日本書紀一覧

第787話 2014/09/19

「観世音寺」「崇福寺」不記載の理由

 本日の関西例会では服部さんから古代中国の二倍年暦について、周代以後は二倍年暦とする明確な痕跡が見られないとの報告がなされ、わたしや西村秀己さんと大論争になりました。互いの根拠や方法論を明示しながらの論争で、関西例会らしい学問論争でした。わたし自身も服部さんが紹介された考古学的史料(西周の金文)など、たいへん勉強になりました。
 常連報告者の正木裕さんが欠席されるとのことで、昨晩、西村さんから発表要請があり、急遽、現在研究しているテーマ「なぜ『日本書紀』には観世音寺・崇福寺の造営記事がないのか」について意見を開陳しました。その結論は、観世音寺も崇福寺(滋賀県大津市)も九州王朝の天子・薩夜麻の「勅願寺」だったため、『日本書紀』には掲載されなかったとするものですが、様々なご批判をいただきました。
 観世音寺創建は各種史料によれば白鳳10年(670)で、崇福寺造営開始は『扶桑略記』によれば天智7年(668、白鳳8年)とされ、両寺院の創建は同時期であり、ともに「複弁蓮華文」の同笵瓦が出土していることも、このアイデアを支持する傍証であるとしました。
 出野さんからは古代史とは無関係ですが、誰もが関心を持っている「少食」による健康法について、ご自身の体験を交えた発表があり、こちらもまた勉強になりました。結論として、みんな健康で長生きして研究活動を続けようということになりました。
 9月例会の発表テーマは次の通りでした。

〔9月度関西例会の内容〕
1). 中国古代の二倍年暦について(八尾市・服部静尚)
2). 納音の追加報告(八尾市・服部静尚)
3). 観世音寺・崇福寺『日本書紀』不記載の理由(京都市・古賀達也)
4). 食べるために生きるのか、生きるために食べるのか・・・少食について・・・(奈良市・出野正)
5). 二人の天照大神と大国主連、そしてその裔(大阪市・西井健一郎)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(10/04松本深志高校で講演「九州王朝説は深志からはじまった」、11/08八王子大学セミナー、岩波文庫『コモンセンス』)・『古代に真実を求めて』18集特集の原稿執筆「聖徳太子架空説」の紹介・大塚初重『装飾古墳の世界をさぐる』に誤り発見・坂本太郎『史書を読む』の誤字・中村通敏『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』を読む。『三国志』斐松之注の文字数は本文よりも少ない・聖徳太子関連書籍調査・その他


