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第1816話 2019/01/03

新年の読書『職業としての学問』(4)

 ソクラテスやプラトンの学問の方法について深く具体的に知りたいと願っていたのですが、マックス・ウェーバーが『職業としての学問』で触れていることに気づきました。次の部分です。

 〝かの『ポリテイア』におけるプラトンの感激は、要するに、当時はじめて学問的認識一般に通用する重要な手段の意義を自覚したことにもとづいている。その手段とは、概念である。それの効果は、すでにソクラテスにおいて発見されていた。(中略)だが、ここでいうその意義の自覚は、ソクラテスのばあいが最初であった。かれにおいてはじめていわば論理の万力(まんりき)によって人を押えつける手段が明らかにされたのであり、ひとたびこれにつかまれると、なんびともこれから脱出するためにはおのれの無智を承認するか、でなければそこに示された真理を唯一のものとして認めざるをえないのである。〟(『職業としての学問』岩波文庫版、37頁)

 ここに記された「学問的認識一般に通用する重要な手段」としての「概念」という表現は難解です。しかし、「いわば論理の万力によって人を押えつける手段」ともあることから、「論理の万力」とは論理による証明、すなわち他者を納得させうる「論証」のことではないかと思います。
 もし、この理解が妥当であればソクラテスやプラトンの学問の方法論とは「論証」に関わることではないでしょうか。そうであれば、村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」という言葉や岡田先生の「論理の導くところに行こうではないか、たとえそれがいずこに到ろうとも」、そして古田先生がよく語っておられた「論証は学問の命」という言葉に示された「論証」、すなわち「論理の力」(論理の万力(まんりき)こそがソクラテスやプラトンの学問の方法論の象徴的表現なのではないでしょうか。
 プラトンが著した『ポリテイア』、すなわち『国家』を新年の読書の一冊に選んだ理由はこのことを確かめることが目的でした。もちろん、まだ結論は出ていません。


第1815話 2019/01/03

新年の読書『職業としての学問』(3)

 古田先生が学問について語られるとき、東北大学時代の恩師で日本思想史学を創立された村岡典嗣先生(むらおか・つねつぐ、1884-1946)の次の言葉をよく紹介されていました。

 「学問は実証よりも論証を重んずる」

 この村岡先生の言葉は、近年では2013年の八王子セミナーでも古田先生が述べられ、注目を浴びました。『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』巻末の「日本の生きた歴史(十八)」にそのことを書かれたのも2013年11月です。1982年(昭和57年)に東北大学文学部「文芸研究」100〜101号に掲載された「魏・西晋朝短里の方法 中国古典と日本古代史」にもこの村岡先生の言葉が「学問上の金言」として紹介されています。同論文はその翌年『多元的古代の成立・上』(駸々堂出版)に収録されましたので紹介します。

 「わたしはかって次のような学問上の金言を聞いたことがある。曰く『学問には「実証」より論証を要する。〔43〕(村岡典嗣)』と。
 その意味するところは、思うに次のようである。“歴史学の方法にとって肝要なものは、当該文献の史料性格と歴史的位相を明らかにする、大局の論証である。これに反し、当該文献に対する個々の「考証」をとり集め、これを「実証」などと称するのは非である。”と。」(79頁)
 「〔43〕恩師村岡典嗣先生の言(梅沢伊勢三氏の証言による)。」(85頁)
(古田武彦「魏・西晋朝短里の方法 中国古典と日本古代史」『多元的古代の成立[上]邪馬壹国の方法』所収、駿々堂出版、昭和58年)

 このように、古田先生は30年以上前から、一貫して村岡先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んずる」を「学問の金言」として大切にされ、晩年まで言い続けられてきました。この「学問は実証よりも論証を重んずる」は〝古田先生の学問の原点〟である〝(二)論理の導くところに行こうではないか、たとえそれがいずこに到ろうとも。〟と意味するところは同じです。「論理の導き」とは「論証」のことであり、「たとえそれがいずこに到ろうとも」という姿勢こそ、「論証を重んずる」ことに他なりません。
 村岡先生の「学問は実証よりも論証を重んずる」と岡田先生の「論理の導くところに行こうではないか、たとえそれがいずこに到ろうとも」が学問的に一致することに、昭和初期における両者の親交の深さを感じさせます。そしてその交流が古田武彦という希代の歴史家を生んだといっても過言ではありません。岡田先生は愛弟子の古田武彦青年を東北帝国大学の村岡先生に託されました。村岡先生も古田青年の入学を心待ちにされており、東北大学の同僚からは「君の〝恋人〟はまだ来ないのかね」と冷やかされていたとのこと。
 あるとき、古田先生になぜ村岡先生の東北大学に進まれたのですかとお訊きしたことがありました。「岡田先生の推薦であり、何の迷いもなく村岡先生のもとへ行くことを決めました」とのご返事でした。広島高校時代、古田先生は授業が終わると毎日のように岡田先生のご自宅へ行かれ、お話を聞いたとのことでした。ですから、その岡田先生の推薦であれば当然のこととして東北大学に進学されたのです。このような経緯により、東北大学で古田先生は村岡先生からフィロロギーを学び、ソクラテスやプラトンの学問を勉強するために、村岡先生の指示によりギリシア語の単位もとられました。こうして、古田先生の〝学問の原点〟の一つに「ソクラテスやプラトンの学問の方法」が加わりました。(つづく)


