大和朝廷(日本国)一覧

第2649話 2021/12/27

『旧唐書』と『新唐書』の共通認識

 先週、多元的古代研究会の研究発表会にリモート参加させていただきました。そのとき、参加者から次のような質問がありました。

 「九州王朝説の史料根拠として『旧唐書』を一元史観の人に示しても、『旧唐書』は誤りが多い史料で信頼できないと反論される。どのように説明すればよいだろうか。」

 そこで、わたしは次のように答えました。

 「『旧唐書』には倭国伝と日本国伝が別国として併記されており、一元史観にとってもっとも都合が悪い史料です。そのため、信頼できないと無視するしかないのです。古田先生は〝唐が白村江戦を戦った相手が一国なのか二国なのかを間違うはずはない〟と言っておられました。」

 一元史観の通説論者は、『旧唐書』(945年成立)では倭国と日本国を別国としているのは倭国から日本国への国名変更を別の国のことと間違って伝えたもので、『新唐書』(1060年成立)では正しく日本国一国に修正されていると説明します。しかし、『新唐書』をよく読めば一元史観では説明できないことがわかります。
 『旧唐書』では倭国伝と日本国伝が併記されており、日本国伝には冒頭に「日本国は倭国の別種なり」とあり(注①)、誰が読んでも倭国と日本国が別国として認識されていることがわかります。それに比べると、『新唐書』には日本国伝だけで倭国伝はありませんが、次の記事が見えます。

 「或いは云う、日本は乃(すなわ)ち小国、倭の併わす所と為る。」

 『旧唐書』日本国伝では、

 「或いは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併わす。」

 とあり、併合した国と併合された国が『新唐書』とは逆です。この理由については中小路駿逸先生の考察があり(注②)、そこで指摘されたのが、『新唐書』日本国伝にも、倭国と日本国が併合した国と併合された国として別国表記されているということです。この史料事実も一元史観には不都合な事実ではないでしょうか。
 なお、『新唐書』日本国伝には「隋の開皇の末にはじめて中国に通ず」という記事もあり、これらも多元史観・九州王朝説でなければ説明できないことを「洛中洛外日記」(注③)にて論じたことがありますので、ご参照下さい。

(注)
①日本国伝の「別種」を「別偁」の誤記誤伝とする説があるが、その説が成立しないことを次の拙稿で論じた。
 古賀達也「洛中洛外日記」898話(2015/03/14)〝日本国は倭国の別種〟
 古賀達也「洛中洛外日記」899話(2015/03/15)2〝『旧唐書』の「別種」表記〟
②中小路駿逸「旧・新唐書の倭国・日本国像」『市民の古代』9集、新泉社、1987年。
③古賀達也「洛中洛外日記」1079話(2015/10/21)〝『新唐書』日本国伝の新理解〟


第2613話 2021/11/12

鬼ノ城、廃絶時期の真実

 造営尺に前期難波宮と同じ1尺29.2cmが採用されている鬼ノ城の礎石建物群(7棟を検出)ですが、その縮小・廃絶時期にも興味深い現象がありました。『史跡鬼城山2』(注①)によれば、鬼ノ城礎石建物群の造営から廃絶までを次のように説明しています。

〝出土した土器の様相から礎石建物群が機能していた時期の中心は8世紀前半と考えられるが、今回の調査で柱痕跡から柱間を計測した建物6や建物7は、造営尺が29.2~29.5㎝付近と古い傾向を示しており、礎石建物群の建設は7世紀後半代にさかのぼる可能性も十分ある。〟144頁
〝建物群は7世紀末の飛鳥時代に整備され、8世紀前半を中心に機能し、8世紀後半まで存続していたと考えられる。〟145頁

 土器編年では7世紀末から8世紀前半が中心とされた礎石建物群ですが、造営尺(29.2~29.5㎝付近)は前期難波宮造営尺と近似していることから、7世紀後半代の可能性が十分にあるとの指摘です。すなわち、飛鳥編年を基準とした既存土器編年が、鬼ノ城では25年(四半世紀)ほどずれている可能性を示唆しています。この傾向は太宰府や鞠智城出土須恵器(杯G、杯B)でもうかがえました(注②)。
 『史跡鬼城山2』に掲載された鬼ノ城の活動時期を示す「第185図 鬼城山城内各地区の消長」(注③)によれば、鬼ノ城内はⅠ~Ⅴの5地区に分けられ、礎石建物群はⅡ区にあります。このⅡ区以外は「8世紀初頭」に一斉に活動を停止しており、Ⅱ区の礎石建物群も同時期に活動の痕跡が激減し、9世紀になると再び〝備蓄倉庫〟としての再利用が始まるとされています。実年代と土器編年にぶれ(土器編年では25年ほど新しく編年される)があることを考慮すると、7世紀中葉頃から同末期まで活発な活動を示していた鬼ノ城がその直後に廃絶、あるいは縮小していることになり、これは九州王朝から大和朝廷への王朝交替が背景にあったと考えられます。すなわち、王朝交替した701年(大宝元年)のONラインの時期に鬼ノ城の廃絶・縮小が起こっているのです。
 他方、『史跡鬼城山2』では通説(大和朝廷一元史観)に基づき、次のように説明しています。

〝Ⅰ区では片付けによる土器の廃棄行為により土器溜まり1が形成されたと考えられている。以後、Ⅰ区では顕著な遺構が見られなくなることから、この時期に鬼城山の運営に何らかの変化を読み取ることができる。この土器の廃棄時期は8世紀初頭ごろと考えられ、これに関して想起されることは、この時期の文献記事に古代山城の廃城記事が見られることである(701年高安城廃城、719年茨城・常城廃城)。鬼城山もこのような古代山城をめぐる情勢と無関係ではなかったと考えられ、Ⅰ区の廃絶は、まさにそのような時代の情勢を反映している可能性が高い。
 その後、鬼城山は礎石建物群を中心に機能したと考えるが、その役割は、山城としての軍事施設から、倉庫としての備蓄施設へと変化したものと推測される。礎石建物群は8世紀後半ごろまで存続したものと思われるが、礎石建物群の廃絶をもって、築城以来続いてきた鬼城山の役割はここで終焉を迎えたものと考えられる。〟175頁

