科学一覧

第1149話 2016/03/12

考証・和紙の古代史(1)

 世界の四大発明は火薬・羅針盤・活版印刷・紙とされています。紙は中国(後漢時代)の蔡倫により発明されたと伝えられてきましたが、紀元前2世紀(前漢)の遺跡からも出土していることから、その発明時期は更に遡ることになりました。
 日本列島への伝来の時期は不明ですが、最近、福岡県糸島市の三雲・井原遺跡から硯(すずり)が出土したことから、弥生後期(2世紀後半〜3世紀前半頃)には糸島博多湾岸(邪馬壹国・九州王朝)は他地域に先駆けて文字文化を受容したと見られます。『三国志』倭人伝によれば、中国(魏王朝)と倭国(邪馬壹国)は国書を交換しており、弥生時代の倭国に文字官僚がいたことを疑えません。今回の硯の出土により、倭人伝の記事の信頼性が増したといえるでしょう。ただし、この時代、紙は貴重なので、一般的には木簡が使用されていたと思われ、中国から輸入した紙は国書などの重要書類に限定して使用していたのではないでしょうか。
 他方、わが国での現存最古の書籍は『法華義疏』(皇室御物)で、600年頃の倭国内での成立とされていますが、使用された紙が国産和紙か中国製かは諸説あり、和紙と断定するに至っていないようです。正倉院には大寶2年(702)戸籍(筑前・豊前・美濃)が現存しており、これらは国産和紙と見られています。倭国初の全国的戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」(670年)はその膨大な使用量からみて、国産和紙が使用されたと思われます。
 概観すれば、弥生時代に中国から文字文化とともに紙が伝来し、どんなに遅くとも6〜7世紀には倭国でも写経や造籍事業のために国産和紙を製造していたとしても、大過ないでしょう。ヨーロッパに中国の製紙技術が伝わったのは12世紀頃とされていることから、日本への伝来はかなり早いといえます。そして中国から伝わった紙や製紙技術は日本で独自の発展を遂げ、文字通りの「和紙」が生まれます。(つづく)


第1142話 2016/02/27

大宅健一郎「STAP騒動の真相」

 「古田史学の会」会員で、多元的「国分寺」研究サークルのサイトを開設され、わたしと共同研究されている東京都の肥沼孝治さんから、ネットサイト「ビジネスジャーナル」に大宅健一郎さんの「STAP騒動の真相」という記事が掲載されていることを教えていただきました。わたしが「洛中洛外日記」で連載した「小保方晴子著『あの日』を再読」と同じ主張が述べられており、意を強くしました。冒頭部分を転載し、ご紹介します。

大宅健一郎「STAP騒動の真相」 2016.02.26

STAP問題の元凶は若山教授だと判明…恣意的な研究を主導、全責任を小保方氏に背負わせ

 「私は、STAP細胞が正しいと確信したまま、墓場に行くだろう」
 STAP論文の共著者であるチャールズ・バカンティ博士は、米国誌「ニューヨーカー」(2月22日付電子版)の取材に対して、こう答えた。2015年にもSTAP細胞の研究を続け、万能性を示す遺伝子の働きを確認したという。
 また、「週刊新潮」(新潮社/2月11日号)では、理化学研究所・CDB(発生・再生科学総合研究センター)副センター長だった故・笹井芳樹博士の夫人が、インタビューにおいて次のように発言している。

「ただ、主人はSTAP現象そのものについては、最後まで『ある』と思っていたと思います。確かに主人の生前から『ES細胞が混入した』という疑惑が指摘され始めていました。しかし、主人はそれこそ山のようにES細胞を見てきていた。その目から見て、『あの細胞はESとは明らかに形が異なる』という話を、家でもよくしていました」

 ES細胞に関する世界トップクラスの科学者である2人が、ES細胞とは明らかに異なるSTAP細胞の存在を確信していたのだ。
 一体、あのSTAP騒動とはなんだったのだろうか――。

ファクトベースで書かれた手記

 小保方晴子氏が書いた手記『あの日』(講談社)が1月29日に発刊され、この騒動の原因が明らかになってきた。時系列に出来事が綴られて、その裏には、関係者間でやりとりされた膨大なメールが存在していることがわかる。さらに関係者の重要な発言は、今でもインターネットで確認できるものが多く、ファクトベースで手記が書かれたことが理解できた。いかにも科学者らしいロジカルな構成だと筆者は感じた。
 しかし、本書に対しては「感情的だ」「手記でなく論文で主張すべき」などの批判的な論調が多い。特にテレビのコメンテーターなどの批判では、「本は読みません。だって言い訳なんでしょ」などと呆れるものが多かった。
 手記とは、著者が体験したことを著者の目で書いたものである。出来事の記述以外に、著者の心象風景も描かれる。それは当然のことだ。特に小保方氏のように、過剰な偏向報道に晒された人物が書く手記に、感情面が書かれないことはあり得ないだろう。それでも本書では、可能な限りファクトベースで書くことを守ろうとした小保方氏の信念を垣間見ることができる。 また、「手記でなく論文で主張すべき」と批判する人は、小保方氏が早稲田大学から博士号を剥奪され、研究する環境も失った現実を知らないのだろうか。小保方氏は騒動の渦中でも自由に発言する権限もなく、わずかな反論さえもマスコミの圧倒的な個人攻撃の波でかき消された過去を忘れたのだろうか。このようないい加減な批判がまかり通るところに、そもそものSTAP騒動の根幹があると筆者はみている。

