古田武彦一覧

第1099話 2015/11/29

高島忠平さんが追悼記事

 「洛中洛外日記」の読者で久留米市の犬塚幹夫さんからメールをいただき、「西日本新聞」11月4日朝刊に高島忠平さんによる古田先生の追悼記事が掲載されていることを教えていただきました。
 高島さんは吉野ヶ里遺跡を発掘された著名な考古学者で、学界内では少数派の「邪馬台国」九州説に立たれています。現在は学校法人旭学園(佐賀市)の理事長をされておられますが、古田先生とは古くから親交がありました。1991年8月に昭和薬科大学諏訪校舎で1週間にわたり開催された「古代史討論シンポジウム『邪馬台国』徹底論争 --邪馬壹国問題を起点として--」(東方史学会主催)に、七田忠昭さんとともに参加されています。そのときの発表や討論の内容は『「邪馬台国」徹底論争』1〜3巻(新泉社)に収録されています。24年前のことですが、読み返してみますと、懐かしさがこみ上げてきます。
 「西日本新聞」の追悼記事は「古田武彦さんを悼む」という表題とともに、「常識、定説、権威に対する疑問と反抗心」という見出しと先生の遺影・著作の写真が掲載されています。そして「邪馬壹国」説に始まり、「多元的古代」「九州王朝」説にもふれられ、「私は多元的古代史観に共感している。古田さんの描く九州王朝説をそのまま受け入れられないが、「地域史観」を持っている。(中略)私も邪馬台国のフォーラムに呼ばれたことがある。自説は確固として、激しく主張されるが、他説には謙虚に耳を傾けておられた姿が印象的であった。」と記されています。
 そして最後に、「古田さんは、もともとは思想史が専門で、親鸞の研究で知られている。既成の日本仏教に反旗をひるがえし、仏教に革命をもたらした親鸞と古田さんの間には、共通して常識、定説、既成の権威に対する絶えない疑問と反抗心があったように思う。冥界で出会った2人はどんな論争をしているだろうか。ご冥福を祈ります。」と結ばれており、とても誠実な追悼文です。先生も冥界で喜んでおられることでしょう。高島さんに感謝したいと思います。なお、同記事の全文は「古田史学の会」やわたしのfacebook(Tatuya Koga)に張り付けていますので、ぜひご覧ください。


第1098話 2015/11/28

『邪馬壹国の歴史学』のゲラ校正

 本日、「古田史学の会」編集(編集長:服部静尚さん)の『邪馬壹国の歴史学 -「邪馬台国」論争を超えて-』の初校用ゲラがミネルヴァ書房から送られてきました。
 同書は古田先生が亡くなられて最初に「古田史学の会」が発行する本となりました。先生が亡くなられる前に執筆していた「はじめに」を急遽書き換えて、追悼の言葉を入れました。また、巻頭には古田先生の遺影を掲載することにしました。先生からもご寄稿いただきましたが、それは「古田史学の会」として先生からの最後の原稿となりました。
 わたしの論稿からは次のものが収録されますが、中でも「『三国志』のフィロロギー -「短里」と「長里」混在理由の考察-」は先生からお褒めいただいた自信作です。

○はじめに --追悼の辞
○『三国志』のフィロロギー -「短里」と「長里」混在理由の考察-
○『三国志』中華書局本の原文改訂
○纒向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない
○「邪馬台国」畿内説は学説に非ず

 わたしが論文を発表するとき、いつも第一読者として古田先生を意識してきました。先生から褒められた論文はそれほど多くはありませんが、これからは先生から褒められることもお叱りをうけることもなく、亡師孤独の研究の日々が続きます。
 『邪馬壹国の歴史学 -「邪馬台国」論争を超えて-』の内容は古田先生から高い評価をいただいたもので、わたしたち「古田史学の会」の総力を結集して作り上げた一冊です。来年1月17日の「古田武彦先生追悼講演会」に発刊を間に合わせたいと願っています。そして、謹んで先生の御霊前に進呈したいと思います。


