「 神武天皇 」一覧

第1347話 2017/03/04

続・和歌山の神武(鎮西将軍)

 昨日から奈良大学生の日野さん(古田史学の会・会員)と筑前・筑後の史跡調査旅行を続けています。昨日は水城・大宰府政庁跡・観世音寺・大野城山城を見学しました。今日は高良大社・高良山神籠石・大善寺玉垂宮・岩戸山古墳・瀬高のこうやの宮を見学しました。
 わたしが運転するクルマでの会話で、「洛中洛外日記」で紹介した「和歌山の神武(鎮西将軍)」について日野さんから次のような疑問が出されました。鎮西将軍とは神武のことではなく、数次にわたる九州王朝からの東征軍の将軍の一人ではないかという疑問です。『紀州名勝志』所載の「朝椋神社伝」の次の記事が神武とほ別の東征軍の将軍ではないかと指摘されたのです。

 「上古鎮西将軍〔不知何御宇何許人〕攻伐之砌、為最勲故二造建」(※〔 〕内は細注。)

 実はわたしも気になっている部分でした。『日本書紀』成立以後であれば「鎮西将軍」などという名前ではなく神武の伝承としてそのまま伝えればよいのに、何故「鎮西将軍」などという表記で伝承したのかが不明でした。通常、古代の伝承は権威付けのため大和の天皇と結びつけて修飾・改変されることが多いのですが、この和歌山での伝承は敢えて神武と結びつけることなく「鎮西将軍」という表現で伝承されており、そうした理由があるはずです。そのような問題意識を持っていたので、日野さんのご指摘にはうなづけるものがありました。
 この和歌山の「鎮西将軍」伝承については、日野さんのご意見も考慮して引き続き検討したいと思います。


第1346話 2017/03/02

和歌山の神武(鎮西将軍)

 久しぶりの和歌山出張ということもあり、和歌山市の古代史で多元史観により考察すべきテーマがないか、ちょっとだけ調査してみました。すると、面白い伝承(史料)の存在に気づきましたのでご紹介します。
 『延喜式』神名帳にも記された当地の古い神社に「朝椋神社」(あさくらのじんじゃ)があるのですが、『紀州名勝志』所載の「朝椋神社伝」に次のような記事があるとのことです。

 「上古鎮西将軍〔不知何御宇何許人〕攻伐之砌、為最勲故二造建」(※〔 〕内は細注。)

 ちなみに、和歌山県立図書館所蔵『紀州名勝志』写本には「朝椋神社伝」は記載されていませんでした。どの写本にあるのか調査中です。
 いつの頃かどこの人かは知らないが、上古に「鎮西将軍」という人物が攻めてきて最も武勲があったので、この神社を建造したという不思議な記録です。何らかの当地の伝承が記されたものと思われますが、「鎮西将軍」とは「九州の軍団の長」を意味しますから、この地にそのような人物が戦功をあげたというのであれば、その第一候補はやはり神武ではないでしょうか。というよりも、それ以外の人物や伝承をわたしは知りません。
 記紀によれば神武兄弟は河内湾に突入するものの敗北し、兄の五瀬命は戦死します。神武は兄を和歌山の竃山に埋葬し、紀伊半島南端から上陸し、紀伊半島を山越えして奈良に侵入したと記載されていますから、和歌山市付近まで来たことになります。その後の神武の記事は天孫降臨時のニニギ等の伝承が盗用されているとわたしは考えていますから、神武がどのルートを通って大和に進入したのかは不明です。しかし、兄の亡骸を竃山に埋葬できたのですから、和歌山市近辺は制圧していた可能性が高いように思われます。敵地に兄を埋葬し、その地を離れたとは考えにくいからです。
 そうすると神武こそ当地で戦功をあげた「鎮西将軍」として伝承されるにふさわしい人物だと思われるのですが、いかがでしょうか。もしこの理解が正しければ、神武が大和に侵入するルートとして紀ノ川沿いを遡行したと考えてみたいところです。いずれにしましても、現段階では調査を始めたばかりですので、間違っているかもしれませんが、興味深い伝承ですので、ご紹介することにしました。