第781話 2014/09/09

『昭和天皇実録』刊行

と多元史観

 本日の朝刊各紙1面に掲載された『昭和天皇実録』完成記事を、感慨深く読みました。『日本書紀』を筆頭とする官選史書「六国史」以来、明治になってから天皇の「実録」が編纂されてきましたが、今回の『昭和天皇実録』は特別な性格を有しています。内容については新聞に解説されている以上のことはわかりませんが、歴史学的に見てとても興味深い「実録」になるはずと推定しています。
 なぜなら『日本書紀』に匹敵する時代の激変期の「実録」だからです。『日本書紀』編纂は九州王朝から大和朝廷への権力構造の激変(王朝交代)の時代に編纂されたため、その政治的必要性に貫かれた編纂方針、すなわち前王朝である九州王朝の存在を消すという方針がとられました。それは、当時では周知の歴史事実であった「九州王朝の時代」をなかったことにするという相当無理無茶なものでした。それほどに新たな権力者、大和朝廷にとって、無理でも無茶でもそうした史書を編纂せざるを得なかった事情があったのです。
 今回の『昭和天皇実録』も同様の権力構造の激変(敗戦による戦前と戦後の構造と意識の変化)が一人の天皇の時代に発生したことにより、編纂にあたり、かなり深刻な問題を抱え込んだはずです。それは、戦前の明治憲法下における天皇、タイを除けばアジアでほぼ唯一の完全な独立国家の君主としての天皇と、敗戦後の世界最強の米軍とその核兵器に自国の防衛と運命を委ねている「独立国」の「君主」として、どちらの大義名分に立った『昭和天皇実録』とするのか、国家事業としての編纂作業においてどちらの立場をとっているのかという問題です。
 古田先生の言葉「戦争は国家間の『正義』と『正義』の衝突である」という戦争の思想史的定義からすれば、戦前の大日本帝国が主張した「正義」があったはずですし、太平洋でアメリカの「正義」と衝突して戦争となりました。それは、歴史的に西へ西へと侵略を続け植民地化(ネイティブアメリカン・メキシコ・ハワイ・フィリピン・他)するアメリカの帝国主義時代の「正義」と、その西の果てにあった日本の自衛戦争という「正義」との対立の構図もあったはずですが、どちらの「正義」を昭和天皇は語ったのでしょうか。そして、「実録」ではどちらの昭和天皇の発言を「採用」しているのでしょうか。興味は尽きません。
 権力構造が劇的に変化した時代の史書である『日本書紀』を、わたしたち古田学派は多元史観の目で分析してきたように、今回の『昭和天皇実録』もそうした多元的歴史観・フィロロギーの目で読むことにより、現代日本の史書編纂官僚の意志(大多数の国民が「戦後民主教育」を受けた結果に形成された国家意志や国民意識の反映)を再認識し、現代日本の真実の姿を読みとることができるように思われるのです。
 何を「正義」として編纂されたのかを明らかにする、これこそ『昭和天皇実録』を研究する歴史家の責務ではないでしょうか。昭和天皇の「発言」として権威づけられた「正義」が、これからの日本と日本人に影響を与え続けるのですから。


第764話 2014/08/13

大分県の「日羅」伝承

 九州における「聖徳太子」伝承を伴う寺院の開基や仏像について紹介し、それらの伝承は本来九州王朝の多利思北孤や利歌彌多弗利の事績であった可能性が高いことを説明してきましたが、6世紀末頃の九州における寺院開基伝承として、「日羅」によるとされるものが少なくありません。
 日羅は『日本書紀』(敏達紀、583年に帰国)に登場する百済王に仕えた倭人ですが、その日羅が熊本県や宮崎県・大分県に多数の寺院を開基したとする伝承や史料が残っています。もっとも『日本書紀』によれば、日羅は帰国後二ヶ月で百済人から暗殺されており、その短期間で多数の寺院を建立できるはずもありません。従って、日羅による開基とされてはいるものの、歴史事実としては九州王朝内の有力者による寺院開基が『日本書紀』に記されている「日羅」によるものと、後世において書き換えられたものと思われます。もしかすると「日羅」に似た名前の人物が九州王朝内にいたのかもしれません。
 その「日羅」伝承に早くから注目されていたのが藤井綏子さん(故人)でした。藤井さんは作家として文筆活動されるかたわら、「市民の古代研究会」にも参加されていた古田ファンで、著作の中で古田説を取り上げたり、ご自身でも研究されたりしておられました。大分県久重町に住んでおられ、直接お会いすること はできませんでしたが、わたしもお手紙や著書をいただき、何かと気にかけていただきました。
 ちょうど「市民の古代研究会」の分裂騒動を経て「古田史学の会」を立ち上げたばかりの1994年6月に藤井さんから次のようなお便りが届きました。

 「古賀達也様
 こちらは山々の頂きも隠れがちな風景ですが、京都の方もはっきりしないお天気でしょうか。 ところでこの度、同封のような著書を上梓いたしました。景行説話で最も激戦地であった豊後南部について、一度よく考えてみたいと思っていたのを、実現したわけですが、あまり自信はありません。お暇な折りにでもお目 通しいただき、ご教示でも賜れるようであれば、幸せです。
 だいぶ前ですが、ご丁重なお手紙をありがとうございました。まわりに会員の方が住んでおられるでもなく、一人で山の中に居て、何がどうなっているのか、さっぱりのみこめないでいるのですが、中央?に居られると、何かと気苦労も多いのでしょうね。
 ともかく、同じようなことをやってきた(つもり?)の者として、今後のご健闘を祈ります。お体に気をつけて下さい。
       一九九四年六月三〇日  藤井綏子」

