現代一覧

第724話 2014/06/11

「歴史秘話ヒストリア」の中の古田先生

 「洛中洛外日記」720話や721話において、NHK「歴史秘話ヒストリア」での「邪馬台国」纒向遷都説やNHKの放送姿勢を批判しましたが、同番組に古田先生がちらっと登場されたことに気づかれたでしょうか。
 番組冒頭で「邪馬台国」所在地論争に九州説と機内説があると紹介し、それぞれの論者と思われる人物写真が瞬間でしたが一斉に掲載されました。その九州説論者と思われる写真の一枚に古田先生そっくりの写真があったのです。しかし短時間でしたのでしっかりと確認できませんでした。出張先から帰宅したら、水野代表から同番組の再放送が10日の午前0時代にあるとメールが来ていましたので、水野さんらに電話で古田先生の写真が出たように思うが、間違いないか確認しました。残念ながらどなたも気づかれていなかったので、自宅で再放送をビデオ収録し、今朝確認したところ、やはり古田先生でした。古田先生と面識がある 妻にも確認してもらったところ、間違いないとのこと。見るところ、先生50歳頃の写真と思われました。他にも森浩一さんや松本清張さんの写真も見え、いずれも若い頃の写真でしたから、NHKの意図的な写真選択と思われました。
 ということは同番組を制作したNHKスタッフは古田先生や古田説を知っていたことは確かです。とすれば、倭人伝には「邪馬台国」などという国名記事はな く、原文は「邪馬壹国」(やまいちこく)であることも知っているはずです。従って、NHKは知っていながら史料事実とは異なる虚偽説に基づいて番組を制作し放送したことは明白です。これは明らかに「放送法」第4条に違反しています。同4条は次の通りです。

放送法
(国内放送等の放送番組の編集等)
第四条  放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一  公安及び善良な風俗を害しないこと。
二  政治的に公平であること。
三  報道は事実をまげないですること。
四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 今回のNHKの「歴史秘話ヒストリア」は第四条三項と四項に違反しています。『三国志』倭人伝には「邪馬壹国」(やまいちこく)とある史料事実をまげて、「邪馬台国」と表記したり「ヤマタイコク」とナレーションしました。これは三項違反です。
 古田先生の写真まで掲載しながら、原文通り「邪馬壹国」が正しいとする有名な古田説があるにもかかわらず、「なかった」ことにして番組では一切触れられませんでした。これは四項に違反しています。
 それにしてもNHKは御用学者(福島原発は安全に停止説。健康に影響ない説)や虚偽説(ヤマタイコク説)が大好きな放送局のようです。みなさんもこれからNHKの番組や報道ニュースを見るときは、放送法第四条を意識して見られてはいかがでしょうか。


