文献一覧

第2344話 2021/01/09

古田武彦先生の遺訓(22)

―司馬遷の暦法認識は「一倍年暦」―

 一倍年暦で編纂されているはずの『史記』の「秦本紀」に見える百里傒の年齢記事(七十余歳)が二倍年齢であることを説明しました。それでは司馬遷は周代における二倍年暦(二倍年齢)の存在を知っていたのでしょうか。結論から言えば、司馬遷は二倍年暦という概念を知らなかったと思われます。今回はその説明をします。
 『史記』冒頭の「五帝本紀」に堯(ぎょう)の業績の一つに一年の長さと閏月を決めたことが記されています。次の通りです。

 「一年は三百六十六日、三年に一回閏月をおいて四時(注①)を正した。」『中国古典文学大系 史記』上巻、10頁。(注②)

 この記事から、司馬遷が伝説の聖帝堯の時代から一年を三百六十六日とする一倍年暦であったと理解していることがわかります。従って、二倍年暦の存在を認識していなかったと思われます。この他にも、『史記』「暦書」には次の記事が見えます。

 「大昔は暦の正月は春の始にしていた。(中略)一切のものは、ここにはじまり、一年の間に完備し、東からはじまり四季の順にめぐって、冬に終わるのである。そうして冬が終わるとまた鶏が三度鳴いて新しい年が明け、十二ヶ月がめぐって、十二支の丑にあたる十二月で終わる。(後略)」同、239頁。

 そして「暦書」の末尾に、一年を三百六十五日と四分の一とする「四分暦」に相当する歴表「暦日甲子篇」が記されています。これらの記述から、司馬遷は中国での暦法は上古より一貫して一倍年歴と認識していたと思われます。(つづく)

(注)
①ここでの「四時」は、四季を意味する。
②野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。


第2343話 2021/01/08

古田武彦先生の遺訓(21)

―『史記』秦本紀、百里傒の二倍年齢―

 西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の見解のように、東周時代(春秋・戦国期)は有力諸侯がそれぞれ別個の暦法を採用していたのであれば、その痕跡があるのではないかと思い、司馬遷の『史記』(注①)を読み始めました。その結果、「秦本紀」に一倍年暦と二倍年暦(二倍年齢)混在の痕跡を発見しましたので紹介します。
 『史記』の「秦本紀」に百里傒(注②)という人物が登場します。秦の繆(ぼく)公に請われて大夫となって国政をあずかり、秦の勢力拡大に貢献した人物です。後に始皇帝が中国を統一できたのも百里傒の功績に依るところが大きかったと考えられています。その百里傒について次のような年齢記事があります。

 「〔繆公五年〕百里傒は秦から亡(に)げて宛(河南省)に走ったが、楚の里人にとらえられた。繆公は百里傒が賢人であると聞いて、重財を投じてもこれを贖(あがな)いたいと思った。(中略)
 楚人は承諾して百里傒を返した。このとき、百里傒はすでに七十余歳であった。」『中国古典文学大系 史記』上巻、58頁

 こうして百里傒は繆公五年に大夫として仕え、活躍します。そして百里傒が最後に登場するのが、晋討伐に百里傒の子の孟明視が将軍として出陣する場面で、次のように記されています。

