「 日本 」一覧

701年以降の大和朝廷の国名です。
700年以前の九州王朝が名乗っていた可能性もあります。

第1664話 2018/05/04

もうひとつのONライン「日本国の創建」

 今月26日と27日は上京し、東京古田会主催の大越邦生さん講演会「よみがえる創建観世音寺 〜そして法隆寺への移築はなかった〜」と多元的古代研究会の「万葉集と漢文を読む会」に参加します。
 近年、観世音寺の考古学編年研究に取り組んでいるのですが、わたしとは異なった視点で創建観世音寺を研究されている大越さんの講演をぜひお聞きしたいと願っていました。講演の翌日には多元的古代研究会の「万葉集と漢文を読む会」が開催されますので、せっかくの機会ですので、こちらも参加させていただくことにしました。
 多元的古代研究会の安藤会長より、「万葉集と漢文を読む会」に来るのなら何か最近の研究について少し話してほしいとご依頼をいただきましたので、九州王朝説から見た「近江朝廷」について報告しようと考えています。実は、古田先生の数ある論文の中で、非常に異質で重要な論文であるにもかかわらず、古田史学の中での位置づけが難解で、古田学派の研究者からもあまり注目されてこなかったものがあります。それは「日本国の創建」(『よみがえる卑弥呼』所収、駸々堂、1987年)という論文で、冒頭の解題には次のように記されています。

 「実証主義の立場では、日本国の成立は『天智十年(六七一)』である。隣国の史書がこれを証言し、日本書紀もまたこれを裏付ける。」(265頁)

 この「日本国の創建」問題について、「もうひとつのONライン ー670年(天智九年庚午)の画期ー」というテーマでお話しさせていただこうと考えています。ご興味のある方は、ご参加ください。


第1612話 2018/02/23

多元史観・九州王朝説による時代区分

 現代日本の歴史学(戦後型皇国史観)において使用されている古代の時代区分「(新・旧)石器時代」「縄文時代」「弥生時代」「古墳時代」「飛鳥時代」「奈良時代」などに代わり、多元史観・九州王朝説に基づく新たな時代区分と名称を考えるため、論点整理して試案を述べます。古田学派の皆さんによる論議検討の叩き台にしていただければ幸いです。

 まず、九州王朝から大和朝廷への王朝交代を明確に区分するために701年を境にして、倭国時代(九州王朝時代)と日本国時代(大和朝廷時代)という区分と名称がわかりやすいと思います。この点は古田学派の多くの研究者の賛同もいただけるのではないでしょうか。この史料根拠としては『旧唐書』倭国伝・日本国伝などがあります。
 問題は倭国時代以前と倭国時代内の区分です。倭国時代(九州王朝時代)の開始は「天孫降臨」(紀元前2〜3世紀頃か)とできますが、それ以前は「出雲王朝時代」が今のところ穏当のよう思います。「出雲王朝時代」には石器・木器・青銅器時代が含まれ、かなり長期間のように思われます。それ以前は具体的王朝名などが未詳ですので、とりあえず使い慣れた「縄文時代」を用いるのがよいかもしれません。今後、縄文時代の研究が進展し、具体的な権力中枢や王朝名がわかれば、それに対応した時代区分と名称を付けることができるかもしれません。
 次いで検討が必要なのは倭国時代(九州王朝時代)の細分化です。この時代には、現在使用されている「弥生時代」「古墳時代」「飛鳥時代」「奈良時代」が含まれていますから、それらとある程度対応でき、その時々の九州王朝の実態を表す適切な小区分化と命名ができれば九州王朝史を理解する上で便利と思います。
 従来のようなお墓の規模や様式、首都所在地で分ける以外にも、王朝の形態や象徴的な文化区分で分ける方法がありそうですが、試案としては次のような視点があります。