 この手紙に同封されていた著書『古代幻想・豊後ノート』(1994年4月25日刊、株式会社双林社出版部)を20年ぶりに読んでみました。その中の「日羅の影」という一節には次のような記述があります。

 「九州には、この日羅の創建と伝える寺が、あちこちに散見する。熊本の郷土史家平野雅曠氏によると、肥後には計十二、三カ寺もあるという。
 豊後にも、『豊後国誌』があげる確実なところで少なくとも五つの、日羅開基伝承の寺がある。大野郡の大恩寺、普光寺、阿西寺、大分郡の岩屋寺、海部郡の円通寺がそれである。海部郡では、もう一つ、例の端麗な臼杵石仏の寺が満月寺で、鶴峰戊申の前掲『臼杵小鑑拾遺』はこの寺にも日羅を開山とする縁起があったことを紹介している。」

 藤井さんが注目されたように、「日羅」や「日羅伝承」は九州王朝史研究にとって重要なテーマと思われるのです。


第748話 2014/07/21

唐と百済の「倭国進駐」

 先日の関西例会で安随俊昌さん(古田史学の会・会員、芦屋市)から“「唐軍進駐」への素朴な疑問”という興味深い研究発表がありました。安随さんは関西例会常連のお一人ですが、研究発表されるのは珍しく、もしかすると初めてではないかと思います。
 今回、満を持して発表された仮説は、『日本書紀』天智10年条(671)に見える唐軍2000人による倭国進駐記事についてで、従来、この2000人の 唐軍が倭国に上陸し、倭国陵墓などを破壊したのではないかと、古田先生から指摘されていました。ところが安随さんによれば、この2000人のうち1400 人は倭国と同盟関係にあった百済人であり、600人の唐使「本体」を倭国に送るための「送使」だったとされたのです。
 その史料根拠は『日本書紀』で、その当該記事には、「唐国使人郭務ソウ等六百人」と「送使沙宅孫登等千四百人」と明確にかき分けられており、1400人は「送使沙宅孫登」指揮下の「送使団」とあることです。そして、送使トップの沙宅孫登の「沙宅」とは百済の職位(沙宅=法官大補=文官)であることから、 孫登は百済人であり、百済人がトップであれば、その部下の「送使団」1400人も百済人と理解するべきというものです。ですから、百済人1400人の送使 団は戦闘部隊(倭国破壊部隊)ではないとされました。
 さらに、送使団は「本体」を送る役目を果たしたら、先に帰るのが原則とされたのです(『日本書紀』の他の「送使」記事が根拠)。従って、百済人1400人が長期にわたり倭国に残って、倭国陵墓などを破壊するというのは考えにくいとされました。安随さんは他にも傍証や史料根拠をあげて、倭国に進駐した「唐軍」による倭国陵墓や施設の破壊はなかったのではないかとされました。
 この安随説の当否は今後の研究や論議を待ちたいと思いますが、意表を突いた興味深い仮説と思いました。『古田史学会報』への投稿が待たれます。この他にも、今回の関西例会では興味深い仮説やアイデアが報告されました。


第696話 2014/04/19

隼人の吠声(はいせい)は警蹕(けいひつ)

