古田武彦一覧

第1313話 2016/12/24

「学問は実証よりも論証を重んじる」の出典

 古田先生が亡くなられて1年を過ぎました。亡師孤独の道をわたしたち古田学派は必死になって歩んだ一年だったように思います。これからも様々な迫害や困難が待ち受けていると思いますが、臆することなく前進する覚悟です。
 わたしが古田先生の門を叩いてから30年の月日が流れました。その間、先生から多くのことを学びましたが、今でも印象深く覚えている言葉の一つに「学問は実証よりも論証を重んじる」があります。古田史学や学問にとって神髄ともいえる言葉で、古田先生から何度も聞いたものです。この言葉の持つ意味については、『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集、明石書店)に「学問は実証よりも論証を重んじる」という拙稿を掲載しましたので、ぜひご覧ください。
 この言葉は古田先生の恩師村岡典嗣先生の言葉とうかがっています。そのことにふれた古田先生自らの文章が『よみがえる九州王朝』(ミネルヴァ書房)に収録された「日本の生きた歴史(十八)」に次のようにありますのでご紹介します。

「第一 『論証と実証』論

 わたしの恩師、村岡典嗣先生の言葉があります。
  『実証より論証の方が重要です。』
と。けれども、わたし自身は先生から直接お聞きしたことはありません。昭和二十年(一九四五)の四月下旬から六月上旬に至る、実質一カ月半の短期間だったからです。
 『広島滞在』の期間のあと、翌年四月から東北大学日本思想史科を卒業するまで『亡師孤独』の学生生活となりました。その間に、先輩の原田隆吉さんから何回もお聞きしたのが、右の言葉でした。
助手の梅沢伊勢三さんも、『そう言っておられましたよ』と“裏付け”られたのですが、お二方とも、その『真意』については、『判りません』とのこと。“突っこんで”確かめるチャンスがなかったようです。

 今のわたしから見ると、これは『大切な言葉』です。ここで先生が『実証』と呼んでおられたのは『これこれの文献に、こう書いてあるから』という形の“直接引用”の証拠のことです。
 これに対して『論証』の方は、人間の理性、そして論理によって導かれるべき“必然の帰結”です。
(中略)
 やはり、村岡先生の言われたように、学問にとって重要なのは『論証』、この二文字だったようです。」

 このように古田先生は、わたしが何度もお聞きした「学問は実証よりも論証を重んじる」という言葉についてはっきりと自著にも残されています。もしこの言葉が古田先生の著書には書かれていないという方がおられれば、それは事実とは異なります。


第1267話 2016/09/05

「三角縁神獣鏡」古田説の変遷(2)

 古田先生の最新刊『鏡が映す真実の古代』によれば、三角縁神獣鏡の成立時期を古田先生は「景初三年(239)・正始元年(240)」前後とされました(「序章」2014年執筆)。当初は4世紀以降の古墳から出土する三角縁神獣鏡は古墳期の成立とされていたのですが、この古田説の変化についてわたしには心当たりがありました。それは1986年11月24日、大阪国労会館で行なわれた「市民の古代研究会」主催の古代史講演会のときで、テーマは「古代王朝と近世の文書 ーそして景初四年鏡をめぐってー」でした。
 この講演録は『市民の古代』九集(1987年)に講演録「景初四年鏡をめぐって」として収録されており、「古田史学の会」ホームページにも掲載しています。当該部分を略載します。なお、この講演録が『鏡が映す真実の古代』に収録されなかった理由は不明です。平松さんにお聞きしようと思います。

