古賀達也一覧

第2805話 2022/08/09

足立喜六訳注『入唐求法巡礼行記』を再読

 足立喜六氏の『長安史蹟の研究』(注①)を「洛中洛外日記」2804話(2022/08/08)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (13)〟で紹介しましたが、わたしは足立氏のお名前に見覚えがありました。それは東洋文庫に収録されている円仁の『入唐求法巡礼行記』(注②)の訳注を施された人物として記憶していたのです。
 今から二十数年前に、『三国志』倭人伝の行程(里数)表記の様式が後代史料(主に旅行記)にどのような影響を与えているのかを調べたことがあります。そして『海東諸国紀』(注③)や『老松堂日本行録』(注④)などに倭人伝の行程記事の影響や関連性を見つけたりしました。そのときに『入唐求法巡礼行記』も読み、訳注者の足立氏の名前に触れたのです。今回、唐代の1里の調査をしていたら、懐かしい足立喜六氏のお名前に出会い、同書を久しぶりに読みました。
 同書は円仁(794~864年)の唐の五台山・長安への巡礼日記です。各旅程間の里数が事細かに記されており、唐代の里程研究にも使用できる史料です。こうした中国内の里数を日本から来た円仁に実測できるはずもありませんから、当時の中国人から聞いた、当地の里程認識が記されたものと考えざるをえません。当時の唐里は足立氏の研究によれば1里約440mの「小程」であり、円仁が記した里程もこの「小程」での値と思われます。ところが、この「小程」による里数が後の「大程」(1里約530m)での里数と異なるため、そのことを疑問視する記事が塩入良道氏による同書補注に見えます。

 「西京から二千来里については、〈小野本注〉では千三百―千六百の諸説を挙げ、実際は千五、六百里であろうとする。」(『入唐求法巡礼行記2』112頁)

 西京(長安)から北京(太原府)まで二千里とする『入唐求法巡礼行記』原文に対して、「実際は千五、六百里であろう」と、小野本の注者(小野勝年氏)は疑っているわけです。おそらく、小野勝年氏には唐代の「小程」の認識がなく、地図上の距離を「大程」で換算したのではないでしょうか。同時に、何の説明もなく小野本の注を補注で紹介した塩入良道氏にも足立氏が提起した「小程」の認識がなかったのかもしれません。ちなみに、「小程」で里程記事を理解していた足立氏は当該部分に注をいれていません。『入唐求法巡礼行記』の里程記事は『旧唐書』地理志と同様に、「小程」で理解しなければならないのです。

(注)
①足立喜六『東洋文庫論叢二十之一 長安史蹟の研究』財團法人東洋文庫、昭和八年(1933年)。
②円仁『入唐求法巡礼行記』足立喜六訳注・塩入良道補注、平凡社・東洋文庫157・442、1970年・1985年。
③申叔舟『海東諸国紀』岩波文庫、田中健夫訳注、1991年。当書と倭人伝の行程表記の類似について、次の拙稿で指摘した。
 古賀達也「洛中洛外日記」2151~2153話(2020/05/12~15)〝倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(2)~(4)〟
④宋希環『老松堂日本行録 ―朝鮮通信使が見た中世日本―』岩波文庫、村井章介校注、1987年。当書と倭人伝の韓国内陸行行程の類似について、次の拙稿で紹介した。
 古賀達也「洛中洛外日記」997話(2015/07/09)〝老松堂の韓国内陸行〟


第2804話 2022/08/08

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (13)

 唐代の1里を何メートルとするのかについて、唐代の尺(モノサシ)を求め、その実測値から1里に換算するという方法がありますが、唐尺には小尺(約24cm)と大尺(約30cm)とがあるため、どちらの尺を採用したかで、「小里」(約430m)と「大里」(約540m)という大差が発生します。この問題の存在に気づいていましたので、『旧唐書』地理志の里程記事は「小里」で記されたのではないかと推定していました。しかし、そのことを結論づけるだけの史料根拠や正確な検証方法がわかりませんでした。そこで、京都府立図書館で先行研究論文を調査し、次の記事を見つけました。

 「唐尺に關しては徳川時代以來議論があつて、その大尺を棭齋の如く九寸七分とするものヽ外、曲尺と同じとし又は九寸八分弱とする説がある。近頃でも關野博士は後者を採り(平城考及大内裏考二二頁)足立氏は前者に與さる。(前掲書三〇頁以下)この両説に對して棭齋は本朝度考中に詳しく批判してゐるから茲には論究しない。足立氏は大尺を曲尺の一尺として、唐里は大程が曲尺の千八百尺、小程が曲尺の千四百九十九尺四寸とする。棭齋の考證より算出した里程とは五十尺前後の差があるが、小程は大約わが四町に、大程は五町に相當するといひうるであらう。而して大程は長安、洛陽両京の城坊に適用されたのみで、一般にはなほ漢里の訛長した小程が用ひられた。唐末から宋代に至って漸く一般に大程が行はれたのである。(足立氏前掲書四九頁)」森鹿三「漢唐の一里の長さ」(注①)

