古田武彦一覧

第2855話 2022/10/07

邪馬臺国と邪馬壹国〝裴松之の証言〟

 古田先生の『「邪馬台国」はなかった』(注①)を読んで古田史学のファンになった人は少なくないと思います。かく言う、わたしもその一人です。『三国志』原文に邪馬臺(台)国という国名はなく、邪馬壹国であることに一驚し、「壹」は「臺」の誤りとしてきた通説への反証として、『三国志』中の全ての「壹」と「臺」の字を抜き出し、両者が誤って使用されていないことを実証する悉皆調査という学問の方法に二驚するという経験を読者は共通して抱かれたはずです。このとき、わたしは古代史研究において、いかに「学問の方法」が大切かということを始めて認識し、「学問の方法」というものを強く意識しながら、今日まで古代史研究を進めてきました。
 そこで、今回紹介するのは、「邪馬台国」論争における〝裴松之(はいしょうし)の証言〟という古田先生の論証方法です。この論証は古田ファンでもご存じない方が少なくないようですので、その背景も含めて論じたいと思います。
 古田先生の「邪馬壹国」説に対して、通説側からよく出される反論に、〝五世紀に成立した『後漢書』には「邪馬臺国」とあり、『三国志』版本のみに見える「邪馬壹国」は〝天下の孤称〟であり、『三国志』原本には「邪馬臺国」とあった〟とするものがありました(注②)。これに対する反証として提起された論証の一つが〝裴松之の証言〟です(注③)。
 『三国志』は三世紀に成立した同時代史料ですが、現存版本には五世紀の南朝劉宋の官僚、裴松之(372~451年)による大量の注が付されています。ちなみに『後漢書』は同じく南朝劉宋の范曄(はんよう、398~445年)により編纂されたものです。この裴松之の注について、古田先生は次のように解説されています。

〝朝命を受けて『三国志』に対する校異を行った裴松之が『三国志』と同時代の史書・資料二七二種を対比して、二〇二〇回にわたって、異同を精細に検証していながら、問題の「邪馬壹国」については何等の校異も注記していない事実。この史料事実に刮目すべきだ。裴松之は冒頭の「上三国志注表」に次のように書いている。
 「其れ、寿(『三国志』の著者、陳寿)の載せざる所、事の宜しく録を存すべき者は、則ち採取して以て其の闕(けつ)を捕はざるは罔(な)し」「或は事の本意を出し、疑いて判ずる能(あた)はざれば、並びに皆、内に抄す」「事の当否、寿の小失に及ばば、頗る愚意を以て論弁する所有り」〟『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、194頁。

 『後漢書』が編纂された南朝劉宋において、その官僚裴松之が『三国志』を校異したことは重要で、次のように古田先生は指摘されました。

〝つまり“『三国志』本文に問題があれば、のがさず批判を加え、異本があれば正文・異文ともに収録する”といっているのだ。しかも、これは南朝劉宋の朝廷の勅命によって行った仕事だ。当時現存の『三国志』諸本は、当然裴松之の視野内にあったはずである。しかるに、裴松之は「邪馬臺国」という異本のあったことを一切記していない。(中略)
 このような史料事実を直視する限り、従来「邪馬台国=大和」説を唱道してこられた直木孝次郎氏が「公平にみて古田説に歩(ぶ)のあることは認めなければなるまい」(「邪馬台国の習俗と宗儀」、『伝統と現代』第二十六号〈邪馬台国〉特集号)と言われるに至ったのは、不可避の成り行きである。
 後代著作をもってする「多数決の論理」で代置するのではなく、「壹」を非とし、「臺」を是とする、具体的な実証だけが必要だ。それなしにこの史料事実を恣意的に“書き変える”ことは許されない。〟同194~195頁

 この五世紀における〝裴松之の証言〟は、同一王朝内で成立した『後漢書』の「邪馬臺国」表記を根拠に「邪馬壹国」説を批判することが、学問の論理上成立しないことを明らかにしたのです。

(注)
①古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971年)。ミネルヴァ書房より復刻。
②藪田嘉一郎「『邪馬臺国』と『邪馬壹国』」『歴史と人物』1975年9月。
③古田武彦「九州王朝の史料批判 ―藪田嘉一郎氏に答える―」『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。初出は『歴史と人物』1975年12月。


第2842話 2022/09/23

九州王朝説に三本の矢を放った人々(2)

 わたしには、「九州王朝説に刺さった三本の矢」(注①)の存在をはっきりと意識した瞬間やきっかけがありました。たとえば《一の矢》については、ある科学者との対話がきっかけでした。その科学者とは年輪セルロース酸素同位体比年代測定法の開発者、中塚武さんです。
 2016年9月9日、わたしは服部静尚さんと二人で、京都市北区にある総合地球環境学研究所(地球研)を訪問し、中塚武さんにお会いしました。中塚さんは年輪セルロース酸素同位体比年代測定法を用いて、前期難波宮出土木柱の年輪が7世紀前半のものであることや平城京出土木柱の伐採年が709年であったことなどを明らかにされ、当時、もっとも注目されていた研究者のお一人でした。
 2時間にわたり、中塚さんと意見交換したのですが、理系の研究者らしく、論点がシャープで、九州王朝存在の考古学的事実の根拠や説明を求められました。たとえば、巨大古墳が北部九州よりも近畿に多いことの説明や、7世紀の北部九州に日本列島の代表者であることを証明できる考古学的出土事実の説明を求められました。これこそ、「九州王朝説に刺さった《一の矢》」に相当するものでした。中塚さんは、考古学的実証力(金属器などの出土事実)を持つ邪馬壹国・博多湾岸説には理解を示されたのですが、九州王朝説の説明には納得されなかったのです。
 巨大前方後円墳分布などの考古学事実(実証)を重視するその中塚さんからは、繰り返しエビデンス(実証データ)の提示を求められました。そして、わたしからの文献史学による九州王朝実在の説明(論証)に対して、中塚さんが放たれた次の言葉は衝撃的でした。