〔以下、転載〕
 今、仮に「夷蛮」、この言葉を使わせてもらいます。(中略)いわゆる中国の周辺の国々に、いちいち早馬だか、早船を派遣して全部知らせてまわる人などということはちょっと聞いたことがないわけです。そうするとその場合、どうなるかというと、周辺の国が中国に使いをもたらしていた。それを中国では「朝貢」という上下関係、それでなければ受けつけない。現在で言えば「民族差別」「国家差別」でしょうが、そういう「朝貢」をもっていった時に、年号の改定が伝えられるというのが、正式な伝え方であろうと思うのです。
(中略)そういう時にその布告、「年号が変わった」ということが伝えられることになるわけです。そうしますとそういう国々で金石文をつくりました場合はどうなりますか。要するに中国本土内では存在しない「景初四年何月」という、そういう年号があらわれる可能性がでてくるわけでございます。事実、ここにちゃんとでてきているわけです。そうするとこの鏡は実は中国製ではない。「夷蛮鏡」という言葉を、私のいわんとする概念をはっきりさせるために、使ってみたんです。この年号は「夷蛮鏡」である証拠ではあっても、中国製である証拠とはならない、私は自分なりに確認したわけでございます。
〔転載終わり〕

 この講演を聴いたとき、わたしは驚きました。「景初四年鏡」を景初四年に国内で作られたとされたので、従来の三角縁神獣鏡伝世理論を批判されてきた理由との整合性はどうなるのだろうかとの疑問をいだいたのですが、わたしは「市民の古代研究会」に入会したばかりの初心者の頃でしたから、恐れ多くてとても質問などできないでいました。今、考えると、この頃から古田先生は三角縁神獣鏡の成立時期について見解を新たにされていたのではないかと思います。このことを、わたしよりも古くから先生とおつき合いされていた谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)にお聞きしたところ、わたしと同見解でした。谷本さんも「景初四年鏡」の出現により古田先生は見解を変えられたと思うとのことでした。(つづく)


第1265話 2016/09/01

「三角縁神獣鏡」古田説の変遷(1)

 平松健さん(東京古田会)が編集された古田先生の最新刊『鏡が映す真実の古代』(ミネルヴァ書房)を読んでいますが、三角縁神獣鏡に対する古田先生の見解の進展や変化が読みとれて、あらためてよい本だなあとの思いを強くしています。
 特に驚いたのが、同書冒頭の書き下ろし論文「序章 毎日が新しい発見 -三角縁神獣鏡の真実-」に記された次の一文でした。

 次に、わたしのかつての「立論」のあやまりを明白に記したい。三角縁神獣鏡に対して「四〜六世紀の古墳から出土する」ことから、「三世紀から四世紀末」の間の「出現」と考えた。魏朝と西晋朝の間である。
 いいかえれば、魏朝(二二〇〜二六五)と西晋朝(二六五〜三一六)の間をその「成立の可能性」と見なしていたのだ。だがこれは「あやまり」だった。「景初三年・正始元年頃」の成立なのである。この三十年間、「正始二年以降」の年号鏡(紀年鏡)は出現していない。すなわち、三角縁神獣鏡はこの時間帯前後の「成立」なのである。 (同書10ページ、2014年執筆)

 古田先生は三角縁神獣鏡の成立時期を「景初三年(二三九)・正始元年(二四〇)」前後とされているのです。すなわち、「景初三年鏡」や「正始元年鏡」という三角縁神獣鏡(金石文)を根拠に弥生時代の成立とされたのです。古くからの古田ファンや古田学派研究者はよくご存じのことですが、古田先生は三角縁神獣鏡は国産鏡であり、俾弥呼が魏からもらった鏡ではないとされ、次のように繰り返し主張されてきました。

 以上、古鏡の問題は、従来、「邪馬台国」近畿大和説のバックボーンをなすものと思われてきた。しかし、意外にも、それらの鏡群(三角縁神獣鏡。古賀注)は、三世紀とは別の時代の太陽を反射して、この世に生まれたようである。 (同書37ページ、初出『失われた九州王朝』1973年刊)

 最後に問題の三角縁神獣鏡の史的性格について、二・三の問題点をのべておこう。
(一)当鏡が四〜六世紀の古墳から出土している以上、その時代(古墳期)の文明の所産と見るべきであること。  (同書313ページ、初出『多元的古代の成立(下)』1983年刊)