第723話 2014/06/09

「古田史学の会」のフリーミアム戦略

 Eテレの「辞書を編む人たち」という番組を見ました。『大辞林』の編集部の様子を紹介したもので、若者が使う新語の語釈に苦労する編集員の仕事ぶりや、電子版の普及により、紙版の発行部数が往年の二十分の一にまで減少したことによる、編集方針やビジネスモデルの変更などが紹介されていました。
 インターネット時代にあって、紙媒体(『古田史学会報』『古代に真実を求めて』)と電子媒体(HP「新古代学の扉」)をどのように位置づけて活用するのかは、わたしたち「古田史学の会」にとっても重要な課題です。そこで今回は電子媒体(HP「新古代学の扉」)のマーケティング戦略について解説したいと思 います。
 ある日の関西例会後の懇親会で、会員の伊藤隆之さん(神戸市)からHP「新古代学の扉」について、次のような質問をいただきました。
 「ホームページで『古田史学会報』等を、数年遅れで無償で公開しているが、これでは会費を支払って会員になるメリットが減り、入会者数に影響するのではないか。」というものです。
 まことにもっともなご質問でした。そこで、わたしはマーケティング論でいうところのフリーミアム戦略を採用していることを説明しました。このフリーミアムというマーケティング用語は、フリー(無料)とプレミアム(割増金)の合成語で、無料でサービスを利用できるが、より良いサービスへアップグレードした い人は課金される有料サービスを選択できるというビジネスモデルのことです。このフリーミアムというビジネスモデルはインターネットの普及により、様々な分野で採用されています。有名なものではケータイやスマホのゲームでしょう。
 このフリーミアム戦略の特長は、サービスを無料にすることでターゲット顧客を劇的に増やせることと、その無料サービス提供にかかるコストが低いことで す。そして、このビジネスモデルが成功する条件として、無料使用の顧客の中から一定の比率で有償顧客を獲得しなければならないということです。そのためには、多くの無償顧客が集まるような面白いコンテンツを用意することと、その面白さを更に上回る有償サービスを準備することが不可欠となります。業種やサー ビスの内容で異なりますが、無償顧客から有償顧客にかわる比率は2%程度が想定されているようで、それで事業継続を可能とする利益が得られるように事業設計されています。このように、フリーミアムというマーケティング戦略が飛躍的に発展したのは、インターネットの普及でターゲット顧客が劇的に増加し、無料サービス提供コストが圧倒的に少なくてすむようになったからです。
 わたしたち「古田史学の会」がホームページを開設した当初は、古田史学や「古田史学の会」を世に広く紹介するという広報宣伝活動が主目的でしたから、戦略的マーケティングの一環としてはそれほど深く意識していませんでした。わたしが会運営等にマーケティング論を意識し始めたのは、勤務先での職種を製造・ 品質管理・研究開発部門と渡り歩き、7年前に企画開発を含むマーケティング部門に異動になったことがきっかけでした。
 30代前半の頃、勤務先の中期経営計画策定プロジェクトメンバーとして経営コンサルタントから猛特訓を受けた経験がありましたから、経営戦略やマーケ ティングの初歩について少しは聞きかじっていたのですが、50代になりマーケティング部門への異動に伴って、最新の経営戦略やマーケティング理論を再勉強しました。そうしたこともあって、「古田史学の会」の運営にマーケティング理論を意識的に応用するようになりました。そして、顧客(会員)獲得のためのプ ラットホームとしてホームページを位置づけ、更にフリーミアム戦略を採用することにしたのでした。
 幸い、インターネット担当の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人、東大阪市)のご尽力により、HP「新古代学の扉」のコンテンツを強化し、「古田史学のことを知りたければこのHPだ」と言われるまでになりました。しかし、更にHPの知名度を上げ(検索で上位にヒットさせる)、「無償顧客」を飛躍的に増やすには十分ではなかったので、HPへのアクセス件数(来場者数)を増やすため、常にHPを更新する必要を感じました。そこで、わたしは「洛中洛外日 記」を連載することを決意し、「古田史学の会」役員会の承認を得て、連載を開始したのです。そして、この企画は予想通りの成果を上げました。HPを見て、 例会に参加したり、入会する人が増え始めたのです。
 紙媒体(『古田史学会報』『古代に真実を求めて』)は初期の古田ファンの獲得には有効でしたが、草創期会員の高齢化による退会が常に発生する時代に突入しましたから、会の財政基盤を支えるためにも会員数維持・増加が不可欠です。そうしたことから、インターネット世代の会員獲得が重要テーマとなり、フリーミアム戦略の採用は必然の流れでもありました。おそらく、無償顧客から有償顧客(会員)への変更率(入会率)は0.1%以下だと思いますが、「古田史学の会」は非営利組織ですので、その程度の変更率でも十分にビジネスモデルとして機能します。
 今後は無償顧客の満足度を高めつつ、有償顧客(会員)の満足度を更に高める施策が重要です。『古田史学会報』や『古代に真実を求めて』の充実(読みやすく、面白い、役に立つ紙面作り)と同時に、記念講演会・例会・遺跡巡りなどのイベント、書籍発行事業など、課題は山積みです。これらの課題を解決し、成果を上げ続けるためには、みなさんのご支持ご協力が必要です。
 最後に一言付け加えますと、どれほど優れたマーケティング戦略を採ろうと、わたしたち「古田史学の会」のような非営利組織にとって最も大切なものはミッション(歴史的使命)です。ここがぶれたり曖昧にしたら組織の未来はありません。このことを申し述べて、これからもよろしくお願い申しあげます。


第721話 2014/06/07

NHK「歴史秘話ヒストリア」のウラ読み

「洛中洛外日記」720話でNHK「歴史秘話ヒストリア」の放送倫理について指摘し、その最後に「それでもわたしはNHKに良心的な社員がいることを、真実を放送・報道することを願っています。」と記しました。
 卑弥呼は伊都国から纒向に「遷都」したという学問的に荒唐無稽な珍説に基づいた番組でしたが、もしかするとNHKの番組関係者に真実を伝えたいと密かに願う良心的な人がいて、番組の中に真実の痕跡を残したのかもしれないと、そんなウラ読みをしています。そう思った理由は次のことからですが、深読みしすぎでしょうか。
 まず思ったのが、弥生遺跡の中で最大級の豪華な出土物を持つ糸島の平原王墓が紹介されたことです。あの圧倒的な出土物(内行花文鏡・翡翠・水晶・他)を見た人に、纒向遺跡の「桃の種」よりも強烈な印象を与えることは明白ですから、番組の「編集意図」を越えて、倭国の中心地は北部九州であるというメッセージとなっています。
 次に、ナレーションでは「ヤマタイ国」と説明される一方、『三国志』倭人伝の画像では「邪馬壹国(やまいち国)」と記された部分をマーキングして紹介されており、見る人には「ヤマタイ国」ではなく「やまいち国」が真実(史料事実)であることがわかるようになっていました。もし、 このウラ読みが当たっていれば、この番組関係者は古田説を知っていたことになります。
 こうした表向きの編集意図とは異なり、真実を密かに伝え、後世に残そうとする試みは様々な分野で、いろんな時代で行われてきました。一例をご紹介します。
 『三国史記』新羅本記第五(1145年成立)の「真徳王(即位647~654)」の記事です。唐に赴いた新羅の使者に対して唐の天子太宗から「新羅はわが朝廷に臣事する国であるのに、どうして別の年号を称えるのか」と叱責されます。そして、『三国史記』の編者は「論じていう」として次のような解説を加え ています。