 「それは主観的な文献解釈に過ぎず、根拠にはならない。古賀さんも理系の人間なら客観的エビデンスを示せ。」

 中塚さんは理由もなく一元史観に固執する人ではなく、むしろ論理的でシャープなタイプの世界的業績を持つ科学者です。その彼を理詰めで説得するためにも、戦後実証史学で武装した大和朝廷一元史観との「他流試合」に勝てる、史料根拠に基づく強力な論証を構築しなければならないと、このとき強く思いました。(つづく)

(注)
①《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
 《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
 《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。
②酸素原子には重量の異なる3種類の「安定同位体」がある。木材のセルロース(繊維)中の酸素同位体の比率は、樹木が育った時期の気候が好天だと重い原子、雨が多いと軽い原子の比率が高まる。この酸素同位体比は樹木の枯死後も変わらず、年輪ごとの比率を調べれば過去の気候変動パターンが分かる。これを、あらかじめ年代が判明している気温の変動パターンと照合し、伐採年代を1年単位で確定できる。この方法は年輪年代測定のように特定の樹種に限定されず、原理的には年輪がある全ての樹木の年代測定が可能となる。


第2841話 2022/09/22

九州王朝説に三本の矢を放った人々(1)

 古田史学・多元史観、なかでも九州王朝説に対する強力な実証的批判を「九州王朝説に刺さった三本の矢」と名付けて、「洛中洛外日記」を初め諸論文で解説してきました(注①)。「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」とは次の三つの考古学的出土事実のことです。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 《一の矢》については古田先生からの反論がなされており、その要旨は〝朝鮮半島へ出兵していた九州王朝に巨大古墳を造営できる余裕はなく、むしろ畿内の巨大古墳は当地の権力者(近畿天皇家)は朝鮮半島に出兵していた倭国ではないことの証拠である。〟というものでした。また、古田説支持者のなかからは「巨大古墳だから列島の代表王朝の墳墓だとは言えない」という意見もありました。
 しかし、わたしはこの主張では、九州王朝説支持者には納得してもらえても、通説支持者を説得できないと考えていました。列島内最大規模の古墳群を造営できる権力者は、それを可能とできる生産力や権威・権力を有していたと考えるのは、決して無茶なものではなく、むしろ合理的な理解だからです。また、ヤマト王権の命令で九州の豪族を朝鮮半島へ派兵したとする通説も解釈上成り立ち、否定しにくいと思います。
 《二の矢》については、九州王朝の都があった北部九州(筑前・筑後)には廃寺跡が多く、それらが九州王朝による古代寺院群とする意見もありました。しかし、畿内や近畿にも多くの廃寺跡があり、単純比較ではやはり畿内・近畿が古代寺院の最密集地とする通説は揺るぎそうにありません。
 《三の矢》に至っては、わたしが問題視するまでは古田学派内で注目もされてきませんでした。古田先生も前期難波宮を「『日本書紀』に記載されていない天武の宮殿ではないか」とする理解にとどまっておられました。それに沿った論稿も九州王朝説支持者から発表されてきました(注②)。
 この三本の矢は多元史観・九州王朝説にとって避けがたい〝弱点〟を突いており、戦後実証史学(大和朝廷一元史観)を支える強力な考古学的根拠と考え、わたしは古田学派内に警鐘を打ち鳴らしてきました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1221~1254話(2016/07/03~08/14)〝九州王朝説に刺さった三本の矢(1)~(15)〟
 同「九州王朝説に刺さった三本の矢」『古田史学会報』135136137号。2016年。
②大下隆司「古代大阪湾の新しい地図 難波(津)は上町台地になかった」「古田史学会報」107号、2011年。


第2828話 2022/09/06

阿部仲麻呂「天の原」歌異説 (2)

 『古今和歌集』古写本(注①)の「あまの原 ふりさけ見れば かすがなる みかさの山を いでし月かも」は阿倍仲麻呂の作ではないとする説が杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」(注②)に紹介されています。

〝仲麻呂の「天の原」の歌は、仲麻呂自身の作ではなく、かれ以後、『古今集』撰修以前において、かれ以外のものが、かれに仮託して作ったものであろうとか、あるいは仲麻呂自身、おそらく漢詩で書いたものを、誰かほかのものが、和歌に翻訳したのであろうとか、などのごとき、いろいろな偽作説がある。〟1286~1287頁

 おそらくこうした偽作説の根拠になったと思われる不自然な状況があります。たとえば、同歌が『古今和歌集』の巻第八「離別哥」ではなく、巻第九「羈旅哥」冒頭に収録されていることです。この「天の原」歌の題詞・左注には、中国の明州の海辺で行われた中国の友人達との別れの席で、仲麻呂が夜の月を見て歌ったと語り伝えられているとあります。