 ここに見える「小程」「大程」こそ、わたしが仮称した「小里」「大里」に相当します。そして、注目したのが「大程は長安、洛陽両京の城坊に適用されたのみで、一般にはなほ漢里の訛長した小程が用ひられた。唐末から宋代に至って漸く一般に大程が行はれたのである。」という指摘でした。そこで、この「小程」「大程」という概念の出典を調べたところ、足立喜六氏の『長安史蹟の研究』(注②)でした。そこでは次のように定義されています。

「左に唐里の大程と小程とを比較すると、
 大程 一歩は大尺五尺、一里は三百六十歩、即ち大尺一千八百尺。
 小程 一歩は小尺六尺、一里は三百歩、即ち小尺一千八百尺で、我が曲尺千四百九十九尺四寸。
 である。」(44頁)

 そして、『旧唐書』地理志などの里程記事は小程で記されていると、次のように指摘しています。

 「兎に角唐里の長安・洛陽間の八百五十里は小程の計算であって、事實に適合することが推定せられる。なほ又他の地方に就いても、舊唐書地理志の里程と實測里程とを比較して見ると、皆小程を用ひたことが明である。同時に漢書及び舊唐書に記載した里程は決して無稽の數字でないことが知られる。
 以上の諸例に就いて考へて見ると、大程は隋若くは初唐に制定せられて、之を両京の城坊に適用したが、一般に励行せられたのではなくて、地方の里程・天文又は司馬法の如き舊慣の容易に改め難いものは、なほ舊制に近い小程が用ひられたのである。茲にも前に述べた劃一的でなく、また急進的でない支那の國民性が窺はれる。我が大寶令雑令の
  凡度地五尺為歩、三百歩為里。
も亦此の小程を採用したものだと思はれる。大程は唐末から宋代に至って漸く一般に行はれる様になったと見えて、宋史・長安志・新唐書の類が皆之を用ひて居る。」(49~50頁)

 以上のように、わたしが悩み続けて至った「小里」「大里」という概念が、昭和八年に「小程」「大程」として既に発表されていたのでした。先達、畏敬すべきです。なお、足立喜六氏(1871~1949)は土木技術者・数学の専門家で、長安遺跡の実地踏破を行った人物です。(つづく)

(注)
①森鹿三「漢唐の一里の長さ」『東洋史研究』1940年。
②足立喜六『東洋文庫論叢二十之一 長安史蹟の研究』財團法人東洋文庫、昭和八年(1933年)。


第2803話 2022/08/07

二枚あった慈眼院「定居二年」棟札

 九州年号「定居二年(612年)」記事が記された泉佐野市日根野慈眼院所蔵の「慶長七年(1602年)」棟札を紹介しましたが、その他にも多数の棟札が泉佐野市には現存しています。調査の結果、慈眼院には「定居二年(612年)」と記された棟札がもう一枚あることがわかりました。
 『泉佐野市内の社寺に残る棟札資料』(注①)によれば、慈眼院には日根神社の三枚の棟札が所蔵されており、その内の一枚が「洛中洛外日記」(注②)で紹介した「慶長七年(1602年)」棟札です。今回、新たに見いだしたのは「天正八年(1580年)」成立の小ぶりの棟札(注③)で、次のように記されています。

(表)
  大井関
  正一位
  大明神
(裏)
  定居二年壬申四月二日備
  大井関正一位大明神雖然
  天正四年二月十八日煙焼故
  天正八年庚辰三月八日造立
  社頭者也則天正八年閏
  三月廿二日御遷宮有之導師
  十輪院政金法印也

 大井関大明神(日根神社)の由来を九州年号「定居二年壬申」で示し、その後の社殿の焼亡・再建年次などを記録した棟札です。この棟札で注目すべきことは、もう一枚の慶長七年(1602年)棟札(板札)よりも二十年ほど早く成立していることです。そして、同神社の由来を九州年号「定居」で記録した慶長七年棟札(板札)が孤立していないことを明らかにした点です。このことは、新羅国太子「修明正覚王」が定居二年(612年)に当地に来たという伝承の信憑性を高めます。
 今回、もう一枚の「定居二年」棟札の存在を知り、棟札以外にも当地の古記録などに同様の伝承が遺されているのではないかという心証を得ました。先に紹介した『新撰姓氏録』の和泉国諸蕃の部に見える「日根造」「新羅国人億斯富使主より出づる也」(注④)もその一つに違いありません。これから、現地調査を進めたいと思います。

