古田武彦一覧

第939話 2015/04/30

古田武彦著

『古田武彦の古代史百問百答』が復刊

ミネルヴァ書房から古田先生の『古田武彦の古代史百問百答』が復刊されました。同書は東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)により、2006年に発行されたものをミネルヴァ書房から「古田武彦 歴史への探究シリーズ」として復刊されたものです。
同書冒頭の藤沢徹さん(東京古田会・会長)による「はしがき」に「敗戦後、節操なき『思想の裏切り』に絶望した旧制高校生が、老年に至るまで反骨の『心理の探求』に没頭した」とあるとおり、古田先生の古代史研究から思想史研究に至る、「百問百答」の名に偽りのない質疑応答が展開された一冊に仕上がっていま す。東京古田会による優れた業績として、後世に残る本です。
同書は古田先生の近年の研究成果と、それに基づいた問題意識が、「百問」に答えるという形式をとって、縦横無尽に展開されています。かつ、その「百答」は「結論」ではなく、新たな問題意識の出発点ともいうべき性格を有しています。古田学 派の研究者にとって、古田先生から与えられた「課題」「宿題」としてとらえ、そこから新たなる「百問」が生まれる、というべきものです。同書を企画編纂された東京古田会の皆様に敬意を表したいと思います。


第922話 2015/04/14

『新撰姓氏録』「佐伯本」と学問の方法

 20年ほど昔のことですが、わたしが『新撰姓氏録』の研究をするためにどのテキストを使用するべきか、古田先生にご相談したことがあります。比較的手に入りやすく、各写本や版本の解説がある佐伯有清さんの『新撰姓氏録の研究 本文篇』(吉川弘文館)を用いようとしたのですが、そのとき古田先生から文献史学にとってとても大切なことを教えていただきました。
 それは、同書は各写本・版本間に文字の異同などがある場合、佐伯さんの判断でそれぞれの諸本から取捨選択されており、言わば『新撰姓氏録』「佐伯本」ともいうべきものであり、文献史学における史料批判の基本から見ればテキストとして使用すべきではないと指摘されたのです。すなわち、文献史学において諸本間に文字や記述の異同がある場合は、現代人の認識や判断で取捨選択するのではなく、史料批判や論証の結果、最も原文に近いと判断できる写本・版本をテキストとして依拠しなければならないという学問の基本姿勢について注意されたのでした。
 わたしはこのとき古田史学の学問の方法で最も大切なことの一つである史料批判について学んだのです。このことは、後の研究にも役立ちました。一例をあげれば、数ある九州年号群史料の中で、最も原型に近いと判断される『二中歴』を重視するということも、このときの経験によるものでした。初期の九州年号研究において、なるべく多くの史料を集め、その中で最も多い年号立て、あるいは最大公約数的な年号立てを九州年号の原型と見なすという手法が盛んに行われましたが、古田先生は終始この方法を批判され、史料批判に基づいて最も成立が早く、原型を保っている『二中歴』に依拠すべきとされたのです。すなわち、学問は多数決ではなく、論証に依らなければならないのです。そして、このことが正しかったことは、現在までの九州年号研究の成果により確かめられています。
 思えば古田先生は『「邪馬台国」はなかった』のときから、この立場に立たれていました。『三国志』版本の中で紹煕本が最も原型を保っていることを論証され、その紹煕本に基づいて研究をされたことは、古田学派の研究者や読者であればよくご存知のはずです。『万葉集』でも同様で、「元暦校本」を最良のテキストとして古田先生は研究に使用されています。
 たとえば『三国志』倭人伝の原文が、「邪馬台国」と「邪馬壹国」のどちらであったのかを論じる場合、国会図書館の蔵書中の表記を全て数え、多数決で決めるという方法が非学問的であることはご理解いただけるでしょう。それと同様に、現存する九州年号史料をたくさん集め、その多数決で九州年号の原型を決めるという方法も非学問的なのです。20年前の古田先生の教えを、今回『新撰姓氏録』を再読しながら懐かしく思い起こしました。
 「必要にして十分な論証を抜きにして、安易な原文改訂にはしってはならない」という古田先生の教えとともに、この史料批判に対する姿勢についても忘れないようにしたいと思います。


