聖徳太子一覧

第1895話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(4)

 日野さんへの返答の2回目を転載します。

2019.05.10【日野さんへの返答②】
 九州王朝(倭国)が摂津難波の支配権を有していた時期について、7世紀初頭とする史料があることから、それ以前に九州王朝は難波に進出していたと、わたしは考えていました。その史料とは「九州年号群」史料として最も成立が早く、信頼性が高いとされている『二中歴』所収「年代歴」の次の記事でした。

 「倭京二年 難波天王寺聖徳造」 ※倭京二年は619年。

 「倭京」は7世紀前半(618〜622年)の九州年号です。ちょうど多利思北孤の晩年に相当する期間です。『隋書』に見える九州王朝の天子、多利思北孤(上宮法皇)は倭京五年(622年、「法興32年」法隆寺釈迦三尊像光背銘による)に没し、翌623年に九州年号は「仁王元年」と改元されています。
 この「難波天王寺」とは現「四天王寺」のことで、創建当時は「天王寺」と呼ばれていたようです。四天王寺のことを「天王寺」と記す中近世史料は少なからず存在しますし、当地から「天王寺」銘を持つ軒瓦も出土しています。
 また、『日本書紀』には四天王寺の創建を六世紀末(推古元年、593年)と記されていますが、大阪歴博の考古学者による同笵瓦の編年研究から、四天王寺の創建を620〜630年頃とされており、『日本書紀』の記述よりも『二中歴』の「倭京二年」(619年)が正しかったことも判明しています。こうしたことから、『二中歴』のこの記事の信頼性は高まりました。
 以上の考察から、九州王朝(倭国)は7世紀初頭には摂津難波に巨大寺院を建立することができるほどの勢力であったことがわかります。しかし、その難波支配がいつ頃から始まったのかは不明でした。(つづく)


第1894話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(3)

 日野さんからの本格的な質問への返答として、わたしから5回に分けて持論を説明しました。その一回目を転載します。

2019.05.10【日野さんへの返答①】
 日野さんのご質問は本質的な問題を指摘されており、わたしも丁寧にご返答したいと思います。質問への個別の回答に先立ち、7世紀における九州王朝の歴史についてのわたしの認識の変遷と現時点での研究の到達点について、まず説明させてください。

 まず、大阪市中央区から出土した前期難波宮について、わたしの認識は次のように進みました。

① 7世紀中頃に九州王朝(倭国)は全国に評制(それまでの行政単位「県(あがた)」を「評」に変更し、その代表者「評督」を任命)を施行し、恐らくは律令による中央集権体制を構築したと思われる。
② その7世紀中頃の列島内最大規模の宮殿・官衙遺跡が前期難波宮(国内初の朝堂院様式の宮殿)であった。
③ 一元史観の通説では、前期難波宮を孝徳天皇の難波長柄豊碕宮とするが、太宰府よりも巨大な宮殿・官衙遺構(前期難波宮)を近畿天皇家のものとすることは九州王朝説としては認めがたい。
④ その結果、前期難波宮を九州王朝の複都(当初は副都と考えた)とする仮説に至った。
⑤ その後、この仮説と整合する、あるいは支持する研究や史料根拠がいくつも報告された。

 以上のような思考を経て前期難波宮九州王朝複都説が成立したのですが、そこで新たに問題となったのが、九州王朝(倭国)はいつから本拠地の九州から離れた摂津難波に複都を置けるほどの当地の支配権を確立したのかということでした。(つづく)


第1893話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(2)

 続いて、日野さんから本格的な質問がきました。以下、転載します。

2019.05.10【日野さんからの本格的質問】
 河内戦争の記事は一つだけ、それも九州王朝目線の記事が元記事と思われます。
 従って、問題が3点あります。
1.実際年代が不明であること。
2.律令制の頃と同じ用語が使用されていること。
3.「関西八国の支配者」ならば当然、大和も支配していたはずであるが、九州王朝以外に近畿天皇家の上位に立つ政権が存在したことが論証されていないこと。

