古田武彦一覧

第3106話 2023/09/07

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (7)

 喜田貞吉の明治から昭和にかけての次の三大論争からは、喜田の鋭い批判精神と同時に、その「学問の方法」の限界も見えてきました。

Ⅰ《明治~昭和の論争》法隆寺再建・非再建論争
Ⅱ《大正の論争》 「教行信証」代作説・親鸞「無学の坊主」説
Ⅲ《大正~昭和の論争》藤原宮「長谷田土壇」説

 文献を重視した喜田の批判精神、〝燃えてもいない寺院を燃えたと書く必要はない〟〝何代も前の天皇を「当今」と呼ぶはずがない〟は問題の本質に迫っており、古田史学に相通じるものを感じますが、更にそこからの論証や実証を行うという、古田先生のような徹底した「学問の方法」が喜田には見られません。

 法隆寺再建論争で、喜田が「法隆寺(西院伽藍)の建築様式は古い」という非再建説の根拠を直視していれば、自らの再建説の弱点に気づき、移築説へと向かうことも、喜田ほどの歴史家であればできたはずです。喜田の再建説では、たとえば五重塔心柱伐採年の年輪年代値594年という、没後に明らかになった新事実にも応えられないのです。

 「教行信証」論争でも同様です。執筆時点の天皇しか「当今」とは呼ばないと、正しく批判しながら、その一見矛盾した史料事実の説明に〝教行信証は他者の代作〟〝親鸞、無学の坊主〟という安直な「結論」で済ませてしまいました。もう一歩進んで、そのような矛盾した史料状況が発生した理由を考え抜くための「学問の方法」に、なぜ喜田は至らなかったのでしょうか。時代的制約だったのかも知れませんが、残念です。

 藤原宮「長谷田土壇」論争では、大宮土壇からの藤原宮跡出土により、大宮土壇から長谷田土壇への藤原宮移転説に喜田は変更しました。しかし、藤原宮下層条坊の出土により、この移転説も説明困難となりました。もし移転であれば、〝条坊都市中の別の場所から大宮土壇への移転〟を藤原宮下層条坊の出土事実が示唆するからです。こうした問題を解明するのは、冥界の喜田ではなく、古田史学・多元史観を支持するわたしたち古田学派研究者の責務です。

 わたしは10年前から、「大宮土壇」と「長谷田土壇」の二つの〝藤原宮〟があったのではないかとする仮説を提起してきました(注)。本年11月の八王子セミナーでは、この藤原宮問題が論じられる予定です。喜田や古田先生の批判精神と学問の方法を継承するためにも、研究発表やディスカッションに臨みたいと思います。

(注)
古賀達也「二つの藤原宮」2013年3月の「古田史学の会・関西例会」で発表。
同「洛中洛外日記」545話(2013/03/28)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
同「藤原宮下層条坊と倭京」『多元』172号、2022年。


第3102話 2023/09/01

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (6)

 喜田貞吉の、明治から昭和にかけての次の三大論争は、その当否とは別に重要な学問的意義を持っています。

Ⅰ《明治~昭和の論争》 法隆寺再建・非再建論争
Ⅱ《大正の論争》    「教行信証」代作説・親鸞「無学の坊主」説
Ⅲ《大正~昭和の論争》 藤原宮「長谷田土壇」説

 喜田の三大論争のうち、真の意味で決着がついたのは、古田先生が参画したⅡ「教行信証」論争だけのように、わたしには見えます。それらの概略は次の通りです。

Ⅰ. 法隆寺論争は、昭和14年の若草伽藍の発掘調査で火災跡が発見されて、喜田の再建説が通説となった。再建問題では喜田指摘の「勝利」だが、西院伽藍が古いとする建築史学の指摘は、五重塔心柱の年輪年代で復活。真の決着はついていない。米田説(移築説)が有力。

Ⅱ.『教行信証』は親鸞自筆坂東本(東本願寺蔵)の筆跡調査により、親鸞真作が確かめられた。「今上」問題での喜田指摘は有効だったが、古田先生の科学的筆跡調査(デンシトメーター)により、親鸞〝無学の坊主〟説は「惨敗」。

Ⅲ. 藤原宮論争は大宮土壇説(出土事実)で決着したわけではない。真の論争はこれから。なぜなら〝大宮土壇では京域の南東部が大きく香久山丘陵に重なり、条坊都市がいびつな形となる〟とする喜田の指摘は今でも合理的だからだ。

 それぞれの論争に深い学問的意義、特に「学問の方法」において示唆や教訓が含まれています。何よりも喜田の文献(執筆者の意図・認識)を尊重する史学者の良心と、文献を軽視する姿勢(注)への批判精神は、古田先生の学問精神に通じるものを感じます。(つづく)

(注)たとえば「偽書説」など、その主観的な定義を含めて〝文献を軽視する姿勢〟の一種と見なしうる。これは文献史学における重要な問題であり、別に詳述する機会を得たい。


第3101話 2023/08/31

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (5)

 〝もし「教行信証」が本当に親鸞の著作なら、何代も前の天皇である土御門を、あやまって「今上」などと呼ぶはずはない。〟とする喜田の指摘を受けて、『教行信証』成立時代やその前後の文献の悉皆調査により、「今上」とはその記事が書かれたときの天皇であることを実証的に古田先生は確認しました。続いて、親鸞自筆『教行信証』坂東本(東本願寺蔵)の科学的調査を実施。それは、墨の濃淡をデンシトメーター(Multiplier Photometer)で数値化し、筆圧曲線による筆跡の異同や、同一人物の年齢による筆跡変化をも確認するという、当時としては画期的な手法でした(注①)。