第917話 2015/04/09

『古田史学会報』

  127号のご紹介

 今日は仕事で加古川市に来ています。途中、JR新快速の車窓から見える六甲山にも、まだ所々に散り始めた桜を遠望できました。この沿線途中のお気に入りスポットは明石城です。天守閣はないのですが、二つの櫓を両脇に持つ石垣やお堀がとても美しい城郭です。
 『古田史学会報』127号が発行されましたので、ご紹介します。掲載稿は次の通りですが、平田さんは入会間もない新人ですが、テーマも筑後方言に基づく『日本書紀』の史料批判という新たな研究分野で、論証の方法論も手堅くまとめられています。もう一人、安随さんも会報には初投稿ですが、関西例会では古参のメンバーです。関西例会で発表された研究を投稿していただきました。
 安随さんは、『日本書紀』天智紀に見える唐の筑紫進駐軍(2000人)の大半(1400人)は船団を操る「送使団」であり、侵略軍・武装集団ではないとされました。この安随説が正しければ、唐の進駐軍は筑紫を「軍事制圧」するには「少人数」ですし、ましてや九州王朝の「陵墓破壊」などが目的ではない可能性が高くなります。今後の論争や研究の進展が期待されます。
 正木さんと西村さんからは短里についての新発見が報告されました。ますます短里説が正しかったことが明らかになりました。これらの論稿により、『三国志』の短里研究は更にレベルの高い段階へと進みました。
 服部稿は、近年の考古学研究成果を紹介され、大和朝廷一元史観の根拠の一つとなっていた、大和の庄内式土器が全国にもたらされたという従来説は誤りであり、全国に普及した庄内式土器の多くは播磨産であることが、胎土の研究により明らかになったとされました。この間、精力的に取り組まれた服部さんの「考古学」研究により、近畿天皇家一元史観の根拠がまた一つ崩れ去ったようです。
 以上のように、『古田史学会報』127号は大変優れた内容となりました。わたしたち古田学派の陣容が確実に強化された手応えを感じました。
 最後に、古田先生からはギリシア旅行「断念」の一文をいただきました。断念せざるを得なかった先生には申し訳ないことですが、わたしとしてはご高齢をおしてのギリシア旅行を心配していましたので、複雑な心境ではありますが、やはり「安心」しました。先生にはご無理はなされず、長生きしていただきたいと願っています。

【『古田史学会報』127号の掲載稿】
○「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」  川西市 正木 裕
○短里と景初 誰がいつ短里制度を布いたのか?  高松市 西村秀己
○“たんがく”の“た”  大津市 平田文男
○邪馬台国畿内説と古田説はなぜすれ違うのか  八尾市 服部静尚
○学問は実証よりも論証を重んじる  京都市 古賀達也
○「唐軍進駐」への素朴な疑問  芦屋市 安随俊昌
○『書紀』の「田身嶺・多武嶺」と大野城  川西市 正木 裕
○倭国(九州王朝)遺産10選(下)  京都市 古賀達也
○断念  古田武彦
○2015年度会費納入のお願い
○古田史学の会・関西例会のご案内
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○『古田史学会報』原稿募集


