古賀達也一覧

第2972話 2023/03/23

『大安寺伽藍縁起』の

  仲天皇と袁智天皇 (3)

 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年作成)に見える「仲(なか)天皇」について考察を続けます。諸説ある中で、仲天皇は九州王朝の「天子」の下でのナンバーツー「天皇」であり、天智の皇后、倭姫王とする説が最有力ではないかと、わたしは考えています。また、野中寺の彌勒菩薩像名にある「中宮天皇」を倭姫王とする服部説(注①)も有力です。これらの比較的有力な説が整合するような論証や傍証が必要ですが、今のところ次の諸点に注目しています。

(a) 九州王朝系近江朝(注②)の年号「中元」(668~671年)と「仲天皇」「中宮」の「中(仲)」(ちゅう・なか)が共通するのは偶然ではなく、中宮に居した天皇なので「仲天皇」「中宮天皇」と呼ばれ、その元号も「中元」(注③)としたのではあるまいか。あるいは、「仲天皇」が居していた宮なので「中宮」と呼ばれたのかもしれない。

(b) 『養老律令』などには、庚午年籍(天智十年・670年)の造籍が「近江大津宮天皇」によるものとされている。これは野中寺彌勒菩薩像銘の「丙寅年(666年)・中宮天皇」の在位中と思われることから、庚午年籍を造籍した「近江大津宮天皇」とは「中宮天皇=仲天皇=倭姫王」と理解できる(注④)。この九州王朝系の仲天皇が造籍を命じたので、全国の国造・評督らは従ったのではあるまいか。

(c) 庚午年籍造籍時(670年)、唐の筑紫進駐軍は造籍を妨害・阻止していないことが、九州諸国の庚午年籍の存在が『続日本紀』(注⑤)に見えることから明らかである。従って、造籍主体の仲天皇(近江大津宮天皇)は〝反唐〟勢力ではなかったと考えられる。

 以上の仮説を積み上げる作業を続けています。ひとつでも不適切であれば構想の全体像が崩れますので、現時点では決めつけることはせずに慎重に進めたいと思います。(つづく)

(注)
①服部静尚「七世紀後半に近畿天皇家が政権奪取するまで」『古田史学会報』157号、2020年。
同「中宮天皇 ―薬師寺は九州王朝の寺―」『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』25集)古田史学の会編、2022年、明石書店。
②正木 裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年。
③多利思北孤の年号として「法興」が知られているが、法隆寺釈迦三尊像光背銘には「法興元」とあり、年号表記の様式として「中元」も同一と思われる。
④「近江大津宮天皇」を「中宮天皇」のこととする、服部静尚氏の先行研究(注①)がある。
⑤『続日本紀』に見える次の記事が見える。
「筑紫諸国の庚午年籍七百七十巻、官印を以てこれに印す。」『続日本紀』神亀四年七月条(727)。


第2971話 2023/03/21

『大安寺伽藍縁起』の

   仲天皇と袁智天皇 (2)

 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年作成)に見える「仲(なか)天皇」と「袁智(おち)天皇」ですが、一元史観ではどの天皇に比定するのか諸説あり、未だ通説が定まっていません。『日本書紀』に見えない天皇名であることから、九州王朝系の天皇と理解することが多元史観・九州王朝説では可能です。そこで、今回は仲天皇について考察します。当該記事は次の通りです。

「爾時後岡基宮御宇 天皇造此寺、司阿倍倉橋麻呂、穗積百足二人任賜、以後、天皇行幸筑志朝倉宮、將崩賜時、甚痛憂勅〔久〕、此寺授誰參來〔久〕、先帝待問賜者、如何答申〔止〕憂賜〔支〕、爾時近江宮御宇 天皇奏〔久〕、開〔伊〕髻墨刺〔乎〕刺、肩負鋸、腰刺斧奉爲奏〔支〕、
仲天皇奏〔久〕、妾〔毛〕我妋等、炊女而奉造〔止〕奏〔支〕、爾時手拍慶賜而崩賜之」※〔〕内の時は小字。(注①)

