日本書紀一覧

第1558話 2017/12/24

「天武朝」に律令はあったのか(1)

 前期難波宮九州王朝副都説への反論が、これまでの論争を通して、ほぼ前期難波宮「天武朝」造営説に収斂してきたように感じています。前期難波宮のような巨大宮殿が白村江戦以前の九州王朝(倭国)の興隆期に、九州王朝の配下である近畿天皇家の孝徳の宮殿と見なすことへの不自然さのためか、前期難波宮造営を天武の時代と見なし、その頃であれば九州王朝よりも近畿天皇家の勢力が優勢と考え、前期難波宮を近畿天皇家(天武天皇)の宮殿と理解することができるという見解です。
 しかし、この「天武朝」造営説には避け難い難問があります。それは「天武朝」に律令があったとするのかという問題です。一元史観の論者であれば、ことは簡単で、「近江令」や「浄御原令」が近畿天皇家には存在したとする通説通りの理解でなんの問題もありません。ところが、わたしたち古田学派は、701年以前の「近江令」「浄御原令」の内実は九州王朝律令であり、近畿天皇家の律令は大宝律令に始まるとする古田説を支持しています。この古田説は前期難波宮「天武朝」造営説と両立できないのです。
 大和朝廷の巨大宮殿、平城宮や藤原宮は朝堂院様式の中央官庁群を有しており、大宝律令・養老律令に基づく数千人(服部静尚さんの計算によれば約八千人)の官僚がそこで政務に就いていたことは古田学派の論者も反対はできないでしょう。とすれば、平城宮・藤原宮と同規模の朝堂院様式の宮殿である前期難波宮でも律令による官僚組織が機能していたと考えざるを得ません。
 したがって、古田学派の論者による前期難波宮を天武の宮殿とする理解では、先の古田説と矛盾してしまいます。ところが、わたしの九州王朝副都説では、九州王朝律令に基づいて前期難波宮で九州王朝の官僚群が政務に就いていたとしますので、古田説と矛盾がないのです。(つづく)


第1529話 2017/11/01

11月13日改訂しました。

『古田武彦の古代史百問百答』百考(6)

 ミネルヴァ書房版『古田武彦の古代史百問百答』189頁の「18 九州王朝の天子を『日本書紀』に入れた理由について」において、古田先生は白村江戦の敗北後に唐軍の筑紫進駐により、九州王朝(倭国)は太宰府の「紫宸殿」を離れ、伊豫の「紫宸殿」に遷都したとする新説を提起されました。この新説と従来の古田説とは相容れない重要な問題があります。このことについて説明します。
 『日本書紀』天智紀によれば、白村江戦(663)の敗戦後、本格的な唐の筑紫進駐は天智八年是年条(669)に見え、約2000人の唐軍が派遣されたと記されています。天智10年11月条(671)にも2000人の派遣が記されています。これらも含めて天智紀には計5回の唐人「来日」が記されています。従って古田新説に依るならば、九州王朝の天子「斉明」の伊豫遷都は669年以前のこととなります。こうした理解に立つと、従来の古田説と徹底的に矛盾することがあります。それは「庚午年籍」はどこの誰により造籍が命じられたのかという問題です。この点について、従来の古田説が『古田武彦の古代史百問百答』「39 『近江遷都論』について」で次のように記されています。

 「すなわち、問題の『庚午年籍』が、大量に集中出土しているのは、『近江諸国』ではなく、筑紫諸国なのです。
 いわゆる『近江令』なるものに対して、
 (甲)近江令を中心とし、そこで発令されたもの--『通説』
 (乙)筑紫を中心とし、そこから発令されたもの。--これは九州王朝の史実からの『移用(盗用)』である。これがわたしの立場です。」(233頁)