 「〔繆公三十二年〕出陣の日、百里傒と蹇叔(けんしゅく)の二人は、出陣する軍にむかって泣いた。」『中国古典文学大系 史記』上巻、61頁

 蹇叔は百里傒の親友で、百里傒の推挙により秦の上大夫に迎えられた賢人です。両大夫の息子たちが将軍として出陣することになり、もう会うことはできないだろうと老人二人が泣いたという場面です。
 これを最後に、「秦本紀」には繆公の発言中に百里傒の名前は挙がるものの、百里傒自身の言行記事としては現れなくなります。ですから、繆公五年のときに百里傒が七十余歳であれば、繆公三十二年には約百歳になっています。しかも息子の孟明視は将軍として活躍できる年齢ですから、もし一倍年齢で百里傒が三十歳のときの子供であれば孟明視は約七十歳ということになり、いくらなんでも将軍として戦場で指揮を執るのは無理ではないでしょうか。二十歳のときの子供であれば、それこそ約八十歳であり、将軍として出陣するのは非常識です。これが二倍年齢であれば、百里傒が繆公に仕えたのは三十代後半となり、本人も息子もリーズナブルな年齢となります。
 このようなことから、百里傒の年齢記事(七十余歳)は二倍年齢表記と考えざるを得ないのです。他方、「秦本紀」全体としては一倍年暦で書かれていることから、二つの暦法が混在していると、わたしは判断しました。
 百里傒が活躍した繆公の時代は、一倍年暦による従来説では紀元前七世紀頃(春秋時代)とされています。また、百里傒は楚の出身とされていますので、『史記』の記事に基づけば、この時代の楚は二倍年暦、秦は一倍年暦を採用していたと考えることができます。もちろん、『史記』の年齢記事・諸侯の在位年数が司馬遷により一倍年暦に改訂されたものであれば、あるいは司馬遷が参考にした元史料が既に一倍年暦に改訂されていた場合には、こうした単純な判断はできません。それでは司馬遷は二倍年暦という暦法や二倍年齢という概念の存在を知っていたのでしょうか。(つづく)

(注)
①野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。
②『孟子』「萬章章句上」には百里奚とある。

 


第2342話 2021/01/07

古田武彦先生の遺訓(20)

―東周時代(春秋・戦国期)の暦法混在―

 『論語』が二倍年暦により成立していることを調べるために、いくつかのアプローチ(注①)を試みていますが、その一つに周代の暦法調査があります。これまで報告してきたように、前半の西周時代は歴代周王の年齢や在位年数により二倍年暦(二倍年齢)が採用されていたと考えていますが、後半の東周時代(春秋・戦国期)については判断が困難でした。そこで、わたしはこの研究を進めるにあたり、共同研究者として古代暦法に詳しい山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)や西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)に協力していただくことにしました。山田さんの研究成果はご自身のブログ〝sanmaoの暦歴徒然草〟で発表されていますので、ご覧下さい。
 中国古典に詳しい西村さんからは、東周時代は周王朝の権威や支配が衰え、有力諸侯がそれぞれ別個の暦法を採用していた可能性があり、その結果、秦の始皇帝は中国統一当時バラバラだった度量衡や暦法を統一したのではないかとのご意見をいただきました。
 このことについて、わたしにも思い当たる節がありました。たとえば、西晋時代(三世紀)に魏王(戦国期)墓から出土した『竹書紀年』はその後散佚し、現在伝世しているものには一倍年暦が採用されているように見えることから、出土時か散佚後の収集段階で一倍年暦に改訂されたか、あるいは元々から一倍年暦で編纂されていた可能性もあると考えていました。後者であれば、『竹書紀年』成立時の魏国(戦国期)では一倍年暦が採用されていたことになり、東周時代の暦年復原作業が複雑になります。
 このようなケースも想定していたので、西村さんからの指摘を受けて、東周時代の暦年研究が〝複雑系〟での困難な分析作業になるのは避けられないと覚悟しました。そこで、東周時代の有力諸国別に伝世史料の精査が必要となるため、それに先だって前漢代成立の『史記』の全巻読破を始めることにしました。しかし、いきなり原文(漢文)を読むのは難しすぎて時間も能力も足りませんので、比較的優れた現代語訳の『中国古典文学大系 史記』全三巻(注②)を購入し、読み始めました。その結果、「秦本紀」に一倍年暦と二倍年暦混在の痕跡らしきものを発見しました。(つづく)

(注)
①周代に関する伝世史料や竹簡・金文などの出土史料を対象とした文献史学からのアプローチ、古代暦法からのアプローチ、古天文学からのアプローチを進めている。
②野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。

 


第2331話 2020/12/23

阿智王伝承と阿智使主伝承

 『群書系図部集 第七』の「大蔵氏系図」(注①)には、阿智王と阿智使主、高尊王・高貴王と阿多倍のように、同一人物に複数の名前があることから、「洛中洛外日記」2329話(2020/12/21)〝群書類従「大蔵氏系図」の史料批判〟において、〝名前も前文では「阿智王」「阿多倍=高尊王」、系図では「阿智使主」「高貴王」と微妙に異なっており、本当に同一人物の伝承なのか用心する必要もあります。〟と指摘しました。この問題について検討したところ、本来は別伝承であった「阿智王伝承」と「阿智使主伝承」が〝習合〟されていた可能性が高まりました。
 阿智王や阿智使主に関する伝承はいくつかの史料(注②)に見えますが、主には次のような差異があります。