 後岡基宮御宇天皇(斉明)が筑紫の朝倉宮で亡くなるときの近江宮御宇天皇(天智天皇)や仲天皇の言葉が記されています。ここで特に注目されるのが、仲天皇が自らのことを「妾」と呼び、「我妋等、炊女」〈わが妋(注②)らは飯炊き女〉と述べていることです。上位者に対して自らを卑下した言葉ですから、仲天皇には上位者がいたこととなり、この天皇号は九州王朝の天子の下でのナンバーツー「天皇」と、多元史観・九州王朝説では捉えざるを得ません。

 あるいは、仲天皇が天智天皇の妻であり、義理の母(斉明天皇)に対して〝へりくだった〟と考えることができるかもしれません。その場合、「仲天皇」と表記されていることから、後に天皇に即位したことになります。もしそうであれば、仲天皇とは天智の皇后、倭姫王とするのが穏当です(注③)。この点、倭姫王を九州王朝の皇女や天子とする説が古田学派の研究者から発表されていることも注目されます(注④)。

 仲天皇が九州王朝系の「天皇」であれば、飛鳥宮の天武も「天皇」を称したことが飛鳥池出土木簡(注⑤)により明らかになっていることから、いずれも九州王朝のナンバーワン「天子」の下でのナンバーツー「天皇」と考えざるをえないのではないでしょうか。そうでなければ、九州王朝の「天子(倭王)」と近畿天皇家の「天皇」との位取り(称号)が同列となり、七世紀後半頃における列島の代表王朝としての倭国(九州王朝)の存立が説明できなくなります。(つづく)

(注)
①竹内理三編『寧楽遺文』中巻(東京堂、1962年)による。
②「妋」は国字で、姉妹から見た男兄弟、妻から見た夫とされる。しかしながら、「我妋等」と複数形になっており、夫の天智天皇とするのは難しい。更に「炊女」ともあり、男性とすることも不自然ではあるまいか。
③仲天皇を天智の皇后、倭姫王とする説は喜田貞吉が唱えている。
④西村秀己「日本書紀の「倭」について」『古田史学会報』42号、2001年。
正木 裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年。
正木 裕「王朝交代 倭国から日本国へ(1)『旧唐書』の証言」『多元』143号、2017年。
「大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1)」145号、2018年。
同「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(『古代に真実を求めて』22集)明石書店、2019年。
服部静尚「七世紀後半に近畿天皇家が政権奪取するまで」『古田史学会報』157号、2020年。
「中宮天皇 ―薬師寺は九州王朝の寺―」『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』25集)古田史学の会編、2022年、明石書店。
⑤飛鳥池遺構の天武期の層位から、「天皇」「大津皇子」「穂積皇子」「舎人皇子」「大伯皇子」や「詔」木簡が出土している。


第2970話 2023/03/20

続・異形の王都、近江大津宮

 「洛中洛外日記」2967話(2023/03/17)〝異形の王都、近江大津宮
〟で考察したように、律令制国家の一大事業である全国的戸籍(庚午年籍)の造籍が近江大津宮天皇(天智)により670年(天智九年、白鳳十年)に行われているにもかかわらず、律令制王都に不可欠な巨大条坊を近江大津宮は備えていません。そこで、九州王朝の複都、難波京(前期難波宮)が依然として行政の中枢にあり、従って数千人の律令制官僚群は難波で執務していたと考えるに至りました。従って、庚午年籍の造籍実務は前期難波宮の官僚群(中務省か)によりなされたことになります。
こうした理解と関連しそうな事象が、『日本書紀』天武紀上の〝壬申の乱(天武元年・672年)〟記事に見えます。乱の勃発により、近江朝側(大友皇子)は、吉備国と筑紫国大宰に「符(おしてのふみ)」(注①)を発し、味方につくよう命じますが不首尾に終わります。ここで不審に思ったのですが、なぜ難波宮に使者を派遣しなかったのでしょうか。更に、壬申の乱では難波宮争奪戦が行われた形跡も見えず、難波宮は壬申の乱においてどのような立ち位置なのかも『日本書紀』からは不明でした。単純化して考えると、次のようなケースがあります。

(a) この時期の難波宮は機能しておらず、官僚群も近江大津宮に移動していた。だから、使者を派遣する必要もなかった。
(b) 難波宮は機能していて、その官僚群の上司らは近江大津宮にいた。従って、難波宮の官僚群は近江朝の部下だったので使者を派遣するまでもないと近江朝は判断した。
(c) 難波宮の官僚群は表面上は近江朝の上司らに従ったが、天武側には中立の意向を伝えていたので、争奪戦は起こらなかった。

