大和朝廷(日本国)一覧

第2239話 2020/08/23

南九州の「天智天皇」伝承

 わたしが古田史学に入門し、本格的論文として最初に書いたのが「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」(『市民の古代』10集、1988年。新泉社)でした。これは32歳のときに書いた論文で、今読むと論証が甘く、学術論文としてはまことに恥ずかしいレベルですが、歴史の真実へ肉薄するという点では、大きく外れることはなく一定の役割を果たしたと思います。
 同論の主旨は、鹿児島県に濃密に遺っている古代伝承の「大宮姫」(注①)は九州王朝の天子(筑紫君薩野馬)の皇后で、『続日本紀』文武紀四年(700)六月条に見える「薩末比売」のこととするものです。そして薩摩に落ち延びた薩野馬の事績が後に「天智天皇」として伝承されたとしました(注②)。そのことが、鹿児島県に「天智天皇」を祀る神社が多い理由と考えられます。
 ところが拙論執筆の30年後、この拙論を超える研究発表が正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からなされました。2017年12月の「古田史学の会」関西例会で発表された「『日本書紀』天智紀の年次のずれについて」において、天智が称制から正式に天皇に即位した天智七年に皇后として登場した倭姫王こそ九州王朝(倭国)の姫であり、天智は倭姫王を皇后に迎えたことにより九州王朝(倭国)の権威を継承(不改常典の成立)したのではないかとされました。そして、壬申の乱以後、倭姫王は『日本書紀』から消えますが、鹿児島県の『開聞古事縁起』(注③)に壬申の乱で都から逃げてきた大宮姫の伝承が記されており、大宮姫こそ倭姫王ではないかとされたのです(注④)。
 まだ検証中の仮説ですが、多元史観・九州王朝説による「倭姫王」や鹿児島県の「大宮姫」伝説についての最有力説ではないでしょうか。更に、この正木説に刺激を受けて、「倭姫王」についての諸仮説が古田学派内で発表が続いており、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替研究が加速しています。
 なお、『近江神宮 天智天皇と大津京』(新人物往来社、平成三年)巻末掲載の「天智・弘文天皇関連神社」によれば、次の神社が「倭姫」を御祭神としています。

○倭(しどり)神社 滋賀県大津市滋賀里 祭神:不詳(伝倭姫皇后)
○山宮神社 鹿児島県曽於郡志布志町安楽 祭神:天智天皇・倭姫皇后・大友皇子・持統天皇・他

(注)
①『日本伝説大系⑭』所収「大宮姫」に大宮姫伝説が紹介されている。
②『三国名勝図会』第二四巻「薩摩国頴娃郡」では、大宮姫伝説を俗信として批判している。
③五来重編『修験道史料集(2)』所収「開聞古事縁起」
④正木 裕「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』古田史学の会編、2019年、明石書店。


第2238話 2020/08/22

天智天皇を祀る神社の分布

 近江朝や天智天皇について知見と研究を深めています。『近江神宮 天智天皇と大津京』(新人物往来社、平成三年)に興味深い記事がいくつもありましたので、その中から天智天皇を祀る神社の分布についての記事を紹介します。
 近藤喜博さんの「天智天皇に対する賛仰とその奉祀神社」に天智天皇を祭神とする神社を「管見の及ぶ限り」として、次の様に紹介されています。

○県社 村山神社(愛媛県宇摩郡津根村)
○郷社 鉾八幡神社(香川県三豊郡財田村)
○郷社 恵蘇八幡宮(福岡県朝倉郡朝倉村)
○郷社 山宮神社(鹿児島県曽於郡志布志町)
○村社 山宮神社(鹿児島県曽於郡志布志町田之浦)
○村社 石座神社(滋賀県滋賀郡膳所町大字錦)
○村社 皇小津神社(滋賀県野洲郡河西村)
○村社 早鈴神社(鹿児島県姶良郡隼人町)
○無格社 葛城神社(鹿児島県日置郡西市来村)
○無格社 新宮神社(鹿児島県伊佐郡羽目村)※「伝天智天皇」と称する。
○無格社 山口神社(鹿児島県曽於郡末吉町南之郷)
○無格社 多羅神社(鹿児島県揖宿郡揖宿村)

