古賀達也一覧

第2871話 2022/11/04

奈良新聞に「真説・聖徳太子」講演会記事が掲載

 「洛中洛外日記」2861話(2022/10/20)〝15年ぶりの斑鳩の里(法隆寺)〟で紹介した「古代大和史研究会」(原幸子代表)主催の講演会「徹底討論 真実の聖徳太子 in 法隆寺」の記事が奈良新聞(令和4年11月1日)に掲載されましたので、全文を転載します。奈良新聞社の取材と掲載に感謝いたします。

【以下、転載】
法隆寺の築造などを議論
徹底討論「真説・聖徳太子」

 古代大和史研究会(原幸子代表)は10月19日、斑鳩町法隆寺1丁目の法隆寺iセンター多目的ホールで、徹底討論「真説・聖徳太子」を開催。謎の多い聖徳太子の姿や、法隆寺の築造などの議論に、約50人の古代史ファンが熱心に耳を傾けた。
 雑誌「古代に真実を求めて」前編集長の服部静尚さんが「聖徳太子と仏教」、大阪府立大学の正木裕講師が「聖徳太子の実像と政治的功績」と題して基調講演を行った。
 シンポジウムでは「古田史学の会」の古賀達也代表が進行役を務め、服部さんと正木さんがパネリストとして参加。会場からの質疑応答を受けたり、聖徳太子にまつわる金石文や法隆寺の築造に関する疑問などを議論した。
 古賀代表は「法隆寺の若草伽藍(がらん)焼失後の再建論が盛んだが、今の法隆寺は移築されたもの。移築元は不明で、これからの研究課題になる」などと述べた。


第2870話 2022/11/03

『先代旧事本紀』研究の予察 (5)

 『先代旧事本紀』に『古事記』『日本書紀』に記された物部麁鹿火による磐井討伐譚が見えず、その名前は「天孫本紀」に「物部麁鹿火連公」とあるのですが、「帝皇本紀」の継体天皇条には〝磐井の乱〟記事も〝磐井〟という人物も登場しません。今回、『先代旧事本紀』の本格的研究を進めるにあたり、同書を精読したところ、巻十「国造本紀」に〝磐井〟が記されていることに気づきました。
 『先代旧事本紀』巻十の「国造本紀」は他に見えない史料であり、偽作説があっても、「国造本紀」は史料価値が高いとされ、古代史論文にもよく引用されています。同巻冒頭の解説文には「總任國造百四十四國」(注①)とありますが、実際に掲載されているのは「大倭國造」(大和国)から「多褹島造」(種子島)までの百三十五国で、九国が漏れているようです。その百三十二番目の「伊吉島造」(壱岐島)に次の記事がありました。

 「磐余玉穂朝(継体)。伐石井從者新羅海邊人。天津水凝 後 上毛布直造。」『標註 先代旧事紀校本』

 継体天皇の時代に、石井に従う新羅の海辺の人を伐った天津水凝の後裔の上毛布直(カミツケヌノアタヒ)を造(みやっこ)とす、という記事ですが、この「石井」は筑紫国造磐井、「上毛布」は近江毛野臣(『日本書紀』継体紀)と考えられます。『古事記』では「竺紫君石井」と表記されていますから、「国造本紀」のこの記事は『古事記』か『古事記』系史料に依ったものと思われます。

 「この御世に、竺紫君石井、天皇の命に從はずして、多く禮無かりき。故、物部荒甲の大連、大伴の金村の連二人を遣はして、石井を殺したまひき。」『古事記』「継体紀」(注②)