 この内、(a)のケースは、既に指摘してきたように近江大津宮に巨大条坊がないため、除外できます。そうすると、(b)(c)あたりが可能性として残りますが、前期難波宮自身が三方を海や川、河内湾(湖か)に囲まれた要衝の地にありますから、大勢が決するまで日和見を決め込んだのかも知れません。少なくとも『日本書紀』には味方についたとも敵にまわったとも書かれていませんし、そもそも難波京に残った有力者らしき人物も不明です(注②)。この点も今後の研究課題のようです。

(注)
①「符(おしてのふみ)」とは上級の官庁から下級の官庁へ出す文書。
②『続日本紀』に散見する「壬申の功臣」記事の精査により、判明するかも知れない。


第2969話 2023/03/19

『大安寺伽藍縁起』の

  仲天皇と袁智天皇 (1)

 3月17日の「多元の会」のリモート研究会では、藤田隆一さんから『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(注①)の原文に基づく解説がなされ、とても勉強になりました。今まで同縁起の活字本による研究はしたことがありますが、やはり原文に基づいた研究の重要さを再認識することができました。しかも、藤田さんの解説によれば同縁起は天平十九年(747年)に作成された原本とのことで、もしそうであればなおさら貴重です。
以前から気になっていたのですが、同縁起には「仲(なか)天皇」と「袁智(おち)天皇」という『日本書紀』に見えない天皇名が記されており、特に「仲天皇」を誰とするのかについては諸説あり、未だ通説がないようです。両天皇は次の文脈中に現れます(注②)。

「爾時後岡基宮御宇 天皇造此寺
司阿倍倉橋麻呂、穗積百足二人任賜、以後、天皇行幸筑志朝倉宮、
將崩賜時、甚痛憂勅〔久〕、此寺授誰參來〔久〕、先帝待問賜者、如何答申〔止〕憂賜〔支〕、爾時近江宮御宇 天皇奏〔久〕、開〔伊〕髻墨刺〔乎〕刺、肩負鋸、腰刺斧奉爲奏〔支〕、仲天皇奏〔久〕、妾〔毛〕我妋等、炊女而奉造〔止〕奏〔支〕、爾時手拍慶賜而崩賜之」※〔〕内の時は小字。

「一帳像具脇侍菩薩八部等卅六像
右袁智 天皇坐難波宮而、庚戌年冬十月始、辛亥年春三月造畢」

 仲天皇と袁智天皇以外の天皇の場合は、次のように『日本書紀』などに見える宮号による表記を用いており、天平十九年(747年)成立の文書として穏当な様式です。

○小治田宮御宇太帝天皇〈推古〉
○飛鳥宮御宇天皇(癸巳年・633年)〈舒明〉
○飛鳥岡基宮御宇天皇(歳次己亥・639年)〈舒明〉
○前岡本宮御宇天皇(庚子年・640年)〈舒明〉
○後岡基宮御宇天皇〈斉明〉
○飛鳥岡基宮御宇天皇〈斉明〉
○近江宮御宇天皇〈天智〉
○淡海大津宮御宇天皇〈天智〉
○飛鳥淨御原宮御宇天皇(歳次癸酉・673年)〈天武〉
○淨御原宮御宇天皇(丙戌年七月・686年)〈天武〉
○飛鳥淨御原宮御宇天皇(甲午年・694年)〈持統〉
○後藤原宮御宇天皇〈文武〉
○平城宮御宇天皇(養老六年歳次壬戌・722年)〈元正〉
○平城宮御宇天皇(養老七年歳次癸亥・723年)〈元正〉
○平城宮御宇天皇(天平二年歳次庚午・730年)〈聖武〉
○平城宮御宇天皇(天平十六年歳次甲申・744年)〈聖武〉