第903話 2015/03/20

『盗まれた「聖徳太子」伝承』発刊

本日、出張先から帰宅すると、明石書店から『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)が届いていました。表紙も中身のレイアウトも一新されており、狙ったとおり以上のリニューアルに成功していました。明石書店の担当の森さんにはかなり頑張っていただき、感謝しています。
冒頭には皇室御物の『法華義疏』のカラー写真が掲載されており、読者はその実相に触れることができます。『古代に真実を求めて』にカラー写真が掲載されたのは初めてですが、編集責任者の服部静尚さんのご尽力の賜です。法隆寺以前の持ち主が書かれていた部分が鋭利な刃物で切り取られた痕跡も写っており、これは同書が近畿天皇家の「聖徳太子」のものではなかったことを意味します。
古田先生へのインタビュー「家永三郎先生との聖徳太子論争から四半世紀を経て」では、古田先生が東北大学の恩師・村岡典嗣先生亡き後、新たに赴任されてきた家永先生に学ばれ、日本思想史の単位を認定していただいたこなどが語られており、先生ご自身による貴重な歴史的証言と思いました。
巻末には、法隆寺釈迦三尊像光背銘と『隋書』「イ妥(タイ)国伝」版本、そして古田先生によるそれらの現代語訳も収録されており、史料として研究にも役立ちます。本書は多元的「聖徳太子」研究における、後世に残る一冊に仕上がったと自負しています。
「古田史学の会」2014年度賛助会員(年会費5000円)には明石書店から順次発送されます。大型書店にも並びますので、是非お買い求めください(定価2800円+税)。次号19集は「九州年号」を特集します。更に『三国志』倭人伝を特集した別冊も発行予定です。こちらもお楽しみに。


第890話 2015/03/07

古田武彦著

『古代史をひらく』復刊

 ミネルヴァ書房から古田先生の『古代史をひらく 独創の13の扉』が復刊されました。同書は1992年に原書房から刊行されたもので、それぞれが独立した13のテーマにより、古田史学・多元史観の全体像とエッセンスが盛り込まれた 面白い一冊です。古田史学に初めて触れる読者にも興味深く読み続けられるような本になっています。最後の方には「古田武彦による自己著作紹介」という一節が設けられており、古田先生の代表作に込められた思いや背景なども記されており、古田学派の研究者には是非とも読んでいただきたいと思います。
 復刊にあたり、末尾に収録された大越邦生さんの「中国の古典・史書にみる長寿年齢」という二倍年暦に関する論文はとても興味深いものでした。『論語』などに現れる年齢表記を二倍年暦(二倍年齢表記)と見るのか否かについて、慎重な筆致で分析が試みられた優れた論稿です。この中国古典における二倍年暦の痕跡について、その史料批判を含めてこれからも検証が必要です。大越論文に触発され、学問の方法論も含めて、勉強していきたいと思いました。


第874話 2015/02/15

京あすか「ロゼッタ石の解読」

 「古田史学の会・四国」の合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、松山市)から同人誌『海峡』第33号(平成27年1月)が送られてきました。「古田史学の会・四国」会員の白石恭子さん(ペンネーム:京あすか)のエッセー「ロゼッタ石の解読」が掲載されていました。
 エジプトのロゼッタ石の古代エジプト文字を解読したフランソワ・シャンポリオンのことを記したエッセーで、2006年にロシアで出版されたワレーリー・ミハイロビッチ・ボスコイボイニコフ著『すばらしい子供たちの日々』(オニクス社)の一節を白石さんが訳されたものです。シャンポリオンの生い立ちや子供の頃から天才的才能の持ち主であったことなどが紹介されており、とても興味深く読みやすいエッセーでした。
 末尾には古田先生のことをシャンポリオンに匹敵する歴史学者であると、次のように紹介されています。

 「現在、日本のシャンポリオンとも言うべき偉大な歴史学者がいます。元昭和薬科大学教授で、文献史学の研究に打ち込んでこられた古田武彦先生です。シャンポリオンは四一才で亡くなりましたが、古田先生は八八才で現在もお元気です。先生は、これまで日本書紀に基づいて語られてきた日本の古代史に数々の疑問を呈してこられました。四〇年余り前に先生の著作『「邪馬台国」はなかった-解読された倭人伝の謎』という本が朝日新聞より刊行され、話題になりました。」

