現代一覧

第1993話 2019/09/18

ミネルヴァ書房「日本評伝選」200巻

 「古田史学の会」では会員論集『古代に真実を求めて』を明石書店(東京)から発行していますが、ミネルヴァ書房(京都市)からも『「九州年号」の研究』『邪馬壹国の歴史学』を発行していただいています。ミネルヴァ書房は古田先生の著書復刻を手がけておられ、現在では手に入りにくくなっていた古田先生の著書が書店や図書館に並ぶこととなりました。古田史学を再び広く世に知らせる事ができ、ミネルヴァ書房には感謝しています。
 そのミネルヴァ書房・杉田啓三社長への取材記事が「読売新聞」2019年9月16日の文化欄に掲載されていることを服部静尚(『古代に真実を求めて』編集長)から教えていただきました。その記事は「日本評伝選」200巻発行の記念特集のようで、「半永久的に続ける覚悟」との見出しと共に杉田社長の写真が掲載され、比較的大きな扱いでした。
 同社が刊行を続けている「日本評伝選」は日本の歴史的人物を一人ずつ紹介するという人気企画です。ちなみにその最古の人物として邪馬壹国の俾弥呼が選ばれており、もちろん著者は古田先生です。記事には杉田社長のお話として、古田先生の名前が次のように出されています。

 「政治家、学者から芸術家、外国人まで幅広いラインアップにこだわりを詰め込んだ。卑弥呼の正式な名前に焦点を当てた『俾弥呼(ひみか)』(古田武彦著)や、伝説のプロレスラーの生涯を追った『力道山』(岡村正史著)など硬軟取り混ぜ、近年は『田中角栄』(新川敏光著)が話題を呼んだ。」

 わたしは、てっきり『親鸞』も古田先生が書かれるものと思っていましたが、残念ながら別の方が書かれています。この企画は「半永久的に続ける覚悟」とのことですから、いつの日かには『古田武彦』も出版されることでしょう。ちなみに古田先生の恩師『村岡典嗣』(水野雄司著、2018年)は既に出版されています。そういえば、古田先生は「わたしは『秋田孝季(あきたたかすえ)』を書きたい」とおっしゃっていました。村岡先生が書かれた名著『本居宣長』を意識してとのことと思います。


第1991話 2019/09/15

福島原発事故による古田先生の変化(2)

 今から10年ほど前のことです。「古田史学の会」役員の間に〝激震〟が走りました。「古田史学の会」全国世話人のAさんから、「古田先生は日本の自衛隊は核武装すべきと言っておられる」と驚きと共に心配のお電話がありました。Aさんは古田先生のご自宅の比較的近くに住んでおられたこともあり、古田先生と連絡を取り合う機会も多く、おそらくそうした個人的会話の中での先生の発言と思われます。そのとき、わたしがどのような返事をしたのかははっきりと記憶していませんが、否定はしなかったはずです。わたしは直接的な表現では聞いたことはありませんでしたが、古田先生がそうしたご意見を持っておられることに気づいていたからです。
 このようなことは、ほとんどの古田ファンや読者の方には信じてもらえないかもしれませんが、古田先生は常々、「世界最強の在日米軍が駐留している日本は真の意味での独立国家ではなく、そのため自衛隊には二流の兵器しか与えられていない」と語っておられました。そして自国の防衛は自国(一流の兵器を持った自衛隊)によってなされるべきと考えておられました。ですから、先生がいう「一流の兵器」とは、恐らく核兵器のことであろうとわたしは受け止めていました。しかし、先生から直接的な表現で自衛隊の「核武装」についてお聞きしたことはありませんでした。
 そのようなときに、次の一文を古田先生が発表され、わたしは驚愕したのでした。ミネルヴァ書房から復刊された『ここに古代王朝ありき』(2010年)巻末に付された「日本の生きた歴史(五)」の「第五 若者の頭脳」です。そこには放射能を発見したキュリー夫人の評価に触れ、次のように書かれています。

【以下、転載】
 (前略)
 事実、彼女(キュリー夫人)の娘イレーヌやその夫ジョリオが「発見」した人工放射能の秘密、またマイトナーやフェルミなど、ヨーロッパ・アメリカ文明の中から生まれた俊秀たちが「アッ!」というまに、「広島・長崎への原爆投下」の道を、その技術を切り開いたではありませんか。わたしの両親は広島(西観音町)でその洗礼を受けました。投下後、一週間して仙台から広島に帰り、傷死体の累積した市街をうろつきまわっていたわたしも、「第二次放射能の被爆者」です。いわば「広がる犠牲者」の末端に位置している人間の一人です。