第1090話 2015/11/10

「古田武彦先生追悼講演会」のご案内済み

 10月14日に御逝去された古田先生の追悼講演会を、来年1月17日(日)、大阪市浪速区の「大阪府立大学なんばサテライト(I-siteなんば)」にて執り行うことといたしましたので、取り急ぎご案内申し上げます。
 年内に京都で開催すべく検討を進めてきましたが、時節柄会場や宿泊施設の確保が困難なため、「古田史学の会」が予定していました新年講演会の会場をそのまま利用し、「古田武彦先生追悼講演会」とすることにしました。なお、『古田史学会報』などでご案内したとおり、新井宏氏にご講演いただきます。
 既に、松本深志高校時代の教え子、北村明也様(古田史学の会・松本)や御遺族(古田光河様)らのご臨席のご承諾もいただいています。また、東北大学の御後輩で日本思想史学会前会長の佐藤弘夫教授からもメッセージをいただけるはこびです。
 ご来賓や式次第などの詳細は決まり次第、ご報告いたします。古田先生とのお別れに多くの皆様にご臨席賜りますよう、お願い申しあげます。なお、主催は「古田武彦と古代史を研究する会(東京古田会)」「多元的古代研究会」「古田史学の会」の三団体で、ミネルヴァ書房様協賛での開催となります。

古田武彦先生追悼講演会のご案内

期日 2016年 1月17日(日)午後1時から4時30分まで
場所

大阪府立大学I-siteなんば2階C会議場
          カンファレンスルーム

住所:大阪市浪速区敷津東2-1-41南海なんば第1ビル2階
大阪府立大学I-siteなんばの交通アクセスはここから。

南海電鉄難波駅なんばパークス方面出口より
       南約800m 徒歩12分
地下鉄なんば駅(御堂筋線)5号出口より
       南約1,000m 徒歩15分
地下鉄大国町駅(御堂筋線・四つ橋線)
    1号出口より東約450m 徒歩7分

講演
1).追悼式 午後1時〜2時30分
2). 古代史講演会 午後3時〜4時30分

  「鉛同位体比から視た平原鏡から三角縁神獣鏡」
      新井 宏氏

 銅鏡に含まれる鉛同位体の分析から、「三角縁神獣鏡の大部分は複製を含めた国産である」とされている冶金学者で『理系の視点からみた「考古学」の論争点』などの著書があります。
(韓国国立慶尚大学招聘教授)

 

なお終了後、懇親会(別途申込)も実施されます。

参加費

無料


第1089話 2015/11/08

「死んだら地獄に行きたい」

 親鸞は当時としてはかなり長寿で、90歳で没しました(1173〜1262)。これは数え年ですから、満年齢では89歳となり、古田先生も親鸞と同年齢で亡くなられたことに気づきました。もしかすると、古田先生はこの親鸞の没年齢を意識されていたのかもしれません。というのも、KBS京都のラジオ番組「本日、米團治日和。」の収録(8月27日)で、米團治さんの質問に対して次のように答えておられるのです。

米團治さん「まだまだ先生、研究を続けられますよね。」
古田先生「まあ、もう今年ぐらいでお陀仏になると思います。」

 このとき、古田先生は笑いながら答えておられましたので、冗談とわたしは受け止めていました。
 似たようなお話ですが、近年、古田先生は講演で「死んだら地獄に行きたい」と言われるようになりました。地獄には現世で浮かばれなかった人々、恨みをいだいた人々が行っているはずだから、そうした人々の声こそ聞いてみたいという、先生ならではの学問的好奇心に基づいたロジックと、わたしは受け止めていました。しかし、そう言われる先生の思いは、もっともっと深いところにあったのではないかと考えるようになりました。
 古田先生が「日本人の魂の古典」といわれた、『歎異抄』(親鸞の言葉を弟子の唯円が記したもの)の中に、その「地獄に行きたい」の真意をうかがうヒントがあったのです。その『歎異抄』の中でも、先生のお気に入りだった第二条に次の有名な親鸞の言葉があります。