(注)
①「日根神社資料三 慶長七年(一六〇二) 板札」『泉佐野市内の社寺に残る棟札資料』泉佐野市史編纂委員会、1998年、71~72頁。
②古賀達也「洛中洛外日記」2796話(2022/07/24)〝慈眼院「定居二年」棟札の紹介〟
 同「洛中洛外日記」2797話(2022/07/26)〝慈眼院「定居二年」棟札の古代史〟
③「日根神社資料二 天正八年(一五八〇) 本殿棟札」『泉佐野市内の社寺に残る棟札資料』泉佐野市史編纂委員会、1998年、70頁。
④『新撰姓氏録』和泉国諸蕃の部に、「新羅国人億斯富使主より出づる也」と記された「日根造」が見える。この日根造の祖先とされる新羅国人億斯富使主は、棟札に見える新羅国太子「修明正覚王」のことと思われる。慈眼院の隣にある日根神社は「億斯富使主」を祭神として祀っている。日根神社は棟札に記された「日根野大井関大明神」のことである。


第2802話 2022/08/06

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (12)

 唐代の1里を何メートルとするのかについて、先行研究を調査していますが、おおよそ次のような求め方が見られます。

(1)唐代の尺(モノサシ)を求め、その実測値から1里を換算するという方法。
(2)歴代史書に見える「尺」の変遷記事に基づき、より確かな時代の尺(モノサシ)の実測値から換算する。
(3)そうして得られた唐代の1里が長安城遺跡などの実測値に対応しているか確認する。また、『旧唐書』地理志などの里程記事との対応を検証する。

 この方法論で最初に問題となるのが、(1)の唐代のモノサシの実測値です。多数出土・伝存している唐尺には微妙に差(28cm~31.35cm。注①)があり、1800尺を1里と計算するため、その小差が1800倍に広がり、計算上の1里に更に差が生じるという問題があります。『中国古典文学大系 22 大唐西域記』(平凡社 1971)補注〝『西域記』の「一里」の長さ〟に見える、「里数を計る基礎となる唐尺の現存するものは多数あるが、その長さには小差があり、従って一定の公認された数値としては今日なさそうである。」という解説はそのことを意味しています。
 しかも、唐尺には小尺(約24cm)と大尺(約30cm)という、もっと大きな差があります(注②)。この差が1800倍され、「小里」と「大里」(いずれも古賀による仮称)の発生原因となるわけです。(つづく)

(注)
①矩斎「古尺考」(藪田嘉一郎『中国古尺集説』綜芸舎、1969年)の「現存歴代古尺表」によれば、唐代の尺(モノサシ)14品が掲載され、その1尺の実測値は28cm~31.35cmである。
②山田春廣氏(古田史学の会・会員、鴨川市)のブログ「sanmaoの暦歴徒然草」(2021年12月22日)〝実在した「南朝大尺」 ―唐「開元大尺」は何cmか― 〟によれば次の唐尺がある。
 唐小尺 金工 長さ24.3cm
 唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5cm
 唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4cm
  ※開元尺は、唐の玄宗皇帝が開元年間(713年~741年)に『開元令』で定めたとされているもの。
 従って、どの尺単位を1800倍するかで1里の長さは大きく変わる。
 唐小尺  24.3cm×1800=437.4m
 唐玄宗開元小尺 24.5cm×1800=441m
 唐玄宗開元大尺 29.4cm×1800=529.2m


第2801話 2022/08/05

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (11)

 表記テーマは、「洛中洛外日記」2660話(2022/01/13)〝『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (10)〟以来です。当研究をサボっていたわけではなく、『旧唐書』地理志に見える里程記事の理解が難しく、筆が進まなかったことによります。たとえば、実測距離計算が比較的可能なケースでも、下記のように一里の長さがバラバラで、この基本問題の解決が難しかったのです。

○京師⇒河南府(洛陽) 「在西京(長安)東八百五十里」 327km〔1里385m〕
○京師⇒卞州 「在京師東一千三百五十里」 497km〔1里368m〕
○東都⇒卞州 「東都四百一里」 170km〔1里424m〕
○京師⇒徐州 「在京師東二千六百里」 757km〔1里291m〕
○東都⇒徐州 「至東都一千二百五十七里」 435km〔1里346m〕

 このなかで、より安定した実測値が出せるのが京師・河南府(洛陽)間でした。唐が京師(長安)と東都(洛陽)の東西二京制を採用していたこともあり、両都間の距離を記した「在西京(長安)東八百五十里」の記事は信頼性が高いことと、その陸路が黄河南岸にほぼ沿ったルートであり、地図上の実測値と実際の道行き距離が大きくは異ならないと判断できるからです。この理解を補強する地理志の次の里程記事もあります。

