考古学一覧

第2655話 2022/01/05

蝦夷国から出土した銅鏡

 この正月三が日、わたしは自らの講演YouTube動画(注①)を見ました。自分の動画は恥ずかしいので今までほとんど見ることはありませんでしたが、「古田史学の会」ホームページ担当の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人)が「新・古代学の扉」トップ画面をリニューアルされたので、この機会にチェックすることにしたものです。
 その動画は「古代官道の不思議発見」というテーマの講演で、こうやの宮(注②)の御神像の一つが蝦夷国からの使者であり、その使者が鏡を持っていることから、蝦夷国は未開の蛮族などではないと説明しました(注③)。古代日本では鏡は太陽信仰のシンボルですから、蝦夷国は倭国の文化や技術を積極的に受容したのではないでしょうか。九州王朝(倭国)が中国や朝鮮半島の先進技術・文明を受け入れたようにです。この仮説を証明するような遺構・遺物が出土しています。
 2015年、宮城県栗原市の入の沢遺跡で驚きの発見がありました。同遺跡は深い溝を巡らせた四世紀の大集落跡で、その住居跡から銅鏡4枚が出土しました。自然の傾斜などを利用した北東―南西約125m、北西―南東約70mの集落域を柵のような塀跡と大溝跡が並行して取り囲んでおり、塀は溝状に掘った穴に材木を10~30cmの間隔でびっしりと立ち並べていたとみられています。見つかった銅鏡4枚はすべて小型の国内製で、珠文鏡2枚、内行花文鏡(破鏡)と重圏文鏡が1枚ずつ。古墳時代前期としては最北の発見です。鏡以外にも鉄製品が30点、勾玉や管玉、ガラス玉も出土しています。
 この入の沢遺跡は大和朝廷の勢力が居住した防御施設とされており、蝦夷国のものとはされていません。確かに出土品を見るかぎり、倭国の文化と思わざるを得ませんが、四世紀の宮城県北部の住居跡から銅鏡が出土したことは、蝦夷国の地に銅鏡などの倭国の文物が入っていたことを示し、蝦夷国からの九州王朝への使者が鏡を持っていたとしても不思議ではないように思います。従って、こうやの宮の鏡を持つ御神像を蝦夷国からの使者とした拙論は穏当な解釈であり、御神像は歴史事実を反映していたことになるわけです。蝦夷国の実像や九州王朝との関係についての再検討が必要です(注④)。

(注)
①市民古代史の会・京都(代表:山口哲也氏)主催講演会(2021年11月23日、キャンパスプラザ京都)での講演「古代官道の不思議発見」。
https://youtu.be/rWYLT9Rvq4g
https://youtu.be/Hoo-zMsWXMU
https://youtu.be/kFagnmfvpCg
https://youtu.be/N1QG9dGjRP4
https://youtu.be/GVK2njzIRqA
②福岡県みやま市瀬高町太神にある小祠。五体の御神像があり、中央の一回り大きい主神は高良玉垂命。
③古賀達也「九州王朝官道の終着点 ―山道と海道の論理―」『卑彌呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)明石書店、2021年。
④「洛中洛外日記」1011話(2015/08/01)〝宮城県栗原市・入の沢遺跡と九州王朝〟では「この時代の九州王朝系勢力の北上が新潟県や宮城県付近にまで及んでいたと考えざるを得ないようです」と捉えていた。その後、「洛中洛外日記」2381~2397話(2021/02/15~03/02)〝「蝦夷国」を考究する(1~12)〟で蝦夷国について考察した。

 


第2654話 2022/01/04

うきは市で双方中円墳を確認

 今年も多くの方々から年始のご挨拶が届きました。ありがとうございます。久留米市の菊池哲子さんからは、とても興味深い情報が寄せられましたので紹介させていただきます。
 いただいたメールによれば、昨年末、うきは市から全国でも珍しい双方中円墳が発見されたとのこと。12月29日付の西日本新聞(本稿末にWEB版を転載)によれば、うきは市の西ノ城(にしのしろ)古墳を調査したところ、全国でも4例ほどしか発見されていない双方中円墳であることが確認され、双方中円墳としては最も古い三世紀後半の築造と推定されています。菊池さんは他地域の双方中円墳の原型ではないかとされ、貴重な発見と思われました。
 双方中円墳について急ぎ調べたところ、西ノ城古墳を含め次の5例が知られています。築造年代順に並べます。

名称    所在地     築造年代  墳丘全長
西ノ城古墳 福岡県うきは市 三世紀後半 約50m
猫塚古墳  香川県高松市  四世紀前半 約96m(積石塚)
鏡塚古墳  同県高松市   四世紀前半 約70m(積石塚)
稲荷山北端1号墳 同県高松市 四世紀前半 不明(円丘部径約28m、南側方丘部長約20m)
櫛山古墳  奈良県天理市  四世紀   152m
明合古墳  三重県津市   五世紀前半 約81m
               ※ウィキペディアなどによる。