 「たとい法然聖人にだまされて、念仏して地獄に落ちてしまっても、少しも後悔するはずはないのです。その理由は、ほかの行にはげんでも、仏になる身が、念仏したために地獄に落ちるのでしたら、確かに「聖人にだまされて」という後悔もしましょうが、どんな行もおよびがたい、わたしの身だから、どうあろうと、もう地獄はきまりきったすみかだ。」(古田武彦訳。『人と思想 親鸞』清水書院)

 親鸞が「もう地獄はきまりきったすみかだ。」と言い切った『歎異抄』のこの言葉を、青年の日から晩年まで親鸞研究を続けられた古田先生が「地獄に行きたい」というとき、意識されなかったはずはありません。その親鸞が行った地獄に古田先生は行きたいと言われたのではなかったでしょうか。
 わたしは主に日本古代史を古田先生から学びましたが、おりにふれて親鸞や鎌倉仏教、そして思想史についてもお話をうかがいました。そうした先生の言葉を「洛中洛外日記」などでこれからもご紹介していきたいと思います。

参考 親鸞流罪記録について


第1088話 2015/11/07

蕉門の離合の迹を辿りつつ

 31歳のとき、古田先生の門を叩いて30年近くになりました。古田先生が亡くなられてから、先生との思い出が次から次へとよみがえります。
 嵐のような和田家文書偽作キャンペーンと古田バッシングがおき、先生とわたしは週刊誌などでも名指しで叩かれ、兄弟子と慕っていた多くの人々が先生から離れていく様を、わたしは30代から40代の若き日に目の当たりにしました。そのような最中、古田先生と二人だけで三重県津市に行きました。1997年10月のことです。
 その年、『奥の細道』芭蕉自筆本とされるものが現れ、津市の美術館で展示されると聞き、先生と二人で訪問したのです。『奥の細道』の開かれたページを二人でガラス越しに1時間以上も食い入るように見つめました。その筆跡を目に焼き付けるためです。後日、持ち主(古美術商)から、直接すべてのページを見せていただける機会が訪れるのですが、そのときはガラス越しに見ることが唯一の観察手段でした。このような機会を通して、わたしは先生から古文書研究の執念と方法を学びました。
 津市へ向かう列車の中で、わたしは先生から一冊の本をいただきました。『許六 去来 俳諧問答』(岩波文庫、横沢三郎校註。1954年)です。その本には次のような一文が添えられていました。

「-蕉門の離合の迹を辿りつつ(第三章等)-
変る人々多き中、変らぬ心
をお寄せいただくこと、この生涯最大
の幸と存じます。
   一九九七、十月十九日 津紀行中
古賀達也様  古田武彦」

 芭蕉没後にその弟子たちは離合を続けました。中には、「門戸を張らんが為に師を軽侮して己の優位を示そうとする者」まで出ます(同書「解説」より)。偽作キャンペーンが吹き荒れるなか、古田先生がこの本を下さったお気持ちは、痛いほどわかりました。先生亡き今、その思いをより切実に受け止めています。
 この岩波文庫の小さな一冊は今も大切に持っています。わたしの宝物の一つとして。


