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第468話 2012/09/17

「三経義疏」の比較

 韓昇さんの「聖徳太子写経真偽考」(『東と西の文化交流(関西大学東西学術研究所創立50周年記念国際シンポジウム’01報告書)』所収)で紹介された『北京大学図書館蔵敦煌文献』第二冊の鳩摩羅什訳『維摩詰経』巻下残巻の末尾に次の記事があります。

「経蔵法興寺
 定居元年歳辛未上宮厩戸写」

 九州年号の「定居元年」が見え、この部分は後代の追記(偽作)とされているようですが、それほど単純な問題ではないとわたしは思っています。というのも、聖徳太子書写と偽って史料価値を高めるための偽作であれば、もっと違った追記となるのではないでしょうか。
 たとえば「経蔵法興寺」の部分ですが、聖徳太子のお寺といえば、やはり「法隆寺」でしょう。『法華義疏』(皇室御物)や『勝鬘経義疏』(鎌倉時代版本) が法隆寺に伝来していたのですから、後代追記(偽作)するのであれば「経蔵法隆寺」とするでしょう。従って「経蔵法興寺」とあるのは偽作の証拠ではなく、 逆に偽作ではないという心証を得るのです。
 次に「定居元年歳辛未上宮厩戸写」の部分ですが、これも偽作するのであれば、聖徳太子によるとされた「三経義疏」のうち、他の『勝鬘経義疏』(法隆寺蔵 鎌倉時代版本)や『法華義疏』(皇室御物。法隆寺旧蔵)と同じような下記の追記がなされるのではないでしょうか。

 「此是 大委国上宮王私
     集非海彼本」『法華義疏』

 「此是大倭国上宮
  王私集非海彼本」『勝鬘経義疏』

 これらは両義疏冒頭に記されているのですが、いずれも上宮王が私に集めたもので、「海彼」(外国からもたらされた)の本ではないことを意味しています。すなわち、上宮王が書写したり著述したものとはされていません。
 ところが、今回紹介された『維摩経義疏』は「上宮厩戸写」と記されており、他の二疏とは明らかに異なっています。これなども、偽作の手口としてはおかし なもので、逆に偽作ではなく、真作あるいは何らかの根拠があってこうした記事を追記したのではないかと考えられるのです。(つづく)


第466話 2012/09/12

二説ある聖徳太子生没年

 服部和夫さん(古田史学の会・会員)から教えていただいた聖徳太子書写とされる『唯摩経疏』ですが、末尾の記事はいろいろと面白い問題を含んでいます。同記事の真偽は別として、その問題について検討してみました。
 『唯摩経疏』断簡末尾には次のような記事があり、「上宮厩戸」が『唯摩経疏』を定居元年辛未(611)に書写したとされています。

「経蔵法興寺
定居元年歳辛未上宮厩戸写」

 ところが聖徳太子の伝記である『補闕記』では『唯摩経疏』の作成開始を壬申(612)の年とし、完成を癸酉(613)の年としており、『唯摩経疏』断簡末尾の記事とは2年の差があるのです。この差は何が原因で発生したのでしょうか。そして、どちらが真実なのでしょうか。ちなみに『日本書紀』には聖徳太子による『唯摩経疏』作成記事はありません。
 通常、聖徳太子の生没年は歴史事典などでは574~622年とされることが多いようです。しかし学問的に見ますと、聖徳太子の生没年にはそれぞれ二つの説があります。特に没年は、『日本書紀』には621年2月5日(推古29年)のことと記されているにもかかわらず、法隆寺釈迦三尊像光背銘に見える622年2月22日没が「定説」となっています。
 皆さんは既にご存じのことと思いますが、622年に没したとされる同光背銘にある「上宮法皇」は聖徳太子とは別人で、九州王朝の天子・阿毎多利思北弧であることを古田先生が論証されています。すなわち、我が国では、聖徳太子とは別人の没年(『日本書紀』とは没年の年と日が異なっており、あっているのは「2月」だけ。母親や妻の名前も全く異なっている)を「定説」としているのです。理系が本職(化学)のわたしには、とても信じられないほどのずざんな「同定」です。日本の古代史学界ではこのレベルが「定説」として「通用」するのですね。驚きを通り越して、あきれかえります。
 没年と同様に誕生年にも、管見では二説あります。一つは『上宮法王帝説』『補闕記』などを根拠とした574年、もう一つは『聖徳太子伝記』(鎌倉時代成立。『聖徳太子全集』第二巻所収)などを根拠とした572年です。この二つの説が文献に見えるのですが、両説は2年の差をもっています。冒頭で紹介した『唯摩経疏』の成立年が『唯摩経疏』断簡末尾の「定居元年辛未」(611)と『唯摩経疏』の癸酉(613)とでは2年の差があるのですが、この差が聖徳太子誕生年の2説の差と同じです。すなわち、『唯摩経疏』の成立年の2説発生は、誕生年の2説の差が原因なのです。
 このように『補闕記』と『聖徳太子伝記』での『唯摩経疏』完成年は2年のずれがありますが、共に聖徳太子40歳のときであると記されています。誕生年が2年ずれていますから、そのまま『唯摩経疏』完成年も2年ずれたわけですが、それではどちらが真実なのでしょうか。(つづく)