 「国造本紀」の「伊吉島造」記事で注目されるのが、そこにも物部麁鹿火の活躍が記されていないことと、石井に従う新羅の海辺の人を伐った「上毛布直」の名前と姓(かばね)が『日本書紀』の「近江毛野臣」とは異なることです。「直」と「臣」とでは地位が違いますし、「上」と「近江」も地理的に異なっています。どちらが本来の伝承かは今のところ判断できませんが、継体紀の〝磐井の乱〟関連記事は近畿天皇家により改竄・脚色されている可能性が高く、まずは史実かどうかを疑ってかかる方が良いように思います(注③)。
 また、「国造本紀」によれば、石井(磐井)の從者新羅海邊の人と戦った上毛布直が伊吉島造になったとありますが、壱岐島は九州王朝の勢力圏であり、その「伊吉島造」が九州王朝(倭国)の王の敵対勢力であったとは考えにくいのではないでしょうか。従って、「国造本紀」の記事もそのまま歴史事実とするのは危ういと思われます。(つづく)

(注)
①飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』明文社、昭和22年(1947)の再版本(昭和42年)による。
②倉野憲司校注『古事記』ワイド版岩波文庫、1991年。
③継体紀に見える近江毛野臣の記事と磐井の記事が入れ替えられているとする正木裕氏の一連の論稿がある。
 「磐井の冤罪 Ⅰ」『古田史学会報』106号、2011年。
 「磐井の冤罪 Ⅱ」『古田史学会報』107号、2011年。
 「磐井の冤罪 Ⅲ」『古田史学会報』109号、2012年。
 「磐井の冤罪 Ⅳ」『古田史学会報』110号、2012年。
 「『壹』から始める古田史学・17 「磐井の乱」とは何か(1)」『古田史学会報』151号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・18 「磐井の乱」とは何か(2)」『古田史学会報』152号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・19 「磐井の乱」とは何か(3)」『古田史学会報』153号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・20 磐井の事績」『古田史学会報』154号、2019年。
 「『壹』から始める古田史学・21 磐井没後の九州王朝1」『古田史学会報』155号、2019年。


第2869話 2022/11/02

『先代旧事本紀』研究の予察 (4)

 『先代旧事本紀』は十巻からなり、飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』によれば、その内訳は次の通りです。〈〉内は古賀による概略ですが、正確な表現ではないかもしれません。もっと良い表現があれば、ご教示ください。

〔巻一〕
 神代本紀 〈天地開闢と天譲日天狭霧國譲月國狭霧尊〉
 神代系紀 〈神世七代〉
 陰陽本紀 〈伊弉諾・伊弉冉神話〉
〔巻二〕
 神祇本紀 〈素戔烏尊と天照大神神話〉
〔巻三〕
 天神本紀 〈饒速日降臨と随神〉
〔巻四〕
 地神本紀 〈素戔烏尊と天照大神の裔神・出雲神話〉
〔巻五〕
 天孫本紀 〈物部系の系譜〉
〔巻六〕
 皇孫本紀 〈瓊瓊杵尊の降臨と神武東征説話〉
〔巻七〕
 天皇本紀 〈神武天皇~神功皇后〉
〔巻八〕
 神皇本紀 〈応神天皇~武烈天皇〉
〔巻九〕
 帝皇本紀 〈継体天皇~推古天皇〉
〔巻十〕
 国造本紀 〈各国造の出自・由来〉

 わたしが『先代旧事本紀』を初めて読んだとき、大きな疑問に遭遇しました。物部氏系の古典であるのにもかかわらず、『古事記』『日本書紀』に記された物部麁鹿火による磐井討伐譚が見えないのです。物部麁鹿火の名前は「天孫本紀」に「物部麁鹿火連公」として見え、「此の連公は勾金橋宮御宇天皇(安閑)の御代に大連と為りて、神宮に齋き奉ず」とあります。「帝皇本紀」の継体天皇条には「物部*麁鹿火大連」(「*麁」=「森」「品」のように、「鹿」の字が三つ重なった字体)の名前は見えますが、〝磐井の乱〟記事はありませんし、〝磐井〟という人物も登場しません。
 九州王朝説の視点からすれば、九州王朝の王、筑紫君磐井を討ち取った記念すべき業績である〝磐井の乱〟での物部麁鹿火の活躍が、物部氏系古典とされる『先代旧事本紀』に全く見えないことは何とも理解しがたいことです。『先代旧事本紀』編者は『日本書紀』を読んでいたはずです。しかし、『古事記』にも『日本書紀』にも記された〝磐井の乱〟と物部麁鹿火の活躍がカットされていることに、九州王朝と物部氏の関係を探るヒントがありそうです。(つづく)


