人が九州王朝配下の人物であることを示し、それぞれの絶対年次も過不足無く特定できるのです。ところが、九州年号の時代であるにもかかわらず、あえて九州年号を使用せず、「飛鳥浄御原宮治天下天皇」「飛鳥浄原大朝廷」と表記することにより、九州王朝ではなく大和「飛鳥」に君臨した近畿天皇家直属の臣下であることを主張した銘文となっているのです。
 この高官の墓誌・墓碑銘に九州年号が使用されておらず、「飛鳥浄原」という大和「飛鳥」と理解できる地名表記(「飛鳥」地名の遺存や宮殿遺構出土というエビデンスを持つ)が使用されていることに九州王朝説論者は注目すべきです。(つづく)