 これらを県別に見ますと、次の様な分布数になります、

□滋賀県  2社
□香川県  1社
□愛媛県  1社
□福岡県  1社
□鹿児島県 7社

 近江朝廷があった滋賀県の2社は当然としても、鹿児島県の7社は異様な数です。これは鹿児島県や宮崎県に伝承されている「大宮姫」伝説に関わる神社が多いことが原因です。(つづく)


第2237話 2020/08/21

上皇陛下の天智天皇讃歌(平成二年御製)

 明治天皇の「即位の詔勅」が宣命体であり、そこに天智天皇や神武天皇の業績が特筆されていることに驚いたのですが、天智天皇が日本国の基礎を築いたという認識が現在の上皇陛下へも続いていることを最近になって知りました。そのことについて紹介します。
 ご近所の古本屋さんにあった『近江神宮 天智天皇と大津京』(新人物往来社、平成三年)を格安で購入したのですが、その巻頭グラビア写真に当時の天皇・皇后(現、上皇・上皇后)のお歌が掲載されていました。近江神宮の宮司、佐藤忠久さんが書かれたものです。

 「近江神宮五十年祭にあたって」
「今上陛下 御製」
「日の本の国の基を築かれし すめらみことの古思ふ」
「皇后陛下 御歌」
「学ぶみち 都に鄙に開かれし 帝にましぬ 深くしのばゆ」
  「近江神宮 宮司 佐藤久忠謹書 (印)」

 この御製御歌は、近江神宮御鎮座50周年(平成二年、1990年)の式年大祭に際して、当時の両陛下から賜ったものと説明されています。御製に「日の本の国の基を築かれし すめらみこと」とあり、近江神宮に下賜されたものであることから、この「すめらみこと」とは天智天皇です。その天智天皇が日本国の基を築かれたという認識に、わたしは注目したのです。おそらくこれは、皇室や宮内庁の共通の歴史認識に基づかれたものと思われます。
 古田先生は、『よみがえる卑弥呼』(駸々堂、1987年)に収録されている「日本国の創建」という論文で、671年(天智十年)、近畿天皇家の天智天皇の近江朝が「日本国」を創建したとする説を発表されています。偶然かもしれませんが、この古田説と御製に示された認識が、表面的ではあれ一致しています。あらためて天智天皇や近江朝に関する研究史を精査する必要を感じました。


第2236話 2020/08/20

明治天皇の即位の宣命と「不改常典」

 先日の「古田史学の会」関西例会では『続日本紀』元明天皇の即位の宣命に初めて見える「不改常典」について研究発表しました。その要旨は、天智の近江朝が九州王朝からその権威を引き継いだ宣言こそ「不改常典」の内実ではないかとするものでした。そしてそれは「禅譲」に近いものではないかと推定しました。
 しかし、『日本書紀』は九州王朝の存在や、天智がその権威を継承したことを隠していますし、宣命で述べられた天智天皇が定めた「不改常典」という言葉さえも掲載していません。ですから、『日本書紀』成立後(720)の聖武天皇や孝謙天皇らの即位宣命にも「不改常典」のことが記されてはいるものの、初代の神武天皇を近畿天皇家の権威の淵源とする『日本書紀』の大義名分と、天智天皇が定めた権威の淵源「不改常典」との関係が不明瞭です。
 ところが、この天智天皇が定めた法(「不改常典」法)と『日本書紀』の大義名分の両方含む即位の宣命があります。それは慶應四年(1868)八月二十七日に発布された明治天皇の即位の宣命です(翌九月に「明治」に改元)。当該部分を紹介します。

 「掛(かけまくも)畏(かしこ)き近江の大津の宮に、御宇(あめのした)しろしめし、天皇の初め賜ひ定め賜へる法の随(まま)に、仕え奉(まつる)と仰せ賜ひ授け賜ひ」
 「橿原の宮に御宇しろしめし、天皇の御(おん)創(はじ)めたまへる業(わざ)の古(いにしへに)基(もとづ)き、大御世を弥(いや)益々に、吉(よ)き御代と固(かため)成(な)し賜はむ」

 このように、近世においても天智天皇と神武天皇の二人が皇室の歴史的権威の淵源とされていることは興味深いことと思います。

【明治天皇の即位の宣命 原文】
 「現神止大洲国所知須、天皇我詔旨良万止宣布勅命乎、親王諸臣百官人等、天下公民衆聞食止宣布。掛畏伎平安宮爾、御宇須倭根子天皇我、宜布此天日嗣高座乃業乎、掛畏伎近江乃大津乃宮爾、御宇志、天皇乃初賜比定賜倍留法随爾、仕奉止仰賜比授賜比、恐美受賜倍留御代々乃御定有可上爾、方今天下乃大政古爾復志賜比弖、橿原乃宮爾御宇志、天皇御創業乃古爾基伎、大御世袁弥益々爾、吉伎御代止固成賜波牟、其大御位爾即世賜比弖、進毛退毛不知爾恐美坐佐久止宣布大命乎、衆聞食止宣布。(後略)」