小保方氏が担当した実験は一部

 STAP騒動を解明するために、基礎的な事実を整理しておこう。
 小保方氏が「STAP細胞」実験の一部だけを担当していたという事実、さらに論文撤回の理由は小保方氏が「担当していない」実験の部分であったという事実は、しばしば忘れられがちである。いわゆるSTAP細胞をつくる工程は、細胞を酸処理して培養し、細胞塊(スフェア)が多能性(多様な細胞になる可能性)を示すOct4陽性(のちに「STAP現象」と呼ばれる)になるところまでと、その細胞塊を初期胚に注入しキメラマウスをつくるまでの、大きく分けて2つの工程がある。
 小保方氏が担当していたのは前半部分の細胞塊をつくるまでである。後半のキメラマウスをつくる工程は、当時小保方氏の上司であった若山照彦氏(現山梨大学教授)が行っていた。
 もう少し厳密にいえば、小保方氏が作製した細胞塊は増殖力が弱いという特徴を持っているが、若山氏は増殖力のないそれから増殖するように変化させ幹細胞株化(後に「STAP幹細胞」と呼ばれる)させるのが仕事だった。つまり、「STAP現象」が小保方氏、「STAP幹細胞」が若山氏、という分担だが、マスコミにより、「STAP現象」も「STAP幹細胞」も「STAP細胞」と呼ばれるという混乱が発生する。
 本書によれば、若山氏はキメラマウスをつくる技術を小保方氏に教えなかった。小保方氏の要請に対して、「小保方さんが自分でできるようになっちゃったら、もう僕のことを必要としてくれなくなって、どこかに行っちゃうかもしれないから、ヤダ」と答えたという。
 この若山氏の言葉は見逃すことはできない。なぜなら、STAP細胞実験を行っていた当時、小保方氏はCDB内の若山研究室(以下、若山研)の一客員研究員にすぎなかったからである。小保方氏の当時の所属は米ハーバード大学バカンティ研究室(以下、バカンティ研)であり、若山氏は小保方氏の上司であり指導者という立場であった。
 当時の小保方氏は、博士課程終了後に任期付きで研究員として働くいわゆるポスドク、ポストドクターという身分だった。不安定な身分であることが多く、日本国内には1万人以上いるといわれ、当時の小保方氏もそのひとりであり、所属する研究室の上司に逆らうことはできなかったのだ。
 この弱い立場が、のちに巻き起こるマスコミのメディアスクラムに対抗できなかった最大の理由である。メディアがつくり上げた虚像によって、まるで小保方氏が若山氏と同じ立場で力を持っていたかのように印象づけられていた。


第1140話 2016/02/16

小保方晴子著『あの日』を再読(3)

 運命の日、2014年1月28日のマスコミ発表から1週間もたたないうちにネット上で小保方バッシングが始まります。理研関係者でなければ知ることもできないような内部情報も毎日新聞などにリークされ、そのすべては「小保方がES細胞を混入させた」というシナリオに収斂するという、かなり意図的(悪意と予見に満ちた)であり共同謀議(綿密な連携)を感じさせるものでした。そして、小保方さんにとって悪夢のような四つの悲劇が連続して起こりました。
 一つは、小保方さん等が作ったSTAP細胞でキメラマウスの作製を担当した若山さんが、ネイチャーに発表した論文を否定し、小保方さんがES細胞を混入させたかのようなマウスのDNA鑑定をマスコミに発表しました。後にこの鑑定が誤りであったことが理研の検証により明らかとなるのですが、既に毎日新聞やNHKが大量に報道していたため、小保方さんがES細胞を混入したとするシナリオが日本中に拡散され、一人歩きしていました。
 二つめは、小保方さんを擁護していた笹井さんが半年間に及ぶマスコミからの執拗なバッシングにより自殺に追い込まれたことです。これはわたしの想像ですが、小保方バッシングの真の目的は「笹井潰し」ではなかったかと思っています。なぜなら理研の内部情報を毎日新聞などにリークした人物にとって、若い小保方さんを叩かなければならない理由もメリットも考えにくいからです。しかし、世界的研究者で理研の副センター長だった笹井さんを追い落としたいという人物であれば、動機もわかりますし、実際に笹井さんを自殺にまで追い込めたのですから。
 三つ目は、理研によるSTAP細胞の再現性検証実験のハードルが「キメラマウスの作製」と決められたことです。バカンティ研や若山研で小保方さんが行ったのは、多能性を指示する緑色に発色したSTAP細胞の作製までで、そのSTAP細胞によりキメラマウスを作製したのは若山さんでした。その両者による研究成果がネイチャーに採用され、特許出願したものがSTAP細胞研究ですから、小保方さんの責任範囲はSTAP細胞の作製までです。ところが、理研が小保方さんに課した検証実験のハードルは小保方さんが担当していなかった「キメラマウスの作製」までとしたのです。
 そして四つめの学問的には最大の悲劇が、若山さんが検証実験の協力を拒否したことです。そもそもキメラマウスの作製は難しく、その分野でもっとも腕がよいという理由から、早稲田大学はSTAP細胞からのキメラマウス製造の協力を当時理研にいた若山さんに依頼したのです。検証実験にそのキメラマウス作製担当責任者であった若山さんが協力を拒否するということは、小保方さんにしてみれば梯子を外されたも同然でした。若山研で無給研究員の小保方さんがSTAP細胞を作り、若山さんがキメラマウスを作製するという分担で発表した論文の検証実験に、当事者の若山さんが参加を拒否し、小保方さんにすべての責任を負わせるかたちで理研の検証実験は仕組まれたのです。
 このような悲劇が続き、半年間にわたるマスコミからのバッシングで心身ともにボロボロになっていた小保方さんでしたが、それでも再現実験に取り組みました。そして緑色に発色するSTAP細胞を作り上げました。小保方さんとは別に独立して検証実験を行った丹羽さんもこのSTAP細胞の作製に成功し、その結果は理研のホームページに掲載されました。しかし、若山さんとは別のスタッフが担当したキメラマウスの作製は成功しませんでした。若山研でキメラマウスが作製されていたとき、小保方さんは若山さんに、自分にもキメラマウスの作り方を教えてほしいと申し入れましたが、拒否されたとのことで、検証実験でも小保方さんはキメラマウス作製にはかかわれませんでした。いわば、当初から再現困難な状況におかれて、小保方さんは検証実験を強いられたのでした。
 そしてその結果を理研やマスコミは予定通り、「STAP細胞は再現できなかった」と発表しました。そして小保方バッシングは更にヒートアップし、「STAP細胞はなかった」「小保方がES細胞を混入させた」とのキャンペーンが繰り広げられたのです。
 しかし、小保方さんの手記『あの日』が刊行され、一連の事実関係が明らかとなりました。この手記に対するマスコミの姿勢を観察していますが、バッシングを続けたNHKはほぼ「沈黙」、毎日新聞やその系列テレビ局は『あの日』の内容を歪曲してバッシングを続けるという往生際の悪さを露呈しているようです。他方、『あの日』を読んだ人々の反響は、内容に触れずに(読まずに)バッシングするという当初の風潮から、バッシング報道はおかしいのではないかという意見が表明されはじめ、徐々に変化の兆しを見せています。
 日本社会や学界が、真実と「お金」のどちらを大切にするのかという大きな岐路に立たされている、小保方さんの『あの日』を読んでそのように感じました。