第1814話 2019/01/02

新年の読書『職業としての学問』(2)

 わたしは、「学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深める」と常々言ってきました。また、「異なる意見の発表が学問研究を進展させる」とも言ってきました。しかし、なかには自説への批判や異なる意見の発表に対して怒り出す人もおられ、これは〝古田先生の学問の原点〟の〝(四)自己と逆の方向の立論を敢然と歓迎する学風。〟とは真反対の姿勢です。
 わたしは化学を専攻し、仕事は有機合成化学(染料化学・染色化学)です。従って、自然科学においては、どんなに正しいと思われた学説も50年も経てば間違っているか不十分なものになるということを化学史の経験から学んできました。人文科学としての歴史学も、「科学」であるからには同じです。そのため、古代史研究においても新たな仮説を発表するときは、「今のところ、自説は正しいと、とりあえず考える」というスタンスで発表しています。これと同様のことをマックス・ウェーバー(1864-1920)は『職業としての学問』で次のように述べていますので、紹介します。同書は1917年にミュンヘンで行われた講演録です。

 〝(前略)学問のばあいでは、自分の仕事が十年たち、二十年たち、また五十年たつうちには、いつか時代遅れになるであろうということは、だれでも知っている。これは、学問上の仕事に共通の運命である。いな、まさにここにこそ学問的業績の意義は存在する。(中略)学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れとなることをみずから欲するのである。学問に生きるものはこのことに甘んじなければならない。(中略)われわれ学問に生きるものは、後代の人々がわれわれよりも高い段階に到達することを期待しないでは仕事することができない。原則上、この進歩は無限に続くものである。〟(『職業としての学問』岩波文庫版、30頁)

 ここで述べられているマックス・ウェーバーの指摘は学問を志すものにとって、忘れてはならないものです。古田先生が〝わたしの学問の原点〟とされた、次の二つのこととも通底しています。〝(三)「師の説にななづみそ」(先生の説にとらわれるな)(本居宣長)、(四)自己と逆の方向の立論を敢然と歓迎する学風。〟(つづく)


第1813話 2019/01/01

新年の読書『職業としての学問』(1)

 みなさま、あけましておめでとうございます。

 年末から2019年の研究テーマなどを考えてきました。そして、古代史研究の他に、古田先生の「学問の方法」について、わたしが学んできたことや感じてきたことなどを「洛中洛外日記」などで紹介することをテーマの一つとすることにしました。
 古田先生の「学問の方法」については少なからぬ人が今までも述べてこられました。例えば昨年11月に開催された「古田武彦記念古代史セミナー」では大下隆司さん(古田史学の会・会員、豊中市)が具体的にレジュメにまとめて発表されており、参考になるものでした。特に次の4点を紹介され、わたしも深く同意できました。

 古田先生の〝わたしの学問の原点〟
(一)学問の本道は、あくまでソクラテス、プラトンの学問とその方法論にある。
(二)論理の導くところに行こうではないか、たとえそれがいずこに到ろうとも。
(三)「師の説にななづみそ」(先生の説にとらわれるな)(本居宣長)
(四)自己と逆の方向の立論を敢然と歓迎する学風。