 このように庚午年籍は近江令により造籍されたのではなく、筑紫を中心としてそこから出された筑紫令により造籍されたことになると説明されています。このように従来の古田説では庚午年籍の造籍は九州王朝が筑紫で発令したとされていたのですが、古田新説では庚午年籍が造籍された庚午(670)の年は既に唐軍が筑紫進駐しています。そのとき九州王朝の天子「斉明」は伊豫の紫宸殿に逃げていたとされており、筑紫で造籍を発令することなどできないのです。
 古田先生が指摘されているように、実際は筑紫諸国の庚午年籍は造籍されており、そうすると古田新説によれば筑紫に進駐した唐軍の制圧下で筑紫諸国の庚午年籍が造籍されたという奇妙なことになってしまいます。それほど九州王朝の造籍に協力的で理解のある唐の進駐軍であれば、「斉明」は太宰府を捨てて伊豫に遷都する必要などないからです。
 なお、庚午年籍は全国的規模で造籍されたことが、後代史書の記述から明らかとなっています。造籍事業とは単に各国に造籍を命じるにとどまらず、完成した諸国の戸籍を中央官庁に集め管理保存する必要があります。従って、そうした官僚群を収容する官衙も必要で、「紫宸殿」だけあればよいというものでもありません。ちなみに、670年(庚午年)頃の造籍事業と全国戸籍の管理保存が可能と推定できる宮殿と官衙遺跡は、日本列島内では太宰府、前期難波宮、近江大津宮の存在が知られています。
 古田先生がこの新旧の自説が持つ「庚午年籍の矛盾」に気づかれていたか否かは、今となってはわかりませんが、少なくとも古田新説(白村江戦後の伊豫遷都説)にはこの矛盾の解決が求められるでしょう。
 なお、古田先生が主張された筑紫諸国の庚午年籍の大量「出土」という表記については、「洛中洛外日記」1377話『古田武彦の古代史百問百答』百考(2)で論及しましたので、ご参照ください。


第1528話 2017/10/31

『古田武彦の古代史百問百答』百考(5)

 ミネルヴァ書房版『古田武彦の古代史百問百答』189頁の「18 九州王朝の天子を『日本書紀』に入れた理由について」での次の質問に対する古田先生の回答について今回は説明します。

 「質問 斉明天皇は九州王朝の天子だったといわれますが、『日本書紀』の編者はなぜ、別王朝の天子をはめこまなければならなかったのですか。」

 この質問は『日本書紀』に付記された漢風諡号への「誤解」に基づいているのですが、古田先生はこの「誤解」には触れられず次のように回答されています。

 「斉明は九州王朝の天子です。松山にはサイミョウという名前で地名が残っていると合田さんが言っておられますが、(中略)これをみても斉明は南朝と関係をもった九州王朝の天子だった証拠になります。
 もう一つ重要なことは、これも合田さんによって紹介されましたが、伊豫に紫宸殿という地名が、残っているということです。」
 「我々には紫宸殿は太宰府の場所にあったことは知られてます。しかし、あそこは唐の軍隊が入って来ました。入って来てなおかつ紫宸殿と呼ぶはずがない。白村江以後において太宰府の紫宸殿の地名は消滅したと見なければならない。」
 「飛躍して言うと白村江以前の紫宸殿が太宰府。白村江以後の紫宸殿が伊豫に移っている、ということになるのではないでしょうか。そういう意味でこれをはめ込まなければならなかったという理由があります。」

 この古田先生の回答は「なぜ、別王朝の天子をはめこまなければならなかったのですか。」という質問に直接答えたものではありません。なぜなら九州王朝の天子の紫宸殿の移動があったとしても、「斉明」という九州王朝の天子の名前を、淡海三船が漢風諡号として『日本書紀』斉明紀に付記しなければならない理由の説明にはなっていないからです。
 しかし、7世紀後半における九州王朝史研究の新たな仮説を提示されたもので、従来の古田説と異なっており、興味深いものです。このように従来の自説と異なる新仮説の発表こそ、古田先生らしい果敢に挑戦される学問的姿勢です。
 この古田新説は、白村江戦の敗北後に唐軍の筑紫進駐により、九州王朝(倭国)は太宰府の「紫宸殿」を捨てて伊豫の「紫宸殿」に遷都したとするもので、従来の九州王朝研究には無かった視点です。それではこの新説が従来の古田説とどのように相違し、どのような問題点が発生するのかについて見てみることにします。なお、伊予における字地名「さいみょう」についての考察を「洛中洛外日記」969話「みょう」地名の分布に記していますので、ご参照ください。(つづく)