第1087話 2015/11/03

慟哭の10月

 今日は会社で『フリードランダー』(FRIEDLANDER  FORTSCHRITTE DER TEERFARBEN-FABRIKATION 1887-1890)を書庫から探し出して読みました。同書はドイツの有機合成化学の論文集で、現在進めている開発案件が暗礁に乗り上げたため、もう一度古典的合成ルートから確認する必要を感じて読んだものです。表紙もかなり痛んでいる貴重書で、国内で所蔵しているところはかなり珍しいでしょう。
 Dr.Rudolf Nietzki による1890年の論文を探すのが目的でした。日本で言えば明治時代の論文なのですが、今から120年以上も前にドイツではこれだけの化学研究水準だったのかと感動しました。その一部は今でも実際に工業的に使われている化学反応ですから、当時のドイツの工業力や化学技術力はすごいものです。これでは欧米列強により日本以外の有色人種の国々が植民地となり、奴隷状態におかれたのも残念ながらよく理解できます。本当に明治維新による近代化が間に合って、日本国民は幸福でした。
 同書はドイツ語で書かれていますから、最初はほとんど理解できませんでしたが、読んでいるうちに40年前に学校で習ったドイツ語(工業ドイツ語)の単語が少しずつよみがえり、何とか目的の論文であるかどうかは判断できるようになりました。10代の頃習ったドイツ語が還暦になって役立つとは、不思議な感じです。

 10月14日に古田先生が亡くなられ、「慟哭の10月」となりました。「慟哭」の出典は『論語』です。

 「顔淵死す。子、之を哭して慟す。従者曰く、子慟せりと。曰く、慟する有りしか。夫(か)の人の為に慟するに非ずして、誰が為にかせんと。」
              『論語』先進第十一

 「夫(か)の人」最愛の弟子、顔淵の死に、孔子が慟哭したというものです。わたしは尊敬する師を失い、「慟哭の10月」でした。

 その「慟哭の10月」に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルは次の通りです。配信をご希望される会員は担当(竹村順弘事務局次長)まで、メールでお申し込みください。

10月の「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル

2015/10/03 王仲殊さんご逝去
2015/10/10 映画「図書館戦争」(テレビ録画)の感想
2015/10/11 五戸弁護士からのお礼状
2015/10/13 金沢大学4年生、Kさんからのメール
2015/10/14 『歴史読本』休刊と出版事業の課題
2015/10/17 各界・各氏から弔意のお電話とメール来信
2015/10/22 学士会館での三団体協議
2015/10/27 学士会館での懇談余話
2015/10/31 フェスタ’15 JTCC近畿で講演


第1085話 2015/10/30

古田先生の絶筆、徴兵検査と「赤紙」の狭間で

 夜、帰宅すると、友好団体の「多元的古代研究会」の会報「多元」No.130号が届いていました。友好団体間で行っている機関紙交流用に送っていただいたものです。
 今号は一面に古田先生の遺影と訃報が掲載され、2頁目には古田先生による「遺稿・真実と虚偽2」が掲載されていました。半頁ほどの短いものでしたが、末尾には「二〇一五、一〇月十二日脱稿」と執筆日が付されており、先生が亡くなられた14日の二日前の日付であることから、これは先生の絶筆ではないでしょうか。字数が少ないことから、すでにこの日には体調がすぐれなかったのかもしれません。心が痛みます。
 しかし、短文ではありますが、その内容は現在の日本国がおかれた状況を危惧した、古田先生の心の奥底からの訴えであり、後生にのこされた「遺言」のような気がしてなりません。
 その前半は、義兄(井上嘉亀氏)から聞かれた、満州に取り残された日本人婦女子に対するソ連兵の組織的集団強姦事件の話であり、後半は徴兵を目前にした旧制広島高校での生徒たちの会話(何のために死ぬのか。死ねるのか。)です。いずれのお話も、わたしは何度も先生からお聞きしたことがあり、先生としては死ぬ前にどうしてもこれだけは何度でも伝えておきたかったことに違いありません。「多元」から後半部分を引用させていただきます。

 日本はすでに負けることを知っていた。戦時中だ。一晩中、旧制広島高校で議論した。
 「わたしたちはどうしたらいい?」
 「今、アメリカが、極東から沖縄まで、唯一独立国である日本国を、植民地にしようとしている。」
 「その日本国を植民地にするために、狙っているのがアメリカだ。」
 「しかし、わたしたちが“アジアのために”戦って負けたら、次は必ず〈アジアが独立する〉ときが来る。」
 「そのために“戦う”のなら、〈戦う意味がある〉のではないか。」
 夜を徹して、議論した。それが結論だった。
  〔二〇一五年一〇月十二日脱稿〕