 ここにいう「古代山城をめぐる情勢」とは具体的に何なのか、「701年高安城廃城、719年茨城・常城廃城」がなぜこの時期に発生したのかについては説明されていません。しかし、考古学報告書にこの説明を求めるのは〝酷〟というもので、文献史料の説明責任は文献史学側にあります。そして、この事象を最も合理的に説明できる仮説が、古田説(多元史観・九州王朝説)に基づいた九州王朝から大和朝廷への王朝交替であることはわたしたち古田学派にとっては自明のことです。
 以上のように、古代山城研究においても多元史観・九州王朝説の視点は不可欠であると思われます。

(注)
①『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書236 史跡鬼城山2』岡山県教育委員会、2013年。
②古賀達也「鞠智城と神籠石山城の考察」『古田史学会報』129号、2015年8月。
③「第185図 鬼城山城内各地区の消長」、①の174頁。

史跡 鬼城山2 2013 岡山縣教育委員会

史跡 鬼城山2 2013 岡山縣教育委員会

第185図鬼城山各地区の消長 第186図鬼城山における時期別変遷

『史跡鬼城山2』P174
鬼城山における時期別変遷、各地区の消長


第2612話 2021/11/11

鬼ノ城礎石建物造営尺の不思議

 向井一雄さんの著書『よみがえる古代山城』(注①)に、鬼ノ城の礎石建物の造営尺を1尺29.2cmとする記事があることを「洛中洛外日記」などで紹介しました(注②)。そこで、同遺跡発掘調査報告書を探したところ、『史跡鬼城山2』(注③)に詳述されており、鬼ノ城の建造物には複数の造営尺が使用されているようです。
 鬼ノ城内からは古代の礎石建物跡が7棟発見されています。何れも計画的に配置されており、同時期の造営と見られ、報告書では次のように説明されています。

〝鬼城山で検出した礎石建物群は、総柱建物の高床倉庫と側柱建物の管理棟で構成されていた。建物群は7世紀末の飛鳥時代に整備され、8世紀前半を中心に機能し、8世紀後半まで存続していたと考えられる。建物の規模はいずれも大きく、規格性や配置に計画性が認められるほか、高床倉庫と考えられる総柱建物は、郡衙正倉に共通した特徴があり、単に軍事施設の倉庫としてだけではなく、備蓄施設としての役割も担っていたと考えられる。〟145頁

 「規格性や配置に計画性が認められる」とあるように、礎石建物1~7の使用された基準尺は次の通りです。

 建物名 桁基準尺 梁基準尺 面積  機能(推定)
 建物1 31.0㎝ 32.2㎝ 43㎡  高床倉庫
 建物2 29.2㎝ 29.2㎝ 27.5㎡ 高床倉庫
 建物3 29.6㎝ 29.0㎝  44㎡  高床倉庫
 建物4 31.8㎝ 31.4㎝ 51㎡  高床倉庫
 建物5 29.3㎝ 29.5㎝ 114㎡  管理棟
 建物6 29.2㎝ 29.2㎝ 112㎡  管理棟
 建物7 29.5㎝ 29.2㎝ 38㎡  高床倉庫
  ※「表3 城内礎石建物一覧」(143頁)より抜粋。

 この基準尺について、次のような説明がなされています。

〝建物の上屋部分の構造について検討する材料として、建物6で2か所、建物7で2か所の礎石確認柱痕跡がある。総柱建物、側柱建物の両方で丸柱を利用しており、直径は45~50㎝程度と大きなものである。建物造営時の基準尺については、表3に示した。数値にばらつきがあるが、今回の調査で全容が判明した建物で、なおかつ柱痕跡から柱間寸法を計測できる建物については、29.2~29.5㎝の範囲でそろっている。〟143頁

 このように前期難波宮の基準尺29.2㎝と近似の尺で造営されていることは、鬼ノ城の築城年代や築城勢力を推定するうえで重要です。他方、31㎝以上の基準尺が併用されている可能性もあり、そうであれば、前期難波宮でも宮と条坊で異なった基準尺が採用されていることとの類似も注目すべきと思われます。前期難波宮の場合、宮(1尺29.2㎝)と条坊(1尺29.49㎝)が異なる尺により同時期に造営されており(注④)、この点も鬼ノ城礎石建物と同様の現象といえそうです。同じ遺構の造営に、異なる基準尺が併用されているという現象は、異なる基準尺を採用する複数の技術者集団により、その遺構が造営されたと考えざるを得ませんが、それにしても不思議な現象ではないでしょうか。
 なお、鬼ノ城礎石建物の造営尺に前期難波宮と同じ29.2㎝が採用されていることは、築城時期についても7世紀中葉の可能性を示唆するものと注目しています。調査報告書にも次のような指摘があり、このことも注目されます。

〝出土した土器の様相から礎石建物群が機能していた時期の中心は8世紀前半と考えられるが、今回の調査で柱痕跡から柱間を計測した建物6や建物7は、造営尺が29.2~29.5㎝付近と古い傾向を示しており、礎石建物群の建設は7世紀後半代にさかのぼる可能性も十分ある。〟144頁

(注)
①向井一雄『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』吉川弘文館、2017年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2589話(2021/10/11)〝鬼ノ城と前期難波宮の使用尺が合致〟
 古賀達也「古代山城研究の最前線 ―前期難波宮と鬼ノ城の設計尺―」(未発表)
③『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書236 史跡鬼城山2』岡山県教育委員会、2013年。
④古賀達也「都城造営尺の論理と編年 ―二つの難波京造営尺―」『古田史学会報』158号、2020年6月。


第2607話 2021/11/02

大化改新詔「畿内の四至」の諸説(3)

 『日本書紀』大化二年正月条(646年)の大化改新詔には、畿内の四至を次のように記しています。

 「凡そ畿内は、東は名墾の横河より以来、南は紀伊の兄山(せのやま)より以来、〔兄、此をば制と云ふ〕、西は赤石の櫛淵より以来、北は近江の狭狭波の合坂山より以来を、畿内国とす。」『日本書紀』大化二年条(646年)