 「もろこしにて月を見てよみける」
「この哥は、むかしなかまろ(仲麿)をもろこし(唐)にものならはしにつかはしたりけるに、あまたのとしをへて、えかへりまうでこざりけるを、このくにより又つかひまかりいたりけるにたぐひて、まうできなむとて、いでたちけるに、めいしう(明州)といふところのうみべ(海辺)にて、かのくにの人むまのはなむけしけり。よるになりて月のいとおもしろくさしいでたりけるをみて、よめるとなむかたりつたふる。」(注③)※()内の漢字は古賀による付記。

 この歌は別離の夜会で仲麻呂が歌ったとあるのですから、その通りであれば「羈旅哥」ではなく、その直前の「離別哥」に入れられるべきものです。しかも、この歌を詠んだときの作者の進行方向は、「ふりさけみれば かすがなるみかさの山」とあるのですから、日本ではなく唐のはずです。唐へ向かう遣唐使船上で振り返ると、「かすがなるみかさ山」から出た月が見えたという歌なのです。ですから、作者が唐に向かうときに歌ったのだからこそ「羈旅哥」に入れられたのではないでしょうか。
古田先生はこの歌の作歌場所を壱岐の〝天の原〟とされ、仲麻呂が遣唐使の一員として唐に渡るときに詠んだもので、その歌を明州で思い出して歌ったと理解されました(注④)。古田説の場合、偽作ではなく、『古今和歌集』を編纂した紀貫之の左注が不正確だったとするものです。すなわち、「よるになりて月のいとおもしろくさしいでたりけるをみて、よめるとなむかたりつたふる。」とあるように、伝聞情報に依ったと記していることも、古田説成立の背景と思われます。(つづく)

(注)
①延喜五年(905年)に成立した『古今和歌集』は紀貫之による自筆原本が三本あったが、現存しない。しかし、自筆原本あるいは貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)にて校合した次の二つの古写本がある。前田家所蔵『古今和歌集』清輔本、保元二年、1157年の奥書を持つ。京都大学所蔵『古今和歌集註』藤原教長著、治承元年、1177年成立。
②杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」『文学』三六・十一所収、1968年。
③『古今和歌集』日本古典文学大系、岩波書店。
④古田武彦「浙江大学日本文化研究所訪問記念 講演要旨」『古田史学会報』44号、2001年。
同『真実に悔いなし』ミネルヴァ書房、平成二五年(2013年)、75~79頁。


第2825話 2022/09/03

阿部仲麻呂「天の原」歌異説 (1)

 上京区のお店で、「古代歌謡に詠まれた王朝」というテーマで話しをすることになりました。そこで改めて勉強しなおしたところ、『古今和歌集』の「天の原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山に いでし月かも」は阿倍仲麻呂の作ではないとする説があることを知りました。杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」(注①)によれば、次のような偽作説です。

〝仲麻呂の「天の原」の歌は、仲麻呂自身の作ではなく、かれ以後、『古今集』撰修以前において、かれ以外のものが、かれに仮託して作ったものであろうとか、あるいは仲麻呂自身、おそらく漢詩で書いたものを、誰かほかのものが、和歌に翻訳したのであろうとか、などのごとき、いろいろな偽作説がある。〟1286~1287頁

 「天の原」歌について、『古今和歌集』古写本では流布本とは異なり、「天の原 ふりさけ見れば 春日なる みかさの山を いでし月かも」とあります(注②)。すなわち、古写本にはみかさ山から月が出ていることを意味する「みかさの山を」となっており、奈良の御蓋山(標高297m)では低すぎて、月はその東側の春日山連峰(花山497㍍~高円山461㍍)から出ると論じたことがあります(注③)。
この「みかさの山を」とする古写本の存在を杉本直治郎氏の研究で知り、古田先生にお知らせしたところ、重要な問題へと進展しました。すなわち、仲麻呂が歌ったみかさ山は奈良の御蓋山ではなく、太宰府の御笠山(宝満山、標高829m)とする古田説(注④)を論証できたのです。杉本氏の論文も古写本の「みかさの山を」が原型であるとされており、この点では古田先生やわたしの考えと一致するのですが、「偽作説」については検討に値する視点ではないかと、今回、気づきました。(つづく)

(注)
①杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」『文学』三六・十一所収、1968年。
②延喜五年(905年)に成立した『古今和歌集』は紀貫之による自筆原本が三本あったが、現存しない。しかし、自筆原本あるいは貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)にて校合した二つの古写本がある。一つは前田家所蔵の『古今和歌集』清輔本(保元二年、1157年の奥書を持つ)であり、もう一つは京都大学所蔵の藤原教長(のりなが)著『古今和歌集註』(治承元年、1177年成立)である。清輔本は通宗本(貫之自筆本を若狭守通宗が書写)を底本とし、新院御本で校合したもので、「みかさの山に」と書いた横に「ヲ」と新院御本による校合を付記している。教長本は「みかさの山を」と書かれており、これも新院御本により校合されている。これら両古写本は「みかさの山に」と記されている流布本(貞応二年、1223年)よりも成立が古く、貫之自筆本の原形を最も良く伝えているとされる
③古賀達也「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』43号、2001年。
同〔再掲載〕「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』98号、2010年。
同「三笠の山をいでし月 ―和歌に見える九州王朝の残映―」『九州倭国通信』193号、2018年。
④古田武彦「浙江大学日本文化研究所訪問記念 講演要旨」『古田史学会報』44号、2001年。
同『真実に悔いなし』ミネルヴァ書房、平成二五年(2013年)、75~79頁。