第2868話 2022/11/01

『先代旧事本紀』研究の予察 (3)

 『先代旧事本紀』の成立は平安時代(9世紀頃)とされています。しかし、序文に聖徳太子や蘇我馬子の選録とあることから、偽作とする見解が江戸時代からありました。飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』(注①)の冒頭に付された飯田季治氏による「舊事紀解題」は、この偽作説に対する反論が多くを占めています。その迫力ある筆致の一端を紹介します。

〝試みに思へ。織田豊臣氏の時代より、昭和の今日に及ぶ歴史を編修し、その序に「本書は水戸黄門の撰録せるもの也」と記載し、是れ予が家に蔵する所の珍書也など云ひ誇り、以て世を欺瞞し得べし とする痴漢が奈邊に有らうや……。
 假りにも聖徳太子の著書と思はしめんと計るには、太子が薨去後に於ける事績の如きは、素より悉く之を刪除し、年代に誤差なからしむる位のことは、兒童と雖も辨ふる所の常識である。況んや偽作を敢てする程の人物に於てをやである。卽ち此理を辨へたらんには、「本書の序文は此紀(これ)を編集せし者が、始めよりして記し置けるものには非じ」といふ筋合いを、明らかに悟る事が出來よう。
 然るに貞丈等(注②)は更に此義に思ひ詣らず。その「序文ぐるみ」を以て本書を鑑定し、全篇を悉く偽作也とし、信用すべからざる書也としたのであるから、私は其れを愚論也とし、そして上記の理由に據つて、「本書の序文は後人の加入也」と定むるものである。〟

 わたしはこの飯田季治氏の意見に賛成です。25年ほど前のことですが、和田家文書偽作キャンペーンでの偽作論者の主張が、『先代旧事本紀』偽作説によく似た主張であることを思い出しました。たとえば、明治から昭和にかけての再写文書、書き継ぎ文書である和田家文書に、江戸時代にはない用語、たとえば「○○藩」が使用されているとして、そのことが偽作の根拠だとしていたからです。そこで、「藩」という用語が江戸期の史料にいくらでもあることをわたしは指摘しました(注③)。それに対して、偽作論者からの応答は今日に至るまでありません。こうした経験もあって、わたしは飯田季治氏の激しく反論する論稿を他人事とは思えないのです。(つづく)

(注)
①飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』明文社、昭和22年(1947)の再版本(昭和42年)。
②江戸時代の学者、伊勢貞丈・多田義俊のこと。『先代旧事本紀』の序文は最初からあるものとし、同書を「全編盡く後人の偽作なり。信用すべからざる書也。」(伊勢貞丈著『舊事本紀剥僞』)とした。
③古賀達也「知的犯罪の構造 「偽作」論者の手口をめぐって」『新・古代学』2集、新泉社、1996年。


第2867話 2022/10/31

『先代旧事本紀』研究の予察 (2)