 特に、私が問題視しているのは「3」です。近畿天皇家は九州王朝の分王朝ですが、「関西八国の支配者」が九州王朝の分王朝を支配していたとすると、それは一体、九州王朝とどういう関係なのでしょうか?九州王朝と無関係ならば不自然ですが、九州王朝との関係を語る史料は皆無です。
 例えば、関東王朝についてはその実在が完全に論証されたとは言い難いですが、それでも「関東王朝の伝承」の可能性がある史料は複数見つかっているわけです。
 或いは、大和は「関西八国」には含まれないかもしれません。無論、山背も関西八国に含まれていない可能性もあります。
 さらに、「2」について言わせていただくと、河内戦争の後に66国に分割されたということは、やはり河内戦争以前に山背国の境界は明確に決まっていません。そして、河内戦争の記事には「国司」の用語が用いられていますから、可能性としては富川さんや古賀さんが想定しているよりも後世の記事の可能性があるのです。
 このように、まだ十分に論証が尽くされたとはいえない仮説を論拠に「考えられません」と言われることには、疑問があります。
(つづく)


第1892話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(1)

 FaceBookと「洛中洛外日記」で連載した「京都市域(北山背)の古代寺院」を読んだ日野智貴さん(古田史学の会・会員、奈良市)からFaceBookにコメントが寄せられ、問答が続きました。
 日野さんは奈良大学の学生さんで国史を専攻する古田学派内でも気鋭の若手研究者です。今回、寄せられた質問やわたしの見解への鋭い疑問の提起など、学問としてもハイレベルで深い洞察力に裏付けられたものでした。その二人のやりとりを「河内戦争」問答と銘打って「洛中洛外日記」でご披露することにしました。もちろん日野さんの了承もいただいています。
 まずは発端となった日野さんからの質問とわたしの返答の序盤戦を転載します。

2019.05.09【日野さんからの質問】
 一応、「この時代は九州王朝(倭国)の時代で、この地に近畿天皇家の支配が及んでいたとは考えられません。」という部分については、古田学派でも統一見解とは言えないと思います。近畿天皇家の勢力範囲については、初期からずっと議論があり今でも決着を見ていないと思います。
 大和と山城の境界が確定したのは恐らく多利思北孤の時代である(それ以前には山背の一部が大和に編入されていた可能性も否定できない)わけですし。

2019.05.10【古賀の返答】
 日野さん、コメントありがとうございます。
 冨川ケイ子さんの論文「河内戦争」において、タリシホコの九州王朝が摂津・河内を制圧する前の当地の権力者は関西八国の支配者であり、それは近畿天皇家の勢力でもないとされています。わたしは冨川説は有力と考えており、それであれば山城国が近畿天皇家の影響下となるのは七世紀第四四半頃と考えています。壬申の乱以降ではないでしょうか。
 河内戦争の勝利後に九州王朝は全国を66国に分国したものと思いますが、いかがでしょうか。
(つづく)


第1889話 2019/05/08

京都市域(北山背)の古代寺院(5)

 京都東山の「八坂の塔」として有名な五重塔には法観寺という正式名があることはあまり知られていません(俗称は八坂寺)。元々は塔の北側に金堂や講堂などがあったと推定され、出土した瓦の編年から七世紀第3四半期の創建とされています。昭和53年の塔基壇調査では心礎の巨石が創建時のままで移動していないとのことで、三度の焼失のたびに同じ位置で再建されたことが判明しました。
 伝承では、聖徳太子が四天王寺建立のため山背国愛宕郡の材を求めたとき、この地が気に入り、一堂を建てたことが法観寺の始まりとされています。しかし、七世紀前半の飛鳥時代の遺物が出土しないことから、この伝承は否定されています。心礎の位置(高さ)が基壇上にありますので、七世紀後半頃(白鳳時代)の創建とする見解にわたしも賛成です。白鳳10年(670)年創建とされる太宰府・観世音寺の五重塔もこの様式です。もし飛鳥時代(七世紀初頭頃)であれば心礎は法隆寺五重塔のように地下に埋まっていると思われます。
 他方、広隆寺と同様に法観寺も聖徳太子伝承を持つことには注目すべきです。それは九州王朝の多利思北孤や利歌彌多弗利の伝承があって、それが後世において聖徳太子伝承として伝えられた可能性があるからです。このように京都市の東西(東山区と右京区)に聖徳太子伝承を持つ大形寺院が現存することは、京都市域が古代において九州王朝との強い関係を持っていたことをうかがわせ、古田史学・多元史観にとって重要な研究課題です。(つづく)


第1888話 2019/05/07

京都市域(北山背)の古代寺院(4)

