万葉集一覧

第633話 2013/12/12

「はるくさ」木簡の出土層

 「洛中洛外日記」第420話で、難波宮南西地点から出土した「はるくさ」木簡、すなわち万葉仮名で「はるくさのはじめのとし」と読める歌の一部と思われる文字が記された木簡が、前期難波宮整地層(谷を埋め立てた層)から出土していたと述べました。

 このことについて、するどい研究を次々と発表されている阿部周一さん(「古田史学の会」会員、札幌市)からメールをいただきました。その趣旨は「はるくさ」木簡は前期難波宮整地層からではなく、その整地層の下の層から出土したのではないかというご指摘でした。私の記憶では、大阪歴史博物館の学芸員の方から、「前期難波宮整地層(谷を埋め立てた層)から出土」とお聞きしていましたので、もう一度、大阪歴博の積山洋さんにおうかがいしてきました。

 積山さんの説明でも、同木簡は前期難波宮造営のために谷を埋め立てた整地層からの出土とのことでしたが、念のために発掘を担当した大阪市文化財協会の方をご紹介していただきました。大阪歴博の近くにある大阪市文化財協会を訪れ、ご紹介いただいた松本さんから詳しく同木簡の出土状況をお聞きすることができ ました。

 松本さんのお話しによると、同木簡が出土したのは第7層で、その下の第8層は谷を埋め立てた層で、埋め立て途中で水が流出したようで、その水により湿地層となったのが第7層とのことでした。水の流出により一時休止した後、続いて埋め立てられたのが第6層で、通常この層が前期難波宮「整地層」と表記されて いるようでした。しかし、第6層、第7層、第8層からは同時期(640~660年)の土師器・須恵器が出土していることから、いずれも前期難波宮造営時代 の地層とのことでした(埋め立てに何ヶ月、あるいは何年かかったかは遺構からは不明)。
松本さんからいただいた当該報告書『難波宮跡・大阪城跡発掘調査(NW06-2)報告書』にも、第6層を「整地層」、第7層を「湿地の堆積層」、第8層を「谷の埋め立て層」と表記されており、いずれも七世紀中頃の須恵器・土師器の出土が記されています。

 以上のことから、結論としては「はるくさ」木簡の出土は、前期難波宮造営の為に谷を埋め立てた整地層からとしても必ずしも間違いではなさそうですが、正確には「整地の途中に発生した湿地層からの出土」とすべきようです。この湿地層にあったおかげで同木簡は腐らずに保存されたのでした。

 阿部さんのするどいご指摘により、今回よい勉強ができました。感謝申し上げます。学術用語はもっと用心して正確に使用しなければならないと、改めて思いました。


第559話 2013/05/19

難波収さんの訃報

 「洛中洛外日記」第129話「難波収さんとの一夕」などでご紹介しました、オランダ・ユトレヒト市在住の会員、難波収さんが5月8日に亡くなられました。謹んでご冥福をお祈りします。
 難波さんはユトレヒト天文台に勤務されていた天文学者で、古くからの古田先生や古田史学の支持者でした。とても残念でなりません。ご遺族から送られてき
た訃報を転載させていただき、本ホームページ掲載されています難波さんの論稿を紹介します。故人を忍んでご一読いただければと思います。

            

(ご遺族からの訃報)

            

 「いやいや、まだいろいろ書きたいことがあるんだ。
                 読みたい本もまだたくさんあるしねぇ・・・」

            

 いつもそう言っていた父・祖父でしたが、
               母国への旅を無事に終えた直後、
               別れを言う間もなく宇宙に旅立っていきました。
               さようなら、お父さん、おじいちゃん

            

  理学博士 難波 収 儀
                    妻・故 富美代

            