 おそらくこのとき、古田青年は徴兵検査を終え、「赤紙」(徴収礼状)が来るのを待っていた時期と思います。というのも、わたしは古田先生から次のようなお話を聞いたことがあるからです。

 「わたしは徴兵検査を受けて、『赤紙』が来る前に敗戦を迎えた最後の世代でした。東北大学に進むので、徴兵延期の特例が認められていたのですが、それを潔しとできなかったので、徴兵延期申請をせずに徴兵検査を受けました。帝国大学生なら徴兵延期のうえ、下士官として兵役につくこともできましたが、わたしはそれを選ばずに、二等兵として兵役につく覚悟でした。」

 古田先生らしい、不正を嫌う実直なお人柄がよくうかがわれるお話でした。今回の「多元」の絶筆を読み、この先生のお話を思い出しましたので、ここに紹介させていただきます。


第1084話 2015/10/29

「邪馬壹国」説、

昭和44年「読売新聞」が紹介

 「洛中洛外日記」1078話で、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』の最初の書評「批判と研究」(『週間読売』昭和47年1月)が池田大作氏により発表されたことを紹介しました。『「邪馬台国」はなかった』の元となった最初の論文、すなわち古田先生の「邪馬壹国」説が最初に発表されたのは東京大学の『史学雑誌』で、昭和44年、古田先生が43歳のときです。それは「邪馬壹国」という論文で、その年の日本古代史分野では最も優れた論文と高く評価されました。
 その「邪馬壹国」説を最初に紹介した読売新聞の記事を茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)が見つけて下さり、その記事を正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が活字データにしていただきましたので、ご紹介します。
 今、読んでみてもかなり正確な内容の記事です。当時の新聞記者の優秀さがうかがわれます。現在のように記者クラブなどで政府や官邸から流される発表をそのまま記事にする記者とは大違いです。それと同時に、この記事はある程度の学力(北畠親房や新井白石の業績を知っている)がないと深く理解できません。当時の新聞読者(国民)の学問レベルも新聞記者と同様に高かったように思われます。
 正木さんからのメールには次のような的確な感想が付されており、こちらもご紹介します。

《正木さんからのメール》
 茂山さんから昭和44年の古田先生の史学雑誌への発表をとりあげた読売新聞の記事を頂きました。記事を添付しましたが、見にくいので記事起ししました。 東大榎、京大上田、松本清張という「巨頭」がこぞって大きく評価しており、いかに大きな衝撃だったかがわかります。
 今日の「古田無視」の状況がどのような経過でもたらされたのか、その理由・背景に何があったのか、学問的にも大きな研究課題になろうかと思います。
 正木拝

《昭和四十四年十一月十二日読売新聞》

(大見出し)邪馬臺ヤマタイ国ではなく邪馬壹ヤマイチ国
 後漢書こそ三国志を誤記

(中見出し)古代史の根源に波紋
(*魏志倭人伝と後漢書の写真、古田先生の写真を掲載)

(リード)三世紀の日本にあったのは、邪馬台(ヤマタイ)国ではなく邪馬壹(ヤマイ)国だったーヤマタイの発音からヤマトを想定したわが国の古代史の序章を白紙に戻させるような研究論文が、この秋、突然、学術専門誌に発表され、歴史学会に大きな波紋を投じている。
 京都の市立洛陽工業高校古田武彦教諭(四三)が五年間を費やした労作。これまで三国志の魏志倭人伝(当時の日本の情勢が書かれている)に出てくる邪馬壹国の「壹」は「臺」の書き誤りというのが定説になっていたが、古田教諭は「壹が正しく、臺の誤記ではない」という結論に達したという。ヤマタイ国について独自の推理を展開してきた松本清張氏は「大きな盲点をつかれた」と”古田研究”を高く評価しており、学会でも「もう一度出発点に戻らなければ」と古代史の”再点検”をうながす声が起こっている。