第465話 2012/09/10

中国にあった聖徳太子書写『唯摩経疏』

 名古屋市の服部和夫さん(古田史学の会・会員)から大変興味深い情報がもたらされました。聖徳太子が書写したとされる 『唯摩経疏』断簡が中国にあるというのです。服部さんからご紹介いただいたホームページ「聖徳太子研究の最前線」(石井公成・駒沢大学仏教学部教員)によると、『東と西の文化交流(関西大学東西学術研究所創立50周年記念国際シンポジウム’01報告書)』に韓昇さんの中国語論文「聖徳太子写経真偽考」が収録されており、そこには『北京大学図書館蔵敦煌文献』第二冊に鳩摩羅什訳『唯摩詰経』巻下残巻があることが報告されています。
 その『唯摩詰経』巻下残巻(17字×127行)の末尾に次のような記載があり、九州年号の「定居元年(611)」が見えるのです。

「経蔵法興寺
 定居元年歳辛未上宮厩戸写」

 韓昇さんの見解では、本文は唐代のものの可能性があるが、末尾の文章は中国人による偽作(後代追記)とされているようです。 同論文や『北京大学図書館蔵敦煌文献』をわたしはまだ見ていませんので、この『唯摩経疏』が聖徳太子の書写によるものかどうか、ただちに判断はできませんが、九州年号の「定居元年」や「経蔵法興寺」などの記事は興味深いものです。取り急ぎ、みなさんに紹介し、わたしも分析検討をすすめていきます。(つづ く)


第433話 2012/07/03

『「九州王朝」の研究』(仮称)の出版企画

先日、ミネルヴァ書房の田引さんとお会いし、新たな書籍出版の企画について話し合いました。田引さんからは、古田史学に基づいた各地の遺跡や遺 物・博物館などの「歴史散歩」ガイドブックを古田史学の会で編集してほしいとの御提案をいただきました。もちろん大賛成ですので、古田史学の会の役員会に はかることをお約束しました。
田引さんとの打ち合わせの結果、まずは「九州編」から始めることになりそうです。来年秋には脱稿して欲しいとのことですので、編集チーム作りと現地会員 への協力要請を行い、取り上げるスポットの選考を行うことになるでしょう。「九州編」が成功したら、次は「近畿編」「東海編」「関東編」「東北・北海道 編」「中国・四国編」などへと発展できれば素晴らしいと思います。従来から、古田史学による遺跡の紹介・解説をした書籍発行への要望が大きかったので、是 非、実現できればと思います。
わたしからは、昨年末発行していただいた『「九州年号」の研究』の姉妹編として、『「九州王朝」の研究』(仮称)の発行を提案しました。前著は「九州年 号」という切り口で九州王朝の実像に迫りましたが、『「九州王朝」の研究』では、多面的な視点から九州王朝の全体像に迫りたいと考えています。具体的に は、この20年間での九州王朝研究における優れた論文を採録し、九州王朝史年表や新たに発表される最新の論稿も掲載したいと考えています。
完成まで数年かかると思いますが、皆さんのご協力をお願いします。