 各四至は次のように考えられています。。

(東)名墾の横河 「伊賀名張郡の名張川。」
(南)紀伊の兄山 「紀伊国紀川中流域北岸、和歌山県伊都郡かつらぎ町に背山、対岸に妹山がある。」
(西)赤石の櫛淵 「播磨国赤石郡。」
(北)近江の狭狭波の合坂山 「逢坂山。狭狭波は楽浪とも書く。今の大津市内。」

 最近、この畿内の四至をテーマとした興味深い論文を拝読しました。佐々木高弘さんの「『畿内の四至』と各都城ネットワークから見た古代の領域認知 ―点から線(面)への表示―」(注①)です。同論文は1986年に発表されており、わたしは不勉強のため近年までその存在を知りませんでした。佐々木さんは歴史地理学という分野の研究者のようで、同論文は次の文から始まります。

〝歴史地理学の仕事の一つは、過去の地理を復原することであり、つまりは人間の過去の地理的行動を理解するということにある。〟(注②)21頁

 このような定義に始まり、続いて同論文の学問的性格を次のように紹介します。

〝本稿では、そのいわば学際的立場をとっている歴史地理学の利点を更に拡張する意図もあって、行動科学の成果の導入を試みる。〟21頁

 そして大化改新詔の畿内の四至を論じます。その中で、当時の都(難波京)から四至の南「紀伊の兄山」についての次の指摘が注目されました。その要旨を摘出します。

(1) 難波京ネットワーク(官道)から南の紀伊国へ向かう場合、孝子峠・雄ノ山峠越えが最短距離である。このコースから兄山は東に外れている。
(2) このことから考えられるのは、この時代に直接南下するルートが開発されていなかったか、この記事が大化二年(646年)のものではなかったということになる。
(3) 少なくとも、難波京を中心とした領域認知ではなかった。
(4) 従って、この「畿内の四至」認識は飛鳥・藤原京時代のものである。
(5) 飛鳥・藤原京ネットワークは大化改新を挟んで前後二回あり、大化前代の飛鳥地方を中心(都)とした領域認知の可能性が大きい。

 以上が佐々木論文の概要と結論です。確かに兄山は飛鳥から紀伊国に向かう途中に位置し、もし難波からですと大きく飛鳥へ迂回してから紀伊国に向かうことになり、難波京の「畿内の四至」を示す場合は適切な位置にはありません。
 佐々木論文は通説(近畿天皇家一元史観)に基づいたものですから、その全てに納得はできませんが、都の位置により四至の位置は異なるという次の視点には、なるほどそのような見解もあるのかと勉強になりました。

〝日本の古代国家においては、都城の変遷が激しく、そのたびにこのネットワークが変化し、そして領域の表示も変化したのではないかと思われる。〟24頁

 この他にも佐々木論文には重要な指摘がありました。(つづく)

(注)
①佐々木高弘「『畿内の四至』と各都城ネットワークから見た古代の領域認知 ―点から線(面)への表示―」『待兼山論叢』日本学篇20、1986年。同論文はWEB上で閲覧できる。
②この視点はフィロロギーに属するものであり、興味深い。


第2586話 2021/10/02

『古事記』の中の「悪人」

 今朝は、久留米大学公開講座(注①)での講演のため、博多に向かう新幹線のぞみの車中でこの「洛中洛外日記」を書いています。

 昨日、四半世紀ぶりに読んだ河田光夫氏の『親鸞と被差別民衆』(注②)に面白いことが紹介されていました。氏は『歎異抄』に見える「悪人」という用語の意味を実証的に調査され、親鸞の時代の「悪人」とは主に被差別民のこととする説を発表されたのですが、同書の「史料」(98頁、113頁)によれば、『古事記』に「悪人」という用語が使われており、それは「蝦夷」を指しているとのこと。そこで、新幹線車中で『古事記』を調べてみると、景行記の倭健命の言葉として次の「悪人」記事がありました。

〝「天皇既に吾死ねと思ほす所以か、何しかも西の方の悪しき人等を撃ちに遣はして、返り参上り来し間、未だ幾時も経(あ)らねば、軍衆を賜はずて、今更に東の方十二道の悪しき人等を平(ことむ)けに遣はすらむ。これによりて思惟(おも)へば、なほ吾既に死ねと思ほしめすなり。」とまをしたまひて、患(うれ)ひ泣きて罷ります時に、倭比賣命、草薙剣を賜ひ、また御嚢を賜ひて、「もし急の事あらば、この嚢口を解きたまへ。」と詔りたまひき。〟『古事記』ワイド版岩波文庫、1991年。121~122頁

 この後に「荒ぶる蝦夷等を言(こと)向け」とありますから、確かに『古事記』では蝦夷を「悪しき人」(原文は「悪人」)としていますが、蝦夷の他にも「東の国に幸(い)でまして、悉に山河の荒ぶる神、また伏(まつろ)はぬ人等を言向け和平(やは)したまひき。」とあり、東国の「伏はぬ人」も「悪人」に含まれると見るべきでしょう。更には、冒頭の倭建命の言葉に「西の方の悪しき人」とあるように、「天皇」に「伏はぬ人」は「悪人」と表現されていると思われます。
 以上の史料状況と考察から、少なくとも『古事記』編纂頃の大和朝廷では、自らに従わない抵抗勢力、恐らくは九州王朝の徹底交戦派も「悪人」と呼んでいたのではないでしょうか。従って、古代に於ける「悪人」は主には政治的敵対勢力を指していたと考えてよいようです。河田氏による『歎異抄』などの研究によれば、被差別民が「悪人」と呼ばれていたとのことですから、古代の「悪人」と近現代に至るいわゆる被差別部落と古墳の分布が相似する傾向は(注③)、両者に何らかの関係があることを示しているのかも知れません。

(注)
①久留米大学御井校舎での公開講座(10月3日午後)。テーマは「古代戸籍に記された超・長寿の謎 ―古今東西の超高齢者―」。「洛中洛外日記」2551話(2021/08/28)〝10月3日、久留米大学公開講座のレジュメ〟を参照されたい。
②河田光夫氏『親鸞と被差別民衆』明石書店、1994年。
③古田武彦『真実に悔いなし』ミネルヴァ書房、平成二五年(2013)。134頁「被差別部落と古墳分布の相似」。


第2566話 2021/09/13

古田先生との「大化改新」研究の思い出(9)