 やはりすべてが古墳から出土する出土物は、これを古墳期の産物と考えるほかはない。これが縦軸の論理だ。
 以上の横と縦の「両軸の論理」からすれば、“三角縁神獣鏡は、古墳期における、日本列島内の産物である”--わたしにはこのように理解するほかなかったのである。  (同書327ページ、初出『よみがえる九州王朝』1987年刊)

 以上のように少なくとも1987年頃までは、古田先生は一貫して三角縁神獣鏡古墳期成立の立場をとっておられました。その理由も単純明瞭で、弥生時代の遺跡からは一面も出土せず、古墳期の遺跡から出土するのであるから、その成立を古墳期と見なさざるを得ないというものでした。これは三角縁神獣鏡を俾弥呼がもらった鏡だが、弥生時代には埋納されず、全面伝世し、古墳時代になって埋納されたという従来説(伝世理論)への批判として主張されたものです。(つづく)


第1263話 2016/08/28

古田武彦著『鏡が映す真実の古代』発刊

 今日、ミネルヴァ書房から古田先生の『鏡が映す真実の古代 三角縁神獣鏡をめぐって』が送られてきました。これまでの古田先生の著作等から三角縁神獣鏡に関する論稿を一冊にまとめたものです。平松健さん(東京古田会)による編集で、とてもよくまとめられています。平松さんご自身も三角縁神獣鏡についての造詣が深く、その実力がいかんなく発揮されています。
 冒頭の「はしがき」は古田先生による書き下ろしで、2015年2月17日の日付がありますので、亡くなられる半年前に書かれたものです。「序章」も新たに書き下ろされており、三角縁神獣鏡に関する最新の古田先生の見解や研究テーマに触れられています。特に三角縁神獣鏡の銘文を古代日本思想史の一次史料として捉え、古代人の思想に迫るという問題を提起されています。このテーマはわたしたち古田学派の日本思想史研究者に残された課題です。
 そして、「序章」末尾の次の一文に目が止まりました。

 わたしの年来の主張は「三角縁神獣鏡そのものは、やがて中国本土から出土する。」という立場である。

 この「序章」執筆の日付は2014年8月7日とありますから、最近話題となった中国洛陽から発見された三角縁神獣のことを見事に予見(学問的推論)されていたのです。奇しくも9月3日には同鏡を中国で実見された西川寿勝さんの講演(大阪府立狭山池博物館にて。14〜16:30)をお聞きするのですが、絶妙のタイミングでの発刊と言わざるを得ません。冥界の古田先生からのプレゼントともいうべき一冊です。


第1245話 2016/08/05

「論証と実証」論の古田論文

 7月の「古田史学の会」関西例会での大下隆司さんからの「学問は実証よりも論証を重んじる」に関する発表を受けて、茂山憲史さん(古田史学の会・編集委員)も8月の関西例会で同問題について報告されることになりました。
 わたしはこの「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡典嗣先生の言葉は学問の金言と理解していますが、古田先生から直接詳しい説明をお聞きしたことはありませんでした。ところが、「古田史学の会」会員で多元的「国分寺」研究サークルの肥沼さんが同サークルのホームページに、古田先生による解説文を転載されました。古田先生の「学問的遺言」とも言うべきものですので、ここに転載させていただき、ご紹介いたします(転載にあたり、若干の編集を行いました)。

多元的「国分寺」研究ホームページより転載

2016年7月29日 (金)
「論証と実証」論(古田論文を収録!)

 もしかしたら,「学問は実証より論証を重んじる」について,以下のところに書いていないでしょうか?「新古代学の扉」サイトを眺めていて,そう思いました。筑紫舞のことが載っている『よみがえる九州王朝』の復刻版で,ミネルヴァ書房のものです。
 以下,古田武彦著『よみがえる九州王朝』(ミネルヴァ書房)より