1926年5月3日岡山にて誕生
              2013年5月8日オランダ、ユトレヒトにて死去

(難波さんの論稿)
難波収「人間、古田武彦さんとの出会い」
難波収「オランダの支石墓『ヒューネベット』」
難波収「一士官候補生の戦後の体験」


第502話 2012/12/08

『万葉集』の中の短里

 古田先生の『よみがえる卑弥呼』(ミネルヴァ書房より復刻)には『万葉集』の中の短里についても紹介されています。

 「筑前国怡土郡深江の村子負(こふ)の原に臨める丘の上に二つの石あり。(中略)深江の駅家(うまや)を去ること二十余里にして、路の頭(ほとり)に近く在り。」(『万葉集』巻第五、八一三、序詞。天平元=七二九年~天平二年の間)

 「二つ石」(鎮懐石八幡神社)と深江の駅家との距離を二十余里とする記事なのですが、実測値は1500~2000mの距離であり、短里(77m×20~25里=1540~1925m)でぴったりです。これが八世紀の長里(535m)であれば、短里の約7倍ですから全く当てはまりません。
 八世紀の天平年間に至っても北部九州(福岡県糸島半島)では短里表記が残存していた例として、この『万葉集』巻第五、八一三番歌の序詞は貴重です。
 『三国志』倭人伝の短里の時代(二世紀)から八世紀初頭まで同じ短里が日本列島内で使用されていたわけですから、まさに九州王朝は「短里の王朝」といえるでしょう。それが、八世紀に入ると長里に変更されていくわけですから、この史料事実こそ九州王朝から大和朝廷への列島内最高権力者の交代という、古田先生の多元史観・九州王朝説の正しさをも証明している一事例(里程論、里単位の変遷)なのです。
 他方、大和朝廷一元史観の旧説論者はこれら歴史的史料事実を学問的論理的に全く説明できていません。岩波の『日本書紀』『風土記』『万葉集』の当該箇所「解説注」を読んでみれば、このことは明白なのです。


第423話 2012/06/10

古田万葉論三部作『古代史の十字路』復刻

ミネルヴァ書房より、古田武彦万葉論三部作の第二弾『古代史の十字路』が復刻されました(古田武彦古代史コレクション12)。既に復刻された『人麿の運命』と共に古田武彦万葉論の傑作とされる名著で、同書により万葉集研究は歴史学の新たな段階へと発展しました。
同書に収録された「籠もよみこもち」「天の香具山」「春すぎて」「中皇命」「雷山」などの歌や作者についての、多元史観・九州王朝説による画期的な論証 の数々により、万葉集の歌が歴史史料として生き生きと蘇っているのを読者は見ることができるでしょう。そして、万葉集が指し示す古代の真実を知ることがで きるでしょう。
そして同書には有り難いサプライズが最終章に用意されています。読者や古田史学の会・会員(4名)から寄せられた質問・疑問などに対して、ひとつひとつ 丁寧に紹介し、「回答」されているのです。今年一月に大阪で開催された古田史学の会・新年賀詞交換会でのわたしからの質問に対しても7ページを割いて回答 されています。古田学派の研究者・弟子としてこれほど有り難く名誉なことはありません。
古代史ファンだでなく、万葉集ファンにも是非読んでいただきたい一冊です。そして三部作のもう一冊『壬申大乱』の復刻も待ち遠しいものです。

 


第420話 2012/06/02

「はるくさ」木簡の考察

 難波宮編年の勉強を続けていて気がついたことがあります。それは難波宮南西地点から出土した「はるくさ」木簡に関することです。第352話「和歌木簡と九州年号」でもふれましたが、万葉仮名で「はるくさのはじめのとし」と読める歌の一部と思われる文字が記された木簡が、前期難波宮整地層(谷を埋め立てた層)から出土し、注目されました。

 わたしは、この「はじめのとし」という表記に興味をいだき、これは年号の「元年」のことではないかと考え、この時期の九州年号として、「常色元年」 (647)の可能性が高いと判断しました(「としのはじめ」であれば新年正月のことですが)。もちろん「白雉元年」(652)の可能性もありますが、『日 本書紀』によれば652年に完成したとされる前期難波宮の整地層からの出土ですから、やはり「常色元年」だと思います。