古田先生は「大化改新」共同研究会を立ち上げられると、坂本太郎さんと井上光貞さんの郡評論争をはじめ大化改新関連重要論文を次から次へと配られ、参加者に同研究史を勉強するよう求められました。学界での研究・論争の大枠を把握しておくことが不可欠な分野だったからです。そこで、本シリーズでも「大化の改新」についての研究史が比較的わかりやすくまとめられている『ウィキペディア(Wikipedia)』の関係部分を転載し、要点を解説します。

【「大化の改新」研究史】
(前略)そんな中、坂本太郎は1938年(昭和13年)に「大化改新の研究」を発表した。ここで坂本は改新を、律令制を基本とした中央集権的な古代日本国家の起源とする見解を打ち出し、改新の史的重要性を明らかにした。これ以降、改新が日本史の重要な画期であるとの認識が定着していった。
しかし戦後、1950年代になると改新は史実性を疑われるようになり、坂本と井上光貞との間で行われた「郡評論争」により、『日本書紀』の改新詔記述に後世の潤色が加えられていることは確実視されるようになった。さらに原秀三郎は大化期の改革自体を日本書紀の編纂者による虚構とする研究を発表し「改新否定論」も台頭した。
「改新否定論」が学会の大勢を占めていた1977年(昭和52年)、鎌田元一は論文「評の成立と国造」で改新を肯定する見解を表明し、その後の「新肯定論」が学会の主流となる端緒を開いた。1999年(平成11年)には難波長柄豊碕宮の実在を確実にした難波宮跡での「戊申年(大化4年・648年)」銘木簡の発見や、2002年(平成14年)の奈良県・飛鳥石神遺跡で発見された、庚午年籍編纂以前の評制の存在を裏付ける「乙丑年(天智4年・665年)」銘の「三野国ム下評大山五十戸」と記された木簡など、考古学の成果も「新肯定論」を補強した。
21世紀になると、改新詔を批判的に捉えながらも、大化・白雉期の政治的な変革を認める「新肯定論」が主流となっている。
【転載おわり】

以上のように、「大化改新」は坂本太郎さんの研究により重視されますが、戦後、お弟子さんの井上光貞さんとの郡評論争(注①)などを経て、『日本書紀』編纂時の潤色が明らかとなり、「改新否定論」が優勢となります。その流れを大きく変えたのが前期難波宮の出土でした(注②)。このことが決定的証拠となり、「新肯定論」が大勢を占め、今日に至っています。
単純化すれば、七世紀半ばの改新詔などが『日本書紀』編纂時に令制用語で潤色されたが、本来の詔勅「原詔」は存在したとする説が最有力説となっており、その範囲内で諸説が出されています。たとえば潤色に使用された「令」を近江令・浄御原令・大宝律令のいずれとするのかという問題や、改新詔が発せられた都は難波なのか飛鳥なのかなどです。
このような諸説や視点は、通説のみならず九州王朝説・多元史観でも同様に生じます。古田先生が共同研究会のメンバーに通説を勉強することを求められていた理由もここにあったのです。(つづく)

(注)
①坂本太郎「大化改新詔の信憑性の問題について」『歴史地理』83-1、昭和27年(1952)2月。
井上光貞「再び大化改新詔の信憑性について ―坂本太郎博士に捧ぐ―」『歴史地理』83-2、昭和27年(1952)7月。
井上光貞「大化改新の詔の研究」『井上光貞著作集 第一巻』岩波書店、1985年。初出は『史学雑誌』73-1,2、昭和39年(1964)。
②中尾芳治『考古学ライブラリー46 難波京』(ニュー・サイエンス社、1986年)には、「孝徳朝に前期難波宮のように大規模で整然とした内裏・朝堂院をもった宮室が存在したとすると、それは大化改新の歴史評価にもかかわる重要な問題である。」「孝徳朝における新しい中国的な宮室は異質のものとして敬遠されたために豊碕宮以降しばらく中絶した後、ようやく天武朝の難波宮、藤原宮において日本の宮室、都城として採用され、定着したものと考えられる。この解釈の上に立てば、前期難波宮、すなわち長柄豊碕宮そのものが前後に隔絶した宮室となり、歴史上の大化改新の評価そのものに影響を及ぼすことになる。」(93頁)との指摘がある。


第2565話 2021/09/12

「多元的古代研究会」月例会にリモート初参加

 昨日に続いて、本日は「多元的古代研究会」月例会にリモートで参加させていただきました。今回の月例会はコロナ禍のため、リモート参加のみにしたとのことでした。どの研究会も苦労されているようで、スカイプやズームのシステムなどについて、同会事務局長の和田昌美さんと情報交換もさせていただきました。
 今回は「天子の系列・後編~利歌彌多弗利から伊勢王へ」という演題で、七世紀中頃に活躍した九州王朝の天子「伊勢王」の事績について正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が研究発表されました。『日本書紀』に見える「伊勢王」は九州王朝(倭国)の天子、即位は常色元年(647年)で白雉九年(660年)まで在位したとされ、評制の施行や律令制定など数々の痕跡が『日本書紀』に遺されていることを論証されました。これらは、七世紀前半から後半にかけての九州王朝史復原の先端研究です。

「佐賀なる吉野」へ行幸した九州王朝の天子とは誰か (上) (中) (下) に改題されています。

 質疑応答タイムでは、わたしから二つの質問をさせていただきました。

(1)『日本書紀』天武十年条(注①)や持統三年条(注②)に見える律令関連記事を通説では「浄御原令」のこととするが、それを34年遡って九州王朝律令とする正木説では、九州王朝複都の前期「難波宮」時代のことになり、「飛鳥(大和であれ筑紫であれ)」の「浄御原宮」での制定を前提とした「浄御原」令という名称は不自然ではないか(「難波律令」なら妥当)。

(2)大化二年(646年)の改新詔など大化期の一連の詔について、どのように位置づけるのか。

 正木さんからの回答(概略)は次のようなものでした。

(1)『日本書紀』では天武・持統による律令制定という建前にしているので、その制定場所も飛鳥浄御原宮ということになる。そのため、九州王朝が常色・白雉年間にかけて策定・公布した九州王朝律令を近畿天皇家が「浄御原令」(『続日本紀』大宝元年八月条。注③)と後に〝命名(改名)〟した可能性もあり、名称にこだわる必要はないと思われる。