 ①中国南朝の冊封体制下か独立王朝か。名称の一例としては「冊封時代」「独立時代」などがあります。時期としては、九州年号を建元した6世紀初頭後が「独立時代」、志賀島の金印授受以後から6世紀初頭頃までが「冊封時代」となりそうです。
 ②行政区画で分けるのであれば、7世紀中頃以後の「評制時代」、それ以前の「県(あがた)時代」という方法もあります。ただし、「県(あがた)時代」の開始時期が不明です。
 ③首都や中枢地域で区分するのであれば、天孫降臨から4世紀頃までの「糸島・博多湾岸時代」あるいは「筑前中域時代」。「倭の五王」時代の「筑後時代」(古賀説による)。太宰府遷都(倭京元年。618年)後の「太宰府時代」あるいは「倭京時代」。難波副都に権力中枢が移動した時期(652〜686年)の「難波京時代」あるいは「白雉・白鳳時代」(古賀説による)。難波京焼亡後から九州王朝滅亡までの「大宰府政庁時代」(正確には大宰府政庁Ⅱ期時代)。

 以上、思いつくままに記してみました。古田学派内での論議検討を経て、もっとも相応しい区分や名称が受け入れられることと思いますので、この試案には全く拘りません。自由に批判論争してください。


第1549話 2017/12/06

渤海国書の「日本」

 今朝は久しぶりの東京出張で、新幹線車中で書いています。天候も良く、冠雪した富士山を見たくて窓側のE席を何とか予約できました。

 「洛中洛外日記」1537話の「百済禰軍墓誌の『日本』再考(1)」でも書いたように、「日本」表記に関する先行研究論文を読んでいます。そして、それらにもよく引用されている、『続日本紀』掲載の渤海国王からの国書に見える「日本」について考察を深めています。この渤海国の国書には以前から興味を持っていたのですが、今回、改めて読んでみると面白いことに気づきました。当該国書の一部を引用します。

 「武藝、啓(もう)す。(中略)伏して惟(おもひ)みれば、大王天朝命を受けて、日本、基を開き、奕葉(えきよう)光を重ねて、本枝百世なり。(後略)」聖武天皇 神亀五年正月条(728年)

 渤海国王(このときは渤海郡王)の武藝から聖武天皇に出された国書ですが、「啓す」という、共に唐の冊封を受けている対等な国の間で使用される字を用いていることから、渤海国は日本国とは対等であるとの立場に立った国書とされています。
 この国書記事がある神亀五年(728年)は『日本書紀』成立(720年)以後ですが、『日本書紀』に記された「天皇」という称号ではなく、「大王」と表記していることから、この時点では渤海国は『日本書紀』を入手していなかったと思われます。あるいは、唐の天子(高宗)が「天皇」を称していたことがあるため、それと同じ称号使用を避けたのかもしれません。
 国書では、日本国の成立について大王の天朝が命を受けて、日本を開基したとあり、この「天朝」という表記も意味深です。天朝が日本を開基する前は、その天朝の国名は何だったと理解しているのでしょうか。また、誰からの命を受けたというのでしょうか。一つの試案(作業仮説)として、唐の命を受けた天朝が日本を開基したという理解はいかがでしょうか。唐の冊封を受けている国が日本という国を開基したのですから、唐の命以外に誰からの命を受けたとできるのでしょうか。
 次に注目されるのが「奕葉光を重ねて、本枝百世なり」という日本国の歴史に関する表現です。倭国(九州王朝)と戦った高句麗の後継でもある渤海国は、701年に日本国が倭国(九州王朝)に替わって日本列島の代表者になったことを知っていたと思われますから、その天朝が日本を開基してから「百世」を経ていないことも理解しているはずです。そのため「本枝百世」という表現にしたのではないでしょうか。すなわち、倭国(本)と日本国(枝)を併せて「百世」と認識していたのではないでしょうか。
 倭国と日本国の関係を「本枝」という表現に例えたのは、多元史観・九州王朝説からすれば見事な歴史認識表記と思われるのです。そうだとすれば、倭国から日本国への王朝交代は所謂「放伐」てはなく、遠戚関係にあった権力者間による交代と、渤海国は認識していたと言えるようです。
 以上のように、728年に日本国にもたらされた渤海国からの国書は多元史観・九州王朝説に整合すると思われるのです。引き続き、国書文面の精査と、日本を開基した大王とは誰か、その時期はいつかについて研究したいと思います。