(小見出し)近畿、九州論争根拠を失う

(記事)これまでヤマタイ国の根拠とされてきたのは、五世紀の中国の史書、後漢書に出てくる「邪馬臺国」で、それ以後の史書も後漢書にならって同じ表記をしており、三世紀に書かれた三国志の「邪馬壹国」の方が書き誤りとされてきた。
 古田教諭の研究は、史学会代表者榎一雄東大教授の推薦で、同会の機関紙「史学雑誌」最近号に「研究ノート」として発表された。
 そのポイントは、女王ヒミコが統治する国についての最古の文献である三国志には「邪馬壹国」とあり、北畠親房、新井白石から今日にいたるまで「これは臺の誤記」という説がうのみにされてきたが、科学的に検討すると「壹」と「臺」の書き間違いは考えられないーというもの。
 三国志の「邪馬壹国」と、後漢書の「邪馬臺国」とを比較、検討した結果、文献上、字形上、発音上、次のような点が明らかであるとしている。
 ①三国志の文中には合計八十六個の「壹」の字が使われている。しかし、一つとして混同は認められない。一方、後漢書は、三国志の文面をもとにしながら「女子の多い国」などと才気走った修飾があちこちに見られ、誤記の可能性はむしろ後漢書の方こそ強い。②三国志が書かれた三世紀当時の「臺」の字には「天子の宮殿」という意味がある。また邪、馬、奴などはいずれも蔑称(べっしょう)で邪馬という蔑称の下に「臺」の字を使うはずがない③後漢書の「邪馬臺国」には、唐時代の学者李賢(七世紀)の注として「案ずるに今の名、邪馬惟(ヤマイ)の音の訛(なまり)なり」とあり、唐代になっても邪馬惟だったと思われる④仮に一歩譲って「邪馬臺国」が存在したとしても、発音は濁った「ダイ」であって「台(タイ)」にはならず、これを「ヤマト」と類推するには飛躍がありすぎる。
 つまりヤマタイ国は、それこそ”まぼろし”だったというわけで、八世紀の古事記、日本書紀に初めて現れる大和朝廷をヤマタイ国と結びつける従来の古代史は、それ以前の糸をぷっつりと断ち切られることになるし、発音からきた福岡県山門(やまと)郡説も、根拠を失ってしまう。
 これまでの学会は、ヤマタイ国近畿説、北九州説に分かれながらも、ヤマタイ国の存在そのものは疑わなかったが、その根源にいきなりメスを当てられたかっこう。いまのところ「結論的には賛成しかねるが、新しい研究方向を示し、大きな波紋を投ずるものと思って推薦した」(東大榎教授)「三国志自体の信ぴょう性という問題は残る。しかし従来の研究の重大な弱点を指摘してくれた」(京都大上田正昭助教授)など、専門学者の反応はさまざまだが、それぞれ大きなショックを受けたことは間違いなさそうだ。

(小見出し)説得力十分だ

(記事)松本清張氏の話「この問題を、これほど科学的態度で追跡した研究は、他に例がないだろう。十分に説得力もあり、何もあやしまずにきた学会は、大きな盲点をつかれたわけで、虚心に反省すべきだと思う。ヤマタイではなくヤマイだとしたら、それはどこに、どんな形で存在したのか、非常に興味深い問題提起で、私自身、根本的に再検討を加えたい」