(2)九州王朝(倭国)が常色年間(647~651年)に発した律令や詔勅と近畿天皇家(日本国)が王朝交代時(九州年号の大化年間、695~700年)に発した詔勅が、『日本書紀』の大化年間(645~649年)に配置されており、どちらの詔勅かは個別に検証しなければならない。

 以上のような回答でしたが、(1)の見解は初めて聞くもので、〝なるほど、そのような可能性(視点)もあるのか〟と勉強になりました。(2)については、「古田史学の会」関西例会で散々論議したテーマでもあり、わたしも同意見です。なお、リモート例会終了後に正木さんと電話で論議・意見交換を続けました。
 このように、有意義でとても楽しいリモート例会でした。これからも時間の都合がつく限り、参加したいと思います。

(注)
①「詔して曰く、『朕、今より更(また)律令を定め、法式を改めむと欲(おも)う。故、倶(とも)に是の事を修めよ。然も頓(にわか)に是のみを就(な)さば、公事闕くこと有らむ。人を分けて行うべし』とのたまう。」『日本書紀』天武十年(682)二月条
②「庚戌(29日)に、諸司に令一部二十二巻班(わか)ち賜う。」『日本書紀』持統三年(689)六月条
③「癸卯、三品刑部親王、正三位藤原朝臣不比等、従四位下下毛野朝臣古麻呂、従五位下伊吉連博徳、伊余部連馬養等をして律令を選びしむること、是を以て始めて成る。大略、浄御原朝庭を以て准正となす。」『続日本紀』大宝元年(701)八月条
 この記事の「大略、浄御原朝庭を以て准正となす」を史料根拠として「浄御原令」が持統により制定されたとするのが一般的な通説ですが、「古田史学の会」内でも諸説が発表されています。


第2533話 2021/08/10

王朝交替前夜の飛鳥と筑紫

 太宰府関連遺跡の土器編年を研究するため、発掘調査報告書と研究論文を連日読みあさっています。そうするといろいろと面白い問題や発見に遭遇します。その一つを紹介します。
 「古田史学の会」関西例会では、七世紀末の九州王朝から大和朝廷への王朝交替がどのように起こったのかについて諸説発表と論争が続いています。それぞれの説に根拠や説得力があり、今のところ決着はついていません。論議が深まり、諸説の淘汰・発展が進み、いずれは最有力説へと収斂することでしょう。わたしも史料根拠に立脚した議論検討のための一助として、飛鳥・藤原出土評制木簡や「天皇」銘金石文の紹介など、「飛鳥」地域に焦点を絞って発表してきました。王朝交替の表舞台が飛鳥の地(おそらく藤原京)であったと考えるからです。
 そこで今回は、逆に王朝交替により歴史の表舞台から退場することになる筑紫(太宰府関連遺跡)に焦点を当て、検討すべき問題について指摘します。それは『続日本紀』文武紀に見える次の記事です。

 「大宰府に命じて、大野・基肄・鞠智の三城を繕治させた。」『続日本紀』文武二年(698年)五月条

 文武二年(698年)は701年(大宝元年、九州年号・大化七年)の王朝交替の直前ですから、古田説では九州王朝の時代、その最末期です。ですから、大宰府に三城の繕治を命じたのは九州王朝の最後の天子ということになるのかもしれません。この王朝末期の権力実態について、古田学派内でも30年以上前から仮説が発表されていました(注①)。近年でも、文武天皇は九州王朝からの禅譲を受け、実質的には藤原宮に君臨した近畿天皇家(文武・持統ら)が第一権力者だったとする見解が発表されています。たとえば、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は、持統紀に見える「禁中定策」を多元史観(九州王朝説)で考察された「多元史観と『不改の常典』」(注②)で次のように論じられました。

〝文武即位の六九七年は九州年号大化三年で、まだ「評」の時代、仮に実力はヤマトの天皇家が遥かに上にあったとしても、形式上の我が国の代表者は倭国(九州王朝)の天子で、持統は臣下の№1という位取りだ。これは天武の和風諡号「天渟中原瀛真人天皇」の「真人」が臣下のトップを意味することからも分かる。そうした位取りの中での持統の「定策」とは、臣下№1の天皇家持統の主導で、朝廷内の重臣の総意により、「倭国(九州王朝)の天子の系統」に代えて文武を即位させた、つまり「王朝・王統を交代させた」ことを意味するだろう。〟

 わたしも、文武天皇の即位の宣命に焦点を当てた拙稿「洛中洛外日記」1980話(2019/09/02)〝大化改新詔はなぜ大化二年なのか(2)〟(注③)を発表しました。

〝『続日本紀』の文武天皇の即位の宣命には、「禅譲」を受けた旨が記されていますが、この「禅譲」とは祖母の持統天皇からの天皇位の「禅譲」を意味するにとどまらず、より本質的にはその前年の「大化二年の改新詔」を背景とした九州王朝からの国家権力の「禅譲」をも意味していたのではないでしょうか。少なくとも、まだ九州王朝の天子が健在である当時の藤原宮の官僚や各地の豪族たちはそのように受け止めたことを、九州王朝説に立つわたしは疑えないのです。〟

 他方、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)は、王朝交替(701年)以前の藤原宮には九州王朝の天子がいたとする仮説を口頭発表されており、「古田史学の会」関西例会の論者からは有力説と受けとめられつつあるようです(同説の詳細を論文発表するよう西村さんに要請しています)。
 なお、通説の立場からも、大野城などの「三城の繕治」以前と以後とでは、列島の南北の勢力(蝦夷・隼人)に対する大和朝廷の姿勢が、より強権的で武力行使も辞さないという姿勢に大きく変化しているとする小澤佳憲さん(九州国立博物館)の研究(注④)があり、注目されます。おそらく、南九州に逃げた九州王朝の徹底抗戦派に対する、大和朝廷による戦争準備として、大野城などの繕治命令が大宰府に出されたのではないかと、わたしは考ています。