       四

 わたしの言いたいこと、それは次の一点に尽きます。
 「わたしたちは未だに、キュリー夫人の願いに答えていない」
と。
 このような「巨大な爆発力」が実在する以上、それに〝打ち克つ力〟もまた、必ず実在するはずだ。
ーーわたしはハッキリとそう思っています。たとえば、
 第一、この「巨大爆発力」の研究がさらに進展して、「一発」で宇宙全体を〝吹き飛ばす〟能力を持ったとき、すなわちどの国もこれを「使用」することができなくなります。
 第二に、かりに「宇宙全体」ではなく、「地球全体」であったとしても、同じく「使用」できないのは、自明のことです。
 マイトナーやフェルミ段階では、その爆発力があまりにも「リトル」であり、「マイナー」だったから「使用可能」だったのです。

      五

 問題は、自然科学の分野にとどまりません。
 この「使用」は、人間の「個人」の手によるものではなく、同じく人間の「組織」によらなければならないこと、当然です。
 とすれば、そのような「人間の組織」に対してその組織の「生みの親」である人間の頭脳によって、徹底的な「再点検の手」が加えられなければなりません。「国連」も、「国家」も、「教会」も、「学校」も、「学会」も、そのすべてに対する徹底的な再批判です。
 それが最初にのべた「日本実証主義」の辿り、そして突き進むべき道です。わたしにはそう見えています。
 (後略)
【転載おわり】

 どう控えめに読んでも、この前半部分は相互確証破壊という核抑止理論と同様の考え方に基づいていることは明白でした。古田先生の持論を突き詰めれば、核兵器の使用(核戦争)をとどめるために一流の兵器による自国防衛という理論にたどり着くことも理解できないわけではありません。しかし、ここまであからさまな表現(「一発」で宇宙全体を〝吹き飛ばす〟)で発表されるとは思ってもいませんでした。
 この文が書かれた2010年8月6日は広島に原爆が投下された日です。当然、原爆の悲惨さを体験されている古田先生は、3度目の原爆投下をどうすればとどめることができるのか、考えに考え抜いて執筆されたことをわたしは疑えません。
しかしこの半年後、古田先生のこの考えを180度変えさせた大事件が発生します。2011年3月11日、東北大震災と福島第一原発の爆発事故です。(つづく)


第1910話 2019/05/30

「日出ずる国」の天子と大統領(2)

 トランプ大統領が言われた「日出ずる国」の出典は『隋書』国伝に記された九州王朝の天子、多利思北孤の国書の次の記事です。

 「其國書曰、日出處天子、致書日沒處天子、無恙、云云。」
【読み下し文】その国書に曰く、「日出ずる處の天子、日沒する處の天子に書を致す。恙(つつが)無きや。云云。」。

 多利思北孤自らの国書の文面ですから、当時の倭国は「日出ずる處」にあると倭国側が認識していたことを示しているのですが、実はそれほど簡単な問題ではないと古田先生は考えておられました。というのも、倭国(九州島や日本列島)から太陽は昇らず、はるか東の太平洋の向こう側から昇ることは倭人であれば周知の事実ですから、ここでいう「日出ずる處」は九州島や日本列島のことではないのではないかと古田先生は考えておられました。
 『三国志』倭人伝によれば、倭人は東南へ「船行一年」(一倍年歴の半年に相当)で中南米にあった「裸国」「黒歯国」に行っていたことが記されており、太陽は「裸国」「黒歯国」の東から昇ることを倭人は知っていたはずです。従って、多利思北孤が自らの国を「日出ずる處」と言うとき、その領域は太平洋の東にある〝太陽が昇る処の「裸国」「黒歯国」〟をも含む広大なものと認識していたはずと古田先生はされました。
 そのように考えると、『隋書』に見える国の領域を表した次の記事の意味が変わるかもしれません。

 「其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。」
【読み下し文】其の國境は東西五月行、南北三月行で各海に至る。

 この「東西五月行」が日本列島から中南米の「裸国」「黒歯国」へ向かう際の所用月数かもしれません。
 今回、紹介した古田先生の考えが正しければ、トランプ大統領のアメリカ合衆国を含む北米・中南米こそが九州王朝・多利思北孤にとっての「日出ずる国」ということになりそうですが、いかがでしょうか。


