古田史学会報一覧

第1335話 2017/02/13

『古田史学会報』138号のご案内

本年最初の『古田史学会報』138号が発行されましたので、ご紹介します。

一面には、古田先生から教えていただいた言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」を次世代に伝えていきたいとする、わたしからの新年のご挨拶が掲載されました。二面では正木裕さんから、昨年発見された筑紫野市の巨大土塁の解説と「田身嶺・多武嶺」=大野城説の関連性について論じられました。
服部静尚さんからは九州王朝の諱(いみな)・字(あざな)という、今までにないテーマに挑戦された論稿が発表されました。新しい研究分野ですのでこれからの論争が期待されます。

わたしからは、九州王朝の「家紋」が「十三弁紋」とする説(口碑伝承)の紹介と、『日本書紀』に見える「倭京」の出現が前期難波宮存続期間に限られることから、その「倭京」記事には前期難波宮を「倭京」とするものがあるのではないかとする西村秀己さんのアイデアが作業仮説として成立する可能性について論じました。

このところ常連組の論稿が目立っています。他の研究者や新人の投稿をお待ちしています。なお、長文の原稿を送られる方もありますが、極端な字数オーバーは物理的に掲載不能で、採用対象から除外されます。長文の原稿は『古代に真実を求めて』に投稿してください。内容次第ですが、短い原稿ほど採用の可能性は高くなります。

138号に掲載された論稿・記事は次の通りです。
『古田史学会報』138号の内容
○2017年 新年のご挨拶
次世代に伝えたい古田先生の言葉 古田史学の会・代表 古賀達也
○太宰府を囲む「巨大土塁」と『書紀』の「田身嶺・多武嶺」・大野城 川西市 正木 裕
○九州王朝の家紋(十三弁紋)の調査  京都市 古賀達也
○諱と字と九州王朝 八尾市 服部静尚
○「倭京」の多元的考察 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学Ⅸ 倭国通史私案④
九州王朝の九州平定-怡土平野から周芳の沙麼へ
古田史学の会・事務局長 正木裕
○久留米大学公開講座(正木氏・服部氏)のお知らせ
○NHKカルチャー神戸教室(谷本茂氏)
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○2016年度会費納入のお願い
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己


第1315話 2016/12/31

2016年の回顧「研究」編

 2016年最後の今日、この一年間の『古田史学会報』に発表された研究の回顧にあたり、特に印象に残った優れた論文をピックアップしてみました。下記の通りです。
 いずれも多元史観・古田史学にふさわしいものです。中でも正木さんの九州王朝系「近江王朝」という新概念は、7世紀末における九州王朝から大和朝廷への王朝交代の実像を考えるうえで重要な仮説となる可能性があります。その可能性について論究したものが「番外編」に取り上げた拙稿「九州王朝を継承した近江朝廷」ですが、両論稿をあわせて読んでいただければ正木説が秘めている王朝交代に迫る諸問題と「解」が浮かび上がることと思います。
 服部さんの二つの論稿は、律令官制に必要な都や官衙の規模を具体的に示されたものと、河内の巨大前方後円墳が近畿天皇家のものではない可能性を示唆されたもので、いずれも考古学への多元史観適用の試みです。今後の発展が期待されるテーマです。
 西村さんの論稿は、古代官道(南海道)の不自然な変遷が、九州王朝から大和朝廷へのONライン(701年)で発生した権力所在地の変更によるものであることを明らかにされたものです。この視点は他の官道の研究でも有効と思われます。
谷本さんの『隋書』などの中国史書に基づく官職名についての研究は、従来の古田説の部分修正をも迫るものです。
 2017年も古田史学・多元史観を発展させる研究発表と会報への投稿をお待ちしています。それでは皆様、良いお年をお迎えください。

○「近江朝年号」の実在について 川西市 正木裕(133号)
○古代の都城 -宮域に官僚約八千人- 八尾市 服部静尚
○盗まれた天皇陵 八尾市 服部静尚 (137号)
○南海道の付け替え 高松市 西村秀己(136号)
○隋・煬帝のときに鴻臚寺掌客は無かった! 神戸市・谷本 茂(134号)