 以上は『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』から天皇名を抜粋し、即位順・年次順に並べ替えたもので、重複するものなどは省きました。〈〉内はわたしによる比定です。このように天皇名が宮号で表記されているのですが、仲天皇と袁智天皇だけがこの表記ルールから外れています。これは同縁起編纂に当たり参考にした元史料に「仲天皇」「袁智天皇」とあり、そのまま転用したものと解さざるを得ません。そうであれば『日本書紀』に見えない両天皇を、九州王朝系の天皇と理解することが多元史観・九州王朝説では可能です。
ちなみに、国会図書館デジタルコレクションの『群書類従』所収『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』には、「仲天皇」を「件天皇」に、「袁智天皇」は「天智天皇」に置き換えられています。「仲(なか)」は「件(くだん)」の誤字と判断したうえでの原文改訂と思われますが、「袁智」を「天智」としたのは、八世紀後半頃に淡海三船により付されたとされる『日本書紀』の漢風諡号が天平十九年(747年)までに成立していなければならず、また同縁起には漢風諡号が見られないことからも、これは無理な原文改訂と思われます。いずれにしても、『群書類従』本の編者も、原文にあった「仲天皇」「袁智天皇」をそのままでは意味不明としていたことがうかがえます。(つづく)

(注)
①大安寺(奈良市)が天平十九年(747年)に国家に進上した縁起と財産目録。正暦寺(奈良市)に伝わった古本(重要文化財)が国立歴史民俗博物館に保管されている。同本を原本とする説と写本とする説があるようである。
②竹内理三編『寧楽遺文』中巻(東京堂、1962年)による。


第2968話 2023/03/18

「三角縁神獣鏡」新・舶載(中国)鏡論の矛盾

 本日、大阪市都島区民センターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。来月は東淀川区民会館(JR・阪急 淡路駅から徒歩10分)で開催します。こちらも初めて使用する会場ですので、ご注意下さい。コロナ過が終息し、各種イベントが再開されたこともあり、例会会場確保のため、担当者(上田武さん)にご尽力していただいています。ご理解ご協力をお願いいたします。

 今回の例会では、近年話題となった〝「三角縁神獣鏡」新・舶載(中国)鏡説〟を批判する報告が岡下さんと正木さんから発表されました。なかでも正木さんからは、「三角縁神獣鏡」中国鏡説の新たな根拠とされた〝鏡范再利用〟論(注①)を精査され、その論理矛盾について詳細な指摘がなされました。この〝鏡范再利用〟論とは、平原出土鏡などを中国鏡と見なし、その鏡范(鏡の鋳型)を再利用して作られた痕跡を持つ「三角縁神獣鏡」も中国鏡とする仮説です。しかし、正木さんの調査によれば、当該平原鏡の鉛同位体比分析値は国産鏡であることを示しており、「三角縁神獣鏡」の〝鏡范再利用〟の痕跡は〝踏み返し〟技法(注②)によるものと見なせるとしました。正木論文の発表が待たれます。

 わたしは古田先生との和田家文書調査の報告を行う予定でしたが、急遽、テーマを変えて「七世紀、律令制王都の絶対条件 ―律令制官僚の発生と移動―」を発表しました。本年11月の〝八王子セミナー2023〟では倭国から日本国への王朝交代がテーマになるとのことで、それに関連する研究の発表要請が和田昌美さん(多元的古代研究会・事務局長)からいただきましたので、「七世紀の律令制王都(太宰府、難波京、近江京、藤原京)」についての所見を関西例会で報告し、事前にご批判や助言をいただくことにしたものです。

 古田先生のご子息、古田光河さんが久しぶりに参加され、この度、立ち上げられた「古田武彦古代史研究会」の紹介をされました。懇親会にも出席され、古田先生の思い出や古田史学の将来について語り合いました。

 3月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔3月度関西例会の内容〕
①縄文語で解く記紀の神々 イザナギ神の禊で成る神々 (大阪市・西井健一郎)
②神武伝承から一行の進路を推理する (八尾市・上田 武)
③消された「詔」と移された事績(後編) 『古事記』は改名されていた (東大阪市・萩野秀公)
④七世紀、律令制王都の絶対条件 ―律令制官僚の発生と移動― (京都市・古賀達也)
⑤ふたたび「河内戦争」について (茨木市・満田正賢)
⑥三内丸山遺跡の六本柱 (大山崎町・大原重雄)
⑦三角縁神獣鏡研究の新展開(補足) (京都市・岡下英男)
⑧「三角縁神獣鏡」と舶載鏡・倣製鏡論争の最近の話題 (川西市・正木 裕)
◎「古田武彦古代史研究会」創設のご挨拶と紹介 (古田光河氏)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
4/15(土) 会場:東淀川区民会館 ※JR・阪急 淡路駅から徒歩10分。
5/20(土) 会場:都島区民センター ※JR京橋駅北口より徒歩10分。