 本日の関西例会はいつもより発表件数が少なかったこともあり、昨今、マスコミや一般国民も巻き込んで話題となっているSTAP論文騒動について、学問の問題としての視点から、急遽、わたしの見解を発表することとなりました。
 ネイチャー誌に論文を発表したこともなければ小保方さんのSTAP論文(もっとも査読が厳しいとされるネイチャー誌が掲載に値するとした論文)さえもまともに読んだこともないようなマスコミによる常軌を逸したバッシングを「集団によるリンチ(私刑)」ではないかとわたしは思っていましたので、そもそも学術論文とは何か、「お金」のための研究(例えば特許出願。新発見の事業化により社会に貢献する)と真理追究のための学術論文発表(自らの発見や仮説を「公 知」として社会に無償提供し、科学の発展や人類の幸せに貢献する)の性格の違いと、それぞれに必要とされる要件(実験ノートの必要性の有無など。「お金」 のための研究の場合は工業的所有権〔特許権〕の争いを想定して、詳細な日付入り実験ノートの作成が要求される)の違いについて見解を述べました。幸い、多くの例会参加者のご賛同をいただき、昨今のマスコミや御用学者の「多数意見」に惑わされない「古田史学の会」関西例会参加者が多いことに安心しました。
 本日の関西例会では下記の発表がなされました。中でも正木さんの発表は、隼人の吠声(はいせい)とされているものは九州王朝における警蹕(けいひつ。天 子の移動の際の先触れの声)であり、神聖な儀礼の一つであるとされました。警蹕は現在でも神社の御神体の移動などで神官により発声(「おー」という発声)される重要で伝統的な所作であることを、ユーチューブの動画(大麻比古神社〔阿波国一宮〕の御遷座の様子)をプロジェクターの映像で説明されました。
 更に能楽の「翁」の三番叟(さんばそう)の舞に、隼人舞の起源とされる海幸・山幸伝承に記された海幸の奇妙な所作が伝承されているとされ、これもプロジェクターによる映像で説明されました。インターネット時代らしくハイテク技術を駆使して、古代の真実を明らかにするという発表方法も素晴らしいものでし た。

〔4月度関西例会の内容〕
1). 故中小路氏の仏教公伝論について(八尾市・服部静尚、代読:竹村順弘)
2). STAP論文騒動への批判的考察(京都市・古賀達也)
3). ニギハヤヒを追う(東大阪市・萩野秀公)
4). 「魏年号銘」鏡(京都市・岡下英男)
5). 海幸・山幸と「吠ゆる狗・俳優の伎」(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・『古代は輝いていたⅠ』ミネルヴァ書房から復刊。II・III も続刊・古田先生検査入院予定・『古代に真実を求めて』17集編集状況・明石~淡路島ハイキング「絵島」「大和島」見学・紹興本『三国志』に「倭人傳」と いう伝目はない・小磯千尋著『インド哲学と食』・その他


第695話 2014/04/18

一元史観による四天王寺創建年

 先日、西井健一郎さん(古田史学の会・全国世話人、大阪市)より資料が郵送されてきました。4月12日に行われた「難波宮址を守る会」総会での記念講演会のレジュメでした。講師は京都府立大学教授の菱田哲郎さんで、「孝徳朝の難波と畿内の社会」というテーマです。近畿天皇家一元史観による講演資料ですので、特に目新しいテーマではありませんでしたが、四天王寺の創建時期についての説明部分には興味深い記述がありました。
 そこには四天王寺について、「聖徳太子創建は疑問あり」「瓦からは620年代創建 650年代完成」とあり、「620年代創建」という比較的具体的な創建時期の記述に注目しました。かなり以前から四天王寺創建瓦が法隆寺の創建瓦よりも新しいとする指摘があり、『日本書紀』に見える聖徳太子が6世紀末頃に 創建したとする記事と考古学的編年が食い違っていました。菱田さんのレジュメでは具体的に「620年代創建」とされていたので、瓦の編年研究が更に進んだ ものと思われました。
 四天王寺(天王寺)の創建年については既に何度も述べてきたところですが(「洛中洛外日記」第473話「四天王寺創建瓦の編年」・他)、『二中歴』所収 「年代歴」の九州年号部分細注によれば、「倭京 二年難波天王寺聖徳造」とあり、天王寺(現・四天王寺)の創建を倭京二年(619)としています。すなわち、『日本書紀』よりも『二中歴』の九州年号記事の方が考古学的編年と一致していることから、『二中歴』の九州年号記事の信憑性は高く、『日本書紀』よりも信頼できると考えています。菱田さんは四天王寺創建を620年代とされ、『二中歴』では「倭京二年(619)」とあり、ほとんど一致した内容となってい るのです。
 このように、『二中歴』の九州年号記事の信頼性が高いという事実から、次のことが類推できます。