〔番外〕
○九州王朝を継承した近江朝廷
-正木新説の展開と考察- 京都市 古賀達也(134号)


第1309話 2016/12/12

『古田史学会報』137号のご案内

 本年最後となる『古田史学会報』137号が発行されましたので、ご紹介します。
一面には正木裕さんの、ニニギたち「日向三代」の陵墓や出身地を糸島博多湾岸とする古田説を「記紀」や地名・現地伝承などに基づいて具体的に考証した論稿が掲載されています。古田史学では有名なテーマですが、ここまで実証的に深められた論稿は珍しいと思います。

 服部静尚さんも快調に好論を発表されています。今号の論稿は河内の巨大前方後円墳は近畿天皇家の陵墓ではないとするものです。わたしが「九州王朝説に刺さった三本の矢」と表現した九州王朝説では説明できなかった三つの考古学的事実に対する一つの「回答」となるものです。更なる検証が期待されます。
わたしからは「九州王朝説に刺さった三本の矢(後編)」を発表しました。九州王朝が難波を直轄支配領域にした経緯について述べました。

 137号に掲載された論稿・記事は次の通りです。来年1月22日に開催する新春古代史講演会(大阪府立大学なんばサテライト)のご案内もあります。ぜひ、ご参加ください。

『古田史学会報』137号の内容
○筑紫なる「日向三代」の陵墓を探る 川西市 正木 裕
○新春古代史講演会(1月22日)のご案内
○九州王朝説に刺さった三本の矢(後編) 京都市 古賀達也
○盗まれた天皇陵 八尾市 服部静尚
○神功の出自 千歳市 今井敏圀
○トラベルレポート 熊野三山へのチョイ巡り行 東大阪市 萩野秀公
○「壹」から始める古田史学Ⅷ 倭国通史私案③
九州王朝の九州平定-筑後から九州一円に 古田史学の会・事務局長 正木裕
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○お知らせ 古田史学の会論集編集中 西村秀己
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己


第1285話 2016/10/13

『古田史学会報』136号のご案内

 『古田史学会報』136号が発行されましたので、ご紹介します。

 本号には九州王朝都城論に関する基本的で重要な論稿が掲載されました。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の「古代の都城 -宮域に官僚約八千人-」です。7世紀における律令制度に基づく全国支配に必要な宮域(王宮・官衙)の規模を、『養老律令』に記載された中央官僚定員数や平安京や前期難波宮の宮域を図示し、八千人にも及ぶ官僚を収容できることが必要条件であると指摘されました。

 この服部さんの指摘により、今後、律令時代の九州王朝の都城候補を論ずるときは、これだけの規模の王宮・官衙遺構の考古学的出度事実の提示が不可欠となったのです。この規模の都城遺構を提示できないいかなる仮説も成立しません。ちなみに、この規模を有す7世紀における王都は太宰府と前期難波宮(難波京)、そして藤原宮(新益京)だけです。近江大津宮は王宮の規模は巨大ですが、周囲の都市化が進んでいるためか官衙遺構や条坊都市は未発見です。

 わたしからは「九州王朝説に刺さった三本の矢(中編)」と「『肥後の翁』と多利思北孤」を発表しました。九州王朝の兄弟統治の一例として、筑後の多利思北孤と鞠智城にいた「肥後の翁」を兄弟の天子とする仮説です。

 西村秀己さん(『古田史学会報』編集部)は古代官道南海道の変化が、九州王朝から大和朝廷への王朝交代に基づくことを報告されました。とても面白いテーマです。

 上田市の吉村八洲男さんは『古田史学会報』初登場です。古代信濃国の多元史観による研究です。このテーマは「多元的古代研究会」や「東京古田会」では活発に論議されています。「古田史学の会」でも関心が深まることが期待されます。

 136号に掲載された論稿・記事は次の通りです。

『古田史学会報』136号の内容
○古代の都城 -宮域に官僚約八千人- 八尾市 服部静尚
○「肥後の翁」と多利思北孤 -筑紫舞「翁」と『隋書』の新理解- 京都市 古賀達也
○「シナノ」古代と多元史観 上田市 吉村八洲男
○九州王朝説に刺さった三本の矢(中編) 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学Ⅵ 倭国通史私案②
九州王朝(銅矛国家群)と銅鐸国家群の抗争  古田史学の会・事務局長 正木裕
○〔書評〕張莉著『こわくてゆかいな漢字』 奈良市 出野正
○南海道の付け替え 高松市 西村秀己
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会のお知らせ
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己