第1139話 2016/02/14

小保方晴子著『あの日』を再読(2)

 小保方晴子著『あの日』を読めば読むほど、若い無給研究員の小保方さんが、「大人の事情」や「組織のエゴ」に翻弄されていたことがわかります。STAP細胞の発見者として小保方さんの所属や特許権報酬の配分などを巡っての対立が、同書には赤裸々に記されています。
 たとえば若山さんは小保方さんを新たな勤務先の山梨大学に連れて行きたかったようですが、理研がユニットリーダーのポストを用意して、無給研究員の小保方さんを採用しました。ハーバードはSTAP細胞研究がバカンティ研で行われたことを理由に特許の共同出願権などを主張しました。論文のオーサーシップ(共著者としての権利)についても誰がシニアオーサー(ラストオーサーが最も権威がある)となるか、更には特許の権利比率(若山さんは51%の権利を主張されたとのこと)の争いなど、小保方さんの目指した純粋な学問研究とは別次元の問題が渦巻いていました。
 本来は真実のみを求める学問研究の世界に、「お金」という価値基準が跋扈したことが今回のSTAP報道事件を引き起こした原因の本質のように思います。大学を出てからは研究生活に没頭したため、真実よりも「お金」が大切という学界の実状に疎かったことが小保方さんにとって「不幸」だったのかもしれません。著書中にもこうしたトラブルに巻き込まれて困惑する様子が記されています。
 それでも何とかネイチャーの論文を完成させ、マスコミへの発表もすませたのですが、その1週間もたたないうちにネット上で論文の不備(約80枚の写真の内、3枚ほど別の写真と間違っていた、など)を「研究不正」としてバッシングが始まります。そのタイミングの早さから考えて、リークは事前に論文の内容を知っていた理研内部の者でなければ不可能と思われますが、こともあろうに理研は小保方さん一人に責任を負わせて逃げ切ろうとしました。小保方さんがES細胞とすり替えたかのようなシナリオを作ったのですが、無給研究員(ポスドク)にそのようなことができるはずもありません。笹井さんも記者会見で、STAP細胞とES細胞は大きさが全く異なり、間違うことはあり得ないと説明されました。また、若山研では他の研究者も小保方さんからSTAP細胞の作り方を習って一緒に作製していますし、若山さん自身も海外メディアに対しては、自分もSTAP細胞の作製に成功したと語っていました。
 理研内での小保方さんへの査問委員会でも、取り調べ側委員は小保方さんが無給研究員だったことさえも知らなかったとのことです。こうした実状についてマスコミからはほとんど報道されず、NHKと毎日新聞を中心とする小保方バッシングが延々と続きました。しかし、小保方さんにとって決定的な悲劇はこの後に起こりました。(つづく)