第1527話 2017/10/30

『古田武彦の古代史百問百答』百考(4)

 半年ぶりに「『古田武彦の古代史百問百答』百考」シリーズを再開します。『古田武彦の古代史百問百答』はファンや読者などからの質問に答えるという形式でテーマ別に編集されており、その時々の古田先生の意見の変化や問題意識のあり方などにも触れることができる好著です。そのために従来の見解と新たな見解に矛盾や非対応も散見されるのですが、古田史学の発展段階を知ることができ、むしろ同書の特徴と言ってもよいかもしれません。同書編集を担当された東京古田会の優れた業績の一つでしょう。
 他方、「誤解」に基づいた質問とその「誤解」を前提とした回答も見られ、読者としてはちょっと用心してかからなければならないケースもあります。いわゆる学術論文ではなく、読者との質疑応答という読みやすさの追求と、そのときどきの認識に基いた古田先生の回答という同書の性格からすれば仕方がないのかもしれません。先生の三回忌が過ぎたこともあり、特に学問上重要な「誤解」について説明することにします。
 ミネルヴァ書房版『古田武彦の古代史百問百答』189頁の「18 九州王朝の天子を『日本書紀』に入れた理由について」で次のような質問がなされています。

「質問 斉明天皇は九州王朝の天子だったといわれますが、『日本書紀』の編者はなぜ、別王朝の天子をはめこまなければならなかったのですか。」

 この質問の背景には、古田先生が晩年に主張された仮説で、『日本書紀』の皇極と斉明は別人であり、斉明天皇は九州王朝の天子「斉明」のこととされたことがあります。そこで、質問者は九州王朝の存在を隠している『日本書紀』に何故九州王朝の天子の名前で斉明紀が記されたのかという疑問をもたれたものと思われます。
 この質問の趣旨や動機はよく理解できるのですが、実は複雑で大きな「誤解」が入り交じっています。それは次のような点です。わかりやすくするために箇条書きにします。

 ①『日本書紀』の神武天皇以降の一般的に称されている「○○天皇」の「○○」という漢字二字の呼称は漢風諡号と呼ばれ、『日本書紀』成立(720)の数十年後に淡海三船(722~785)により付記されたものと考えられています。ですから「斉明」も『日本書紀』編者が命名した天皇名ではなく、編纂時の『日本書紀』に記されていたものでもありません。
 ②「皇極」も同様に淡海三船が命名した漢風諡号で、『日本書紀』の皇極紀と斉明紀に記された天皇の和風諡号は共に「天豊財重日足姫天皇(あまとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)」で、同一人物として記されています。
 ③従って、もし皇極紀と斉明紀に記された天豊財重日足姫天皇がそれぞれ別人であると認識して、漢風諡号を「皇極」と「斉明」とに書き分けたとするのであれば、それは『日本書紀』編者ではなく淡海三船が行ったということになります。
 ④諡号とは死後の謚(おくり名)ですから、同一人物に二つの諡号があるのは不自然です。ですから、『日本書紀』編者が皇極紀も斉明紀も同一の和風諡号「天豊財重日足姫天皇」を記しているのは当然です。
 ⑤他方、『日本書紀』には九州王朝の事績が転用(盗用)されていることを古田先生は指摘されていまから、斉明紀に九州王朝の記事がはめ込まれている可能性は大です。例えば「狂心の渠」説話など。
 ⑥従って質問の意図が、「斉明」という名称も九州王朝の天子の名前のはめ込みと理解しての質問なのか、斉明紀の記事に九州王朝の事績のみがはめ込まれているとしての質問なのかという問題があります。おそらくは前者の理解に立った質問と思われます。
 ⑦そうだとすれば、質問者は「斉明」という漢風諡号が『日本書紀』編者により編纂当初から記されたと「誤解」されていることになります。