第1253話 2016/08/12

『古田史学会報』135号のご案内

 『古田史学会報』135号が発行されましたので、ご紹介します。本号は九州王朝研究の最新課題などの重要論文が掲載されています。

 正木さんからは、龍田神社の風の祭りは本来は九州王朝における阿蘇地方のものであったとする新説が発表されました。

 わたしからは九州王朝説にとって不利な三つの考古学的事実を「九州王朝説に刺さった三本の矢」として紹介、解説しました。また、熊本県の鞠智城創建年代を通説よりも早い6世紀末から7世紀初頭の多利思北孤の時代とする新説を報告しました。

 西村さんからは『別冊宝島 「邪馬台国」とは何か』に収録された渡邉義浩氏の『三国志』に関する論稿への批判論文が発表されました。

135号に掲載された論稿・記事は次の通りです。

『古田史学会報』135号の内容
○盗まれた風の神の祭り 川西市 正木裕
○九州王朝説に刺さった三本の矢(前編) 京都市 古賀達也
○古田先生が坂本太郎氏に与えた影響について 福岡市 中村通敏
○『別冊宝島 古代史再検証「邪馬台国とは何か」』の検証 高松市 西村秀己
○古田史学の会 第22回会員総会の報告
○鞠智城創建年代の再検討-六世紀末〜七世紀初頭、多利思北孤造営説- 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学Ⅵ 倭国通史私案①
黎明の九州王朝 古田史学の会・事務局長 正木裕
○『古田史学会報』原稿募集
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○「邪馬壹国の歴史学」出版記念講演会の報告 八尾市 服部静尚
○古田史学の会・関西例会のご案内
○大阪府立狭山池博物館見学と講演のお知らせ
○編集後記 西村秀己


第1226話 2016/07/09

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(6)

 わたしは「前期難波宮は九州王朝の副都」という論文を2008年に発表しました(『古田史学会報』85号、「古田史学の会」ホームページ「新・古代学の扉」に掲載)。九州王朝説に突き刺さった《三の矢》から九州王朝説を守るにはこの仮説しかないと、考え抜いた末の結論でした。

 しかし、古田先生からは賛同していただけない月日が永く続き、前期難波宮から九州の土器は出土しているのか、神籠石のような防御施設がない、副都の定義が不明確と次々とダメ出しをいただきました。また、各地で開催される講演会で、わたしの「前期難波宮九州王朝副都説」に対する見解を問う質問が参加者から出されるたびに、古田先生からは否定的見解が表明されるという状況でした。

 そうした中でわたしにできることはただ一つ、論文を書き続けることだけでした。もちろん古田先生に読んでいただくこと、そして納得していただきたいと願って研究と発表を続けました。次の論文がそうです。想定した第一読者は全て古田先生です。

《前期難波宮関連論文》※「古田史学の会」ホームページ「新・古代学の扉」に掲載
前期難波宮は九州王朝の副都(『古田史学会報』八五号、二〇〇八年四月)
「白鳳以来、朱雀以前」の新理解(『古田史学会報』八六号、二〇〇八年六月)
「白雉改元儀式」盗用の理由(『古田史学会報』九〇号、二〇〇九年二月)
前期難波宮の考古学(1)ーここに九州王朝の副都ありきー(『古田史学会報』一〇二号、二〇一一年二月)
前期難波宮の考古学(2)ーここに九州王朝の副都ありきー(『古田史学会報』一〇三号、二〇一一年四月)
前期難波宮の考古学(3)ーここに九州王朝の副都ありきー(『古田史学会報』一〇八号、二〇一二年二月)
前期難波宮の学習(『古田史学会報』一一三号、二〇一二年十二月)
続・前期難波宮の学習(『古田史学会報』一一四号、二〇一三年二月)
七世紀の須恵器編年 ー前期難波宮・藤原宮・大宰府政庁ー(『古田史学会報』一一五号、二〇一三年四月)
白雉改元の宮殿ー「賀正礼」の史料批判ー(『古田史学会報』一一六号、二〇一三年六月)
○難波と近江の出土土器の考察(『古田史学会報』一一八号、二〇一三年十月)
○前期難波宮の論理(『古田史学会報』一二二号、二〇一四年六月)
○条坊都市「難波京」の論理(『古田史学会報』一二三号、二〇一四年八月)