 『先代旧事本紀』研究を始めるにあたり、テキストとして飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』(注①)を採用することにしました。国史大系本『先代旧事本紀』(注②)もあるのですが、両本を比較したところ、前者の底本の方が優れているように思われたので、採用を決めました。
 『標註 先代旧事紀校本』の底本は『渡會延佳校本の鼇頭舊事紀』で、解題には「本書は從來最も善本として世に流布する所の『渡會延佳校本の鼇頭舊事紀』を底本となし、更に之に標注を增訂し、且つ亦た上記の諸本を始め飯田武郷校本、栗田寛校本等を參照し、全巻を審かに校定せるものである。」とあります。国史大系本の底本は「神宮文庫本」で、『渡會延佳校本の鼇頭舊事紀』などで校合したとあります。ちなみに、飯田季治(いいだ・すえはる)氏は『日本書紀通釈』の著者で藤原宮「大宮土壇」説を唱えた飯田武郷氏(いいだ・たけさと。注③)の七男とのことです。
 『先代旧事本紀』江戸期(1644年)版本を国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます。同書版本の雰囲気を知る上では参考になり、おすすめです。(つづく)

(注)
①飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』明文社、昭和22年(1947)の再版本(昭和42年)。
②黒板勝美編『国史大系第七 先代旧事本紀』吉川弘文館、1966年。
③古賀達也「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
 同「洛中洛外日記」971話(2015/06/06)〝「天皇号」地名成立過程の考察〟


第2866話 2022/10/30

『先代旧事本紀』研究の予察 (1)

 昨日の「多元の会」のリモート研究会で、「日本に仏教を伝えた僧 ―仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人―」を発表させていただきました。古田史学に入門した35年ほど前の若い頃に書いた拙論(注)に基づいた発表ですが、現在でもその論旨は有効ではないかと思っています。2019年に若干の修正を加えリライトしましたが、新たな知見や研究により修正を続けたいと願っています。
同リモート研究会では、終了後も残った「多元の会」会員の方々と学問研究について意見交換が行われることがあり、わたしもその時間を楽しみにしています。昨日も赤尾恭司さんや鈴木浩さんらと「磐井の乱」について意見交換しました。その中で、岩井を討った物部麁鹿火をはじめとする物部氏研究の必要性を訴えました。
 というのも、九州王朝の王族は物部氏であったと考えられないでしょうかと古田先生におたずねしたことがあり、その可能性もありますとの返答でしたが、先生晩年の頃の会話でしたので、物部氏研究は手つかずのままとなっていました。近年では日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)が物部氏関連の研究を始められたこともあり、わたしも一念発起して、物部氏に関わる代表的古典『先代旧事本紀』を読み直しています。長期にわたる研究になりそうですので、勉強の進捗状況を「洛中洛外日記」で報告することにより、読者からのご指摘・ご教示をいただければと願っています。(つづく)

(注)古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か ―「仏教伝来」戊午年伝承の研究―」『古代に真実を求めて』第1集、古田史学の会編、1996年。1999年に明石書店から復刻。


第2865話 2022/10/28

後代史料中の干支がずれた九州年号

 干支が一年ずれた九州年号が後代史料中にも散見され、これが異干支暦によるものか、誤記誤伝の結果なのかの判断は難しいところです。管見によれば、『肥前叢書 第一輯』(注)収録の史書に次の異干支九州年号が見えます。

 「遊方名所略曰、卅二代用明天皇、勝照二年丁未(後略)」
 「日本略記曰、(中略)其後人王卅四代ノ帝敏達天皇ノ御宇ニ、聖徳太子ノ御異見ニテ、鏡帝(當)二年癸卯 增――癸卯ハ敏達天皇ノ十二年ニテ聖徳太子十一歳ノ時 六十六ケ國ニ被割ケリ」
 『肥前舊事 巻之一』南里居易編・糸山貞幹增訂、明治三六年。

 『肥前舊事 巻之一』に引用された「遊方名所略」「日本略記」の記事に見える九州年号「勝照二年(586年)丁未」と「鏡帝(當)二年(582年)癸卯」の干支が『二中歴』などの九州年号の干支と一年ずれています。両記事とも翌年干支が付記されており、先に紹介した武寧王墓誌や『万葉集』左注の「朱鳥」と同じ方向の一年のずれです。この後代史料中の異干支九州年号記事を、古代の異干支暦存在の痕跡とすることには慎重にならざるを得ませんが、皆さんに紹介しておきたいと思います。