 1,現・四天王寺は創建当時「天王寺」と呼ばれていた。現在も地名は「天王寺」です。
 2.その天王寺が建てられた場所は「難波」と呼ばれていた。
 3.『日本書紀』に書かれている四天王寺を6世紀末に聖徳太子が創建したという記事は正しくないか、現・四天王寺(天王寺)のことではない。(四天王寺は当初は玉造に造営され、後に現・四天王寺の場所に再建されたとする伝承や史料があります。)
 4.『日本書紀』とは異なる九州年号記事による天王寺創建年は、九州王朝系記事と考えざるを得ない。
 5.そうすると、『二中歴』に見える「難波天王寺」を作った「聖徳」という人物は九州王朝系の有力者となる。『二中歴』以外の九州年号史料に散見される 「聖徳」年号(629~634)との関係が注目されます。この点、正木裕さんによる優れた研究(「聖徳」を法号と見なす)があります。
 6.従って、7世紀初頭の難波の地と九州王朝の強い関係がうかがわれます。
 7.『二中歴』「年代歴」に見える他の九州年号記事(白鳳年間での観世音寺創建など)の信頼性も高い。
 8.『日本書紀』で四天王寺を聖徳太子が創建したと嘘をついた理由があり、それは九州王朝による難波天王寺創建を隠し、自らの事績とすることが目的であった。

 以上の類推が論理的仮説として成立するのであれば、前期難波宮が九州王朝の副都とする仮説と整合します。すなわち、上町台地は7世紀初頭から九州王朝の直轄支配領域であったからこそ、九州王朝はその地に天王寺も前期難波宮も創建することができたのです。このように、『二中歴』「年代歴」の天王寺創建記事(倭京二年・619年)と創建瓦の考古学的編年(620年代)がほとんど一致する事実は、このような論理展開を見せるのです。西井さんから送っていただいた「一元史観による四天王寺創建瓦の編年」資料により、こうした問題をより深く考察する機会を得ることができました。西井さん、ありがとうございま した。


第691話 2014/04/08

近畿天皇家の宮殿

 このところ特許出願や講演依頼(繊維機械学会記念講演会)を受け、その準備などで時間的にも気持ち的にも多忙な日々が続いています。若い頃よりもモチベーション維持に努力が必要となっており、こんなことではいけないと自らに言い聞かせている毎日です。