(注)
①清水康二・宇野隆志・清水克朗・菅谷文則・豊岡卓之・小林可奈恵「平原から黒塚へ ―鏡笵再利用技法研究からの新視点―」『古代学研究』215号、2018年。
②完成品の鏡を原型として鋳型(鏡范)を造り、それを利用してコピー製品を造る技法。この技法で造られたと思われる「三角縁神獣鏡」(同笵鏡)の存在が多数報告されている。

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古田史学の会 都島区民センター2023.03.18

3月度関西例会発表一覧(ファイル・参照動画)

 YouTube公開動画は①②③⑩です。参照公開動画は古賀のみです。

①縄文語で解く記紀の神々 イザナギ神の禊で成る神々
(大阪市・西井健一郎)
https://youtu.be/6ujGWESjEXs

神武伝承から一行の進路を推理する (八尾市・上田 武)
https://youtu.be/ttJjZe-7YFk
https://youtu.be/P4V3n6_4lBI

③消された「詔」と移された事績(後編) 『古事記』は改名されていた
    (東大阪市・萩野秀公)
https://youtu.be/ZDkpw6sPIIg
https://youtu.be/KL06SIS3cgc
https://youtu.be/i2jcXjsV5yE2

七世紀、律令制王都の絶対条件 ―律令制官僚の発生と移動―
(京都市・古賀達也)
PDF動画https://www.youtube.com/watch?v=CFEL2JXs280
https://youtu.be/5s4nu05P4EI

⑤ふたたび「河内戦争」について (茨木市・満田正賢)
https://youtu.be/jJQcdAzgy8c
https://youtu.be/QzRPNGZtLgQ

⑥三内丸山遺跡の六本柱 (大山崎町・大原重雄)
https://youtu.be/-OVwE7Y4teY

https://youtu.be/RDqS1YL_nO0

⑦三角縁神獣鏡研究の新展開(補足) (京都市・岡下英男)
https://youtu.be/IC-EIdNDiSQ
2https://youtu.be/Un0BnUzpark

⑧「三角縁神獣鏡」と舶載鏡・倣製鏡論争の最近の話題
(川西市・正木 裕)

https://youtu.be/5iBZn9_nmTo
https://youtu.be/TRXrDP6PmJs
https://youtu.be/WpbUmsfiRts


第2967話 2023/03/17

異形の王都、近江大津宮

 律令制王都に必要な五つの絶対条件(注①)から見た近江大津宮(近江京)に、都として必要な巨大条坊都市が見当たらないことについて考察を続けます。
近江大津宮(近江京)に関係する重要な論文「日本国の創建」(注①)が古田先生から発表されています。これは古田先生の数ある論文の中でも非常に異質であるにもかかわらず、古田説の中での位置づけが難解で、古田学派の研究者からもほとんど注目されてきませんでした。その冒頭には次のように記されています。

「実証主義の立場では、日本国の成立は『天智十年(六七一)』である。隣国の史書がこれを証言し、日本書紀もまたこれを裏付ける。」

 これは天智十年に日本国が成立したとする仮説で、その主体は天智天皇とされています。この新説と701年に九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)へ王朝交代したとする従来の九州王朝説とが、はたして整合するのだろうかと、わたしには難解な内容でした。後に、正木裕さんの「九州王朝系近江朝」説(注②)の登場により、ようやく九州王朝説との縫合が可能になったと思われました。
また、律令制国家の一大事業である全国的戸籍(庚午年籍)の造籍が近江大津宮天皇(天智)により670年(天智九年、白鳳十年)に行われています。すなわち、「日本国の創建」も「全国的戸籍の造籍」も中央集権的な律令体制を前提としているはずですから、近江大津宮は律令制王都であると、わたしは理解してきました。ところが、今回の分析手法(注③)によれば、「巨大条坊都市の存在」という、律令制王都としての絶対条件の一つを近江大津宮は満たしていないことに気付き、愕然としたのです。
そこで、改めて当時の情勢を見たとき、九州王朝の複都、難波京(前期難波宮)が健在であることに着目しました。『日本書紀』によれば、前期難波宮は朱鳥元年(686)に焼亡していますから、天智の時代は機能していたと考えられます。前期難波宮で執務する八千人近くの官僚や、その家族・従者・商工業者・兵士ら数万人が居住する巨大条坊都市難波京が健在であったことは、考古学的にも証明されています。大阪歴博の考古学者、佐藤隆さんの「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(注④)に次の記述があります。