《補筆》本稿に先行する出色の論文があります。義本満さんの「紀ノ川の神武」(『『市民の古代』』第3集、1981年)です。神武は和歌山で戦い、紀ノ川を遡行して大和に突入したとする先行説です。「古田史学の会」HPに掲載されていますので、是非、ご一読下さい。


第925話 2015/04/17

久留米市「伊我理神社」調査報告

 久留米市の犬塚さんから、同市城島町の「伊我理神社」調査報告のメールが届きました。ホームページ読者からのこうした現地調査報告は大変ありがたいことです。しかも、かなり詳細な報告でしたので、様々な問題点が明らかとなり、今後の研究にとても役立ちました。犬塚さんのご了解を得ましたので、メールを転載し、わたしの考察を付記します。

【調査報告】※メールより抜粋。(転載文責:古賀)

古賀達也様
 
 洛中洛外日記第911話の「威光理神社」に関し、資料及び現地調査(2015.4.15)から以下のようなことが分かりましたのでご報告します。他の方からの情報と重複する部分があればご容赦ください。

1 威光理神社(伊我理神社)は、城島町に4社存在します。
 
(1)伊我理神社      久留米市城島町楢津1364
    祭神 天照大神荒御魂
 
    威光理大明神(寛文十年久留米藩社方開基)
    威光理宮(神社仏閣并古城跡之覚書)
  威光理明神社(筑後志)
 伊我理神社(福岡県神社誌下巻)
    威光理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財)
    伊我理神社(城島町誌)
 
  現地調査の結果:鳥居(昭和15年建立)の神額及び境内の芳名録(昭和13年)には「威光理神社」とあり、建立祈念碑(平成20年)では「伊我理神社」と なっている。
 
(2)伊我理神社       久留米市城島町六町原847
    祭神 天照大神荒御魂
 
    威光理大明神(寛文十年久留米藩社方開基)
    威光理神社(神社仏閣并古城跡之覚書)
    威光理明神社(筑後志)
    伊我理神社(福岡県神社誌下巻)
    伊我理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財)
    伊我理神社(城島町誌)

 現地調査の結果:鳥居(平成18年再建)の神額には「伊我理神社」とある。境内には、小さな拝殿があるのみで神社名や祭神を示すものは何もない。
 
(3)天満宮        久留米市城島町大依190
  祭神 菅原道真
    合祀  威光理神社

  末社 威光理五社大明神(神社仏閣并古城跡之覚書)
  境内神社 伊我理社(福岡県神社誌下巻)
    合祀 威光理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財)
    合祀 威光理神社(城島町誌には「昭和37年10月18日天満神社神殿に遷宮し、合祀した。」とある。)

 現地調査の結果:境内には由緒を説明するものはなく、威光理神社を示すものも見当たらなかった。

(4)高良玉垂神社(旧七社大権現)久留米市城島町楢津942-1
  祭神 正座七社 高良玉垂命・住吉大神・八幡大神・須佐之男命・川上大神・熊野大神・天満宮
    相殿二社 伊我理社・諏訪社
    末社 威光理大明神社(寛文十年久留米藩社方開基)
    すき崎 威光理大明神(神社仏閣并古城跡之覚書)
     末社 威光理神社(筑後志)
     伊我理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財「昭和39年3月合祀、末社として境内に祀った。」)
     末社 伊我理神社(城島町誌)

 現地調査の結果:由緒に「昭和三十八年十月諏訪神社・伊我理神社合併本社に合祀する。」とあった。境内東側に、上記合祀に伴い境外から移設した鳥居(建立年代不詳)があり、その神額には「伊我理神社」とあった。

2  高良玉垂神社に対する聴き取り調査(2015.4.16)
 上記四社の管理を行っている高良玉垂神社に対し電話で聴取を行った。禰宜の大石さんから以下のような話をいただいた。