○京師⇒華州 「在京師東一百八十里、去東都六百七十里」

 華州は京師(長安)と東都(洛陽)の間にあり、京師までの180里と東都までの670里の合計がちょうど850里です。
 そして、長安・洛陽間は水路として黄河も使用できますので、その南岸を通る陸路が大きく迂回したり、両京間が不必要なじくざぐ行程になっていたとは考えにくいのです。それこそ、東西の都を最短距離の軍用道路で繋いだとしても不思議ではありません。こうした理解から、地理志の里程記事が一里530mや560mで書かれているとは、わたしには考えられないのです。両京間は地図上では約327kmですが、もし一里を530mや560mとすれば、その距離は450.5kmと476kmになり、実測値と大きくかけ離れてしまいます。
 しかしながら、唐代の一里についての先行研究においては、約320m(注①)から約560m(注②)までの諸説があり、当問題がそれほど簡単には解決できないこともわかってきました。このように悩み抜いた末、ようやく問題の所在と解決の糸口が見えてきましたので、本テーマを再開することにしました。まだ研究途上ですが、わたしの理解したところを紹介することにします。(つづく)

(注)
①『中国古典文学大系 22 大唐西域記』(平凡社 1971)補注の〝『西域記』の「一里」の長さ〟(416頁)に、「里数を計る基礎となる唐尺の現存するものは多数あるが、その長さには小差があり、従って一定の公認された数値としては今日なさそうである。その大略について言えば、唐代には大小二種の尺度がある(日本の曲尺と鯨尺のもと)。」として、唐代の一里を320m、441m、453m、454mとする説があることを紹介している。
②『中国古典文学大系 57 明末清初政治評論集』(平凡社 1982)巻末の「中国歴代度量衡基準単位表」には、「唐・五代」での一里は559.80mとある。


第2800話 2022/08/01

倭国(九州王朝)の天子と蝦夷国の参仏理大臣

 羽黒山を開山したと「勝照四年」棟札(注①)に記された「能除大師」は「参仏理大臣(みふりのおとど)」という名前でも伝承されています(注②)。わたしはこの能除の別称に「大臣」という官職名が付いていることが気になっていました。「勝照四年」(588年)の頃ですから、羽黒山は蝦夷国内と思われ、それであれば能除は蝦夷国の大臣だったのだろうか、あるいは倭国(九州王朝)の大臣が布教のために蝦夷国内の出羽に派遣されたのだろうかと考えあぐねていたのです。ところが意外なことから決着が付きました。
 「洛中洛外日記」で連載した蝦夷関連の拙稿を読み返していたら、次のことを既にわたしは書いていました。それは「洛中洛外日記」2391話(2021/02/25)〝「蝦夷国」を考究する(8) ―多利思北孤の時代の蝦夷国―〟で紹介した次の『日本書紀』の記事でした。

○『日本書紀』敏達十年(581年)閏二月条
 十年の春閏二月に、蝦夷数千、邊境に冦(あたな)ふ。
 是に由りて、其の魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を召して、〔魁帥は、大毛人なり。〕詔(みことのり)して曰はく、「惟(おもひみ)るに、儞(おれ)蝦夷を、大足彦天皇の世に、殺すべき者は斬(ころ)し、原(ゆる)すべき者は赦(ゆる)す。今朕(われ)、彼(そ)の前の例に遵(したが)ひて、元悪を誅(ころ)さむとす」とのたまふ。
 是(ここ)に綾糟等、懼然(おぢかしこま)り恐懼(かしこ)みて、乃(すなわ)ち泊瀬の中流に下て、三諸岳に面(むか)ひて、水を歃(すす)りて盟(ちか)ひて曰(もう)さく、「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫、〔古語に生兒八十綿連(うみのこのやそつづき)といふ。〕清(いさぎよ)き明(あきらけ)き心を用て、天闕(みかど)に事(つか)へ奉(まつ)らむ。臣等、若(も)し盟に違はば、天地の諸神及び天皇の霊、臣が種(つぎ)を絶滅(た)えむ」とまうす。

 この記事は三段からなっており、一段目は蝦夷国と倭国との国境付近で蝦夷の暴動が発生したこと、二段目は、倭国の天子が蝦夷国のリーダーとおぼしき人物、魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を呼びつけて、「大足彦天皇(景行)」の時のように征討軍を派遣するぞと恫喝し、三段目では、綾糟等は詫びて、これまで通り「臣」として服従することを盟約した、という内容です。
 すなわち、綾糟らは自らを倭国(九州王朝)の「臣」と称し、倭国(九州王朝)と蝦夷国は、「天子」とその「臣」という形式をとっていることを現しています。これは倭国(九州王朝)を中心とする日本版中華思想として、蝦夷国を冊封していたのかもしれません。従って、能除の別称が「参仏理大臣」であることは、この『日本書紀』の記述通りであり、倭国の臣下として蝦夷国の有力者であろう能除の別称としてふさわしいのです。
 敏達十年(581年、九州年号の鏡當元年)は能除による羽黒山開山「勝照四年」(588年)の七年前であり、時期的にも対応しています。こうして、倭国(九州王朝)と蝦夷国との歴史が一つ明らかになったと思われます。ちなみに、『拾塊集』(注③)には「能除太子者崇峻天皇之子也」とあり、没年月日を「舒明天皇十三年(641年)八月二十日」(九州年号の命長二年)としています。