 いずれも古田先生から何度も聞かされてきた言葉であり、先生の研究姿勢でした。セミナーでは質疑応答の時間が限られていましたので、この4点については賛意を表明しただけで質問は差し控えました。しかし、わたし自身もまだよく理解できていないのが(一)の〝学問の本道は、あくまでソクラテス、プラトンの学問とその方法論にある。〟でした。先生がこのように言われていたのはよく知っているのですが、〝ソクラテス、プラトンの学問とその方法論〟とは具体的に何を意味するのか、どのような方法論なのか、わたしは古田先生から具体的に教えていただいた記憶がありません。
 もしあるとすれば、(二)の〝論理の導くところに行こうではないか、たとえそれがいずこに到ろうとも。〟です。この言葉は古田先生の広島高校時代の恩師である岡田甫先生から講義で教えられたというソクラテスの言葉だそうです。ただ、プラトン全集にはこのような言葉は見つからないとのことでした。恐らくソクラテスの思想や学問を岡田先生が意訳したものと古田先生は考えておられました。わたしも『国家』や『ソクラテスの弁明』など数冊しか読んだことはありませんが、そのような言葉とは出会ったことがありません。ご存じの方があれば、是非、ご教示ください。
 こうした問題意識をずっと持っていましたので、この正月休みにプラトンの『国家』とマックス・ウェーバーの『職業としての学問』を久しぶりに読みなおしました。(つづく)


第1519話 2017/10/18

五戸弁護士からの贈り物

 青森市の弁護士、五戸雅彰さんから思いがけない贈り物が届きました。五戸さんが古田先生からいただいたという書籍『F機関 インド独立に賭けた大本営参謀の記録』藤原岩市著です。
 五戸さんは和田家文書裁判のとき、和田喜八郎さんを弁護された方で、20年来のお付き合いがあります。添えられた御手紙には、自分が持っているよりも古賀さんが持っていたほうがよいだろうとありました。古田先生の三回忌にあたり、冥界の先生が五戸さんを通してわたしに送って下さったのではないかと思いました。学恩への感謝、無限です。五戸さんと古田先生に深謝します。
 『F機関 インド独立に賭けた大本営参謀の記録』の末尾には「一九九五、二月 古田武彦蔵書」と、見慣れた古田先生の筆跡で記されています。ところが、内表紙には「贈呈 和田喜八郎様 1996.4.4 古田」と記されており、当初は和田喜八郎さんに贈呈予定だったようです。念のため、五戸さんに電話で確認したところ、同書は古田先生から直接いただいたとのことで、何らかの事情で和田さんではなく、五戸さんに進呈されたようです。
 こうして、同書は古田蔵書から不思議な縁で、五戸さんからわたしへと届いたことがわかりました。更に同書には産経新聞のコピーが挟み込まれていました。これにも古田先生の筆跡で「産経新聞 平成8年4月3日(水)朝刊」と書き込みがあり、連載コラム「教科書が教えない歴史 41 勇気と友情の物語⑭ インド独立を助けようとした日本軍」が緑色のラインマーカーで縁どられています。
 この平成8年4月3日は『F機関 インド独立に賭けた大本営参謀の記録』内表紙の書込み年次「1996.4.4」の前日ですから、古田先生は産経新聞の同コラム記事を読んで、その翌日に和田喜八郎さんへの蔵書贈呈の書き込みを、同じ緑色のラインマーカーで書かれたことがわかります。すなわち、産経新聞のコラム記事と同書を和田さんへ贈呈しようとされたのです。
 産経新聞の同コラム記事の筆者は「横浜市六つ川小教諭・安達弘=自由主義史観研究会会員」とあり、戦時中の日本軍とインド国民軍によるインド独立運動の経緯が紹介されています。その中にインド独立運動のリーダー、チャンドラ・ボーズと藤原岩市氏が顔写真付きで紹介されていることから、和田さんにこのコラム記事とチャンドラ・ボーズと親交があった藤原岩市氏の著書を贈呈することを思いつかれたのではないでしょうか。
 実は和田喜八郎氏は若い頃、チャンドラ・ボーズの子供の替え玉役として徴用されたと話しておられたとのこと。それで、古田先生はコラム記事と同書を和田さんに贈呈されようとしたものと推察されます。しかし、どういうわけかこの本は和田さんにはわたらずに、五戸さんに進呈されました。その間の事情は今となっては不明です。先生と喜八郎氏との間で何があったのでしょうか。
 ※同書や産経新聞コラムのコピー等の写真は、わたしのfacebookに掲載しています。