「偏地の小国にして天子の国に臣属する国は、もともと私に年号をつくることはできないものである。もし、新羅が誠心誠意をもって中国に仕えて、入朝と朝貢の道を望みながらも、法興王がみずから年号を称したのは惑いだというべきである。(中略)これはたとえ、やむを得ずしたことであったとはいえ、そもそも、あやまちというべきで、よく改めたものである。」『三国史記』林英樹訳(三一書房、1974年刊)

 『三国史記』新羅本記には法興王による年号の制定(「建元」元年、536年)以来、真徳王まで改元を続けたのですが、12世紀の高麗の知識人である編者たちは朝鮮半島の国が年号を持ったことを隠さず記したものの、中国の目をはばかって、それは過ちであり、よく改めたとしています。すなわち、中国の属国としての高麗の公的立場を表面的には守りつつ、その実、新羅が年号を持ったという歴史事実だけは書き残したのです。小国の歴史官僚の意地とプライドがそうさせたのではないでしょうか。
 このように、権力者(上司)の意向に表向きは従いつつ、メディアにかかわる人間としての良心とプライドにより、ぎりぎりのところで平原王墓の考古学的出土事実と「邪馬壹国」という史料事実を番組の中に潜り込ませたのではないか、そのようにウラ読みしたのですが、はたして当たっているでしょうか。


第720話 2014/06/05

NHK「歴史秘話ヒストリア」の放送倫理

 昨晩は出張先の福井市のホテルでNHKの「歴史秘話ヒストリア」を見ました。テーマが「邪馬台国」や「卑弥呼はどこから来たか」というものでしたので、どうせまた一元史観「邪馬台国」畿内説の非学問的・非論理的な内容だろうとは予想していましたが、まさにその通りでした。ただ、視聴率を上げたいためか、今回はやや手の込んだ、奇をてらった番組作りを目指したようです。その要点は、卑弥呼は糸島半島の伊都国生まれで、大和の巻向に「遷都」したというものでした。
 要約しますと、糸島半島の平原王墓(2世紀末と解説)の被葬者を卑弥呼の母親か姉妹とし、そこで生まれた卑弥呼が「遷都」して巻向遺跡(3世紀初めと解説)の大型住居に住んでいたというものです。学問的には荒唐無稽(「倭人伝」には倭国が遷都したなどという記事はなく、「そうとれるかもしれない」という記事さえもありません)と言わざるを得ないのですが、そこは「天下のNHK」です。「そういう説がある」という表現でしっかりと「逃げ」を打っていました。しかし、放送された「考古学的事実」は正直です。この番組の荒唐無稽ぶりを見事に証明していました。
 たとえば、巻向遺跡から大量に出土した「桃の種」をずらっと並べ、いかにも倭国の女王にふさわしい「ものすごい出土物」とでもいいたいような演出をしていました。他方、平原王墓や同遺跡から出土した大型で大量の内行花文鏡や大量の宝石類(めのう・翡翠・水晶等)の加工品や原石が紹介されていました(番組ではなぜか紹介されませんでしたが、同遺跡からは鉄製品も出土しています)。まともな理性を持つ人であれば、どちらが倭国の中心地にふさわしい出土物かは一目瞭然でしょう。それとも、糸島で生まれた卑弥呼はお母さんから銅鏡の一枚も持たされずに、巻向に「遷都」し、鏡や宝石の代わりにせっせと「桃の種」を集めたとでもいうのでしょうか。噴飯ものです。この番組を制作放送したNHKの担当者に聞いてみたいものです。
 ちなみに、NHKもさすがにこれではまずいと考えたようで、大和の黒塚古墳(3世紀後半から4世紀前半と編年されています)を紹介し、出土した三角縁神獣鏡などが映った画像をしらーっと放送していました。ようするに、彼らは「(邪馬台国畿内説は学問的に無理と)知っていて、(巻向が邪馬台国だと)嘘をつく」というかなり不誠実な番組作りを行っているとしか考えられないのです。また、「倭人伝に記されているヤマタイ国」という主旨の虚偽のナレーションも流していました(「倭人伝」には邪馬壹国〔やまいちこく〕と記されています)。NHKの放送倫理はどうなっているのでしょうか。
 そういえば福島原発爆発事故のときも、NHKは御用学者を次々と登場させ、「原発は安全に停止した」「メルトダウンはありえない」「ただちに健康に影響はない」との報道を続け、福島第一原発を撮影する定点カメラだけを残し、自社の社員は早々と避難させたと聞いています。そのNHKの報道を信じて逃げなかった多くの福島県の人々が被爆し、子供たちの甲状腺ガンが今も増え続けていることを考えると、NHKに放送倫理を期待するほうが無理なのかもしれません。多くの高校生を残し、沈没船から早々と逃げた船長や、「その場から動くな(逃げるな)」と船内放送した船員を非難する資格は、日本にはないのかもしれ ません。NHKがこの様ですので。
 しかし、それでもわたしはNHKに良心的な社員がいることを、真実を放送・報道することを願っています。その「社名」に愛する祖国「日本」を冠しているのですから。


第718話 2014/05/31

「告期の儀」と九州年号「告貴」

 テレビで高円宮家典子さんと出雲大社宮司千家国麿さんのご婚約のニュースを拝見していますと、皇室の婚姻行事の「告期の儀」について説明がなされていました。お婿さんの家から女性の家へ婚姻の日程を告げる儀式のことだそうです。古代にまで遡る両旧家のご婚儀に古代史研究者として感慨深いものがあります。