 この科学的な筆跡調査の結果、『教行信証』が撰述されたのは元仁元年(1224)、親鸞五二歳のとき。総序中の「今上」記事は、土御門天皇の承元元年(1207)~承元五年(1211)、親鸞が三五歳から三九歳に当る越後流罪中に書いた自らの文書を『教行信証』撰述時に書き写したとする結論に至りました。

 古田先生による、「今上」の〝悉皆調査〟と、デンシトメーターを用いた筆跡の科学的調査により、大正時代から続いた『教行信証』論争に終止符を打つことができたのでした。この古田先生の学問の方法や著作は、日本思想史学における研究レベルを異次元の高みに引き揚げたもので、後継の若い研究者にも大きな影響を与えました(注②)。(つづく)

(注)
①古田武彦「第二節 坂東本の史料科学的研究」『親鸞思想 その史料批判』冨山房、1975年。
②佐藤弘夫(東北大学教授)「古田先生を悼む」『古田武彦は死なず』(明石書店、2016年)に次の記事が見える。佐藤氏は日本思想史学会々長(当時)で東北大学の古田氏の後輩にあたる。
〝私が古田武彦先生のお仕事に初めて接したのは、一九七五年五月に刊行されたご著書『親鸞思想 その史料批判』(冨山房)を通じてでした。当時、私は東北大学文学部日本思想史研究室の四年生で、翌年の卒業を控えて卒業論文の準備に取り組んでいました。テーマが日蓮を中心とする鎌倉仏教であったため、関係ありそうな文献を乱読しているなかで『親鸞思想』に巡り合ったのです。(中略)
ひとたび読み始めると、まさに驚きの連続でした。飽くなき執念をもって史料を渉猟し、そこに沈着していく求道の姿勢。一切の先入観を排し、既存の学問の常識を超えた発想にもとづく方法論の追求。精緻な論証を踏まえて提唱される大胆な仮説。そして、それらすべての作業に命を吹き込む、文章に込められた熱い気迫。――『親鸞思想』は私に、それまで知らなかった研究の魅力を示してくれました。読了したあとの興奮と感動を、私はいまでもありありと思い出すことができます。学問が人を感動させる力を持つことを、その力を持たなければならないことを、私はこのご本を通じて知ることができたのです。〟


第3100話 2023/08/29

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (4)

 親鸞自筆『教行信証』坂東本(東本願寺蔵)の研究により、「教行信証は親鸞の真作ではない」とした喜田の仮説(親鸞「無学の坊主」説)は否定されました。しかし、〝もし「教行信証」が本当に親鸞の著作なら、何代も前の天皇である土御門を、あやまって「今上」などと呼ぶはずはない。〟とする喜田指摘の論理性は有効です。この「今上」問題に決着をつけたのが、古田先生の論証と実証的研究方法でした。

 「何代も前の天皇を、今上などと呼ぶはずはない」の当否を検証するために、古田先生は『教行信証』成立時代やその前後の文献を片っ端から調査され、「今上」や「今」という言葉がどのような意味で当時の人々が使用していたのかを確認されたのです。そのときの様子を次のように述懐しています。

〝それでは、事実で確かめてみよう。わたしはたくさんの文書や文献にとりくんだ。そこに「今、今、今……」。「今」という文字を、ことばを、際限もなく追いつづけた。しかし、そのおびただしい用例のすべて、「今」とは、何の疑いもなく、「現在」のことだった。その文章を書いているときの「現在」、そのことばをいっているときの「現在」。それ以外の「今」は、ついにどこにも発見できなかったのである。

 この点、宗教家でも同じだった。親鸞とほぼ同時代の道元の場合もそうだ。かれの代表作『正法眼蔵』をしらべると、かれのことを「今の思想家」といいたくなるほど、「今」ということばを、たくさん使っている。全部で四九五個もあった。しかし、その全部が、文字通りの「現在」のことなのである。具体的な「今」の行為、生活にうちこむ人間の姿。それが、実は永遠の意義を帯びているのだ。この当然の道理を、道元は、くりかえしくりかえし説ききたり、説き去って、あきることがないのである。

 親鸞の場合もそうだ。手紙全部の中で、二十二個。和文著述の中で十九個。漢文著述(『教行信証』をのぞく)の中で七個。和讃の中で十個。『教行信証』の中に一二七個の「今」が使われている。そのすべてを一つ一つ確かめていったところ、その全部が「現在」のことなのである。もちろん、その「今」がどれぐらいの長さの時間をさしているかは、まちまちだ。「末法」にはいってからの、六百年以上の年月をふくむことも、できるのである。しかし、それもズバリ「現在」を起点(中心)にしてのことである。二十年前の、過去のある年を起点にした「今」などという用法は、親鸞以前にも親鸞以後にも、親鸞自身にも、まったくないのである。

 わたしの気の遠くなるような大量の「今」の探索の結果、「今とは現在のことである。」という単純明快な真理に到達した。わたしが疲れたあまり、多生いまいましい気持ちになったとしても、きみたちは同情してくれるだろうか。〟(注①)