 以上のように少々ややこしい背景と問題認識がうかがわれる質問なのです。(つづく)


第1526話 2017/10/29

白村江戦は662年か663年か(4)

 白村江戦年次に関する論争の経緯と古田先生の見解の推移についてご紹介してきましたが、最後に現在の研究状況とわたしの見解について説明することにします。
 白村江戦年次に関わる研究や論争が「古田史学の会」関西例会でも行われてきたのですが、それらを踏まえた上で、わたしは『日本書紀』にある通り、663年(天智二年・龍朔三年)でよいと考えています。それは次のような理由からです。

1.白村江戦を記録した現存最古の史料は『日本書紀』(720年成立)であり、この件については最も史料の信頼性が高い。その理由は次の通り。

 ①白村江戦を戦った当事者(九州王朝・倭国)の配下の勢力だった近畿天皇家により編纂されており、白村江戦の記憶も記録も存在していたと考えられる。
 ②もし白村江戦が662年であったとしたら、その記事を663年にずらさなければならない理由が近畿天皇家にはない。
 ③『日本書紀』の一連の記事において白村江戦の年次に不審とすべき点は見あたらない。
 ④白村江戦等で捕虜となった人物(大伴部博麻ら)が、敗戦の30〜40年後に帰国した記事が『日本書紀』や『続日本紀』に見え、その後に『日本書紀』は成立していることから、こうした帰国者からの情報も近畿天皇家は入手可能である。

2.以上のように、『日本書紀』の白村江戦年次に関する記事を疑わなければならない理由はなく、信頼して良い。比べて海外史書も次のように白村江戦を龍朔三年(663)としている。あるいは年次を特定していない。

 ①『旧唐書』「劉仁軌列伝」(945年成立)には、顯慶五年に始まる、高宗征遼時の仁軌の一連の事績が顯慶五年(660)以下に記され、「仁軌遇倭兵於白江之口,四戰捷」とあるが年月は未記載。その次は麟徳二年(665)の封禅の儀における事績を記す。従って、白村江の年次は660〜664年の間であることはわかるが、その間のいずれであるかは特定できない。
 ②『旧唐書』「東夷・百済条」には龍朔二年(662)七月から唐への帰還までの記事中に「仁軌遇扶余豐之衆于白江之口,四戰皆捷」とあり、その次の記事は麟徳二年八月。従って白村江戦の年次は特定できない。
 ③『新唐書』(1060年成立)本紀には龍朔三年(663)に「九月戊午,孫仁師及百濟戰于白江,敗之。」とあり、白村江戦を龍朔三年(663)とする。
 ④『三国史記』「新羅本紀」(1145年成立)には「至龍朔三年 總管孫仁師 領兵來救府城 新羅兵馬 亦發同征 行至周留城下 此時 倭國船兵 來助百濟 倭船千艘 停在白江 百濟精騎 岸上守船」とあり、白村江戦は龍朔三年(663)と理解できる。
⑤『三国史記』「百済本紀」には龍朔二年(662)七月以降の記事に「遇倭人白江口 四戰皆克」とある。次の記事は麟徳二年(665)なので、白村江戦の年次を特定できない。

 以上のように、『日本書紀』も海外史料も白村江戦は663年であることを示しており、積極的に662年を指示する、あるいは確定できる史料はありません。ですから、古田先生が662年説から663年説を受容する見解に変わられたこともよく理解できるのです。


第1524話 2017/10/28

白村江戦は662年か663年か(2)

