考古学一覧

第2758話 2022/06/10

鬼ノ城の造営年代と造営尺の謎

 鬼ノ城のビジターセンターで購入した報告書『鬼城山』(注①)を何度も読んでいるのですが、従来の認識ではうまく説明できないことがいくつもありました。その一つが、鬼ノ城の造営年代と造営尺です。わたしはいわゆる神籠石山城の造営年代を多くは七世紀後半と考えてきました。その根拠を「洛中洛外日記」(注②)で次のように説明しました。一部転載します。

【以下、転載】
 古代山城研究に於いて、わたしが最も注目しているのが向井一雄さんの諸研究です。向井さんの著書『よみがえる古代山城』(注③)から関連部分を下記に要約紹介します。

(1) 1990年代に入ると史跡整備のために各地の古代山城で継続的な調査が開始され、新しい遺跡・遺構の発見も相次いだ(注④)。
(2) 鬼ノ城(岡山県総社市)の発掘調査がすすみ、築城年代や城内での活動の様子が明らかになった。土器など500余点の出土遺物は飛鳥Ⅳ~Ⅴ期(7世紀末~8世紀初頭)のもので、大野城などの築城記事より明らかに新しい年代を示している。鬼ノ城からは宝珠つまみを持った「杯G」は出土するが、古墳時代的な古い器形である「杯H」がこれまで出土したことはない。
(3) その後の調査によって、鬼ノ城以外の文献に記録のない山城からも7世紀後半~8世紀初め頃の土器が出土している。
(4) 最近の調査で、鬼ノ城以外の山城からも年代を示す資料が増加してきている。御所ヶ谷城―7世紀第4四半期の須恵器長頸壺と8世紀前半の土師器(行橋市 2006年)、鹿毛馬城―8世紀初めの須恵器水瓶、永納山城―8世紀前半の畿内系土師器と7世紀末~8世紀初頭の須恵器杯蓋などが出土している。
(5) 2010年、永納山城では三年がかりの城内遺構探索の結果、城の東南隅の比較的広い緩やかな谷奥で築造当時の遺構面が発見され、7世紀末から8世紀初めの須恵器などが出土している。
【転載終わり】

 以上の見解は今でも変わっていませんが、鬼ノ城については七世紀前半以前まで遡る可能性も考える必要がありそうです。確かに鬼ノ城から出土した土器は七世紀の第4四半期頃の須恵器杯Bが多く、その期間に鬼ノ城が機能していたことがわかります。
 他方、城内の倉庫跡の柱間距離から、その造営尺が前期難波宮(652年創建)と同じ29.2cm尺が採用されていることから、倉庫群の造営が七世紀中頃まで遡る可能性がありました。更に倉庫群よりも先に造営されたと考えられる外郭(城壁・城門など)の造営尺は更に短い27.3cmの可能性が指摘されており、時代と共に長くなるという尺の一般的変遷を重視するのであれば、外郭の造営は七世紀前半以前まで遡ると考えることもできます。
 この27.3cm尺は鬼ノ城西門の次の柱間距離から導き出されたものです。
 「(西門の)柱間寸法は桁行・梁間とも4.1mが基準とみられ、前面(外側)の中柱二本のみ両端柱筋より0.55m後退している(棟通り柱筋との寸法3.55m)。」『鬼城山』211頁
 この4.1mと3.55mに完数となる一尺の長さを計算すると、27.3cmが得られ、それぞれ15尺と13尺となります。その他の尺では両寸法に完数が得られません。この短い27.3cm尺について『鬼城山』では、北魏の永寧寺九重塔(516年)の使用尺に極めて近いとしています。今のところ、27.3cm尺がいつの時代のものか判断できませんが、鬼ノ城外郭の造営は七世紀前半か場合によっては六世紀まで遡るのかもしれません。(つづく)

(注)
①『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2609話(2021/11/05)〝古代山城発掘調査による造営年代〟
③向井一雄『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』吉川弘文館、2017年。
④播磨城山城(1987年)、屋島城南嶺石塁(1998年)、阿志岐山城(1999年)、唐原山城(1999年)など。


第2756話 2022/06/08

鬼ノ城の列石と積石遺構

 今回の鬼ノ城訪問と『鬼城山』(注①)の読書により、わたしの認識は大きく改まりました。そのことについて紹介します。
 古代山城には朝鮮式山城と神籠石山城とに分けられることが多く、『日本書紀』などに記されているものを朝鮮式山城、文献に見えない山城を神籠石山城とする区別が一般的になりました。また、その特徴から、一段列石が山を取り囲むタイプを神籠石山城、積石で囲むタイプを朝鮮式山城とする場合もありました。近年ではより学術的な呼称として、『日本書紀』天智紀に見える山城を「天智期の古代山城」とする表記も目立ってきました。また、「○○神籠石」をやめて、「○○山城」というように、「山名・地名」+「城」という表記にすべきとする意見も出されています。例えば「阿志岐城」(筑紫野市)のように、旧称の「宮地岳古代山城」に替えて、「地名」+「城」に変更した例もあります(注②)。
 文献に見えない場合は、この表記方法(「山名・地名」+「城」)がよいように思いますが、「鬼ノ城」(きのじょう)のような著名な通称もありますので、とりあえず「鬼ノ城」という表記をわたしは使用しています。他方、行政的な山名は「鬼城山」(きのじょうざん)とされており、遺跡名は「史跡鬼城山」と表記されています。
 これまで、鬼ノ城は一段列石(神籠石タイプ)と積石(朝鮮式山城)の両者が混在したタイプとわたしは認識していたのですが、今回の訪問により、それほど単純なものではないことを知りました。鬼ノ城は一段列石であれ、積石であれ、その上部に版築土塁が築かれています。これらの防塁・防壁(高さ5~6m)により、鬼ノ城は強力な防御施設になっているのです。(つづく)