第1138話 2016/02/13

小保方晴子著『あの日』を再読

 STAP報道事件で日本中からバッシングされた小保方さんの手記『あの日』(講談社)を発売初日に購入し再読しています。一読して思ったのが、和田家文書偽作キャンペーンと構造がよく似ていることでした。古田先生の邪馬壹国説や九州王朝説に一元史観側がまともな論争では勝てないと見るや、学問的本質とは無関係な偽作キャンペーンでバッシングを続け、古田説全体のイメージダウンと、「偽書」を支持している古田武彦を相手にしなくてもよい、無視してもよいという構造とそっくりです。
 小保方さんのケースでは、STAP細胞・技術の本質ではなく、結論にも影響しない悪意のない単純な写真の取り違えや、博士号論文のコピペ(アメリカ政府が使用自由と公開した記事部分であり著作権侵害にあたらない)を取り上げてバッシングし、STAP細胞も抹殺するという手法がとられました。
 他方、小保方さんの優れた文章力や表現力、何よりもハーバード大学のバカンティ研でのSTAP細胞発見に至る過程は、学問研究の醍醐味を充分に感じさせるものでした。分子生物学の専門用語が多用されてはいるものの、最初から丁寧に読めば自然と理解できるような内容になっており、勉強にもなりました。
 同書には複数のクライマックスシーンがあるのですが、ハーバード大学留学中に、「STAP細胞」と理研の笹井さんから後に名付けられることになる「スフェア細胞」に多能性(様々な細胞に変化できる能力)を発見したシーンは感動的でした。そのことをバカンティ研で発表したとき、バカンティ教授から「過去15年間で最高のプレゼンテーションだった」と絶賛され、早稲田大学からの半年の留学期限をバカンティ教授からの滞在費用提供により延長されたほどですから、いかに小保方さんが優秀な研究者であったのかがわかります。早稲田大学の指導教授からも小保方さんを「過去ベストスリーに入る優秀な学生」とバカンティ教授に紹介しています。ちなみに、このプレゼンはバカンティ教授から2週間前に指示されたもので、そのための先行論文調査や深夜におよぶ実験を小保方さんはわずか2週間でやりとげたことになります。
 そのプレゼンの後、バカンティ研では小保方さんのSTAP細胞・現象の仮説を証明するべく、研究室の総力をあげて検証実験に入ります。そしてSTAP細胞の作製に成功し、それが「万能細胞」であることを証明するための実験を行うのですが、三つある証明実験の内、二つには成功しますが、最も難しいキメラマウスの作製がバカンティ研の装置や技術ではできないため、小保方さんは帰国し、世界で最もキメラマウスの作製がうまいとされている若山さんに協力依頼を早稲田大学から行います。その結果、小保方さんは無給研究員として理研の若山研でSTAP細胞の量産技術開発に取り組みます。
 若山研ではSTAP細胞の作り方を他の研究員にも小保方さんは教え、そうしてできたSTAP細胞を用いて若山さんが試行錯誤の末、キメラマウス作製に成功します。そしてその成果を海外の研究誌に投稿するのですが、採用されないため、理研はエース級の研究者である笹井さんを投入し、小保方さんのネイチャー用論文の執筆指導に当たらせます。そして、STAP細胞論文はネイチャーに採用されるのですが、同時に理研は国際特許(アメリカで出願)も出願しています。このことから、無給研究員だった小保方さんのSTAP細胞研究を理研がいかに高く評価していたかがわかります。そして運命の記者会見の日、2014年1月28日を迎えます。(つづく)


第1096話 2015/11/24

正倉院の毛製宝物の材質

 本日、大阪市天王寺区のホテルアウィーナ大阪で開催された繊維応用技術研究会に出席し、奥村章(おくむら・あきら)さん(消費科学研究所・技術顧問)の講演「正倉院の毛製宝物の材質を調べる」の座長をさせていただきました。
 講師の奥村さんは北海道大学農学部を卒業後、大阪府立産業技術総合研究所に勤務され、平成21〜24年の秋の正倉院開封期間中に特別材質調査の調査員として、毛製宝物の筆、伎楽面、伎楽衣装、毛氈(もうせん)、鞆、馬具など117点の材質を調査されました。ちなみに、正倉院は校倉造りとされていますが、「北倉」と「南倉」のみが校倉作りで、「中倉」は板倉造りで、内部は二階建てだそうです。現在、正倉院内部は空で、宝物は「西宝庫」に保管されているとのこと。
 その調査結果や調査方法などの体験談をお聞かせいただいたのですが、走査電子顕微鏡(SEM)やソフトX線透視画像により明らかとなった新知見など、とても興味深いものでした。とりわけ、従来はカシミアに似た故品種の山羊やアンゴラ山羊(モヘア)とされていた毛氈(フェルト生地)の材質が、実は羊毛であったという素材判定結果は新聞でも報道され、今年の正倉院展でも展示され注目されたところです。
 奥村さんの調査成果は画期的なものとされ、「正倉院の毛製品宝物の調査は、今後50年はしなくてもよい」との高い評価がなされたそうです。「古田史学の会」講演会の講師としてお呼びする機会があればと思います。
 歴史研究における最新の科学分析技術の進化発展に比べると、旧来の大和朝廷一元史観から未だ抜け出すことができない日本古代史学界の後進性には絶望感を覚えました。


第1034話 2015/08/23

前期難波宮の方位精度

 古代寺院などの「7度西偏」磁北説に対して、吹田市の茂山憲史さん(古田史学の会・会員)から貴重なアドバイスのメールをいただきました。次の通りです。

  「それにしても、偏角1度というのは、時計文字盤の「1分」の6分の1という微妙な角度です。全国にそんなにたくさんの「7度西偏」の建造物があるとは考えにくいのではないでしょうか。6度や8度がもっとある気がします。それにもかかわらず、ある時期以降、「磁北」がプランの中心流行になったと言うことは確かだと思います。簡便だからです。それが九州王朝に始まるのか、近畿王朝以降に始まるのか、興味津々です。僕の推測としては、九州王朝に始まる気がしています。「指南魚」という文化の伝播速度と九州王朝の進取の気風を考慮したいのです。朝鮮半島への伝播も興味が湧きます。」