 従来、一元史観の通説でも白村江戦は『日本書紀』の記事などを根拠に天智二年(663)のこととされてきました。ところが古田先生が『旧唐書』百済伝を根拠に662年(龍朔二年)とする説を発表されました。『旧唐書』には白村江戦の記事は本紀には見えず、百済伝に記されているのですが、その倭国・百済と唐・新羅の戦いを記した一連の記事の冒頭に「(龍朔)二年」(662)とあり、その記事の後半部分に白村江戦が記されています。このことから、古田先生は白村江戦の年次を662年とされたのです。
 それに対して丸山晋司さんは、同記事は「(龍朔)二年」から始まってはいるが、その次の記事は麟徳二年(665)であり、龍朔二年に始まる記事全てが龍朔二年内とはできないとされ、『旧唐書』の他の列伝記事(黒歯常之伝など)の記述を根拠に、白村江戦は『日本書紀』と同年の663年であると、古田説を批判されました。以後、古田先生と丸山さんは激しく論争されました。
 両者の見解は対立したままでしたが、古田学派内では古田説を「是」とする意見が多数を占めたように思われ、その傾向が長く続きました。ところが、あるとき古田先生も『旧唐書』百済伝の「(龍朔)二年」に始まる記事が全て同年内とは断定できないが、「龍朔二年」の出来事と見えるように記されているという見解を表明されました。これは事実上、丸山さんの指摘を受け入れたことになるのですが、年次としては662年説を主張されました。
 ところが、その論争から10年近くたった頃と思いますが、突然古田先生は白村江戦の年次を663年と言われるようになりました。驚いたわたしは先生に問い質したところ、『日本書紀』を対象としたテーマでは『日本書紀』の記述通り白村江戦は663年でよいと返答されました。当時、わたしは今一つ先生の言われることを理解できませんでしたが、言われるとおりに『日本書紀』を対象とした論稿では663年とすることにしました。(つづく)


第1523話 2017/10/27

白村江戦は662年か663年か(1)

 10月15日に東京家政学院大学で開催した講演会で、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が唐と倭国が戦った白村江戦の年次を663年とされたことについて、参加者から問い合わせのメールをいただきました。「古田史学の会は白村江戦を663年と認めているのか」という趣旨のご質問でした。
 正木さんからは研究団体である「古田史学の会」が特定の説を「公認」するということはありえず、仮説はそれぞれの研究者が自らの見解として発表するものであると返答をされ、正木さんとしては663年説とのことでした。
 このご質問の背景には、古田先生が『旧唐書』百済伝を根拠に白村江戦を662年とされたことがあり、古田学派としてはその662年説を「是」としてきたとの認識によられたものと思います。このテーマは約30年ほど前から始まった論争ですが、当時やその後の経緯をご存じない方が多数となったようで、改めて月日の流れを感じました。
 わたしは同論争を間近で見てきており、当事者からも直接ご意見を聞いてきました。記憶が不鮮明にならないうちに、この問題の経緯と現在の研究状況についてご説明したいと思います。まず、白村江戦年次についての古田先生の理解や経緯について、わたしは次のように記憶しています。

1.25〜30年ほど以前に、『旧唐書』百済伝を根拠に古田先生は白村江戦を662年(龍朔2年)とされた。
2.丸山晋司さんが、『旧唐書』各伝の史料分析の結果から、古田先生の読解は誤っており、白村江戦を『日本書紀』の記述通り663年(天智2年、唐の龍朔3年)とされ、古田先生との間で論争が発生した。
3.その過程で、丸山さんの主張の一部を事実上認める発言を古田先生がされた。
4.その後、古田先生から『日本書紀』を対象としたテーマでは白村江戦を663年でよいとする発言があった。

 上記の正確な時期については、残された資料を調べてみないと確定できませんが、こうした経緯をわたしは当事者の古田先生や丸山さんから直接聞いてきました。(つづく)


第1480話 2017/08/16

一元史観から見た前期難波宮(4)

 ここまで一元史観の考古学者から見た前期難波宮の評価について説明してきましたが、今回は文献史学の碩学、直木孝次郎さんの見解を紹介します。
 「洛中洛外日記」668話(2014/02/28)「直木孝次郎さんの『前期難波宮』首都説」でも紹介したことがありますが、直木孝次郎著『難波宮と難波津の研究』(吉川弘文館、1994年)では前期難波宮を天武朝の副都ではなく、孝徳朝の首都であると論じられています。直木さんに限らず、近畿天皇家一元史観では、前期難波宮は『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」としていますから、前期難波宮は「大和朝廷」の首都と当然のように見なしています。この通説の「前期難波宮」大和朝廷首都説を、直木孝次郎さんはその宮殿の規模・様式を根拠に次のように主張されています。