 論文発表と平行して「古田史学の会」関西例会でも研究報告を続けました。そうしたところ、参加者から徐々に賛成する意見が出され始めました。西村秀己さん、不二井伸平さん、そして正木裕さんは『日本書紀』の史料批判に基づいてわたしを支持する研究発表をされるようになり、近年では服部静尚さんも新たな視点(難波宮防衛の関)から前期難波宮副都説支持の研究を開始されました。

 そして2014年11月8日の八王子セミナーの日を迎えました。古田先生との質疑応答の時間に参加者からいつものように「前期難波宮副都説をどう思うか」との質問が出されました。わたしは先生を凝視し、どのような批判をされるのかと身構えました。ところが、古田先生の返答は「今後、検討しなければならない問題」というものでした。6年間、論文を書き続け、ついに古田先生から「否定」ではなく、検討しなければならないの一言を得るに至ったのです。検討対象としての「仮説」と認めていただいた瞬間でした。その日の夜は、うれしくて眠れませんでした。しかしその一年後、検討結果をお聞きすることなく、先生は他界されました。(つづく)

 


第1208話 2016/06/12

『古田史学会報』134号のご案内

 『古田史学会報』134号が発行されましたので、ご紹介します。
 前号に発表された正木裕さんの新説「九州王朝系近江朝廷」の持つ学問的意義と可能性について、わたしの考察を記しました。この正木新説はまだこれから検証されるべき仮説ですが、多くの可能性を秘めた魅力的な仮説であることを詳述しました。
 谷本さんからは意表をつく新見解が発表されました。隋・煬帝のときに鴻臚寺掌客は無かったというものです。基本的史料調査の重要性を再認識させられた論稿です。
 134号に掲載された論稿・記事は次の通りです。

 『古田史学会報』134号の内容
○〔追悼〕藤沢徹さん(東京古田会会長)
  鬼哭啾々、痛惜の春
     古田史学の会・代表 古賀達也
○隋・煬帝のときに鴻臚寺掌客は無かった! 神戸市・谷本 茂
○九州王朝を継承した近江朝廷
 -正木新説の展開と考察- 京都市 古賀達也
○盗まれた九州王朝の天文観測 川西市 正木裕
○考古学が畿内説を棄却する 八尾市 服部静尚
○古賀達也氏の論稿
 「『要衝の都』前期難波宮」に反論する 松山市 合田洋一
○追憶・古田武彦先生(4)
 坂本太郎さんと古田先生 古田史学の会・代表 古賀達也
○「壹」から始める古田史学Ⅴ
 『魏志倭人伝』の里程記事解釈の要点
     古田史学の会・事務局長 正木裕
○会員総会・講演会のお知らせ 6月19日(日)
 講師 張莉氏(大阪教育大学特任準教授)
 演題 「食と酒の漢字」
 講師 正木裕氏(古田史学の会・事務局長)
 演題 「漢字と木簡から短里を解明する」
○『古田史学会報』原稿募集
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○その他講演会のお知らせ
 7/23 『邪馬壹国の歴史学』出版記念東京講演会及びシンポジウム
   講師 正木裕(古田史学の会・事務局長)
   パネリスト 古賀達也(古田史学の会・代表)、服部静尚(古田史学の会・編集長)
 8/31 NHK文化センター夏の特別講座
   講師 谷本茂氏(古田史学の会・会員)
○編集後記 西村秀己