 このように紹介され、次の一文でエッセーを締めくくられています。

 「古田先生は日本の古代史の常識を覆した歴史学者として歴史に刻まれることでしょう。」

 このように、様々な分野の人々により古田先生の偉業が語られ、発信されています。わたしも古田先生のお名前が歴史に刻まれることを全く疑っていません。


第864話 2015/02/06

中華書局本『旧唐書』の原文改訂

 正月明けから、年始の御挨拶周りと三月決算期に向けての予算達成のための新製品投入による採用交渉や開発・マーケティング等連日の出張で神経を使っているせいか、帰宅しても仕事から古代史への頭の切り替えに苦しんでいます。

 「洛中洛外日記」857話で『三国志』中華書局本の原文改訂(三百里→三十里)を紹介しましたが、実は他にも中華書局本にはこのような不注意・誤解に基づく誤りがありました。
 それは中華書局本『旧唐書』貞元二十一年(805)条に見える、「日本国王ならびに妻蕃に還る」という記事です。日本国王夫妻(天皇・皇后か)が805年に唐から帰国したという不思議な記事で、従来から注目していました。
 あるとき、この記事のことを古田先生に相談したのですが、805年ですので九州王朝の国王夫妻のこととも思えず、まして近畿天皇家の天皇夫妻が訪中したなどという痕跡は国内史料にはありませんので、どのように理解したらよいのかずっと考えあぐねていました。
 ところが古田先生はこの難問を見事に解決されたのです。すなわち、これは中華書局本の誤読、句読点のミス(文章の区切り方の誤り)であり、正しくは「方(まさ)に釋(ゆる)すの日、本国王(吐蕃国王)ならびに妻(め)とり蕃(吐蕃)に還る。」と読解するべきであるとされたのでした。古田先生はこのことを「歴史ビッグバン」という小論にされ、『学士会会報』(第816号、1997年所収)で発表されました。
 このときも本当に古田先生はすごいなあと感心し、同時に中華書局本を歴史研究テキストとして用いることの危険性を痛感しました。以来、わたしは史料の選択や史料批判に一層慎重となりました。これは、わたしが古田先生から学んだ「学問の方法」の一つです。


第863話 2015/01/31

『三国志』のフィロロギー

    「質直の人、陳寿」

 『三国志』のフィロロギーと題して、短里説とその学問の方法についての連載も今回が最終回となります。文献史学の学問の基本的方法として史料批判の大切さ、すなわち『三国志』が誰により誰のために何の目的で編纂されたのかという史料性格の検証の重要性を繰り返し説明してきました。さらに著者である陳寿の認識や編纂方針について、フィロロギーの方法論に基づいて分析してきました。そこで今回は陳寿その人について解説したいと思います。
 『晋書』陳寿伝には陳寿の人となりを次のように高く評価した上表文が記されています。

 「もとの侍御史であった陳寿は、三国志を著作しました。その言葉(辞)には、後代へのいましめになるものが多く、わたしたちが何によって得、何によって失うか、それを明らかにしています。人々に有益な感化を与える史書です。
 文章の持つ、つややかさでは司馬相如には劣りますが、『質直』つまり、その文書がズバリ、誰にも気がねせず真実をあらわす、その一点においては、あの司馬相如以上です。
 そこで漢の武帝の先例にならい、彼の家に埋もれている三国志を天子の認定による『正史』に加えられますように。」(古田武彦『邪馬一国への道標』128頁、講談社、1978年)
 この上表文を天子が受け入れ、既に没していた陳寿の遺書ともいえる『三国志』が正史として世に出たのです。
 この上表文で陳寿のことを「質直」と評していますが、「質直」とは、飾り気なく、ストレートに事実をのべて他にはばかることがない、という意味で、出典は『論語』です。

 「達とは質直にして義を好み、言を察し、色を観(み)、慮(おもんばか)りて以て人に下るなり。」『論語』願淵篇

 古田先生はこの文を次のように訳されています。
 「あくまで真実をストレートにのべて虚飾を排し、正義を好む。そして人々の表面の『言葉』や表面の『現象』(色)の中から、深い内面の真実をくみとる。そして深い思慮をもち、高位を求めず、他に対してへりくだっている。」
 わたしたち古田学派の研究者は、陳寿がそうであったように「質直」であらねばなりません。このことを最後に述べて、本シリーズの結びとします。