 「周知のように藤原宮朝堂院も、平城宮第二次朝堂院も、いずれも十二朝堂をもつ。平城宮第一次朝堂院はやや形態をことにして十二朝堂ではないが、一般的には十二朝堂をもつのが朝堂院の通常の形態で、長岡京朝堂院が八朝堂であるのは、簡略型・節約型であるとするのが、従来の通説であった。この通説からすると、後期難波宮の八堂というのは、簡略・節約型である。なぜそうしたか。奈良時代の首都である平城京に対し、難波京は副都であったから、十二堂を八堂に減省したのであろう。(中略)
 首都十二堂に対し副都八堂という考えが存したとすると、前期難波宮が「十二の朝堂をもっていた」すなわち十二堂であったという前記の発掘成果は、前期難波宮が副都として設計されたのではなく、首都として設計・建設されたという推測をみちびく。
 もし前期難波宮が天武朝に、首都である大和の飛鳥浄御原宮に対する副都として造営されたなら、八堂となりそうなものである。浄御原宮の遺跡はまだ明確ではないが、現在有力視されている明日香村岡の飛鳥板蓋宮伝承地の上層宮跡にしても、他の場所にしても、十二朝堂をもっていたとは思われない。そうした浄御原宮に対する副都に十二朝堂が設備されるであろうか。前期難波宮が天武朝に造営されたとする意見について、私はこの点から疑問を抱くのである。
 前期難波宮が首都として造営されたとすると、難波長柄豊碕宮と考えるのがもっとも妥当であろう。孝徳朝に突如このような壮大な都宮の営まれることに疑惑を抱くむきもあるかもしれないが、すでに説いたように長柄豊碕宮は子代離宮小郡宮等の造営の試行をへ、改新政治断行の四、五年のちに着工されたのであろうから、新政施行に見合うような大きな構想をもって企画・設計されたことは十分に考えられる。(中略)
 〔追記〕本章は一九八七年に執筆・公表したものであるが、一九八九年(平成元年)の発掘の結果、前期難波宮は「従来の東第一堂の北にさらに一堂があることが判明し、現在のところ少なくとも一四堂存在したことがわかった」(中尾芳治「難波宮発掘」〔直木編『古代を考える 難波』吉川弘文館、一九九二年〕)という。そうならば、ますます前期難波宮は副都である天武朝の難波の宮とするよりは、首都である孝徳朝の難波の長柄豊碕宮と考えた方がよいと思われる。」(112頁)

 この直木さんの、十二朝堂を持つ首都に対して、八朝堂の宮殿を副都とみなすという視点は注目されます。このように前期難波宮の巨大さが文献史学の研究者からも注目されていることがわかります。また、前期難波宮を孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」と理解したときに避け難く発生する問題についても、直木さんは正直に「告白」されています。「孝徳朝に突如このような壮大な都宮の営まれることに疑惑を抱くむきもあるかもしれない」とされた箇所です。この点こそ、わたしが前期難波宮九州王朝副都説に至った理由の一つだったのです。
 近畿天皇家の宮殿の発展史からすると、前期難波宮の存在は説明困難な異常な状況なのです。皇極天皇の比較的小規模な飛鳥の宮から、次代の孝徳天皇がいきなり巨大な朝堂院様式の前期難波宮を造営し、その次の斉明天皇の時代にはまた小規模で朝堂院様式でもない飛鳥の宮に戻るという変遷が説明困難となるのです。そのため直木さんは「長柄豊碕宮は子代離宮小郡宮等の造営の試行をへ、改新政治断行の四、五年のちに着工されたのであろう」と考古学的根拠が皆無であるにもかかわらず、このような「言い訳」をせざるを得なくなっているのです。(つづく)


第1462話 2017/07/23

『丹哥府志』の古伝承(1)