第2235話 2020/08/19

王朝統合と交替の古代史論争

 本日、「古田史学の会」関西例会が開催されました。わたしは久しぶりの発表です。会員の皆さんの発表を優先するために、なるべく例会での発表は遠慮していたのですが、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からの要請もあり、「洛中洛外日記」で連載した文武・元明「即位の宣命」の史料批判について発表させて頂きました。厳しい質問や批判もよせられましたが、新たな発見もあり、有意義でした。
 今回の例会では、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)からの、大化二年(646)改新詔の舞台は難波宮で、九州王朝による七世紀中頃のものとする研究発表は説得力があり勉強になりました。同改新詔は九州年号の大化二年(696)に出されたものが、『日本書紀』編纂時に「大化」年号ごと50年遡らされたとわたしは考えてきましたが、今回の服部さんのご指摘により、それほど単純なものではなく、詳細な見直しが必要であることに気づきました。自説の誤りや不十分さに気づくことができるのも、関西例会の醍醐味で、ありがたいことです。
 正木さんの発表は、謡曲・能などの古典芸能に強い正木さんならではのものでした。能楽「老松」が九州王朝の近江遷都の傍証になるというもので、会報での発表が待たれます。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔9月度関西例会の内容〕
①欽明紀の真実(茨木市・満田正賢)
②女王国論(姫路市・野田)
③古くて新しい今城塚古墳(大山崎町・大原重雄)
④能楽「老松」と九州王朝の近江遷都(川西市・正木 裕)
⑤改新詔は九州王朝によって難波宮で宣勅された(八尾市・服部静尚)
⑥王朝統合と交替の新古代史 ―文武・元明「即位の宣命」の史料批判―(京都市・古賀達也)
⑦博徳書内の「驛」記事について(東大阪市・萩野秀公)

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費1,000円(「三密」の回避に大部屋使用のため)
 10/17(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター
 11/21(土) 10:00~17:00 会場:福島区民センター(※参加費500円)

《各講演会・研究会のご案内》
◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都
 10/20(火) 18:30~20:00 「能楽の中の古代史」 講師:正木 裕さん

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 09/29(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館
    「多利思北孤の時代② 仏教を梃とした全国統治」 講師:正木 裕さん
 10/27(火) 10:00~12:00 会場:奈良新聞社西館3階
    「多利思北孤の時代③ 「聖徳太子」の「遣隋使」はなかった」 講師:正木 裕さん

◆「古代史講演会in八尾」 会場:八尾市文化会館プリズムホール
 10/03(土) 14:00~16:00 ①「古代瓦と飛鳥寺院」 ②「法隆寺の釈迦三尊像と薬師像」 講師:服部静尚さん
 11/03(火・祝) 14:00~16:00 ①「大化の改新」と難波京 ②「条坊都市はなぜ造られたのか」 講師:服部静尚さん

◆「泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター
 10/13(火) 14:00~16:00 「疫病と古代の戦争 ―『聖徳太子』は天然痘で薨去した」 講師:正木 裕さん
 11/10(火) 14:00~16:00 「なぜ蛇は神なのか」 講師:大原重雄さん
             「法隆寺薬師像は実は釈迦像だった」 講師:服部静尚さん
 12/08(火) 14:00~16:00 「未定」 講師:未定

◆誰も知らなかった古代史の会 会場:福島区民センター
 10/06(火) 18:30~20:00 「疫病と古代の戦争 ―『聖徳太子』は天然痘で薨去した」 講師:正木 裕さん
 12/01(火) 18:30~20:00 「周王朝から邪馬壹国へ ―『倭人伝』の官名『泄謨觚・柄渠觚・兕馬觚』の謎を解く」 講師:正木 裕さん

《古田武彦記念古代史セミナー2020》(八王子セミナー)
 11/14~15 大学セミナーハウス(東京都八王子市)
 新型コロナ対策として、Zoomを使ったオンライン+現地参加の「ハイブリッド方式」での開催となりました。オンライン参加6,000円、現地参加15,000円。