【九州年号「鏡當」「勝照」干支と一年ずれた異干支】
西暦 九州年号 干支 異干支 天皇 年
581 鏡當元年 辛丑 壬寅 敏達 10
582 鏡當二年 壬寅 癸卯 敏達 11
583 鏡當三年 癸卯 甲辰 敏達 12
584 鏡當四年 甲辰 乙巳 敏達 13
585 勝照元年 乙巳 丙午 敏達 14
586 勝照二年 丙午 丁未 用明 1
587 勝照三年 丁未 戊申 用明 2
588 勝照四年 戊申 己酉 崇峻 1

(注)『肥前叢書 第一輯』肥前史談会編、青潮社、1973年。


第2864話 2022/10/27

没年干支が改刻された百済武寧王墓誌

 九州年号史料以外にも、干支が一年ずれた痕跡を持つ著名な同時代金石文があります。百済武寧王墓誌に見える武寧王の没年干支です。

 寧東大将軍百済斯
 麻王年六十二歳癸
 卯年五月丙戌朔七
 日壬辰崩到乙巳年八月
 癸酉朔十二日甲申安暦
 登冠大墓立志如左

 1998年9月、古田先生は韓国の武寧王陵碑を見学され(注①)、その碑面の字を調査しました。そして、武寧王没年干支「癸卯」(523年)の部分が改刻されており、原刻はその翌年に当たる「甲辰」であったことが確認できたのです(注②)。
 武寧王の没年は『日本書紀』や『三国史記』(1145年成立)には「癸卯」とされていますが、墓誌にはその翌年にあたる「甲辰」とあったのです。国王の墓誌という史料性格から、誤刻を訂正した痕跡とは考えにくいため、古田先生は、干支が一年引き上がった暦が当時の百済では採用されており、後に現行暦の干支に改刻された痕跡であるとされました。そして、その改刻時期は同陵に合葬された王妃の埋葬時(529年己酉。王妃没年は526年丙午)の可能性が高いと指摘しました。すなわち武寧王没後数年の間に、百済では暦が現行干支暦に変更されたと考えられるのです。
 このように、六世紀の九州年号の時代、百済の王権内で干支が一年ずれた暦(ずれの方向も『万葉集』左注の朱鳥と同じ)を採用していたことは興味深いことです。

 「武寧王」新旧暦対応表
西暦 干支  記事・出典
501  辛巳 武寧王即位・『三国史記』
502  壬午 武寧王即位・『日本書紀』
521  辛丑 武寧王朝貢・『三国史記』武寧王二十一年条
522  壬寅 武寧王朝貢・『冊府元亀』普通三年条
523  癸卯 武寧王没・墓誌改刻、『日本書紀』『三国史記』
524  甲辰 武寧王没・墓誌原刻、『梁書』普通五年条
525  乙巳 武寧王埋葬・墓誌

(注)
①古田武彦「虹の光輪」『多元』28号、1998年。
②古賀達也「一年ずれ問題の史料批判 百済武寧王陵碑『改刻説』補論」『古田史学会報』31号、1999年。
 同「洛中洛外日記」845話(2015/01/01)〝百済武寧王陵墓碑が出展〟


第2863話 2022/10/26

干支が一年ずれた九州年号史料

 「洛中洛外日記」2862話(2022/10/22)〝『日本霊異記』に「朱鳥日本紀(記)」の痕跡〟で紹介した干支が一年ずれた九州年号史料ですが、『万葉集』左注の「朱鳥」も茨城県岩井市出土(冨山家蔵)「大化五子年」(699年)土器(注①)も、ずれている方向が同じで、いずれも当該年号の翌年の干支になっています。具体的には次の通りです。