「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」
「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」

 佐藤さんのこの指摘は、考古学者から発せられた本格的な『日本書紀』批判(既存の文献史学批判)であるとわたしは紹介し(注⑤)、「古田史学の会」講演会にもお招きし、講演していただきました(注⑥)。

 以上の事実を直視すれば、行政の中枢は依然として難波京(前期難波宮)にあり、従って数千人の律令制官僚群は難波で執務していたと考えざるを得ません。(つづく)

(注)
①古田武彦「日本国の創建」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、一九八七年。ミネルヴァ書房より復刻。
②正木 裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年。
③古賀達也「洛中洛外日記」2966話(2023/03/16)〝律令制王都諸説の比較評価〟
④佐藤隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」大阪歴博『研究紀要』15号、2017年。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」1407話(2017/05/28)〝前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致〟
⑥同「洛中洛外日記」2656話(2022/01/07)〝令和四年新春古代史講演会の画期〟


第2966話 2023/03/16

律令制王都諸説の比較評価

 律令制王都には少なくとも五つの絶対条件(注①)を備えていなければならないことに気づき、古田学派内で論議されている諸説ある七世紀の王都について比較評価してみました。もっと深い考察が必要ですが、現時点では次のように考えています。◎(かなり適切)、○(適切)、△(やや不適切)、×(不適切)で比較評価を現しました。

(1)官衙 (2)都市 (3)食料 (4)官道 (5)防衛
倭京(太宰府)  △   〇    〇    〇    ◎
難波京     ◎   ◎    〇    〇水運  ◎
近江京     〇   ×    〇    〇水運  〇
藤原京     ◎   ◎    〇    〇    ◎
伊予「紫宸殿」  ×   ×    〇    〇水運  ×

 伊予「紫宸殿」説は、愛媛県西条市の字地名「紫宸殿」の地を九州王朝の「斉明」天皇が白村江戦の敗北後に遷都したとする説で、古田先生や合田洋一さんが唱えたもので、王都遺構は未検出です(注②)。
実は、今回の5条件による評価結果に、わたしは驚きました。近江京の評価が思いのほか低かったからです。その理由は、当地の発掘情況や地勢的にも琵琶湖と比良山系に挟まれた狭隘の地であることから、八千人にも及ぶ律令制官僚やその家族が居住可能な巨大条坊都市はありそうもないことです。
わたしは以前に「九州王朝の近江遷都」(注③)を発表していましたし、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は「九州王朝系近江朝」説(注④)を発表しています。ですから、近江京が王都であったことを疑ってはいません。しかし、今回の考察によれば近江京は律令制王都の条件を満たしていません。このことをどのように理解するべきでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2963話(2023/03/13)〝七世紀の九州王朝都城の絶対条件〟において、律令制王都の絶対条件として次の点をあげた。
《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

②古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』ミネルヴァ書房、平成二七年(二〇一五)。
合田洋一『葬られた驚愕の古代史』創風社出版、2018年。
③古賀達也「九州王朝の近江遷都」『古田史学会報』61号、2004年。
④正木 裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年。


第2965話 2023/03/15

律令制王都の先駆け、倭京(太宰府)

 九州王朝(倭国)時代の律令制王都の先駆けとも言える都市が倭京(太宰府)です。律令制王都の五つの絶対条件(注①)を備えている理由について説明します。

《条件1》官衙遺構の存在。
太宰府条坊右郭の中心部にある通古賀地区(王城神社の地)から七世紀の古い土器が出土しており、そのエリアに初期の中心遺構(王宮と官衙)があったと考えられる(注②)。七世紀初頭(倭京元年、618年)、多利思北孤による倭京(太宰府)遷都(注③)により、律令制が整えられ、中央官僚群の発生と増加に伴って条坊も拡充されたと考えられる。その考古学的痕跡として、近隣の牛頸窯跡群が六世紀末から七世紀初頭にかけて急増していることがあげられる。

《条件2》巨大条坊都市の存在。
条坊跡(二十二条、右郭八坊・左郭十二坊)が検出されている。

《条件3》食料・消費財の生産地の存在。
九州島内屈指の平野(福岡平野・筑後平野)が広がっている。消費財としての土器を供給する日本三大須恵器窯跡群(注④)の一つ、牛頸窯跡群が太宰府の西にある。