 その「告期」という言葉から、わたしは九州年号の「告貴」(594~600)を連想してしまいました。婚姻の期日を告げるのが「告期」であれば、九州年号の「告貴」は「貴を告げる」という字義ですから、九州王朝の天子・多利思北孤の時代(594年)に告げられた「貴」とは何のことだったのだろうかと考え込んでしまいました。改元して「告貴」と年号にまでしたのですから、よほど貴い事件だったに違いありません。

 この年に何か慶事があったのだろうかと『日本書紀』(推古2年)を見ても、それらしい記事は見えません。その前年には四天王寺造営記事がありますが、そのことと「告貴」とが関係するようにも思えません。

 漢和辞典で「貴」の字義や用語を調べてみますと、「貴主:天子の娘」というのがあり、多利思北孤の娘か息子(利歌彌多弗利)の誕生を記念しての改元ではないかと考えました。もちろん確かな根拠があるわけではありませんが、作業仮説(思いつき)として提案したいと思います。なお、利歌彌多弗利の生年を 577年とする説を「『君が代』の『君』は誰か — 倭国王子『利歌彌多弗利』考」(『古田史学会報』34号、1999年10月)等で発表したことがありますので、こちらもご参照ください。

 もう一つ注目すべき記録があることに気づきました。九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)の告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」の「国分寺(国府寺)建立」記事です。

 「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)

 もし、この『聖徳太子伝記』の記事が九州王朝系史料に基づいたもので、歴史事実だとしたら、「告貴」とは各国毎に国府寺(国分寺)建立せよという 「貴い」詔勅を九州王朝の天子、多利思北孤が「告げた」ことによる改元の可能性があります。そう考えると、『日本書紀』の同年に当たる推古2年条の次の記事の意味がよくわかります。

 「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

 『日本書紀』推古2年条はこの短い記事だけしかないのですが、この佛舎建立の詔こそ、実は九州王朝による「国府寺」建立詔の反映ではないでしょうか。

 「告期の儀」の連想から、「九州王朝による国分寺建立」という思いもかけぬところまで展開してしまいました。これ以上の連想は学問的に「危険」ですので、今回はここで立ち止まって、もっとよく考えてみることにします。若いお二人のご多幸をお祈りいたします。