(注)
①『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
②『阿志岐城跡 阿志岐城跡確認調査報告書(旧称 宮地岳古代山城跡) 筑紫野市文化財調査報告書第92集』筑紫野市教育委員会、2008年。


第2755話 2022/06/07

鬼ノ城を初訪問

 先月、四国ドライブの帰途に、念願だった鬼ノ城(岡山県総社市)を初訪問しました。期待に違わず、九州の大野城や基肄城に並ぶ見事な巨大山城でした。山頂にある鬼ノ城遺跡近くまで道路が舗装されており、クルマで行けたのは有難いことでした。道幅が狭く、対向車があれば離合が難しい所が何カ所もありましたが、幸いにも、すれ違ったのは一台だけで、なんとか無事に往復できました。トヨタのハイブリッドカー、アクア(1500cc)をレンタルしたのですが、車種的にはこのくらいのサイズまでがよいと思います。
 鬼城山上には駐車場と鬼城山ビジターセンターがあり、その展示室は必見です。ガイドブックや報告書も販売されており、中でも『鬼城山』(注①)は研究者には特にお勧めです。拙稿「古代山城研究の最前線 ―前期難波宮と鬼ノ城の設計尺―」(注②)などで紹介した『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書236 史跡鬼城山2』(注③)はweb上で閲覧できますので、こちらと併せて読むことにより、鬼ノ城への理解が深まります。(つづく)

(注)
①『鬼城山 国指定史跡鬼城山環境整備事業報告』岡山県総社市文化振興財団、2011年。
②古賀達也「古代山城研究の最前線 ―前期難波宮と鬼ノ城の設計尺―」『東京古田会ニュース』202号、2022年。
 同「洛中洛外日記」2612話(2021/11/11)〝鬼ノ城、礎石建物造営尺の不思議〟
 同「洛中洛外日記」2613話(2021/11/12)〝鬼ノ城、廃絶時期の真実〟
③『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書236 史跡鬼城山2』岡山県教育委員会、2013年。


第2733話 2022/04/30

高知県四万十市(侏儒国)から弥生の硯が出土

 昨日の「多元の会」リモート発表会では吉村八洲男さん(古田史学の会・会員、上田市)が「『ねずみ・鼠』について」を発表されました。高知県の別役政光さん(古田史学の会・会員、高知市)が初めて参加され、最後にご挨拶をされました。そのとき、高知県から弥生時代の硯(すずり)が発見されたとの報告がありました。わたしからお願いして、別役さんに地元での報道記事をメールで送っていただきました。
 というのも、高知県から弥生時代の硯が出土したと聞いて、これは倭人伝に見える侏儒国(足摺岬方面)での硯使用、すなわち文字が使用されていた痕跡ではないかと考えたからです。そうであれば、古田先生の倭人伝の里程記事解釈(注①)が正しかったことの証明にもなるからです。そこで、送っていただいたデータやweb上の報道を調べたところ、硯出土が確認された県内3箇所の遺跡(注②)の内、最も古いのが四万十市の古津賀遺跡群で、弥生時代中期末から後期初頭にかけての遺跡とされています。古田先生が侏儒国に比定された足摺岬方面(土佐清水市)の北側に四万十市がありますから、位置も時代も倭人伝に記された侏儒国領域と見ることができます。
 同硯発見の詳細な続報と調査報告書の発行が期待されます。

(注)
①古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古津賀遺跡群(四万十市)、祈年遺跡(南国市)、伏原遺跡(香美市)。

【転載】〈読売オンライン 2022/04/27〉
弥生期の硯片発見
弥生時代の硯の一部を示す柳田客員教授(南国市で)
四万十市など3遺跡 県内初
文字が使われた可能性

 四万十市の古津賀遺跡群から、弥生時代中期末から後期初頭にかけてのものとみられる硯(すずり)の一部が出土していたことが確認され、県立埋蔵文化財センター(南国市)と四万十市教育委員会が26日発表した。県内で弥生時代の硯が見つかるのは初めてで、紀元前後に県内に文字を理解できる人がいた可能性を示す。同センターは「この地域の弥生時代像を見直すきっかけになる」としている。(飯田拓)