(注)
①『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。表面に次の記載がある。
「出羽大泉荘羽黒寂光寺
 (中略)
 羽黒開山能除大師勝照四年戊申
  慶長十一稔丙午迄千十九年」
②「出羽三山史年表(戸川安章編)」(『山岳宗教史研究叢書5 出羽三山と東北修験の研究』昭和50年(1975)、名著出版)によれば、能除の別称を「参弗理大臣」とする。
 『出羽国羽黒山建立之次第』(同)には「崇峻天皇の第三の御子、(中略)名を参弗梨の大臣と号し上(たてまつ)る。」とある。
③『拾塊集』(著者・成立年代ともに不明)『山岳宗教史研究叢書5 出羽三山と東北修験の研究』昭和50年(1975)、名著出版。


第2799話 2022/07/31

勝照四年(588年)、蝦夷国への仏教東流の痕跡

 「洛中洛外日記」2795話(2022/07/23)〝羽黒山開山伝承、「勝照四年」棟札の証言〟において、「勝照四年」(588年)銘を持つ羽黒三山寺の棟札(慶長十一年・1606年成立。亡失。注①)に記された「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」記事を六世紀末頃の倭国(九州王朝)から蝦夷国領域(出羽地方)への仏教東流伝承の痕跡ではないかと指摘しました。この推定が妥当かどうかを判断するために、『日本書紀』の関連記事を調べてみました。
 九州年号の「勝照四年」(588年)は崇峻天皇元年にあたり、その付近の蝦夷や仏教関連記事を精査したところ、次の記事が注目されました。

  九州年号   天皇 年 『日本書紀』の記事要旨
584 鏡当 4 甲辰 敏達 13 播磨の恵便から大和に仏法が伝わる。
585 勝照 1 乙巳 敏達 14 蘇我馬子、仏塔を立て大會を行う。
586 勝照 2 丙午 用明 1
587 勝照 3 丁未 用明 2 皇弟皇子、豊国法師を内裏に入れる。
588 勝照 4 戊申 崇峻 1 大伴糠手連の女、小手子を妃とする。妃は蜂子皇子を生む。是年、百済国より仏舎利が送られる。法興寺を造る。
589 端政 1 己酉 崇峻 2 東山道使を使わし、蝦夷国境を観る。(略)阿倍臣を北陸道に派遣し、越等の諸国の境を観る。
590 端政 2 庚戌 崇峻 3 学問尼善信ら、百済より還り、桜井寺に住む。
591 端政 3 辛亥 崇峻 4
592 端政 4 壬子 崇峻 5 大法興寺の仏堂と歩廊を建てる。
593 端政 5 癸丑 推古 1 仏舎利を法興寺の柱礎の中に置く。是年、初めて四天王寺を難波の荒陵に造る。
594 告貴 1 甲寅 推古 2 諸臣ら競って仏舎を造る。これを寺という。
595 告貴 2 乙卯 推古 3 高麗僧慧慈、帰化する。是歳、百済僧慧聰が来て二人は仏法を弘めた。

 以上のように、「勝照四年」(588年)頃の『日本書紀』記事によれば、この時期は近畿天皇家や大和の豪族らにとっての仏教伝来時期に相当し、新羅や百済からの僧や仏舎利の受容開始期であることがわかります。おそらくは九州王朝を介しての受容であることは、九州王朝説の視点からは疑うことができません(九州王朝記事の転用も含む)。
 同様に、更に東の蝦夷国も九州王朝を介して仏教を受容したのではないでしょうか。その点、注目されるのが589年(端政元年己酉)に相当する『日本書紀』崇峻二年条の、「東山道使を使わし、蝦夷国境を観る。(略)阿倍臣を北陸道に派遣し、越等の諸国の境を観る。」という記事(要旨)です。六世紀の九州王朝の時代での東山道や北陸道からの国境視察記事ですから、視察の対象は蝦夷国領域であり、それは九州王朝(倭国)によるものと考えざるを得ません。従って、これと同時期に能除による羽黒山開山がなされたという「勝照四年」(588年)棟札の記事は、九州王朝(倭国)から蝦夷国への仏教東流の痕跡と見なしてもよいと思われるのです。
 そうであれば、日本列島内の仏教初伝と東流の経緯は次のように捉えて大過ないと思いますが、いかがでしょうか。