第2229話 2020/09/09

文武天皇「即位の宣命」の考察(11)

 文武天皇と元明天皇の「即位の宣命」の考察結果が、古田先生による天智天皇(近江朝)による671年(天智十年)の「日本国」創建という〝奇説〟と正木裕さんの「九州王朝系近江朝」説とに結びつき、671年の「王朝統合」(禅譲に近い)と701年の「王朝交替」という九州王朝末期の歴史復元が可能となりました。
 しかしながら、671年の「王朝統合」は、九州年号「白鳳」(661~683年)が改元されず継続していることから、天武と大友皇子との「壬申の大乱」により「九州王朝系近江朝」は滅び、元々の九州王朝が継続することになったことがわかります。
 この「王朝統合」(禅譲に近い)と「壬申の大乱」(九州王朝系近江朝の滅亡)のことが、元明天皇から元正天皇への「譲位の詔」に記されていることを本シリーズの最後に紹介します。それは霊亀元年(715年)「譲位の詔勅」冒頭の次の記事です。

〝(元明)天皇、位を氷高内親王(元正天皇)に禅(ゆず)りたまふ。詔して曰はく、
 「乾道は天を統べ、文明是(ここ)に暦を馭す。大なる宝を位と曰ひ、震極、所以に尊に居り。
 昔者(むかし)、揖譲(いうじょう)の君、旁(ひろ)く求めて歴(あまね)く試み、干戈(かんか)の主、体を継ぎて基(もとい)を承(う)け、厥(そ)の後昆(こうこん)に貽(のこ)して、克(よ)く鼎祚(ていそ)を隆(さか)りにしき。朕、天下に君として臨み、黎元(おほみたから)を撫育するに、上天の保休を蒙り、祖宗の遺慶に頼(よ)りて、海内晏静にして、区夏安寧なり。(後略)」〟
 『続日本紀』巻第六、元明天皇霊亀元年九月二日条

 この詔の「昔者(むかし)、揖譲(いうじょう)の君、旁(ひろ)く求めて歴(あまね)く試み、干戈(かんか)の主、体を継ぎて基(もとい)を承(う)け、厥(そ)の後昆(こうこん)に貽(のこ)して、克(よ)く鼎祚(ていそ)を隆(さか)りにしき。」という部分にわたしは着目しました。その大意は次のようです。

①「昔者、揖譲の君、旁く求めて歴く試み」
 昔、天子の位を禅譲(揖譲)する者は優れた人材を各地から集め、その才能を試み、
②「干戈の主、体を継ぎて基を承け」
 武力(干戈)により位についた者は、天子の位を継承し、
③「厥の後昆に貽して、克く鼎祚を隆りにしき。」
 それを子孫(後昆)に継承し、天子の地位(鼎祚)を確かなものにした。

 通説では、この文を古代中国における禅譲や放伐による王朝の興亡を故事として述べたものと理解されてきたと思われますが、九州王朝説に立てば、極めて具体的な歴史事実を示したものととらえることができます。
 この詔を聞いた官僚や諸豪族は、九州王朝から大和朝廷への王朝交替というわずか十数年前の歴史事実に照らしてこの文を受け止めるのではないでしょうか。少なくとも、『古事記』や『日本書紀』に記された近畿天皇家の歴史に禅譲など存在しませんから、元明天皇の「譲位の詔」に自らと無関係な古代中国の禅譲の故事など不要ですし、むしろ禅譲などする気もない近畿天皇家にとって無用の故事です。
 しかし、「王朝統合」(禅譲に近い)と「壬申の大乱」(九州王朝系近江朝の滅亡)という新たな仮説に照らして考えると、「揖譲の君」は「九州王朝系近江朝」の天皇位を天智に禅譲した九州王朝の天子のことであり、その「九州王朝系近江朝」を武力討伐した天武は「干戈の主」に対応しています。そしてその子孫である大和朝廷の天皇は「厥の後昆・鼎祚」というにぴったりです。
 この元明の「譲位の詔」ではこうした歴史認識が示された後に、元正への譲位が宣言されます。そして、元正天皇の時代(720年)に編纂された『日本書紀』には、天智に禅譲した九州王朝の天子はもとより、九州王朝の存在そのものが隠されていますし、天智が定めた「不改常典」さえも登場しません。すなわち、自らの権威の淵源を天孫降臨以来の神々と初代神武天皇とすることにより、文武天皇や元明天皇の「即位の宣命」とは似て非なる大義名分を造作し、それを国内に流布するという政略を大和朝廷は採用しました。その結果、『日本書紀』の一元的歴史観は千三百年にわたりわが国の基本歴史認識となりました。しかし、九州王朝の存在や王朝交替を認めないその基本認識(一元史観)では、禅譲による近江朝の樹立と天皇即位の根拠になった「不改常典」について正しく理解することが困難なため、諸説入り乱れるという古代史学界の今日の状況を生み出すこととなったようです。(おわり)