 このわたしの理解が正しければ、この木簡の歌は、春草のように勢いよく成長している九州王朝の改元を言祝(ことほ)いだ歌の一部ということになります。 そうすると、この歌は九州王朝の強い影響下で詠まれたものであり、その木簡が出土した前期難波宮を九州王朝の宮殿(副都)とするわたしの説に整合します。 ちなみに、この常色年間は九州王朝が全国に評制を施行した時期に当たり、「はるくさの」という枕詞がぴったりの時代です。

 さらに言えば、7世紀中後半での九州年号の改元は、「常色元年」「白雉元年」を過ぎると、「白鳳元年」(661)、「朱雀元年」(684)、「朱鳥元 年」(686)、「大化元年」(695)であり、これらの年が「はじめのとし」の候補となるのですが、661年は斉明天皇の時代です(近江京造営時期)。 684年と686年では天武天皇の晩年であり、その数年後に宮殿が完成したとすれば、それは藤原宮造営時期と同年代になります。しかし、出土土器の編年は、前期難波宮整地層と藤原宮整地層とでは明確に異なります。

 したがって、「はるくさ」木簡の「はじめのとし」を九州年号の「元年」のことと理解すると、前期難波宮整地層の年代は7世紀中頃にならざるを得ないと言 う論理性を有していることに気づいたのです。この論理性の帰結と、現在の考古学編年が一致して前期難波宮の造営を7世紀中頃としていることは重要なことだと思います。もちろん、「はじめのとし」を「元年」ではなく、もっと合理的でふさわしい別の意味があれば、わたしのこの説は撤回します。今のところ「元年」と理解するのが最も妥当と思っていますが、いかがでしょうか。


第414話 2012/05/17

「遠の朝廷」考

今日は新潟県長岡市に来ています。これから上越新幹線で東京に向かい、午後は化成品業界団体の会合に出席します。
さて、大伴家持の「遠のミカド」については、越の国が継体天皇の出身地であるからとする古田先生の説で一応の納得をしたのですが、わたしにはなお疑問が 残っています。それは、「遠の」というのは「昔の」という意味なのか、文字通り「遠いところの」という意味なのかという疑問です。
家持の「遠のミカド」については「遠い昔の継体天皇の出身地」と古田先生は解されたのですが、万葉集の他の用例、たとえば家持が筑紫(福岡県)のことを 「遠の朝廷」と詠んだ歌もあります(巻二十、4331)。更には聖武天皇が筑紫のことを「遠の御朝廷」と詠んだ歌さえもあります(巻六、973)。この 時、九州王朝から大和朝廷に権力交代してから30年くらいしかたっていませんから、「遠い昔」と表現するには違和感があります。
もし大和朝廷の初代天皇神武の出身地だから、「遠い昔」と家持や聖武天皇は考えていたとするなら、これもおかしいのです。なぜなら日本書紀では神武の出 身地は日向(宮崎県)とされており、いわゆる筑紫(福岡県)ではないからです。しかし、家持や聖武天皇の歌の「遠の朝廷」は筑紫(福岡県)と見なさざるを えません。従って、家持や聖武天皇の「遠の朝廷」を「遠い昔の神武天皇の出身地」とはできないのです。
そうすると、「遠い筑紫にある朝廷」という意味にとらざるを得ませんが、これでは九州王朝の朝廷のことになってしまい、まさに家持や聖武天皇は多元史観 で歌を詠んだということになってしまうのです。これはこれでおもしろい仮説ですが、皆さんはどう思われますか。この「遠の」問題を、わたしはこの数年間 ずっと考え続けています。