 古津賀遺跡群の弥生時代の竪穴住居跡から硯の一部が四つ出土した。一つの遺構から見つかった数としては国内最多という。サイズはそれぞれ縦横数センチ程度、厚さ数ミリ~1センチ程度。ほかに祈年遺跡(南国市)の弥生時代の遺構と、伏原遺跡(香美市)の弥生から古墳時代にかけての遺構からも硯の一部が一つずつ出土していた。
 この時代の硯は平たい形をしており、墨をする「陸」と墨汁をためる「海」が分かれた現在の硯とは異なる。硯の上で墨を潰し、水を加えて使っていたとされ、ここ数年は九州北部などで同様の確認例が増加している。政治的な交流や荷札に文字を書く際などに使われたとみられる。
 今回の硯が見つかった三つの遺構の中では、古津賀遺跡群のものが時代的に最も古く、地理的にも九州北部に近いことから、県西部から中部に向けて、少しずつ文字使用が広がった様子も想像できる。他の遺跡や出土品を調べれば、同様の硯が出てくることも考えられるという。
 同センターは2021年11月に弥生時代の硯に関する研修を開催し、専門家として招いた国学院大学の柳田康雄・客員教授が、 砥石(といし)などとして保管していた県内の出土品を分析。今回の六つの出土品は、中央部がわずかにくぼんでいたり、角の部分を滑らかに加工していたり、特有の特徴が見られたことから硯と判断したという。
 現物は28日~5月8日に同センターで展示し、4月29日と5月5日に調査員が説明会を実施する(土曜休館)。また5月10~29日には四万十市郷土博物館に場所を移して展示する(水曜、5月18~20日休館)。問い合わせは同センター(088-864-0671)へ。

【写真】出土した硯。関西例会(2018年3月)で別役さんと。


第2695話 2022/03/06

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (5)

 須恵器セリエーションの分類作業におけるハードル(d)は考古学者でなければ判断を誤りかねないケースで、文献史学の研究者にはかなり難しいものです。

(d) 出土土器型式に地域差や定義の違いがあり、飛鳥編年による型式(須恵器坏H・G・B)と対応が一見して困難なケースがある。その地域差を理解していないと型式の分類を間違ってしまうことがある。

 出土土器型式の地域差や定義の違いにより、分類を間違えそうになったという、わたしの体験を紹介します。「洛中洛外日記」〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(7)〟(注①)で紹介しましたが、牛頸窯跡群の調査報告書『牛頸小田浦窯跡群Ⅱ』(注②)に掲載された須恵器坏に次のような説明があり、わたしは途方に暮れました。

(1) 26頁第16図73・74の須恵器蓋に「つまみ」はないが、説明ではそれらを「坏G」とする。
(2) 37頁第24図83の須恵器蓋にも「つまみ」はないが、説明ではでは「坏B」とする。

 「つまみ」がない須恵器蓋を坏Gや坏Bとする説明をわたしは理解できませんでした。これでは太宰府土器編年の根幹が揺らぎかねませんので、調査報告書を発行した大野城市に上記の点について質問したところ、次の回答が届きました。その要旨を転記します。

【質問1】26頁第16図73・74の「坏G」の認識
 ご指摘のとおり、一般的な「坏G蓋」は「つまみ」を有しており、大野城市でも「かえり」「つまみ」を有す蓋と身のセットを「坏G」と理解しています。
 ところが、本市の牛頸窯跡群では、「かえり」を有すものの「つまみ」を欠く蓋が一定量あり、「つまみ」がないものも含めて「坏G」と表現しています。
【質問2】37頁第24図83の「坏B」の認識
 ご指摘のとおり、一般的な「坏B蓋」には「つまみ」があり、坏身には「足=高台」を有しています。
 「坏G」と同様、牛頸窯跡群では、高台を有する杯身とセットになる蓋で「つまみ」を欠く蓋が一定量あり、「つまみ」がないものも含めて「坏B」と表現しています。
 以上のとおり、牛頸窯跡群では、坏G蓋・坏B蓋につまみを欠くものが一定量存在しております。近畿地域では、つまみを有するものが一般的かと思いますが、この点は地域性が発現しているものと理解できるのかもしれません。

 以上の回答とともに、資料として添付されていた『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ―』(注③)の「例言」には、次の説明がありました。

 「須恵器蓋坏については、奈良文化財研究所が使用している名称坏H(古墳時代通有の合子形蓋坏)、坏G(基本的にはつまみとかえりを持つ蓋と身のセット。ただし牛頸窯跡群産須恵器にはつまみのない蓋もある)、坏B(高台付きの坏)、坏A(無高台の坏)を使用する場合がある。」『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ―』