 さて、701年を画期点とする九州王朝から近畿天皇家への王朝交代の実体について、多元史観・古田学派内でも諸説が出され、白熱した論議検討が続けられています。「古田史学の会」関西例会においても「禅譲・放伐」論争をはじめ、様々な討議が行われてきました。
 そこで、701年以前の近畿天皇家の実体や実勢を考える上で、その宮殿について実証的に史料事実に基づいて改めて検討してみます。もちろん『日本書紀』 の記事は、近畿天皇家の利害に基づいて編纂されており、そのまま信用してよいのかどうか、記事ごとに個別に検討が必要であること、言うまでもありません。 従って、金石文・木簡・考古学的遺構を中心にして考えてみます。
 『日本書紀』の記事との関連で、700年以前の近畿天皇家の宮殿遺構とされているものには、「伝承飛鳥板葺宮跡」(斉明紀・天武紀)、「前期難波宮遺 構」(孝徳紀)、「近江大津宮遺構(錦織遺跡)」(天智紀)、「藤原宮遺構」(持統紀)などがよく知られています。「前期難波宮」と「近江大津宮」については、九州王朝の宮殿ではないかとわたしは考えていますので、近畿天皇家の宮殿とすることについて大きな異論のない「伝承飛鳥板葺宮跡」と「藤原宮遺構」 について今回は検討してみます(西村秀己さんは、「藤原宮」には九州王朝の天子がいたとする仮説を発表されています)。
 幸いにも両宮殿遺構からは多量の木簡が出土しており、両宮殿にいた権力者の実像が比較的判明しています。たとえば「伝承飛鳥板葺宮跡」の近隣にある飛鳥池遺跡から出土した木簡には「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」などと共に、「詔」の字が記されたものも出土していることから、その地の権力者 は「天皇」を名乗り、「詔勅」を発していたことが推測されます。
 「藤原宮遺構」からは700年以前の行政単位である「評」木簡が多数出土しており、その「評」地名から、関東や東海、中国、四国の各地方から藤原宮へ荷物(租税か)が集められていたことがわかります。これらの史料事実から、700年以前の7世紀末に藤原宮にいた権力者は日本列島の大半を自らの影響下にお いていたことが想定できます。
 その藤原宮(大極殿北方の大溝下層遺構)からは700年以前であることを示す「評」木簡(「宍粟評」播磨国、「海評佐々理」隠岐国)や干支木簡(「壬午年」「癸未年」「甲申年」、682年・683年・684年)とともに、大宝律令以前の官制によると考えられる官名木簡「舎人官」「陶官」が出土しており、 これらの史料事実から藤原宮には全国的行政を司る官僚組織があったことがわかります。7世紀末頃としては国内最大級の礎石造りの朝堂院や大極殿を持つ藤原宮の規模や様式から見れば、そこに全国的行政官僚組織があったと考えるのは当然ともいえます。
 こうした考古学的事実や木簡などの史料事実を直視する限り、701年以前に近畿天皇家の宮殿(「伝承飛鳥板葺宮跡」「藤原宮遺構」)では、「詔勅」を出したり、おそらくは「律令」に基づく全国的行政組織(官僚)があったと考えざるを得ないのです。九州王朝から近畿天皇家への王朝交代について論じる際は、 こうした史料事実に基づく視点が必要です。


第614話 2013/10/22

『赤渕神社縁起』の「常色の宗教改革」

 正木裕さんが『日本書紀』天武紀持統紀の記事に34年前の記事が移動挿入され ているという「34年遡上」説を関西例会などで発表されたとき、34年前の記事なのか本来その年の記事なのかの判断に恣意性が入り、論証は困難ではないかと、わたしや西村秀己さんから度々批判がなされ、論争が続きました。そうした数年にわたる学問的試練を経て、正木さんの「34年遡上」説は検証され淘汰され、今日に至っています。関西例会参加者には、よくご存じのことかと思います。
 しかしそれでもなお「34年遡上」説の中には半信半疑のテーマもありました。たとえば『古田史学会報』85号(2008年4月)で発表された「常色の宗教改革」 という仮説です。九州年号の常色元年(647)、九州王朝により全国的な神社の「修理」や役職任命、制度変更が開始されたとする説です。そしてその「常色の宗教改革」の詔勅が34年後の天武十年(681)に「神宮修理の詔勅」として『日本書紀』に記されているとされたのです。次の詔勅です。

 「天武十年(681)の春正月(略)己丑(十九日)に、畿内及び諸国に詔して、天社地社の神の宮を修理(おさめつく)らしむ。」

 この記事について、正木さんは次のように指摘されています。
 「この記事は本来三四年遡上した常色元年の『神社改革の詔勅』であり、以後順次全国的に実施されたと考えられる。」正木裕「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号(2008年4月)

 この正木説に対して、そうかもしれないが本当にそうだと断言してもよいのかと、わたしはずっと半信半疑でした。ところが、今回知った天長五年(828)成立の『赤渕神社縁起』に次の記事があることに気づき、わたしは驚愕しました。