第413話 2012/05/15

越中の「遠の朝廷」

今日は富山県高岡市に来ています。当地のタクシーの運転手さんにお聞きしたこ とですが、高岡市は富山県に属していますが、元々は加賀藩に属しており、二代目藩主前田利長公のお墓もあるとのこと。駅でもらったパンフレットによれば、 利長公の菩提寺瑞龍寺は国宝に指定されており、利長公が建てた高岡城趾も駅の近くにあります。お墓は大名個人のものとしては日本一の高さ(11m余)だそ うです。駅前には銅像もあり、利長公は高岡市のシンボルのようです。
前田利長公のことも興味深いのですが、古代史ファンのわたしとしては、高岡市が万葉歌人大伴家持が赴任した越中国府の所在地であったことを知り、感慨に耽りました。というのも、大伴家持について永く不思議に思っていたことがあったからです。
ご存じのように、万葉集に見える「遠の朝廷(みかど)」といえば九州太宰府のことなのですが、大伴家持の歌には自らが赴任した越中国府を「遠の朝廷」と 詠っているものがあるのです。この時代(8世紀中頃)、歌に「遠の朝廷」と詠み込めば、当然のこととして聞く人は九州王朝の都があった太宰府のことと受け 取ることは明白ですから、家持はそのように理解されることを承知の上で、越中国府をあえて「遠の朝廷」と詠んだと考えざるを得ません。何故、家持はこのよ うな歌を詠んだのかという疑問をわたしはずっと抱いていました。
遠い昔、越中国府に「天子」がいたのでしょうか。「遠の朝廷」と自らの赴任地を称することに抵抗はなかったのでしょうか。時の権力者、大和朝廷に対して はばかられなかったのでしょうか。何とも不思議で、納得できる「答え」が見つからなかったのです。ところが、古田先生が見事な「回答」を出されたのです。
その答えは『人麿の運命』にあります。それは、家持は継体天皇の出身地の越の国を「遠のミカド」と詠んだとする説です。詳しくは同書を読んでいただきたいのですが、この新説によりわたしの疑問は一応の解決を見たのです。


第408話 2012/04/29

『人麿の運命』復刻

古田先生の初期三部作(『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』)は古田ファン必読の三冊ですが、今回は古田先生の万葉集論三部作をご紹介します。
それは『人麿の運命』『古代史の十字路-万葉批判』『壬申大乱』の三冊ですが、このたびミネルヴァ書房より『人麿の運命』が「古田武彦古代史コレクション」として復刻されました。
古田先生の万葉論は文献史学の方法論として、「歌」を歴史史料として取り扱う上で貴重な提言が含まれています。ともすれば、様々な「解釈」が可能な万葉集の歌に基づいて、恣意的な研究が見られる分野ですが、歴史学としての古田先生の万葉論のエッセンスを学ぶことができる重要な一冊が『人麿の運命』です。
その方法論上のキーポイントをちょっと説明します。まず第一は、一次史料としての「歌」そのものと、編纂時に付け加えられた「題」や「左注」を切り離し、一次史料の「歌」そのものを史料批判するという点です。この方法論は歴史学としての万葉集研究を確立した素晴らしいものてす。
第二は、古田学派であれば当然のこととしてご理解いただけると思いますが、万葉集の原文により近い写本を基礎史料として使用するという点です。具体的には「元暦稿本」(有栖川王府本)と呼ばれる万葉集写本を重視されたことです。
第三は、多元史観・九州王朝説の視点から史料批判するという点です。
これらの方法論は古田史学の基本的なことですから、こうしたことを学ぶためにも『人麿の運命』の復刻は喜ばしいことです。青山富士夫さん撮影によるカラー写真もふんだんに掲載されており、古田万葉論の理解を助け、真実の万葉の世界を深くイメージすることができます。
巻末にある書き下ろしの「君が代」論、「男系天皇」論、「万世一系」論などもタイムリーなテーマで、おすすめの一冊です。