(1)代表的な始祖の名前が「阿智王(あちおう)」と「阿智使主(あちのおみ)」
(2)その子供の名前が「阿多倍」と「都賀使主(つがのおみ)」
(3)来日の時期が「孝徳期」と「応神期」
(4)来日した人物が「阿智王・阿智使主」と「阿多倍」
(5)帰化した類族数が「十七縣」と「七縣」

 これらの差異が史料毎に様々なバリエーションで伝承されており、一見すると整合性や規則性はありません。しかし、この中で決定的な差異は(3)の来日年代です。孝徳期(七世紀中頃)と応神期(『日本書紀』紀年では三世紀後半頃)ですから、誤記誤伝のレベルではありませんので、本来は別々の伝承があったと考えざるを得ないのです。

(注)
①『群書系図部集 第七』「大蔵氏系圖」(昭和六十年版)
②管見では、阿智王・阿智使主を始祖とする伝承記事が次の史料にある。『日本書紀』(応神紀二十年条)、『新撰姓氏録』、『続日本紀』(光仁紀・宝亀三年条、桓武紀・延暦四年条)、「大蔵氏系図」、「坂上系図」、「秋月系図」、「田尻系図」。


第2300話 2020/11/20

古田武彦先生の遺訓(14)

西周の王たちの二倍年齢

 古田先生の遺訓により、周代史料である『論語』の二倍年暦を証明するために、周王の在位年数や寿命の調査という回り道をしてきたのですが、ようやく周代の前半に当たる西周(注)については、二倍年齢が採用されていたと考えてもよい段階まで研究が進展してきました。その根拠は次の通りです。中間報告として、とりまとめておきます。

(1)周建国時の四代の王たちの長寿(約百歳)
 武王の曽祖父、古公亶父(ここうたんぽ):120歳説あり。
 武王の祖父、季歴:100歳。(『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』)
 武王の父、文王:97歳。在位50年。(『綱鑑易知録』『史記・周本紀』『帝王世紀』)
 初代武王:93歳。在位19年。(『資治通鑑前編』『帝王世紀』)

 「古代にも百歳の人はいた」とする論者でも、紀元前12世紀頃(通説)の中国で、約百歳の王が親子四代続いたとは言えないのではないでしょうか。在位年数とも矛盾しますから。これが二倍年齢であれば、60歳、50歳、48.5歳、46.5歳となり、古代人の寿命として極めてリーズナブルです。

(2)5代穆王は50歳で即位し、55年間在位。105歳で没した(『史記』)。これも(1)と同様です。

(3)9代夷王の在位年数がちょうど二倍になる例があります。『竹書紀年』『史記』は8年、『帝王世紀』『皇極經世』『文獻通考』『資治通鑑前編』は16年。この史料状況は、一倍年暦と二倍年暦による伝承が存在したためと考えざるを得ません。

(4)11代厲(れい)王も在位年数がちょうど二倍になる例があります。『史記』などでは厲王の在位年数を37年としており、その後「共和の政」が14年続き、これを合計した51年を『東方年表』は採用。他方、『竹書紀年』では26年としています。

(5)11代宣王の在位年数46年、東周初代の平王の在位年数51年など、長期の在位年数から長寿命と推定できる周王が存在しており、これらも二倍年齢の可能性をうかがわせます。(『竹書紀年』)

 以上のように、周王の在位年数や寿命記事に二倍年齢と考えざるを得ない例が少なからず存在しています。これらの史料事実から、少なくとも西周では人の寿命や在位年数は二倍年齢が採用されていたと思われます。
 他方、暦が二倍年暦であったかどうかは、まだ結論を得るに至っていません。しかしながら、従来の周代暦年復原はこれら周王の二倍年齢を一倍年齢とみなして試みられてきたので、未だに成功していないのではないかと考えています。引き続き、周代後半の東周時代(春秋・戦国時代)について、調査検討を行います。(つづく)