〔『万葉集』左注の「朱鳥」年号〕(注②)
○歌番号34
 日本紀曰、朱鳥四年(689)庚寅(690)秋九月、天皇幸紀伊国也。

○歌番号195
 右、或本曰、葬河島皇子越智野之時、献泊瀬部天皇皇女歌也。日本紀曰、朱鳥五年(690)辛卯(691)秋九月己巳朔丁丑、浄大参皇子川島薨。

○歌番号44
 右、日本紀曰、朱鳥六年(691)壬辰(692)春三月丙寅朔戊辰、以浄広肆広瀬王等為留守官。於是中納言三輪朝臣高市麿脱其冠掲上於朝、重諌曰、農作之前車駕未可以動。辛未、天皇不従諌、遂幸伊勢。五月乙丑朔庚午、御阿胡行宮。

○歌番号50
 右、日本紀曰、朱鳥七年(692)癸巳(693)秋八月、幸藤原宮地。八年(693)甲午(694)春正月、幸藤原宮。冬十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮。

 686年 朱鳥元年 丙戌 (天武15年)
 687年 朱鳥二年 丁亥 (持統1年)
 688年 朱鳥三年 戊子 (持統2年)
 689年 朱鳥四年 己丑 (持統3年)
 690年 朱鳥五年 庚寅 (持統4年)
 691年 朱鳥六年 辛卯 (持統5年)
 692年 朱鳥七年 壬辰 (持統6年)
 693年 朱鳥八年 癸巳 (持統7年)
 694年 朱鳥九年 甲午 (持統8年)

〔「大化五子年」(699年)土器〕
 699年 大化五年 己亥 (文武3年)
 700年 大化六年 庚子 (文武4年)

 これまでわたしは『万葉集』左注に見える「朱鳥」の干支が一年遅れていることについて、同編者が『日本書紀』天武末年(686年)に見える朱鳥改元を持統天皇の元年へとイデオロギーに基づいて操作したのではないかと考えてきました。すなわち、天武崩御後の持統元年(687年)を「朱鳥」改元年とすることにより、持統天皇の年号にふさわしい位置に九州年号「朱鳥」を移動させたと理解してきました。
 他方、「大化五子年」(699年)土器の場合は、当地(関東)では干支が一年ずれた暦法が採用されていたためとしてきました(注③)。しかし、両者のずれの方向が一致していることを重視すれば、『万葉集』左注の「朱鳥」も、干支が一年ずれた暦法で編纂された「朱鳥日本紀」が存在しており、それに依っていたとする可能性も考慮しなければならないのではないかと考えるようになりました。

(注)
①茨城県岩井市出土(冨山家蔵)。
②『万葉集 一』日本古典文学大系、岩波書店。
③古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。


第2862話 2022/10/22

『日本霊異記』に「朱鳥日本紀(記)」の痕跡

 古代日本(倭国・日本国)が仏教を受容するとき、王家や個々人がどのような動機や目的により仏教を信仰したのだろうかと考えています。これは服部静尚さん(古田史学の会・会員、八尾市)の論稿「倭国の女帝は如何にして仏教を受け入れたか」(注①)に触発されたことによります。特に女性たちの動機は何だろうかと考えるようになり、『今昔物語集』や『日本霊異記』を読み直しています。今回は『日本霊異記』に九州年号の朱鳥が記されていることを紹介します。
 『日本霊異記』は八世紀末から九世紀初頭頃に撰述された仏教説話集ですが、その上巻の「忠臣、欲小(すく)なく、足るを知りて諸天に感ぜられ、報を得て、奇事を示す緣 第二十五」に次の記事が見えます。

〝故(もと)の中納言従三位大神高市萬侶の卿は、大后の天皇(持統)の時の忠臣なり。記有りて曰はく、「朱鳥七年壬辰の二月、諸司に詔して、三月三(日)に當りて伊勢に行幸(いでま)さ將(む)とす、此の意を知りて設備(まう)く宜(べ)し」とのたまふ。時に中納言、農務を妨げむことを恐り、上表して諫を立つ。(後略)〟(注②)