 「洛中洛外日記」1436話と1437話において、舞鶴市の朝代神社(あさしろじんじゃ)が『丹哥府志』の記録などを根拠に白鳳元年(661)創建であったことを論じました。その「洛中洛外日記」を読まれた京丹後市の森茂夫さん(古田史学の会・会員)から『丹哥府志』に記された興味深い伝承記録についての情報が寄せられましたので、ご紹介します。

 『丹哥府志』「巻之八 加佐郡第一 志楽の庄 小倉村」の項に、河良須神社の勧請が「天智天皇白鳳十年辛未の秋九月三日」とされているのですが、この「九月三日」が先の朝代神社の創建日と同じなのです。『丹哥府志』には朝代神社の創建記事が次のように記されています。

 「田辺府志曰。朝代大明神は日之若宮なり、白鳳元年九月三日淡路の国より移し祭る」

 ともに白鳳年間の創建であり「九月三日」の日次が同じなのは偶然とは考えにくく、両神社には何か関係があったのではないかと思います。『丹哥府志』の河良須神社の記事は次の通りです。

◎小倉村(市場村の次、若狭街道、古名春日部)
【河良須神社】(延喜式)
社記曰。丹波の国加佐郡春日部村柳原に鎮座ましますは豊受大神宮なり、神名帳に所謂河良須神社是なり、今正一位一宮大明神と稱す、天智天皇白鳳十年辛未の秋九月三日爰に勧請す、明年高市皇子故ありて丹波に遁る、此時柳原の神社へ詣で給ふ時に和歌一首を作る、(後略)

 ここに見える「天智天皇白鳳十年辛未」の表記ですが、九州年号の白鳳十年の干支は庚午で670年に当たります。辛未は天智十年(671)のことであり、『日本書紀』の紀年と九州年号が一年ずれて「合成」された姿を示しています。従って、本来の伝承が九州年号の「白鳳十年」であれば、「天智天皇」「辛未」は後世において『日本書紀』の影響を受けて付加されたものと考えられます。

 「明年高市皇子故ありて丹波に遁る」という伝承も興味深いものです。天智十年の明年であれば「壬申の乱」の年(672)に相当しますから、その年に高市皇子が丹波国に逃れたという伝承が真実か否かはわかりませんが、何らかの歴史事実を反映したものではないでしょうか。なお、ネット検索によると「河良須神社」ではなく「阿良須神社」とあり、森さんから送っていただいた『丹哥府志』活字本の誤植のようです。(つづく)


第1457話 2017/07/15

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(7)

 前期難波宮「天武朝」造営説が考古学からも文献史学からも成立し難いことを説明してきましたが、もし「天武朝」の造営であれば多くの矛盾が噴出します。この矛盾について更に詳述します。
 たとえば藤原宮に持統天皇が694年に遷都したことが『日本書紀』に記されていますが、その造営は天武朝の頃から開始されていたことが出土干支木簡(680年代)から判明しています。ですから、前期難波宮を天武朝の造営とするならば、天武は藤原宮(京)と前期難波宮(京)を同時期に造営していたこととなります。
 ところが、前期難波宮整地層から出土する須恵器は坏Hと坏Gが主流ですが、藤原宮整地層から出土する主流須恵器は坏Bで、明らかに両者の出土土器の様相が異なるのです。相対編年では坏Bが新しく、坏Hが古いとされ、その中間が坏Gです。従って、前期難波宮と藤原宮では整地層出土土器は前期難波宮の方が1〜2様式古いのです。この考古学事実は前期難波宮の造営が藤原宮よりも早いことを示し、仮に1様式の年代差を20年とするのなら、前期難波宮の方が30年ほど古いということになります。従って、藤原宮の造営時期を680年頃とするならば、前期難波宮の造営時期は650年頃となり、それは「孝徳期」に相当します。
 このように、前期難波宮と藤原宮の整地層出土土器様式の違いは、前期難波宮「天武朝」造営説を否定するのです。このことをわたしは早くから指摘してきたのですが、「天武朝」造営説論者からの応答はありません。なぜでしょうか。(つづく)