第352話 2011/11/20

和歌木簡と九州年号

 昨日の関西例会で、わたしは「和歌木簡と九州年号」という研究発表を行いました。難波京整地層から出土した「春草」木簡と呼ばれるもで、650年頃のものとされています。「はるくさのはじめのとし」と読める万葉仮名が記されており、和歌木簡と見られています。
 「春草の」という言葉は万葉集でも「枕詞」の類として柿本人麿の歌にも見られますが、わたしはこの木簡の後半部分「はじめのとし」という表現に注目しま した。お正月を示す「年の始め」という表現はよく見られますが、「はじめの年」という表記を和歌で見た記憶がなかったからです。
そこでわたしは、この「はじめのとし」を「元(はじめ)の年」と理解し、ある九州年号の元年を意味するものとする説を発表しました。具体的にはその出土 地層の年代から、九州年号の常色元年(647)に読まれた歌ではないかと推測しました。「春草の」という「枕詞」も柿本人麿の歌では「大宮処」「わが大王」といったものに関わって使用されていることから、この和歌木簡の「はるくさの」も、 春草が勢いよく成長するように九州王朝の天子の権勢を形容したものであり、その天子の常色元年を言祝(ことほ)いだ歌ではなかったでしょうか。
 ちなみに九州年号の常色年間は評制が全国に施行され、我が国初で最大規模の朝堂院様式の宮殿である前期難波宮の建設も始まっており、九州王朝史において 特筆される時期だったのです。そのことを言祝いだ和歌木簡が難波京整地層から出土したことも偶然とは思われません。
 このわたしの新説はいかがでしょうか。なお、11月例会の発表は次の通りでした。中でも、水野さんが紹介された「百済人祢軍墓誌」は7世紀後半の重要な内容が記されており、画期的な発見です。この点、今後報告したいと思います。〔11月度関西例会〕
1). ヘブライ語のミリアム(向日市・西村秀己)
2). 鬼前太后・干食王后・法興元で頓挫(豊中市・木村賢司)
3). 「伊都国」の論理 ーー邪馬一国、首都の変遷(姫路市・野田利郎)
4). 第八回古代史セミナー(八王子)主な項目(豊中市・大下隆司)
5). (彦島の)伊勢の地を探す(大阪市・西井健一郎)
6). 和歌木簡と九州年号(京都市・古賀達也)
7). 磐井討伐の詔の正体(川西市・正木裕)
8). 卑弥呼の名字(木津川市・竹村順弘)
9). 広開土王碑17年条と山海経記事(木津川市・竹村順弘)
10).南斉書の百済王名(木津川市・竹村順弘)○代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・会務報告・百済人祢軍墓誌の追跡・他。

第332話 2011/08/13

「海行かば」の王朝

 第331話で、さだまさしさんの名曲「防人の詩」に触れましたが、わたしはさださんのような作詩の才能や歌心はありませんから、『万葉 集』は専ら古代史研究の史料として読んでしまいます。そんな『万葉集』研究において、初めての古田先生との共著『「君が代」うずまく源流』(新泉社、 1991年)に収録していただいた論文が『「君が代」「海行かば」、そして九州王朝』で、初期(35歳の時)の論文でもあり、とても想い出深い一冊です。
 大伴家持の歌として有名な「海行かば水浸く屍 山行かば草むす屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」は『万葉集』巻十八(4094)の長歌の一節ですが、『続日本紀』天平21年四月条の聖武天皇の宣命中にも同じ様な歌が見えます。
 わたしは先の論文で、この歌は水軍を持たない大和朝廷の歌ではなく、大君と共に、海に山に最前線で戦い続けた大伴一族が歴代の倭王に捧げた歌であり、すなわち九州王朝に捧げられた歌であると結論づけました。稚拙な論証を積み重ねた若い頃の論文ですが、その論証自体は成立していると、今でも自信をもっています。
 共著者の内、古田先生を除く灰塚照明さんと藤田友治さんは既に他界されています。ちょっぴり淋しい想い出も持った一冊なのです。


第331話 2011/08/13

防人の詩

 EXILE魂というテレビ番組に、さだまさしさんがゲストで出ていました。同じ九州出身ということもあって、私はさださんの歌を学生時代から よく聞いたり歌ったりしていました。番組ではさださんの名曲「防人の詩」をエグザイルのメンバーが歌っていましたが、久しぶりに聞いて、いい曲だなあと改めて感動しました。
 この曲の詩は『万葉集』の歌に触発されて作られたと聞いていますが、恐らくそれは『万葉集』巻一六の3852番歌「鯨魚(いさな)とり 海や死にする山や 死にする死ぬれこそ 海は潮干(しほひ)で山は枯れすれ」の歌だったと思います。岩波古典文学大系『万葉集』の頭注には次のように大意が記されています。