第1163話 2016/04/05

『古田史学会報』133号のご案内

 『古田史学会報』133号が発行されましたので、ご紹介します。本号も岡下さんや正木さんらの好論が満載です。特に正木さんの「中元」「果安」を「近江朝」年号とする仮説は魅力的かつ衝撃的です(検証すべき疑問もありますが)。天智天皇の「不改常典」とも関わり合いそうなテーマですので、これからの論争や展開が楽しみです。
 わたしからは久しぶりに前期難波宮問題を取り上げた論稿「『要衝の都』前期難波宮」を発表しました。前期難波宮九州王朝副都説を提唱してから8年が過ぎましたが、九州王朝説論者からの反論がありますので、改めて説明と再反論を行いました。わたしは「学問は批判を歓迎する」(武田邦彦さんの言葉)と考えていますので、自説への批判は歓迎しますが、その上で、前期難波宮副都説を批判される方には、次の質問をすることにしています。

1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 この質問に対して、史料(あるいは考古学的)根拠を示して合理的に回答された九州王朝説論者をわたしは知りません。わたしの前期難波宮副都説はこの四つの疑問に答えるための数年に及ぶ苦心惨憺の中から生まれた説ですから、それを超える合理的な仮説があるのでしたら、是非お答えいただきたいと思います。
 133号に掲載された論稿・記事は次の通りです。

 『古田史学会報』133号の内容
○「是川」は「許の川」  京都市 岡下英男
○「近江朝年号」の実在について 川西市 正木裕
○岡下論文『「相撲の起源」説話を記載する目的』の補遺としての考察 -筑前にも出雲があった-  福岡市 中村通敏
○「要衝の都」前期難波宮  京都市 古賀達也
○「善光寺」と「天然痘」  札幌市 阿部周一
○令亀の法  八尾市 服部静尚
○追憶・古田武彦先生(3)
 蕉門の離合の迹を辿りつつ  古田史学の会・代表 古賀達也
○「壹」から始める古田史学Ⅳ
 九州年号が語る「大和朝廷以前の王朝」 古田史学の会・事務局長 正木裕
○久留米大学公開講座のお知らせ 5月28日
 講師 正木裕 「聖徳太子」は久留米の大王だった
 講師 古賀達也 九州王朝の「聖徳太子」伝承
○『古田史学会報』原稿募集
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○2016年度会費納入のお願い


第1137話 2016/02/11

『古田史学会報』132号のご紹介

『古田史学会報』132号が発行されましたので、ご紹介します。西条市の今井さんの力作が掲載されています。「古田史学の会」会員の肥沼孝治さんが今井稿をホームページ“多元的「国分寺」研究サークル”で要領よく紹介されていますので、転載させていただきます。なお、掲載された論稿・記事は次の通りです。

『古田史学会報』132号の内容
○『日本書紀』に引用された「漢籍」と九州王朝 川西市 正木裕
○伊予国分寺と白鳳瓦 -最初に国分寺制度を作ったのは誰か(伊予国分寺出土の白鳳瓦を巡って)- 西条市 今井 久
○「皇極」と「斉明」についての一考察 -古田先生を偲びつつ-  松山市 合田洋一
○追憶・古田武彦先生(2)
池田大作氏の書評「批判と研究」 古田史学の会・代表 古賀達也
○古田武彦先生追悼会の報告 八尾市 服部静尚
○二〇一五年の回顧と年頭のご挨拶  古田史学の会・代表 古賀達也
○『古田史学会報』原稿募集
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己

【転載】「今井久さんの論文から学ぶ」 肥沼孝治

今井久さんの論文から学ぶために,「見出し」の書き出しをしてみる。つまり「構成」から学ぼうというワケである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一.「国分寺建立」は聖武天皇が始めた,その実態の検討
イ.「国分寺」創建の詔の寺の「名称」
ロ.聖武天皇の詔の前にすでに国分寺が存在している事を示す記録があること
ハ.『続日本紀』は詔勅の「金光明寺・法華寺」の寺名を抹消した

二.聖武天皇の詔の前に全国に国が統制する寺院が存在
イ.「詔」以前の文献にあらわれる国分寺と推定される寺院の存在
ロ.聖武天皇の詔の百年前.七世紀に寺院数が激増
ハ.九州地方には左記の初期寺院が,小田富士雄氏に仍って列挙されている