 高良玉垂神社の境内にある伊我理神社の鳥居は、昭和38年の合祀の際、別の場所にあった伊我理神社から移設したものである。現在その場所には何もない。鳥居が建立された時期についてはよく分からない。
 大依の天満宮には、伊我理神社が昭和37年に合祀されている。本殿が新設された際境内にあるすべてのものを本殿に納めたので境内には何もない。
 神社の名称が「威光理神社」から「伊我理神社」に替わったという認識はない。従前「いかり」という名に「威光理」や「伊我理」の漢字を当てはめ、併用されてきたと思われる。現在は「伊我理神社」に統一されている。楢津の「伊我理神社」も鳥居には「威光理神社」とあるが、正式には 「伊我理神社」である。名称が四社とも統一されたのは、第二次大戦後宗教法人として登録する際煩雑さを避けるためであったと聞いている。

 

3  その他
 城島町誌103頁に、城島の地名の由来として次のような記述があります。

「井上農夫の調査によると、光孝天皇の仁和三年(887)、豊島真人時連が高三潴の役所に近い大依に土着し、氏神伊我理神を祀り、周囲の海岸・潟地・洲島を開拓して勢力を広めた。」

 この郷土史家井上農夫の調査の内容、資料については何も示されていないため、当初から「伊我理」という神名であったのか確認ができない状態です。今後何か分かれば追ってお知らせしたいと思います。

  久留米市 犬塚幹夫

【古賀の考察】
(1)現在は「伊我理神社」に名称は統一されているが、江戸時代の史料には全て「威光理」とあることから、本来の名称は「威光理」と考えられる。

(2)江戸時代よりも後に「伊我理」の名称が採用されたが、御祭神は「天照大神荒御魂」とあり、伊勢神宮末社「伊我理神社」の御祭神伊我理比女命とは異なる。従って、神社名は伊勢神宮末社と同名に改称したが、御祭神まで同一にはしなかった。ただ、いずれも女神という点で一致しており、留意したい。

(3)「井上農夫の調査」によれば、仁和三年(887)に豊島真人時連が当地に氏神として祀ったとあり、これが正しければ「威光理」は当地あるいは近隣地域の氏神であり、「現地神」ということになろう。

(4)現地神であれば、「威光理」とは地名か神の固有名の可能性が高い。

(5)そうすると、現在の御祭神「天照大神荒御魂」も本来の名称ではなく、いずれかの時代に御祭神が変更・改称されたと考えられる。恐らく、神社名が「威光理」から「伊我理」に変更されたときではないか。

 以上のように考察しましたが、引き続き調査検討します。犬塚さん、ありがとうございました。


第921話 2015/04/12

『新撰姓氏録』の

   「光井女」

 『筑後志』三潴郡の「威光理明神」は神武記に見える「井氷鹿」のことではないかとする思いつきから始まった今回の探索は、伊勢神宮にまで行き着きついたのですが、伊勢神宮末社の伊我理神社の御祭神が伊我理比女命という女性であったことに、ちょっとおどろきました。というのも、かなり昔に『新撰姓氏録』の研究を行ったとき、次のような記事があり、よく理解はできませんでしたが、当時から注目していました。『新撰姓氏録』「大和国神別」に見える「吉野連」の次の記事です。

 「神武天皇が吉野へ行幸し、神の瀬に至り、水汲みに人を派遣した。帰った来た使者が言うには、光井女がいたと。天皇が召し出して名を尋ねたところ、わたしは天降り来た白雲別神の娘で、名前は豊御富ですと答えた。そこで天皇は水光姫と名付けた。今、吉野連が祭る水光神とはこのことである。」(古賀訳)

 この『新撰姓氏録』の記事は、当時の吉野連の伝承と記紀に見える「井氷鹿」「井光」記事から成立したものと思いますが、「光井女」と女性の伝承となっています。ちなみに記紀の記事からは性別はわかりません。伊勢神宮の末社に祭られた伊我理比女と『新撰姓氏録』の「光井女」(豊御富・水光姫)記事はともに女性の伝承としていますから、もしかすると三潴郡の威光理明神も女性かもしれませんが、今のところ判断できません。
 なお、佐伯有清さんの『新撰姓氏録の研究』(吉川弘文館)によれば、『新撰姓氏録』の諸版本には「井光女」とあり、諸本には「光井女」とあるとのこと。(つづく)