 西日本新聞に掲載された桃崎祐輔さんの見解では、大和朝廷一元史観の通説に基づいて「初期大和政権や瀬戸内の勢力は大分沿岸から日田盆地、筑後川を通って有明海へと抜けるルートを重視した」とされており、九州大学の西谷正さんは「大和政権が全国を支配していく中で、うきは地域の豪族も影響を受けたのだろう」と解釈されています。しかし、上記のように築造年代は、九州から四国へ、そして近畿・東海へと伝播していることを示唆していますし、分布数を重視すれば、高松から九州や近畿に伝播したと考えることもできそうです。少なくとも上記の考古学的事実が、〝大和から瀬戸内海地方を通って大分⇒日田⇒うきは〟という伝播の根拠には見えません。大和朝廷一元史観というイデオロギーが先にあって、それに合うように考古学的事実を解釈しているのではないでしょうか。
 今回の発見を機に双方中円墳の発生経緯を考えてみました。通説では弥生時代の双方中円形墳丘墓である楯築墳丘墓(岡山県倉敷市)がその原型として指摘されていますが、わたしは吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓(紀元前一世紀)に注目しています。同墳丘は長方形(南北40m×東西27m)に近い形状と推定されており、複数の甕棺が埋納されています。うきは市の西ノ城古墳も墳丘から複数の埋葬施設が出土しています。他方、倭人伝に記された倭国の女王卑弥呼の墓は「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘步」とあるように、円墳です。このことから、首長を葬る円墳と、複数の人々を埋葬する方形墳丘とが一体化して築造されたものが双方中円墳へと発展したのではないでしょうか。これは一つのアイデア(作業仮説)に過ぎませんが、ここに提起し、引き続き副葬品などの調査検討を行います。
 情報をお寄せいただいた菊池哲子さんに御礼申し上げます。

《西日本新聞WEB版 2021/12/29》
双方中円墳、九州で初確認
福岡・うきは市の西ノ城古墳

 福岡県うきは市で発掘調査中の西ノ城(にしのしろ)古墳が、円形墳丘の両端に方形墳丘が付いた「双方中円墳(そうほうちゅうえんふん)」とみられることが分かった。全国で数例しか確認されておらず、九州では初めて。出土した土器片から古墳時代前期初頭(3世紀後半)の築造と推定され、最古級の双方中円墳という。近畿や山陽の有力勢力と被葬者のつながりが推察され、専門家は当時の中央と地方の関係を知る重要な発見だと指摘する。
 西ノ城古墳は同市浮羽町の耳納(みのう)連山中腹にある。市教育委員会によると、円形墳丘は長径約37メートル、高さ約10メートルで、二つの方形墳丘を合わせた全長は約50メートル。円形墳丘の頂部では、板状の石を組んで造った埋葬施設が2基見つかった。壊された同様の埋葬施設を含めると、5基以上あったとみられ、弥生時代の集団墓の特徴を残す。一帯を治めた豪族と親族、側近らが埋葬されたと考えられるという。
 現場を確認した福岡大の桃崎祐輔教授(考古学)によると、双方中円墳は弥生時代後期の墳丘墓が発展し、4世紀ごろに築造が始まったとされる。確認例は奈良県天理市の櫛山(くしやま)古墳や香川県高松市の猫塚古墳など全国で数例。西ノ城古墳の発見で築造年代がさかのぼる可能性が出てきた。
 双方中円墳の原型とされるのが、弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に築かれた岡山県倉敷市の楯築(たてつき)墳丘墓。西ノ城古墳では「複合口縁壺」と呼ばれる土器の破片が出土し、似た形状の土器が瀬戸内地域や大分に分布するという。
 桃崎教授は「初期大和政権や瀬戸内の勢力は大分沿岸から日田盆地、筑後川を通って有明海へと抜けるルートを重視した」と指摘。西ノ城古墳の集団は、こうした交流の中で双方中円墳を取り入れたと推測する。
 同古墳は2020年、公園整備のための調査で見つかり、斜面を覆う「葺石(ふきいし)」が確認された。うきは市教委は本年度から本格的に発掘調査を開始し、来年度も継続するという。(渋田祐一)

国家の形成過程分かる

 西谷正・九州大名誉教授(考古学)の話 双方中円墳は全国でも確認例が極めて少なく、西ノ城古墳は貴重な発見だ。大和政権が全国を支配していく中で、うきは地域の豪族も影響を受けたのだろう。古代国家の形成過程における中央と地方の関係を知る手掛かりになる。