「(問)海は死ぬだろうか。山は死ぬだろうか。
(答)死ぬからこそ、海は潮が干るし、山は草木が枯れるのに。」

 古代日本列島の人々の死生観の一つが歌いこまれたものと思いますが、さださんの「防人の詩」の最後のフレーズを今聴くと、震災と津波、そして原発事故で苦しんでいる東北の大地や海の姿とオーバーラップして、涙が出てきます。それは、次のフレーズです。

「海は死にますか 山は死にますか 
春は死にますか 秋は死にますか 
愛は死にますか 心は死にますか 
私の大切な故郷もみんな逝ってしまいますか」

 一日も早く東北の大地が徐染されることを願わずにはいられません。
 一日も早く東北の大地が徐染されることを願わずにはいられません。


第278話 2010/08/22

あおによし

 昨日はいつもの大阪駅前第2ビルではなく、大阪城や難波宮跡近くの大阪歴史博物館で関西例会が行われました。また、関西例会では初めての試みとして外部講師をお招きして特別講演もありました。
 その特別講演として、難波宮や難波京発掘責任者である高橋工氏(大阪市博物館大阪文化財研究所難波宮調査事務所長)から、「古代の難波 発掘調査の最前線」というテーマで御発表いただき、当日初めて外部発表されたという最新の発掘成果などを次々とうかがうことができました。
 更には、参加者からの質問にも丁寧にお答えいただき、本当に勉強になりました。私の前期難波宮九州王朝副都説を補強できるような内容もあり、このことは別の機会にご紹介します。
 会員の発表では、竹村さんが先月に続き、一気に5テーマを発表されました。パソコンを使用し日本書紀の膨大な干支記事データベース作成と解析を行われるなど、目をみはるものがありました。
 中でも意表を突かれたのが、有名な枕詞「あおによし」の問題提起でした。一般には奈良の都の青や赤の鮮やかな瓦の色から「青丹よし」と表現され、後に「なら」にかかる枕詞へ発展したと説明されているようですが、記紀や万葉集に奈良の都ができる以前(710年)の歌に「あおによし」という枕詞が使用され ている例を指摘されたのです。
 これらの史料事実から、「あおによし」という枕詞は奈良の都とは無関係にそれ以前に成立したと考えざるを得ません。わたしは、九州王朝下で「なら」と呼ばれたものに掛かる枕詞として「あおによし」は古くから成立していたのではないかと想像しています。それでは、その「なら」とは何かという問題が新たなテーマとして浮かび上がってきます。これからの楽しみなテーマではないでしょうか。それにしても、「常識」を覆す素晴らしい問題提起だと思いました。
 8月度関西例会の発表テーマは次の通りです。

〔古田史学の会・8月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 1300年余の洗脳・他(豊中市・木村賢司)
2). 古代歌謡「あおによし」の懐疑(木津川市・竹村順弘)
3). 日本書紀の朔日干支記事の分布(木津川市・竹村順弘)
4). 日本書紀の盗用記事挿入の遣り口(木津川市・竹村順弘)
5). ナラの音韻(木津川市・竹村順弘)
6). はるくさ木簡の用字(木津川市・竹村順弘)
7). 日本書紀年齢(向日市・西村秀己)
8). 古代大阪の難波津について(豊中市・大下隆司)
9). 『聖徳太子伝暦』の遷都予言記事(川西市・正木裕)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・『古事類苑』の古代逸年号データベース・他(奈良市水野孝夫)

○特別講演   古代の難波 発掘調査の最前線
 講師 高橋 工 氏(大阪市博物館大阪文化財研究所 難波宮調査事務所長)