(注)殷を倒して周を建国した初代武王から、12代幽王までの約400年間を西周と呼ぶ。この期間が二倍年齢であれば、実際は半分の約200年間となる可能性が高まる。


第2291話 2020/11/12

古田武彦先生の遺訓(13)

周建国前後の王たちの超高齢現象

 「洛中洛外日記」2263話(2020/10/16)〝古田武彦先生の遺訓(6) 周王(夷王)在位年に二倍年齢の痕跡〟と2289話(2020/11/11)〝古田武彦先生の遺訓(12)〟において、西周の夷王と厲王の在位年数に二倍年暦(二倍年齢)の痕跡があることを報告しました。これらの王が二倍年齢であれば、それ以前の周王も古い暦法である二倍年暦が採用されていたと考えざるを得ません。そこで今回は周建国前後の王たちの年齢や在位年数を調べてみました。まだ調査(精査)中ですが、中間報告します。
 今回の調査対象は周を建国した初代の武王、その父の文王、その父の季歴の3名(三代)です。複数の説もありますが、現時点でわかった範囲内では次の通りです。

(1)季歴:100歳。
 『資治通鑑外紀』(注①)『資治通鑑前編』(注②)では、季歴は殷の帝乙元年に侯伯になり、帝乙七年に百歳で死んだとされています。

(2)文王:97歳。在位50年。
 西伯・昌(文王)の死を、『綱鑑易知録』(注③)は殷の帝紂二十年と書いていることから、昌の在位年数は五十年、享年は九十七歳。『史記・周本紀』は在位年数をおよそ五十年としています(西伯蓋即位五十年)。『帝王世紀』(注④)には、「文王(西伯・昌)は諸侯の位に居たが、父を世襲して西伯になった」「文王は位を継いで五十年だった(文王嗣位五十年)」とあります。

(3)武王:93歳。在位19年。
 『資治通鑑前編』は武王の在位年数を十九年。『帝王世紀』は寿命九十三歳とします。

 なお、季歴の父、古公亶父(ここうたんぽ)の寿命を120歳とする説があるようですが、まだ出典を調査できていません。
 親子三代続けて約100歳の長寿などとは、人類史初の高齢化社会の現代日本でも考えにくいのではないでしょうか。ましてや紀元前一千年頃のことです。たとえば文王が季歴20歳のときの子供であったとすれば、その80年後の80歳で文王は即位したことになり、更に50年在位したとあるため、没年は130歳となり、97歳で没したとする伝承とも整合しません。武王に至っては更にそのような矛盾が拡大します。
 他方、古代中国の年齢や在位年数記事はいい加減な造作であり信用できないとする考えは(おそらく通説はそうなっていると思います)、それならば別に100歳といわず、200歳でも300歳でも自由に造作できるはずという指摘に答えられません。しかし史料事実としては、周王らの記録として残っている最高寿命記事は100歳くらいです(注⑤)。ですから、これらの矛盾は二倍年暦(二倍年齢)という概念(仮説)により、はじめて合理的な解釈が可能となるのです。(つづく)

(注)
①『資治通鑑外紀』:北宋の劉恕。全10巻。
②『資治通鑑前編』:南宋の金履祥によって編まれた歴史書。『資治通鑑』によって表された時代の前について書かれたもの。全18巻。
③『綱鑑易知録』:92卷。清の呉乘權、周之炯、周之燦が著した。
④『帝王世紀』:西晋の皇甫謐が編纂した歴史書。三皇から漢・魏にいたる帝王の事跡を記録した。その記述内容には正史に見られないものも多い。原本(10巻)は散佚し、佚文が残っている。
⑤『史記』などの伝世史料により、第五代穆王の寿命105歳(50歳即位+55年間在位)が知られている。


第2289話 2020/11/11

古田武彦先生の遺訓(12)