第2652話 2021/12/30

『多元』No.167に

「太宰府出土須恵器杯と律令官制」掲載

 本日、友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.167が届きました。同号には拙稿「太宰府出土須恵器杯と律令官制 ―九州王朝史と須恵器の進化―」を掲載していただきました。
 同稿は、七世紀後葉の編年基準土器とされている須恵器杯Bの発生が、律令官制とその中央政府の官衙群成立を主要因とするものであり、七世紀中葉頃に太宰府条坊都市で杯Bが最初に本格使用されたとする論理的仮説(注)を提起したものです。この仮説が成立すると、杯Bの編年が四半世紀~半世紀ほど遡ります。令和四年には、その新編年仮説を考古学的出土事実により証明したいと考えています。

(注)須恵器杯Bは蓋に擬宝珠状のつまみがあり、杯身の底部に脚(高台)を持つタイプの土器。九州王朝が律令により全国の評制統治を行うために恐らく数千人におよぶ中央官僚群が太宰府(倭京)や前期難波宮(難波京)で誕生し、卓上で勤務、食事をとるようになり、脚が付いて卓上に安定して置ける杯Bの採用が始まったとする仮説。


第2641話 2021/12/20

大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(4)

 大宰府政庁Ⅲ期と同位置と見られるⅡ期の造営尺に、南朝尺(24.5㎝)の1.2倍に相当する南朝大尺(29.4㎝)と太宰府条坊造営尺(30㎝)の二種類が併用された次の痕跡があります。

○正殿身舎(もや)部分の桁行(5間)・梁行(2間)の全長・柱間距離が南朝大尺。
○後殿の桁行(7間)各柱間距離は南朝大尺、梁行(3間)は条坊尺。基壇南北幅は条坊尺。

 今回、門(北門・中門・南門)と脇殿について調査報告書『大宰府政庁跡』を精査したところ、南門には南朝大尺と条坊尺の併用が見られ、他は条坊尺のみで造営されていました。Ⅲ期南門SB001Aは桁行(5間)・梁行(2間)で、東西棟の礎石造りです。礎石は12個残存し、そのうち7個が原位置を保っており、Ⅱ期も同位置と見られています。柱間は桁行両端各2間が3.825mの等間で、中央間のみ5.70mです。この柱間3.825mは南朝大尺の13尺、中央間5.70mが条坊尺の19尺に相当します。梁行柱間は4.05mの等間で、条坊尺の13.5尺です。
 以上のように、大宰府政庁の中心建物である正殿は桁行・梁行ともに南朝大尺で造営され、その真後ろに並列して位置する後殿は正殿に桁行のみ全長と柱間距離を対応させた南朝大尺です。そして、正殿から南へ心々距離で151mの位置にある南門では、桁行の両端各2間に南朝大尺、中央間に条坊尺が採用されています。異なる二種類の尺を使い分けて造営された大宰府政庁の設計思想解明とその時代背景についての研究を九州王朝説に基づいて進めたいと考えています。


第2639話 2021/12/18

瓦と須恵器編年の「新ものさし」

 本日はi-siteなんばで「古田史学の会」関西例会が開催されました。新年1月15日(土)もi-siteなんばで開催します(参加費1,000円、午後は新春古代史講演会)。
 今回の発表で圧巻だったのが服部さんによる軒丸瓦と須恵器杯の編年研究でした。『日本書紀』の記事に基づいた飛鳥編年に代表される従来の編年に替えて、考古学的出土事実とその理化学的年代測定に準拠した須恵器杯の新編年「新しいものさし」を発表されました。今後も出土資料による修正がなされていくこととは思いますが、七世紀の遺構編年の基礎となる画期的な新編年案と思われました。
 この須恵器杯の〝服部編年〟は、わたしが進めている大宰府政庁の造営尺や古代山城の築城年代研究にも役立つものと注目しています。なお、同研究は12月10日に開催された大阪歴史学会考古学部会にて発表され、そこでも専門の考古学者から評価する意見が出されたとのことです。

 発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔12月度関西例会の内容〕
①盗まれた代表王朝の坐 (東大阪市・萩野秀公)
②斉明天皇の「狂心」 (茨木市・満田正賢)
③天孫降臨と天児屋命と伽耶 (大山崎町・大原重雄)
④瓦と須恵器、3つの提起 (八尾市・服部静尚)
⑤『隋書』に採録されている遣隋使の記事(京都市・岡下英男)
⑥「京師を去る万四千里」とは (姫路市・野田利郎)
⑦六世紀末の九州王朝の東国への進出と支配 (川西市・正木 裕)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
 01/15(土) 10:00~12:00 会場:i-siteなんば
      ※午後は恒例の新春古代史講演会。