第850話 2015/01/10

平成27年、賀詞交換会のご報告

断念  古田武彦
(『ギリシャ行き』2015.2.13)

お詫びと訂正

 「洛中洛外日記」850話に収録しました賀詞交換会における古田先生の「講演概要」に不正確な内容がありました。河西良浩様、寺坂国之様にお詫び申し上げ、当該部分を削除いたします。なお、当「講演概要」の文責はわたしにあります。

                古賀達也(2015.01.23)

 今日は古田先生とご子息の光河(こうが)さんをI-siteなんばにお迎えして、新年賀詞交換会を開催しました。竹村順弘さん(古田史学の会・全国世話人)と服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)にご自宅までクルマで古田先生を送迎していただきました。

 杉本三郎さん(古田史学の会・会計監査)の司会で賀詞交換会は始まりました。冒頭に水野代表から新年の挨拶があり、「古田史学の会・東海」の竹内強会長(古田史学の会・全国世話人)、中国曲阜市から一時帰国されている青木英利さん(古田史学の会・会員)からご 挨拶をいただきました。その後、服部静尚さんから『古代に真実を求めて』の発刊予定や特集テーマについての報告がありました。
 以下、古田先生の講演の概要を紹介します。(文責:古賀達也)

【古田先生講演】
 本日はこのような場を作っていただき、ありがとうございます。昨年11月に長野県の松本深志高校で講演したばかりなので、それと同じ内容になるのかと思っておりましたが、新たなテーマが続出しましたので、それをお話ししたいと思います。

 まず九州年号の問題ですが、『二中歴』に載っている九州年号が画期的であると思っています。『二中歴』では 九州年号が700年に終わり、701年に文武天皇の年号(大宝)に続いていますが、この701年こそ、「評」が終わり「郡」に変わった年であり、これは偶 然の一致ではなく、『二中歴』が示した内容が真実であり、九州年号は歴史事実である。従って、九州年号を制定した九州王朝もリアルである。これは確定論証である。九州王朝が存在しなかったことにしている『古事記』『日本書紀』こそ間違っていたことになる。

 神籠石についても、山城説が発掘調査により明らかとなっており、単なる霊域てはなく軍事施設である。堀や木柵が発見されており、山城であることは間違いない。その分布も福岡県・佐賀県などが中心であり、近畿が中心ではない。この神籠石山城の分布の中心に権力者 がいたことになる。この防衛施設が『日本書紀』には全く書かれていない。書き忘れたのではなく、実在した九州王朝をなかったことにする近畿天皇家側の御用 史書である。

 次のテーマは阿蘇山である。『隋書』イ妥国伝には「阿蘇山あり」と書かれている。この7世紀前半の時代が近畿天皇家中心であれば、近畿・奈良県までの道程が書かれていなければならない。ところが、瀬戸内海領域や、あるいは日本海岸からのコースなど全く書かれて いない。一切ない。うっかりミスで書かれていないとするのは、歴史学の方法ではない。ということは、『隋書』イ妥国伝に記された権力者は近畿中心ではなく、筑紫・山口県中心の権力者である。中国の西安から見て、阿蘇山があり、その手前に神籠石がある。これを『隋書』イ妥国伝は描写している。これを否定するのは勝手だが、それは御用史学である。
 有名な「日出ずる処の天子」は近畿の推古天皇(女性)でも聖徳太子(皇子)でもなく、九州王朝の多利思北孤(男性・天子)である。『隋書』は同時代の史料に基づいて編纂された史書である。ところが、「日出ずる処の天子」を近畿天皇家の人物として教科書は作られており、今日まで謝りもせずに間違ったままで ある。