 ここに見える「朱鳥七年壬辰の二月、諸司に詔して、三月三(日)に當りて伊勢に行幸(いでま)さ將(む)とす、此の意を知りて設備(まう)く宜(べ)し」の記事は『日本書紀』持統六年条(692年)に見え、「記有りて曰はく」の「記」について、日本古典文学大系本の頭注には次の解説があります。

〝「記」は、書紀編纂に使用された一本か。前段(行幸を諫止する話)は、書紀所収。〟

 『日本書紀』には朱鳥は元年(686年)の天武の末年の一年で終わっており、「朱鳥七年壬辰」という年号は使用されていません。従って、ここに見える「記」は『日本書紀』編纂に使用された一史料と見なされているわけです。この解説に基づけば、『日本書紀』編纂時に参照された史料に、九州年号の朱鳥で年次が記された持統天皇の記録、いわば「朱鳥日本紀(記)」があったことになります。そしてそれは『日本霊異記』編纂時に遺っていたことになり、さらには近畿天皇家がみずからの天皇の事績を九州年号を用いて記していたということにもなるのです。この理解が正しければ、王朝交代直前の近畿天皇家の実態研究にも影響を与えそうです。
 このような「朱鳥」年号入りの記事が「雷山千如寺縁起」にも見え、古田先生はその元史料を「朱鳥日本紀」とネーミングされました。『万葉集』左注にも「朱鳥」年号が散見されるのですが、それらは持統元年(687年)を朱鳥元年とする年次表記であり、本来の九州年号「朱鳥」とは干支が一年ずれています(注③)。その点、今回紹介した『日本霊異記』の「朱鳥七年壬辰」は九州年号「朱鳥」と干支が一致しており、「朱鳥日本紀」のネーミングにふさわしいものです。

(注)
①服部静尚「倭国の女帝は如何にして仏教を受け入れたか」『古田史学会報』172号、2022年10月。
②『日本霊異記』日本古典文学大系、岩波書店。129頁。
③干支が一年ずれている九州年号には、『万葉集』左注の「朱鳥」の他に、茨城県岩井市出土(冨山家蔵)「大化五子年」(699年)土器がある。次の拙稿を参照されたい。
 古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年。


第2858話 2022/10/14

俀国伝の行程〝古田理解と論理の根幹〟(2)

 『隋書』俀国伝に記された、百済から俀国の都へ向かう裴世清の行程記事について、古田先生は主線行路「対馬国→一支国→竹斯国→秦王国」と、傍線行路「又十余国を経て海岸に達す」に分けられたのですが、その理解を支えた根幹の論証がありました。それは、「又東して秦王国に至る」の直後にある「その人、華夏と同じ。以て夷洲と爲すも、疑ひて明らかにする能(あた)はざるなり」の記事に関するものです。この記事を古田先生は次のように理解されました(注①)。

〝この俀国の人々は、中国の人々とそっくりだ(よく似ている)。だから、〝ここは東夷の洲(しま)だ〟といわれても、中国人とはっきり区別できないほど、よく似ている。〟『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、259~260頁

 古田先生は「その人」の「その」が、直前の「秦王国」ではなく、「俀国」を指すことを『隋書』夷蛮伝の用例を根拠として論証され、主線行路は「秦王国」で終了し、その後の記事は俀国の風俗(その人、華夏と同じ)や地勢(十余国を経て海岸に達す)に関する情報であるとされました。この「その人」の「その」が俀国を指すという論証が、行路を主線と傍線に分けて理解するという古田説成立の根幹となっているのです。
 なお、主線行路について、古田先生は次のように推定されています。