◎新春古代史講演会 参加費1,000円 共催:古田史学の会、他
◇日時 1月15日(土) 13時30分から17時まで
◇会場 i-site なんば(大阪府立大学難波サテライト)
◇演題と講師
 「発掘調査成果からみた前期難波宮の歴史的位置づけ」 講師 佐藤隆さん(大阪市教育委員会文化財保護課副主幹)
 「文献学から見た前期難波宮と藤原宮」 講師 正木裕さん(大阪府立大学講師、古田史学の会・事務局長)
◇参加費 1,000円
 ※午前中は古田史学の会・関西例会。


第2638話 2021/12/16

大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(3)

 大宰府政庁Ⅱ期の造営尺が、南朝尺(24.5㎝)の1.2倍に相当する「南朝大尺(仮称)」(29.4㎝)とする仮説の根拠として、正殿身舎(もや)部分の全長や柱間距離を挙げました。次に南朝大尺を採用した痕跡が後殿にもあることを紹介します。
 後殿とは正殿の背後(北側)に並列する東西方向(桁行7間×梁行3間)の礎石造りの建物跡SB1370です。礎石は遺っておらず、礎石の据え付け穴とそこに置かれた根石が五ヶ所で確認されています。同じ位置にあったⅡ期後殿も同規模と見られています(注①)。
 後殿は正殿の真後ろに並行してあり、正殿と後殿の梁行柱列は南北一列に並んでいます。その為、後殿桁行(東西方向7間)の柱間距離は各4.4m強であり、正殿とほぼ同じです。従って、この柱間4.4m強も正殿と同様に「南朝大尺」(29.4㎝)の15尺で造営されていることがわかります。ところが後殿梁行(南北方向3間)の柱間距離は、両脇の1間目と3間目が2.7m、中央の二間目が3.9mです。更に後殿基壇の南北幅は12,9mであり、これらは「南朝大尺」(29.4㎝)で割っても整数が得られません。南朝尺(24.5㎝)でも基壇南北幅では整数が得られません。ところが太宰府条坊造営尺(30㎝、注②)では整数が得られます。次の通りです。

      南朝尺  南朝大尺 条坊尺
      (24.5㎝) (29.4㎝) (30㎝)
桁行柱間  17.96  14.97  14.67
梁行柱間脇 11.02   9.18   9.00
梁行柱間中 15.92  13.27  13.00
基壇南北幅 52.65  43.88  43.00

 このように正殿と同距離の桁行柱間は南朝大尺で15尺、南北方向の梁行柱間二種と基壇南北幅は条坊尺で9尺・13尺・43尺と全てに端数がありません。

      南朝尺  南朝大尺 条坊尺
      (24.5㎝) (29.4㎝) (30㎝)
桁行柱間  18尺   15尺   14.7尺
梁行柱間脇 11尺 9.2尺 9尺
梁行柱間中  16尺 13.3尺 13尺
基壇南北幅  52.7尺 43.9尺 43尺

 このことは大宰府政庁Ⅱ期の後殿が南朝大尺(29.4㎝)と条坊尺(30㎝)を併用して造営されたことを示しています。不思議な現象ではありますが、前期難波宮においても同様に宮殿・西北地区条坊が29.2㎝尺、主要条坊が29.49㎝尺で造営されており、大宰府政庁Ⅱ期でも異なる尺が併用されていたと考えざるを得ません。特に太宰府においては、政庁よりも先に条坊が造営されていますから、後で造営された政庁に条坊尺が併用されたことになります。九州王朝(倭国)では南朝尺から南朝大尺という尺の変遷とは別に条坊尺が成立していたわけですが、こうした現象の発生理由を今のところうまく説明することができません。(つづく)

(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②実測値により、太宰府条坊(一辺90m)の造営尺は29.9~30.0㎝であることが報告されている。井上信正「大宰府条坊論」(『大


第2637話 2021/12/15

大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(2)

 大宰府政庁遺構の調査報告書『大宰府政庁跡』(注①)には「大宰府政庁正殿跡の礎石間距離についての実測調査」(注②)という項目があり、その「調査目的」で次のように説明しています。

 「現在は正殿の建物はない。柱が乗っていたと考えられる礎石があるのみである。
 これらの礎石の位置も最初の礎石の時期から次の立て替え時期における位置を保っているものが多いらしいことが、これまでの発掘調査で判明した。
 立て替え時期においては、動いていないだろうと推測されていた北側の廂(ひさし)部分の側柱礎石も江戸時代において動かされていることが、発掘調査で判明した。
 そうした発掘調査の結果から、立て替え時期において据えられたままと考えられる礎石群は正殿中央部の身舎(もや)部分だろう、ということになる。すなわち、軒行5間梁行2間部分の合計14個の礎石群である。
 そこで、これらの柱間距離を測ることになった。」126頁