 『隋書』イ妥国伝の記事「婦、夫の家に入るや、必ず先ず犬(火)を跨ぎ、乃ち夫と相見ゆ。」と岩波文庫では原文の「犬」に「(火)」を付記している。確かに日本には「火」をまたぐ風習があったとされているが、「犬」も古くから人間とのつきあいがあり、『隋書』 の原文通り「犬」でもよいのではないか。旧石器時代から犬と人間は共存してきたのであり、「犬をまたぐ」とは、犬が新しい仲間と認めたという「儀式」では ないか。
 インターネットに面白い記事がありました。「犬神の由来」という記事によると、犬を埋めて首だけ出しておき、その後に犬の首を切るというような嫌な話しです。「犬神」という姓がありますが、姓にするほどですから「犬神」とはそんな嫌らしい説話から付けられたものではなく、犬との共存共栄の歴史から、神聖視されたのではないか。
 昨日気づいたことだが、『三国志』に狗奴国とありますが、狗奴国の「狗」は犬のことであり、神聖な種族だから狗奴国という国名が付けられたのではない か。倭人伝にある対海国・一大国の長官が「卑狗」とされており、この「狗」も神聖な犬が背景にあるのではないか。
 さらに志賀島の金印の「委奴国」も訓みは「いぬ国」であり、「犬(いぬ)」と関係するのではないか。漢が「いぬ」を神聖視した集団に与えたのが「漢委奴国王」印ではなかったか。というようなところまで話しが進んできました。昨日考えた話しなので断言はしませんが、そういうテーマに遭遇しました。

 最後に申し上げたいテーマがあります。一つは『東日流外三郡誌』という『古事記』『日本書紀』に匹敵する本がありますが、これの寛政原本がまだ「発掘」されていませんので、公的な組織(五所川原市など)で調査「発掘」する必要がある。そのための国立の歴史研究 所を作るべきである。本来の持ち主である安倍家(安倍総理)で調査保管してほしい。

 秋田孝季が言っているように、この世の中のものには始まりがあります。宗教も国家も始まりがあり、現在に至っている。宗教や国家に「人間を殺す権限」を与えたのが諸悪の根元である。人間が国家・宗教を作ったのであり、その国家・宗教にばかばかしいほどの権限を与えている。そんな権限は断固拒否すべきである。この問題が現代の最大の問題である。人間が作った国家・宗教に人間を殺す権利を与えてはならない。
 さらに言えば、神と悪魔は同一体ではないか。前が神で後ろが悪魔であり、同一体ではないか。そのような虚像で引っ張り回される時代はもう過ぎたのではないか。

 補足としてギリシアの話しをしておきたい。ギリシア神話をわれわれは知っているが、よく見てみると不思議なことがあります。アポロの神はオリンポスの山に帰るとされていますが、オリンポスはギリシアの北側にあり、南のアテネから北へ太陽神アポロが帰るというの はおかしい。アポロはオリンポスの真東にあるトルコのトロイから出発したのではないか。そうであれば、ギリシア神話ではなくトロイ神話となる。
 『古事記』『日本書紀』が九州王朝神話を取り込んで自らの神話としてすり替えたのと同様に、ギリシア神話もトロイ神話の盗作ではないか。そのトロイ神話をわれわれはギリシア神話として覚えさせられている。滅ぼされた古い王朝の歴史や神話を取り込んで利用するという手法が日本でもギリシアでも使われているのである。
 バイブル冒頭の長寿年齢記事も異なる暦を使用していた古い文明の説話を盗用した痕跡である。
 こうしたことを調べるためにも、ギリシアを訪問して史料調査を行いたい。わたしは反キリスト教でも反イスラム教でもない。イエスもマホメットも親鸞もすばらしい人物であり、わたしは尊敬しているが、尊敬されている人物に対する余計な侮辱が、はたして「表現の自由」なのか。襲撃されたパリの新聞社のことをよく知らないが、わたしは疑問に感じる。
 わたしはもう永くはない。後はみなさんによろしくお願いしたい。(拍手)