第920話 2015/04/12

伊勢神宮外宮末社の

     井中神社

 伊勢神宮外宮末社の伊我理神社を調べていて興味深いことを知りました。伊我理神社内に井中神社が同座しているのです。明治時代に井中神社が別のところから伊我理神社に遷座したようですが、このことについて詳細な事情はわかりませんので調査中です。
 この井戸の神様と思われる井中神社が同座しているという事実は、伊我理神社も「イノシシ退治の神」というよりも、本来は井戸に関わる神ではないかと、わたしは考えたのです。伊勢神宮内に数ある摂社・末社の中から、伊我理神社ををわざわざ選んで同座させたのですから、少なくとも明治時代に同座先を選んだ人々は、そのように認識していたのではないでしょうか。そうしますと、伊我理神社は記紀に見える「井氷鹿」「井光」と無関係ではないと思われるのです。
 『古事記』神武記によれば、「吉野河の河尻」の井戸から現れた「国神」が「井氷鹿」と名乗りますから、「井氷鹿」は井戸の神様、あるいは井戸と関わる神様と理解されます。従って、久留米市の威光理明神も伊勢神宮の伊我理比女命も本来は井戸に関わる同一人物(神様)ではないでしょうか。
 こうした思いつきを確かめるべく、インターネットで調査していましたら、伊勢神宮崇敬会神宮会館のホームページに次のような説明がありました。転載します。

伊我理神社(いがりじんじゃ)豊受大神宮末社
伊我理比女命(いずりひめのみこと)
祭神は外宮御料田の井泉の神、伊我理比女命。末社の井中神社(いなかじんじゃ)が御同座されている。古く外宮御料田の耕種始めの神事が行われ、猪害を防ぐ意味のお祭りであり、猪狩(いかり)がその名の由来といわれている。参道右手斜め上の神社は度会大国玉比賣神社である。

■伊我理神社御同座(一緒に祭られている神社です)
井中神社(いなかじんじゃ)豊受大神宮末社
井中神(いなかのかみ)
かつては外宮の御神田の井泉の神として仰がれたと伝わる。

 この解説によると伊我理神社も井中神社も「井泉の神」とされており、わたしの思いつきと一致しています。伊勢神宮と関わりが深い神宮会館のホームページですから、伊勢神宮の見解を表していると見なしてよいと思いますが、現地調査を行い、確認する必要があります。
 こうして、『筑後志』の「威光理明神」は「井氷鹿」のことではないかとする思いつきから始まった探索は、伊勢神宮にまで行き着き、いずれも「井戸」との関わりが明確となってました。(つづく)


第918話 2015/04/10

伊勢神宮外宮末社

   の伊我理神社

 『筑後志』に「威光理明神社」とあった旧三潴郡の神社が、現在は伊我理神社に名称変更になっているようですが、この理由を明治時代に行われた記紀に見えない「地方神」を淫祠邪教として排斥する運動に対抗して、神社存続のため名前の訓みが類似した伊勢神宮外宮末社の伊我理神社に改名したことによるのではないかと、わたしは推測しています。他方、それでは伊勢神宮の伊我理神社とはいったいどのような神様なのかについて興味がわきました。
 インターネットで簡単に調べてみたところ、御祭神は「伊我理比女命」(いがりひめのこと)とのことで、田畑を荒らすイノシシを狩る神様(猪狩・いかり)と説明されていました。この説明にわたしは「?」でした。イノシシを狩る神様が女性とは、ちょっと理解しにくいと感じたのです。本当にそうだろうか、「いがり」という訓みから、「猪狩」のことと判断され、後付けで「イノシシ退治の神様」とされたのではないかという疑問を抱いたのです。
 たとえば、埼玉県秩父市にある猪狩神社は倭武命のイノシシ退治に由来するとされており、お姫様のイノシシ退治ではありません。なぜ、伊勢の伊我理神社の御祭神は女神なのでしょうか。やはり、本来はイノシシ退治とは無関係な女神ではないでしょうか。(つづく)