 茂山さんは現役時代は新聞社に勤めておられ、天文台への取材経験などから、磁北や歳差について多くの知見を持っておられます。昨日の関西例会でも、本件についていろいろと教えていただきました。
 そこで古代建築の方位精度について、どの程度のレベルだったのかについて調査してみました。以前、前期難波宮遺構について大阪歴博の李陽浩さんから教えていただいたことがあったので、李さんの論文を探したところ、『大阪遺産 難波宮』(大阪歴史博物館、平成26年)に収録された「前期・後期難波宮の『重なり』をめぐって」を見つけました。
 李さんは古代建築史の優れた研究者で、多くの貴重な研究成果を発表されています。同論文には前期難波宮の南北中軸線方位の精密な測定結果が掲載されており、その真北との差はなんと「0度40分2秒(東偏)」とのことで、かなり精密であり高度な測量技術がうかがわれます。後期難波宮も前期難波宮跡に基づいて造営されているのですが、その真北との差も「0度32分31秒(東偏)」であり、両者の差は「誤差に等しいとしても何ら問題がない数値といえよう。」と李さんは指摘されています。古代の測量技術もすごいですが、残された遺跡からここまで精密な中心軸方位を復元できる大阪歴博の考古学発掘技術と復元技術もたいしたものです。
 この前期難波宮は九州王朝の副都であるとわたしは考えていますから、7世紀中頃の九州王朝や前期難波宮を造営した工人たちが高度な測量技術を有していたことがわかります。おそらくこの精度は高度な天体観測技術が背景になって成立していたと思われますが、「磁北」を用いる場合は、方位磁石の精度も必要となりますから、はたして古代において、どのような方位磁石が日本列島に存在し、いつ頃から建築に使用されたのかが重要テーマとして残されています。歴史の真実への道は険しく、簡単にはその姿を見せてはくれません。引き続き、調査と勉強です。(つづく)


第738話 2014/07/05

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(1)

 今日は早朝の新幹線と特急を乗り継いでで松山市へ向かっています。「古田史学の会・四国」主催の講演会で講演するためです。移動時間を利用して、前々から書きたかったテーマ、「『邪馬台国』畿内説は学説に非ず」の執筆を始めたいと思います。

 世にいう「邪馬台国」論争は、古田先生の邪馬壹国博多湾岸説の登場により、学問的には決着がついているはずですが、マスコミや一元史観の学者・研究者では、あいもかわらず「邪馬台国」論争が続けられています。中でも困ったものが「邪馬台国」畿内説という非学問的な「臆説」「珍説」です。そもそも畿内説というものが学問的仮説、すなわち「学説」と言うに値するでしょうか。わたしは畿内説は学説ではないと考えていますが、なぜ学説ではないかということを「洛中洛外日記」で数回に分けて説明することにします。
 たとえば理系の新発見や研究について、新たな仮説を発表する場合、実験データや観測データ、測定データ等の提示が不可欠です。さらにそれらの再現性を担保するために、実験方法や測定・分析方法も開示します。
 企業研究の場合は、それらデータも含めて「発見・発明」そのものを隠します。そもそも企業が自らの経営資源(ヒト・モノ・カネ)を投入して得た新知見を発表(無償で教える)して公知にすることは普通しません(特許出願は例外)。
 しかし、学者や研究者は人類の幸福や社会の発展のために自らの発見や仮説・アイデアを公知(論文発表など)にします。そしてその仮説が他の研究者による追試や利用(コピペもOKです。理系論文には著作権が発生しません)されながら、広く公知となり、真理であればやがて安定した学説として認められます。
 その際、各種データの改竄や捏造は「研究不正」としてやがては明らかとなり、そのような学者・研究者は省みられなくなり学界から淘汰されます。意図的な改竄や捏造ではなく、単純ミスやデータの取り違えは、残念ながら完全には無くなりませんので、その場合は訂正するか、訂正により仮説そのものが成立しなくなった場合は仮説が撤回されます。悪意のないミスであれば、信頼感は揺らぎますが、学界はそのこと自体をそれほど神経質にとがめることはありませんでし た。それよりも、少々不完全・未熟であっても様々な仮説やアイデアを自由に発表しあえる環境のほうが科学の発展にプラスと受け止められてきたものです。で すから、学生や若い研究者の不慣れで未熟な発表でも、温かい目で許容し、ほめたり、励ましたり、助言を与えたりしたものです。こうした研究環境の中で、若 い研究者は成長し、荒削りだけども若さゆえの既成概念にとらわれない画期的な仮説が発表され、そうした青年からの刺激を受けて科学は発展してきたのです。ノーベル賞受賞研究の多くが20代30代の頃の研究成果であることも、このこと裏付けています。
 ところが、近年では学者や研究者が「お金」や自らの「出世」「地位」のために研究するという変な時代になってしまいましたので、「お金」「出世」「地位」に目がくらんで、研究不正(悪意のある意図的なデータ改竄・捏造)を行うケースが発生するようになりました。その結果、科学や研究は大きく傷つきまし た。それに追い打ちをかけたのがマスコミによる無分別なバッシング報道です。悪意のない単純ミスまでもを「研究不正」としてバッシングし始めたのです。小保方さんはその犠牲者だと、わたしは思います。先日も、ある化学系学会の集まりでご年輩の化学者(その分野では日本を代表する方。わたしは若い頃、その方が書いた本や論文で有機合成化学を学びました)が、「あんなにマスコミや理研がバッシングしたら、若い研究者が育たない。才能を潰してしまう」と嘆いておられました。わたしも同感です。
 それでは「邪馬台国」論争のような文献史学ではどうでしょうか。『三国志』倭人伝を基礎史料(データ)として仮説や論理を組み立て、その優劣を競うわけですが、その場合でも学問としては理系と同様ですから、必要にして十分な調査・証明なしでの史料(データ)の意図的な改竄・捏造は許されません。結論その ものに影響する改竄などもってのほかです。このことは容易にご理解いただけることでしょう。
 ところが、「邪馬台国」畿内説はこのデータの改竄を平然と行い、しかも結論(女王国の所在地)そのものに影響をあたえる改竄を行っています。たとえば、 倭人伝には「南、邪馬壹国に至る」とあるのを「東、邪馬台国に至る」というように、「南」を「東」に、「壹」を「台(臺)」に改竄し、「邪馬台国」なるものをでっち上げ、方向を南ではなく東として、むりやりに「邪馬台国」畿内説を提起しているのです。もし、これと同じことを理系の研究論文で行ったら、即アウト、レッドカード(退場)です。それ以前に、論文掲載を拒否されるでしょう。ところが、一元史観の日本古代史学界は「集団」でこの研究不正を行い、「集団」でこの研究不正を容認しているのです。この一点だけでも、「邪馬台国」畿内説は研究不正の所産であり、学説(学問的仮説・学問的態度)に値しないことは明白です。マスコミがなぜこの研究不正をバッシングしないのか「不思議」ですね。(つづく)