第716話 2014/05/30

吉野ヶ里遺跡の「ひみか」

 「洛中洛外日記」698話「梅花香る邪馬壹国の旅」で、古賀市立歴史資料館では「邪馬台国」の「台」の字が古田説に従って「壹」の字に貼り替えて展示されていることを紹介しましたが、合田洋一さん(古田史学の会・四国、事務局長)から再び「朗報」が届きました。
 「古田史学の会・四国」会員の井上在身(のぶみ)さん(高松市)が、3月に佐賀県吉野ヶ里遺跡を訪問されたとき、遺跡のマスコットキャラクターの絵が各所に掲示されており、その名前が「ひみか」と表記されていたとのことなのです。送っていただいた写真を見ても、はっきりと「ひみか」「HIMIKA」と表 記されています。たとえばJR「吉野ヶ里公園駅」への大きな案内板にも、古代人の衣装を着た「マスコットキャラクター ひみか」と説明された手を振る男の 子の絵が描かれています。公園内の各所にも同様のマスコットキャラクターの絵が描かれており、「ひみか HIMIKA」とあります。
 『三国志』倭人伝に記された倭国の女王「卑弥呼」は「ひみこ」と訓まれてきましたが、古田先生は緻密な倭人伝研究や現地伝承(筑後国風土記逸文のミカヨリ姫説話)の分析により、「ひみか」と訓む新説を発表されました(『古代は輝いていたⅠ』1984年刊、『よみがえる卑弥呼』1992年刊)。すなわち、 吉野ヶ里遺跡では従来説の「ひみこ」ではなく、古田説の「ひみか」をマスコットの名前にふさわしいと考え、採用されていたのです。このように古田史学(九 州王朝説・邪馬壹国説・ひみか説等)が九州王朝の故地では確実に公の場でも浸透しているのです。ちなみに井上さんが撮られた写真によれば、吉野ヶ里遺跡の 解説掲示板には四カ国語(日本語・英語・中国語・韓国語)が使用されており、マスコットキャラクターを通じて世界へ「ひみか HIMIKA」が紹介されて いることがわかります。
 日本を代表する弥生時代最大規模の遺跡公園「吉野ヶ里」のマスコットキャラクターの名前に古田説「ひみか」が採用されたことについて、その経緯をインターネットで調べてみました。「吉野ヶ里歴史公園」のHPによりますと、マスコットの命名にあたり、一般公募が行われ、その中から「ひみか」が採用された とのことです。命名は平成10年(1998)に行われたとありますから、古田先生による「ひみか」説の発表以後です。説明では吉野ヶ里遺跡がある3町村 (東背振村・三田川町・神崎町。いずれも当時の地名)の最初の字をとってネーミングしたとのこと。偶然の一致とはいえ、「ひみか」の名称で応募した人の中 には、おそらく古田説の「ひみか」をご存じだった方もおられたのではないかと思います。
 吉野ヶ里遺跡のような「施設」は東京ディズニーランドなどのようにアトラクションや大型イベントを常時開催できませんし、その施設性格から修学旅行客や青少年の見学者、そして歴史好きの高齢者が主たるターゲット顧客となります。従って、いずれもリピーターにはなりにくく、おそらく1回きりの顧客が大半でしょう。これでは開園当初は物珍しさも手伝って、一定の集客が期待できますが、結局、時間とともに来園者も減少を続け、赤字運営に転落し、例外なく公的資 金(税金)の投入ということに落ち着きます。まともな経営者であれば、少なくともそのようなシナリオを想定し、事前に対策を考えます。
 そこで集客力アップのための様々なアイデアが「吉野ヶ里歴史公園」でも検討されたはずです。当然のこととして「吉野ヶ里歴史公園」もプロのマーケターが検討を重ねたことでしょう。そして手っ取り早い方法として、マスコットキャラクターを作り、関連グッズを販売し、「ゆるキャラ」としてデビューさせることぐらいは、安易ではありますが低コストで比較的効果的な対策として実施するでしょう。そして、吉野ヶ里遺跡にふさわしい古代人のマスコット、しかも「倭人 伝」で有名な「卑弥呼」などを模したキャラクターを造るというアイデアはすぐに思いついたはずです。
 次いで、そのマスコットのネーミングを行いますが、そこで重要なのが「商標権」などを侵害しないようにすることです。キャラクターグッズ販売も当然想定されますから、このネーミングは極めて重要です。恐らく、当初は「ひみこ」が一案として俎上に上がったとは思いますが、ご存じのように「ひみこ」はあまりにも有名な名前ですから、日本各地にある「邪馬台国」関連施設のお土産などで「商標権」が既に成立している可能性があります。少なくとも、様々な法的制約を受けるリスクを避けられないでしょう。他地域との差別化も難しそうです。
 こうした問題をも想定して「吉野ヶ里歴史公園」の担当者は公募による多くの候補の中から「ひみか」を採用することにしたはずです。この名称「ひみか」は 商標権などの問題をクリアしただけでなく、現在の女の子の名前に多用されている「きらきらネーム」の「○○カ」「☆☆ナ」にも対応し、「△△コ」たとえば 「ヒミコ」や「タケヒコ」よりも現代風です。主要ターゲット顧客である子供たちやそのお母さんたちにも受けがいいと思われます。
 ところが次に問題となるのが、結果として古田説「ひみか」と同じ名称を採用することへの抵抗や懸念が、今度は歴史学関係者(学芸員や学者)から出された はずです。少なくとも真剣に検討されたことをわたしは疑えません。古田説(邪馬壹国説・九州王朝説)を無視すること、「なかった」ことにするのは古代史学 界の暗黙のルールですから、一元史観の研究者にとっては自分が古田説支持者と見られかねない名称「ひみか」に賛成することには相当の躊躇があったはずで す。
 しかし、現実には「ひみか」が採用されたことから、そうした抵抗や懸念を押し切って決めた事情があったものと推測します。ただ、よくある手法として「一 般公募」の形式をとって、「古田説採用」への批判をかわすというのもリスクヘッジになったでしょう。また、「ひみか」と命名されたマスコットキャラクター は「男の子」ですから、女王(女性)の卑弥呼(ひみか)とは直接関係ない、という言い逃れもできそうです。ちなみに「女の子(妹)」の名前は「やよい」 ちゃんとのことです。ビジネス的にも「学閥」的にも、よく練られたネーミングだと思います。
 佐賀県や「吉野ヶ里歴史公園」の関係者にお会いする機会があれば、ネーミングの経緯などについてうかがってみたいものです。そして何よりも、わたしも久しぶりに「吉野ヶ里公園」に行ってみたいと思いました。吉野ヶ里遺跡にはわ
たしは三十代の頃、古田先生と訪れて以来行っていません。当時はまだ発掘中でしたが、古田先生の来訪を知った当地の学芸員の方々から歓迎され、発掘現場のすぐ側まで案内していただきました。当時から、古代史学界よりも考古学界の方が、古田先生や古田説に好意的でした。吉本隆明さんも「わたしが知っている若手の考古学者の半分は古田説支持者です」と言っておられたそうですから、より 「理系」に近い考古学者の方が古田説を正しく評価できる人が多いのでしょうね。


第712話 2014/05/23

古田史学の会HP中国語版「史之路.网站」

 最近、「古田史学の会」のHP「新古代学の扉」のトップページが少し変わったことにお気づきでしょうか。中国語版のページ「史乃路」にトップページから入れるようになりました。中国語版を充実強化させる方針については既に述べてきましたが、その準備として、インターネット担当の横田さんにお願いして、中国語版ページにトップページから入れるようにしていただきました。
 現在は古田先生の小論「全ての歴史学者に捧ぐ--政・棕・満の法則」の中国語訳など3編を掲載していますが、今後、古田史学の紹介文などを掲載したいと計画中です。幸い、中国語訳を中国人研究者(漢字学)の張莉さんに手伝っていただけることになりました。このように、古田先生や古田史学の支持者が次々と現れ、様々な分野で協力していただける時代となり、ありがたいことです。
 古田先生の中国語でのメッセージを掲載することも、古田先生と相談中です。古田史学を世界に発信していきたいと思います。こうした事業も会員からいただく会費で成り立っています。皆さんのご協力をよろしくお願いいたします。