厲王在位年にも二倍年齢の痕跡

 「洛中洛外日記」2263話(2020/10/16)〝古田武彦先生の遺訓(6) 周王(夷王)在位年に二倍年齢の痕跡〟において、西周第9代国王の夷王の在位年数がちょうど二倍になる例があり、二倍年暦の存在を前提としなければこのような史料状況は発生しないとしました。たとえば、『竹書紀年』や『史記』には夷王の在年数が8年とあり、『東方年表』(藤島達朗・野上俊静編)には16年とされています。そこで、『東方年表』が何を根拠に16年としたのかを調査したところ、在位16年とする史料として『太平御覽』卷85引『帝王世紀』、『皇極經世』、『文獻通考』、『資治通鑑前編』がありました。
 夷王に加えて第11代の厲(れい)王にも同様の史料痕跡がありました。『史記』などでは厲王の在位年数を37年としており、その後の「共和の政」が14年続き、厲王が亡命先で死亡して宣王に替わります。これらを合計した51年を『東方年表』は採用しています。
 他方、『竹書紀年』(古本・今本)では厲王の在位年数を26年としています。

 「二十六年、大旱。王陟于彘。周定公、召穆公立太子靖為王。共伯和歸其國。遂大雨。」『竹書紀年』厲王(注①)

 このように、厲王が「陟」(亡くなる)して、「共和の政」を執っていた共伯和が自領に帰国したとあります。『史記』の在位年数と「共和の政」の合計51年が二倍年暦であれば、一倍年暦の25.5年に相当し、『竹書紀年』の26年に対応しているのです。
 夷王のケースと同様に『竹書紀年』は一倍年暦(一倍年齢)に書き改められていると理解せざるを得ません。『竹書紀年』は出土後(注②)に散佚し、清代になって佚文を編集したものであり、おそらくはその編纂時に夷王と厲王の在位年数が一倍年齢に書き換えられているわけです。あるいは、出土した竹簡の原文が既に書き換えられていた可能性もあります。いずれにしても、周代において周王の在位年数が二倍年暦で記録されていたと考えざるをえません。(つづく)

(注)
①中國哲學書電子化計劃『竹書紀年』《厲王》
 https://ctext.org/zhushu-jinian/li-wang/zh
②西晋(265~316年)時代に出土。


第2288話 2020/11/10

「中国」と「共和」の出典

 「中国」と「共和」といっても現代の中国共産党やアメリカ共和党の話しではなく、今回はその出典について紹介します。
 佐藤信弥さんの『周 ―理想化された古代王朝』(注①)で周の歴史を勉強しているのですが、「中国」という用語の初出史料について知ることができました。古代中国の青銅器に記された文字を「金文」と呼び、出土文献として研究対象とされています。その金文に周の第二代成王の時代の「何尊」(注②)と呼ばれるものがあり、それには「中国」の文字が記されており、「中国」という言葉の最古の用例とのこと。
 佐藤さんの解説では、「ここでの中国とは中央の地域というぐらいの意味で、成周周辺のごく狭い範囲を指していると思われる」とのことです。ちなみに、成周とは今の河南省洛陽市付近のようです。
 「共和」の出典はご存じの方も少なくないと思いますが、西周末期の〝暴君〟厲(れい)王に替わり、「共和の政」を行った共伯和(注③)にちなむものです。この「共和の政」は、共和十四年(前834)厲王の亡命先での死亡により宣王が即位し、終わります。なお、厲王(11代)・宣王(12代)・幽王(13代)と西周は続きますが、「共和の政」期間を含め、厲王元年から幽王の末年まで計百八年となり、古代においては長期の在位期間です(注④)。おそらく、ここにも二倍年暦(二倍年齢)の影響が及んでいるのではないでしょうか。

(注)
①佐藤信弥『周 ―理想化された古代王朝』中公新書、2016年。2018年。
②中国社会科学院考古研究所編『殷周金文集成(修訂増補本)』6014。中華書局、2007年。
③精華簡『繋年』による。
④伝世文献(『史記』など)によれば、在位期間は厲王37年、(共和)14年、宣王46年、幽王11年。


第2286話 2020/11/08

古田武彦先生の遺訓(11)

佐藤信弥さんの

『周 ―理想化された古代王朝』拝読

 今日は佐藤信弥さんの『周 ―理想化された古代王朝』(注①)を拝読しました。この本も『中国古代史研究の最前線』(注②)と同様に周史を研究する上で優れた入門書でした。しかも巻末の豊富な参考文献一覧は、わたしのような初学者にとって勉強の導き手となり、ありがたい配慮です。
 佐藤さんの学問的姿勢やお人柄によるものと思いますが、同書も先行説や異説の紹介がなされ、不明確なことや不安定な課題については、そのことをはっきりと示されており、周代史研究における到達点や弱点が読者にわかるように書かれています。このような執筆姿勢は研究者にとって、とてもありがたいことです。
 たとえば周代暦年研究に関わるテーマとして、第五代穆(ぼく)王について次のような記述があります。