 北野廃寺(北区北野上白梅町)が最古級(飛鳥時代、七世紀前半頃)の寺院遺跡とれさていることを紹介しましたが、京都市域(北山背)には同じく飛鳥時代の創建とされる広隆寺(右京区太秦)が現存しています。聖徳太子との関係が深く、国宝彌勒菩薩像がある洛西の古刹です。寺域内の発掘調査では七世紀前半頃に遡る素弁蓮華文軒丸瓦が出土していることから、飛鳥時代に遡る創建と見てよいようですが、瓦の編年から北野廃寺の方がより古いとされています。
 北野廃寺と同様に、創建は九州王朝(倭国)の時代ですから、聖徳太子との関係も疑う必要があります。七世紀前半のこの地に近畿天皇家の支配が及んでいたとは考えられませんので、聖徳太子に関連する伝承や解釈も、九州王朝の天子・多利思北孤か太子の利歌彌多弗利のものだったのではないでしょうか。
 『日本書紀』の史料批判も含めて、大和の飛鳥や斑鳩以外の地の聖徳太子伝承の見直しが必要です。もちろん広隆寺もその対象です。なぜなら、中世以降に成立した聖徳太子伝記類には九州年号(金光など)が散見され、九州王朝の多利思北孤や利歌彌多弗利の伝承が近畿天皇家の厩戸皇子の伝承に置き換えられていることがわたしたちの研究により明らかとなりつつあるのですから。(つづく)


第1870話 2019/04/06

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(6)

 釈迦三尊像は上宮法皇をモデルとした「等身仏」ではないかとの正木さんからの指摘に答える前に、なぜわたしは『法隆寺縁起』に記された「丈六」を釈迦三尊像のことと理解したのかについて説明します。
 『法隆寺縁起』に記されたほとんどの献納品は、たとえば「丈六分」の他には「佛分」「薬師佛分」「弥勒佛分」「観世音菩薩分」「法分」「聖僧分」「塔分」「通分」などのように何に対しての施入かが記されています。そしてその順番を見ると、「丈六分」は先頭に記されています。たとえば次のようです(「丈六分」そのものが含まれていない施入例もあります)。

 「(前略)
  合香鑪壹拾具
   丈六分白銅単鑪壹口
  佛分参具
  彌勒佛分白銅壹具
 法分白銅弐具
   塔分赤銅壹具
   通分白銅弐具
 (中略)
 右天平八年歳次丙子二月廿二日納賜平城
 宮皇后宮者」

このように天平八年二月二十二日に光明皇后らから施入された献納品の筆頭の多くは「丈六分」とされており、この「丈六」を「二月廿二日」に没したことが記された唯一の仏像である釈迦三尊像と理解する他ないのです。『法隆寺縁起』には「薬師佛分」「彌勒佛分」「観世音菩薩分」とかの仏像は見えるのですが、釈迦三尊像を示す「釈迦分」という表記がないことも、「丈六」を釈迦三尊像のこととするわたしの理解を支持しています。
 『法隆寺縁起』の最初の方には当時の法隆寺にあった仏像について「合佛像弐拾壹具」とあり、その二十一体の仏像について記されています。最初の一体は「金埿銅薬師像壹具」でこれは光背銘を持つ有名な薬師如来像です。二番目に釈迦三造像が「金埿洞(ママ)釈迦像壹具」とあり、それ以外に光明皇后が「丈六分」として「二月廿二日」に大量の施入をするような発願者名などが特筆された仏像は見当たりません。こうした理由から、わたしは「丈六」を釈迦三尊像と理解しました。この二十一体の他にも献納された諸仏像が記されていますが、やはり「丈六」に相応しい仏像の記録はありません。
 他方、これは正木さんから教えていただいたのですが、法隆寺の西円堂には文字通りの丈六(座像で像高246.3cm)の薬師如来像が安置されています。寺伝では養老二年(718)に光明皇后の母、橘夫人の発願により行基が建立したとされていますが、仏像史研究によればこの薬師如来像は八世紀後半頃のものとされていますから、光明皇后らが施入した天平八年(736)の頃には西円堂の薬師如来像はまだ存在していなかったと思われます。
 更に『法隆寺縁起』には、養老六年(722)にも「平城宮御宇天皇(元正天皇)」による「丈六分」とする施入記事があることから、やはりこの「丈六」を八世紀後半頃と編年されている西円堂の薬師如来像とすることは困難と思われます。もし養老二年頃に西円堂が建立され、本尊の薬師如来像が安置されたのであれば、そのこと自体が『法隆寺縁起』に記されるはずですが、そのような記事は見えません。
 なお付言すれば、同薬師如来像の編年が八世紀初頭頃まで遡るとなれば、「丈六」の有力候補となります。この点、仏像史研究を調べてみたいと思います。(つづく)