 

(インターネット事務局より 2017.5.10)

中国語ドメインを収得しました。


第700話 2014/04/26

学術論文の「画像」切り張りと修正

 今回はSTAP論文騒動で「研究不正」行為とみなされている、学術論文での「画像」切り張り・修正について考えてみました。マスコミや「学者」の発言を聞いていると、何か本質とはかけ離れた自分たちの「村のおきて」が、「正義」であるかのように主張されており、学問研究の本質からは間違っているような気がしたためです。
 わたし自身の例を紹介しますと、前期難波宮九州王朝副都説の論文において、7世紀中頃において前期難波宮の規模・様式(朝堂院様式・八角殿・14朝堂) が突出していることをわかりやすく比較するために、前期難波宮の他、大宰府政庁跡や藤原宮・飛鳥板葺宮跡・平城宮などの王宮の平面図を他の書籍からコピーして切り張りしました。これは読者に自説を説明する上で、理解しやすいように行った善意による「画像」の切り張りです。その際、各図面の縮尺を統一するために一部の図面複写にコピー機の拡大・縮小機能を利用しました。これもまた善意による「画像」の修正です。もちろん、こうした図面を掲示しなくても、前期難波宮九州王朝副都説という仮説は成立しており、「画像」の切り張り・修正行為そのものは仮説成立の当否とは直接関係ありません。いわば、読者への便宜をはかった善意の画像掲載なのです。
 ところが、今回のSTAP論文騒動では、小保方さんの善意による「画像」切り張り・修正と単純な画像取り違えが、「悪意・不正・捏造」と理研により判断され、マスコミや多くの評論家や「学者」までもが、同様に小保方さんへのバッシングを続けました(2枚の画像取り違えは、小保方さん自身が気づき、マスコミから指摘される前に理研に訂正を申し入れています)。そのあげく、理研の調査委員会トップの過去の論文にも同様の行為があったとされ、当人は調査委員長を辞任するという「オチ」までつきました。いったい、いつから読者への便宜をはかる目的での善意の「画像」切り張りや修正までもが一律に「悪意・不正・捏 造」とされるようになったのでしょうか。そもそも、そうした学問的定義が、いつ誰によりなされ、学界や法律上でも合意したのでしょうか。マスコミや評論家・御用学者などによる「村のおきて」ではなく、学問上・法律上の厳密な定義の合意について、どのような論議・検討がいつ誰によりなされたのでしょうか。 ご存じの方がおられたら、教えていただきたいと思います。
 わたしが学んだ学問研究の方法や論文発表における「画像」使用の目的から考えれば、無いものをあったかのようにする、事実とは異なることを事実であるかのようにする、という悪意のある意図的な「画像」切り張りや修正は絶対に許されませんが、読者への便宜をはかる、あるいは仮説をよりわかりやすく丁寧に説 明するための善意による「画像」切り張り・修正はまったく問題のない行為です。従って、今回の騒動におけるマスコミや評論家・「学者」による小保方さんへ のバッシングは、かなり悪意のある行為としか、わたしには見えないのです。