第1512話 2017/10/05

今月の読書、榎村寛之著『斎宮』

 九月に発刊された榎村寛之著『斎宮 伊勢斎王たちの生きた古代史』(中公新書)を読み始めました。古代日本における「斎宮」「斎王」という制度には以前から関心を抱いていたのですが、本格的な勉強はしないままでした。天皇の娘を伊勢神宮の祭祀役(斎王)として派遣するという制度が大和朝廷で初めて行われたのか、前王朝である九州王朝(倭国)にその淵源があったのかについて研究してみたいと思っていました。その答えやヒントが同書から得られるのではないかという予感を抱いて「今月の読書」の一冊にしました。
 著者の榎村さんのお名前は知らなかったのですが、同書に記された「著者紹介」によれば、日本古代史を専攻され伊勢神宮や斎宮・斎王の研究者のようです。現在は三重県立斎宮歴史博物館学芸普及課長とのこと。もし、九州王朝の「伊勢神宮」「倭姫命」があれば、斎宮・斎王制度もあったかもしれません。どなたか多元史観・古田史学で「九州王朝の斎宮・斎王」を研究されませんか。


第1500話 2017/09/15

大型前方後円墳と多元史観の論理(5)

 「九州王朝説に刺さった三本の矢」の《一の矢》「日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。」に対する多元史観・九州王朝説での反証をなすべく、前方後円墳について集中的に勉強しています。中でも青木敬著『古墳築造の研究 -墳丘からみた古墳の地域性-』(六一書房、2003年)は特に勉強になった一冊で、今も熟読を重ねているところです。優れた考古学者による論文は、たとえ一元史観に基づいていても基礎データが明示されていますので、理系論文を読んでいるような錯覚にとらわれるときがあります。この青木さんの論文もそうした考古学者による優れた研究で、とても勉強になります。
 同書などを読んでいて、九州地方最大の前方後円墳である宮崎県西都市の女狭穂塚古墳についていくつかの重要な視点が得られました。その内の二つを紹介します。
 一つは、隣接する男狭穂塚古墳との関係です。両古墳は同時期(5世紀前半中頃)に計画性を持って隣接する位置に築造されたとする説明もあるようですが、男狭穂塚古墳の方が古いとする説や逆に女狭穂塚古墳が先とする説などもあるようです。わたしの見るところでは、男狭穂塚古墳の前方部の外周部分を破壊し、重ねるように女狭穂塚古墳の後円部外周が築造されていますから、単純に考えると男狭穂塚古墳の方が先に築造されたと理解すべきと思われます。
 この理解が正しければ、両古墳の築造主体は異なる時期の異なる権力者と考えるべきではないでしょうか。すなわち、女狭穂塚古墳の築造者は男狭穂塚古墳の外周を破壊していることから、男狭穂塚古墳の被葬者に敬意を払っていないと考えざるをえないからです。すなわち、西都原古墳群を築造した当地の権力者には男狭穂塚古墳と女狭穂塚古墳の間で断絶が発生していた可能性があるのです。
 これが一つ目の視点です。『日本書紀』や現地伝承にそうした権力者の断絶・交代の痕跡があるのか、考古学的実証から文献史学での論証へと展開するテーマが惹起されるのです。
 二つ目は近畿の前方後円墳との関係性です。九州地方の前方後円墳には珍しい「造り出し」と呼ばれている前方部と後円部の間のくびれ部分にある方形の突起台地が女狭穂塚古墳にはその左側にあるのです。この「造り出し」は近畿の前方後円墳で発生し、発展したと理解されており、その「造り出し」を持つことを根拠に、女狭穂塚古墳は近畿型前方後円墳と説明されています。この考古学的事実は大和朝廷一元史観を実証する現象の一つとして、古墳時代には大和朝廷が全国支配を進めたとする有力な根拠(実証)とされています。
 この女狭穂塚古墳が近畿の前方後円墳の影響を受けているという考古学的事実(実証)を多元史観・九州王朝説からどのように説明(論証)するのかが問われているのです。(つづく)