 〝この疑問をいだいたわたしは、親鸞以前、親鸞と同時代、親鸞以後、そして親鸞の全文献の中から、極力「今上」の話を渉猟した。六国史、皇代記類、史論類、歴史物語類である。そしてその結果は、単純な帰結をしめした。(歴史物語類の「歴史的現在」の事例を除き)、“「今上」とは、「執筆時の現在の天皇」を指す”という一事である。〟(注②)

 ここに見える古田先生の文字や熟語の〝悉皆調査〟こそ、後の『「邪馬台国」はなかった』で駆使した、『三国志』全文からの「壹」と「臺」の全調査という、当時の古代史学界を驚愕させた学問の方法の先行例だったのです。この親鸞研究における「今」「今上」の〝悉皆調査〟の経験こそが、古田史学を創立せしめた一つの重要な要因だったと思われます。そしてこれは、批判精神の塊であった喜田でさえも執り得なかった、あるいは思いもよらなかった学問の方法です。まさに、古田先生が喜田を越えた瞬間、といっては、天才歴史家喜田貞吉に失礼でしょうか。

 しかし、『教行信証』論争における、古田先生の先進的な学問の方法は、これにとどまりませんでした。(つづく)

(注)
①古田武彦『親鸞 人と思想』清水書院、1970年。130~131頁。
②古田武彦「家永第三次訴訟と親鸞の奏状」『市民の古代』増補版 第2集、市民の古代研究会編、1984年。『古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編Ⅱ』(明石書店、2002年)に収録。


第3099話 2023/08/24

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (3)

 喜田貞吉のショッキングな仮説(親鸞「無学の坊主」説)は、親鸞自筆『教行信証』坂東本(東本願寺蔵)の研究により葬り去られました。しかし、〝もし「教行信証」が本当に親鸞の著作なら、何代も前の天皇である土御門を、あやまって「今上」などと呼ぶはずはない。〟とする喜田指摘の論理性は有効です(注①)。この喜田の学問の方法は、後の法隆寺再建論争のときの主張と同類のものです。

 『日本書紀』天智十九年条(670年)に、「法隆寺に火つけり。一屋余すなし。」と書かれていることを根拠に、喜田は〝燃えてもいない寺が燃えてなくなったなどと『日本書紀』編者は書く必要がない〟と主張しました。文献史学の視点からは、この意見はもっともなものです。しかし当時は、現存する法隆寺(西院伽藍)の建築様式や佛像などが古い時代のものであるとする、建築史や仏教美術史の立場による実証的な非再建説が有力で、『日本書紀』の記事は干支一巡(670年→610年)間違っているのではないかと反論されました。すなわち、720年に成立した『日本書紀』に記された、その50年前の火災記事よりも、現存する法隆寺という物証が優先するという反対論が説得力を有していたのです。ところが若草伽藍の火災跡出土により、同論争の趨勢は逆転し、喜田の再建説が通説となりました。これは文献史学による論証が、建築史などによる実証的な根拠(西院伽藍の年代)を覆したケースです(注②)。

 今回紹介した『教行信証』の「今上」問題も、何代も前の天皇を「今上」とはいわない、とする喜田の主張は、燃えてもいない寺を燃えてなくなったなどと書く必要がない、とする論証方法と同じ学問の方法なのですが、その結論「教行信証は親鸞の真作ではない」は、親鸞自筆『教行信証』坂東本の筆跡調査という実証的研究により否定されました。

 喜田の批判精神は、同じ学問の方法を駆使したにもかかわらず、後の法隆寺再建論争とは真逆の結論に至ったのです。これはとても興味深い現象です。この問題に決着をつけたのが、古田先生の論証と実証的研究方法でした。(つづく)

(注)
①喜田よりも早く「今上」問題の核心を表明した論稿がある。長沼賢海氏が『史学雑誌』に連載した「親鸞聖人論」(明治43年)だ。別述したい。
②喜田の再建説で一旦は決着がついた法隆寺論争だが、その後、より根源的な問題(年輪年代測定による五重塔心柱の伐採年が594年)が発生した。この点、後述する。


第3098話 2023/08/23

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (2)

 喜田貞吉氏の研究分野は日本古代史をはじめ考古学や郷土史など広い分野に及んでいます。なかでも法隆寺の再建・非再建論争は日本古代史研究において有名な論争でした。本シリーズにおいて後述します。

 他方、親鸞研究においても喜田はショッキングな仮説(親鸞「無学の坊主」説、注①)を提起し、大正時代に大論争を巻き起こしています。それは『教行信証』に関するもので、最終的には古田先生の研究により決着したというテーマでした。『教行信証』は親鸞の代表作の一つで、生涯にわたり手元に置いて添削し抜いた親鸞思想を表現した一書です。ところがこの『教行信証』を偽作とする説を喜田貞吉が発表し、熾烈な論争が行われたのです。この背景と当時の状況を古田先生は次のように綴っています(注②)。

 〝親鸞の主著、ライフワークをなす著述、それは「教行信証」である。その書には、三つの序文がある。総序、信巻序、後序だ。いずれにも、幾多の問題が存在したが、中でも殊に奇妙な「矛盾」があったのは、総序中の「今上」の一語である。

号土御門院
今上〈諱為仁〉聖暦承元丁卯歳仲春(下略)

 右で「今上」と呼ばれているのは、土御門天皇だ。在位期間は「一一九八(三月)~一二一〇(十一月)」である。年号は、正治・建仁・元久・建永・承元と経緯している。最後の「承元」の場合、「承元元年(一二〇七)十月二十五日~承元五年(一二一一)三月九日」の間である。したがってこの期間内であれば右の「今上――承元」の表現が成立しうるのである。