第699話 2014/04/24

特許出願と学術論文投稿

 昨日は大阪の特許事務所に行き、新規開発品の特許出願の打ち合わせを行いました。若い頃は特許明細を自分で書いたものですが、近年は特許戦略や出願技術が高度で複雑になってきましたので、特許事務所の弁理士さんに書いてもらうことが多くなりました。仕事柄、特許出願や開発に関わることも多いのです が、企業研究(「お金」のための研究)では新発見や新発明を商品開発にまで進め、事業化により社会に貢献し、利益(お金)をいただき、事業継続を可能とします。わたしはこうしたビジネスに誇りをもっていますし、開発品が店頭に並び、みなさんに喜んで買っていただけることは、とても嬉しいものです。
 他方、特許出願とは異なって、学会などで企業研究の成果の一部を発表(無償で「公知」にする)することもあります。もちろん企業機密を守りながら、企業や商品の宣伝効果やお客様や学界への知的便宜をはかり、貢献し信頼を得ることが主たる目的です。7月にも繊維機械学会で講演を行いますが、そこでの資料やパワーポイントの画像に取り違えやミスがあるかもしれませんし、著作権や版権に問題なければコピペもします。間違いに気づけば謝り訂正しますし、それ以上聴講者から非難されたりバッシングされることもありません。企業の知見を無償で「公知」とするのですから、感謝されこそすれ、叩かれることはありません。 だから安心して発表できます。
 ところが、基本的に同じこと(自らの発見と仮説を論文発表することにより無償で「公知」にした)をした小保方さんはマスコミや評論家、御用学者から集団でバッシングされました。狂気の沙汰としか思えません。学術論文というものは、それまで誰も知らなかったことや定説とは異なる発見や仮説を発表するもので、その結論が「真理」かどうかはその時点では誰もわからないケースがあるのは当然ですし、だからこそ厳しい査読を経て、学術誌に掲載に値する仮説や発見と認められて掲載されるのです。
 従って、小保方さんの場合、STAP細胞やSTAP現象が真理かどうか、再現できるかどうかは、論文発表においては本来は問題とされません。何故なら、査読する方はそんなことまで実験して調べることはできませんから、仮説として論理的に成立しているかどうか、推論や論理展開に矛盾がないか、「公知」にするほどの内容かどうかが問題とされるのです。ですから、小保方さんがあれほど醜いバッシングを受ける理由がわたしには全く理解できません。写真の取り違えや、悪意のない画像修正(むしろ見やすくするための修正)は、訂正すればすむ問題であり、あれほどバッシングを受けるようなことではありません。
 理研の対応も理解に苦しみます。小保方さんに論文を取り下げろというのなら、その小保方さんの発見や成果に基づいて出した理研の特許も取り下げますというべきです。わたしはどちらも取り下げる必要はないと考えていますが。ちなみに、理研の特許を検索したところ、アメリカで国際特許を昨年4月24日に出願していました(PCT/US2013/037996)。同特許にはバカンティーさんや小保方さんらの名前も見え、そして恐らく開発に協力した日米の病院名も記されています。小保方さんのネイチャー誌への投稿が昨年3月10日ですから、ほぼ同時期に理研は論文と特許を出したことになります。
 通常、特許は出願してから1~2年ほどして公示されるのですが、同特許は専門的になりますが「先願権主張」のため、あえて早く公示される特許戦術を理研はとったものと推察されます。従って、理研はSTAP細胞やSTAP現象が正しいと確信していたはずです。でなければ膨大な経費(税金)を使って国際特許出願などしないでしょう。
 理研もマスコミもこの特許出願のことは全く知らぬふりをして、小保方さんの論文だけを「親の敵(かたき)」のようにバッシングしているのは、まったく理解できません。なぜ理研が出願した国際特許は叩かないのでしょうか。理研もなぜ特許の取り下げはいわないで、論文取り下げだけを問題とするのでしょうか。 特許による「お金」儲けは大切だが、発見した研究者の将来や名誉はどうでもよいと考えているのでしょうか。そうだとすれば、理研は血も涙もない非情で非常識な組織です。日本もいやな社会になったものです。若者の理科離れがこれ以上進まなければよいのですが。
 今回のSTAP論文騒動を見て、わたしは「和田家文書」偽作キャンペーンを思い出しました。マスコミや雑誌、御用学者を動員して研究者や文書所有者を執拗にバッシングするという構図がそっくりです。あの偽作キャンペーンが一つの契機となって「古田史学の会」は誕生したようなものですから、今回のSTAP論文騒動を契機として、日本の学問やマスコミ、学者や研究者のあり方が問い直されることを期待したいと思います。何よりも、国民が学問や研究のあり方、「お金」のための研究と真理追究のための研究を区別して判断する機会になればと思います。そうすれば、マスコミも日本社会ももう少し良くなるのではないで しょうか。
(本稿は4月の古田史学の会・関西例会で発表した内容を要約したものです。)


第693話 2014/04/13

古田武彦『古代は輝いていた I』復刊

 ミネルヴァ書房から古田先生の『古代は輝いていた I』が復刊されました。同書は古田先生による九州王朝通史で、全3冊の最初の一冊です。副題に「『風土記』にいた卑弥呼」とあるように、縄文時代から『三国志』倭人伝までの九州王朝の淵源から弥生時代の邪馬壹国までが論述されています。
 1984年(昭和59年)に本書は朝日新聞社から発刊され、後に文庫化されました。古田史学による初めての本格的通史であり、かつ刺激的な新発見が全3巻に掲載され、多くの古田ファンが魅了されました。今回の第1巻での新発見は、『三国志』倭人伝の女王卑弥呼(ひみか)が、「筑紫国風土記」に「甕依姫」 (みかよりひめ)として記されていることを発見、論証されたことです。本当に衝撃的な新発見で、わたしも大きな刺激を受け、北部九州の現地伝承や現地史料の再調査を改めて実施した記憶があります。
 これから第2巻、第3巻が引き続き復刊されますが、いずれにも当時としては画期的な新発見やテーマが取り扱われており、ミネルヴァ書房からの復刊により、新たな古田ファンが誕生することでしょう。まだお持ちでない方がおられたら、是非これら3冊を書架にそろえられることをお勧めします。


第681話 2014/03/21

「古典的名作」を観る、読む。

 わたしは恥ずかしながら、どちらかというと古典的文学作品や名作を観たり読んだりするほうではありませんでした。さすがに還暦が近づいてきましたので、少しは人類史上の古典的名作に触れる機会をつくろうと、一念発起しました。とは言え、いきなり長編大作を読む自信もなかったので、昨年の春に公開された映画「アンナ・カレーニナ」を観ました。ロシア文学の最高傑作といわれているトルストイの恋愛小説を、舞台劇形式で見事に映画化された作品でした(ジョー・ライト監督、イギリス映画)。また、主演女優のキーラ・ナイトレイがとても美しく、悲しく映し出されており、最後まで見入ってしまいました。そして何よりも、登場人物の発する一言一言が深く胸に残り、原作の素晴らしさを感じさせられました。
 もう一つ挑戦した古典的名作は、マックス・ウェーバー著の『職業としての学問』です。こちらは学生時代に挑戦しましたが、難しすぎて全く歯が立たなかった記憶があります。あれから40年もたっていますので、少しは理解できるのではないかと、岩波文庫版を購入し読んでみましたが、やはりダメでした。その難解な表現のために、ウェーバーの真意をなかなか正確に深く読みとることができません。成長していない自分が少し悲しくなりましたが、それでも次のような部分には、その言わんとする本質とはおそらく無関係に共感を覚えました。