三.国分寺遺跡出土の遺構・遺物が示す疑問点
1.国分寺遺跡出土の伽藍配置が大きく二つにわかれている(塔が回廊内か回廊外か。前者が古式)
2.全国の国分寺遺跡から出土する国分寺の伽藍配置が分裂(古式からは白鳳瓦が出土)

四.伊予の国分寺の考察(古式の伽藍配置で白鳳瓦が出土)

五.国分寺制度を最初に創ったのは倭国九州王朝である

六.「国分寺制度創設」を開始した倭国王は誰か

まとめ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
なるほど,構成がすっきりしていてわかりやすい。統計的に分類し,しっかりとした結論を導き出している。天国の(もしかしたらご希望だった地獄の)古田先生にも喜んでいただけるのではないかと思った。


第1116話 2015/12/30

2015年の回顧『古田史学会報』編

 2015年に発行した『古田史学会報』126〜131号の掲載稿を下記に記しました(例会報告など事務連絡の類は省略しました)。
 昨年に続いて正木裕さんは精力的な研究発表を続けられました。また、古田史学入門編として「壹から始める古田史学」の連載も129号から開始されました。古田先生が亡くなられたことにより、わたしは「追憶・古田武彦先生」の連載を開始しました。
 常連組が安定した研究レベルにより優れた論稿を発表される一方、平田さん(“たんがく”の“た”)、安随さん(「唐軍進駐」への素朴な疑問)、清水さん(四国・香川県の史跡巡り)が会報デビューされました。中でも印象に残っているのが、安随さんの「『唐軍進駐』への素朴な疑問」です。意表を突かれたという意味でも好論でした。
 また、古田先生の最後の対談をラジオ番組でされた桂米團治さんのオフィシャルブログからの転載も感慨深いものとなりました。投稿していただいた皆様に御礼申し上げます。

『古田史学会報』126号(2月)
○平成二十七年、賀詞交換会のご報告  京都市 古賀達也
○犬を跨ぐ  山東省曲阜市 青木英利
○「室見川銘板」の意味するもの  奈良市 出野 正
○盗用された任那救援の戦い -敏達・崇峻・推古紀の真実-(下)  川西市 正木 裕
○先代旧事本紀の編纂者  高松市 西村秀己
○四天王寺と天王寺  八尾市 服部静尚
○盗用された「仁王経・金光明経」講話  川西市 正木 裕
○倭国(九州王朝)遺産10選(上)  京都市 古賀達也
○年頭のご挨拶  代表 水野孝夫

『古田史学会報』127号(4月)
○「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」  川西市 正木 裕
○短里と景初 誰がいつ短里制度を布いたのか?  高松市 西村秀己
○“たんがく”の“た”  大津市 平田文男
○邪馬台国畿内説と古田説はなぜすれ違うのか  八尾市 服部静尚
○学問は実証よりも論証を重んじる  京都市 古賀達也
○「唐軍進駐」への素朴な疑問  芦屋市 安随俊昌
○『書紀』の「田身嶺・多武嶺」と大野城  川西市 正木 裕
○倭国(九州王朝)遺産10選(下)  京都市 古賀達也
○断念  古田武彦

『古田史学会報』128号(6月)
○網野銚子山古墳の復権  京丹後市 森茂夫
○「短里」の成立と漢字の起源  川西市 正木裕
○「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について  札幌市 阿部周一
○長者考  八尾市 服部静尚
○九州王朝の丙子椒林剣  京都市 古賀達也
○「漢音」と「呉音」 皇帝の国の発音  札幌市 阿部周一

『古田史学会報』129号(8月)
○孫権と俾弥呼 -俾弥呼の「魏」への遣使と「呉」の孫権の脅威-  川西市 正木裕
○鞠智城と神籠石山城の考察  京都市 古賀達也
○四国・香川県の史跡巡り  神戸市 清水誠一
○大化改新論争  八尾市 服部静尚
○「相撲の起源」説話を記載する目的  京都市 岡下英男
○九州・四国に多い「みょう」地名  京都市 古賀達也
○会代表退任のご挨拶  水野孝夫
○代表就任のご挨拶  古賀達也
○「壹」から始める古田史学1  古田史学の会事務局長 正木裕