第419話 2012/05/30

前期難波宮の「戊申年」木簡

 東京に来ています。昨日は足利市に行きましたが、途中で開業後初めて東京スカイツリーを間近で見ました。やはり大きいですね。おそらく、古代の人々が法隆寺や観世音寺の五重の塔を見上げたときも、同じような感慨を抱いたのではないでしょうか。今日はこれから福島市へ向かい、夜は山形市で宿泊予定 です。

 難波宮編年の勉強のために『大阪城址2』(2002、大阪府文化財調査報告研究センター)を読んでいますが、この発掘調査報告書にはわが国最古の紀年銘 木簡である「戊申年」(648)木簡の報告が掲載されています。この木簡の出土が、前期難波宮の時代特定に重要な役割を果たしたことは既に紹介してきたと ころですが、今回その発掘状況と史料性格(何のための木簡か)を詳しく知りたいと思い、大阪市立歴史博物館に行き、同報告を閲覧コピーしました。

 同報告書によれば「戊申年」銘木簡が出土したのは難波宮跡の北西に位置する大阪府警本部で、その谷だった所(7B地区)の地層の「16層」で、「木簡をはじめとする木製品や土器を包含するとともに、花崗岩が集積した状態で検出されている。出土遺物からみて前期難波宮段階の堆積層である。」(12頁)とされています。この花崗岩は化学分析等によって上町台地のものではなく、前期難波宮造営に伴って生駒山・六甲山・滋賀県田上山などから人為的に持ち込まれた とのことです。

 木簡の出土は33点確認されており、その中の「11号木簡」とされているものが「戊申年」銘が記されたものです。この他にも、「王母前」「秦人凡国評」や絵馬も出土しており、大変注目されました。

 これら花崗岩や木簡が出土した「16層」は前期難波宮の時代(整地層ではない)と同時期とされていますが、堆積層ですからその時代の「ゴミ捨て場」のような性格を有しているようです。土器も大量に包含されていますので、その土器編年について積山洋さん(大阪市立歴史博物館学芸員)におたずねしたところ、 「難波3新」で660~670年頃とのことでした。従って、「戊申年」(648)木簡の成立時期よりもずれがあることから、同木簡作成後10~20年たっ て廃棄されたと考えられるとのことでした。積山さんの推測としては、同木簡などは前期難波宮のどこかに保管されていたもので、660~670年頃に廃棄されたのではないかとのことでした。

この積山さんの見解を正木裕さんに話したところ、これは近江遷都と関係しているのではないかとのアイデアが出されました。近江遷都は『海東諸国紀』によれば白鳳元年(661)、『日本書紀』によれば天智6年(667)とされていますが、同木簡廃棄時と同時期です。もしかすると近江遷都にともなって難波宮にあった文物の引っ越しがあり、その時に不要な木簡類が廃棄されたのではないかと想像しています。


第387話 2012/02/20

九州王朝太子殺害記事の正木異説

 第381話で、『海東諸国紀』に「(賢接)三年戊戌(578)、六斎日を以て経論を被覧し、其の太子を殺す。」(以六斎日被覧経論殺其太子)とい う、九州王朝内での太子殺害事件が記されていることを紹介しました。これに対して、先週の関西例会で正木さんから異論が出されました。
 『聖徳太子伝傳記』(1318年成立)に、「太子七歳戊戌(578)経論被見六斎日殺生禁断」という記事があり、『海東諸国紀』の「以六斎日被覧経論殺 其太子」は、本来「以六斎日、被覧経論、殺生禁断、其太子~」とあったものが、誤写などで「生禁断」が抜け落ち、誤伝したのではないかとされたのです。
 なるほど、これは優れた見解と思われました。正木さんのこの異論は以前の関西例会でも発表されており、確かな史料根拠に基づいたもっともな説と思っているのですが、それにもかかわらず、わたしが第381話で「九州王朝太子殺害記事」として紹介したのには理由がありました。
 一つは、殺生禁断という仏教的にはありふれた記事が、太子殺害記事という重大事件に誤写誤伝されるものだろうか、という点です。二つ目は、この578年 という年は、日本史の中でも著名な「聖徳太子」の時代であり、朝鮮国の公的な書籍といえる『海東諸国紀』の編纂に当たって、太子が殺されたとする、それほ どずさんな誤写、あるいは誤伝史料の採用を行うだろうかという素朴な疑問を払拭できなかったからなのです。
 やはり九州王朝史料に「太子殺害事件」が記されており、後の時代に聖徳太子伝記を編集するときに、殺生禁断記事に書き換えられたという可能性を否定でき ないと思うのです。もちろん、現時点では正木異説も有力と考えており、断定するべきではないとも思っています。引き続き、研究を深めたいと思います。な お、正木さんの異説発表には敬意を払います。学問研究にとって、異論の提起は大切なことですから。