第1909話 2019/05/29

「日出ずる国」の天子と大統領(1)

 アメリカ合衆国のトランプ大統領が来日され、そのスピーチで万葉集や万葉歌人、そして「日出ずる国」などの日本古代史ではお馴染みの言葉を使われました。外交交渉においても、それぞれの国のトップが互いの国の歴史や文化を尊重することは大切と改めて思いました(仮にリップサービスであったとしても)。
 この「日出ずる国」の出典は『隋書』国(たいこく)伝の次の文章です。※この「」は「大委」(たいゐ)の一字表記。

 「其國書曰、日出處天子、致書日沒處天子、無恙、云云。」
【読み下し文】その国書に曰く、「日出ずる處の天子、日沒する處の天子に書を致す。恙(つつが)無きや。云云。」。

 大和朝廷一元史観による通説や歴史教科書では、聖徳太子による倭国(日本)と隋国(中国)との対等外交を著した国書とされています。現在、中国との「貿易戦争」を戦っているトランプ大統領が、古代日本の中国への対等外交の際に用いられた国書の意味や背景を理解した上で、「日出ずる国」という言葉を用いたとすれば、かなり意味深長です。
この国書をもらった隋の皇帝(煬帝)は気分を害したらしく、次のような文が続きます。

 「帝覽之不悦、謂鴻臚卿曰、蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
【読み下し文】帝、これを覧(み)て悦ばず。鴻臚卿に謂いて曰く「蠻夷の書に無禮あり。復(ま)た以て聞くなかれ。」と。

 中華思想により世界に天子は自分一人でなければならないと煬帝は思っていますから、「日出ずる處の天子」などと名乗る国書に激怒するのはよくわかります。
 古田説(九州王朝説)では、この「日出ずる處の天子」は聖徳太子ではなく九州王朝の天子、阿毎の多利思北孤のことで、その国には阿蘇山が噴火していると『隋書』には記されています。この『隋書』の記述はどう控えめに読んでも大和の聖徳太子や推古天皇のことではありません。何よりも「阿毎の多利思北孤」という名前の天皇は近畿天皇家にはいません。ちなみに、多利思北孤の奥さんの名前は「キミ」、太子は「利歌彌多弗利」と記されています。もちろんこのような名前の妻や子供を持つ天皇は近畿天皇家にはいません。
 阿蘇山の噴火を隋使は見ており、その情景が次のように記されています。

 「有阿蘇山、其石無故火起接天者」
【読み下し文】阿蘇山あり。その石、故無くして火を起こし、天に接す。

 この表現は実際に阿蘇山の噴火を見ていなければ書けないリアルなものです。そしてこの国には昔「卑彌呼」が女王として君臨したことも記されています。

 「有女子、名卑彌呼、能以鬼道惑衆、於是國人共立爲王。」
【読み下し文】女子あり、名は卑彌呼。鬼道を以て能(よ)く衆を惑わす。ここに於いて國の人、共立して王と爲す。

 このように『隋書』の一連の記事は、イ妥国を女王卑彌呼(『三国志』倭人伝の邪馬壹国。博多湾岸にあった倭国の中心国)の時代から続いた、阿蘇山がある九州の国であると述べているのです。普通に文章読解力や土地勘のある日本人なら、そのようにしか読めないでしょう。ところが日本の古代史学界ではこの記事が「大和朝廷(奈良県)」の記事に見えてしまうというのですから、一元史観の宿痾は深刻です。(つづく)


第1881話 2019/05/01

「令和」改元を祝い、「白雉」改元を論ず

 本日、新天皇が即位され、「令和」と改元されました。そこで、「令和」改元を祝い、あらためて九州年号の「白雉」改元を論じることにします。
 「洛中洛外日記」1880話(2019/04/26)〝『箕面寺秘密縁起』の九州年号〟において、「孝徳天皇御宇、白雉元年〈庚戌〉歳次壬子冬十月十七日」(庚戌:650年、壬子:652年)とあることを紹介しました。そして白雉元年に二つの異なる干支が記されるという不体裁の理由は、本来の九州年号の白雉元年壬子(652年)表記に、『日本書紀』孝徳紀の白雉元年庚戌(650年)の影響を受け、「庚戌」が付記された結果であるとしました。
 更に、芦屋市三条九之坪遺跡から出土した「元壬子年」木簡により、白雉元年の干支は壬子(652年)であり、『二中歴』などの九州年号の「白雉」(652〜660年)が正しく、『日本書紀』の「白雉」は二年ずらして転用していたことが明確となったわけですが、実は『日本書紀』そのものにも「白雉元年」を二年ずらしていた痕跡があることをわたしは発見し、「白雉改元の史料批判 -盗用された改元記事-」(『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、『古田史学会報』76号 2006年10月)として発表しました。
 その痕跡とは、『日本書紀』孝徳紀白雉元年(650年庚戌)二月条の白雉改元儀式の記事は、本来は白雉三年(652年壬子。九州年号の白雉元年に相当)二月条にあったものが削除され、元年(650年庚戌)二月条へ移されたことを示すある記述です。先の論文より当該部分を転載します。