日本の生きた歴史(十八)
 第一 「論証と実証」論

          一

 わたしの恩師、村岡典嗣先生の言葉があります。
「実証より論証の方が重要です。」と。
 けれども、わたし自身は先生から直接お聞きしたことはありません。昭和二十年(一九四五)の四月下旬から六月上旬に至る、実質一カ月半の短期間だったからです。
 「広島滞在」の期間のあと、翌年四月から東北大学日本思想史科を卒業するまで「亡師孤独」の学生生活となりました。その間に、先輩の原田隆吉さんから何回もお聞きしたのが、右の言葉でした。
 助手の梅沢伊勢三さんも、「そう言っておられましたよ。」と“裏付け”られたのですが、お二方とも、その「真意」については、「判りません。」とのこと。“突っこんで”確かめるチャンスがなかったようです。

          二

 今のわたしから見ると、これは「大切な言葉」です。ここで先生が「実証」と呼んでおられたのは、「これこれの文献に、こう書いてあるから」という形の“直接引用”の証拠のことです。
 これに対して「論証」の方は、人間の理性、そして論理によって導かれるべき、“必然の帰結”です。わたしが旧制広島高校時代に、岡田甫先生から「ソクラテスの言葉」として教えられた、
「論理の導くところへ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」(趣意)こそ、本当の「論証」です。
 一例をあげましょう。
 三国志の魏志倭人伝には,直接「南米」そのものをしめす文面はありません。その点、狭い意味での「実証」では、「南米問題」は出てこないのです。
 しかし、倭人伝には次の文面があります。

①「(侏儒国)その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里」
②「(裸国・黒歯国)あり。またその南東にあり。船行一年にして至るべし」

 わたしが『「邪馬台国」はなかった』で論証したように、倭人伝は、「短里」(七十五〜九十メートル。七十五メートルに近い)で記されているという立場からすれば、

(その一)「侏儒国」は足摺岬(高知県)近辺である。
(その二)「裸国・黒歯国」は南米のエクアドル近辺である。

 という、二つの命題に至らざるをえません。右の(その一)は「黒潮と日本列島の接点」であり、(その二)は「黒潮とフンボルト大寒流の接点」と対応しているのです。

 幸いに、わたしの「論証」は、“裏付け”られました。

(α)マラウージョ(一九八〇年)・フェレイラ(一九八三、八八年)の論文によって、化石ならびにミイラを通して日本列島側との交流が報告された(『「邪馬台国」はなかった』「補章 二十余年の応答」。ミネルヴァ書房版では三六六ページ)。

 さらに、

(β)南米の「インディオ」のウィルスと遺伝子が日本列島(太平洋側)の住民と「同一型」であることが証明された(田島和雄氏)。
(γ)南米の地名中の「スペイン語・ポルトガル語以外の地名」に「原初日本語」の存在が「発見」された(「トリ」「ハタ」「マナビ」等)。さらに有名な南米最大の湖「チチカカ湖」は、「チ(神の古名)」と「カ(神聖な水)」のダブリ言語(日本語では、チチブ山脈など)であり、「太陽の神の作りたもうた神聖な湖」(「アイマラ語」インカ語以前の諸言語)の意義であることが判明した(藤沢徹氏の報告による)。

 ここでも、日本語と南米の「原初語(地名)」がまさに“共通”していたのです。
 やはり、村岡先生の言われたように、学問にとって重要なのは、「論証」、この二文字だったようです。


第1224話 2016/07/08

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(4)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の最後《三の矢》についての解説です。実はこの《三の矢》こそ、わたしが最初に気づいた九州王朝説にとっての最大の難関でした。そして同時に「三本の矢」を跳ね返すヒントが秘められていたテーマでもありました。

《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 今から10年以上前のことです。わたしは古田先生の下で主に九州王朝史と九州年号研究に没頭していました。そうした中で悩み抜いた問題がありました。それは大阪市法円坂から出土していた孝徳天皇の前期難波宮址(『日本書紀』に見える難波長柄豊碕宮とされている)が7世紀中頃の宮殿として国内最大規模で最古の朝堂院様式であり、九州王朝の宮殿と考えてきた大宰府政庁2期の宮殿とは比較にならないほどの大きさだったことです。朝堂院部分の面積比だけでも前期難波宮は大宰府政庁の数倍は大きく、「大極殿」や「内裏」を含めるとその差は更に広がります。