第2816話 2022/08/25

「二倍年暦」研究の思い出 (4)

―大越邦生さんと高田かつ子さんの着眼点―

 古田先生やわたしは、『論語』の二倍年暦説の根拠として「子罕第九」にある次の記事を指摘しました(注①)。

 「子曰く、後生畏る可(べ)し。いづくんぞ来者の今に如(し)かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯(こ)れ亦畏るるに足らざるのみ。」『論語』子罕第九

 他方、大越邦生さんの論文「中国古典・史書にみる長寿年齢」(注②)では、『論語』陽貨第十七の次の記事に着目されました。

 「子曰く、年四十にして悪(にく)まるれば、其れ終らんのみと。」『論語』陽貨第十七

 孔子が弟子たちに「四十歳くらいにしっかりしていないと、一生涯とんでもないことになる」と告げているわけですが、この言葉に対して、大越さんは、「孔子はこの教えを何歳の弟子に語りかけているのであろうかと」と問いかけ、次の理解に至ったと指摘しています。

 「孔子の言葉は常に時代を超えた普遍性を備えている。珠玉の言葉は弟子達を感動させ、それを弟子達が『論語』という形で後世に伝えたのだ。どのようにでも解釈できるという曖昧さは、孔子の教えになじまない。(中略)私には三十歳よりも、より若年層に対する孔子の教訓に思える。
 これが二倍年暦だったとしよう。孔子が二十歳以前の弟子に「二十歳になって一目おかれるようになっていなければ、一生涯うだつが上がらない」というならわかりやすい。私たちにとっても、二十歳は「成人」という人生の節目、一大転機となっている。そうした概念のなかった時代、透徹した目で「未成年が成人になる」時期を洞察した、孔子らしい教訓だったのではないだろうか。こうした年齢記述に、二倍年暦の可能性があることを指摘しておきたい。」257~528頁

 この指摘は教育に携わってきた大越さんらしい着眼点ではないでしょうか。この理解を指示する史料として『礼記』があります。同書「曲礼上」に、四十歳を「強」といい、世に出て仕え働く年齢とあります。この四十歳も『論語』と同様に周代における二倍年暦表記であり、現在の二十歳のことに他ならないと考えています(注③)。

 「人生まれて十年なるを幼といい、学ぶ。二十を弱といい、冠す。三十を壮といい、室有り(妻帯)。四十を強といい、仕う。五十を艾といい、官政に服す。六十を耆といい、指使す。七十を老といい、伝う。八十・九十を耄という。七年なるを悼といい、悼と耄とは罪ありといえども刑を加えず。百年を期といい、やしなわる。」『礼記』曲礼上

 『論語』が二倍年暦で書かれているとする高田かつ子さん(注④)の見解も紹介します。わたしが『論語』の二倍年暦説を発表したとき、高田さんから陽貨第十七の次の記事も二倍年暦ではないかと教えていただきました。

 「子生まれて三年、然(しか)る後に父母の懐を免(まぬが)る。夫(そ)れ三年の喪は、天下の通葬なり。予(よ)や其の父母に三年の愛有るかと。」『論語』陽貨第十七

 この記事の「子生まれて三年、然る後に父母の懐を免る。」を、子供が両親の懐から離れる年齢を一倍年暦の三歳とするのでは遅すぎ、半分の一歳半なら妥当と高田さんは言われたのです。こうした視点は女性ならではと思いました。ちなみに、わたしの娘の場合、母子手帳に妻が書き留めた成長記録によれば、生後十一ヶ月でよちよちと歩き始め、一歳四ヶ月で童謡〝はとぽっぽ〟を歌い、二歳でひらがなの本を読み、三歳で簡単な足し算引き算ができるようになったとあります。個人差もあり、周代の中国と現代日本の赤ちゃんの成長を同列に扱うことはできませんが、それでも高田さんの見解は穏当と思われます。

 高田かつ子さんとは「市民の古代研究会」時代からのお付き合いで、ある意味で「古田史学の会」の〝生みの親〟でもありました。和田家文書偽作キャンペーンと軌を一にして、「市民の古代研究会」の中で〝古田離れ〟を画策する反古田の人々が理事会の多数派を占め、古田先生と古田史学を支持する事務局長のわたしを解任しようとしていたとき、一貫してわたしを支持してくれたのが高田かつ子さん(当時、「市民の古代研究会・関東支部」の代表)だったのです。1994年4月11日の夜、高田さんから送られてきた次のファックスにより、わたしは「古田史学の会」の創立を決意したのでした(注⑤)。

 「古賀さん、もう市民の古代研究会はだめですね。古賀さんがいくら頑張っても、あなたの提案したすべてに秦氏が合意したといっても、秦氏に牛耳られている現状を目にしてきてそう思いました。(中略)なまじ古賀さん達が残っていれば、先生も講演会に出かけられて、客寄せパンダの役割を果たさせられるのですから。古田史学の元に集まった会員に対しても詐欺行為です。ひどい言葉を使ってごめんなさい。先生の話しを聞こうともしない人達に利用されるだけの先生のことを考えると胸がつぶれる思いです。」(注⑥)

 この高田さんの言葉により、わたしは「市民の古代研究会」と決別する覚悟を決め、翌4月12日に「古田史学の会」は誕生しました。その日、行動を共にしてくれた会員は6名でした。(つづく)