第2228話 2020/09/08

文武天皇「即位の宣命」の考察(10)

 元明天皇の「即位の宣命」にあるように、近畿天皇家の天皇即位の根拠や王朝交替の正統性が、天智天皇が定めた「不改常典」法にあるとすれば、そのことと深く関わる論文二編があります。
 一つは古田先生の著書『よみがえる卑弥呼』(駸々堂、1987年)に収録されている「日本国の創建」という論文で、671年(天智十年)、近畿天皇家の天智天皇の近江朝が「日本国」を名乗ったとされています。これは古田史学の中でも〝孤立〟した説で、古田学派内でもほとんど注目されてこなかった論文です。言わば古田説(九州王朝説)の中に居場所がない〝奇説〟でした。
 もう一つの論文は、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の「『近江朝年号』の実在について」(『古田史学会報』133号、2016年4月)です。これは、近畿天皇家出身の天智が九州王朝を受け継いで近江大津宮で即位し、九州王朝(倭国)の姫と思われる「倭姫王」を皇后に迎えたというものです。すなわち、「九州王朝系近江朝」という概念を提起されたのです(注①)。
 この正木さんの「九州王朝系近江朝」説により、古田先生の671年(天智十年)に近畿天皇家の天智天皇の近江朝が「日本国」を名乗ったという〝奇説〟が、従来の九州王朝説の中で、671年の「王朝統合」(禅譲に近い)と701年の「王朝交替」という結節点と臨界点としての位置づけが可能となり、九州王朝末期における新たな歴史像の提起が可能となったように思われます。ただし、671年の「王朝統合」は天武と大友皇子との「壬申の大乱」により水泡に帰します。近世史でいえば、幕末の「公武合体」が失敗したようにです。しかし、このとき天智により定められた「不改常典」法が701年の王朝交替とその後の天皇即位の正統性の根拠とされました。その痕跡が本シリーズで紹介してきたように、文武天皇と元明天皇の「即位の宣命」に遺されたのです(注②)。(つづく)

(注)
①次の関連論文がある。
 正木 裕「『近江朝年号』の研究」(『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』明石書店、2017年)に収録。
 古賀達也「九州王朝を継承した近江朝庭 正木新説の展開と考察」(『古田史学会報』134号、2016年6月)。『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集。明石書店、2017年)に転載。
②王朝交替期における大和朝廷による九州王朝の権威の継承や、それを現す「倭根子天皇」という表記について、次の拙稿で論じているので、参照されたい。
 古賀達也「九州王朝系近江朝廷の『血統』 ―『男系継承』と『不改常典』『倭根子』―」(『古田史学会報』157号、2020年4月)


第2227話 2020/09/06

文武天皇「即位の宣命」の考察(9)

 息子でもある文武天皇の後を継いで即位した元明天皇の「即位の宣命」には、皇位継承の背景や理由、そして権威の正統性や淵源についてとても興味深い内容が記されています。それは次の二つの部分です。

(A)「藤原宮御宇倭根子天皇(持統天皇)、丁酉(持統十一年〔697年〕)八月に、此の食国(をすくに)天下の業(わざ)を、日並所知(ひなみしの)皇太子(草壁皇子)の嫡子、今御宇しつる天皇(文武天皇)に授づけ賜ひて、並び坐(いま)して此の天下を治め賜ひ諧(ととの)へ賜ひき。」

(B)「是は関(かけま)くも威(かしこ)き近江大津宮御宇大倭根子天皇(天智天皇)の、天地と共に長く月日と共に遠く不改常典と立て賜ひ敷き賜へる法を、受け賜り坐して行ひ賜ふ事」