 「厲(れい)王の時代から『史記』では周王の在位年数が明示されるようになる。それ以前の周王で在位年数が示されているのは第五代穆王の五十五年のみであるが、穆王の在位年数をめぐっては種々の議論がある。」121頁

 『史記』には穆王が五十歳で即位し、五十五年在位したとあることから、このような百歳を超える寿命記事を信頼できないため、「種々の議論」が発生しているものと思われます。古代中国史研究において、二倍年暦(二倍年齢)という概念(仮説)がないことに、問題の原因があるとわたしは考えています。(つづく)

(注)
①佐藤信弥『周 ―理想化された古代王朝』中公新書、2016年。2018年。
②佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年。


第2284話 2020/11/06

古田武彦先生の遺訓(10)

小寺敦さんの「精華簡『繋年』訳注・解題」拝読

 佐藤信弥さんの『中国古代史研究の最前線』(注①)に紹介されていた小寺敦さんの長文(約300頁)の力作「精華簡『繋年』訳注・解題」(注②)をようやく読了しました。この分野のおそらく最高レベルの研究者による専門的な論文と思われますが、わかりやすく書かれており勉強になりました。わたしの力量では全てを正しく理解することはできませんが、同分野ではどのような史料(伝世文献、出土文献)が重視されており、どのような方法論が採用されているのかを、わたしなりに把握できました。また、webでの閲覧が可能であることも有り難い配慮でした。
 同論文を拝読して、わたしが最も重要な現象と感じたのが、出土文献である『繋年』の記事を採用すると、他の伝世文献(『竹書紀年』、『史記』、『春秋左氏伝』、『国語』など)の記事と齟齬や矛盾が発生するため、諸研究者がそれらの矛盾を解決するために様々な文章解釈を自説として発表するという同分野の傾向(学問の方法)でした。
 紀元前の一千年から数百年を対象とする文献史学の分野ですから、これは無理からぬことかもしれませんが、わたしが古田先生から教えていただいた学問の方法とはずいぶん異なっていました。古田先生は、『三国志』研究において、まず現存する各写本の史料批判を行い、その中で最も原文の姿を残していると思われる紹熙本(南宋紹熙年間〔1190~1194〕刊行)を基本資料と位置づけ、それを中心に文章解釈するという方法を採用されました(注③)。『万葉集』の場合、「元暦校本 万葉集」を採用されたのも同様の方法に基づかれたものです(注④)。ですから、各写本の都合のよい部分をそれぞれ採用して仮説を組み立てるという方法は誤りであると、厳しく戒められました。もちろん、必要にして十分な論証を経た場合はその限りではありません。
 小寺論文を読みながら、このときの古田先生の言葉を思い起こしました。当時、話題になったことについては別の機会に詳しく紹介したいと思います(注⑤)。なお、今回進めている周代研究においては、佐藤信弥さんの『中国古代史研究の最前線』がとても役に立ちました。そこで、佐藤さんのもう一冊の著書『周 ―理想化された古代王朝』(中公新書、2016年)も購入し、読んでいるところです。(つづく)

(注)
①佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年。
②小寺敦「精華簡『繋年』訳注・解題」『東洋文化研究所紀要』第170冊、2016年。
③古田武彦『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社、1971年、138~139頁。ミネルヴァ書房から復刻。
④古田武彦『古代史の十字路 万葉批判』東洋書林、2001年、7頁。ミネルヴァ書房から復刻。
⑤「九州年号群史料」や『新撰姓氏録』の史料批判をテーマとした古田先生との対話(1990~2000年頃)。


第2283話 2020/11/04

古田武彦先生の遺訓(9)

精華簡『繋年(けいねん)』の史料意義

 佐藤信弥さんは『中国古代史研究の最前線』(星海社、2018年)で、金文(青銅器の文字)による周代の編年の難しさについて、次のように指摘されています。

〝金文に見える紀年には、その年がどの王の何年にあたるのかを明記しているわけではないので、その配列には種々の異論が生じることになる。と言うより、実のところ金文の紀年の配列は研究者の数だけバリエーションがあるという状態である。〟108頁