 ところが、これは親鸞三十五歳から三十九歳に当る。越後流罪中だ。だが、こんな時期に「教行信証」が撰述された、と考える論者はまずいない。江戸時代以来、元仁元年(一二二四)、親鸞五十二歳の成立とされてきた(わたしも、これを再論証した)。(中略)

 実はこの点、大正十一~十二年の間に、熾烈な論争が行われた。提起者は、のちに法隆寺再建論争で有名となった喜田貞吉。もし「教行信証」が本当に親鸞の著作なら、何代も前(「元仁」は後堀河天皇。土御門――順徳――仲恭――後堀河。晩年は、四条、後嵯峨、後深草、亀山の各天皇)の天皇である土御門を、あやまって「今上」などと呼ぶはずはない。したがって教行信証は親鸞の真作に非ず、という、驚くべき帰結を提示したのであった。

 これに対して本願寺系等の各学者は怒り、こぞってこれを攻撃した。その烈しい論争の中で、喜田は“親鸞は無学。代作者に依頼して本書を書いてもらったのであろう”とし、その代作候補者の名前まであげるに及んで、彼の立場は一種グロテスクな色合いさえ帯びたのであった。〟※〈〉内は細注。

 こうした論争が続き、その後、親鸞自筆の坂東本『教行信証』(東本願寺蔵)の研究が進み、喜田の憶説は葬り去られました。しかし、その立論の発起点たる「今上」問題そのものは解決されたわけではありませんでした。ここに喜田貞吉の批判精神と学問の方法が見えてきます。(つづく)

(注)
①古田武彦「現代との接点を求めて Ⅰ晩年の親鸞」『わたしひとりの親鸞』(明石書店、2012年)による。「晩年の親鸞」部分の初出は『伝統と現代』39号、1976年。
②同「家永第三次訴訟と親鸞の奏状」『市民の古代』増補版 第2集、市民の古代研究会編、1984年。『古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編Ⅱ』(明石書店、2002年)に収録。


第3095話 2023/08/18

論文削除を要請された『親鸞思想』(2)

 法蔵館からの『親鸞思想』収録予定論文類削除の求めを古田先生は拒絶されたのですが、そのことを先生からお聞きしたとき、どの論文の削除を求められたのかをわたしはたずねませんでした。それを今でも悔やんでいます。おそらく、親鸞と恵信尼に関する論文ではないかと想像はするのですが、先生がお亡くなりになる前に聞いておくべきでした。もし、ご存じの方があればご教示いただきたいと願っています。

 わたしは古田古代史に惹かれて入門しましたが、その後、先生の名著『親鸞 人と思想』(清水書院、1970年)などを読み、日本思想史にも関心を持つようになりました。そうした気持ちを察したのか、古田先生から日本思想史学会への入会を勧められました。同学会は村岡典嗣先生の流れを汲む由緒ある学会です。もちろん、先生の勧めですから断ることなどできません。入会には会員二名の推薦が必要でしたので、古田先生と岩手大学の岡崎正道先生(近代史・近代思想史、教授)に推薦状を書いていただき、入会しました。入会後、筑波大学や京都大学で開催された年次大会で、古典の中の二倍年暦や九州年号真偽論に関する研究発表をさせていただきましたが、今から思うと全くの門外漢の発表で、冷や汗ものでした。

 結局、日本思想史の勉強はほとんどできないままで、先生の親鸞研究の著書・論文を読んだり、思想史に関する講演をお聞きするという〝耳学問〟のレベルが今も続いています。そのなかで、最も感動したのが親鸞と妻、恵信尼との深い愛情に関わる研究でした。次の著書にありますので、皆さんにも読んでいただければと思います。

○「叡山脱出の共犯者」『わたしひとりの親鸞』毎日新聞社、1978年。明石書店より復刻(注)。

 同書には次のような印象的な記事があります。本稿の最後に紹介します。

 「すなわち、〝親鸞の比叡山脱出の陰に恵信尼がいた〟――これが善鸞義絶状の率直に指さすところだ。否、「陰」どころではない。思えば親鸞自身が〝比叡山脱出の直接の動機は女性問題だ〟と、赤裸々に告白しているのではないか。それはほかならぬ「六角堂女犯の夢告」なのである。〝女性抜きに、親鸞の比叡山脱出を解する〟――そのような姑息な道は、この明白な史料がこれを許さないのである。」

 「母(恵信尼)が娘(覚信尼)に父の「女犯の偈文」を書き与え、〝ここにあなたの父の人柄がある〟と言い、娘の身辺に飾らせる。――これは一体、何を意味するだろう。(中略)
このような史料事実を解しうる道は一つしかない。――曰く、〝この「女犯」の、当の女性は恵信尼その人であった〟この答えだ。」※()は古賀注。

 「親鸞の生涯にとって「女犯の夢告」とは、何だったのか。次の三点が注意される。
第一に、「生涯荘厳」とあるように、それは〝恵信尼と生涯を共にする〟ことの表明であった。
第二に、(中略)「末法の僧の妻帯」思想は、単に〝個人的経験の正当化〟にとどまるものではなかった。末法における新しい真実として、万人の前に宣布すべき真理と見なされている。(中略)
第三に、建長二年、三夢記を娘の覚信尼に対して書き与えた、という事実がしめすように、親鸞は父として己が娘の面前にこの「女犯の夢告」を隠さなかった。この点、親鸞の死後、恵信尼が娘に対してとった態度と根本において一致している。この親鸞の娘に対する態度からも、「女犯の夢告」が恵信尼を相手とするものであることは裏付けられよう。」