《条件4》官道(山道・海道)の存在。
筑前・筑後・肥前・豊前に通じる官道があり、博多には朝瀬半島・日本海に向かう港湾都市(那の津)がある。

《条件5》防衛施設・地勢的有利性の存在。
太宰府の南北には基肄城と大野城があり、後者は日本列島最大の山城である。博多側からの侵入を防ぐ古代日本最大の防塁水城があり、太宰府条坊都市を囲むように阿志岐山城(神籠石山城)や土塁がある。更にその南側には天然の大濠、筑後川と神籠石山城(杷木・高良山)が南からの敵の侵入を防いでいる。このように、倭京(太宰府)は古代日本最大最強の防衛施設で護られている。

 以上のように、倭京(太宰府)は七世紀の律令制王都に相応しいのですが、難点としては『養老律令』で規定された約八千人の官僚群(注⑤)が執務するには、通古賀地区の規模では小さすぎます。従って、七世紀初頭の遷都時には比較的小規模な律令組織だったのではないでしょうか。そのため、全国統治の王都として七世紀中頃(652年、白雉元年)に難波京(前期難波宮)を造営し、遷都したものとわたしは考えています。
おそらく九州王朝(倭国)は全国統治のための権力の都・難波京と天孫降臨依頼の伝統的な権威の都・倭京(太宰府)との両京制(注⑥)を採用したものと考えられます。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2963話(2023/03/13)〝七世紀の九州王朝都城の絶対条件〟
②井上信正「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』588、2009年。
③古賀達也「よみがえる倭京(太宰府)─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年。
④牛頸須恵器窯跡群は、堺市の陶邑窯跡群、名古屋の猿投山(さなげやま)窯跡群と並んで、古代日本の三大須恵器窯跡群とされる。
⑤服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年10月。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。
⑥古賀達也「洛中洛外日記」2735話(2022/05/02)〝九州王朝の権威と権力の機能分担〟
同「柿本人麿が謡った両京制 ―大王の遠の朝庭と難波京―」『古代に真実を求めて』26集、明石書店、2023年。


第2964話 2023/03/14

七世紀、律令制王都の有資格都市

 多元的古代研究会の月例会(3/12)で、九州王朝(倭国)の律令制時代(七世紀)の王都にとって絶対に必要な5条件を提示しました。下記の通りです。

《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

 これらの条件を満たしてる七世紀の都城は、わたしの見るところ次の3都市です。倭京(太宰府)、難波京(前期難波宮)、新益京(藤原宮)。なお、近江京(大津宮)は、《条件1》の全貌が未調査、《条件2》の巨大条坊都市造営が可能なスペースが近傍にないことにより、有資格都市とするにはやや無理があると考えました。この点、重要ですので後述したいと思います。(つづく)


第2962話 2023/03/08

古田光河さん、

  「古田武彦 古代史研究会」を創設

 古田武彦先生のご子息、古田光河(こうが)さんが「古田武彦 古代史研究会」を創設されましたので、紹介します。

 3月中にも開設される同研究会ホームページから会員登録(無料)されますと、古田先生著作・論文(約二万頁)のキーワード検索機能などのコンテンツが利用でき、研究者にはとても便利です。また、古田武彦初期三部作(『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』)などの「読書会」にZoomで参加・閲覧でき、こちらも古田史学初心者や古田ファンにはありがたい企画・コンテンツです。
同研究会ホームページのアドレスは下記の通りです。古田史学に賛同、ご支持される皆さんの入会をお薦めします。
https://www.furuta-takehiko-sg.jp/


第2961話 2023/03/07

大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (6)

 山村信榮(太宰府市教育委員会)さんは、政庁Ⅰ期古段階の成立を六世紀の第2四半期頃とする論文「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」を発表しました(注①)。大宰府政庁Ⅰ期(古段階)整地層から出土した須恵器坏Hを古墳時代の土器が整地盛土に紛れ込んだとする説を否定し、坏H(九州編年ⅢA)の時代(六世紀第2四半期)に政庁Ⅰ期古段階が成立し、同新段階の成立を七世紀の第4四半期とするものです。いわゆる〝磐井の乱(528年)〟のすぐ後に政庁Ⅰ期古段階が成立し、政庁Ⅰ期新段階成立は通説通り七世紀第4四半期とする仮説です(注②)。