第1701話 2018/06/29

『風土記』の中の利歌彌多弗利(聖徳王)

 九州年号研究の進展により、『二中歴』には見えない「聖徳(629〜634年)」という九州年号は利歌彌多弗利の「法号」とする説が正木裕さん(古田史学の会・事務局長)より発表されました。今のところ、この正木説が最有力とわたしは考えていますが、この正木説に立つと新たな展開が見えてきます。今回、ご紹介する『播磨風土記』に見える「聖徳王」を九州王朝の利歌彌多弗利(多利思北孤の太子)とする理解です。
 『風土記』(日本古典文学大系、岩波書店)所収「播磨風土記」には次のような「聖徳王」という表記が見えます。

(印南郡)
 「原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈、廣さ一丈五尺、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり。」(265頁)
 『風土記』(日本古典文学大系、岩波書店)

 有名な「石の宝殿」のことを記した記事ですが、ここに見える「聖徳王」や「弓削大連」について、岩波の頭注では次のように解説されています。

 頭注二五「推古天皇の皇太子で摂政であったから、天皇に準じていう。太子の摂政は物部守屋滅亡後で時代が前後する。伝承の年代錯誤。」(265頁)
 頭注二六「物部守屋。排仏を主張して聖徳太子に攻め滅ぼされた(五八七没)。」(265頁)

 ここでは「聖徳の王の御世」の説明として「推古天皇の皇太子で摂政であったから、天皇に準じていう」とされていますが、本当でしょうか。『播磨風土記』では時代を特定する記述方法としては次のように近畿天皇家の「○○天皇の御世」という表記が採用されています。同じ「印南郡」に見える三例を紹介します。

 「難波の高津の御宮の天皇の御世(仁徳天皇)」
 「大帯日子の天皇の御世(景行天皇)」
 「志我の高穴穂の宮に御宇しめし天皇の御世(成務天皇)」
 ※( )内は古賀による付記。

 これらと比較しても「聖徳の王の御世」という表記は異質です。いわゆる聖徳太子の摂政時代であれば推古天皇が存在するのですから、例えば「飛鳥の治田宮の天皇の御世」という表記が可能であるにもかかわらず「聖徳の王の御世」とあるのは不審です。しかも、頭注で指摘されているように、「太子の摂政は物部守屋滅亡後で時代が前後する。伝承の年代錯誤。」であり、『日本書紀』の内容と一致しません。
 ところがこの記事を多元史観・九州王朝説で解釈すれば、先の正木説に基づき「聖徳王の御世」とは九州王朝の利歌彌多弗利の時代となり、それは前代の多利思北孤崩御後の九州年号「仁王元年(623)」から恐らく「命長七年(646)」の頃を意味します。
 さらに、同記事に見える「弓削の大連」も、物部守屋とは別人となります。ですから、時代もいわゆる聖徳太子よりも後となり、「弓削の大連の造れる石」とされた「石の宝殿」も当地の有力者と思われる「弓削の大連」が造らせたものと理解すべきでしょう。
 わたしはこの「石の宝殿」がある生石神社(おうしこじんじゃ)を訪問したことがあり、そのときに九州年号「白雉」が案内板の御由緒に使用されていることを知りました。そのことを「洛中洛外日記」1348話(2017/03/07)で次のように記しました。

【以下転載】
石の宝殿(生石神社)の九州年号「白雉五年」

 今日は仕事で兵庫県加古川市に行ってきました。お昼休みに時間が空きましたので、出張先近くにある石の宝殿で有名な生石神社(おうしこじんじゃ)を訪問しました。どうしても行っておきたい所でしたので、短時間でしたが石の宝殿を見学しました。
 有名な史跡ですので説明の必要もないかと思いますが、同神社の案内板に書かれた御由緒によれば、御祭神は大穴牟遅と少毘古那の二神で、創建は崇神天皇の御代(97年)とのことです。
 特に興味が引かれたのが、孝徳天皇より白雉五年に社領地千石が与えられたという伝承です。この白雉五年が九州年号による伝承であれば656年のこととなります。この「白雉五年」伝承を記した出典があるはずですので、これから調査することにします。
【転載終わり】

 九州王朝が難波副都(前期難波宮)を造営した時代の白雉五年の伝承ということですから、利歌彌多弗利の次の時代です(正木説では「伊勢王」の時代)。従って『播磨国風土記』に記された「弓削の大連」も社領地千石が与えらるほどの九州王朝系の有力氏族であったと考えるべきでしょう。
 以上のように、『播磨国風土記』に見える「聖徳王」を利歌彌多弗利のこととする仮説(やや思いつき)を提起しましたが、いかがでしょうか。