 (A)では、文武天皇が藤原宮御宇倭根子天皇(持統天皇)の譲位によって天皇位に就いた事実を述べ、(B)は、この即位が近江大津宮御宇大倭根子天皇(天智天皇)が立てた「不改常典」法に基づいていると説明したものです。すなわち、持統・文武と続いた皇位を元明が受け継ぐにあたり、その前提となる権威や正統性の根拠が、天智天皇による「不改常典」法であると主張しているわけです。
 ちなみに、「不改常典」という言葉はこの元明天皇の「即位の宣命」が初見で、『続日本紀』の他の宣命中にも散見されるのですが、この「不改常典」が何であるのかについて研究や論争が学界で続いてきましたが、未だ統一した見解や通説はありません。
 文武天皇の「即位の宣命」では、持統天皇がキーパーソンとして権威の淵源である「高天原に事始めて、遠天皇祖の御世、中今に至るまで」の正統性を引き継いでおり、それを文武に禅譲したという筋書きになっていました。当時(697年)は王朝交替(701年)の直前とはいえ九州王朝の時代ですから、この宣命による説明では、聞いていた諸豪族は「高天原に事始めて、遠天皇祖の御世、中今に至るまで」の九州王朝の歴代の天子(天皇)のことと受け取らざるを得ません。なぜなら、『古事記』『日本書紀』成立以前の宣命ですし、しかもこのとき九州王朝の天子(薩野馬か)は健在ですから、これでは王朝交替の正統性の説明にはなっていません。
 しかし、701年(大宝元年)に近畿天皇家は王朝交替に成功していますから、何らかの説得力のある説明や背景があったはずです。そして、その背景が「不改常典」法であったことが元明天皇の「即位の宣命」で明らかになったのです。すなわち、新天皇や新王朝の権威の淵源や正統性は、初代の神武でもなく、「壬申の乱」勝者の天武でもなく、天智が定めた「不改常典」法であると宣言し、その内容を全国の諸豪族や官僚たちは知っており、それに基づく皇位継承と王朝交替を承認したということになるのです。それでは「不改常典」法の内容とは何だったのでしょうか。(つづく)


第2224話 2020/09/04

文武天皇「即位の宣命」の考察(8)

 文武天皇「即位の宣命」には、『続日本紀』に収録された他の天皇の即位の宣命と異なる点があります。その一つは、この宣命が出されたのが即位(文武元年〔697年〕八月一日)の16日後(同、八月十七日)という点です。他のほとんどの天皇は即位したその日に「即位の宣命」を出しています。持統天皇の譲位による即位ですから、それほど長文でもない「即位の宣命」を作成する期間は充分あったはずなのに、このタイムラグは不審です。
 わたしの想像では、それまでの近畿天皇家内部のトップ交代であれば「内部通達」だけでよかったのでしょうが、四年後(701年)の王朝交替を前提としたトップ交替ですから、近畿天皇家以外の諸豪族への説明も必要と判断し、その結果、16日後の宣命になったのではないでしょうか。
 ところが、遅れて出された「即位の宣命」からは、王朝交替の正統性や引き継いだ権威の淵源についての直接的な表現での説明はありません。そこで『続日本紀』中の各天皇の「即位の宣命」を改めて精査したところ、慶雲四年(707年)七月十七日に出された元明天皇の「即位の宣命」にそのことが示されていました。宣命冒頭の当該部分を転載します。(つづく)

【元明天皇「即位の宣命」】
(『続日本紀』巻第四、元明天皇)

 慶雲四年秋七月壬子(十七日)、天皇大極殿に即位す。詔して曰はく、(以下、即位の宣命)

 現神(あきつみかみ)と八洲御宇倭根子天皇が詔旨(おほみこと)らまと勅(の)りたまふ命を、親王・諸王・諸臣・百官人等、天下公民、衆(もろもろ)聞きたまへと宣(の)る。

 関(かけま)くも威(かしこ)き藤原宮御宇倭根子天皇(持統天皇)、丁酉(持統十一年〔697年〕)八月に、此の食国(をすくに)天下の業(わざ)を、日並所知(ひなみしの)皇太子(草壁皇子)の嫡子、今御宇しつる天皇(文武天皇)に授づけ賜ひて、並び坐(いま)して此の天下を治め賜ひ諧(ととの)へ賜ひき。是は関くも威き近江大津宮御宇大倭根子天皇(天智天皇)の、天地と共に長く月日と共に遠く不改常典と立て賜ひ敷き賜へる法を、受け賜り坐して行ひ賜ふ事と衆受け賜りて、恐(かしこ)み仕(つか)へ奉りつらくと詔(の)りたまふ命を衆聞きたまへと宣る。(以下、略)