  これではどちらが日本列島の代表者かわからず、大和朝廷一元論者だけではなく九州王朝説を知らない普通の人々が見れば、倭国王の宮殿としてどちらがふさわしいかという質問に対して、おそらく全員が前期難波宮と答えることでしょう。この考古学的出土事実は九州王朝説にとって「致命傷」になりかねない重要問題であることに気づいて以来、わたしは何年も悩みました。この悩みこそ、九州王朝説に突き刺さった《三の矢》なのです。

 古田先生も最晩年まで前期難波宮について悩んでおられたようで、当初は『日本書紀』に記されていない「近畿天皇家の宮殿」と言われていましたが、繰り返し問い続けると「わからない」とされました。古田先生さえ悩まれるほど、難解かつ重要なテーマだったのです。(つづく)


第1212話 2016/06/19

中国で発見された三角縁神獣鏡と古田先生の予告

 中国洛陽から三角縁神獣鏡が発見されたというニュースが流れ、その後、偽物説や本物説が発表されています。わたしは写真でしかその鏡を見ていないので、まだ何とも言えませんが、訪中して実物を観察された西川寿勝さん(大阪府立狭山池博物館)のご意見では日本出土のものと製造法などがよく似ており、本物とされています。
 もちろん、中国から見つかったからといって、三角縁神獣鏡中国鏡説が成立するというわけではありません。こうした事態を予測して、古田先生は30年以上前に次のように「予告」されていますので、ご紹介しましょう。

 A「そういえば、長安から和同開珎が出たりしましたね」
 古田「そうだ。だからといって、和同開珎が長安で(日本側の特注で)作られて日本へ送ってきたものだ、なんていう人はいないよね。それと同じだ。将来、必ず大陸(中国・朝鮮半島)から何面か何十面かの三角縁神獣鏡は出土する、これは予告しておいていいことだけど、だからといってすぐ『三角縁神獣鏡、中国製説の裏付け、復活』などと騒ぐのは、今から願い下げにしておいてもらいたいね。もちろん明確に日本側より早い、弥生期(魏)の古墳から出土した、というのなら、話はまた別だけどね」

 古田武彦『よみがえる九州王朝』(ミネルヴァ書房版、p.67)

 死してなお輝く、古田先生の慧眼恐るべし、です。

〔付記〕「古田史学の会・関西」では恒例の遺跡巡りハイキングに併せて、西川寿勝さんの講演「洛陽発見の三角縁神獣鏡について」をお聞きすることになりました。日時・会場は次の通りです。「古田史学の会」からの要望により特別に講演していただけることになりました。どなたでも参加できます。

○日時 2016年9月3日(土)14:00〜16:30
    博物館展示解説の後に講演(博物館会議室)
○会場 大阪府立狭山池博物館
○講師 西川寿勝さん(大阪府立狭山池博物館学芸員)
○参加費 無料