第1499話 2017/09/11

ゲルマン語に二倍年暦の痕跡発見

 山口県周南市の大竹義則さんからメールをいただきました。大竹さんは1980年頃からの古田先生の著作の愛読者で、わたしの「洛中洛外日記」も読んでおられるとのこと。メールにはゲルマン語系言語の中に二倍年暦らしき記述のあることが紹介されていました。これまで、アイヌ民族以外の北方系民族に二倍年暦が使用されていたとの史料を知りませんでしたので驚きました。
 紹介していただいた史料は浜崎長寿著『ゲルマン語の話』(大学書林、1976年。233頁)で、ドイツ語を中心としたゲルマン語系言語の文字や音韻、語彙、文法上の特性などを記述した小冊子とのこと。その中の「Ⅵ章・意味の実態、その2・四季」に、「ゲルマン人にとって、1年は元来、夏と冬を二大軸として構成された」とあり、また、古代ゲルマンの英雄詩『ヒルデブラントの歌“Hildebrandslied”』の中に「夏と冬あわせて60」とあり、これが現在の30年に相当すると記されています。大竹さんによると「このほかには二倍年暦に関連する記述はありません」とのことです。
 更に大竹さんから次のようなメールも届きました。
 「(前略)これまでの古田さんや古賀さんの記述、そして気候的に雨季乾季の明瞭な熱帯〜亜熱帯に広がるサバナ気候帯(1年を2期に分けやすい)が頭にあったからです。
 ゲルマン人の認識では、四季ではなく冬夏の2分が明瞭であるとのことですが、このことで思い出すのは、ある気候学者(名前は忘れました)の随筆に、『カナダのような高緯度地方では、夏冬の感覚は、気温の高低よりも、昼の長い明るい季節と夜の長い暗い季節としてとらえている』いうような記述があったことです。この感覚が冬夏2期の区分につながるのかなと思いました。」

 古田先生も二倍年暦の淵源を、たとえば「春耕秋収」のような農耕に由来するケース、熱帯地域の雨期・乾期に由来するケース、海洋地域の西風・東風で季節を二分するケースなどを想定されていました。今回の大竹さんの調査によれば、高緯度地域の夏と冬における昼間の長さの大きな変動により、一年を二分するというケースが新たに付け加わったことになります。
 わたしが「二倍年暦の世界」「続・二倍年暦の世界」(『新・古代学』7集、8集、新泉社。2004年、2005年)を発表したときは、主に日本語訳の書籍が入手しやすい中国・インドそしてローマやギリシアなどの古典調査に重点を置きましたが、今回のように北方系民族にも二倍年暦の痕跡があるのですから、古代ゲルマン神話やアイスランドエッダなどの北欧伝承を調査する必要を感じました。登場人物の年齢表記などに二倍年暦が発見できるかもしれません。
 貴重な情報を提供していただいた大竹さんに感謝いたします。「洛中洛外日記」読者からこうしたメールをいただけることは、研究者としてとてもありがたいことです。


第1498話 2017/09/09

大型前方後円墳と多元史観の論理(4)

 宮崎県西都市の女狭穂塚古墳が九州地方最大の前方後円墳であり、九州王朝の倭王磐井の岩戸山古墳よりも大きくても、一元史観では「倭国の中心権力者にふさわしい大和朝廷の巨大前方後円墳群が近畿にあり、その影響が北九州や南九州の地方豪族にまで及んだ」と説明することが可能としましたが、これこそ「九州王朝説に刺さった三本の矢」の一つなのです。
 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」とは次の三つの「考古学的出土事実」のことです。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 この《一の矢》に対して、近畿の大型前方後円墳は近畿天皇家の墳墓ではないとする仮説で挑戦を試みられているのが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)ですが、それとは異なった仮説で挑まれた著作がありました。吉田舜著『九州王朝一元論』(葦書房刊、1993年)です。その概要と論理的根幹は次のようなものでした。

①古代日本列島の代表王朝は九州王朝である。
②九州王朝は代表王朝としてふさわしい規模の墳墓を築造したはずである。
③日本列島中最大の巨大前方後円墳を擁するのは近畿(河内や大和など)の前方後円墳群である。
④従って、近畿(河内や大和など)の前方後円墳群は九州王朝の歴代国王の墳墓である。

 このような「骨太」な論理展開により、近畿の巨大前方後円墳は九州王朝の墳墓とする仮説を提起されたのです。御著書を吉田さんからいただいたときは、この問題の重要性にわたしはまだ気づいていませんでした。その後、一元史観支持の研究者との論議において、《一の矢》への九州王朝説からの回答の一つとして吉田さんの仮説を研究史の中で位置づける必要に気づきました。
 わたしは今でもこの吉田仮説に賛成はできませんが、《一の矢》への問題意識を早くから持っておられたことは、研究者として敬意を表したいと思います。なお、わたしが吉田仮説に賛成できない理由は次のようなことです。

(1)九州王朝が遠く離れた近畿に墳墓を築造しなければならなかった理由が不明。
(2)5世紀の古墳時代は各地に王権(九州王朝・出雲王朝・関東王朝・東北王朝など)が併存していた時代であり、日本列島を代表する九州王朝(倭国)とは別の王権が近畿にあった可能性を否定できず、その地の巨大古墳はその地の王権の墳墓とする、多元史観の基本的な考え方と相容れない。
(3)5世紀末頃から6世紀初頭の九州王朝・倭王の墳墓として岩戸山古墳などが八女丘陵から三潴地方に点在しており、近畿の巨大古墳群との「連続性」がうかがわれない。