第381話 2012/02/05

九州王朝の太子殺害事件

 今日は京都市長選挙の投票日で、京都御所の東隣にある京極小学校へ妻と二人で投票に行ってきました。京極小学校は娘が通った小学校で、湯川秀樹さんがこの小学校を卒業されたことでも有名です。京都市長選は前回より電子投票になりましたので、集計作業も早く、現職の角川さんの当選がNHK大河ドラマ終了後のニュースで早々と報道されました。
 近代民主国家は平和的に選挙で政権やリーダーの決定・交替が可能ですが、古代社会においては譲位・禅譲とは別に、放伐やクーデター、内乱、内紛など様々 な血なまぐさい交代劇が少なくありません。恐らく九州王朝内部でも近畿天皇家へ列島の代表者が替わるまで、いろんな事件があったはずです。残念ながら九州王朝史書は抹殺され遺されていませんから、その詳細はほとんどわかりませんが、其の断片が諸史料にわずかですが残っています。
 その一つに、九州年号群史料としても有名な『海東諸国紀』があります。同書は1471年に李氏朝鮮で作成された、日本と琉球の歴史・地理・風俗・言語・ 通行を克明に記した史料で、著者は朝鮮の最高の知識人でハングル制定にも寄与した申叔舟(1417~1475)です。
その中に次のような九州王朝内の驚くべき事件が記されているのです。

「(賢接)三年戊戌、六斎日を以て経論を被覧し、其の太子を殺す。」

 賢稱三年(『海東諸国紀』は「賢接」とする)は敏達七年に当たり、大和朝廷では太子が殺されたなどという物騒な事件は起こっていません。従って、九州年号の賢稱とセットで記されたこの記事も九州王朝内部の事件と見なさざるを得ないのです。
 この記事が事実だとすると、この賢稱三年(578)は九州王朝の輝ける天子多利思北孤即位のほぼ前代に当たり(即位は端政元年〔589〕)、すなわち多利思北孤は正統たる皇位継承者の太子が殺害された結果、即位できた天子となるのです。このことについては拙論「九州王朝の近江遷都 — 『海東諸国紀』の史料批判」(『「九州年号」の研究』に収録)をご参照下さい。
 現時点では、これ以上のことは不明ですが、今後、丹念に諸史料に遺されている九州王朝系記事を精査する事により、失われた九州王朝史の復原が少しずつでも進むことが期待されます。