 すなわち、蓋に「かえり」が付いているものは「つまみ」がなくても坏Gに分類していたのです。おそらく同一遺構から「つまみ」付きの坏G蓋が多数出土し、併出した「つまみ」無しの蓋でも「かえり」があれば、坏Gに見なすということのようです。蓋に「つまみ」がない坏Bも同様です。こうしたことから、調査報告書の須恵器を分類する際は「つまみ」の有無だけでの単純な型式判断で済ませることなく、地域差も考慮しなければならないことを知ったのです。
 以上のことから、太宰府関連遺構出土の須恵器坏セリエーション分類作業は、当地の考古学者の協力を得たり、地域差について教えを請うことから始めなければならないことに気づき、わたしは土器編年研究に一層慎重になりました。他方、土器セリエーションによる相対編年は考古学界の先進的研究者に採用されつつあります。その成果が古田史学・九州王朝説と整合する日が来ることを期待し、わたしたち古田学派研究者による精緻なセリエーションでの土器編年確立が待たれます。(おわり)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2547話(2021/08/22)〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(7)〟
②『牛頸小田浦窯跡群Ⅱ ―79地点の調査― 大野城市文化財調査報告書 73集』大野城市教育委員会、2007年。
③『牛頸窯跡群 ―総括報告書Ⅰ― 大野城市文化財調査報告書 第77集』大野城市教育委員会、2008年。

 


2694話 2022/03/05

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (4)

 須恵器セリエーション分類作業におけるハードルとして次の四点を示しました。

(a) 遺跡調査報告書の刊行が遅れることがあり、考古学関係者は知っている最新データが未発表のケースがある。
(b) 出土土器の破片が小さい場合、型式が判断できないケースが発生する。その数が多量だと、セリエーションの不確定要素が増し、編年誤差が拡大する。
(c) 遺跡調査報告書に掲載された出土土器の写真や断面図が、出土した土器の全てとは限らないケースがある。土器やその破片が大量に出土した場合は尚更で、報告書に全てが収録されることは期待できない。
(d) 出土土器型式に地域差や定義の違いがあり、飛鳥編年による型式(須恵器坏H・G・B)と対応が一見して困難なケースがある。その地域差を理解していないと型式の分類を間違ってしまうことがある。

 まず最初に、(c)についての体験を紹介します。水城の築造時期を探るために考古学エビデンスとできる堤体内からの出土須恵器に注目し、報告書(注①)を精査したところ、東門付近の木樋遺構SX050とその木樋付近SX051から須恵器が出土していました(第5次)。これらの土器は水城堤体内部(基底部)からの出土であり、築造当時までに使用あるいは廃棄されていたものですから、その土器年代以後に水城が築造されたことを意味します。
 『水城跡 下巻』192頁の図面(Fig156)に掲載された須恵器はSX050(坏身1点)とSX051(坏蓋5点、坏身6点、高坏の脚2点)の14点ですが、高坏の2点を除けばいずれも坏Hと呼ばれる型式の須恵器坏です。他方、山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」(注②)では次の説明がなされています。

 「水城跡では水処理を目的とした木製の箱型の暗渠である『木樋』が土塁の下に設置されているが、木樋の設置坑は長さ80㍍にわたって水城を縦断するように土塁の構築中に設定され、土塁の構築とともに埋められていた。5次と62次調査ではこの設置坑(5次SX051)から須恵器坏Ⅳ型式(奈文研坏H)に少量のⅤ型式の坏身(奈文研坏G)と短脚の高坏が一定量出土している。」202頁

 更に「第2表 遺跡出土遺物表」(213頁)中の「水城跡」「5次」「SX050,051」欄の坏Hと坏Gに「○」印があり、同木樋遺構から須恵器坏HとGが出土していることを指示しています。しかし、土器の図面(Fig156)には坏Gが見当たらないので、わたしは困惑しました。しかし、太宰府市教育委員会の考古学者である山村さんが、「設置坑(5次SX051)から須恵器坏Ⅳ型式(奈文研坏H)に少量のⅤ型式の坏身(奈文研坏G)と短脚の高坏が一定量出土している。」と明記していることから、少量の坏Gが伴出していることを疑えません。従って、図面(Fig156)に掲載された14点以外にも須恵器が出土していたと考えざるを得ません。更に、「短脚の高坏が一定量出土」という表記からも、図面(Fig156)に掲載されている2点以外にも「一定量」の高坏が出土したことがうかがえます。
 このことから、水城堤体内(木樋遺構SX051)から出土した須恵器の全てが報告書に掲載されているわけではないことに気づいたのです。ですから、正確な土器セリエーションを確立するためには、報告書に掲載されていない全ての出土須恵器のデータが必要となるわけです。(つづく)

(注)
①『水城跡 下巻』192頁Fig156に掲載されたSX050 SX051 SX135の土器(須恵器坏H、坏G、他)。
②山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。


第2693話 2022/03/03

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (3)

 山村信榮さんが「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」で説明されたように、確実な須恵器セリエーション分類のためには出土土器のサンプル数が重要です。この分類方法そのものはそれほど難解ではないのですが、文献史学の研究者には困難な課題が少なくありません。わたしの経験だけでも次のようなハードルがあり、未だに解決できていない問題もあります。