〝海岸の「竹斯国」に上陸したのち、内陸の「秦王国」へとすすんだ形跡が濃厚である。たとえば、今の筑紫郡から、朝倉郡へのコースが考えられよう。(「都斯麻国→一支国」が八分法では「東南」ながら、大方向〈四分法〉指示で「東」と書かれているように、この場合も「東」と記せられうる)。
 では「秦王国」とは、何だろう。現地名の表音だろうか。否! 文字通り「秦王の国」なのである。「俀王」と同じく「秦王」といっているのだ。(中略)首都圏「竹斯国」に一番近く、その東燐に存在していたのが、この「秦王の国」ではあるまいか。筑後川流域だ。
 博多湾岸から筑後川流域へ。このコースの行く先はどこだろうか。――阿蘇山だ。〟同、275~276頁

 この裴世清が向かった行路については、古田学派内でも諸説が発表され、古田先生亡き後も活発な議論が続いています。これこそ、〝師の説にな、なづみそ〟の精神ではないでしょうか。ちなみに、古田説と同じく筑後川流域(筑後)から阿蘇山へと進む説は、わたしや谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)が発表しています(注②)。いずれ、真摯な論争の末に最有力説へと収斂するものと信じています。学問研究とはそのようなものですから。

(注)
①古田武彦「古代船は九州王朝をめざす」『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。
②古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
「『肥後の翁』と多利思北孤 ―筑紫舞「翁」と『隋書』の新理解―」『古田史学会報』136号、2016年。
 谷本茂「『隋書』俀国伝の「俀の都(邪靡堆)」の位置について」『古田史学会報』158号、2020年。
 俀国の都を「肥」(肥前・肥後・筑後を含む広域)とする説が阿部周一氏(古田史学の会・会員、札幌市)から出されている。
 阿部周一「『隋書俀国伝』の「本国」と「附庸国」 ―行程記事から見える事―」『古田史学会報』148号、2018年。


第2857話 2022/10/13

『古田史学会報』172号の紹介

 『古田史学会報』172号が発行されました。一面に掲載された「『漢書』地理志・「倭人」項の臣瓚注について」は中国古典に博識な谷本さんならではの論稿です。『漢書』に付された三種類の注記(如淳・臣瓚・顔師古)について論じた西嶋定生氏の説を紹介し、そこでの古田説批判が的を射て居らず、「古田氏の見解を無視し、その内容に言及しないのは不可解」としたものです。『後漢書』の臣瓚注について、わたしは勉強したことがなく、西嶋氏の古田説批判も知りませんでした。古田先生とのお付き合いが永い谷本さんの論稿に、冥界の先生も目を細めておられることでしょう。

 拙稿〝官僚たちの王朝交代 ―律令制官人登用の母体―〟と〝「二倍年歴」研究の思い出 ―古田先生の遺訓と遺命―〟を掲載していただきました。前者は、七世紀末の藤原宮で執務した大勢の律令制官僚は前期難波宮の官僚が登用されたとする佐藤隆さん(大阪市教育委員会)の説を紹介し、その前期難波宮官僚群の母体となったのは七世紀前半の九州王朝の太宰府官僚群とするものです。
後者は、二十年ほど前に『論語』は二倍年暦で書かれているとする説を発表したとき、わたしに託された古田先生の遺訓(悉皆調査)と遺命(書籍発行)の経緯を紹介したものです。古田史学を生み出した古田先生の人となりを、わたしや関係者の記憶が確かな内に書きとどめていく必要を感じており、機会があればこれからも紹介したいと思います。

 172号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』172号の内容】
○『漢書』地理志・「倭人」項の臣瓚注について 神戸市 谷本 茂
○室見川銘板はやはり清朝の文鎮 京都府大山崎町 大原重雄
○官僚たちの王朝交代 ―律令制官人登用の母体― 京都市 古賀達也
○倭国の女帝は如何にして仏教を受け入れたか 八尾市 服部静尚
○乙巳の変は九州王朝による蘇我本宗家からの権力奪還の戦いだった 茨木市 満田正賢
○「二倍年歴」研究の思い出 ―古田先生の遺訓と遺命― 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学・三十八
九州万葉歌巡り 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○古田史学の会・関西例会のご案内