(注)
①古田武彦「日本の生きた歴史(二十三)」『古代史をひらく 独創の13の扉』ミネルヴァ書房、2015年。
 古賀達也「孔子の二倍年暦」『古田史学会報』53号、2002年。
 同「新・古典批判 二倍年暦の世界」『新・古代学』第7集、新泉社、2004年。
②大越邦生「中国古典・史書にみる長寿年齢」『古代史をひらく 独創の13の扉』古田武彦著、ミネルヴァ書房、2015年。
③古賀達也「『論語』二倍年暦説の史料根拠」『古田史学会報』150号、2019年。
④多元的古代研究会前会長、故人、2005年5月7日没。高田さんが亡くなる二日前の言葉がある。「古田先生より先には死ねない。まだ死んでいる場合ではないんだ。きっと先生が亡くなった後はみんなが我が物顔に先生の説を横取りしてとなえ始める人が出できて大変だろうから、その時には私が証人にならなければ。」村本寿子さん談。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」651話(2014/01/26)〝「古田史学の会」誕生前夜〟
⑥高田かつ子「―個人的な感想(古賀事務局長への書簡)― 最後の理事会に出席して」『発足協議会より報告』市民の古代研究会・関東の会(仮称)、1994年5月10日。


第2815話 2022/08/24

「二倍年暦」研究の思い出 (3)

―古田先生の学問の方法「悉皆調査」―

 古田先生からは、学問の方法や倫理について特に厳しくご指導いただきました。学問の方法が間違っていれば、その結論も間違ってしまうため、「わたしの学問の方法とは違います」と厳しく叱責された門下生はわたし一人ではないはずです。『論語』の二倍年暦研究においても同様でした。先生が『三国志』倭人伝研究で「壹」と「臺」の悉皆調査を行ったように、『論語』でも同様の作業(注①)を行うように要請されました。
 当時、仕事で忙しかったこともあるのですが、『論語』の二倍年暦の証明には、そうした悉皆調査はあまり有効ではないのではないかと、わたしが感じていたことも取り組まなかった理由の一つでした。更に言えば、中国古典の用語の正確な意味や使われ方の調査など、理系(有機合成化学専攻)のわたしの学力が及ぶところではなく、その不得手な方法では先生の期待に応えることができないと感じてもいました。
 そもそも、『論語』には年齢や寿命記事は少なく、通説のように一倍年暦による解釈も不可能ではありません。実際、今日までそのように理解されてきました。従って、二倍年暦での解釈の方が合理的と説明しても、通説支持者から「どうとでも言える」という〝解釈論争〟や〝水掛け論〟に持ち込まれるのではないかと危惧していました。
 『論語』の二倍年暦説を提起した拙論では、その最大の根拠を「子罕第九」にある次の記事に求めました。この点、古田先生も同様の認識を示されています(注②)。

 「子曰く、後生畏る可(べ)し。いづくんぞ来者の今に如(し)かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯(こ)れ亦畏るるに足らざるのみ。」『論語』子罕第九

 「後生畏るべし」の出典として有名な孔子の言葉で、意味するところは、四十歳五十歳になっても有名になれなければ、たいした人間ではなく畏れることはない、というものです。しかし、これは当時(紀元前六~五世紀頃。通説による)としては大変奇妙な発言です。『三国志』の時代(三世紀)でも、『三国志』に記されている寿命の平均年齢は五十歳ほどで、多くは四十代頃で亡くなっています。それより七百年前の中国人の寿命が更に短かいことはあっても、長いとは考えにくく、従って、孔子のこの発言が一倍年暦であれば、多くの人が物故する年代(四十歳五十歳)で有名になっていなければ畏れるに足らないという主張はナンセンスです。それでは遅すぎます。しかし、これが二倍年暦であれば二十~二十五歳ということになり、「若者」が頭角を現し、世に知られ始める年齢として自然な主張となります。従って、孔子の時代は二倍年暦が使用されていたと考えざるを得ない根拠として、わたしはこの記事を取り上げました(注③)。
 古田先生の著書『古代史をひらく 独創の13の扉』(ミネルヴァ書房版、2015年)に収録された大越邦生さんの論文「中国古典・史書にみる長寿年齢」(注④)では別の記事も取り上げ、それが二倍年暦の可能性があると説明されています。(つづく)

(注)
①『論語』爲政第二に見える「「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従へども、矩を踰えず。」の記事の用語の悉皆調査。たとえば「志学」や「立」「不惑」「知天命」「耳順」「矩」等の用語がどの実年齢に相応しいのか調査するよう要請された。
②古田武彦「日本の生きた歴史(二十三)」『古代史をひらく 独創の13の扉』ミネルヴァ書房、2015年。
③古賀達也「孔子の二倍年暦」『古田史学会報』53号、2002年。
 同「新・古典批判 二倍年暦の世界」『新・古代学』第7集、新泉社、2004年。
④大越邦生「中国古典・史書にみる長寿年齢」『古代史をひらく 独創の13の扉』古田武彦著、ミネルヴァ書房、2015年。


第2814話 2022/08/23

「二倍年暦」研究の思い出 (2)

―古田先生から託された仕事と遺訓―

 わたしが『論語』が二倍年暦で書かれているとする論稿(注①)を発表したとき、古田先生からも賛成していただいたのですが、『論語』の年齢記事に用いられている用語の悉皆調査を行い、より確実な論証とするようにとのアドバイスをいただきました。そして、そのことを一冊の本にするようにと何度となくいわれました(注②)。たとえば、平成二二年(2010)「八王子セミナー」で古田先生は次のように発言されています。