【質疑応答】
(問)日本の縄文宗教には「地獄の思想」はないと何かの本で読んだことがあるが、本当でしょうか。
(古田)親鸞の思想には地獄があります。親鸞はその地獄思想をさらに高い立場から乗り越えている。これがすばらしい。「地獄思想」に騙されないということが大事ではないか。
(問)仏教以前の宗教には「地獄の思想」がないとされているが、どうか。
(古田)仏教以前としては『祝詞』があり、そこには味方が犯した罪や敵の罪を「水に流し」て乗り越えるという思想が記されている。原爆投下というアメリカの戦争犯罪を忘れるのではなく、罪を明確に認めた上でそれを乗り越える思想が大切である。

 質疑応答の最後に古賀から、『三国志』における長里と短里の混在という主張に対して、『三国志』を編纂した 西晋の陳寿は、長里から短里に変更した王朝の歴史官僚であり、「短里」に変更した大義名分にそって『三国志』を編纂したはずであり、その陳寿や晋王朝が短 里と長里の混在に気づかない、あるいは気にしないとは考えられないと指摘しました。

 講演終了後に、古田先生と光河さんと共に参加者全員で記念写真を撮り、閉会となりました。先生と光河さんを竹村さんがご自宅まで送り、残った希望者により懇親会を開催しました。今日は今宮戎のお祭り(十日戎)で、会場周辺は夜遅くまで賑やかでした。今年も「古 田史学の会」にとって良い一年となりそうです。


断念  古田武彦

   一
 「『ギリシャ行き』を断念した。」
 今年(二〇一五)の二月一日(日曜日)、日本人二名(湯川遥菜・後藤健二氏)殺害の報道が発表された、その瞬間だった。
 わたしはすでに「ギリシャ行き」にO.Kの立場をとっていた。「もし、余命があるならば」の要望だった。直ちに和田マサミ(多元)さんから反応があり、 東京古田会・古田史学会等からも加わり、すでに三十数名を越えていた。しかし「人のいのちには代えられない。」わたしには迷いはなかった。

   二
 昨年の八月十八日(月) わたしは妻(泠子)を失った。午後一時四十分、桂病院である。長男(光河)と共に住むこととなった。余命のある限り、研究と執筆に全力で朝夕をすごしている。

  二〇一五、二月八日(日曜日)筆了


第845話 2015/01/01

百済武寧王陵墓碑が出展

 みなさま、あけましておめでとうございます。
 実家の久留米に帰省し、毎日のんびりとテレビを見ています。さすがに地元だけあって、HKT48が頻繁にテレビ出演しています。更に元日から開催される九州国立博物館の「古代日本と百済の交流 大宰府・飛鳥そして公州・扶餘」の告知コマーシャルもよく目にします。特別展示として七支刀(期間限定 1/15~2/15)や百済武寧王陵墓碑が出展されるとのこと。3月まで開催されるようですので、是非、拝見したいものです。
 特に武寧王陵墓碑は見てみたいと願っています。というのも、墓碑に記された武寧王の没年干支を確認したいのです。通常、同碑文の没年干支は「癸卯」 (523年)と紹介されることが多いのですが、実は古田先生等が1998年に同碑文を実見されたところ、干支部分は改刻されて「癸卯」とされていますが、 本来の原刻は「甲辰」であることを発見されたのです。すなわち、干支が一年ずれているのです。このことについて、わたしは『古田史学会報』31号 (1999年4月)において、「一年ずれ問題の史料批判 百済武寧王陵碑『改刻説』補論」として報告しました。本ホームページに掲載していますので、ご覧ください。
 韓国国宝の同墓碑が国内で見られるとは思ってもいませんでしたので、何とか展示期間中に九州国立博物館を訪れ、この目で見てみたいものです。