 ここまで書いたところで、新横浜駅に着きました。東京まであと少しです。


第1303話 2016/12/01

倭国と日本国の「尺」

 11月27日に福岡市で開催した「古田史学の会」主催の講演会では問題意識の高い質問が参加者から出され、講演会後の懇親会も含めて成功裏に終えることができました。ご協力いただいた久留米大学の福山先生、「九州古代史の会」の方々、「古田史学の会」会員の犬塚幹夫さん中村通敏さん、そして参加された皆様に御礼申し上げます。
 その質疑応答で、太宰府条坊地割(一辺約90m)の「尺」とその後に地割された北部(政庁・観世音寺)の「尺」の違いについての質問が出されました。井上信正さんは前者を「大尺」、後者を8世紀初頭の「小尺」とされたのですが、わたしは九州王朝(倭国)の「尺」制度の変遷について研究中でもあり、1尺は約30cm程度としか答えられませんでした。
 太宰府条坊の一辺90mという実測値から、約30cmの「尺」で300尺という整数が得られることから、七世紀初頭の九州王朝「尺」は約30cmと考えてよいかもしれませんし、あるいは36cmであれば250尺となります。この点、引き続き調査検討が必要です。
 先日、京都の染色工場の経営トップの方と懇談する機会があったのですが、そのとき正倉院宝物のカタログを見せていただきました。それには東大寺の「緑綾几帯(みどりあやのつくえのおび)」が掲載されており、それに墨で次のような長さと年代が記されていました。

「花机帯 長二丈三尺四寸 廣二寸五分 天平勝寶四年四月九日」「東大寺」

 解説には現在の実測値が「長六八二・〇 幅七・五」とあり、墨書の数値と実測値から計算すると、全長から1尺は29.145cm、幅からは30cmという数値が得られます。この計算値から、天平勝寶四年(752)時点の大和朝廷(日本国)の「尺」は1尺=29〜30cmだったことがわかります。ちなみに天平勝寶四年は東大寺の大仏開眼供養の年ですから、この帯はその儀式に用いられたものと思われます。
 この正倉院宝物カタログを見せていただいた方は草木染めの専門家で、愛子内親王が二十歳の宮廷儀式で着用される十二単(じゅうにひとえ)の天然染料を用いた染色を宮内庁から委託されているとのこと。その十二単に使用される生地は蓮糸(ハスの糸)で織られているそうで、それを天然染料(主に草木染)で復元することはかなり困難とのことでした。わたしも色素化学・染色化学のケミストの一人として、何かお手伝いできればと願っています。ちなみに、本日(12月1日)は愛子内親王15歳のお誕生日です。おめでとうございます。


第1175話 2016/04/29

日本国王子の囲碁対局の勝敗

 『旧唐書』には日本国王子の囲碁対局の勝敗については記されていませんが、『杜陽雑編』(9世紀末成立)などに次のような逸話が残されています。

「皇帝の命で対局する顧師言はプレッシャーがかかる中、三十数手目に鎮神頭という妙手を打ち、勝ちました。日本国王子は唐の役人に顧師言は唐で何番目に強いのかとたずねると、三番目とのこと。実際は一番だったのですが、これを聞いた日本国王子は小国の一番は大国の三番に勝てないのかと嘆きました。」(古賀による要約)

 この逸話が史実かどうかはわかりませんが、それほどの妙手で顧師言が勝ったのなら、『旧唐書』にそのことが記されてもいいように思いますので、後世に潤色されたものかもしれません。
 日本列島に囲碁が伝来したのがいつ頃かはわかりませんが、『隋書』「イ妥国伝」には「棋博を好む]との記事が見えますから、その頃には九州王朝では囲碁が盛んだったと思われます。   『万葉集』(巻9、1732番・1733番)にも題詞に「碁師の歌二首」が見えます。ただしこの「碁師」の解釈については諸説あり、棋士のこととする見解は定説にはなっていないようですが、わたしは字義通り棋士とするのが真っ当な理解と考えています。(つづく)


第1174話 2016/04/24

日本国王子の囲碁対局

 このところ囲碁に関するビッグニュースが続いています。井山裕太さんによる史上初の七冠達成も素晴らしい偉業ですが、わたしが驚愕したのは人工知能「アルファ碁」が世界最強の棋士といわれているイ・セドルさん(韓国)と対局して4勝1敗で圧勝したことです。
 1997年にチェスの世界チャンピオンがコンピューターに敗れましたが、より複雑な囲碁ではコンピューターが人間に勝つにはまだ30年以上はかかるだろうと言われていました。ところが、グーグルが開発した人工知能「アルファ碁」がついにプロ棋士を超えたのです。このペースで人工知能が進化すると、そう遠くない時期に、人工知能は「意志」を持つのではないかとさえ専門家から指摘されています。何となく末恐ろしい気がします。
 古代史にも囲碁に関する記事がたくさんあります。中でも興味深く思ったのが、日本国の王子が中国(唐)で碁を打ったという『旧唐書』の次の記事です。