 そのような一例として、「精華簡『繋年(けいねん)』」のケースについて紹介します。
 精華簡とは北京の「精華大学蔵戦国竹簡」の略で、精華大学OBから2008年に同大学に寄贈されたものです。2388点の竹簡からなる膨大な史料で、放射性炭素同位体年代測定法によると紀元前305±30年という数値が発表されています。ですから、出土後に散佚し、清代になって収集編纂された『竹書紀年』とは異なり、戦国期後半の同時代史料といえるものです。
 この精華簡のうち、138件からなる編年体の史書を竹簡整理者が便宜的に『繋年』と名付け、2011年に発表しました。西周から春秋時代を経て戦国期までおおむね時代順に配列されており、全23章のうち第1章から第4章までに西周の歴史が記されています。
 先の『中国古代史研究の最前線』によれば、従来、西周が東遷して東周となった年代は紀元前770年とされてきたのですが、この新史料『繋年』に基づいて次々と異説が発表されました。たとえば『繋年』の記事に対する解釈の違いにより、周の東遷年を前738年とする説(注①)や前760年とする説(注②)があり、「東遷の紀年や、『繋年』の記述をふまえたうえで、東遷の実相がどうであったかという問題は、やはり今後も議論され続けることになるだろう。」(注③)とされています。
 このように、二倍年暦(二倍年齢)という概念(仮説)を導入していない、学界の周代暦年研究は未だ混沌とした状況にあるようです。『史記』や『竹書紀年』『春秋左氏伝』などの史料事実(周王らの年齢・在位年・紀年など)をそのまま〝是〟とするような実証的手法では、結論は導き出させないのではないでしょうか。このことを改めて指し示した新史料『繋年』の持つ意義は小さくありません。
 なお、『繋年』については、小寺敦さんにより全章の原文と訓読、現代語訳などが発表されています(注④)。300頁近くの長文の論文ですので、少しずつ読み進めているところです。(つづく)

(注)
①吉本道雅「精華簡繋年考」『京都大学文学部研究紀要』第52巻、2013年。 
②水野卓「精華簡『繋年』が記す東遷期の年代」『日本秦漢史研究』第18号、2017年。
③佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年。167~168頁。
④小寺敦「精華簡『繋年』訳注・解題」『東洋文化研究所紀要』第170冊、2016年。


第2263話 2020/10/16

古田武彦先生の遺訓(6)

周王(夷王)在位年に二倍年齢の痕跡

 佐藤信弥著『中国古代史研究の最前線』(星海社、2018年)を再読していますが、金文(青銅器の文字)による周代の編年の難しさについて、次のような指摘がなされています。

〝金文に見える紀年には、その年がどの王の何年にあたるのかを明記しているわけではないので、その配列には種々の異論が生じることになる。と言うより、実のところ金文の紀年の配列は研究者の数だけバリエーションがあるという状態である。〟108頁

 わたしも、中国国家プロジェクト「夏商周断代工程」が「確定」できたとする周代の各王の在位年数の当否を調査するために、各史料(『竹書紀年』『史記』『東方年表』など)の在位年数をエクセルの表に並べて「夏商周断代工程」と比較検討していますが、どの史料の数字が妥当なのかまだよくわかりませんし、「夏商周断代工程」に至っては、文献史料との不一致が見られ、理解に苦しんでいます。
 他方、とても興味深い現象も発見しました。西周第九代国王の夷王の在位年数がちょうど二倍になる例があるのです。たとえば、『竹書紀年』や『史記』には8年とあり、『東方年表』には16年とされています。そこで、『東方年表』は何を根拠に16年としたのかを調査したところ、ウィキペディア(中国版)に次の解説がありました。見やすいように整理修正して転載します。

【以下、転載】
https://zh.wikipedia.org/wiki/周夷王
「維基百科,自由的百科全書」
周夷王(西周第九代國王)
【在位年數】現今流傳文獻記載的周夷王在位年數有3種説法。
○在位 8年(今本『竹書紀年』)
○在位15年(『資治通鑑外紀』、『通志』同)
○在位16年(『太平御覽』卷85引『帝王世紀』、『皇極經世』、『文獻通考』、『資治通鑑前編』均同)
【転載おわり】