 このような判断に基づいて測定されたⅢ期正殿身舎部分の実測値が次のように示されています。

桁行全長 21.999m 梁行全長 6.485m
桁行柱間の平均距離 4.398m  梁行柱間の平均距離 3.241m

 これらの距離を南朝尺(24.5㎝)、前期難波宮造営尺(29.2㎝)、太宰府条坊造営尺(30㎝)などで割ったところ、南朝尺の1.2倍(29.4㎝)が最も整数を得ることがわかりました。当初は前期難波宮造営尺(29.2㎝)での造営ではないかと推測していたのですが、計算すると整数に最も近い値となるのが29.4㎝尺であり、これが偶然にも南朝尺の1.2倍だったのです。次の通りです。

     24.5㎝ 29.2㎝ 29.4㎝ 30㎝
桁行全長 89.79 75.34 74.83 73.33
梁行全長 26.47 22.21 22.06 21.62
桁行柱間 17.95 15.06 14.96 14.66
梁行柱間 13.23 11.10 11.02 10.80

 これらの数値はⅢ期正殿の実測値に基づいていますから、ほぼ同位置だったとされるⅡ期正殿の実態とは若干の誤差があることは避けられません。しかしながら「最初の礎石の時期から次の立て替え時期における位置を保っている」との判断を信頼すれば、南朝尺と同1.2倍尺による各距離は次のようになります。

     南朝尺(24.5㎝) 1.2倍尺(29.4㎝)
桁行全長   90尺     75尺
梁行全長   26.5尺    22尺
桁行柱間   18尺     15尺
梁行柱間   13.25尺    11尺

 両者を比べると、0.5や0.25という端数がでる南朝尺よりも、端数がでない1.2倍尺の方が、設計・造営に採用する尺としては穏当なものと思います。
 この〝1.2倍〟という数値は、いわゆる各時代の小尺と大尺の比率であることから、九州王朝(倭国)は南朝尺(24.5㎝)を採用していた時代と七世紀中頃からの同1.2倍尺(29.4㎝)を採用した時代があったのではないでしょうか。あるいは、南朝尺から同1.1倍尺(法隆寺造営尺)、そして1.2倍尺(大宰府政庁Ⅱ期造営尺)へと変遷したのかもしれません。この変遷は、時代と共に長くなるという尺単位の傾向とも整合しています。この点でも、大宰府政庁における南朝尺採用とした川端説よりも有力な仮説と考える理由です。わたしはこの1.2倍尺を「南朝大尺」あるいは「倭国大尺」と仮称したいと思いますが、いかがでしょうか。より適切な名称があればご提案下さい。
 なお、当仮説でも大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺に先行して造営された太宰府条坊の造営尺(29.9~30.0㎝)の尺単位変遷史における適切な位置づけができません。この点も重要な研究課題です。なお、倭国尺についての山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)による研究(注③)があります。特に次の見解はとても参考になりました。

(ⅰ)南朝尺は晋後尺(24.50㎝)以外にも魏尺・正始弩尺(24.30㎝)がある。
(ⅱ)魏尺・正始弩尺(24.30㎝)の1.2倍は29.16㎝であり、前期難波宮造営尺の29.2㎝に近い。このことから前期難波宮造営尺は魏尺・正始弩尺の1.2倍尺「倭大尺」だったのではないか。

 このように、山田さんの見解は基本的視点が拙稿と共通します。貴重な先行説として紹介させていただきます。(つづく)

(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②山本輝雄「大宰府政庁正殿跡の礎石間距離についての実測調査」『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。

Fig.108 正殿跡の実測基準線と身舎柱間寸法の実測値(1/200)

Fig.108 正殿跡の実測基準線と身舎柱間寸法の実測値(1/200)

③山田春廣氏のブログ「sanmaoの暦歴徒然草」〝度量衡〟https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/cat24082218/index.html


第2636話 2021/12/14

大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(1)