 「学問に生きるものは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ、自分はここにこののちまで残るような仕事を達成したという、おそらく生涯に二度とは味われぬであろうような深い喜びを感じることができる。(中略)ある写本のある箇所について『これが何千年も前から解かれないできた永遠の問題である』として、なにごとも忘れてその解釈を得ることに熱中するといった心構え--これのない人は学問に向いていない。そういう人はなにかほかのことをやったほうがいい。いやしくも人間としての自覚のあるものにとって、情熱なしになしうるすべては、無価値だからである。」(岩波文庫『職業としての学問』22頁)

 この本は、今から約100年前の1919年にミュンヘンで学生たちに向けて行った講演の記録です。この部分を読んで、わたしが『古事記』写本の「治」や「沼」について「なにごとも忘れてその解釈を得ることに熱中」しているのは、学問に向いている証かもしれないとひとり喜んでいます。
 まだまだ不十分な理解にとどまっていますが、ウェーバーの『職業としての学問』から、多くの示唆を得ることができそうです。どなたか、この本についての解説を関西例会で講義していただければ、有り難いと思います。


第680話 2014/03/17

織田信長の石山本願寺攻め

 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」は、織田信長の摂津石山本願寺攻めが舞台となって展開中です。ご存じの通り、摂津石山本願寺の石山とは今の大阪城がある場所で、難波宮の北側です。大阪歴史博物館の窓からは大阪城と難波宮址の両方が展望できますので、お勧め観光スポットです。
 石山本願寺と織田信長の戦いは「石山合戦」と呼ばれ、10年の長きにわたり続きましたが、この歴史事実は石山がいかに要衝の地であり難攻不落であったかを物語っています。といいますのも、前期難波宮九州王朝副都説への批判として、太宰府のように神籠石山城に囲まれているのが九州王朝の都の特徴であり、前期難波宮にはそのような防衛施設がないことをもって、九州王朝とは無関係とする意見があるのですが、そうした批判への一つの回答が「石山合戦」なのです。
 先日の関西例会においても同様の疑問が寄せられましたので、神籠石山城の存在は「十分条件」ではあるが、「必要条件」ではないとする論理性の点からの反論をわたしは行ったのですが、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から、「難波宮は難攻不落の要害の地にあり、信長でも石山本願寺攻めに何年もかかり、秀吉はその地に大阪城を築いたほど」という指摘がなされました。その意見を聞いて、わたしは「なるほど、これはわかりやすい説明だ」と感じました。わたしがなかなかうまく説明できなかったことを、見事な例で言い当てられたのです。まさに「我が意を得たり」です。
 関西の人はよくご存じのことと思いますが、当時の難波は天王寺方面から北へ伸びている「半島」となっており、三方は海に囲まれています。現在も「上町台地」としてその痕跡をとどめています。その先端付近に難波宮があり、後にその北側に石山本願寺や大阪城が造られています。
 7世紀中頃、唐や新羅の脅威にさらされた九州王朝の首都太宰府は水城と大野城などの山城で周囲を防衛しています。その点、難波であれば朝鮮半島から遠く離れており、攻める方は関門海峡を突破し、多島海の瀬戸内海を航行し、更に明石海峡も突破し、その後に上町台地に上陸しなればなりません。特に瀬戸内海は夜間航行は不可能であり、夜間は各地に停泊しながら東侵することになります。その間、各地で倭国軍から夜襲を受けるでしょうし、瀬戸内海の海流も地形も知り尽くした倭国水軍(「河野水軍」など)と不利な海戦を続けなければなりません。したがって、古代において唐や新羅の水軍が自力で難波まで侵入するのは不可能ではないでしょうか。
 同様に日本海側からの侵入も困難です。仮に敦賀や舞鶴から上陸でき、琵琶湖の東岸で陸戦を続けながら、大坂峠を越え河内湾北岸まで到達できたとしても、既に船は敦賀や舞鶴に乗り捨てていますから、上町台地に上陸するための船がありません。このように、難波宮は難攻不落という表現は決して大げさではないのです。だからこそ近畿天皇家の聖武天皇も難波を都(後期難波宮)としたのです。
 同様の視点から、愛媛県西条市で発見された字地名「紫宸殿」も防衛上の問題があります。考古学的調査はなされていませんが、もし九州王朝のある時代の「首都・王宮」であったとすれば、ここも周囲に防衛施設の痕跡はありません。北方に永納山神籠石はありますが、離れていますから王宮防衛の役割は期待できそうにありません(せいぜい「逃げ城」か)。しかし、ここでも唐・新羅の水軍は関門海峡の突破と瀬戸内海の航行を経なければ到達できません。難波に至っては、その距離は倍になりますから、更に侵入困難であることは言うまでもありません。
 難波宮が防衛上からも、評制による全国支配のための「地理的中心地」という点からも、やはり九州王朝(倭国)の副都とするにふさわしいのです。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」で信長軍が石山本願寺攻めに苦慮しているシーンを見るにつけ、こうした確信が深まっています。