(a) 遺跡調査報告書の刊行が遅れることがあり、考古学関係者は知っている最新データが未発表のケースがある。
(b) 出土土器の破片が小さい場合、型式が判断できないケースが発生する。その数が多量だと、セリエーションの不確定要素が増し、編年誤差が拡大する。
(c) 遺跡調査報告書に掲載された出土土器の写真や断面図が、出土した土器の全てとは限らないケースがある。土器やその破片が大量に出土した場合は尚更で、報告書に全てが収録されることは期待できない。
(d) 出土土器型式に地域差や定義の違いがあり、飛鳥編年による型式(須恵器杯H・G・B)と対応が一見して困難なケースがある。その地域差を理解していないと型式の分類を間違ってしまうことがある。

 上記の(a)(b)については説明は不要と思いますので、(c)(d)の具体例を紹介します。(つづく)


第2692話 2022/03/02

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (2)

 太宰府関連遺構の全体的な編年を論じた山村信榮さんの「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」(注①)にセリエーションという考古学の専門用語が用いられており、とても興味深い内容でした。出土土器のセリエーションという現象の比較による詳細な太宰府遺構の相対編年がなされており、その説得力を高める工夫がなされています。この山村論文では従来の編年について次のように指摘しています。

 「大宰府の成立を概観する際に重要な時間軸についても解決すべき課題がある。九州における大宰府成立期に係わる考古学的な時間軸は、遺跡から出土する頻度の高い須恵器が用いられてきた。(中略)しかし、型式と期の設定を同一化し、設定した土器型式を、重箱を重ねる方式で時間軸をたてる方式には問題点があり、研究史や新たな編年案についてかつて考察したことがある。また、実年代に関わる諸問題についても指摘した。」199頁

 こうした従来の相対編年方法に替えて、次のようなセリエーションの概念を導入した編年方法を明示しています。

 「本稿においては九州編年における『期』として括られた遺物の一群から一つの典型的な型式を抽出し、型式間には時間の流れに従った量的増減がありながらの共伴を認め、新しい型式の出現をもって期を区切る考え方で時間軸を立てる。」200頁

 そして、六~七世紀の須恵器杯H・G・Bのセリエーション(共伴状況)とその時間帯(フェイズ)を具体的に説明され、各遺構の編年を設定しています。同時にこの編年作業の難しさや限定条件についても触れています。

 「(前略)一つの遺構が存在した厳密な時期を知るためには埋没した環境が知られることや、一定量の同器種複数系統の土器が出土する必要がある。現実的には本論で取り扱う官衙や古代山城の特定の一つの遺構や層から多量の土器が出土するのは稀で、少量の土器が示す時期には不確実性がある。しかし、同じ遺跡が継続して使用され、土壌の堆積や遺構の切りあいが繰り返される場合、少量の土器の出土であっても一定の時間的変遷の傾向は遺物群の前後関係から見て取れる場合が少なくない。遺構が巨大である場合は各地点で出土した少量の遺物が同一性を示すのであれば、一定の幅で遺構の存在した時期を知ることはできる。」200頁

 山村さんはこのように土器のセリエーションによる遺構・層位の存在時期の幅(フェイズ)の判断の可能性について述べられており、いずれも重要な視点が含まれています。具体的には次の視点です。

(1) 少量の土器が示す時期には不確実性がある(注②)。
(2) 同じ遺跡が継続して使用され、土壌の堆積や遺構の切りあいが繰り返される場合、少量の土器の出土でも一定の時間的変遷の傾向は見て取れる場合が少なくない。
(3) 遺構が巨大である場合は各地点で出土した少量の遺物が同一性を示すのであれば、一定の幅で遺構の時期を知ることはできる。

 (2)(3)の視点は、巨大遺構である大野城や水城の編年に活かされており、山村さんは出土須恵器セリエーションに基づいて、両遺構の造営時期などについて、「現状では大野城の築造開始期は『日本書紀』の記述に沿う形で理解しておく。ともあれ、出土した須恵器の土器相が水城と整合的であることを指摘しておきたい。」(203頁)としています。すなわち、両遺構の須恵器セリエーションによる相対編年と暦年とのリンクに『日本書紀』の記事(注③)が採用されていることから、大野城と水城の築造開始時期を七世紀第3四半期と〝現状では理解〟されているようです。
 ちなみに、わたしは水城の完成時期を考古学エビデンスによれば七世紀中葉頃(『日本書紀』天智三年(664)水城築造記事の年代を含む。注④)、大野城はその規模の巨大さから完成は七世紀中葉(注⑤)で、築造開始は七世紀前半まで遡ると考えた方がよいと思っています。(つづく)