 川端俊一郎さんは著書『法隆寺のものさし』(注①)で、法隆寺以外に大宰府政庁や観世音寺の造営でも南朝尺(1尺=24.5㎝)が採用されているとされました。そこで、大宰府政庁Ⅱ期について報告書(注②)を精査したところ、南朝尺の1.2倍に相当する「南朝大尺」(仮称)とでも称すべき1尺=29.4㎝の尺が採用されている可能性に気づきました。
 大宰府政庁はⅡ期とⅢ期が礎石を持つ朝堂院様式ですが、Ⅱ期が焼失した跡の上層を整地し、Ⅱ期の礎石を上層に再利用しています。そのため、Ⅱ期遺構の規模(柱間距離など)を復原することが困難な状況です。そこで比較的礎石が遺っており、後世での移動がなされていないⅢ期正殿遺構の中心部分(桁行五間と梁行二間の身舎部分)の現存礎石14個を元に柱間距離の測定がなされています。そのⅢ期の礎石はⅡ期礎石の位置を保っていると判断されています。従って、政庁Ⅱ期の造営尺を確かめるためにはⅢ期正殿の中心部分礎石の計測値に依るほかありません。
 川端さんもⅢ期正殿の実測値を政庁Ⅱ期の造営尺推定の根拠に使用されています。この判断は妥当なものですが、採用された実測値が「昭和四三年(一九六八)から行われた大宰府政庁跡の発掘調査」(前掲書50頁)のものとあり、最新の実測値ではありません。川端さんが採用した正殿身舎の桁行全長は、「鏡山の実測値によれば母屋正面五間は二二〇二㎝である。」(同50頁、注③)とあり、最新(2002年の報告書)の実測値では2,199.9㎝であって、極めてわずかですが異なります。そして川端さんは桁行の1間を「十八材」(18南朝尺)とされました。また、奥行き4間の全長を1,299㎝とされ、1間を「十三材と四分の一」(13.25南朝尺)とされました。これを以て南朝尺により整数が得られたとされるのですが、奥行き(梁行)の1間が13.25尺というのでは、整数とするには細かすぎるように思われるのです。(つづく)

(注)
①川端俊一郎『法隆寺のものさし ―隠された王朝交代の謎―』ミネルヴァ書房、2004年。
②『大宰府政庁』九州歴史資料館、2002年。
③鏡山猛『大宰府都城の研究』風間書房、1968年。


第2634話 2021/12/12

大宰府政庁Ⅰ期の土器と造営尺(2)

 三期に大別される大宰府政庁遺構のうち最も早く成立した掘立柱建物のⅠ期の造営尺について報告書(注①)を調べました。結論から言えば南朝尺(1尺=24.5㎝)の痕跡は見つけることはできませんでした。というよりも、柱間距離に統一性が無い遺構が多く、造営尺を判断できるケースは少数でした。しかし、柱間距離が一定のケースの造営尺はほぼ1尺=30㎝であり、太宰府条坊の造営尺29.9~30.0㎝と一致しているようでした(注②)。その具体例を紹介します。

〔SB043〕中門調査区の西南部から検出した政庁Ⅰ期の掘立柱遺構SB043(3間×3間、西側へもう1間分伸びる可能性もある)の東西総長は約6.20mで、柱間は2.10mで等間。南北総長は約6.50mで、柱間は中央間は2.40m、両脇間が2.10m。各柱間を1尺30㎝で割ると整数を得られます。
〔SB120〕同じく正殿SB010の基壇下から検出した掘立柱遺構SB120の桁行の柱間は2.70mで等間、梁行3間が約2.40mで等間です。これも1尺30㎝で割ると整数を得られます。
〔SB360〕同じく北面回廊SC340基壇下層から検出した掘立柱遺構SB360(7間×3間)の桁行総長16.80mで、柱間は2.40m等間。梁行総長は6.50mで、柱間は東から2間は2.40m、西側1間の柱間は1.70mとやや変則的です。西側1間以外はいずれも1尺30㎝で割ると整数を得られます。

 以上の柱間距離が等間の三例では1尺=30㎝の基本単位が採用されていると見られます。従って、最も古い政庁Ⅰ期の掘立柱遺構の造営尺に30㎝尺が採用されていると考えることができ、南朝尺の痕跡を発見できませんでした。こうした遺構の出土状況と土器編年に基づいて、井上信正さんは大宰府政庁Ⅰ期や条坊の造営尺を29.9~30.0㎝とされ、政庁Ⅰ期新段階の年代を七世紀末とされています(注③)。政庁Ⅰ期の造営年代はそれよりも四半世紀ほど遡るとわたしは考えていますが、いずれにしても、それよりも新しい政庁Ⅱ期が南朝尺という古い尺で造営されたとは考えにくいのではないでしょうか。

(注)
①『大宰府政庁』九州歴史資料館、2002年。

Fig.40 掘立柱建物SB360実測図

Fig.40 掘立柱建物SB360実測図
『大宰府政庁』九州歴史資料館、2002年。64頁

②井上信正「大宰府条坊論」『大宰府の研究』大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編、2018年。
③同②。


第2629話 2021/12/06

水城築造年代の考古学エビデンス (7)

 水城第35次調査で、基底部から出土した敷粗朶の炭素年代測定値に200~400年のひらきがあるため、パリノ・サーヴェイ株式会社の報告書(注①)の最後には、「各1点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」とありました。そこで、その後の追加調査報告を探したところ第38次調査報告書(注②)にありました。
 第38次調査で水城から出土した木杭(SX181)の外皮1点を測定する際に、第35次調査で検出した敷粗朶サンプル3点を追加測定したものです。既に測定していたサンプルの測定値も含めて、下記の通りです。