第1190話 2016/05/17

古田先生の断酒

 今日は仕事で新潟県長岡市に来ています。ここはおいしいお酒が飲め、出張での楽しみの一つです。そこで、わたししか知らない古田先生とお酒の思い出をご紹介しましょう。それはまだ「古田史学の会」創立以前のことだったと思います。和田家文書偽作キャンペーンが激しさを増しだした頃のことです。
 あるときから、お酒好きだった古田先生がお酒を飲まれなくなったのです。和田家文書調査のため津軽に先生と二人で行くことが増えたのですが、和田喜八郎さんや藤本光幸さんとの晩餐のとき、和田さんや藤本さんからお酒を勧められても先生は頑として飲まれず、「古賀さん、代わりに飲んでください」といわれ、全てわたしが受けていました。わたしも三十代でお酒も強かったので、お二人から注がれたお酒は先生に代わって飲んでいました。しかし、調査のため訪問していますので、酔っぱらうことはできません。そして和田さんや藤本さんの会話の内容をしっかりと記憶しなければなりません。宴会後はホテルに戻って古田先生と調査のまとめや翌日の打ち合わせを行います。今ではこんな「離れ業」はできませんが、当時は若かったのでいくら飲んでも先生との打ち合わせはしっかりとできました。
 先生が好きだったお酒を飲まれなくなったことに気づいたわたしは、あるとき先生にたずねました。「寛政原本が出るまで『酒断ち』ですか」と。そうすると古田先生は、「それもありますが、お酒を飲むと酔っぱらってしまい、研究ができなくなります。その時間が惜しいのでお酒を飲むのをやめました」と答えられたのです。好きだったお酒よりも、学問研究を優先された古田先生の意志の強さと学問への情熱にわたしは驚いたものです。
 あるとき、そんな先生の決意を知らない藤田友治さん(故人。当時「市民の古代研究会」会長)と先生と三人で食事する機会がありました。藤田さんは古田先生にしきりとお酒を勧められ、わたしは冷や冷やして横で見ていました。案の定、古田先生のカミナリが落ちました。「わたしか飲まないと言っているのに、なぜあなたは強引に勧めるのですか」と叱責される先生。お酒好きの先生のことを思って勧めていた藤田さんはびっくりされていました。懐かしい思い出です。
 先生は冥界ではお酒を飲まれているのでしょうか。それとも「時間が惜しい」と飲まずに研究されているのでしょうか。


第1164話 2016/04/08

古田武彦初期三部作が売れ行き良好

 名古屋出張から久しぶりに帰宅すると、多くの郵便物とパソコンには数十通のメールが届いていました。ミネルヴァ書房からは「新刊案内」のパンフレットが届いており、その2月号には『邪馬壹国の歴史学 -「邪馬台国」論争を超えて』(古田史学の会編)が次のように紹介されていました。

 「古田武彦が『「邪馬台国」はなかった』を発表して四四年、この間の考古学・文献史学における新事実が、邪馬壹国が九州に存在していたことを裏付けし、その科学的研究手法の正しさが証明されている。本書では、その絶え間ない研究を集大成する。」

 そして、2015年12月の「ミネルヴァ書房の売れ行き良好書」のランキングには、「人文科学」の分野の3位に『「邪馬台国」はなかった』、4位に『失われた九州王朝』、5位に『盗まれた神話』が入っていました。古田先生の古代史初期三部作がそろって上位にランキングされていたのです。通常ですと新刊書が上位に入るのですが、この現象は珍しいことです。恐らく、10月に先生が亡くなられ、その訃報を新聞記事などで知った多くの方々がこの初期三部作を購入され、そのために書店からの在庫補充の注文が12月に集中したのではないでしょうか。古田先生の根強い人気がうかがわれました。
 『邪馬壹国の歴史学 -「邪馬台国」論争を超えて』も上位にランキングされるとよいのですが。「洛中洛外日記」の読者の皆さん。ぜひお買い求めください。なお、今年の夏には東京で同書の出版記念講演会を「古田史学の会」主催で行うべく、計画を立てています。詳細が決まりましたら、ご報告します。


第1158話 2016/03/31

『邪馬一国への道標』が復刻

 古田先生の追悼会で、わたしは先生の代表的著作21冊を紹介しながら、そこに展開された学説や学問の方法、研究史上の位置づけなどについて紹介させていただきました。その概要は『古田武彦は死なず』に略載していますので、ご参照ください。
 3冊ずつ7項目に分けて紹介したのですが、時間的制約などのため紹介できなかった著作も少なくありませんでした。もし、あと一冊だけ紹介できるとしたら、躊躇なく『邪馬一国への道標』を上げるでしょう。その『邪馬一国への道標』が本年1月にミネルヴァ書房から復刻されました。喜びにたえません。
 同書には全編が口語体の柔らかい表現で読者に語りかけるように歴史研究の醍醐味や新発見が綴られています。巻末には小松左京さんとの対談録も収録されています。わたしが同書の中で最も感銘を受けたのが『三国志』の著者陳寿の生涯や人となりを紹介された第二章でした。『晋書』陳寿伝に記された陳寿の性格「質直」について、古田先生は次のように翻訳・解説されています。