第732話 2014/06/20

現代と古代の幹線道路

 今朝は山形新幹線で東京に向かっています。午後、東京で仕事をした後に京都に帰ります。早朝の山形駅新幹線ホームで、山形出張の度に気になっていたある疑問を若い車掌さんにお聞きしました。
 それは、山形新幹線は在来線に乗り入れていますが、線路の幅はどちらに合わせたのですか、という質問でした。若い車掌さんの返答は「新幹線が在来線に乗り入れたのではなく、在来線が新幹線に乗り入れたのです」とのこと。従って、レールの幅は新幹線用の広い幅で、在来線車両の台車を改良して、新幹線用レー ルの幅にしたとのことでした。
 しかし、わたしはこの回答に納得できませんでした。それならなぜ山形新幹線の車幅は在来線並に狭い(4列シート)のかという疑問を解決できないからで す。やはり、狭い在来線に新幹線を乗り入れるために、線路の幅と在来線列車の車輪幅は新幹線仕様に広げ、新幹線車両の幅は在来線乗り入れに支障をきたさな いよう、通常の新幹線(5列シート)よりも狭くしたのではないでしょうか。そうしないと、在来線の線路だけではなく、トンネルや駅のホームの幅も全て新幹 線仕様に拡張しなければなりません。それでは大工事となるので、在来線の駅やトンネルをそのまま利用するために、線路の幅と在来線車両の車軸幅のみを広げ ることにしたと思われます。その結果、山形新幹線の車両は他の新幹線よりも狭くなったのでしょう。おそらく地元の人や鉄道マニアにはご承知のことと思いま すが。
 若い車掌さんとの会話は面白い問題に発展しました。その車掌さんいわく、「お客様から同様の質問をよくされるのですが、わたしたちからすれば線路の幅など何故気にされるのか不思議です」とのこと。そこでわたしは次のように説明しました。
 わたしの年代は子供の頃に東海道新幹線が開業した世代なので、「夢の超特急ひかり号」はとても鮮烈な思い出なのです。その頃、小学校で新幹線の線路の幅 は高速走行のために欧米並の広い幅にしたと習いました。ですから、在来線と同じ線路を新幹線が走るということに違和感が強く、線路の幅はどうなっているの だろうか。それとも線路にレールが3本あり、どちらの車両も走れるような工夫がされているのだろうか。あるいは山形新幹線車両だけは車輪が4列あり、どち らの線路でも脱線せずに走れる構造か、車軸幅が自動制御で広がったり狭めたりできるのだろうかと、ずっと気になっていたのです。
 と説明したところ、若い車掌さんは「なるほどよくわかりました。ありがとうございます。」と深く納得されたようでした。本当に世代間の差は、意識や知識、認識の差を生むものだと、今更ながら感じた一幕でした(単なるわたしの不勉強だけなのかも知れませんが)。ちなみに、応答していただいた若い車掌さんは終始丁寧な物腰で、とても好感が持てました。
 新幹線は現代日本の幹線道路ですが、古代においても九州王朝による幹線道路(官道)があったことが知られています。たとえば、九州王朝の首都太宰府から 佐賀県吉野ヶ里を結ぶ幹線道路(軍事用か)の痕跡が遺存していますし、関東や関西にも同様の幹線道路があり、それらは九州王朝が建造したとする仮説が肥沼孝治さん(古田史学の会・会員、所沢市)から発表されています。『古田史学会報』108号に、肥沼さんの論稿「古代日本のハイウェーは九州王朝が建設した 軍用道路か?」が掲載されていますのでご参照ください。
 こうした研究テーマは関西の古田学派ではなされていませんので、「古田史学の会」役員会でも肥沼さんを「古田史学の会」記念講演会の講師として招聘してはどうかと何度か検討されているのですが、日程の都合などでまだ実現できていません。面白そうなテーマですので、関西の会員にもお聞かせいただきたいと願っています。