(注)
①わたしの記憶するところでは、次の中小路駿逸氏の発表が嚆矢と思われる。氏は、『続日本紀』文武紀の「即位の宣命」を、「これはそれまで九州系の一分王権に過ぎなかった大和の王権が、文武天皇にいたってはじめて、九州から東国までを支配し、九州王朝の『格』をひきつぎ、それと同質となったことの宣言でなくて何でしょう。」と指摘された。
 中小路駿逸「古田史学と日本文学(講演録)」『市民の古代』第10集、新泉社、1988年。
②正木裕「多元史観と『不改の常典』」『古田史学会報』144号、2018年2月。
③後に、「大化改新詔と王朝交替」(『東京古田会ニュース』194号、2020年10月)として発表した。
④小澤佳憲「大野城の繕治 ―城門からみた大野城の機能とその変化―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。


第2458話 2021/05/11

九州王朝と大和朝廷の「都督」(2)

 太宰府が「都府楼」あるいは「都督府」と近世まで呼ばれていたことを根拠に、「都督」を称していた「倭の五王」の王都が太宰府にあったとする論者がおられます。草野善彦さんも『「倭国」の都城・首都は太宰府』(注①)や「倭国の都城・太宰府について」(注②)で同見解を表明されています。古田先生も一時期そのように考えておられ、わたしとの〝論争〟になったことは、先に紹介したとおりです。
 九州王朝(倭国)が「都督」「都督府」という称号や役所名をある時期に採用していたことに異議はないのですが、そのことが5世紀の「倭の五王」の王都を太宰府とする根拠になるのかといえば、そうとは限りませんし、考古学的にもその見解を支持する出土事実はありません。
 というのも、王朝交代後の大和朝廷も「都督」の称号を使用していた史料事実があるからです。今までにも指摘してきたところですが(注③)、「都督」という役職名は九州王朝だけではなく、その伝統を引き継いで、大和朝廷も自らの「都督」を任命しており、その人名が『二中歴』「都督歴」に多数列挙されています(注④)。『続日本紀』にも次の「都督」記事があります。

 「九月丙申、大師正一位藤原恵美朝臣押勝を都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使となす。」『続日本紀』天平宝字八年(764)九月条

 こうした「都督」使用の伝統は近世まで続き、筑前黒田藩主や戦国武将も「都督」を称していたことが諸史料に見えます(注⑤)。ですから、現存遺跡名や地名に「都督府」「都府楼」があることを以て、それを九州王朝の「倭の五王」時代の都督の痕跡とすることは学問的に危険なのです。すなわち「都督」も多元的に認識すべきで、九州王朝と大和朝廷の「都督」が歴史的に存在していたことを前提に、現存地名がどちらの「都督」の影響を受けて成立したのかを考える必要があります。
 太宰府の場合、その地が「都府楼」と称されていたことは、菅原道真の漢詩「不出門」の一節に「都府楼わずかに見る瓦色 観音寺は只鐘の声を聴くのみ」と見え、10世紀頃には近畿天皇家側の役所「都府楼」が現地に置かれていたことがわかります。従って、現代人の認識の根拠は、5世紀の九州王朝の「都督」よりも、10世紀から江戸時代まで続いた近畿天皇家側の「都督」に基づいて成立したと考える方が合理的です。
 従って、草野さんの通説への批判「私は『倭の五王』の都城は太宰府と考えております。今日、太宰府政庁跡と呼ばれている遺跡に『都督府古跡』と彫った石碑が立っています。この『都督府古跡』とは何なのか。通説はこれに沈黙しているのではありませんか。」は、気持ちはわからぬでもありませんが、学問的には有効とは言えません。なぜなら、その論拠〝都督府・都府楼と呼ばれている地は太宰府だけで、近畿にはない〟では通説側を説得できません。〝近畿天皇家が西海道支配のために地方都市・太宰府に置いた役所だから、近畿にないのは当たり前〟という反論が一応は史料根拠(『続日本紀』『二中歴』他)に基づいて成立するからです。
 また、太宰府遺構を5世紀の「倭の五王」の王都とする見解についても、〝考古学的根拠(5世紀の王宮の出土)がない〟と一蹴されて終わりでしょう。日本古代史学が人文科学である以上、こうした批判(エビデンスの明示要請)は避けられないのです。(つづく)

(注)
①草野善彦『「倭国」の都城・首都は太宰府』本の泉社、2020年。
②草野善彦「倭国の都城・太宰府について」『多元』159号、2020年9月。
③古賀達也「洛中洛外日記」641話(2014/01/02)〝黒田官兵衛と「都督」〟
 古賀達也「洛中洛外日記」642話(2014/01/05)〝戦国時代の「都督」〟
 古賀達也「洛中洛外日記」655話(2014/02/02)〝『二中歴』の「都督」〟
 古賀達也「洛中洛外日記」777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟
 古賀達也「洛中洛外日記」1374話(2017/04/22)〝多元的「都督」認識のすすめ〟
 古賀達也「『都督府』の多元的考察」『多元』141号、2017年9月。後に『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集、明石書店、2018年)に収録。
④鎌倉時代初期に成立した『二中歴』「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されている。
⑤『糸島郡誌』(大正15年の序文あり、昭和47年発行)によれば、雷山・層々岐神社上宮の祠(石の寶殿)に銘文があり、この祠を寄進した人物名「本邦都督四位少将継高公」が記されている。「継高公」とは、筑前黒田藩六代目藩主の黒田継高(治世1719~1769年)のこと。
 『太宰管内誌』「豊後之五(海部郡)・壽林寺」の項に、戦国大名の大友宗麟のことを「九州都督源義鎮(大友氏)」と記している。大友宗麟(大友義鎮・おおともよししげ。1530~1587年)は筑前を一時期(1559~1580年頃)支配領域にしたことがある。


第2414話 2021/03/19

王朝と官道名称の交替(4)

 『日本書紀』天武十四年(685年)九月条の次の記事は重要な問題を秘めています。

 「戊午(十五日)に、直廣肆都努朝臣牛飼を東海使者とす。直廣肆石川朝臣蟲名を東山使者とす。直廣肆佐味朝臣少麻呂を山陽使者とす。直廣肆巨勢朝臣粟持を山陰使者とす。直廣參路眞人迹見を南海使者とす。直廣肆佐伯宿禰廣足を筑紫使者とす。各判官一人・史一人、國司・郡司及び百姓の消息を巡察(み)しめたまふ。」『日本書紀』天武十四年九月条