 このように、夷王の在位年数について3種類の史料があり、16年と記す史料として『太平御覽』引用『帝王世紀』を始め、『皇極經世』『文獻通考』『資治通鑑前編』などがあるというのです。例えば『太平御覽』に引用された『帝王世紀』の当該記事は次の通りです。

〝帝王世紀曰、夷王即位、諸侯來朝、王降與抗禮、諸侯德之。三年、王有惡疾、愆于厥身。諸侯莫不并走群望、以祈王身。十六年、王崩。〟『太平御覽』皇王部十「夷王」(中國哲學書電子化計劃)

 これらの夷王在位16年説を『東方年表』(藤島達朗・野上俊静編)は採用したのではないでしょうか。この二倍の差が偶然ではないとすれば、中国の古典や史書には二倍年暦(二倍年齢)の16年で夷王の在位年数を伝承した史料があり、それらよりも成立が古いはずの『竹書紀年』は一倍年暦(一倍年齢)に書き改められていると理解せざるを得ない史料状況を示しています。そうでなければ、そもそも16年説などは発生のしようがありません。『竹書紀年』については『中国古代史研究の最前線』に次のような解説があります。

〝『竹書紀年』は西晋の時代に(注①)、当時の汲郡(今の河南省衛輝市)の、戦国魏王のものとされる墓(これを汲冢と称する)から出土した竹簡の史書であり、夏・殷・周の三王朝及び諸候国の晋と魏に関する記録である。体裁は『春秋』と同様の年代記で、やはり記述が簡潔である。(中略)
 ただし『竹書紀年』は後に散佚したとされており、現在は他の文献に部分的に引用された佚文が見えるのみである。その佚文を収集して『竹書紀年』を復元しようとする試みが清代より行われている。その佚文や輯本(佚文を集めて原書の復元を図ったもの)を便宜的に古本(こほん)『竹書紀年』と称する。
 これに対して、南朝梁の沈約のものとされる注が付いた『竹書紀年』が現存しているが、こちらは一般的に後代に作られた偽書であるとされる。これを古本に対して今本(きんぽん)『竹書紀年』と称する〟157頁

 この説明からも明らかなように、成立が古い『竹書紀年』ですが、出土後に散佚し、清代になって佚文を編集したものであり、原文の姿がどの程度遺されているのかは不明です。夷王在位年数に8年説と16年説があることを論理的に考えれば、周代の二倍年暦(二倍年齢)が一倍年齢に書き換えられている『竹書紀年』の在位年数や紀年については用心が必要で、無批判に採用することは危険とわたしは感じました。『竹書紀年』などの史料に遺された様々な在位年数や紀年を各研究者が自説に基づいて取捨選択した結果、周の紀年復元に諸説入り乱れる現在の状況が発生したのは無理からぬことです(注②)。(つづく)

(注)
①西晋(265~316年)。
②「維基百科,自由的百科全書」には夷王の在位年と実年代について、次の多くの異説が紹介されている。
 「近人依據文獻及出土文物銘文考定的周夷王在位年數」
○前863年-前857年,在位 7年説(章鴻釗『中國古曆析疑』)
○前893年-前879年,在位15年説(黎東方『西周青銅器銘文之年代學資料』)
○前888年-前872年,在位17年説(趙光賢『武王克商與西周諸王年代考』)
○前898年-前879年,在位20年説(馬承源『西周金文和周曆的研究』)
○前904年-前882年,在位23年説(謝元震『西周年代論』)
○前907年-前879年,在位29年説(劉啟益『西周紀年銅器與武王至厲王的在位年數』)
○前887年-前858年,在位30年説(陳夢家『西周年代考』)
○前908年-前878年,在位31年説(丁驌『西周王年與殷世新説』)
○前893年-前862年,在位32年説(葉慈『周代年表』)
○前893年-前860年,在位34年説(周法高『西周年代新考——論金文月相與西周王年』)
○前903年-前866年,在位38年説(何幼琦『西周的年代問題』)
○前917年-前879年,在位39年説(白川靜『西周斷代與年曆譜』)
○前924年-前879年,在位46年説(董作賓『西周年曆譜』)