第1083話 2015/10/28

蓮如生誕600年に思う

 本年は蓮如生誕600年とのことです(1415〜1499)。大谷大学博物館では特別展「生誕600年 蓮如」が開催中です。蓮如は本願寺第八代で本願寺中興の祖として有名ですが、わたしたち古田学派にとっては古田先生の蓮如筆跡研究がよく知られているところです。特に『歎異抄』蓮如本の「流罪記録」の研究は親鸞研究の最高峰です。
 蓮如生誕600年にあたり、古田先生のある言葉が思い出されました。「古田史学の会」を創立して間もない頃だったと記憶していますが、先生のご自宅にうかがったとき、京都の法蔵館から蓮如全集の創刊にあたり、古田先生に原稿執筆依頼が来たとのことで、「時代も変わったなあ」としみじみと述懐されたのです。このときの先生のお気持ちは、わたしにはよくわかりました。それは次のような事件が法蔵館と先生にはあったからです。
 それは古田先生の名著『親鸞思想 -その史料批判-』(冨山房、昭和50年5月25日発行)発刊にかかわる事件です。同書は当初、法蔵館から出版される予定で、出版広告まで出されていたにもかかわらず、法蔵館からは出版されなかったのです。このときのいきさつを同書「自序」に次のように記されています。

  自序
 親鸞の研究はわたしにおいて、一切の学問研究のみなもとである。わたしはその中で、史料に対して研究者のとるべき姿勢を知り、史学の方法論の根本を学びえたのである。
(中略)この一書は誕生の前から数奇な運命を経験した。かつて京都の某書肆(法蔵館のこと。古賀注)から発刊することとなり、出版広告まで出されたにもかかわらず、突然、ある夕、その書肆の一室に招かれ、特定の論文類の削除を強引に求められたのである。当然、その理由をただしたけれども、言を左右にした末、ついに「本山に弓をむけることはできぬ。」この一言をうるに至った。
 わたしの学問の根本の立場は“いかなる権威にも節を屈せぬ”という、その一点にしかない。それは、親鸞自身の生き方からわたしの学びえた、抜きさしならぬ根源であった。それゆえわたしは、たとえこのため、永久に出版の機を失おうとも、これと妥協する道を有せず、ついにこの書肆と袂を別つ決意をしたのである。思えば、この苦き経験は、原親鸞に根ざし、後代の権威主義に決してなじまざる本書にとっては、最大の光栄である、というほかない。--わたしはそのように思いきめたのであった。(後略)」

 このような経緯で袂を別った法蔵館から、古田先生に執筆依頼が来る時代になったのですから、先生も感無量だったのではないでしょうか。先生に続く古田学派の研究者には、この自序に示された学問の根本精神も受け継いでいただきたいと願っています。ちなみに後年、冨山房から出版できたのは家永三郎さんのお力添えによるものでした。
 この『親鸞思想』をわたしは古田先生からいただきました。当時は古代史しか研究していませんでしたから、思想史もこれで勉強するようにとの先生のお心遣いだったと受け止めています。そのいただいた本には先生による次の一文が記されていましたので、ここに初めてご紹介します。

「人間(じんかん)好遇、生涯探求
 古賀達也様
     御机下
  いつもすばらしい御研究やはげましに
  導かれています。今後ともお導き下さい。
     一九九六年五月十五日
            古田武彦」

 過分のお言葉をいただき、この本も家宝の一つとなりました。なお、古田先生が法蔵館から依頼され、書かれた論稿は次のものと思われます。まだわたしは読んでいませんので、蓮如生誕600年の今年中には読んでみたいと思っています。
 法蔵館『蓮如大系3』(1996年11月発行)「蓮如筆蹟の年代別研究」古田武彦


第1082話 2015/10/25

桂米團治さんのブログに古田先生の訃報

 KBS京都放送のラジオ番組「本日、米團治日和。」に古田先生と出演させていただいたことなどがご縁となり、桂米團治師匠には何かとお気遣いいただいています。その米團治師匠のオフィシャルブログに古田先生の訃報が掲載されています。これも有り難いことです。米團治師匠のご了解をいただきましたので、転載紹介させていただきます。