【以下転載】
 このように、白雉元年(六五〇)二月条の改元記事が九州王朝史料からの盗用である可能性は極めて高いのであるが、今回新たに孝徳紀を精査したところ、同記事盗用の痕跡がまた一つ明かとなったので報告する。
 『日本書紀』の白雉と九州年号の白雉に二年のズレがあることは既に述べた通りであるが、それであれば九州王朝による白雉改元記事は、本来ならば孝徳紀白雉三年(六五二)条になければならない。そして、その白雉三年正月条には次のような不可解な記事がある。

 「三年の春正月の己未の朔に、元日の禮おわりて、車駕、大郡宮に幸す。正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。凡そ田は、長さ三十歩を段とす。十段を町とす。段ごとに租の稲一束半、町ごとに租の稲十五束。」

 正月条に「正月より是の月に至るまでに」とあるのは意味不明である。「是の月」が正月でないことは当然としても、これでは何月のことかわからない。岩波の『日本書紀』頭注でも、「正月よりも云々は難解」としており、「正月の上に某月及び干支が抜けたのか。」と、いくつかの説を記している。
 この点、私は次のように考える。この記事の直後が三月条となっていることから、「正月より是の月に至るまでに」の直前に「二月条」があったのではないか。その二月条はカットされたのである。そして、そのカットされた二月条こそ、本来あるはずのない孝徳紀白雉元年(六五〇)二月条の白雉改元記事だったのである。すなわち、孝徳紀白雉三年(六五二)正月条の一見不可解な記事は、『日本書紀』編者による白雉改元記事「切り張り」の痕跡だったのである。やはり、白雉改元記事は九州王朝史料からの、二年ずらしての盗用だったのだ。


第1874話 2019/04/13

「令和」と「ラフランス」と「利歌彌多弗利」

 新元号「令和」は国民の評判も良いようですし、わたしもラ行で始まる新元号が気に入っています。マーケティングの視点でも、新商品や新店舗のネーミングを柔らかい響きを持つラ行で始まる言葉にするのは、特に女性に好意的に受けとめられることが知られています。
 たとえば、人気のフルーツ「ラフランス」も本来の名前は「みだぐなす」でしたが、これは「見た目よくなし」という意味の産地の山形弁で、ネガティブな名前でした。明治時代にフランスからもたらされた洋なしの一種でしたが、全く売れませんでした。こんなに美味しいのになぜ売れないのだろうと、地元の農家が悩んだ末に相談した専門のマーケターの助言により名称を「ラフランス」に変えたとたん爆発的にヒットし、〝フルーツの王様〟の地位を占めた話は、わたしたちプロのマーケターの間では有名です。
 ところで、古代日本語(倭語)にはラ行で始まる言葉は無かったことが知られています。倭人にはラ行で始まる言葉は言いにくかったことがその理由かも知れません。中国から入った漢語には、たとえば「蘭(らん)」や「猟師(りょうし)」などのラ行で始まる言葉はあるのですが、本来の倭語には見当たりません。この事実に基づいて古田先生がある仮説を発表されたことをご存じでしょうか。
 『隋書』国伝には国王・多利思北孤の太子の名前が「利歌彌多弗利」と記されており、これはどう考えても「リカミタフツリ」あるいは「リカミタフリ」のようにラ行で始まる名前です。従って、通説では最初の「利」は「和」の誤りとして、「ワカンタフリ」と訓むとされてきました。しかし『隋書』の原文は「利」であり、「和」ではありません。そこで古田先生は「利歌彌多弗利」を「利、上塔(カミトウ)の利」とする訓みを提起されました。すなわち、「利」を倭語ではなく、中国風一字名称と理解されたのです。中国風一字名称であればラ行で始まっても不思議ではないからです。
 この古田説が正しいという証明は簡単ではありませんが、古代の倭語にラ行で始まる言葉がない以上、このような古田先生の理解しか成立できません。通説のように「和」の間違いとするのは原文改訂であり、安易に用いるべきではありませんから、相対的に古田説が有力となるわけです。
 以上のようなことを、新元号「令和」の発表で思い出しましたので、ご紹介します。