『古田史学会報』130号(10月)
○「・多利思北孤・鬼前・干食」の由来  川西市 正木裕
○「権力」地名と諡号成立の考察  京都市 古賀達也
○「仲哀紀」の謎  千歳市 今井俊國
○九州王朝にあった二つの「正倉院」  松山市 合田洋一
○「熟田津」の歌の別解釈(一)  札幌市 阿部周一
○「壹」から始める古田史学2
 古田武彦氏が明らかにした「天孫降臨」の真実  古田史学の会・事務局長 正木裕
○「桂米團治さんオフィシャルブログ」より転載
○『盗まれた「聖徳太子」伝承』出版記念講演会の報告  服部静尚
○「坊ちゃん」と清  高松市 西村秀己

『古田史学会報』131号(12月)
○古田武彦先生ご逝去の報告  古田史学の会・代表 古賀達也
○古代の真実の解明に生涯をかけた古田武彦先生  古田史学の会・事務局長 正木裕
○追憶・古田武彦先生(1)
 蓮如生誕六百年に思う  古田史学の会・代表 古賀達也
○「桂米團治さんオフィシャルブログ」より転載
 「古田武彦先生、逝去」
○昭和44年11月12日 読売新聞第二社会面
 邪馬台(ヤマタイ)国ではなく邪馬壹(ヤマイ)国
○「みょう」地名について -「斉明」と「才明」-  松山市 合田洋一
○垂仁紀の謎  千歳市 今井俊國
○「熟田津」の歌の別解釈(二)  札幌市 阿部周一
○「ものさし」と「営造方式」と「高麗尺」  八尾市 服部静尚
○「壹」から始める古田史学3
 古代日本では「二倍年暦」が用いられていた  古田史学の会・事務局長 正木裕
○割付担当の穴埋めヨタ話⑧ 五畿七道の謎  高松市 西村秀己


第1115話 2015/12/30

2015年の回顧「学問・研究」編

 次は学問・研究について回顧します。2015年も多くの学問的成果や新たな課題が続出し、多元史観・古田学派ならではの業績と経験に恵まれました。

○多元的「国分寺」研究の進展
 国分寺は聖武天皇よりも以前に、九州王朝でも造営されていたのではないかとする意見が以前からありましたが、今年は埼玉県所沢市の会員、肥沼孝治さんからの武蔵国分寺遺跡の方位のぶれ問題の提起により画期的な進展を見ました。9月5日には肥沼さんの案内により、関東地区の古田史学の会・会員とともに現地調査も実施しました。

○「赤淵神社縁起」(九州年号史料)の現地調査
 九州年号「常色」「朱雀」などが記されている九州年号史料「赤淵神社縁起」(天長五年〔828〕成立)を所蔵している赤淵神社(兵庫県朝来市)を訪問し、同神社のご了解の元で写真撮影などの調査を行いました。平安時代に成立した文書に九州年号が記されていることにより、九州年号が鎌倉時代に偽作されたとしてきた一元史観の「仮説」が改めて否定されることとなりました。

○鞠智城現地調査と九州王朝造営説
 従来から古代山城としては異質とされてきた鞠智城(熊本県山鹿市・菊池市)を5月に訪問し、現地調査を行いました。その結果、考古学出土事実などから従来の大和朝廷一元史観による編年よりもやや古く、鞠智城は九州王朝による造営と考えざるを得ないことが明らかとなりました。『古代に真実を求めて』19集にこの研究論文が収録されます。

○狗奴国研究の深化
 正木裕さんの一連の研究により、『三国志』倭人伝に見える狗奴国が銅鐸圏の国家であることを考古学と文献史学からのアプローチにより明確になりました。こうした研究業績により、倭人伝研究も一層の発展を見せました。その集大成として『邪馬壹国の歴史学』(古田史学の会編)がミネルヴァ書房よりもうすぐ刊行されます。

○竜田関の防衛方向の研究
 服部静尚さんの「古代の関」研究により、河内と大和の間に設けられた竜田関がその構造や地勢から、大和方面から河内に侵入する「外敵」に対しての「関」ということが明らかとなりました。すなわち、竜田関は九州王朝の副都「前期難波宮」を大和(方面)の勢力から防衛するために設けられた「関」ではないかとされました。「古代の関」の多元史観から見直しという新たな研究領域の出現といえるでしょう。