「日本国の王子が来朝し、方物を貢じた。王子は碁を善くする。帝(宣帝)は棋待詔(囲碁をもって仕える官職)の顧師言(囲碁の名手)に命じて王子と対局させた。」『旧唐書』宣帝本紀・大中2年(848) ※古賀による意訳。

 日本国の王子が唐に来て、皇帝の命により唐の囲碁の名手、顧師言と対局したという記事です。わたしは15年ほど前に『旧唐書』全巻読破に挑戦したのですが、そのときから気になって仕方がない記事でした。というのも、唐の大中2年(848)は日本では平安時代ですが、そのときに天皇家の皇子が唐に渡ったという記録が日本側にはないのです。そこで、もしかすると九州王朝の末裔の「皇子」が唐に渡り、『旧唐書』に記録されたのではないかとも考えました。もちろん九州王朝が滅びて150年近く後のことですから、いくらなんでも「日本国王子」を名乗って唐に行くことはできないし、本物の日本国王子かどうかを唐も気がつかないはずはないと考え、それ以後は研究しませんでした。しかし不思議な記事だなあという思いは持ち続けていました。
 そんなとき、井山さんの七冠達成や人工知能「アルファ碁」の出現により、この日本国王子の記事を思い出したのです。(つづく)


第1079話 2015/10/21

『新唐書』日本国伝の新理解

 先日の「古田史学の会」関西例会で服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から『新唐書』日本伝についての研究が発表されました。そのときの討論を経て、興味深いことに気づきましたのでご紹介します。
 ご存じのように『旧唐書』(945年成立)には倭国伝(九州王朝)と日本国伝(大和朝廷)とが併記されており、多元史観・九州王朝説を直接的に証明する史料として古田史学では重視されてきました。その後に編纂された『新唐書』(1060年成立)では日本伝のみであり大和朝廷のみの記述となっていることから、大和朝廷一元史観の学界では「同じ国である倭国と日本国を別国として表記した『旧唐書』は信頼性が劣る」とされ、日本伝に統一した『新唐書』こそ正しいとして重視する姿勢をとってきました。
 しかし、今回の服部さんの研究報告に触発され、『新唐書』を改めて読んでみると、『新唐書』編者は九州王朝と大和朝廷両国の存在を認識しており、その内の日本伝のみを記述していた可能性があることがわかりました。日本伝は日本側史料や歴代中国正史を参考にしてその歴史を記述しているのですが、具体的には『後漢書』の倭(委)奴国の時代から記述し、天御中主や神武頃からは「自らいう」として日本側の情報によっており、それまでは「筑紫城」に居住し、神武のときに「天皇」を名乗り「大和州」へ移ったとしています。いわゆる「神武東征」を史実として採用しています。
 他方、その日本国の歴史には「志賀島の金印」も「邪馬壹国の卑弥呼・壹与」「倭の五王」も一切登場しません。意図的に避けていると思われるのです。歴代中国史書に登場する倭国の有名人や金印授与などの歴史的事件が見事にカットされているのです。これらを偶然とすることは考えにくく、やはりその主体が異なると『新唐書』編者は認識していたのではないでしょうか。
 そうした九州王朝の有名人や重要事件がカットされた日本伝なのですが、不思議な記述がありました。それは「目多利思比孤」です。『隋書』イ妥国伝の「阿毎多利思北孤」と関係することは一目瞭然なのですが、「目」の意味が不明でしたし、九州王朝の多利思北(比)孤がなぜ近畿天皇家の歴代の天皇と並んで記されているのかが不審とされてきました。

 「(前略)次用明、次目多利思比孤、直隋開皇末年始與中国通、次崇峻(後略)」(『新唐書』日本伝)