第1868話 2019/04/01

新元号「令和」を言祝ぐ

 本日、菅官房長官が新しい元号「令和(れいわ)」を発表されました。『万葉集』から「令」と「和」をとったとのこと。出典は下記の『万葉集』巻五、天平二年正月十三日に大宰府での梅花の宴で詠まれた「梅花三十二首」の序に見える「初春令月」で、漢籍ではなく日本の古典から採られたことに感慨深いものがありました。更に九州王朝の都であった太宰府で詠まれた歌ということにも因縁めいたものを感じました。

 初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。
〈読み下し〉初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮(はい)後の香を薫(かお)らす。

 というのも、古田先生は生前に日本の年号も漢籍からではなく、文化的にも独立して日本独自のものが望ましいということを語っておられたからです。そしてその一例として「富士(ふじ)」や「桜(さくら)」を挙げておられました。先生も冥界で「令和」選定を喜ばれていると思います。
 また「令和」改元により、年号に国民の関心が寄せられることもよいことと思います。近畿天皇家以前の年号「九州年号(倭国年号)」にまで関心の輪が拡がるように、「古田史学の会」で発行した『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房)と『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(明石書店)の二冊を歴史ファンに紹介していきたいと考えています。
 最後にお詫びを一つ。両書を各地の講演会で紹介したとき、「平成」の次の年号について、わたしの予想を紹介したのですが、残念ながらかすりもしませんでした。「令」の字は全くの想定外でしたし、「和」は「昭和」とかぶるので採用されないと説明してきました。「平成」改元のときは「平」の字が採用されることを、わたしは的中させたのですが、今回は見事に外れました。皆様、申し訳ありませんでした。


第1852話 2019/03/08

小笹 豊さん「九州見聞考」の警鐘(4)

 小笹さんは論稿末尾に「学問と政治」という一節を置き、次のような注目すべき〝警鐘〟を打ち鳴らしておられます。同論稿中、わたしが最も強く共鳴した部分でした。

 〝過日も多元の会員のかたから「(古代史の)通説など相手にするにたりない」と、私には‘鬼畜通説’‘敵性学問’と言わんばかりにも聞こえる言葉を聞いた。だが古田史学に傾倒する人の誰もが知るように、現実に一般社会に相手にされていないのはむしろ古田史学のほうである。この逆転の原因は何であろうか。〟
 〝刷り込みではない、本来的な意味での学問への取り組みかたは任意であり、とくに多元の会のように、会員の任意によって成立している集合体の各個人の取り組みかたは、極端にいえば‘偏屈老人の単なる居場所’であってもよいし、‘純粋に古代に真実を求める人の心地よい空間’であってもよい。これらの人々にとって通説が‘相手にするにたりないもの’であることも、私にはわかる。しかし‘相手にするにたりない’というその理由が、‘通説は、それを主張している側も、偽装歴史学、偽装学問であることを、百も承知で主張している’ということだとしても、ただ‘相手にするにたりない’ですませるだろうか〟

 このように鋭く問題提起されたあと、次のような衝撃的な告白と警鐘へと小笹稿は続きます。

 〝端的に言えば、私は「古代史がこの国の未来に影響がないのであれば、邪馬台国が近畿であろうと九州であろうと、どうでもよい。九州王朝論が正しかろうと、間違っていようと、どうでもよい。」と考える人間である。その立場から言えば、通説が社会を席巻している以上は、これを単に‘相手にするにたりない’とするだけでは絶対にすませられないのである。相手に、相手にされていない側が、相手を、相手にするにたりないと呼ばわる場合、そこには逃避の臭いが漂うことは、留意する必要があるだろう。〟

 「そこには逃避の臭いが漂う」という小笹さんの指摘(警鐘)は痛烈です。そして、この〝救いようのない現実〟にあって、氏は次のように未来の青年たちへの希望を滲ませておられます。