(注)
①山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②服部静尚「孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白」、古田史学の会・関西例会、2022年2月。同発表の質疑応答で、セリエーションによる相対編年を行う際の、母集団として必要な出土土器サンプル数についての筆者からの質問に対して、25点との返答がなされた。同研究は古田学派による初めての本格的な須恵器セリエーションの採用であり、注目される。
③『日本書紀』によれば水城の築造記事が天智三年(664)条、大野城の築城記事が天智四年(665)八月条見える。
④古賀達也『洛中洛外日記』2620話(2021/11/24)〝水城築造年代の考古学エビデンス(3)〟において、次のように述べた。同要旨を転載する。
〝水城築造年代のエビデンスとできるのは、堤体内から出土した土器です。堤体内からの出土土器は少数ですが、水城の基底部に埋設した木樋の抜き取り跡から須恵器杯Gが出土しています。他方、水城の上や周囲から出土した主流須恵器が杯Bであることを併せ考えると、水城の築造年代は杯Gが発生した7世紀中葉以降かつ杯B発生よりも前ということができます。具体的年代を推定すれば640~660年頃となり、「7世紀中葉頃」という表現が良い。〟
⑤大野城大宰府口城門から出土したコウヤマキ柱根最外層の年輪年代測定が648年とされており、大野城築造が650年頃まで遡る可能性がある。

 

【写真】大宰府政庁出土土器編年図(参考図です)


第2691話 2022/03/01

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (1)

 太宰府関連遺構の造営年代の研究のため、七世紀の須恵器編年の報告書や論文を読んできました。その中で全体的な編年を論じた山村信榮さんの「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」(注①)に興味深い言葉が用いられていました。それはセリエーションとという考古学の専門用語です。web上の論稿(注②)では次のように説明されています。

 「セリエーションとは、何だろうか?代表的には、以下のような説明がなされている。
 身辺の流行現象を見ればわかるように、モノは突如出現するわけでもないし、それ以前からあった同種のモノに直ちに置き代わるわけでもない。新しいモノは次第にあるいは急速に台頭し、それに合わせて、古いモノは次第に姿を消す。こうしたモノの変遷を視覚的・数量的に示す手法がセリエーションである。アメリカ考古学で開発されたこの方法(後略)」(上原真人 2009 「セリエーションとは何か」『考古学 -その方法と現状-』放送大学教材:129.)

 従来の考古学の土器編年では、ある遺構や層位から出土した主要土器、あるいは最も新しい土器の編年をその遺構・層位の年代とすることが通例でした。しかし、実際は複数の年代の土器が混在しているので、その混在率を数値化して相対編年するという考え方は実に合理的な方法です。
 こうしたセリエーションという考え方や編年方法を、表現は違いますが古田先生は30年ほど前から主張されていました(注③)。そのことを古田先生からお聞きしたのは、わたしの記憶では佐賀県吉野ヶ里から弥生時代の環濠集落が発見されて話題になっていた頃だったと思います。このセリエーションという概念はとても重要ですから、わたしも前期難波宮に関する論稿(注④)で触れたことがあります。(つづく)

(注)
①山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②「第2考古学」セリエーション[総論] https://2nd-archaeology.blog.ss-blog.jp/
③古賀達也「洛中洛外日記【号外】」(2017/04/08)〝古田先生の土器編年の方法〟
【以下、転載】
 近年、わたしは考古学土器編年について勉強を進めてきました。その結果、土器の相対編年は研究者によってずれが見られるものの、比較的信頼できるのではないかと考えるようになりました。従来、古田学派の研究者は土器の相対編年は近畿を古く見て、筑紫は新しくする傾向にあり、信頼できないとする見解が多数だったのです。時には100年以上のずれが発生しているとする見解さえありました。わたし自身も永くそのように捉えてきました。
 しかし、考古学者も一元史観に基づいているとはいえ、それなりの出土事実に基づいて編年されているのですから、彼らがどのような論理性により土器の相対編年や暦年とのリンクを組み立てているのだろうかと、先入観を排して発掘調査報告書を見てきたのですが、特に大阪歴博の考古学者による難波編年がかなり正確で、文献史学との整合性もかなりとれていることがわかったのです。
 そして近年は筑紫の土器編年について考古学者の論稿を精査してきたのですが、これもまたそれほど不自然ではないことがわかりました。現時点でのわたしの理解では、北部九州では20~30年ほどのずれをがあるのではないかと考えていますが、土器の1様式の流行期間が従来の25年ほどとする理解よりも長いとする見解が出されていることもあって、編年観そのものは比較的正確ではないかと感じています。
 わたしは土器の相対編年の方法について、20年以上前に古田先生から次のようなお話をうかがったことがあります。それは、遺構から複数の様式の土器が出土したとき、その中の最も新しい土器の年代をその遺構の年代としてきた当時の編年方法に対して、複数の様式の土器が出土した場合は各様式の土器の割合で遺構ごとの相対編年を比較すべきという考え方でした。自然科学の「正規分布」の考え方を土器の相対編年においても援用する考え方で、現在の考古学ではこの考えが受け入れられています。古田先生の先見性を示す事例といえます。
 わたしはこうした古田先生の先進的な土器相対編年の考え方を知っていましたので、ある遺構から新しい様式の土器が少数出現したからといって、その新しい様式が流行した年代をその遺構の年代とするのは学問的には誤りと考えていました。ですから、前期難波宮九州王朝副都説への批判として、その整地層から極めて少数の須恵器坏Bが出土することを理由に、前期難波宮造営年代を須恵器坏Bが流行した天武期とする論者があったのですが、その学問の方法は誤りであると反論してきました。
 考えてもみてください。ある土器様式が発生したとたん、それまでの土器様式が無くなって新様式の土器だけが出土することなど絶対にありえません。土器様式の変遷というものは、発生段階は少数でそれ以前の土器に混ざって出土し、流行に伴って多数を占め、その後は新たに発生した新新様式の土器と共存しながら、やがては出土しなくなるという変遷をたどるものです。これは自然科学では極めて常識的な考え方(正規分布)です。近年ではこの考え方をとる考古学者が増えているようで、ようやく古田先生の見解が考古学界でも常識となったようです。
【転載おわり】
 ここでは、前期難波宮の整地層から極めて少数の須恵器坏Bが出土したと書いたが、後にそれは不正確な情報に基づいていたことに気づいた。現在では前期難波宮整地層からは須恵器杯Bは出土していないと理解している。次の拙論を参照されたい。
 古賀達也「前期難波宮『天武朝造営』説の虚構」―整地層出土「坏B」の真相―」『古田史学会報』151号、2019年4月。
「続・前期難波宮の学習」『古田史学会報』114号、2013年2月。