 使者(巡察使)が派遣された「東海」「東山」「山陽」「山陰」「南海」「筑紫」が、天武の宮殿(飛鳥宮)がある大和を起点にした名称であることは、前話で説明したとおりです。ところが「筑紫」だけは官道名ではなく、もともとあった地名であり、他とは異なっています。『続日本紀』では九州島は「西海道」と命名されているのですが、『日本書紀』には「西海道」という名称は見えません。その理由は次のようなものと思います。

(1)天武十四年(685年)は九州年号の朱雀二年にあたり、九州年号が継続していることから、九州王朝(倭国)は存在している。
(2)従って、倭国の直轄支配領域ともいえる筑紫(九州島)を「西海道」などと呼ぶことは、大義名分上から憚られた。
(3)そのため古くからある「筑紫」を採用し、巡察使を派遣した。

 また、「山陽」「山陰」という方角が付かない名称を採用したのも同様の理由からです。新たに列島の実力者となった天武ら近畿天皇家にとって、九州王朝官道の「東山道」「東海道」の前半部分が、大和よりも西に位置するため、「東」を冠した名称を使用したくなかったのです。そこで、新たに「山陽」「山陰」を制定したものと推察しています。
 「山陽道」「山陰道」は大和の西側にありますから、本来なら「西山道」「西海道」などの名称を天武らは採用したかったのかもしれません。しかし、大義名分上ではまだ列島内ナンバーワンである九州王朝(倭国)に対して憚ったのではないでしょうか。その点、「山陽道」「山陰道」であれば、「都」の位置に対する方角表記ではありませんから、双方が妥協できたものと思われます。いわば両者(新旧両王朝)にとっての〝苦肉の命名〟だったわけです。このように捉えたとき、「七道」の中に「山陽道」「山陰道」という、東西南北が付かない官道名が生まれた理由を説明できるのです。
 ちなみに、「山陽」「山陰」という名称は、『日本書紀』天武十四年条のこの記事が初見で、それぞれ一回限りの登場です。巡察使の存在もこの記事が初見です。すなわち、天武ら近畿天皇家にとっては初めての国内視察団派遣だったと思われます。なお、「西海道」は『続日本紀』の大宝元年(701年)八月条の次の記事が初見です。

 「戊申(8日)、明法博士を六道〔西海道を除く。〕に遣わし、新令を講(と)かしむ。」『続日本紀』大宝元年八月条 ※〔〕内は細注。

 この年、王朝交替が実現し、大和朝廷は最初の年号「大宝」を建元していますが、これは西海道以外の六道に『大宝律令』講義のために明法博士を派遣したという記事です。なぜ、西海道(筑紫)が対象から除かれたのかは通説では説明できませんが、多元史観・九州王朝説であれば、〝誕生したばかりの新王朝にとって、旧王朝の影響力が色濃く残っていた筑紫諸国に派遣することを憚った〟と説明することが可能です。そして、この二年後には七道全てに大和朝廷は巡察使を派遣します。

 「甲子(2日)、正六位下藤原朝臣房前を東海道に遣わす。従六位上丹治比真人三宅麻呂を東山道。従七位上高向朝臣大足を北陸道。従七位下波多真人余射を山陰道。正八位上穂積朝臣老を山陽道。従七位上小野朝臣馬養を南海道。正七位上大伴宿禰大沼田を西海道。道別に録事一人。政績を巡り省(み)て、冤枉(えんおう)を申し理(ことわ)らしむ。」『続日本紀』大宝三年(703年)正月条

 大宝三年(703年)に至り、大和朝廷は前王朝の故地(筑紫)を「西海道」と公に呼んだのではないでしょうか。すなわち、これからの「筑紫」は日本国の中心ではなく、大和朝廷の地方領域「七道」の一つとして、文武天皇は「西海道」へも巡察使を派遣したのです。


第2413話 2021/03/19

王朝と官道名称の交替(3)

 九州王朝官道が再編され、名称変更がなされるとすれば、そのタイミングは二回あったように思われます。一つは、九州王朝が難波に複都(前期難波宮)を置いたとき。もう一つは、大和朝廷へと王朝交替(701年、九州年号から大宝元年へ「建元」)したときです。

 前者の場合は同一王朝内での複都造営時(652年、九州年号の白雉元年「改元」)ですから、必ずしも官道名称の変更が必要なわけではありません。しかも、首都の太宰府はその後も継続したと思われますから。
後者は王朝交替に伴う首都の移動ですから、この時点では官道名称変更が大義名分の上からも必要となります。なぜなら、大和朝廷の「七道」のうち「山陽道」「山陰道」は九州王朝官道の「東山道」「北陸道」の前半部分に当たりますから、大和に都(藤原京)を置いた大和朝廷としては、都から南西へ向かう道が「東山道」「北陸道」では不都合なわけです。そのため、「東山道」「北陸道」を分割再編し、大和より西は「山陽道」「山陰道」、東はそれまで通り「東山道」「北陸道」としたのです。また、九州王朝官道の「東海道」も、その前半は大和よりも西の四国地方(海路)を通りますから、これも「南海道」に変更されました。
そこでこうした官道再編や名称変更の痕跡が『日本書紀』や『続日本紀』などに遺されてはいないか、その視点で史料調査したところ、『日本書紀』天武十四年(685)九月条に、次の記事がありました。

「戊午(十五日)に、直廣肆都努朝臣牛飼を東海使者とす。直廣肆石川朝臣蟲名を東山使者とす。直廣肆佐味朝臣少麻呂を山陽使者とす。直廣肆巨勢朝臣粟持を山陰使者とす。直廣參路眞人迹見を南海使者とす。直廣肆佐伯宿禰廣足を筑紫使者とす。各判官一人・史一人、國司・郡司及び百姓の消息を巡察(み)しめたまふ。」『日本書紀』天武十四年九月条