 「これに対し恵信尼は、たとえもし越後の豪族三善氏の娘であったとしても、しょせん〝田舎豪族〟の一介の娘にすぎなかった。そしてその「一介の娘」のために、親鸞は比叡山を捨て、生涯これを悔いなかったのである。(中略)
このような親鸞の姿が、女としての恵信尼の目にどのように映っていたか。「中世」と現代と、時代は離れていても、その人間の真実に変わりようはない。それゆえわたしは決してこれを見あやまることができないのである。」

(注)古田武彦『古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編Ⅱ』(明石書店、2002年)に収録。2012年に同社から単行本として出版。


第3094話 2023/08/15

論文削除を要請された『親鸞思想』(1)

 わが家の家宝となった古田先生からいただいた『親鸞思想』(注①)ですが、同書が冨山房から発刊されるに至った経緯には、「数奇な運命」がありました。そもそも同書は京都の書肆、法蔵館が出版する予定でした。同社から出版広告まで出されたにもかかわらず、突如、特定論文の削除を要請されたのです。このときの様子が、同書「自序」に描かれています。

 〝自序
親鸞の研究はわたしにおいて、一切の学問研究のみなもとである。わたしはその中で、史料に対して研究者のとるべき姿勢を知り、史学の方法論の根本を学びえたのである。
(中略)この一書は誕生の前から数奇な運命を経験した。かつて京都の某書肆から発刊することとなり、出版広告まで出されたにもかかわらず、突然、ある夕、その書肆の一室に招かれ、特定の論文類の削除を強引に求められたのである。当然、その理由をただしたけれども、言を左右にした末、ついに「本山に弓をむけることはできぬ。」この一言をうるに至った。
わたしの学問の根本の立場は“いかなる権威にも節を屈せぬ”という、その一点にしかない。それは、親鸞自身の生き方からわたしの学びえた、抜きさしならぬ根源であった。それゆえわたしは、たとえこのため、永久に出版の機を失おうとも、これと妥協する道を有せず、ついにこの書肆と袂を別つ決意をしたのである。思えば、この苦き経験は、原親鸞に根ざし、後代の権威主義に決してなじまざる本書にとっては、最大の光栄である、というほかない。――わたしはそのように思いきめたのであった。〟

 こうした経緯により出版の道が閉ざされたのですが、それを惜しんだ家永三郎氏のご尽力により、同書は冨山房から出版されました。そのことも「自序」に記されています。

 〝けれどもその後、幸いに事情を知られた家永三郎氏の厚情に遭い、今回、東都の冨山房より出版しうることとなった。かつて少年の日、わたしは冨山房の百科辞典を父の書棚に見出し、むさぼるように読みふけった思い出がある。本の乏しい戦時中であった。ここよりわたしの初の論文集を刊行しうることとなったのは、一個の奇縁と言うべきであろう。〟

 家永氏は、東北大学で学ばれていた古田先生に出会われたとのことで、同書「序」に次のように氏は紹介している。

 〝本書の著者は東北大学に学び故村岡典嗣先生に就いて日本思想史学を専攻し、近年まで育英の業に従事しつつその専攻の研究にいそしみ、めざましい業績を次々とあげてこられた篤学の士である。たまたま私が村岡先生逝去直後東北大に出講したという縁故により、著者は二十年後の今日まで上京されるごとに陋屋を訪れて研究の成果を私に示されるのであるが、そのたびにいつも学界の通念を根本からうち破る新説をもたらすのを常とした。その精進ぶりには舌を捲かないでいられないばかりでなく、研究を語るときの著者のつかれたような情熱に接すると、怠惰な私など完全に圧倒されてしまうのであった。
今、著者が全力投球の意気ごみでとりくんできた親鸞研究にひとくぎりのついたのを機会に、冨山房から一冊の論文集が上梓されることになったのは、まことによろこびにたえない。親鸞研究に豊富な新知見を加上する本書の公刊が、学界に寄与するところ絶大なもののあろうこと、とくにもともと活潑な親鸞研究をいっそう促進する強烈な刺激となることであろうことは、私の信じて疑わないところである。〟

 『親鸞思想』は明石書店から刊行された『古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編Ⅰ』(注②)に収録されています。古田学派研究者には是非とも読んでいただきたい一冊です。(つづく)

(注)
①古田武彦『親鸞思想 その史料批判』冨山房、1975年。
②古田武彦『古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編Ⅰ』明石書店、2002年。本書目次は次の通り。
〔目次〕
1 親鸞研究の方法
史料批判の方法について/親鸞研究の方法論的基礎/家永第3次訴訟と親鸞の奏状
2『親鸞思想――その史料批判』
3『親鸞思想』をめぐって
親鸞研究の根本問題/三願回転の史料批判/親鸞思想の史料批判/親鸞の史実/書評『教行信証の研究』/親鸞に於ける悪人正機説について/真実の出発点


第3092話 2023/08/13

親鸞「三夢記」研究の古田論文を読む

 先日、日野智貴さん(古田史学の会・会員)から論文が届きました。古田先生の親鸞研究「三夢記」(注)真偽論争に関する論文です。未発表論文のようですので内容には触れませんが、立派な論考でした。日野さんは古田学派で親鸞研究の論文を書ける数少ない研究者の一人です。