〝二倍年暦の問題は残されたテーマです。古賀達也さんに依頼しているのですが、(中略)それで『論語』について解釈すれば、三十でよいか、他のものはどうか、それを一語一語、確認を取っていく。その本を一冊作ってくださいと、五、六年前から古賀さんに会えば言っているのですが、彼も会社の方が忙しくて、あれだけの能力があると使い勝手がよいのでしょう、組合の委員長をしたり、忙しくてしようがないわけです。〟(注③)

 わたしに先生の期待に応えられるだけの能力があったとは思っていませんが、最晩年にあたる2014年6月にも次のように著書で述べられています。

〝このテーマは、すでに古賀達也さんが書かれましたが、重大なテーマなので、関連の事例を、論語以外の、他の中国古典の各個所において確認してほしい、と古賀さんにお願いしていたのですが、繁忙のため果せず、今日に至っていたのです。このテーマに改めて取り組まれたのが、今回の大越論文(注④)だったのです。
 この大越論文では、最初には「二倍年暦」の概念を、論語理解にもちこむことに“慎重な姿勢”を採りながら、史記や五経等の「年齢記述」を列挙してゆく中で、やはりこの「二倍年暦」の存在を“認めざるをえない”という帰結を明らかにしています。穏当な到着点です。この立場から見れば、先述の「古賀提言」のテーマがやはり「再浮上」してこざるをえないのではないでしょうか。〟(注⑤)

 古田先生が述べられているように、二倍年暦で『論語』が書かれていることの証明のため、用語の悉皆調査をするようお電話で度々要請を受けました。しかし、当時は円高とリーマンショックによる不況の真っ只中にあり、わたしの勤務先も危機的な状況に置かれていました。わたしは担当事業部門の販売計画・開発・マーケティングを任されていたため、体力的にも精神的にも極限状態が何年も続き、古代史研究に多くの時間を割くことができませんでした。そのため、先生からの要請に対しても明確な返答をできずにいたところ、業を煮やした先生は、ある日、拙宅まで『十三経索引』全巻を持参され、これを貸すから調査するようにと言われました。そこで、わたしは会社の状況と、今はできないことを説明しました。31歳で古田史学に入門して以来、古田先生からのご指示は絶対と思ってきただけに、お断りするのはとても辛いことでした。
 その後、しばらくしてこの悉皆調査を大越邦生さんに依頼されたと古田先生からお聞きしましたが、大越さんが海外赴任(メキシコの在留日本人の小学校校長)となり、この件が宙に浮いてしまいました。そうしたこともあり、心苦しく思っていたのですが、大越さんが赴任中にその調査を進められ、その論文が先生の著書に収録されました。そのことを知り、わたしは少しだけ救われたような気持ちになりました。(つづく)

(注)
①古賀達也「孔子の二倍年暦」『古田史学会報』53号、2002年。
 同「新・古典批判 二倍年暦の世界」『新・古代学』第7集、新泉社、2004年。
②古賀達也「洛中洛外日記」389話(2012/02/26)〝パソコンがクラッシュ〟に次のように記している。
 「ミネルヴァ書房より(中略)発行予定の二倍年暦の本ですが、古田先生と相談の結果、私の論文と大越邦生さんが現在書かれている論文とで構成することになっています。まだ具体的な書名や発刊時期は決まっていませんが、古典に記された古代人の長寿の謎に、二倍年暦という視点で解明したものとなるでしょう。こちらも『「九州年号」の研究』同様に後世に残る一冊になればと願っています。」
③『古田武彦が語る多元史観』66~67頁(ミネルヴァ書房、2014年)
④大越邦生「中国古典・史書にみる長寿年齢」『古代史をひらく 独創の13の扉』古田武彦著、ミネルヴァ書房、2015年。
⑤古田武彦「日本の生きた歴史(二十三)」『古代史をひらく 独創の13の扉』ミネルヴァ書房、2015年。


第2809話 2022/08/16

「ポアンカレとモデル」 茂山さんの見解

 「洛中洛外日記」2807話(2022/08/11)〝ポアンカレ予想と古田先生からの宿題〟で、古田先生から厳しく叱責されたことを紹介しました。九州年号原型論研究に使用した「丸山モデル」(注①)という名称に対して、「モデル」という用語の使い方が間違っているという叱責でした。そのことについて、茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)よりメールが届き、古田先生の「モデル」の理解についての見解(推察)が記されていました。
 茂山さんは大学で哲学や論理学を専攻されておられ、その分野に疎いわたしは何かと教えを請うてきました。なかでも「古田史学の会」関西例会で連続講義されたアウグスト・ベークのフィロロギーの解説(注②)は圧巻でした。今もその講義レジュメを大切に持っています。今回は、これもわたしが苦手な数学と論理学の分野のポアンカレについて、メールで古田先生の考え方についての見解を説明していただきました。特に重要な部分を紹介します。

【以下、転載】
仮説とモデルについて(古田武彦先生に代わって)