【日本列島での仏教東流伝承】
(1)418年 九州王朝(倭国)の地(糸島半島)へ清賀が仏教を伝える(雷山千如寺開基)。(『雷山千如寺縁起』、注②)
(2)488~498年 仁賢帝の御宇、檜原山正平寺(大分県下毛郡耶馬渓村)を百済僧正覚が開山。(『豊前国志』)
(3)531年(継体25年) 教到元年、北魏僧善正が英彦山霊山寺を開基。(『彦山流記』)
(4)584年 播磨の還俗僧恵便から得度し、大和でも出家者(善信尼ら女子三名)が出たことをもって「仏法の初め」とする。(『日本書紀』敏達十三年条)
(5)588年 蝦夷国内の羽黒山(寂光寺)を能除が開山。(羽黒寂光寺「勝照四年」棟札)

(注)
①『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。表面に次の記載がある。
「出羽大泉荘羽黒寂光寺
 (中略)
 羽黒開山能除大師勝照四年戊申
  慶長十一稔丙午迄千十九年」
②『雷山千如寺縁起』による。倭国への仏教初伝について、次の拙稿で論じた。
○古賀達也「四一八年(戊午)年、仏教は九州王朝に伝来した ―糸島郡『雷山縁起』の証言―」39号、市民の古代研究会編、1990年5月。
○同「倭国に仏教を伝えたのは誰か ―「仏教伝来」戊午年伝承の研究―」『古代に真実を求めて』1集、古田史学の会、1996年。1999年に明石書店から復刻。同稿の最新改訂版は未発表。


第2798話 2022/07/29

後代成立「九州年号棟札」の論理

 後代に成立した「九州年号棟札」二点を「洛中洛外日記」で紹介しました。それは「勝照四年」(588年)銘を持つ羽黒三山寺の棟札(慶長十一年・1606年成立。亡失。注①)と「定居二年」(612年)銘を持つ泉佐野市日根野の慈眼院所蔵棟札(慶長七年・1602年成立。注②)で、いずれも『記紀』には見えない古代の歴史事実の一端を記した貴重な史料でした。このような後代成立「九州年号棟札」が持つ史料性格とその論証力の発生理由について深く考えてみることにします。

(1)まずその史料性格の最大の特徴として、神仏を護る建築物の由来を後世に遺す記録文書という点があげられます。すなわち、日本人のメンタリティーとしての〝神仏に誓って嘘は記さない〟という史料性格です。
(2)従って、大和朝廷の正史などに記されていない九州年号を使用しているということは、それを偽年号とは考えておらず、その年号を用いて表記した記事の年代や内容についても作成者は史実として認識していることが貴重です。
(3)同様に、他者の目に触れることを前提としており、他者に対してもその記事の信憑性が疑われていないということが前提となって成立していることも重要です。
(4)通常、棟札には建築物と棟札の成立年次が記載されており、史料の成立年代と成立場所が自明という利点があり、史料批判の一助となります。
(5)今回、研究対象とした二点の棟札には「勝照四年戊申」「定居二年壬申」とあり、「○○天皇の○○年」という『日本書紀』成立後の表記様式ではないことから、九州年号記事部分については、九州年号使用時期、すなわち九州王朝(倭国)の時代に成立した痕跡が濃厚です。
(6)更に、「羽黒開山能除大師」や「新羅国修明正覚王」という『日本書紀』には見えない人名や記事であることも、九州王朝系史料に基づく記事として、信憑性を高めます。

 おおよそ、以上のような史料性格・史料状況を有していることから、今回の二点の棟札は古代史研究に使用できる貴重な史料ということができるのです。

(注)
①『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。表面に次の記載がある。
「出羽大泉荘羽黒寂光寺
 (中略)
 羽黒開山能除大師勝照四年戊申
  慶長十一稔丙午迄千十九年」
②『泉佐野市内の社寺に残る棟札資料』(泉佐野市史編纂委員会、1998年)などによれば次の銘文が記されている。
「泉州日根郡日根野大井関大明神
 御造営記録并御縁起由来㕝
抑當社大明神者古三韓新羅国
修明正覚王一天四海之御太子ニ 而
御座然者依不思儀御縁力定居
二年壬申卯月二日ニ 日域ニ 渡セ 玉ヒ
當国主大井関正一位大明神ニ 備リ
玉フ(中略)
       吉田半左衛門尉
 慶長七年壬寅十二月吉日一正」


第2797話 2022/07/26

慈眼院「定居二年」棟札の古代史

 泉佐野市日根野慈眼院所蔵の「慶長七年(1602年)」棟札冒頭に記された九州年号「定居二年(612年)」記事(注①)は、七世紀初頭における当地への新羅国太子「修明正覚王」渡来を伝えた貴重な史料です。わたしはこの記事は歴史事実を伝えているのではないかと考えています。その理由は次の通りです。