 「目多利思比孤」は用明(585〜587年)と崇峻(587〜592年)の間の在位とされていますが、こうした人物は『日本書紀』などには当然見えません。従って、『新唐書』編者は別の情報に基づいて上記記事を書いたと思われます。ここで注目されるのが、古田先生が指摘されたように「隋の開皇の末にはじめて中国に通ず」という記事です。『新唐書』日本伝では隋の開皇年間(581〜600年)の末に初めて日本国は中国(隋)と国交開始したと記しているのです。ですから、日本伝に「志賀島の金印」や「邪馬壹国の卑弥呼・壹与」「倭の五王」などの古くからの国交記事が全く記されていないことと整合しています。
 『隋書』イ妥国伝によれば開皇20年に多利思北孤は遣隋使を派遣しています。先の記事はこの遣隋使記事と年代が一致しています。しかし『隋書』によれば倭国(イ妥国)は古くから中国と交流していることが記されていますから、『新唐書』の編者は日本伝の日本国と『隋書』のイ妥国(倭国)は別国と認識していたと考えざるを得ないのです。
 それではこの「目多利思比孤」とは何者でしょうか。古田先生によれば「目」は代理を意味する「目代」(代理人)などと同類の「称号」ではないかとされ、おそらく多利思北孤が派遣した遣隋使に同行した近畿天皇家の使者を「目・多利思比孤」、すなわち多利思北(比)孤の代理人(目)として『新唐書』に記したのではないでしょうか。
 歴史事実がどのようなものであったか、その詳細はまだわかりませんが、『新唐書』編者の認識は、九州王朝の天子・多利思北孤の「目(代理)」として「目多利思比孤」という人物を近畿天皇家(日本国)の代表者として用明と崇峻の間に記録したと考えざるを得ません。
 以上のように、『新唐書』日本伝は多元史観・九州王朝説に立って読んだとき、初めてその成立過程が理解可能となります。近畿天皇家一元史観では「隋の開皇の末にはじめて中国に通ず」という一文を全く説明できないのです。

掲載 歴史ビッグバン 古田武彦
(『新・古代学』第3集 1998年 新泉社)


第899話 2015/03/15

『旧唐書』の「別種」表記

 「洛中洛外日記」898話で東野治之さんの『史料学探訪』所収「日本国号の研究動向と課題」で紹介されていた、「日本国は倭国の別種」は「日本国は倭国の別稱」を誤写・誤伝されたとする太田晶次郎さんの説について、引き続き論じたいと思います。
 結論から言いますと、『旧唐書』の夷蛮伝の記述様式にとって、「別種」という用語は頻繁に使用されており、ある国が別の大国や旧国の「別種」であることを指し示す、いわばその国の歴史的背景を記すさいの常套句なのです。従って、本来「別稱」とあった記事をうっかり「別種」と誤写誤伝するというレベルの用語ではなく、それぞれの国の歴史的背景や変遷を記述するにあたり、意識的に選ばれて使用された用語なのです。
 この「別種」表記は『旧唐書』夷蛮伝では、日本伝と同様に、その国の伝の冒頭に記されており、一目瞭然と言えるほど頻出する用語なのです。たとえば日本伝以外にも次のような例が見えます。

(百済伝)「百済国は本また扶余の別種」
(高麗伝)「高麗は出自は扶余の別種なり」
(鉄勒伝)「鉄勒、もと匈奴の別種」
(東女国)「東女国、西羌の別種」
(南詔蛮伝)「南詔蛮はもと烏蛮の別種なり」
(突騎施烏質勒伝)「突騎施烏質勒伝は西突厥の別種なり」
(蘇祿伝)「蘇祿は突騎施の別種なり」

 上記の他にも『旧唐書』夷蛮伝には「別種」表記が少なからずありますが、このようにその国の出自を記載するさいに「別種」という表記方法が頻繁に用いられており、『旧唐書』編纂者が原史料に「別稱」とあったのを、うっかり「別種」に誤写誤伝したなどとする方法は学問的ではありません。近畿天皇家一元史観に不都合な史料事実を、「古代の中国人が間違えたのだろう」などとして、自説にあうように「改訂」したり、「理解(意図的曲解)」するという手法は、日本古代史学の「学問の方法」における病理的現象と言わざるを得ないのです。