第916話 2015/04/08

「吉野河の河尻」

  の威光理(いひかり)

 わたしが『筑後志』三潴郡条に見える「威光理」を記紀の神武東征説話中の「井氷鹿」「井光」のことではないかと考えたのは次の理由からでした。
 『古事記』の神武東征説話中の「天神御子」説話は天孫降臨におけるニニギの肥前侵攻説話の盗用と考えられ、たとえば「吉野河の河尻(河口・下流)」という表現は大和山中の吉野川(上流域に相当)は妥当せず、佐賀県吉野ヶ里付近の「吉野河の河尻」と理解しました。この考えが正しければ、神武(わたしの説ではニニギ)が吉野河の河尻で会った「井氷鹿」もこの地方の「神」であったことになり、『筑後志』の「威光理明神」を見たとき、これこそその痕跡ではないかと思ったのです。
 ですから、この仮説の傍証ともなる久留米市の「威光理明神社」を調査したかったのです。現在では「伊我理神社」と表記されているようですが、現地調査により、『筑後志』の「威光理」が本来表記であることが確認できれば、わたしの仮説を強化することができるのです。

(補記)本日、正木裕さんからいただいたメールによると、久留米市の伊我理神社に「威光理神社」という表記があるという報告がネット上にあるとのこと。近藤さんからの調査報告を待って判断したいと思いますが、どうやらわたしの推論は間違っていないようです。


第915話 2015/04/07

久留米市の「伊我理神社」

 わたしたち「古田史学の会」のホームページには多くのメールが送られてきます。スパムメールも少なくないのですが、わたし宛のメールはインターネット事務局の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人)から転送されてきます。なるべくご返事を書くようにしているのですが、内容的に返答に困るものもあり、かつ忙しいこともあってご返事が滞ることもあります。
 そうしたホームページ読者の近藤さん(久留米市在住)から久しぶりにメールをいただきました。「洛中洛外日記」911話で紹介した『筑後志』に見える三潴郡「威光理明神社、同郡六丁原村にあり。」「威光理明神社、同郡高津村にあり。」の両神社を調査していただけるというご連絡でした。
 わたしは「威光理」を「いひかり」と考え、記紀の神武東征説話に登場する「井光」「井氷鹿」のことではないかと考えていますが、近藤さんが地図で事前調査されたところ、久留米市城島町の六町原(ろくちょうばる)と高津にあるのは「伊我理神社」とのことで、「いがり」と読めます。「いひかり」とは異なりますので、不思議に思いましたが、本来はやはり『筑後志』にある「威光理」ではないでしょうか。
 というのも、明治時代に全国で荒れ狂った廃仏毀釈騒動のとき、破却されたのはお寺や仏像だけではなく、記紀に見えない「地方神」も淫祠邪教として統廃合や弾圧の対象になりました。そこで、地元の人々は神社名を変えたり、御祭神を記紀に見える有名な神名に変更して神社を守ったという歴史があります。この久留米市の「威光理明神社」も同様に記紀に見えず、神社の破却を免れるため、有名な伊勢神宮下宮の末社の一つ「伊我理神社」に名称変更したのではないかとわたしは推察しています。
 もし、そうであれば「威光理」と似た読みの「伊我理(いがり)」へ変更されたと考えられ、このことは「威光理」が「いひかり」と読まれていたとする理解を支持するのです。そこで、わたしは近藤さんに久留米市城島町の「伊我理神社」調査に当たり、現地の人は既に改名後の「いがり」と発音している可能性が高いので、江戸時代の石碑や鳥居などに「威光理」とあるのか「伊我理」とあるのかを調べてほしいとお願いしました。近藤さんから調査報告がありましたら、「洛中洛外日記」でご紹介します。とても楽しみにしています。