第2223話 2020/09/03

文武天皇「即位の宣命」の考察(7)

 文武天皇「即位の宣命」第二節では次の二つのことを主張しています。一つは、持統天皇(倭根子天皇命)の権威の淵源が、高天原の神話時代に始まる天神(天に坐す神)により任命された「天つ神の御子」であり、「遠天皇祖の御世」から「中今に至るまで」の歴代天皇の後継者であることによるとする次の記事です。

 「高天原に事始めて、遠天皇祖の御世、中今に至るまでに、天皇が御子のあれ坐(ま)さむ彌(いや)継々(つぎつぎ)に、大八島国知らさむ次と、天つ神の御子ながらも、天に坐す神の依(よさ)し奉りしままに、この天津日嗣高御座(あまつひつぎたかみくら)の業(わざ)と、現御神と大八島国知らしめす倭根子天皇命」

 そして二つ目が、その持統天皇(倭根子天皇命)から禅譲を受けたことを文武天皇即位の根拠とする次の記事です。

 「現御神と大八島国知らしめす倭根子天皇命の、授け賜ひ負(おは)せ賜ふ貴き高き広き厚き大命を受け賜り恐(かしこ)み坐して、この食国(をすくに)天下を調(ととの)へ賜ひ平(たひら)げ賜ひ、天下の公民を恵(うつくし)び賜ひ撫で賜はむとなも、神ながら思しめさくと詔(の)りたまふ天皇が大命を、諸聞(きこ)し食(め)さへと詔る。」

 いずれもキーパーソンは持統天皇であることが重要です。この持統天皇の権威の淵源が、高天原から天神の御子へと続いた歴代天皇の後継にあるとの主張を、現代のわたしたちは『古事記』『日本書紀』に記された天孫降臨以降の近畿天皇家の系譜と後継のことと考えてしまいます。しかし、文武天皇「即位の宣命」が出されたのは『古事記』『日本書紀』成立以前であり、末期とは言え九州王朝の時代ですから、720年に編纂される『日本書紀』の歴史観など国内の諸豪族にとって恐らく知るよしもありません。ですから、「高天原に事始めて、遠天皇祖の御世、中今に至るまで」の「天皇」と宣命で述べられたとき、それは九州王朝の歴代「天皇」のことと理解されてしまうのではないでしょうか。少なくとも、歴代九州王朝の天子(「天皇」)のことが脳裏をよぎったであろうことをわたしは疑えません。
 従って、この宣命の内容では、九州王朝とその史書に書かれていたであろう「系譜と歴史」のことを知っている同時代の人々に対しては説得力を欠くように思われます。そして、持統天皇の権威の淵源に説得力がなければ、その持統天皇の禅譲による文武の天皇即位も説得力を持つことはできません。しかし、この宣命の四年後(701年)に九州王朝から大和朝廷への王朝交替が大きな抵抗もなく行われています。そうであれば、持統や文武はどのような根拠や説明によって諸豪族を説得したのでしょうか。(つづく)


第2222話 2020/09/02

文武天皇「即位の宣命」の考察(6)

 文武天皇「即位の宣命」は四つの記事から構成されており、第一節は当宣命の「前文」ともいうべき次の記事です。

 「現御神と大八島国知(しろ)しめす天皇が大命らまと詔(の)りたまふ大命を、集侍(うごな)はれる皇子等・王等・百官人等、天下の公民、諸(もろもろ)聞(きこ)し食(め)さへと詔(の)る。」

 この「前文」の後に第二節が続きます。

 「高天原に事始めて、遠天皇祖の御世、中今に至るまでに、天皇が御子のあれ坐(ま)さむ彌(いや)継々(つぎつぎ)に、大八島国知らさむ次と、天つ神の御子ながらも、天に坐す神の依(よさ)し奉りしままに、この天津日嗣高御座(あまつひつぎたかみくら)の業(わざ)と、現御神と大八島国知らしめす倭根子天皇命の、授け賜ひ負(おは)せ賜ふ貴き高き広き厚き大命を受け賜り恐(かしこ)み坐して、この食国(をすくに)天下を調(ととの)へ賜ひ平(たひら)げ賜ひ、天下の公民を恵(うつくし)び賜ひ撫で賜はむとなも、神ながら思しめさくと詔りたまふ天皇が大命を、諸聞し食さへと詔る。」