○第35次発掘調査(2001) 東土塁南側下成土塁
 敷粗朶層サンプル中央値 660年(最上層)、430年(坪堀1中層第2層)、240年(坪堀2第2層)
 (第38次調査出土木材測定時に追加測定)
 暦年較正年代(1σ) 粗朶540~600年、葉653~760年、葉658~765年

 このように、追加サンプルの測定値は6世紀から8世紀を示しています。従って、240年や430年を示すサンプルは、「古い時代の流木が積土中に混入した」(注③)と見てよいようです。
 ちなみに、第38次調査で出土した木杭の測定値は8世紀から9世紀を示していることから、水城完成後の修理や補強で使用されたものと思われます(注④)。

○第38次調査(2004) 西門北西平坦面・西土塁丘陵取付部
 暦年較正年代(1σ) 木杭(外皮)777~871年

 更に第40次調査で基底部から出土した木片(敷粗朶)と炭化物の測定も行われており、いずれも7世紀後半から8世紀前半の測定値を示しています(注⑤)。

○第40次調査(2007) 西門木樋吐水部・外濠部
 暦年較正年代(1σ) 敷粗朶木片675~719年(41.7%)・742~769年(26.5%)、炭化物675~718年(42.0%)・743~769年(26.2%)

 以上の様に、水城築造時の考古学エビデンスとなる堤体内出土木材・炭化物の測定値の多くが7世紀後半以降を示しており、土器編年とも整合しています。従って、水城を5世紀「倭の五王」時代の築造とする仮説には、安定したサンプリング条件に基づく確かな考古学エビデンスはなく、成立困難と言わざるを得ません。(おわり)

(注)
①『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年、142頁。②『水城跡 下巻』九州歴史資料館、2009年、327~332頁。
③『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年、135頁。④同②。
⑤同②。


第2627話 2021/12/03

水城築造年代の考古学エビデンス (6)

 水城基底部から出土した厚さ約1.5mの補強層(粗朶と約10cmの土層を交互に敷き詰めた全11層の敷粗朶工法)の築造に240年頃から660年頃まで400年もかけたとは到底考えられないのですが、炭素同位体比年代測定した最上層とその下層の敷粗朶測定値(注①)に200~400年のひらきがあるのはなぜでしょうか。もっとも可能性があるのは「古い時代の流木が積土中に混入した可能性も考えられよう。」(注②)とする見解です。
 現代の考古学出土物の科学的年代測定技術は飛躍的に進歩していますが、他方、サンプルの採取方法が不適切であれば、その遺構の年代とは無関係の測定値が出ることがあり、サンプリングの重要性が指摘されています。たとえば太宰府条坊都市を取り囲む土塁(前畑土塁)から出土した炭化物が土塁の築造年代(七世紀後半)とはかけ離れた弥生時代とする数値(紀元前7世紀から紀元4世紀)が出ています(注③)。この炭化物は土塁築造に使用した盛土に含まれていた古い時代の炭化木材片と考えられています。
 こうした事例が各遺構で見られることもあり、古代山城研究者の向井一雄さんは次のように警鐘を鳴らしています(注④)。

 〝内倉武久は、二〇〇二年に『大(ママ)宰府は日本の首都だった』(ミネルヴァ書房)で、観世音寺に保管されていた水城の木樋や対馬金田城の土塁中の炭化材の炭素年代測定値から「水城の築造は五、六世紀」「(最初の金田城は)六世紀末から七世紀初めごろにかけて築造された」とし、神籠石系山城の朝倉宮防御説も「なんの根拠もない憶測にすぎない」と否定する。山城の築造年代が「謎」のままなのは研究者らが理化学的分析を避けているためだという。金田城では、ビングシ山の掘立柱建物内部の炉跡炭化物や南門から出土した加工材など、考古学的イベントに伴う資料(確実に遺構に伴う炭化物――火焚き痕跡、土器付着の煤、人工的な加工材など)の測定値は六七〇年や六五〇年前後と築城年代と整合している。土中にはさまざまな時代の炭化物が混入しており、イベントに伴わない炭化物を年代測定しても意味がない。〟『よみがえる古代山城』54頁

 「イベントに伴わない炭化物を年代測定しても意味がない。」は、ちょっと言い過ぎと思いますが、理屈としては指摘の通りです。しかし、水城基底部から出土した敷粗朶は水城築造時の敷粗朶工法に使用されたものであり、まさに〝考古学的イベント〟に伴った資料です。その測定値がサンプルによって大きく異なっているのですから、やはり測定を担当したパリノ・サーヴェイ株式会社の報告(注⑤)にあるように、「各1点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」とするのが学問的解決方法と思われます。(つづく)