 同論文への評価を求められたので、わたしは久しぶりに「三夢記」に関する古田先生の著作と論文を精読することにしました。11月の八王子セミナーや9月の東京古田会の和田家文書研究会での発表準備に追われていますので、〝こんな忙しいときに勘弁してほしい〟と思いながら読み始めたのですが、古田先生の名著『親鸞 人と思想』(清水書院、1970年)、『親鸞思想 その史料批判』(冨山房、1975年)、『古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編Ⅱ』(明石書店、2002年)、『わたしひとりの親鸞』(明石書店、2012年)を読み始めると面白くて、二日かけて、一気に読んでしまいました。とりわけ、冨山房の『親鸞思想』は古田先生から頂いたもので、大切な一冊です。表紙の裏には先生の直筆で次の一文が記されています。

 「人間(じんかん)好遇、生涯探求
古賀達也様
御机下
いつもすばらしい御研究やはげましに
導かれています。今後ともお導き下さい。
一九九六年五月十五日
古田武彦」

 過分のお言葉をいただき、この本も家宝の一つとなりました。

 日野論文のテーマである「三夢記」は、学界では偽作とされてきたのですが、古田先生の研究により真作であることが証明されました。なぜ親鸞が「三夢記」を末娘の覚信尼に与えたのかなど、とても興味深い内容を含む研究です。この「三夢記」が古田先生の親鸞研究にとっていかに重要であるかが、次の文からも理解できると思います。

〝問題の行き着くところ、それは「学問の方法」だ。人間の所業に対する、認識の仕方なのである。古代史も、親鸞も、対象こそ異なれ、同一の方法だ。
わたしがこの半世紀をふりかえってみて、真に憂いとすべきところ、それはこの「方法の停滞」と「旧手法の反復」である。(中略)
例えば、例の「三夢記」の信憑性問題。わたしの親鸞研究にとって一の核心をなしたこと、本集中にもくり返し言及されている通りである。〟『わたしひとりの親鸞』「あとがき」(明石書店、2012年)

 親鸞研究でも、日野さんに続く古田先生の後継者が出ることを願っています。

(注)「建長二年(1250年)文書」とも呼ばれ、「磯長(しなが)の夢告」「大乗院の夢告」「六角堂、女犯の夢告」の偈文(詩句)を記したもので、78歳の親鸞が末娘の覚信尼に与えた文書。


第3042話 2023/06/15

上岡龍太郎が見た古代史

 ―「アホ・バカ」「ツボケ」の分布考―

上岡龍太郎さんが亡くなられて、テレビ各局で追悼番組が放送されています。その中で必ず取り上げられるのが、上岡さんが司会をされていた名番組「探偵!ナイトスクープ」です。関西ローカルで始まった番組ですが、驚異的な視聴率を誇っていました。この番組で特集された「全国アホ・バカ分布図の完成」編(平成3年、1991年)は日本民間放送連盟賞テレビ娯楽部門最優秀賞などに輝いた日本テレビ史に残る名作でした。同番組で調査された「アホ・バカ分布図」に基づき、番組プロデューサーの松本修さんにより『全国アホ・バカ分布考』が上梓されています(注①)。
この「全国アホ・バカ分布」について、古田先生との対談で上岡さんが紹介されています。『新・古代学』第1集(注②)に掲載された「上岡龍太郎が見た古代史」です。関係部分を要約して転載します。

【以下、転載】

父祖の地足摺は侏儒国やないか

上岡 朝日新聞社から『「邪馬台国」はなかった』が出たんが昭和四六年ですか。人間て、何か変な……。勝手にファンとか、好きな人に事よせて、何か自分と似たところがあるかを見つけたいもんでね。ボクの親父も四国高知県で、土佐清水です。(中略)
ええ、で、先生の論証によると、わが父祖の地は侏儒国やないかと思いましてね。(中略)
古田 あそこは唐人岩とか唐人駄馬とかあるでしょう。あの辺の人たちは日常生活で「この唐人!」といって、罵り言葉ですね、「このバカ」ということをいうんですよ。