第236話 2009/11/22

「米良」姓の分布と熊野信仰

 昨日の関西例会は初参加の方が3名あり、遠く長野県からの参加者もおられ、いつものように活発な質疑応答が交わされました。いずれの発表も貴重な研究で触発されるものでした。
 例会の休憩時間に、第234話で触れた日向米良修験道の「米良」姓の分布調査を西村さん(本会全国世話人)に依頼したところ、ご自慢の携帯電話で電話帳 検索をまたたくまの間にしていただけました。その結果は私の予想以上のもので、とても驚きました。
 「米良」さんの県別分布は宮崎県の286件をトップに、何と2位が大都市の東京(31件)大阪(39件)を倍近く抜いて千葉県の64件だったのです。ち なみに有名な那智勝浦の熊野大社のある和歌山県は7件で、その内6件が那智勝浦に集中していました。やはり熊野信仰と米良氏は関係の深いことが推察されま した。これは私の予想していたとおりでしたが、千葉県の64件は全く「想定外」だったのです。しかも、千葉県の米良さんも勝浦に集中しているのです。米良 さんが集中している千葉県勝浦と和歌山県那智勝浦、そして米良さん最多集中の宮崎県は黒潮で結ばれた「熊野信仰圏」ではないでしょうか。
 もしそうだとすると、その方向は宮崎から和歌山そして千葉へ。このように考えざるを得ません。そして、その移動の時代が古代まで溯る可能性大ではないで しょうか。
 しかもその淵源は菊池氏・天氏となりますから、熊野信仰の淵源は九州王朝となります。なお、千葉県勝浦の近傍には「天津」「天津小湊」「天面(あまつら)」という興味深い地名もあります。
 以上、例会の休憩時間を利用した初歩的で簡単な調査と推論ではありますが、とても魅力的かつ雄大なスケールを持つ研究テーマと言えそうです。どなたか本格的に米良氏と熊野信仰を研究されてはいかがでしょうか。
 11月例会の発表テーマは次の通りでした。

〔古田史学の会・11月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 「蒔かぬ種」「蒔いた種」・他(豊中市・木村賢司)
2). 大湖望での短里実験(交野市・不二井伸平)
3). 万葉集第304番歌の作歌場所(京都市・岡下英男)
4). 新撰姓氏録の人口分布(木津川市・竹村順弘)
5). 命長改元と「大宰府政庁」について(川西市・正木裕)
6). 一切経写経と利歌弥多弗利そして『十七条憲法』(川西市・正木裕)
○水野代表報告
  古田氏近況・会務報告・巻向出土遺跡現地説明会報告・柿本人麻呂を祀る神社・他(奈良市・水野孝夫)


第227話 2009/09/23

九州王朝の建都遷都と改元

 前期難波宮九州王朝副都説の発見は、様々な問題の発展を促しました。たとえば、前期難波宮建都に伴い、九州年号が白雉に改元(652年)され、焼失により朱鳥改元(686年)された事実に気づいたことにより、九州王朝では建都や遷都に伴って九州年号を改元するという認識が得られたのです。

 このテーマについて、過日、正木裕さん(古田史学の会会員)と拙宅近くの喫茶店で検討を進めました。大宰府建都(おそらく遷都も)が倭京元年(618 年)の可能性が強く、前期難波宮建都により白雉改元、近江遷都は白鳳元年(661年、『海東諸国紀』による)、そして藤原宮遷都の694年12月の翌年が大化元年と、建都遷都と九州年号の改元が偶然とは考えにくいほど「一致」していることについて、正木さんの見解をうかがったところ、それ以外の遷宮時も九州年号が改元されている可能性を指摘されました(たとえば常色元年、647年)。九州王朝の天子が即位時に遷宮し、同時に改元したというもので、この正木さんの指摘は大変興味深いものでした。
 大和朝廷の天皇も多くは即位時に「遷宮」しており、この風習は九州王朝に倣ったものではないかという問題にも発展しそうです。詳しくは正木さんが論文発表を予定されていますので、そちらをご参照いただきたいのですが、九州王朝史復原作業において、九州年号のより深い研究が重要です。正木さんとの「共同研究」はこれからも進めたいと思っています。


第82話 2006/06/10

「元壬子年」木簡の証言

 1996年に芦屋市から出土した「三壬子年」木簡が、実は「元壬子年」であったことが私達の調査により判明したのですが(69話72話参照)、今回はこの史料事実がもたらす古代史上の画期性について強調してみたいと思います。

 学問的良心と人間としての平明な論理性を持つ読者の皆さんには、今さらながら言うまでもないことですが、この「元壬子年」木簡が直接的に指し示す肝要の一点は、『日本書紀』の「白雉元年」を庚戌(650年)の年とする記述は誤りで、『二中歴』や『海東諸国紀』等に収録された「九州年号」の「白雉元年壬子(652年)」が歴史的事実であったということです。すなわち、『日本書紀』よりも「九州年号」の方が真実を伝えていたのです。「元壬子年」木簡は、まさにこの事を証言しているのです。