第1688話 2018/06/11

九州王朝の「分国」と

   「国府寺」建立詔(5)

 『聖徳太子伝記』や『日本書紀』推古2年条などの史料の他に、わたしが注目しているのが摂津と大和の「二つの国分寺」という現象です。実は九州王朝による多元的「国分寺(国府寺)」説を支持する次の三つの論点があり、その一つが摂津と大和の「二つの国分寺」です。

〔多元的「国分寺」研究の三論点〕

(1)諸国の国分寺遺跡から出土する瓦に7世紀前半頃に遡るものが散見され、聖武天皇による国分寺よりも古い。また、武蔵国分寺遺跡のように、方位が異なる遺構が併存しており(肥沼孝治さんの指摘)、それぞれが異なる時代に建立された痕跡を示すものもある。更には伽藍配置の分類・比較という視点でも肥沼孝治さん山田春廣さんらにより研究が進められている。

(2)『聖徳太子伝記』などの九州王朝系史料に基づいたと思われる史料に、「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)」と、多利思北孤の時代に「国分寺(国府寺)」が建立された記事がある。謡曲などに見える六十六ヶ国分国記事に関する研究も正木裕さんにより進められている。

(3)摂津と大和には二つの国分寺あるいは国分寺遺構が異なる場所にあり、それらは九州王朝と大和朝廷によるものと思われる。特に大和国分寺を称する寺院は橿原市に現存しており、これは聖武天皇の王宮(平城京)から離れているが、7世紀前半頃であれば飛鳥に近畿天皇家の宮殿があり、橿原市の国分寺はその近傍であり7世紀前半頃の「国府寺」として妥当な位置である。
摂津の国分寺跡とされる上町台地(天王寺区国分町)の遺構からは7世紀前半頃の軒丸瓦が出土していることも、これが九州王朝による「国府寺」であり、大阪市北区に現存する国分寺(真言宗)は聖武天皇による8世紀の国分寺と思われる。

 今のところ、上記の三論点を根拠として多元的「国分寺」研究は進められています。(1)と(2)は考古学的出土事実や九州王朝系史料事実に基づく主に実証的論点ですが、(3)は一国に二つの国分寺存在の痕跡に基づく論理的考察、すなわち論証による展開に大きくよっています。そこで、この「二つの国分寺の痕跡」というテーマについて詳しく説明します。(つづく)


第1679話 2018/05/26

九州王朝の「分国」と

     「国府寺」建立詔(4)

 九州王朝が告貴元年(594)に建立を命じた「国府寺」ですが、その寺院の名称が「国府寺」として諸国に統一されていたのかという問題について、説明します。

 九州王朝が告貴元年(594)に建立させた寺院の名称については、既に紹介したように次の二史料の存在がわかっています。

 一つは『聖徳太子伝記』に見える「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)」の記事にある「国府寺」です。「国府寺と名付ける」と明確に記されていますから、実証的にはこの記事を根拠に「国府寺」と理解する他ありません。しかし、論理的に考証(論証)しますと、各国にある「国府寺」が同名だと、諸国間の連絡や中央での管理記録において区別がつかず不便な統一名称となります。従って、もし「国府寺」と名付けられたとしても「正式名称」としては冒頭に国名が付されたのではないでしょうか。たとえば大和国府寺とか肥前国府寺のようにです。

 二つ目の史料が『日本書紀』推古2年条の「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」という記事です。ここでは「寺」という一般名ですが、「即ち、是を寺という」という記事は不思議です。それまで倭国には「寺」と呼ばれるものが無かったかのような記事だからです。また「諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る」ということであれば、この「佛舎」は諸国に一つずつの「国府寺」とは異なります。他方、「みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ」とありますから、詔勅による「国家事業」と解さざるをえません。おそらく、『日本書紀』編纂者は、九州王朝による「国府寺」建立をこのような表現にして、九州王朝や九州王朝による「国府寺」建立詔の存在を伏せたと思われます。

 以上の史料事実から、九州王朝が告貴元年(594)に建立を命じた「国府寺」は少なくとも通称として「国府寺」と呼ばれていたのではないかと推定できます。(つづく)


第1678話 2018/05/25

九州王朝の「分国」と

      「国府寺」建立詔(3)