「アホ・バカ」と「ツボケ」

上岡 その話でね、ボクは「探偵ナイトスクープ」という朝日放送の番組をやっているんですよ。これはテレビ見ている人からハガキが寄せられまして、その依頼にもとづいて、ボクが探偵局長で自分とこのタレントの探偵を派遣して、その真理について探るという番組です。
たまたま兵庫県の人からのハガキで「私は関東で主人は関西です。ケンカすると私はバカといい主人はアホといいます。アホとバカの境界線はどこにあるんでしょうか」というのがきたんで、「探しに行け!」と。東京ならみんな「バカバカ」というわけですよね。そしてずーっと来だしたら名古屋で「タワケ」ゾーンに突入してしもうたんです。名古屋では「タワケ」というんです。そして名古屋から滋賀県あたりまで来ると「アホ」になるんですね。北野誠というタレントがやっているんですが、「わかりました『タワケ』と『アホ』のゾーンは関ヶ原なんです」と、道を挟んで向こうは「タワケ」でこっちが「アホ」でした。
古田 アハハ、なるほど。
上岡 で、「わかりました」っていうから、「お前な、だれが『タワケ』と『アホ』を調べえというたんじゃ。『バカ』の分布図を調べよ」。これはもう手に負えんということで、朝日放送が日本中の各教育委員会、小学校にアンケートで配布しまして、そして「アホ・バカ」分布図というのを作り上げたんです。(中略)
全国各地から「あなたのところでは人を罵る時にどういうてますか」というふうに……。そしたら柳田国男の方言周圏論、「カタツムリの検証」という、都を中心にしてどんどん広がって外へ行くほど古い言葉が残っている、というのが実証されてたんです。この『全国アホ・バカ分布考』というのはテレビでしか調べようがないんだというんで、かなりすばらしい本なんですよ。
その中の地図を見てみますとですね、古代王朝があったとされるところはやっぱり特色があるんですよ。北九州、出雲、吉備、それからもちろん近畿、そいから越、これらだけは際だって言葉が違うんですよ。で、その中に東北で人をののしる時に「ツボケ」。
古田 そうそう。
上岡 これボクは松本修に聞いたんです。「『ツボケ』というのがあるそうやけど、どうなっている」というたら、「すいません、ボケの系譜に関しては非常に複雑なんで、この際ははずしました」と。「『アホ』と『バカ』に関しては全部分布できたんですけど、ボケは分布がおかしいんです」と。だから、東北では「ツボケ」なんですが、これがものすごう「アホ・バカ」の分布と違う分布をしているのです。で、「ツボケ」というのが北海道へ渡らないんですって、かたくなに本州で止まるんです。
古田 そうなんですよ。
上岡 他のは、離れ小島まで、南西諸島やろが八丈島やろがいくのに、「ボケ」だけはかたくなに止まるんですわ。ずっと分析した人が「これは何かある」っていうんですよ。これをやりたいんですけど、「アホ・バカ」に一生懸命でちょっと「ボケ」はやめてるんですけど、「頼むからいっぺんこれをやってくれ、何かそれから出るかもわからん」といってるんですが。
古田 いや、面白いですね。イギリスのほうで「このドルイド!」というそうですよ。つまり「ドルイド」というのが先住民で、これが罵り言葉で「ドルイド」というそうです。
上岡 ほう、やっぱり先住民。
古田 ええ「唐人」とか「ツボケ」とかあるんですねえ。「ドルイド」の話みたいに、世界的にそのノウハウが。人間がいるところ、日本だけじゃないんですね。
【転載、おわり】

(注)
①松本修『全国アホ・バカ分布考 ―はるかなる言葉の旅路』太田出版、平成五年(1993)。平成八年(1996)に新潮文庫から発刊。
②『新・古代学』第1集、新泉社、1995年。古田史学の会も協賛団体として同書編集委員会に参加した。


第3035話 2023/06/08

吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (2)

 ―蓋裏面に刻まれた「×」印―

吉野ヶ里遺跡の〝謎のエリア〟から出土した石棺墓に関するニュースが連日のように報道されています。その中で注目したのが、石棺の蓋には線刻が認められ、裏面にも「×」印が刻まれていたことです。外からは見えない蓋の裏側に刻まれていた「×」印について、よく似た事例が弥生時代の出土品にあることを思い出しました。それは、島根県の荒神谷遺跡出土銅剣と加茂岩倉遺跡出土銅鐸に記された「×」印です(注①)。
銅剣は柄に埋め込む部分(茎)に、銅鐸はひもで吊す鈕の部分に「×」印があり、いずれも使用時には見えなくなる、あるいは見えにくくなる部分です。これらの「×」印は、石棺の蓋の内側という、目に触れなくなる部分に刻まれた「×」印と同類の何らかの思想に基づいたものと思うのです。古田先生は銅剣と銅鐸の「×」印には発見当初から関心を示されており、次のように述懐されています。

〝(一九九六年)十二月十六日、念願の出雲へ向った。松江市・斐川町と、なつかしい旅だった。(中略)加茂町の教育委員会社会教育主事の吾郷和宏さんが現場へ案内して下さった。そこには銅鐸が横むき、「ひれ」が上、の形で土中に露出している。二個だ。その手前に削ぎ取られて銅鐸の形にくぼみ、青ずんだ土があった。なまなましい。

降りてくると、意外にも、ジャーナリズムの人々に取り巻かれた。感想を聞かれた。わたしは答えた。

「この前の荒神谷と今回の加茂岩倉とは、埋納の時期がちがうと思います。

第一、埋納の場所が、荒神谷の方は数メートル上の途中の土にあったのに対し、今回の方は十五~六メートルも上の頂上ですね。場所の状況が全くちがっています。

第二、荒神谷は『剣』、わたしはこれは「矛」だと思っていますが、ともあれ『武器型祭祀物』が三五八本もあって、中心になっています。筑紫矛もありました。ところが、今回は、ほぼ近い時期の『中広形』や『広形』の矛(九州)、また『平剣』(瀬戸内海領域)が全く出土していません。銅鐸だけです。この点、対照的です。

第三、もし両者が同時期の埋納なら、荒神谷の『小型銅鐸』も、今回の大・中銅鐸と“重ね入れ”になっててもいいのに、そうなっていない。(今回は、大・中“重ね入れ”です。)