 「常色三年六月十五日在還宮為修理祭礼」

 常色三年(649)に表米宿禰が宮に還り、「修理祭礼」を為したとあり、正木さんが指摘した通り、天武十年正月条の「宮 を修理(おさめつく)らしむ。」という詔に対応しているのです。時期(常色年間)だけではなく、「修理」という言葉も一致しています。しかも『赤渕神社縁 起』では九州年号の「常色三年」の出来事として記録されていますから、九州王朝による「神宮修理」の詔勅(常色元年の詔勅)が出されていたことの史料根拠となります。『赤渕神社縁起』により、正木さんの「34年遡上」説の一例としての「常色の宗教改革」が史料根拠を持つ有力説であることが判明したのです。 「34年遡上」説、おそるべしです。
 この他にも『赤渕神社縁起』には重要な記事が記されていますが、引き続き検討して報告したいと思います。


第610話 2013/10/17

表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の謎

 朝来市の『赤渕神社縁起』に見える、九州年号「常色元年(647)」に行われた「新羅」との丹後における交戦記事について「洛中洛外日記」で紹介しましたが、その頃の倭国(九州王朝)と新羅の関係は『日本書紀』によれば良好で、特に戦争状態にあったことはうかがえません。そのため、「洛中洛外日記」第606話において、「群書類従」の『群書系図部集 第六』(系図部六十七)に収録されている「日下部系図」に「養父郡大領(評督か)。天智天皇御宇異賊襲来時。為防戦大将。賜日下部姓。於戦場。被退怱異賊。」とある記事を根拠に、この新羅との戦闘記事は「常色元年」ではなく、天智天皇の頃の事件(唐・新羅連合と倭国の戦争)のことであれば理解できると述べました。
 ところが、森茂夫さんから送られてきた『赤渕神社縁起』には「常色元年(647)」の出来事として新羅との戦闘記事が詳述されています。しかも、表米宿禰伝承の中心記事として記されており、やはり「常色元年」の出来事と理解せざるを得ないことが判明しました。「日下部系図」に記された「天智天皇の時」とする記述は、後代において「常色元年」での新羅との交戦記事を不審とした系図編纂者により、『日本書紀』の認識に基づき、書き加えられた(伝承の改変)と思われるのです。少なくとも、系図よりもはるかに成立が早い『赤渕神社縁起』(天長5年成立・828年)の記事が史料批判の結果から優先されます。すなわち、現代や後代の認識に基づいて、史料を改変したり理解してはならないという、文献史学(古田史学)の原則がここでも試されているのです。
 それでは「常色元年(647)」の新羅との交戦記事は何だったのでしょうか。その真相に迫りたいと思います。(つづく)


第608話 2013/10/13

『多遅摩国造日下部宿禰家譜』の表米宿禰

 「洛中洛外日記」第607話で紹介しました、森茂夫さんから送られてきた「赤渕神社文書」写真の中に『多遅摩国造日下部宿禰家譜』がありました。「群書類従」の『日下部系図』には「表米宿禰」は孝徳天皇の子供、あるいは孫とされ、 『赤渕神社縁起』にも孝徳天皇の皇子と記されています。ところが赤渕神社蔵の『多遅摩国造日下部宿禰家譜』では開化天皇の末裔とされています。
 具体的には、家譜冒頭に「稚倭根子日子大毘毘命」(開化天皇)が記され、続いて「日子座王」「山代之大筒木真若王」「迦禰米雷王」「息長宿禰王」「大多牟坂王」とあり、その10代後に「赤渕足尼」が記されています。この「赤渕足尼」は「表米宿禰」とともに赤渕神社の御祭神として祭られています。「赤渕足尼」の4代後が「表米宿禰」とされています。このように『多遅摩国造日下部宿禰家譜』では、「表米」は孝徳天皇の皇子ではなく、開化天皇・日子座王・息長 宿禰王・大多牟坂王、そして赤渕足尼らを先祖としています。この系図がどこまで信頼できるのかは不明ですが、ともに赤渕神社の祭神とされている「赤渕足尼」の子孫と見るのが穏当のように思われます。
 それではなぜ『赤渕神社縁起』では孝徳天皇の皇子とされているのかが新たな問題となります。『赤渕神社縁起』も『多遅摩国造日下部宿禰家譜』も赤渕神社にある文書ですから、とても不思議です。なお、今回紹介しました「家譜」の人物名は写真版から古賀が判読したもので、不鮮明な文字を誤読しているかもしれ ません。その場合はご容赦ください。(つづく)