 「(陳寿は)文章のもつ、つややかさは、司馬相如には劣りますが、“質直”つまり、その文章がズハリ、誰にも気がねせず真実をあらわす、その一点においては、あの司馬相如以上です。そこで漢の武帝の先例にならい、彼の家に埋もれている『三国志』を天子の認定による“正史”に加えられますように」(『晋書』陳寿伝中の上表文)

 この中にある「質直」について、古田先生は次のように解説されました。すなわち、「質直」とは「飾り気がなく、ストレートに事実をのべて他にはばかることがない」ということで、『論語』顔淵編の次の一文を出典として紹介されました。

 「『達』とは質直にして義を好み、言を察し、色を観(み)、慮(おもんばか)りて以て人に下るなり」

 この文を古田先生は次のように解説されています。

 「あくまで真実をストレートにのべて虚飾を排し、正義を好む。そして人々の表面の“言葉”や表面の“現象”(色)の中から、深い内面の真実をくみとる。そして深い思慮をもち、高位を求めず、他に対してへりくだっている」

 この古田先生の解説を読み、わたしは初めて自分の名前「達也」の出典が『論語』にあったことを知ったのです。「達とは質直にして義を好む」この一文を知り、以来、わたしは自らの名に恥じぬよう、「質直」を人生の指針としました。残念ながらとても陳寿のような立派な人物になれそうもありませんが、陳寿を尊敬することはできます。こうして古田先生の名著『邪馬一国への道標』は、わたしにとって忘れ得ぬ一冊となったのでした。


第1157話 2016/03/29

古田武彦は死なず

古田武彦は死なず

好評『古田武彦は死なず』の目次紹介

 この度、明石書店から発刊された『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)はご好評をいただき、「古田史学の会」内外からたくさんご注文をいただいています。「古田史学の会」2015年度賛助会員(年会費5000円)の方へは、明石書店から順次発送されますので、しばらくお待ちください。一般会員の皆さんも、お近くの書店などでお買い求めいただければ幸いです。
 同書の目次を紹介します。ご覧のように古田先生の追悼特集にふさわしい内容とすることができました。また、優れた研究論文も収録しています。おかげさまでとても良い本となりました。今は亡き古田先生にも喜んでいただけるものと思います。

『古田武彦は死なず』 目次

○巻頭言
二〇一五年、慟哭の十月  古田史学の会代表 古賀達也
古代の真実の解明に生涯をかけた古田武彦氏  古田史学の会全国世話人・事務局長 正木 裕

○追悼メッセージ
古代史学の「天岩戸」を開いた古田先生を讃える  荻上紘一
弔意  創価学会インターナショナル会長 池田大作
古田武彦先生を悼む  東北大学教授 佐藤弘夫
古田武彦さんを悼む  学校法人旭学園理事長、考古学者 高島忠平
古田武彦さんを忘れない  中山千夏
古田先生を悼む  桂米團治
追悼 古田武彦先生  森嶋瑤子
同志、古田武彦先生を悼む  明石書店代表取締役会長 石井昭男
古田武彦先生を偲んで  古田武彦と古代史を研究する会会長 藤沢 徹
追悼  多元的古代研究会会長 安藤哲朗
古田先生と齋藤史さん  古田史学の会まつもと 北村明也
古田先生との思いで  古田史学の会・北海道代表 今井俊圀
古田武彦先生への追悼文  古田史学の会・仙台会長 原 廣通
古田武彦という人をどこまでも愛して  古田史学の会・東海会長 竹内 強
古田史学とわたし  水野孝夫
古田先生をしのぶ  古田史学の会・四国会長 阿部誠一
古田武彦先生 追悼文  久留米地名研究会(編集長) 古川清久
「倭人伝」のご返事-古田先生の書簡のご紹介-  野田利郎

○特別掲載 古代史対談
      桂米團治・古田武彦・古賀達也
     (KBS京都ラジオ「本日、米團治日和。」の妙禄。茂山憲史氏による)