「五代目 桂米團治ブログ」より転載

2015.10.16 《古田武彦さん、逝去》
 10月14日(水)、歴史学者の古田武彦さんがお亡くなりになりました。享年89歳。
 常に文献に偏見なく向き合い、独自の解釈で古代史学界に“喝”を入れた先生──。
 私はただただ古田武彦著書の一愛読者だったのですが、今年、ひょんなことからKBS京都ラジオの私の番組へ古田武彦さんをお招きすることが叶ったのです。
 かなりのご高齢で、もう講演活動もされておられない状況である中、無理を承知で打診してみたところ、「出ます!」というご快諾の返事をいただきました。
 8月29日(土)、ご長男の光河さんに付き添われてスタジオ入りした先生は、明瞭なお声で私のインタビューに応じて下さいました。
 お弟子さんの古賀達也さんも加わっての古代史談義は、なんと二時間以上続いたのです!
 私が少しでも論理に合わないことを言えば賺さず「いや、それは違う」と質され、どんな質問にも丁寧に答えて下さいました。
 逆に、私の話す内容に賛同された時など、スタジオに響き渡るような声で「その通り!」と絶叫されました(*^o^)/
 「これからはどんな研究をなさりたいですか」との私の問いかけに対しては、「やるだけのことはやりました。もう思い残すことはありません。あとは弟子たちが頑張ってくれるでしょう」との返答。
 9月に入り、その模様が三週にわたり紹介されましたが、それが古田武彦さんの最後の放送となりました。
 先生の遺志は必ずや「古田史学の会」の皆さんが受け継いで下さることでしょう。
 勇気と感動を与えて下さり、本当に本当にありがとうございました!    ご冥福をお祈り致します。


第1081話 2015/10/24

古田先生から娘への贈り物

 古田先生からいただいた「宝物」の一つに、娘への贈り物があります。1992年11月に「市民の古代研究会」主催の全国研究集会を京都御所の西にある私学会館で開催したとき、当時3歳の娘を連れて先生にご挨拶しました。そのとき、新泉社から発行されたばかりの古田先生の著書『すべての日本国民に捧ぐ 古代史--日本国の真実』にサインをお願いしたところ、次の一文を記していただきました。

 「古賀小百合様
  いつもひとりで歴史の真実を求めて来た者です。わたしのいなくなった二十一世紀、あなたのいのちを見守っています。おしあわせに。
   一九九二.十一月二十九日 京都 私学会館にて
              古田武彦」

 このときの全国研究集会は「市民の古代研究会」の総力を挙げて取り組んだ一大イベントでした。当時、わたしは同会事務局長でしたので、成功させるために会場や宿泊施設の手配などを一手に引き受けていました。「市民の古代研究会」の会員数や影響力が最も華やかな一瞬でした。
 しかし理事会内部は一部理事による「古田離れ」がまさに開始される直前の時期でした。この二年後の1994年、「市民の古代研究会」は古田支持の少数派理事と反古田の多数派理事とで分裂に至り、わたしは水野孝夫さん(古田史学の会・前代表)らと共に「古田史学の会」を創立しました。このようなとき、娘にいただいた古田先生のサイン本は我が家の家宝となりました。


第1080話 2015/10/23

古田先生からいただいた宝物

 わたしが31歳のとき、古田先生に初めてお会いしたのですが、先生からはいくつかの「宝物」をいただきました。今回はその中の一つをご紹介します。
 それは2000年5月26日にいただいた、古田先生の自筆原稿「村岡典嗣論 -時代に抗する学問-」です。古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣先生を学問的に乗り越えるべく執筆された記念碑的論稿と言ってもよいでしょう。同論文は『古田史学会報』38号(2000年6月)に掲載されましたが、その自筆原稿をわたしにくださったのです。それには次の一文が付されていました。

 「この『村岡典嗣論』わたしにとって記念すべき論稿です。お手もとに御恵存賜らば終生の幸いと存じます。
  二〇〇〇 五月二十六日  古田武彦 拝
 古賀達也様」

 古田先生ご逝去により、『古代に真実を求めて』19集を追悼号としますが、この古田先生自らが「記念すべき論稿」として託された自筆原稿を巻頭写真に掲載し、同論稿を再録したいと思い、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)に検討を要請しました。この自筆原稿をいただいてから15年も経つのかと思うと、感無量です。もう一度、しっかりと読み直したいと思います。