(後記)JR久留米駅で入手した観光案内パンフレット「太宰府天満宮&九州国立博物館」に「古代日本と百済の交流 大宰府・飛鳥そして公州・扶餘」の紹介があり、そこに「武寧王墓誌」の写真が掲載されていました。その写真をよく見ると、「癸卯」の二字部分が少し 削られて、へこんでいることがわかります。もちろん、このことを知らなければ気づかない程度ですが、写真でもわかるのですから、実物を直接見れば、削られ た原刻の「甲辰」という字の痕跡を確認できると思います。


第839話 2014/12/17

平成27年、賀詞交換会のご案内済み

 来る平成27年も古田先生をお迎えして、新年賀詞交換会を開催します。4月に はギリシア旅行を古田先生は予定されていますので、その抱負などもお聞かせいただけることと思います。皆様のご参加をお待ちしております。会員以外の方も参加可能です。終了後は希望者による懇親会も行いますので、当日、会場にてお申し込みください。

古田史学の会・新年賀詞交換会(古田先生を囲んで)
○日時 平成27年1月10日(土)午後1時30分
○会場 大阪府立大学 i-siteなんば 2階
    地下鉄御堂筋線・大国町駅下車7分
    (ZEPPナンバ大阪の東隣)
○参加費 1000円  終了後懇親会(有料)

大阪府立大学I-siteなんばまちライブラリーの交通アクセスはここから。

 


第819話 2014/11/09

八王子セミナーの余韻・余話

 今朝の八王子は曇り空(小雨)です。わたしの部屋はベッドが四つもありますが一人で使っています。ちなみにテレビはありません。目覚めてから朝食の時間までには余裕がありましたので、前日の「洛中洛外日記」の校正を行いました。
 八王子は初めて訪れましたが、わたしが好きなグループ、ファンモン(ファンキー・モンキー・ベイビーズ)の出身地なので、なんとなく愛着が感じられま す。昨日、JR八王子駅の改札を抜けるとき、思わずファンモンの「ヒーロー」を口ずさんでしまいました(最寄り駅の改札抜けると、いつもよりちょと勇敢な お父さん、Daddy! その背中に愛する人のぉ~声がするぅ~)。
 東京古田会の藤沢会長と朝食をご一緒し、多くの方と歓談したり記念写真を撮ったりと忙しくしていますと、古田先生が登壇され短い講話をされました。
 内容は画家セザンヌの遠近法の話からから切り出され、『隋書』「イ妥国伝」の「無故火起」について昨日に続いて説明されました。その要旨は、自然現象の 場合の表記は「火」ではなく、「災」であるとするもので、従来、阿蘇山の噴火の「火」と理解していたのは誤りであると繰り返し説明されました。そして、漢代の成語としての「無故○○」という禁止事項を示すものと同様に「無故火起」を理解すべきであり、人による「火」の使用を禁止したものとされました。この説に対して反対意見があることから、先生も丁寧に繰り返し説明されているようでした。
 そして、荻上さんの閉会の挨拶で、セミナーは終了しました。最後に古田先生を囲み、全員で記念写真を撮りました。
 帰る方向が同じということもあり、多元的古代研究会の安藤会長・和田事務局長・宮崎宇史さん・西坂久和さん、そして関西から来た横田幸男さん(古田史学の会・インターネット担当)・服部静尚さん(古田史学の会・『古代に真実を求めて』編集責任者)・中本賢治さん(古田史学の会・会員)、林信禧さん(古田史学の会・東海、全国世話人)とJR八王子駅でコーヒーを飲み、昼食をとりました。
 その席上で、これからも全国の古田ファンや研究者が一堂に会する機会が持てないものかということになり、たとえば年に一度、研究発表会を各地の団体が持ち回りで主催するというアイデアをわたしから提案しました。実現できればよいと思います。
 こうして、怒濤の二日間が幕を閉じ、今は新幹線で京都に向かっています。とてもよい思い出となりました。荻上さんはじめ主催者のみなさん、古田先生、そして参加された全国の皆さんにお礼を申し上げます。