 車窓から東京スカイツリーが見えてきました。もうすぐ列車は東京駅に到着します。雨はふっていないようですので、助かります。


第700話 2014/04/26

学術論文の「画像」切り張りと修正

 今回はSTAP論文騒動で「研究不正」行為とみなされている、学術論文での「画像」切り張り・修正について考えてみました。マスコミや「学者」の発言を聞いていると、何か本質とはかけ離れた自分たちの「村のおきて」が、「正義」であるかのように主張されており、学問研究の本質からは間違っているような気がしたためです。
 わたし自身の例を紹介しますと、前期難波宮九州王朝副都説の論文において、7世紀中頃において前期難波宮の規模・様式(朝堂院様式・八角殿・14朝堂) が突出していることをわかりやすく比較するために、前期難波宮の他、大宰府政庁跡や藤原宮・飛鳥板葺宮跡・平城宮などの王宮の平面図を他の書籍からコピーして切り張りしました。これは読者に自説を説明する上で、理解しやすいように行った善意による「画像」の切り張りです。その際、各図面の縮尺を統一するために一部の図面複写にコピー機の拡大・縮小機能を利用しました。これもまた善意による「画像」の修正です。もちろん、こうした図面を掲示しなくても、前期難波宮九州王朝副都説という仮説は成立しており、「画像」の切り張り・修正行為そのものは仮説成立の当否とは直接関係ありません。いわば、読者への便宜をはかった善意の画像掲載なのです。
 ところが、今回のSTAP論文騒動では、小保方さんの善意による「画像」切り張り・修正と単純な画像取り違えが、「悪意・不正・捏造」と理研により判断され、マスコミや多くの評論家や「学者」までもが、同様に小保方さんへのバッシングを続けました(2枚の画像取り違えは、小保方さん自身が気づき、マスコミから指摘される前に理研に訂正を申し入れています)。そのあげく、理研の調査委員会トップの過去の論文にも同様の行為があったとされ、当人は調査委員長を辞任するという「オチ」までつきました。いったい、いつから読者への便宜をはかる目的での善意の「画像」切り張りや修正までもが一律に「悪意・不正・捏 造」とされるようになったのでしょうか。そもそも、そうした学問的定義が、いつ誰によりなされ、学界や法律上でも合意したのでしょうか。マスコミや評論家・御用学者などによる「村のおきて」ではなく、学問上・法律上の厳密な定義の合意について、どのような論議・検討がいつ誰によりなされたのでしょうか。 ご存じの方がおられたら、教えていただきたいと思います。
 わたしが学んだ学問研究の方法や論文発表における「画像」使用の目的から考えれば、無いものをあったかのようにする、事実とは異なることを事実であるかのようにする、という悪意のある意図的な「画像」切り張りや修正は絶対に許されませんが、読者への便宜をはかる、あるいは仮説をよりわかりやすく丁寧に説 明するための善意による「画像」切り張り・修正はまったく問題のない行為です。従って、今回の騒動におけるマスコミや評論家・「学者」による小保方さんへ のバッシングは、かなり悪意のある行為としか、わたしには見えないのです。


第699話 2014/04/24

特許出願と学術論文投稿

 昨日は大阪の特許事務所に行き、新規開発品の特許出願の打ち合わせを行いました。若い頃は特許明細を自分で書いたものですが、近年は特許戦略や出願技術が高度で複雑になってきましたので、特許事務所の弁理士さんに書いてもらうことが多くなりました。仕事柄、特許出願や開発に関わることも多いのです が、企業研究(「お金」のための研究)では新発見や新発明を商品開発にまで進め、事業化により社会に貢献し、利益(お金)をいただき、事業継続を可能とします。わたしはこうしたビジネスに誇りをもっていますし、開発品が店頭に並び、みなさんに喜んで買っていただけることは、とても嬉しいものです。
 他方、特許出願とは異なって、学会などで企業研究の成果の一部を発表(無償で「公知」にする)することもあります。もちろん企業機密を守りながら、企業や商品の宣伝効果やお客様や学界への知的便宜をはかり、貢献し信頼を得ることが主たる目的です。7月にも繊維機械学会で講演を行いますが、そこでの資料やパワーポイントの画像に取り違えやミスがあるかもしれませんし、著作権や版権に問題なければコピペもします。間違いに気づけば謝り訂正しますし、それ以上聴講者から非難されたりバッシングされることもありません。企業の知見を無償で「公知」とするのですから、感謝されこそすれ、叩かれることはありません。 だから安心して発表できます。
 ところが、基本的に同じこと(自らの発見と仮説を論文発表することにより無償で「公知」にした)をした小保方さんはマスコミや評論家、御用学者から集団でバッシングされました。狂気の沙汰としか思えません。学術論文というものは、それまで誰も知らなかったことや定説とは異なる発見や仮説を発表するもので、その結論が「真理」かどうかはその時点では誰もわからないケースがあるのは当然ですし、だからこそ厳しい査読を経て、学術誌に掲載に値する仮説や発見と認められて掲載されるのです。
 従って、小保方さんの場合、STAP細胞やSTAP現象が真理かどうか、再現できるかどうかは、論文発表においては本来は問題とされません。何故なら、査読する方はそんなことまで実験して調べることはできませんから、仮説として論理的に成立しているかどうか、推論や論理展開に矛盾がないか、「公知」にするほどの内容かどうかが問題とされるのです。ですから、小保方さんがあれほど醜いバッシングを受ける理由がわたしには全く理解できません。写真の取り違えや、悪意のない画像修正(むしろ見やすくするための修正)は、訂正すればすむ問題であり、あれほどバッシングを受けるようなことではありません。
 理研の対応も理解に苦しみます。小保方さんに論文を取り下げろというのなら、その小保方さんの発見や成果に基づいて出した理研の特許も取り下げますというべきです。わたしはどちらも取り下げる必要はないと考えていますが。ちなみに、理研の特許を検索したところ、アメリカで国際特許を昨年4月24日に出願していました(PCT/US2013/037996)。同特許にはバカンティーさんや小保方さんらの名前も見え、そして恐らく開発に協力した日米の病院名も記されています。小保方さんのネイチャー誌への投稿が昨年3月10日ですから、ほぼ同時期に理研は論文と特許を出したことになります。
 通常、特許は出願してから1~2年ほどして公示されるのですが、同特許は専門的になりますが「先願権主張」のため、あえて早く公示される特許戦術を理研はとったものと推察されます。従って、理研はSTAP細胞やSTAP現象が正しいと確信していたはずです。でなければ膨大な経費(税金)を使って国際特許出願などしないでしょう。
 理研もマスコミもこの特許出願のことは全く知らぬふりをして、小保方さんの論文だけを「親の敵(かたき)」のようにバッシングしているのは、まったく理解できません。なぜ理研が出願した国際特許は叩かないのでしょうか。理研もなぜ特許の取り下げはいわないで、論文取り下げだけを問題とするのでしょうか。 特許による「お金」儲けは大切だが、発見した研究者の将来や名誉はどうでもよいと考えているのでしょうか。そうだとすれば、理研は血も涙もない非情で非常識な組織です。日本もいやな社会になったものです。若者の理科離れがこれ以上進まなければよいのですが。
 今回のSTAP論文騒動を見て、わたしは「和田家文書」偽作キャンペーンを思い出しました。マスコミや雑誌、御用学者を動員して研究者や文書所有者を執拗にバッシングするという構図がそっくりです。あの偽作キャンペーンが一つの契機となって「古田史学の会」は誕生したようなものですから、今回のSTAP論文騒動を契機として、日本の学問やマスコミ、学者や研究者のあり方が問い直されることを期待したいと思います。何よりも、国民が学問や研究のあり方、「お金」のための研究と真理追究のための研究を区別して判断する機会になればと思います。そうすれば、マスコミも日本社会ももう少し良くなるのではないで しょうか。
(本稿は4月の古田史学の会・関西例会で発表した内容を要約したものです。)