(1)七世紀前半に搬入された百済や新羅の土器が難波から多数出土しており、その量は国内最多であることが報告されている(注②)。従って、朝鮮半島と難波との交流が認められる。
(2)古代において最大規模の灌漑用溜池である狭山池(大阪狭山市)が七世紀第1四半期頃に築造されている(注③)。おそらく、前期難波宮(652年)・難波京造営による人口増加に備えて、食糧増産のために九州王朝が築造したと考えられる。この大土木工事のために朝鮮半島の技術者が当地に迎え入れられたのではあるまいか。
(3)上町台地に難波天王寺(四天王寺)が九州年号「倭京二年(619年)」に造営されたことが『二中歴』年代歴に見え、出土した創建瓦の編年と一致している。このことは七世紀前半における九州王朝の難波進出を示している。
(4)新羅国太子「修明正覚王」が来た定居二年(612年)とほぼ同時期(定居元年)に百済国の淋聖太子が周防国多々良浜(山口県防府市)に渡来した伝承が色濃く遺っている(注④)。「修明正覚王」の渡来も、この時期の倭国(九州王朝)と朝鮮半島諸国(新羅・百済)との交流の一つと位置づけることができる。
(5)『新撰姓氏録』の和泉国諸蕃の部に、「新羅国人億斯富使主より出づる也」と記された「日根造」が見える。この日根造の祖先とされる「新羅国人億斯富使主」は、棟札に見える新羅国太子「修明正覚王」のことと思われる。慈眼院の隣にある日根神社は「億斯富使主」を祭神として祀っている。日根神社は棟札に記された「日根野大井関大明神」のことである。
(6)「大井関大明神」という神名からうかがえるように、この地に土着し、日根造となった「修明正覚王」の子孫たちは、近隣の川を水源として関を造り開墾を進めたと思われるが、この日根造らは狭山池を築造した技術集団の流れを受け継いだのではあるまいか。

 以上のようにわたしは考えています。特に「定居二年」という九州年号を用いて祖先の歴史を伝承していることは、九州王朝との関係を示すものではないでしょうか。

(注)
①『泉佐野市内の社寺に残る棟札資料』(泉佐野市史編纂委員会、1998年)などによれば次の銘文が記されている。
「泉州日根郡日根野大井関大明神
 御造営記録并御縁起由来㕝
抑當社大明神者古三韓新羅国
修明正覚王一天四海之御太子ニ 而
御座然者依不思儀御縁力定居
二年壬申卯月二日ニ 日域ニ 渡セ 玉ヒ
當国主大井関正一位大明神ニ 備リ
玉フ 爰ニ 天下乱入ニ 付而天正四年
丙子二月十八日ニ 焔上也其後
(中略)
       吉田半左衛門尉
 慶長七年壬寅十二月吉日一正」
②寺井誠「難波における百済・新羅土器の搬入とその史的背景」『共同研究報告書7』(大阪歴史博物館、2013年)に次の指摘がある。
 「以上、難波およびその周辺における6世紀後半から7世紀にかけての時期に搬入された百済土器、新羅土器について整理した。出土数については、他地域を圧倒していて、特に日本列島において搬入数がきわめて少ない百済土器が難波に集中しているのは目を引く。これらは大体7世紀第1~2四半期に搬入されたものであり、新羅土器の多くもこの時期幅で収まると考える。」
③狭山池の堤体内部から出土した木樋(コウヤマキ)の年輪年代測定(伐採年616年)により、七世紀前半の築造とされている。
④「九州年号目録」『市民の古代』11集、新泉社、1989年


第2796話 2022/07/24

慈眼院「定居二年」棟札の紹介

 「洛中洛外日記」2791話(2022/07/19)〝慈眼寺「定居七年」棟札の紹介論文〟で紹介した慈眼院棟札(定居七年・617年)ですが、泉佐野市日根野慈眼院(注①)のご住職から教えていただいた資料(注②)などにより、同棟札の全文を確認することができました。その冒頭部分を転記します。

「泉州日根郡日根野大井関大明神
 御造営記録并御縁起由来㕝
抑當社大明神者古三韓新羅国
修明正覚王一天四海之御太子ニ 而
御座然者依不思儀御縁力定居
二年壬申卯月二日ニ 日域ニ 渡セ 玉ヒ
當国主大井関正一位大明神ニ 備リ
玉フ 爰ニ 天下乱入ニ 付而天正四年
丙子二月十八日ニ 焔上也其後
(中略)
       吉田半左衛門尉
 慶長七年壬寅十二月吉日一正」