 〝古田史学は真実を求める。しかし通説に入ってゆく若者も、本来は熱意と能力と良心を持ち、真実を求めて入って行きながら、‘爾後その世界で身を立て、生活を支えねばならない’という若者独特の事情ゆえに、徐々にでも‘真実を求める青年の志’に決別してゆくのである。もしこの若者たちを世俗の呪縛から解放することができれば、歴史学に取り組む彼らの総合力は、古田史学の会や多元の会の、ささやかな老人パワーを圧倒して真実を明らかにするだろう。
 このことを私は、会員各自の取り組みが自由であることとは別に、共通の認識として共有することを切に願う。すくなくとも私の目標はここにある。〟

 ここで示された小笹さんの目標は、わたしの、そして「古田史学の会」の目標そのもそのです。
 小笹論稿最末尾に「(つづく)」とありますが、その続編は現在に至っても『多元』には掲載されていません。安藤会長におたずねすると、続稿は届いていないとのこと。わたしは続編を読みたいと強く願っています。


第1851話 2019/03/07

小笹 豊さん「九州見聞考」の警鐘(3)

 小笹豊さんは「九州見聞考」において、九州考古学界の重鎮、鏡山猛氏について次のような指摘をされています。

 〝(前略)鏡山氏は、軍役にも就いた経験もある、考古学・古代史学に、通説以外の見解がなかった(古田史学が登場する以前)時代、世代の考古学者で、当然のことながら氏の頭に九州王朝論はなく、通説だけが氏の頭に描かれた古代史解析の基礎となったパラダイムである。それは氏個人の責任ではないが、このことが氏にとって、観世音寺を、当否は別として、法隆寺西院伽藍の移築もととする米田氏のような自由な発想と比べて‘枷’になっていることと、そのパラダイムが戦前の皇国史観の延長線上のものであるという、学問上の本質的な問題点を抱えていること自体は否めない。〟

 小笹さんは続けて次のようにも述べられています。

 〝考古・古代史学は‘昔’を解析する学問であるが、実際に解析・解釈を担当しているのは、現代を含め、対象の年代から見れば後代の人々であって、その解析・解釈にはそれぞれの時代的・社会的背景が作用していることであろう。〟

 こうした小笹さんのご指摘は重要なもので、わたしも同様の視点で、常々、発言もしてきました。というのも、古田学派の研究者や古田ファンの少なからぬ方々が、考古学者による遺跡や出土物の説明を一元史観に基づいているとして批判・非難されることがあるのですが、わたしたち古田学派の人間が思っているほど考古学者は古田史学・九州王朝説を正しく十分に理解・認識されているわけではなく、従って遺跡・遺物に対する解析・解釈は通説(近畿天皇家一元史観)に基づかざるを得ず、またそうすることが彼らにとっての〝学界の基本ルール〟でもあるのです。
 この〝学界の基本ルール〟を墨守する考古学者を一方的に責めるのは酷というものであり、むしろ日本社会において〝学界の基本ルール〟を変えることができない、対等に渡り合えない、圧倒的な少数意見(社会的非力)という状況を未だ変えることができないわたしたち古田学派の〝責任(歴史的使命)〟でもあるのです。小笹論稿にはこうした警鐘が通奏低音の如く鳴り響いており、わたし自身にも耳鳴りのように止むことなく鳴り続けているのです。(つづく)


第1850話 2019/03/06

小笹 豊さん「九州見聞考」の警鐘(2)

 「多元的古代研究会」機関紙『多元』No.115(2013年5月)に掲載された小笹豊さん(横浜市)の論稿「九州見聞考」は次のような書き出しで始まります。

 〝二〇〇九年に社会人生活を一応卒業した私は、翌二〇一〇年、九州・福岡の西南学院大学・国際文化学科に学士入学し、考古学を専門とする高倉洋彰教授(九州大学出身、文学博士、高倉は旧姓で戸籍上の姓は石田さん)のゼミに所属した。〟

 ちょうど「洛中洛外日記」1841話で高倉さん(西南学院大学名誉教授)の論文「観世音寺伽藍朱鳥元年完成説の提唱 ―元明天皇詔の検討―」について論じていたこともあり、この小笹稿の書き出しに誘われて全文を読み直すことになったのです。小笹稿では高倉さんについて次のように紹介されています。