 ポアンカレのことを書かれていましたが、それを読んで、古田先生のクレームがどういうものだったか、十分説明していなかったかな、と気になりました。(中略)
 モデルの語源は、modus物差し と-ulus小さい を合わせたラテン語「modulus小さい物差し」に由来します。「尺度」「基準」などの意味も持ち、「測定すること」と深く関わった言葉です。分かり易い例でいえば、自動車のミニチュアモデル、絵画や彫刻のモデルなど。本物を作る前に粘土やデッサンなどで成形しますから、「手本」「模型」「鋳型」などの意味に派生して広がります。応用された結果「規範」「模範」「基本」などの抽象言語にまで広がりました。
 これで分かるように、もともと物作りや測定など、自然科学系の言語です。論理学に応用されても、数学的な性格をもちます。その特徴を定義すれば、モデルは仮説ではありません。また究極の解答でもありません。しかし、反復繰り返しに耐える必要があります。自動車のモデルから現実の自動車を何万台も同じように作る必要がある、という意味合いの「反復」です。それがモデルの本質です。つまり、沢山モデルがあっては困る訳で、モデルはひとつの作業にひとつ、です。しかし、ふたつの作業にはふたつのモデルがあっても構いません。
 さて、古田先生のクレームを代弁してみれば、いくつかの言説がありえます。
 まず「仮説に過ぎないものをモデルと言ってくれるな。一体だれが、そんな権威を保証したのか」というクレームでしょう。「何も論証されていない」という評価です。
 もう一つ、実学の物作りではない歴史の学問では、求める答えは(古典的哲学では)ひとつ、真実はひとつと考えられているので、「文献学(フィロロギー)では、「仮説」と「論証が完了した理論」の間には、モデルなどという中間的な存在は許されない」というクレームでしょうか。
 自然科学では、実験や測定が幾らでも(技術が可能な限り)繰り返し出来ますし、反復することに絶対的な安定性があります。「『もの』のふるまい」を研究しているからです。そのため、仮説と理論の間に(中途半端な)モデルの介在が許されています。研究の便宜のためです。しかしこの場合も、モデルと広く認知されるためには、相当の実験、測定、論証が要求され、それこそ「権威」が求められます。
 一方、実験や測定という数学的方法を駆使する社会学や心理学、経済学などを別にすれば、「『ひと』のふるまい」を研究する「古代史学」では、反復も出来ませんし、測定もできません。つまり、反復・測定を本質とする「モデル」という方法論は、馴染まないのです。
 古田先生が、ポアンカレの本を貴方に渡し、九州年号の古代史学的な議論の問題とされなかったのは、「モデル」という思想が自然科学や実学のものだ、と考えられていたからではないでしょうか。「モデル」とは、観測・測定が可能な問題で、どこでもいつでも、繰り返し使える汎用性のある規範、そう考えられていたのなら、九州年号の復元作業に「モデル」という設定はありえません。
【転載、終わり】

 この丁寧な長文の説明を読み、わたしには思い当たる節がありました。末尾に記された〝「モデル」とは、観測・測定が可能な問題で、どこでもいつでも、繰り返し使える汎用性のある規範、そう考えられていたのなら、九州年号の復元作業に「モデル」という設定はありえません。〟という指摘は、古田先生の考えに近いように思います。この件、引き続き勉強します。

(注)
①「市民の古代研究会」時代に丸山晋司氏が提案した九州年号の原型論(朱鳥を九州年号と見なさない説)が「丸山モデル」と呼ばれた。当時、『二中歴』の「年代歴」を原型とする古田先生と丸山氏とで論争が行われていた。その後、研究が進展し、『二中歴』原型説が最有力となり、今日に至っている。
②「古田史学の会」関西例会にて、「フィロロギーと古田史学」というテーマで2017年5月から一年間にわたり行われた。テキストはベークの『エンチクロペディーと文献学的諸学問の方法』(安酸敏眞訳『解釈学と批判』知泉書館)を用いた。


第2807話 2022/08/11

ポアンカレ予想と古田先生からの宿題

 昨晩のNHK番組「笑わない数学」は〝ポアンカレ予想〟がテーマでした。世紀の天才数学者アンリ・ポアンカレ(1854~1912)により提起された「単連結な3次元閉多様体は3次元球面と同相と言えるか?」という問題です。番組では、「宇宙の外に出ずに、宇宙の形がざっくり丸いか丸くないか、確かめる方法はあるか?」とも説明されましたが、わたしの数学力ではチンプンカンプンでした。
 「洛中洛外日記」(注①)で紹介したこともありますが、ポアンカレの名前を聞くたびに古田先生からいただいた二冊の本のことを思い出します。それはポアンカレの『科学と方法』『科学と仮説』(岩波文庫)で、古田先生から「勉強するように」といただいたものですが、わたしの学力では難しくて、少ししか読めていません。
 それは十五年ほど前だったと記憶していますが、九州年号原型論研究に使用した「丸山モデル」(注②)という名称について、科学や物理学での「モデル」という概念と比べて使用方法が間違っていると、先生から厳しく叱責されたことがありました。それでも、わたしが納得できずにいると、先生から二冊の岩波文庫が送られてきて、読んで勉強するようにとのことでした。それがポアンカレの『科学と方法』『科学と仮説』だったのです。
 この二冊は昭和36年版で、紙は黄変していますが、傍線や書き込みが一切なく、わたしは違和感を抱きました。古田先生からは多くの書籍をいただきましたが、新品のものはともかく、古い本には先生による書き込みや傍線が引いてあるのが常でしたので、この二冊だけは異質だったのです。それでも今回よく見ると、『科学と方法』の238~244頁の部分の上部の角が折り曲げられており、これも古田先生の蔵書によく見られたもので、その部分は特に留意されていたと思われます。それは第三篇「新力學」の第二章「力學と光學」に相当する部分です。なぜ古田先生がそこに興味を持たれたのかはわかりませんが、先生の勉強や学問の幅の広さに改めて驚いています。
 この二冊の勉強は、古田先生からの宿題なのですから、理解はできなくても、せめて完読だけはしておきたいと思います。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1977話(2019/08/31)〝古田先生からの宿題「ポアンカレの二著」〟
②「市民の古代研究会」時代に丸山晋司氏が提案した九州年号の原型論(朱鳥を九州年号と見なさない説)が「丸山モデル」と呼ばれた。当時、『二中歴』の「年代歴」を原型とする古田先生と丸山氏とで論争が行われていた。その後、研究が進展し、『二中歴』原型説が最有力となり、今日に至っている。