第607話 2013/10/12

実見、『赤渕神社縁起』(活字本)

 「洛中洛外日記」第604話で、『赤渕神社縁起』を実見したいと書き、「浦島太郎」の御子孫も日下部氏を名乗っていたことを改めて紹介したのですが、なんとその御子孫の森茂夫さん(京丹後市在住)から、『赤渕神社縁起』をはじめとする「赤渕神社文書」の釈文(当地の研究者により活字化されたもの)の写真ファイルが送られてきました。森さんも九州年号が記されている史料として『赤渕神社縁起』に注目され、現地でこの縁起の活字本を写真撮影されたとのこと。わたしの「洛中洛外日記」でのお願いが、こうも早く実現でき感謝感激しています。森さん、ありがとうございます。
 その写真によれば『赤渕神社縁起』は複数あり、最も古いものは天長五年に成立したものの写本で、再写が繰り返されています。より古い『赤渕神社縁起』写本(赤渕神社縁起1)には九州年号の常色元年(647)、常色三年(649)、朱雀元年(684)が記されていますが、再写の過程で、それら九州年号を不審として、表米の没年「朱雀元年甲申三月十五日」が『日本書紀』に見える「朱鳥元年丙戌三月十五日」(686)に書き換えられている現象も見られました (赤渕神社縁起2)。
 このような史料状況てすので、どの史料が最も史実を伝えているのかを判断する作業、すなわち史料批判がまず必要です。しかも、天長五年成立の『赤渕神社縁起』も、既に改変されている可能性が高く、記事の内容ごとの個別の史料批判も必要と思われ、かなり困難な作業になりそうです。これから少しずつ、その史料批判の成果を報告していきたいと思います。まずはしっかりと読み込んでいきます。(つづく)


第602話 2013/09/30

文字史料による「評」論(4)

 現存する唯一の全国的評制施行時期が記された史料として『皇太神宮儀式帳』を紹介しましたが、実はもう一つ全国的評制施行時期を記した史料が存在することを最近知りました。それは『粟鹿大神元記』(あわがおおかみげんき)という史料で、現在は宮内庁書陵部にあるそうです。それには「難波長柄豊前宮御宇天万豊日天皇御世。天下郡領并国造県領定賜。」という記事があり、この記事を含む系譜部分の成立は和銅元年(708)とされ ており、『古事記』『日本書紀』よりも古いのです。
 この記事の意味するところは『皇太神宮儀式帳』とほぼ同じで、孝徳天皇の時代に「郡領」や「国造」「県領」が定められたというものです。「郡領」とあり 「郡」表記ではありますが、孝徳天皇の時代ですから、その実体は「評」であり、「天下」という表記ですから、7世紀中頃に評制が全国的に施行されたという 記事なのです。
 『日本書紀』成立(720年)よりも早い段階で、すでに「評」を「郡」に書き換えていることも興味深い現象ですが、『皇太神宮儀式帳』成立の9世紀初頭よりも百年も早く成立した史料ですので、とても貴重です。なぜなら『日本書紀』の影響を受けていないことにもなるからです。
 『粟鹿大神元記』をまだわたしは見ておらず、その全体像や史料状況を知りませんので、現時点では用心深く取り扱いたいと思いますが、このような史料が現存していたことにとても驚いています。同史料あるいは活字本を実見したうえで、改めて詳述したいと思いますが、取り急ぎご報告しておきます。(つづく)