 大型前方後円墳(考古学的事実・実証)について多元史観による論理(合理的な説明)を構築(論証)することが古田学派にとって重要な課題であることを改めて訴えたいと思います。(つづく)


第1475話 2017/08/09

『塩尻』の中の九州年号(4)

 わたしが天野信景(あまの・さだかげ)の随筆『塩尻』における九州年号認識を調べてみようと思ったのは、九州年号群史料として『塩尻』が研究書(久保常晴著『日本私年号の研究』など)に紹介されていたことによります。ですから、『塩尻』の書名だけは20年以上前から知っていたのですが、今まで読むことがありませんでした。今回、東海地方史学協会により昭和59年に発行された『塩尻』(明治40年、国学院大学出版部刊行の復刻版)を閲覧する機会があり、調べてみることにしました。
 『塩尻』が九州年号群史料とされたのは、その中に引用された「皇年代記」に九州年号が記されているためです。同書「巻二十四」に、「皇年代記は中世の作といへとも不稽の書といふへし。但し其中、考に備ふへき事、一二を抄す。」(句読点は古賀による)と述べ、その後に「皇年代記」からの転載と思われる記事が続きます。そして継躰天皇の項から九州年号が登場し、文武天皇の「大長」まで記されています。その一部を紹介します。

 「継體天皇日本年號善記始也云々〔是継體帝即位十六年を善記元年とす〕」(中略)
 「持統天皇 朱雀二甲申 大化六丙戌 大長九壬辰」
 「文武天皇大長六年即位 大寶三辛丑 慶雲四甲辰」
 ※〔〕内は二行の細注。

 このように九州年号が歴代天皇の名前と共に付記されています。その年号立ては、九州年号の原型と思われる『二中歴』タイプではなく、「朱鳥」の9年間がカットされ、「大化」「大長」が701年の大寶の直前にはめ込まれた、後世による改竄タイプです。その末尾には天野信景の見解が記されています。

 「是より末元明帝の和銅以来諸記の如し。上の二十餘の年號、正史に見えす。夫、我國年號のはしめは孝徳帝元年を大化と號したまひし。其六年を白雉と改め、白鳳は天武即位の元年壬申より乙酉迄。十四年丙戌は朱雀元年なり。持統は年號を立玉はす。文武の即位五年辛丑大寶と號せられし後、綿々として改元あり。皇年代記の年號、前後いふかしき事ともなり。」
 ※句読点は古賀による。

 この記述から、いわゆる九州年号の内、『日本書紀』孝徳紀の大化・白雉、天武元年壬申白鳳、丙戌朱雀は大和朝廷の年号であると天野信景は理解していることがわかります。そして、「皇年代記の年號、前後いふかしき事ともなり。」と締めくくっていることから、九州年号に対して疑念を抱いています。従って、先に紹介した『塩尻』巻十九の次の記述とは微妙に認識が変化しているように思われます。

 「我國年號大寶を始とす。其前へ年號有といへとも一時の嘉號也。まして佛書にいへる我年號は史にのせさる所也。(後略)」巻十九

 このように巻十九では九州年号を「佛書にいへる我年號は史にのせさる所也。」と、史書には見えない「我年号」としています。
 『塩尻』は天野信景が書き残した短文を後世になって編集したものなので、巻十九と巻二十四の成立時期の関係がよくわかりません。天野信景の古代年号に関する認識の変遷については書誌学的研究成果を待たなければなりませんが、その認識が江戸時代の尾張の学者や史料に少なからぬ影響を及ぼしたことは確かですので、尾張地方に九州年号史料が比較的少ないことと関係しているのではないかと思います。
 たとえば九州王朝のお膝元の筑前の史料にも九州年号が比較的少なく、これは筑前黒田藩の学者、貝原益軒が九州年号偽作説に立っていたため、その影響を受けたためとわたしは考えています。これと同様のことが尾張藩でもあったのではないでしょうか。なお、お隣の三河地方では九州年号史料の様相がやや異なるようですが、このことは別の機会に論じたいと思います。
 なお付言しますと、九州年号史料の地域別残存状況の差異を、古代九州王朝の影響力の範囲を示すものとする論者もおられますが、ことはそれほど単純ではないことを、本稿で紹介したような事例からもご理解いただけるのではないでしょうか。