第四、昨日報道された「×」印も、その“状態”が全くちがいます。
1. 荒神谷では、九十パーセント以上、「×」がつけられていたのに、今回は、今のところ一つだけ。「右、代表」の形です。
2. 荒神谷では、六個の銅鐸には全く「×」がないのに、今回は銅鐸につけられています。
3. 一番肝心のことがあります。荒神谷の場合、下の端の「柄」のところに「×」がつけられています。ここには「木の柄」がかぶせて使われるわけですから、儀式の場などで使うときにはこの『×』は『見えない』わけです。製造者だけに“判る”という仕組みです。
ところが今回のは、銅鐸の表面でデザインを“汚(けが)している”わけですから、儀式の場などでは、使いにくい状態です。
ですから、埋納直前にこの『×』が入れられ、“外部からの侵入、取り出し者”のないように、マジカルに『祈念』したもののように見えます。(中略)
要するに、荒神谷と加茂岩倉とは別集団です。もし『同一集団』という言葉を使うなら『歴史的同一集団』です。加茂岩倉の集団の人々は、荒神谷の『×』印入りを、『伝承』として知っていたわけです。ですから『荒神谷の後継者』と考えていいでしょう。」

以上であった。右のポイントを言葉にすれば、荒神谷の方は製造工房をしめし、「使われるための×印」、加茂岩倉の方は「使われないための×印」と言えるのではないか。マジカルな意志は両者ともあるだろうが、見た目には同じ「×」印でも、その目的がおのずから別だ。〟(注②)

このときの出雲紀行(加茂岩倉遺跡訪問)は、当地の関係者からの「出土により現地は大騒ぎになっているので、マスコミに知られないように来てほしい」との要請により、先生一人〝お忍び〟で行かれました。「意外にも、ジャーナリズムの人々に取り巻かれた」とあるのは、そうした背景があったことによるものです。著名な歴史学者の古田先生の訪問をマスコミはキャッチしていたようです。
そしてその調査報告を『古田史学会報』で発表したいと、事前に先生から要請されていたので、会報編集・発行を担当していたわたしは、発行日を年末(12月28日)ぎりぎりまで遅らせ、紙面1頁をあけて先生の原稿を待っていたことを思い出しました。先生も1頁分の字数内で原稿を書かれました。
ちなみに古田先生は、荒神谷遺跡での埋納を〝天孫降臨ショック〟、加茂岩倉遺跡での埋納を〝神武ショック〟(神武~崇神の大和占拠、銅鐸圏侵攻)と呼ばれ、それぞれ天孫族・倭国からの侵入を受けて、神聖な銅鐸や銅剣・銅矛を地中に隠したのではないかと考えておられました(注③)。
吉野ヶ里の石棺蓋の「×」印と銅鐸圏(出雲)での「×」印にどのような関係があるのか、古代日本思想史上の課題でもあり、石棺内の調査を興味深く見守っています。吉野ヶ里の有力者に相応しい金属器の出土が期待されます。(つづく)

(注)
①荒神谷遺跡出土銅剣358本中344本に、加茂岩倉遺跡出土銅鐸39個中13個に「×」印が刻まれていた。(雲南市ホームページの解説による)
②古田武彦「出雲紀行 ―使うための「×」と、使わないための「×」。―」『古田史学会報』17号、1996年。
③古田武彦「出雲銅鐸に関するデスクリサーチ 神武ショックと銅鐸埋納」『多元』16号、1997年。『古田史学会報』17号に転載。


第3034話 2023/06/07

吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (1)

―吉野ヶ里の日吉神社と須玖岡本の熊野神社―

吉野ヶ里遺跡の〝謎のエリア〟から出土した石棺墓が注目されています。〝謎のエリア〟とは同遺跡北地区にあった日吉神社のエリアで、今回初めて発掘調査されました。甕棺墓が多数出土した吉野ヶ里から石棺墓が出土したことにより、当地域の有力者の墓と見られています。
三十年ほど前、わたしは古田先生と吉野ヶ里遺跡を訪れたことがあります。その当時から古田先生は同遺跡地域に鎮座する日吉神社に注目されていました。それは次のような理由からでした(注①)。

(1)『三国志』倭人伝に見える倭国の中心国「邪馬壹国」の本来の国名部分は「邪馬」である(注②)。
(2) この「邪馬」国名の淵源について古田先生は、弥生時代の須玖岡本遺跡で有名な春日市の須玖岡本(すぐおかもと)にある小字地名「山(やま)」ではないかとされた。
(3) 須玖岡本遺跡からはキホウ鏡など多数の弥生時代の銅製品が出土しており、当地が邪馬壹国の中枢領域と思われ、「須玖岡本山」はその丘陵の頂上付近に位置する。
(4) そこには熊野神社が鎮座しており、卑弥呼の墓があったのではないか。日本では代表的寺院を「本山(ほんざん)」「お山(やま)」と呼ぶ慣習があり、この小字地名「山」も宗教的権威を背景とした地名ではないか。そしてその権威としての「山」地名が「邪馬国」という広域国名となり、倭人伝に邪馬壹国と表記されるに至ったのではないか。
(5) 神社は神聖な地に造営されるのが通常であることから、吉野ヶ里遺跡の日吉神社にも重要な遺構があると推定できる。

この度の石棺墓出土の報道に触れ、30年前にうかがった古田先生のご意見、眼力(論理力)が正しかった事が明白となりました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1805話(2018/12/19)〝「邪馬国」の淵源は「須玖岡本山」〟
②この古田説を次の「洛中洛外日記」で紹介した。
同「洛中洛外日記」1803~1804話(2018/12/18~19)〝不彌国の所在地(1)~(2)〟