 これらの他にも、多くの研究成果が報告されました。古田学派ならではの革新的な研究領域であり研究成果です。


第1114話 2015/12/30

2015年の回顧「古田史学の会」編

 今日は帰省の新幹線車中で書いています。2015年は激動と慟哭の年となりまし。心重いのですが、例年のように「古田史学の会」に関連した出来事について回顧します。

○古田武彦先生のご逝去(10月14日)
 古田先生のご逝去はわたしたち古田学派や読者に激震をもたらしました。10月はわたしにとって慟哭の月となりました。享年89歳ですが、古田先生が敬愛された親鸞の没年齢と奇しくも同じ年齢です(親鸞は数え年で90歳没)。

○「古田史学の会」水野代表が退任
 6月の会員総会で、「古田史学の会」創立以来20年にわたり代表を務められてきた水野孝夫さんが退任されました。後任としてわたしが代表を勤めさせていただくことになり、新たに正木裕さんが事務局長、竹村順弘さんが事務局次長に就任されました。小林副代表は留任され、新四役体制が確立しました。水野さんには顧問(全国世話人)として、引き続きご指導いただけることになりました。

○米田敏幸さんを迎え、記念講演会(6月21日)
 6月の会員総会では庄内式土器の専門家、米田敏幸さんを講師に迎え、記念講演を行いました。正木さんも狗奴国に関する講演をされました。考古学者をお招きしての講演会は「古田史学の会」としては初めての試みです。今後も、日本古代史の関連諸分野の研究者を講演会にお招きしたいと考えています。

○『古代に真実を求めて』18集をリニューアル
 明石書店より発行している会誌『古代に真実を求めて』を大幅にリニューアルし、『盗まれた「聖徳太子」伝承』として刊行しました。従来の応募原稿中心の編集から、毎号毎に特集を組み、それにふさわしい原稿を中心に編集することにしました。19集は「九州年号特集」を予定していましたが、急遽、「古田武彦先生追悼号」に変更し、編集作業中です。

○『盗まれた「聖徳太子」伝承』刊行記念東京講演会開催(9月6日)
 『盗まれた「聖徳太子」伝承』刊行を記念して、東京講演会を開催しました。会場は東京家政学院大学千代田キャンパスをお借りし、在京の友好団体「東京古田会」「多元的古代研究会」のご協力もいただき、成功裏に開催することができました。講師は正木さんとわたしが担当しました。プロジェクター映像を本格的に駆使するなど、新たな講演スタイルにも挑戦しました。

○メール配信事業「洛洛メール便」をスタート
 ネット環境を利用して、ホームページに連載している「洛中洛外日記」や、ホームページには掲載しない「洛中洛外日記【号外】」を希望される会員に配信するサービスを4月から開始しました。配信作業は竹村事務局次長に担当していただきました。

○「古田史学の会facebook」を開設
 「古田史学の会」の活動をよりビジュアルに発信するために、従来のホームページ(新・古代学の扉)とは別に「古田史学の会facebook」を開設しました。関西例会や遺跡巡りハイキングの写真や動画を掲載しています。これも竹村さんに担当していただいています。
 更に、facebookを利用している会員間で「友達」として意見交換や情報発信も始まりました。わたしや正木さん、竹村さん、横田さん(「古田史学の会」インターネット事務局)、竹内さん(「古田史学の会・東海」会長)、そして会員の冨川けい子さんらが「友達」となって活発な情報発信・意見交換を行っています。

○「愛知サマーセミナー2015」で講義(7月19日、名古屋市)
 愛知淑徳高でに開催された「愛知サマーセミナー2015」で、「古田史学の会・東海」の取り組みの一環として、わたしも講義しました(テーマ:教科書が書かない!日本古代史の真実とは!)。愛知県下の高校生だけでなく中学生も熱心に聴講されていました。子供たちに古田史学を紹介し、学問の方法を語ることは将来的にも貴重な取り組みです。

 以上、2015年の「古田史学の会」の取り組みを思いつくままに記しました。