第674話 2014/03/08

前期難波宮の

  考古学的「実証」と「論証」

 「洛中洛外日記」667話で紹介しました、難波宮跡出土の木柱が7世紀前半(最も外側の年輪が612年、583年)のものとした「年輪セルロース酸素同位体比法」の結果が何を意味するのか、どのような展開を見せるのかを考えてきました。その結果、前期難波宮の考古学的「実証」により、次のような「論証」が成立することを改めて確信しました。

 大阪市中央区法円坂から出土した巨大宮殿遺構は主に前期と後期の二層からなっており、下層の前期難波宮は一元史観の通説では孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」とされています。少数意見として、天武朝の宮殿とする論者もありますが、今回の出土木柱の年代が酸素同位体比法により、7世紀前半のものとされたことから、前期難波宮造営を7世紀中頃(孝徳期)とする説が更に有力になったと思われます。

 これまでも紹介してきたことですが、前期難波宮の造営年代の考古学的根拠とされてきたものに、今回の木柱を含めて次の出土物があります。

1.「戊申」年木簡(648年)
2.水利施設木枠の年輪年代測定(634年伐採)
3.木柱の酸素同位体比法年代測定(612年、583年)
4,前期難波宮整地層出土主要須恵器(杯H・G)が藤原宮整地層出土主要須恵器(杯B)よりも1~2様式古く、天武期に造営開始された藤原宮よりも前期難波宮の方が古い様相を示している。

 以上のように少なくともこれら4件の考古学的事実からなる「実証」が、いずれも前期難波宮造営を7世紀中頃とする説が有力であることを指示しています。それでも天武期造営説を唱える人は、

(1)「戊申」年木簡は偶然か何かの間違い(無関係)とし、信用しない。
(2)木枠の年輪年代も偶然か何かの間違い(無関係)とし、信用しない。
(3)木柱の酸素同位体比法年代も偶然か何かの間違い(無関係)とし、信用しない。
(4)整地層須恵器も偶然か何かの間違い(無関係)とし、信用しない。

 というように4回も「偶然」や「間違い(無関係)」を無理矢理想定し、「信用しない」という「論法」を用いざるを得ないのですが、およそ4回の「偶然」や「間違い(無関係)」の「同時発生」を自説の根拠とするような方法は学問的判断とは言い難いものです。

 このようにどちらの説が有力かを比較論証する「学問の方法」を、わたしは古田先生から学びました。たとえば古田先生との共著『「君が代」うずまく源流』(新泉社、1991年)で、「君が代」が糸島・博多湾岸の地名・神名を読み込んでこの地で成立したとするのは「偶然の一致」にすぎないとする批判に対して、次のような反証を古田先生はなされています。

 第一に、博多湾岸(福岡市)の「千代」が「君が代」の「千代」の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。

第二に、糸島郡の「細石」神社が、「君が代」の「細石」の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。

第三に、糸島郡の「井原(岩羅)」が、「君が代」の「岩を」(或は「岩秀〈ほ〉」)の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。

第四に、糸島郡の桜谷神社の祭神、「苔牟須売神」が、「君が代」の「こけのむすまで」の歌詞と一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
右のように、四種類の「偶然の一致」が偶然重なったにすぎぬ、として、両者の必然的関連を「回避」しようとする。これが、「『君が代』を『糸島・博多湾岸の地名』と結び付けるのは、学問的論証力を欠く」と称する人々の、必ず落ちいらねばならぬ、「偶然性の落とし穴」なのである。

しかし、自説の立脚点を「四種類の偶然の一致」におかねばならぬ、としたら、それがなぜ、「学問的」だったり、「客観的」だったり、論証の「厳密性」を保持することができようか。わたしには、それを決して肯定することができぬ。
右によって、反論者の立場が、論理的に極めて脆弱であることが知れよう。(同書、97ページ)

 この『「君が代」うずまく源流』は、わたしにとって初めての著作であり、尊敬する古田先生との共著でもあり(古田先生、灰塚照明さん、藤田友治さんとの共著)、この論証方法は今でも印象深く記憶に残っています。この論証方法が前期難波宮の研究に役だったことは感慨深いものです。そして結論として、前期難波宮の造営を7世紀中頃とする説は不動のものになったと思われるのです。(つづく)