(注)
①GL-2.0m 中央値660年(最上層)、坪堀1中層第2層 中央値430年、坪堀2第2層 中央値240年。
②『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年、135頁。
③小鹿野亮・海出淳平・柳智子「筑紫野市前畑遺跡の土塁遺構について」『第9回 西海道古代官衙研究会資料集』(西海道古代官衙研究会編、2017年)に前畑遺跡筑紫土塁盛土から出土した次の炭片の炭素同位体比年代測定値が報告されている。「試料こ」cal BC0-cal AD89(弥生時代後期)、「試料い」cal AD238-354(弥生時代終末~古墳時代三~四世紀)、「試料き」cal BC695-540(弥生時代前期)。
④向井一雄『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』吉川弘文館、2017年。
⑤『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。「9 水城第三五次調査(出土粗朶年代測定)」。


第2625話 2021/12/01

水城築造年代の考古学エビデンス (5)

 水城基底部の補強材(11層の敷粗朶工法)として使用された粗朶の炭素同位体比年代測定値が、最上層を中央値660年、中層を中央値430年、最下層を中央値240年とする記事が『古田武彦記念 古代史セミナー2021 研究発表予稿集』(注①)に散見されますが、厚さ約1.5mの補強層(粗朶と約10cmの土層を交互に敷き詰めた全11層の敷粗朶工法)の築造に240年頃から660年頃まで400年もかけたとは到底考えられません。そこで、なぜ最上層と下層の敷粗朶測定値にこれほどのひらきがあるのかを調べるため、調査報告書(注②)を繰り返し精査しました。
 敷粗朶が検出されたのは水城跡第35次調査(2001)のときで、次のようにサンプル名と測定値が報告されています。

(1)GL-2.0m 中央値660年 (最上層)
(2)坪堀1中層第2層 中央値430年
(3)坪堀2第2層 中央値240年

 発見された敷粗朶層はSX172と命名されています。(1)のGL-2.0mとは地表の2m下から出土したことを意味し、11層からなる敷粗朶層の最上層と説明されています。(2)(3)の「坪堀」とは遺跡発掘面の一部分を更に坪のように掘ったもので、(1)とはサンプリング条件が異なります。最上層は発掘地区の広い範囲から検出しており、サンプリング条件としては最も安定しています。しかも最上層ですから、その測定値(中央値660年)は水城基底部の完成時期を表します。
 採取された敷粗朶などのサンプル数は32点とされ、その内の3点が測定されたのですが、その他のサンプル名に「坪堀2粗朶4層」もあることから、(3)の坪堀2第2層は敷粗朶層の最下層ではないようです。従って、(3)を「最下層」とする表記は適切ではありません。
 これら3点の測定値がかけ離れていることについて、報告書でも次の見解が示されており、戸惑っていることがうかがえます。

 「GL-2mの試料は敷粗朶最上層であり、664年の水城築堤記事に最も近い。他の2点は築堤記事から200~400年も遡った数値であり、にわかに信じがたい。この2点は、粗朶層を部分的に掘り下げた坪堀りからの抽出試料であり、A区付近が溜まり地形の上に積土を施している点を考慮すると古い時代の流木が積土中に混入した可能性も考えられよう。」『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』135頁

 他方、測定を担当したパリノ・サーヴェイ株式会社による報告部分には次の見解がみえます。

 「記録では、水城が構築されたのがAD664である。GL-2.0mの暦年代は、構築年代とほぼ一致する。このことから、最上位の粗朶層が水城構築とほぼ同時期であることが推定される。土塁の直下から検出されていることを考慮すると、水城構築直前に使用された可能性がある。一方、坪堀1中層第2層と坪堀2第2層は、水城構築年代よりも300~400年程古い年代を示している。このことから、水城構築以前の300~400年間に粗朶層が作られてことが推定される。しかし、各1点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」同142頁

 発掘に携わった考古学者と科学的年代測定の担当者とで認識の違いがありますが、後者も「今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」と慎重な姿勢を見せています。そして、後に追加測定が実施されます。(つづく)

(注)
①内倉武久「『倭(ヰ)の五王』は太宰府に都していた」『古田武彦記念 古代史セミナー2021 研究発表予稿集』2021年。
 なお、大下隆司「考古出土物から見た「倭の五王」の活躍領域と中枢部」も同様の測定値を記すが、「最下層」ではなく「下の層」という適切な表記となっている。
②『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。「7 水城第三五次調査(東土塁基底面の調査)」「9 水城第三五次調査(出土粗朶年代測定)」。
 『水城跡 上巻・下巻』九州歴史資料館、2009年。