第898話 2015/03/14

日本国は倭国の別種

 東野治之さんの近著『史料学探訪』を拝読しています。東野さんは直木孝次郎さんのお弟子さんで、文献史学、なかでも古代文字史料研究者の第一人者といってもよい優れた研究者です。今年の2月に岩波書店から発刊された同書も、古代史料に対する博識と鋭い考察による小論が満載で、とても勉強になります。古田学派の研究者の皆さんにもご一読をお勧めします。
 同書の中で最も関心を持って読んだのが、冒頭の「日本国号の研究動向と課題」という論稿で、『旧唐書』の倭国伝・日本国伝に記された「日本国は倭国の別種」は「日本国は倭国の別稱」を誤写・誤伝されたものとする太田晶次郎さんの説を支持されています。
 この『旧唐書』の記事は九州王朝説の根拠の一つであり、近畿天皇家一元史観論者にとっては最も「不都合な真実」なのです。従って、何とかこの『旧唐書』の記事を否定したいという「動機」はわからないわけではありません。それにしても「別稱」から「別種」へ誤写・誤伝されたという理解(原文改訂)は、『三国志』倭人伝の邪馬壹国から「邪馬臺国(邪馬台国)」への原文改訂を彷彿とさせる所為です。近畿天皇家一元史観に都合の悪い史料は平気で「原文改訂」するという、日本古代史学界の宿痾を見る思いです。
 実は『旧唐書』での「不都合な真実」は「日本国は倭国の別種」記事だけではありません。たとえば倭国と日本国の地勢記事についても次のように明確に別国であると書き分けています。

(倭国伝)「山島に居す」「四面に小島が五十余国」
(日本国伝)「其の国界は東西南北各数千里。西界と南界は大海に至る。東界と北界は大山があり限りとなす。山の外は即ち毛人の国なり。」

 このように、倭国は島国であり九州島を示し、日本国は近畿地方を示しています。更に両国の人名も異なっています。

(倭国伝)「其の王、姓は阿毎」
(日本国伝)「其の大臣朝臣真人」「朝臣仲満」「留学生橘逸勢」「学問僧空海」「高階真人」

 倭国王の姓を阿毎(あめ)と記しており、『隋書』に見える天子、阿毎多利思北孤と一致しますが、近畿天皇家に阿毎というような姓はありません。他方、日本国伝には仲満(阿部仲麻呂)や空海のように著名な人物名が見え、近畿天皇家側の人物であることが明白です。
 そもそも倭国伝冒頭に「倭国は古の倭奴国なり」とあり、この「倭奴国」は「志賀島の金印」をもらった博多湾岸の「委奴国」のこととしています。すなわち、倭国は近畿の王権ではなく、北部九州の王朝であることを『旧唐書』は冒頭から主張しているのです。
 こうした『旧唐書』の史料事実(一元史観に不都合な真実)を東野さんは今回の論稿では一切触れておられません。東野さんほどの優れた研究者でも一元史観の宿痾から逃れられないのです。残念と言うほかありません。


第831話 2014/12/06

来年は高野山開創1200年

 来年は高野山開創1200年を迎えます。高野山は空海が開基した金剛峯寺をはじめ多くの寺院や旧跡があり、世界遺産とされています。わたしはまだ行ったことがありませんが、いつかは訪れたいものです。
 空海は『旧唐書』日本国伝にもその名が記された高名な僧侶ですが、わたしは空海について論文を一つだけ書いたことがあります。『市民の古代』13集(1991年、新泉社)に掲載された「空海は九州王朝を知っていた 多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ」という論文で、35歳の頃に書いたものです。全文が本HPに掲載されていますので、ご一読いただければ幸いです。
 「洛中洛外日記」323話でも触れましたが、空海の遺言に記された空海の唐からの帰国年(大同2年・807)の一年のずれの原因を解明し、その結果、空海が九州王朝の存在を知っていたとする結論に到達したものです。若い頃の未熟な論文ですが、論証や結論は今でも妥当なものと思っています。発表当時、仏教大学の講師の方から、同論文を講義に使用したいとの申し入れがあり、光栄なことと了解した思い出があります。
 同論文執筆に当たり、膨大な空海全集などを京都府立総合資料館で何日もかけて読破したことを今でも懐かしく思い出します。あの難解で膨大な空海の文章を読み通す気力も体力も今のわたしにはありませんが、そのときの体験が古代史研究に役立っています。若い頃の訓練や試練が今のわたしを支えてくれています。 そんなわたしも、来年は還暦を迎えます。できることなら、もう一つぐらい空海に関する論文を書いてみたいものです。