第2775話 2022/06/26

久留米大学で「九州王朝の両京制」を講演

 本日は久留米大学御井校舎で講演させていただきました。テーマは〝筑紫なる倭京「太宰府」 ―九州王朝の両京制《倭京と難波京》―〟です。講演の後半では、筑後地方に濃密分布する名字、杉さん・物部さん・柿本さんについての最新研究を報告しました。特に佐賀県の柿本氏から入手した「柿本家系図」を紹介し、久留米市に分布する柿本さんも万葉歌人柿本人麿の末裔かもしれず、もし系図をお持ちであれば紹介していただきたいと参加者にお願いしました。
 おかげさまで講演会は盛況で、当地もコロナ禍から脱しつつあることがうかがえました。持ち込んだ書籍『古代史の争点』(明石書店、2022年)も完売し、不足分については次週に講演される正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からご購入いただくようお願いしたほどでした。
 講演会終了後には久留米大学教授の福山先生や参加された中村秀美さん(古田史学の会・会員、長崎市)と柿本家系図調査にご協力いただいた菊地哲子さん(久留米市)と夕食をご一緒させていただき、楽しい団らんが続きました。主催された久留米大学事務局の皆さんやご参加いただいた皆さんに御礼申し上げます。


第2774話 2022/06/25

「トマスによる福音書」と

        仏典の「変成男子」思想 (8)

 701年(九州年号の大化七年=大宝元年)の大和朝廷(日本国)への王朝交替まで日本列島の代表王朝だった九州王朝(倭国)での仏典受容における女人救済思想の研究はようやく始まったばかりです(注①)。遺された九州王朝系史料の少なさから、本格的な研究はこれからですが、『日本書紀』に転用された九州王朝記事を探ることでその一端をうかがうことができます。たとえば聖徳太子によるとされる三経義疏(注②)も、九州王朝の天子・阿毎多利思北孤、あるいは太子・利歌彌多弗利(注③)による事績の転載ではないかと考えています。
 三経義疏に関係するものとして、女性(勝鬘婦人)が中心となって説かれた『勝鬘経』が注目されます。仏教学の権威、中村元氏は同経典の特徴を次のように紹介しています。

〝それ(『勝鬘経』)は、釈尊の面前において国王の妃であった勝鬘婦人が、いろいろの問題について大乗の教えを説く、それにたいして釈尊はしばしば賞賛の言葉をはさみながら、その説法をそうだ、そうだと言って是認するという筋書きになっています。当時の世俗の女人の理想的な姿が『勝鬘経』のなかに示されています。(中略)
 釈尊は彼女が未来に必ず仏となりうるものであることを預言します。〟※()内は古賀注。中村元『大乗仏典Ⅰ 初期の大乗経典』135~138頁(注④)

 このように解説されて、中村氏は次のように結論づけます。

〝ここに注目すべきこととして、勝鬘婦人という女人が未来に仏となるのであって、「男子に生まれ変わって、のちに仏となる」ということは説かれていません。「変成男子」ということは説かれていないのです。「変成男子」ということは、しょせん仏教の一部の思想であったということがわかります。〟同150頁

 この結論の前半部分はその通りですが、後半の〝「変成男子」ということは、しょせん仏教の一部の思想であった〟は頷けません。なぜなら、少なからぬ仏典中に「変成男子」思想は見受けられるからです。更に、釈迦の時代や仏典成立時での女性蔑視社会に抗した女人救済の便法「変成男子」思想を、現代人の人権感覚で忌避・否定するのではなく、古代社会での「跋苦与楽」(注⑤)の救済方法を当時の人々(特に女性たち)がどのように受けとめていたのかを検証すべきではないでしょうか。(つづく)

(注)
①服部静尚「女帝と法華経と無量寿経」『古田史学会報』164号、2021年6月。
 同「聖徳太子と仏教 ―石井公成氏に問う―」『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』25集)明石書店、2022年。
②『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』のことで、『日本書紀』推古紀には聖徳太子が講じたとある。『法華義疏』(皇室御物)は九州王朝の上宮王が集めたものとする古田先生の次の研究がある。
 古田武彦「『法華義疏』の史料批判」『古代は沈黙せず』1988年。ミネルヴァ書房より復刻。
③『隋書』俀国伝に見える俀国(九州王朝)の天子と太子の名前。
④中村元『大乗仏典Ⅰ 初期の大乗経典』東京書籍、1987年。
⑤「跋苦与楽」(ばっくよらく)とは、衆生の苦を取り除いて楽を与えること。『大智度論』二七(鳩摩羅什訳)に「大慈与一切衆生楽、大悲跋一切衆生成苦」とある。