第2686話 2022/02/19

七世紀の須恵器「服部編年」

 本日はドーンセンターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月、3月19日(土)はアネックスパル法円坂で開催します(参加費1,000円)。
 今回の例会で見事だったのが服部静尚さんによる、飛鳥・難波・河内の七世紀の須恵器編年「服部編年」の発表でした。当研究は昨年12月に開催された大阪歴史学会考古学部会で発表されたもので、概要については同月の関西例会でも報告されましたが、今回は諸遺跡の新編年を提示・詳述されました。
 まず、服部さんは飛鳥と難波・河内の須恵器編年において、次の三点の基準を示されました。

1. 飛鳥と難波・河内は文化的に一体とみなし、これらを包含する基準とする。飛鳥編年に難波宮・狭山池を加える。
2. 各編年は須恵器「杯」に集約されると見られる。これに焦点を合わせた基準とする。杯H・G・Bの数量比率を中心に。
3. 考古学の所見を編年基準にする。年輪年代・干支年木簡を編年基準に。

 この三基準により各遺跡を編年すると、『日本書紀』の記事に基づいた従来の飛鳥編年とは全く異なる年代観が現れました。この新たな「服部編年」は基準が合理的で、杯H・G・Bの出土数量比率を中心に編年するという方法が簡明であり、その論理構造は強固(robust)です。論文発表が待たれます。

 発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔2月度関西例会の内容〕
①胡床と朝床とあぐらをかく埴輪 (大山崎町・大原重雄)
②乙巳の変と九州王朝の関係についての一考察 (茨木市・満田正賢)
③孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白 (八尾市・服部静尚)

(参考)
孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白@服部静尚@20220219@ドーンセンター@古田史学の会@29:01@DSCN0458
孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白@服部静尚@20220219@ドーンセンター@古田史学の会@12:41@DSCN0461
孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白@服部静尚@20220219@ドーンセンター@古田史学の会@09:58@DSCN0463
孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白@服部静尚@20220219@ドーンセンター@古田史学の会@06:32@DSCN0464

④アサクラの語源について (東大阪市・萩野秀公)
⑤長田王の「伊勢娘子の歌」は隼人討伐時に糸島でよまれた歌 (川西市・正木 裕)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
 03/19(土) 10:00~17:00 会場:アネックスパル法円坂
 04/16(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター

 


第2668話 2022/01/25

政庁Ⅰ期時代の太宰府の痕跡 (1)

 太宰府の高級官僚、筑紫史益(つくしのふひと まさる)について紹介しましたが(注①)、『日本書紀』持統天皇五年正月条(注②)によれば、その29年前の662年(白鳳二年)に筑紫大宰府典を拝命したとありますから、大宰府政庁Ⅰ期からⅡ期にかけての時代の官僚であることがわかります。
 大宰府政庁遺構は三期に大別され、掘立柱建物のⅠ期、その上層にある朝堂院様式の礎石建物のⅡ期、Ⅱ期が焼失した後にその上に建造された同規模の朝堂院様式礎石建物のⅢ期です。現在、地表にある礎石はⅢ期のものです。通説ではⅠ期の造営年代は七世紀末頃、Ⅱ期は八世紀初頭とされています。しかし、わたしの研究では大宰府政庁Ⅰ期の時代は七世紀中葉頃で、Ⅱ期の造営は観世音寺の創建(白鳳十年、670年)と同時期と思われます(注③)。そこで、政庁Ⅰ期の太宰府の考古学的痕跡について調査し、その実態について考察してみます。
 井上信正さん(太宰府市教育委員会)の研究(注④)によれば、太宰府条坊と政庁Ⅰ期の造営は同時期とされており、その時代の中心地は右郭12条4坊付近に位置する王城神社(小字「扇屋敷」)がある通古賀(とおのこが)地区とされています。同地区からは七世紀の土器の出土があり、条坊内では比較的古い土器とのことです。従って、朝堂院様式の政庁Ⅱ期の宮殿ができる前は通古賀に王宮があった可能性が大です。この他に政庁Ⅰ期当時の木簡が多数出土する場所があります。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2667話(2022/01/23)〝太宰府(倭京)の高級官僚、筑紫史益〟
②「詔して曰わく、直広肆筑紫史益、筑紫大宰府典に拝されしより以来、今に二十九年。清白き忠誠を以て、あえて怠惰まず。是の故に、食封五十戸・絁十五匹・綿二十五屯・布五十端・稲五千束を賜う」『日本書紀』持統天皇五年(691年)正月条
③古賀達也「洛中洛外日記」2632話(2021/12/10)〝大宰府政庁Ⅰ期の土器と造営尺(1)〟
④井上信正「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市の研究十七号』二〇〇一年。
 同「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』五八八、二〇〇九年。
 同「大宰府条坊研究の現状」『大宰府条坊跡 四四』太宰府市教育委員会、二〇一四年。
 同「大宰府条坊論」『大宰府の研究』大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会、高志書院、二〇一八年。