第1454話 2017/07/14

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(5)

 前期難波宮「天武朝」造営説の根拠とされてきた白石論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」の基礎データそのものに問題があり、仮説として誤りであることを説明しましたが、考古学だけではなく文献史学の面からも脆弱な仮説であることを指摘してきました。
 それは、「もし前期難波宮を天武が造営したのなら、何故そのことが孝徳紀ではなく天武紀に書かれていないのか」という単純かつ本質的な疑問に答えられないという問題です。この理屈は白石さんの「天智朝」造営説でも同様です。
 『日本書紀』は天武の子供や孫たちにより編纂されており、天武を賞賛することが主目的の一つであることは、天武紀のみを「前編」「後編」に分けて記すという破格の待遇であることからも明らかです。もし、国内初の朝堂院様式でそれまでの王宮よりもはるかに大規模な前期難波宮を天武が造営したのなら、そのことを天武紀には書かずに孝徳紀に書くなどということは考えられないのです。
 孝徳紀には前期難波宮「孝徳朝」造営説の史料根拠とされる次の有名な記事があります。
 「秋九月、宮を造りおわる。その宮殿の状、ことごとくに論(い)うべからず。」『日本書紀』白雉三年条(652年、九州年号の白雉元年と同年)
 いうこともできないほどの宮殿が完成したという記事で、まさに前期難波宮完成にふさわしい表現です。おそらく、前期難波宮の造営を記念して九州年号はこの年に常色から白雉に改元され、『日本書紀』白雉元年条(650年)に転用された大々的な白雉改元の儀式が完成間近の前期難波宮で執り行われたと思われます。
 もし、前期難波宮が「天武朝」で造営されたのであれば、なぜ『日本書紀』は先の孝徳紀の記事を天武紀に記さなかったのでしょうか。この問いかけに対しても前期難波宮「天武朝」造営説論者からは応答がありません。なぜでしょうか。(つづく)


第1422話 2017/06/11

古田史学会報』140号のご案内

『古田史学会報』140号が発行されましたので、ご紹介します。本号には天文学者の谷川清隆さんからご寄稿いただきました。

『日本書紀』の天文関連記事の史料批判により、古代日本に二つの権力集団が存在したとする論稿です。これまでも天文学という視点から古田説を支持する研究を発表されてきた谷川さんの論稿は読者にもご満足いただけるものと思います。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が谷川稿を過不足無く解説されていますので、以下に転載します。

【転載】
《谷川清隆博士の紹介》
谷川氏は現役の天文学者です。

 その天文学者の目で見た古代史研究論文に感銘を受け、無理を言って今回寄稿願いました。

 日本書紀には、漢文の正確性からα群・β群があって、巻によって著者が異なると言う森博達氏の研究が有名ですが、谷川氏はその天文観測記事より、単に著者が違うのではなく、書かれた団体・組織が異なることを発見されたわけです。

 森氏の言うβ群は天群の人々(九州王朝ととっていただくと分かり易い)によって書かれた、α群は地群の人々(近畿天皇家)によって書かれたとなります。

 過去古田説は、谷本茂氏の『周髀算経』からの数学的アプローチによって、又メガース博士の南米における縄文土器発見によって、その都度新しい実証・論証ツールを得てきました。ここに谷川氏によって又強力なツールを得たわけです。(服部静尚)

『古田史学会報』140号の内容
○七世紀、倭の天群のひとびと・地群のひとびと 国立天文台 谷川清隆
○谷川清隆博士の紹介 八尾市 服部静尚
○6月18日(日)井上信正氏「大宰府都城について」講演会・「古田史学の会」会員総会のお知らせ
○前畑土塁と水城の編年研究概要 京都市 古賀達也
○「白鳳年号」は誰の年号か -「古田史学」は一体何処へ行く 松山市 合田洋一
○高麗尺やめませんか 八尾市 服部静尚
○「佐賀なる吉野」へ行幸した九州王朝の天子とは誰か(上) 川西市 正木 裕
○西村俊一先生を悼む 古田史学の会・代表 古賀達也
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己