 この山村説は、六世紀前半の古墳時代から7世紀末までを大宰府政庁古新Ⅰ期の時代、そして八世紀初頭成立の政庁Ⅱ期までの遺構を、連続して廃絶・造営されたものとする歴史理解に基づいたもののようです。そうした認識が次の説明に表れています。

〝このように大宰府政庁地区ではⅢA型式(坏Hの古いタイプ)の土器群を主体とする時期に谷部が整地され、正方位を示す柵や掘立柱建物が建てられ、Ⅳ型式(坏Hの新しいタイプ)を消費する段階では政庁地区西の蔵司地区からさらにその西側の谷部にまで土地の利用が広がっている。調査報告書では政庁正殿Ⅰ期古段階の遺物は「古墳時代の遺物」とされ、遺構生成時の前代に当たる混入遺物として取り扱われる。Ⅰ期古段階の出土須恵器がⅢA型式、Ⅰ期新段階がⅥ(坏Bの古いタイプ)からⅦ型式(坏Bの新しいタイプ)であり、土器の型式的不連続がそういう結論を導き出したのかもしれない。(中略)古段階と新段階の建物群に連続性があった可能性は捨てきれない。古相段階の建物の柱が抜き取られて新相段階の整地がなされていることも見逃せない。(中略)このことから政庁Ⅰ期古新相の遺構群は後に大宰府政庁の中枢となるⅡ期政庁の遺構群と連続性を持つ可能性があると言える。(注③)〟※()内は古賀による補記。

 既に指摘しましたが(注④)、わたしは山村説よりも通説のように政庁Ⅰ期古段階整地層から出土した坏Hを古墳時代の古い土器が整地盛土に紛れ込んだとする理解が穏当と思いますが、これは考古学に関するテーマであり、発掘当事者たちによる論争の発展に期待しています。(おわり)

(注)
①山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②同①の「第1表 土器のセリエーションとフェイズ」による。
③同①204~205頁。
④古賀達也「洛中洛外日記」2960話(2023/03/06)〝大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (5)〟


第2960話 2023/03/06

大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (5)

 大宰府政庁Ⅰ期(古段階)整地層から古墳時代の土器(坏H)が出土しており、通説ではこれを古墳時代の土器が整地盛土に紛れ込んだとしますが、この通説とは異なる考古学者の見解があります。その紹介の前に、政庁出土土器と編年について簡単に説明します(注①)。

(1)〔政庁Ⅰ期古段階整地層〕須恵器坏Hが出土。
(2)〔政庁Ⅰ期新段階整地層〕須恵器坏B(蓋につまみがあり、坏身に脚があるタイプ)と坏Hが出土。
(3)〔政庁Ⅱ期整地層〕須恵器坏Bが出土。

 通説では(1)の坏Hを六世紀、(2)の坏Bを七世紀第4四半期、(3)の坏Bを7世紀末から八世紀初頭と編年しています。ここで重要なことは、政庁Ⅰ期古段階整地層出土の坏Hをどのように理解するのかということと、坏Bの発生を暦年(実年代)とどのようにリンクさせるのかの二点です。
問題となっている政庁Ⅰ期古段階整地層から出土した須恵器坏Hですが、整地盛土に周辺の古墳から紛れ込んだとする通説の根拠は、恐らく当該坏Hが六世紀と編年されていることから、七世紀の第4四半期と編年された政庁Ⅰ期新段階成立時期と約百五十年も離れていることです。というのも、政庁Ⅰ期の新旧両遺構は連続して廃絶・造営された痕跡を示していることや、同じく出土土器の最古と最新の年代差が約五十年(注②)であることとは整合しないからです。従って、暦年リンクの当否を別とすれば、当該坏Hは整地盛土に紛れ込んだものとする見解は穏当と思われます。

 更に言えば、六世紀前半頃に南北正方位の建物が成立したとするのも、他に例が無いと思われ、政庁Ⅰ期古段階の成立はやはり七世紀以降と考えざるを得ません。ところが山村信榮(太宰府市教育委員会)さんは、政庁Ⅰ期古段階の成立を六世紀の第2四半期頃とする論文を発表しています(注③)。(つづく)

(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②同①385頁。
③山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。