第2658話 2022/01/10

大宰府政庁造営尺と唐開元大尺

 大宰府政庁正殿などの造営基準尺は29.4cmであり、晋後尺(24.50㎝)の1.2倍であることから、「南朝大尺」と仮称したのですが(注①)、この29.4cmと同じ長さの「唐玄宗開元大尺」があることを山田春廣氏がブログ(注②)で紹介されていました。そこで、先日のリモートでの勉強会のおり、山田さんにその詳細を教えていただきました。
 「唐玄宗開元大尺」とは唐の玄宗皇帝が開元年間(713年~741年)に『開元令』で定めた尺とされており、鉄製のモノサシが現存しているとのことでした。鉄製ですから木製や骨製よりも経年劣化や乾燥などによる収縮もはるかに少ないはずですから、1尺29.4cmという数値は信頼性が高いと思われます。また、開元年間(713年~741年)になって初めて作られた尺ではなく、隋・唐代において複数あった尺の中から、より広く採用されていたものを基準尺として公認したのではないかとのことでした。
 そうであれば、大宰府政庁造営基準尺として九州王朝(倭国)で採用されていた「南朝大尺」と同じものが中国でも使用されていたことになります。太宰府政庁Ⅱ期の造営年代を七世紀の第Ⅲ四半期頃とわたしは考えていますので、時代的にも対応しているようです。これは偶然の一致とするよりも、七世紀における両国の交流が度量衡にも及んでいたためと考えるべきではないでしょうか。もしそうであれば、短里(1里約77m)を採用していたと思われる九州王朝の公認里単位への影響も考える必要があるかもしれません。山田さんのご教示に感謝いたします。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2636~2641話(2021/12/14~20)〝大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(1)~(4)〟
②山田春廣「sanmaoの暦歴徒然草」(2021年12月22日)〝実在した「南朝大尺」 ―唐「開元大尺」は何cmか― 〟に次の記事が収録されている。以下、転載する。
【転載】
 先の記事「1.2倍尺」の出現する理由―十二進法の影響か―2021年12月20日(月)で藤田元春「尺度の研究」(PDF)に載っていた「1.2倍尺」が出現するのは「十二進法」が影響したとする説を紹介しました。そこに挙げられていた「開元尺」は、唐の玄宗皇帝が開元年間(713年~741年)に『開元令』で定めたとされているものです。
 文化遺産オンラインを調べていたら、面白いモノサシを見つけました(リンクを貼ってあります)。単位はセンチメートルです。

唐小尺 金工 長さ24.3 幅1.5 厚さ0.25 1本
唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5 幅1.9 厚さ0.5 1本
唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4 幅1.9 厚さ0.5 1本

 何が「面白い」のかといえば、文化遺産オンラインに載っている「唐小尺 金工 長さ24.3(cm)」というのは、魏の「正始弩尺(24.30㎝)」であり、同じく「唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5(cm)」というのは、「晋後尺(24.50㎝)」であり、「唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4(cm)」というのは、古賀達也の洛中洛外日記 第2638話 2021/12/16 大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(3)で古賀さんが指摘している大宰府政庁Ⅱ期の「正殿」「後殿」で用いられている「南朝大尺(29.4㎝)」と完全に一致しているのです。
 唐の李淵が隋を滅ぼして支那大陸を統一(618年)してから開元元年(713年)まで凡そ百年経過しているにも関わらず、江南を中心に「魏・正始弩尺(24.30㎝)」「晋後尺(24.50㎝)」さらに「南朝大尺(29.4㎝)」=「晋後尺(24.50㎝)の1.2倍尺)」が用い続けられていたため、玄宗皇帝は「唐小尺(24.3㎝)」「開元小尺(24.5㎝)」「開元大尺(29.4㎝)」を定めて度量衡の統一を図ったのではないかと思われます。