 九州王朝が6世紀末頃には全国を66国に「分国」していたことを説明しましたが、次いで「国府寺」建立を命じた詔勅が告貴元年(594)に出されたとする理由(論理展開、史料根拠)を改めて説明します。

①九州年号「告貴」の字義は「貴きを告げる」ですから、海東の菩薩天子、多利思北孤にとって「貴い」詔勅が出されたことによる改元と考えるべきである。

②九州王朝系史料に基づいて編纂されたと思われる、九州年号(金光、勝照、端政)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)の告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」に「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)」という記事がある。近畿天皇家側史料『日本書紀』などに見えない記事であり、九州王朝系史料に基づくと考えざるを得ない。

③この告貴元年甲寅(594)と同年に当たる『日本書紀』推古2年条に次の記事がある。

 「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

④『聖徳太子伝記』に見える「国府寺」建立記事と『日本書紀』推古紀の「三宝興隆・造佛舎」詔勅記事が同年(594年)であることを偶然の一致と考えるよりも、共に九州王朝(多利思北孤)による「国府寺」建立を命じた詔勅に基づいたものと理解するほうが合理的である。

⑤『隋書』国傳に見える国の使者(大業三年、607年)の言葉として、煬帝に対し「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興す」とあり、古田先生の理解によれば、「重ねて」とは海東(倭国)において仏法を興した多利思北孤に次いで隋の天子が重ねて仏法を興した意味とされている。そうであれば、このとき既に「国府寺」建立を命じており、そのことをもって「仏法を興した」と多利思北孤は自負していたとしても不思議ではない。

⑥多利思北孤が隋よりも先に「仏法を興した」とする根拠として「法興」年号(591〜622年)がある。「法興」とは「仏法を興す」という意味で、「法興寺」と呼ばれる寺院もこの時代に創建されている。なお、正木裕さんによれば、「法興」は多利思北孤の法号であり、それが「年号的」に使用(法隆寺釈迦三尊像光背銘、伊予温湯碑)されたとされる。

 以上の理由から、「国府寺」建立を命じた詔勅が告貴元年(594)に出されたとわたしは考えています。しかしながら諸国で「国府寺」が完成したのは更にその後ですから、必ずしも7世紀初頭に諸国の「国府寺」が完成したとする考えとは矛盾しません。(つづく)


第1677話 2018/05/25

九州王朝の「分国」と

     「国府寺」建立詔(2)

 九州王朝は6世紀末には九州島内諸国を9国に「分国」し、全国を66国に「分国」したと、わたしは考えています。このことを「続・九州を論ず 国内史料に見える『九州』の分国」(『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』古田武彦・福永晋三・古賀達也、共著。明石書店、2000年)に詳述しましたので、ご参照ください。簡単にその論理性や史料根拠を説明します。

①「九州」という地名は、中国の天子が自らの直轄支配領域を九つに分けて統治したことを淵源に持ち、後に天子の支配領域全体を「九州」と称するようになったという政治用語である。九州王朝の多利思北孤は「海東の菩薩天子」を自認していたと思われるため、その時代(7世紀初頭)までには中国に倣って九州王朝も九州島を九つに分国したと考えられる。その名残が「九州島」の地名「九州」として現代まで続いている。

②「聖徳太子」が日本全国を33国から66国に分国したとする次の記事が史料中に見える。
「太子十八才御時(崇峻二年、589年)
春正月参内執行國政也、(中略)太子又奏シテ分六十六ケ國玉ヘリ、(中略)筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩、昔ハ六ケ國今ハ分テ九ケ國、名西海道也、(後略)」『聖徳太子傳記』(文保二年頃〔1318〕成立)
「人王卅四代の御門敏達天皇の御宇に聖徳太子の御異見にて、鏡常三年(敏達十二年、583年)癸卯六十六箇國に被割けり。(中略)年號の始は善記元年」『日本略記』(文録五年〔1596〕成立)

③『日本書紀』推古紀に「火葦北国造(敏達十二年、583年)」と「肥後国の葦北(推古十七年、609年)」という記事が見え、「火国」が「肥前国」「肥後国」に分国されたのが583年から609年の間であることを示している。

④これらの史料事実は、九州王朝による66国への分国が583年あるいは589年であることを示しており、それ以外の時期の「分国」を示す史料を管見では知らない。

 以上のような論理性と史料根拠により、九州王朝による66国への分国が告貴元年(594)以前になされていたとする仮説は有力であり、これ以外の「史料根拠に基づいた仮説」の存在を、今のところわたしは知りません。(つづく)