 〝高倉教授自身の弁によれば、九州大学を出たあと、当初は福岡県に勤務する考古学者であったご本人は、縁あって観世音寺に婿養子として入り、ときを経て住職になった。
 高倉氏の九大時代の恩師が観世音寺の発掘調査を担当した鏡山猛氏なので、この際のキューピットは鏡山氏だったのではないか、つまり鏡山氏は高倉氏にとって単なる学問上の恩師ではなく、観世音寺との縁を取り持ち、高倉氏の人生に大きな転機をもたらした恩人なのではないかと、私は勝手に推察している。〟

 この記事により高倉氏が観世音寺のご住職であり、鏡山猛氏のお弟子さんだったことをわたしは知りました。鏡山氏といえば太宰府条坊復元案を提起された九州考古学界の重鎮です。わたしも、当初、鏡山説に基づいた太宰府条坊研究や仮説を提起していましたので、鏡山氏は多くの影響を受けた先学のお一人です。(つづく)


第1849話 2019/03/04

小笹 豊さん「九州見聞考」の警鐘(1)

 「古田史学の会」の論集『古代に真実を求めて』22集が今月末にも発行が予定されています。特集タイトルは「倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史」です。どのような表紙になるのか、全体としての出来映えはどうかと、今から楽しみにしています。
 おかげさまで、特集タイトルを書名とし、コンセプトを明確にした論集作りを始めた最初の1冊『盗まれた「聖徳太子」伝承』(18集)は比較的早く初刷りが完売し、増刷できました。一昨年出版した『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(20集)も、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)からの報告によれば出版社(明石書店)の在庫も底をつき、もうすぐ増刷となりそうです。服部さんを始め、編集部の方々、そして執筆者・関係者のご尽力の賜です。
 論文集ですから掲載論文の学問的レベルが最も大切ですが、それでも売れなければ世に古田史学を広め、後世に伝えることができません。そうした「古田史学の会」の目的のためにも、訴求力を持ったタイトルの選定も重要です。結果として増刷になれば、そのタイトルは「合格」ということにもなりますので、「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」も「合格」をいただけたようです。わたしは「古田史学の会」の代表ですから、論集の学問的レベルと販売部数(マーケットでの高評価獲得。会の財政事情改善)の両方に対して責任がありますので、まずは一安心です。
 今は2020年発行の『古代に真実を求めて』23集の特集について検討を進めています。来年がちょうど『日本書紀』編纂千三百年になりますから、『日本書紀』に関わるテーマが特集の有力候補として上がっています。そこで『日本書紀』に関わる既発表の研究論文の精査を連日行っています。その対象は『古田史学会報』だけではなく、広く古田学派の論文にも目を通しています。
 その作業を進める中で、驚きの論稿を「発見」しました。正しくは「再発見」のはずなのですか、当初、読んだときにはその論文の意義にわたしは気づけなかったようで、内容も完全に失念していました。その論稿とは「多元的古代研究会」機関紙『多元』No.115(2013年5月)に掲載された小笹豊さん(横浜市)の「九州見聞考」です。(つづく)


第1807話 2018/12/21

千里コラボ大学校で大下さんが講演

 大下隆司さん(古田史学の会・会員、豊中市)が千里コラボ大学校で講演されますのでご案内します。なお、講座の一環として開催されますので、聴講には参加申し込みが必要です。古田史学による古代史講演で、初心者にもわかりやすい内容です。

演題 よみがえる古代の真実 〜「日本国」年号が始まる以前の姿〜
日時 2019年1月12日(土) 14:00〜16:15
講師 大下隆司さん(「豊中歴史の会」主宰、古田史学の会・会員)
会場 千里文化センター「コラボ」 3階  第1講座室
   (豊中市新千里東町1-2-2) ※大阪急行「千里中央駅」下車すぐ
参加費 無料 定員70名
お申込・お問合せ 千里文化センター事務局 ℡06-6831-4133
主催 千里文化センター市民実行委員会・豊中市

 日本の古代史は『日本書紀』を「主」とし、神話は架空の出来事、中国史書は信頼性がないとされ「従」として描かれてきました。ところが世界では各地の遺跡発掘が進み、神話にも歴史的事実が反映されていることがわかり、中国史書にある周辺諸国の記述も再評価されています。日本の古代史も、神話や『古事記』を詳しく分析し、また中国史書の記述を率直に読み、組み立てていくとどうなるのでしょうか。私たちが学校で学んだ歴史とは全く違った姿が浮かび上がってきました。スライドを使い分かり易く、日本の古代の真実の姿を紹介します。(案内ポスターより転載)