 この第二節は当宣命の最も重要な部分で、天皇の権威の歴史的淵源、即位の根拠と正統性について述べたものです。701年の王朝交替の直前(697年)に即位した文武にとって、王朝交替と即位の正統性こそ、国内の諸豪族へ説明しなければならない最重要事項だったはずです。このように、九州王朝説に立って文武天皇「即位の宣命」を精査するとき、通説とは異なる歴史風景が見えてきます。(つづく)


第2220話 2020/09/01

文武天皇「即位の宣命」の考察(5)

 「天皇」と「朝庭」以外にも、文武天皇「即位の宣命」中には興味深い言葉が使用されています。例えば次の記事に見える「国法」もその一つです。

 「是を以ちて、天皇が朝庭の敷き賜ひ行ひ賜へる百官人等、四方の食国を治め奉れと任(ま)け賜へる国々の宰等に至るまでに、国法を過ち犯す事なく、明(あか)き浄き直き誠の心にて、御称称(みはかりはか)りて緩(ゆる)び怠る事なく、務め結(しま)りて仕(つか)へ奉れと詔りたまふ大命を、諸聞こし食さへと詔る。」

 「法」という言葉は『続日本紀』の他の宣命中にも見え、律令や仏法などの意味で使用されています。文武天皇「即位の宣命」の場合はその文脈から、朝廷(朝庭)の中央官僚(百官人)や諸国の国宰が遵守すべき「食国を治め」る「法」のことと理解せざるを得ません。しかしながら、このとき『大宝律令』はまだできていませんから、この「国法」を近畿天皇家の律令と見なすことはできません。一元史観の通説では、「近江令」や「浄御原令」とすることが可能ですが、九州王朝説の立場からは、文武天皇が「即位の宣命」で九州王朝律令を「国法」として、中央官僚や諸国の国宰に〝過ち犯す事なく務めよ〟と命じたとするのも不自然に思われます。それではこの「国法」とは何を指しているのでしょうか。わたしの見るところ、一つだけ「国法」に値するものがあります。それは『日本書紀』孝徳紀大化二年(646年)正月条の「改新之詔」です。
 九州王朝研究によれば、『日本書紀』大化二年(646年)の改新詔には九州年号の大化二年(696年)から五〇年遡らせて転用されたものがあると考えられています(注①)。そうであれば、九州年号の大化二年の翌年(697年)に文武天皇「即位の宣命」が発せられたこととなり、そこで述べられた「国法」とは、その前年(696年、持統十年)に出された九州年号「大化二年の改新詔」とすることができるのです。
 『日本書紀』大化二年条には詔がいくつか記されていますが、同年正月に発せられた「改新之詔」には、四条からなる行政指針(政治改革の大綱)が含まれており、近畿天皇家が王朝交替後の新国家体制を目指した、「国法」と呼ぶにふさわしい内容となっています。その概要は次の通りです。

〔第一条〕私地・私民の廃止。
〔第二条〕地方制度・軍事制度・駅制の制定。
〔第三条〕戸籍・計帳と班田法、租税の制定。
〔第四条〕調・官馬・兵器・仕丁・采女の制定。

 この第二条には「郡(大郡・中郡・小郡)」の制定記事が含まれており、これこそが九州年号「大化二年」(696年)の「廃評建郡」の詔勅であるとする説をわたしは発表したことがあります(注②)。
 以上の様に、文武天皇「即位の宣命」中に見える「国法」は、『日本書紀』大化二年正月条に五〇年遡らせて転用された、九州王朝から大和朝廷への王朝交替を準備した「改新之詔」ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」一九六話(2007/11/16)〝「大化改新詔」五〇年移動の理由〟
 正木 裕「『藤原宮』と大化改新についてⅠ 移された藤原宮記事」『古田史学会報』87号(2008年8月)
 正木 裕「『藤原宮』と大化改新についてⅢ なぜ『大化』は五〇年ずらされたのか」『古田史学会報』89号(2008年12月)
 正木 裕「九州王朝から近畿天皇家へ 『公地公民』と『昔在の天皇』」『古田史学会報』99号(2010年8月)
②古賀達也「大化二年改新詔の考察」『古田史学会報』89号(2008年12月)
 古賀達也「洛中洛外日記」一八九話(2008/09/14)〝「大化二年」改新詔の真実〟
 古賀達也「洛中洛外日記」一九二話(2008/10/11)〝評から郡への移行〟