 従って、この木簡の「元壬子年」という文字を認めると、今まで論証抜きで偽作扱いされてきた「九州年号」の真実性を認めなければならず、次いでこのような年号を大和朝廷よりも早く公布した王朝の存在を認めなければなりません。さらに、この古代年号群が「九州年号」と呼ばれていた事実から、その公布主体が九州に存在した王朝であることも論理的必然として認めなければならないでしょう。すなわち、古田武彦の九州王朝説は正しかった、通説の大和朝廷一元史観は間違いであった、となるのです。これが、史料事実とそれに基づく人間の平明な論理性の帰結なのですから。

 あなたの周りにおられる大和朝廷一元史観の人に、この平明な論理性を語ってみて下さい。もし、その人が「なるほど、その通りだ」と理解できる人なら、共に真実と学問を語るに足る友人とすることができるでしょう。「それでも、大和朝廷が古代から列島の唯一卓越した代表者のはずだ」「九州年号や九州王朝はなかったはずだ」という人には、静かに首を横に振るしかないでしょう。残念なことに、世の中にはそのような人も少なくないのです。理系と比較して、世界の学問や理性との競争原理がほとんど働かない日本古代史学界など、その最たるものかもしれませんね。


第37話 2005/10/17

九州王朝の近江遷都

 わたしは、「古田史学の会・まつもと」から毎年のようにお呼びいただいて、松本市で講演をしています。そのほかにも、札幌や仙台、東京、大阪、松山、福岡などの各地で講演をしてきましたが、どういうわけか比較的お近くの名古屋では講演をしたことがありませんでした。そんなおり、「古田史学の会・東海」の林俊彦さん(本会全国世話人)より講演依頼をいただきました。というわけで、11月6日(日)に名古屋で講演させていただくことになりました。
 テーマは「九州王朝の近江遷都」。このテーマは、既に論文として『古田史学会報』61号(2004年4月)に発表していますが、その史料根拠を15世紀成立の後代史料『海東諸国紀』においていたこともあり、古田先生からは面白い考えだが、考古学的痕跡などで証明できなければ成立困難と、かなり辛口の批評をいただいていました。そうしたこともあって、以後このテーマを取り扱うことに慎重になっていました。
 そして今回、いよいよこの禁断のテーマに再度挑戦することにしました。名古屋の皆さんに聞いていただき、はたして「九州王朝の近江遷都」説は成立するか否か、ご判断いただきたいと願っています。


第18話 2005/08/06

『有明海異変』読後感

 第17話にてお名前を紹介した古川清久さんには『有明海異変』(不知火書房)という素晴らしい著書があります。本年一月、古川さんより贈っていただいたこの本を、一気に読み終えた記憶があります。諫早湾の干拓による環境破壊やダムの問題点などを冷静な筆致と徹底したフィールドワークに基づいて書かれた同書を読んで、わたしはその方法に古田史学と共通するものを感じたのでした。しかも、筆者の暖かい人間性や自然を愛する息吹を感じることのできる本だったのです。

 いわゆる社会運動家の書いた本には、過度な感情論に終始するものや、独りよがりの「正義」感(イデオロギー)で思考停止したものも少なくありませんが、古川さんの著作はそれらとは全く異なったものでした。中でも、ダムに反対しつつも、ある優美なダムの姿(白水ダム・大分県)を写真入りで紹介し讃美する箇所を読んで、古川さんの健全な美意識に深く共感しました。更にダムを壊す公共事業の提言など、現実性を伴った解決策を述べるところも秀逸です。

 わたしはこの本を通じて古川さんの人となりを知り、お付き合いを始めました。とは言っても、電話とメイルのやりとりだけで、お会いしたことはまだありません。古川さんは古田史学に共感して、わたしに著書を贈ってくださったようですが、わたしは古田史学を通じて知己を得たのでした。このように古代史にとどまらず現代史まで勉強できるのは、有り難いことです。
なお、古川さんの論文(歴史関連もあり)はホームページ「有明海・諫早湾干拓リポート1・有明海・諫早湾干拓リポート 2」に掲載されています。