 この記事に見える、使者(巡察使)が派遣された「東海」「東山」「山陽」「山陰」「南海」「筑紫」は、「七道」から「北陸道」をなぜか除いた各地域のことで、これらは天武の宮殿(飛鳥宮)がある「大和国」(注①)に起点を置いたことを前提とする名称です。この記事が事実であれば、天武十四年(685年)時点では既に九州王朝官道の再編と名称変更が行われていたことになります。これは701年の王朝交替の16年前、持統の藤原宮(京)遷都の9年前のことです。従って、この記事の信憑性が問われるのですが、従来のわたしの研究や知識レベルでは判断できませんでした。しかし、今は違います。この10年での飛鳥・藤原木簡の研究成果があるからです。

 飛鳥遺跡からは九州諸国と陸奥国を除く各地から産物が献上されたことを示す評制下(七世紀後半)荷札木簡が出土しています。「洛中洛外日記」2394話(2021/02/27)〝飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の国々〟で次の出土状況を紹介したところです(注②)。

【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡】
国 名 飛鳥宮 藤原宮(京) 小計
山城国   1   1   2
大和国   0   1   1
河内国   0   4   4
摂津国   0   1   1
伊賀国   1   0   1
伊勢国   7   1   8
志摩国   1   1   2
尾張国   9   7  17
参河国  20   3  23
遠江国   1   2   3
駿河国   1   2   3
伊豆国   2   0   2
武蔵国   3   2   5
安房国   0   1   1
下総国   0   1   1
近江国   8   1   9
美濃国  18   4  22
信濃国   0   1   1
上野国   2   3   5
下野国   1   2   3
若狭国   5  18  23
越前国   2   0   2
越中国   2   0   2
丹波国   5   2   7
丹後国   3   8  11
但馬国   0   2   2
因幡国   1   0   1
伯耆国   0   1   1
出雲国   0   4   4
隠岐国  11  21  32
播磨国   6   6  12
備前国   0   2   2
備中国   7   6  13
備後国   2   0   2
周防国   0   2   2
紀伊国   1   0   1
阿波国   1   2   3
讃岐国   2   1   3
伊予国   6   2   8
土佐国   1   0   1
不 明  98   7 105
合 計 224 126 350

 七世紀当時、他地域からは類例を見ない大量の荷札木簡が飛鳥から出土しており、当地に列島を代表する権力者(実力者)がいたことを疑えません(注③)。従って、各地へ巡察使を派遣したという天武十四年条記事の史実としての信憑性は高くなります。同時代史料の木簡、しかも大量出土による実証力は否定(拒否)し難いのです。(つづく)

(注)
①藤原宮北辺地区から出土した「倭国所布評大野里」木簡によれば、七世紀末当時の「大和国」の表記は「倭国」である。このことを「洛中洛外日記」447話(2012/07/22)〝藤原宮出土「倭国所布評」木簡〟などで紹介した。
②市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。
③飛鳥池遺跡北地区からは「天皇」(木簡番号224)「○○皇子」(木簡番号64、同92、他)木簡の他に「詔」木簡(木簡番号63、同669)も出土しており、最高権力者が当地から詔勅を発していたことを示している。


第2412話 2021/03/18

王朝と官道名称の交替(2)

 九州王朝官道(注①)の名称は都がある太宰府を起点に、東西南北と陸路・海路別に命名したと思われます。恐らく、それは単なる道路・航路ではなく、軍事目的を有した〝水陸方面軍〟をも意味したものです。そして、その方面軍のリーダーが「都督」と呼ばれていた痕跡が『日本書紀』に見えることを山田春廣さんが指摘され(注②)、九州王朝官道の研究が一気に進展しました。それは『日本書紀』景行紀の〝彦狹嶋王、東山道都督拝命〟記事です。

 五十五年春二月戊子朔壬辰、以彦狹嶋王、拜東山道十五國都督。是豐城命之孫也。然到春日穴咋邑。臥病而薨之。是時。東國百姓悲其王不至。竊盗王尸葬於上野国。(『日本書紀』景行五五年二月条)

 この記事にある「東山道十五國」の国数が、大和から下野国まででは七国なので数があわず、九州王朝の都があった筑前からであればちょうど十五国に一致することを発見され、この「東山道」とは筑前国から下野国にいたる九州王朝官道のことであるとされたのです。そして、筑前国を起点とした他の九州王朝官道(東海道、北陸道)の推定も試みられました。
 ところが、701年の九州王朝から大和朝廷への王朝交替により、起点となる都が筑前(太宰府)から大和(藤原京)に移動します。その爲、新王朝は自らの都を中心とした官道名へと変更することになります。その結果が「五畿七道」と呼ばれる七つの官道(東海道、東山道、北陸道、南海道、山陽道、山陰道、西海道)への再編です。
 しかし、九州王朝時代の官道名とは性格が微妙に異なっています。その最たるものが「西海道」です。これは「交通路」というよりも九州島という領域名称の性格が強くなっており、しかも起点の大和から九州島まで通じるルートは「西海道」ではなく、「山陽道」か「山陰道」になってしまいます。しかも、この「山陽道」と「山陰道」には「東西南北」という方角が付きません。言わば一貫性のない官道名称になってしまっているのです。更に言えば、「東海道」「西海道」「南海道」があるのに、「北海道」だけがないことも何か変で、このことが西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から指摘されてきました(注③)。
 こうした、一貫性のない「七道」になった理由について、従来の一元史観では説明できません。すなわち、王朝交替(官道起点たる都の移動)により、それまでの九州王朝官道を再編し、名称変更したことで発生したとする、多元史観を前提とした説明が最も合理的なのです。(つづく)

(注)
①九州王朝官道と大和朝廷「七道」の対比は次のようなものと考えている。
【九州王朝】→【大和朝廷】
 「東山道」 → 「山陽道」「東山道」
 「東海道」 → 「南海道」「東海道」
 「北陸道」 → 「山陰道」「北陸道」
 「北海道」 → なし
 「西海道」 → なし
 (九州島) → 「西海道」
 「南海道」 → なし
②山田春廣「『東山道十五國』の比定 ―西村論文『五畿七道の謎』の例証―」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編、明石書店、2018年。初出『古田史学会報』139号、2017年4月。
 山田春廣「東山道都督は軍事機関」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編、明石書店、2018年。
③西村秀己「五畿七道の謎」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編、明石書店、2018年。初出『古田史学会報』131号、2015年12月。