○〔再録〕古田武彦先生の記念碑的遺稿
村岡典嗣論 -時代に抗する学問-  古田武彦
アウグスト・ベエクのフィロロギィの方法論について〈序論〉  古田武彦
真実と歴史と国家 -二十一世紀のはじめに-  古田武彦

○論説・古田史学 〔資料 古田武彦研究年譜〕
古田武彦先生の著作と学説  古賀達也
学問は実証よりも論証を重んじる  古賀達也
「言素論」研究のすすめ  古賀達也
資料 古田武彦研究年譜  西村秀己

○研究論文
孫権と俾弥呼
 古田武彦氏の「俾弥呼の魏への戦中遣使」論証を踏まえて  正木 裕
四天王寺と天王寺  服部静尚
盗用された「仁王経・金光明経」講説
 -古田武彦氏の「持統吉野行幸の三十四年遡上」論証を踏まえて-  正木 裕
鞠智城神籠石山城の考察  古賀達也
「イ妥・多利思北孤・鬼前・干食」の由来
 -古田武彦氏の『隋書』イ妥国伝、「釈迦三尊光背名」の解釈を踏まえて-  正木 裕
九州王朝にあった二つの「正倉院」の謎  合田洋一
『日本書紀』の「田身嶺・多武嶺」と大野城
 -古田武彦氏の『書紀』斉明紀の解明を踏まえて-  正木 裕
「唐軍進駐」への素朴な疑問  安随俊昌
倭国(九州王朝)遺産一〇選  古賀達也
「坊ちゃん」と清  西村秀己

○古田史学の会・会則
○「古田史学の会」全国世話人・地域の会 名簿
○編集後記  服部静尚
○二十一集投稿募集要項
○古田史学の会 会員募集


第1128話 2016/01/24

「多元的国分寺」研究サークルを結成

 昨日は東京新聞の小寺勝美さんとお会いし、3時間にわたり対談しました。小寺さんは古田先生の訃報を扱ったコラム記事(邪馬「壹」国の人。東京新聞12月1日付朝刊「こちら編集委員室」)を書かれた方です。とても誠実で正確な内容の記事でしたので、是非お会いしたいと思い、東京での邂逅となりました。

 小寺さんは学生時代に古田先生の著作に出会われたとのことです。佐賀市のご出身で、フクニチ新聞社に勤務された後に東京新聞に入られたとのこと。今春、「古田史学の会」編集の『邪馬壹国の歴史学』(ミネルヴァ書房)と『古田武彦は死なず』(仮称。『古代に真実を求めて』19集、明石書店)の発刊記念講演の東京開催を検討していますが、そのときに取材を受けることになりました。

 夕方からは埼玉県の肥沼孝治さんと神奈川県の宮崎宇史さんと夕食をご一緒しました。話題は昨年から急進展を見せた「多元的国分寺」論、すなわち九州王朝の多利思北孤による国分寺建立の詔勅が6世紀末頃に出され、その古い国分寺の痕跡が各地に見られるというテーマです。肥沼さんからは近年発見された上野国国分寺の伽藍跡について報告されました。宮崎さんからは橿原市にある「大和国国分寺」の現地調査報告がなされました。わたしからは『聖徳太子伝記』に見える、告貴元年(594)の年に「66国の国府寺建立」記事と、大和と摂津に国分寺が二つあることの論理性(王朝交代における権力中枢地に発生しうる現象であること)について説明しました。

 そして、わたしからの提案で「多元的国分寺」研究サークルを三人で立ち上げ、ホームページの開設と全国の国分寺研究者に「多元的国分寺」研究(略称「多分研」?)への参加を呼びかけることになりました。ホームページが開設されましたら、ご報告します。

 三人の古代史論議は3時間以上に及びました。天気予報では夜から雪になるといわれていましたが、東京は比較的暖かく雪は降りませんでした。わたしは近くのホテルに帰るだけでしたが、お二人は遠くに帰られるので、夜遅くまで引き留めることになって申し訳ないことをしてしまいました。
これから古田先生の追悼会(文京シビックセンター)に向かいます。