先の「洛中洛外日記」で紹介した「定居七年」ではなく、「定居二年」(612年)に新羅国の太子「修明正覚王」が当地に来て、「當国主大井関正一位大明神」になったという「日根野大井関大明神」の由来が冒頭に記されています。その後、天下が乱れ、同社は天正四年(1576年)のおそらくは兵火で消失し、慶長七年(1602年)に豊臣秀頼により再興されたことが後段に詳述されています。
 従って、この棟札銘文に見える「定居二年」は同時代九州年号史料ではありませんが、当時の古代史認識が示された史料として貴重です。次にその古代史認識とは、どのようなものであったのかについて迫ってみます。(つづく)

(注)
①大阪府泉佐野市日根野にある真言宗の寺院。近世末までは隣接する日根神社の神宮寺であった。(ウィキペディアによる)
②『泉佐野市内の社寺に残る棟札資料』泉佐野市史編纂委員会、1998年


第2795話 2022/07/23

羽黒山開山伝承、「勝照四年」棟札の証言

 羽黒三山神社の公式ホームページの解説(注①)により、羽黒山開山伝承が後世(江戸時代初期)において改変を受けていたことがわかりました。当時、羽黒山の別当であった宥俊や弟子の天宥が、羽黒山を開山したとされる能除を天皇家の血筋と関連付けるために、崇峻天皇の太子である蜂子皇子のこととしたようです。そうせざるを得なかった理由の一つに、「勝照四年戊申」(588年)という開山年次を記した伝承の存在があったと思われます。慶長十一年(1606年)の修造時に作られた棟札(注②)に「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」とあったことがそのことを指し示しています。
 開山の時代(六世紀末頃)にあって、行方が不確かな〝皇族〟を探し求めた結果、崇峻天皇の子供の蜂子皇子が能除の候補者に最も相応しいと、宥俊や天宥は考えたのでしょう。なお、能除を崇峻天皇の第三皇子とする、十六世紀成立の史料「出羽国羽黒山建立之次第」(注③)もあるようですが、わたしは未見のため、調査したうえで別述したいと思います。
 このような後世(江戸時代初頭)の開山伝承の改変を、おそらくは現在の羽黒三山神社のホームページ編集者は感じ取っているものと思われます。それは諸説を併記した次の用心深い記述姿勢からもうかがわれます。

「開祖・能除仙(のうじょせん)
 出羽三山を開き、羽黒派古修験道の開祖である能除仙は深いベールに包まれた人である。社殿に伝わる古記録では、能除は『般若心経』の「能除一切苦」の文を誦えて衆生の病や苦悩を能く除かれたことから能除仙と呼ばれ、大師・太子とも称された。またそれとは別に参仏理大臣(みふりのおとど)と記されたものもあり、意味は不明であるがその読み方から神霊に奉仕する巫とする見方もあった。」

 以上の史料状況からすると、最も信頼性が高い史料は棟札の「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」という記事であり、能除は参仏理大臣(みふりのおとど)とも呼ばれたという『記紀』には見えない伝承ではないでしょうか。これらを九州王朝説の視点で考察すれば、九州年号「勝照四年」(588年)で記録された原伝承があり、その人物は能除あるいは参仏理大臣と呼ばれていたとできそうです。しかも、六世紀末頃の出羽地方が舞台であることを考慮すれば、倭国(九州王朝)から蝦夷国領域への仏教東流伝承の一つではないかと思われます。
 エビデンスが少なく、わたしの勉強不足もあり、まだ断定できる状況ではありませんが、蝦夷国研究のための一つの作業仮説として提示します。

(注)
①「出羽三山神社」ホームページ>御由緒>羽黒派古修験道>開祖・能除仙(のうじょせん)。
 http://www.dewasanzan.jp/publics/index/75/
②『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。
③大友義助「出羽三山・鳥海山の山岳伝承」(五来重編『修験道の伝承文化』名著出版、1981年)に「出羽国羽黒山建立之次第」が紹介され、その奥書には「永禄三年庚申霜月上旬」(1560年)の年次があるとのこと。

 


第2794話 2022/07/22

羽黒山開山伝承と「勝照四年」棟札との齟齬

 「洛中洛外日記」2792話(2022/07/20)〝失われた棟札、「勝照四年戊申」銘羽黒山本社〟で紹介した「勝照四年戊申」棟札は慶長十一年(1606年)の修造時に作られたもので、同時代「九州年号棟札」ではありません。しかしながら、羽黒山開山伝承が後世の改変を受けていたことを証言する貴重な史料のようです。このことについて説明します。
 羽黒山神社は崇峻天皇の皇子(蜂子皇子=能除大師)が開基したと伝わっています。羽黒三山神社のホームページ(注①)では次のように説明されています。

〝開祖・能除仙(のうじょせん)
 出羽三山を開き、羽黒派古修験道の開祖である能除仙は深いベールに包まれた人である。社殿に伝わる古記録では、能除は『般若心経』の「能除一切苦」の文を誦えて衆生の病や苦悩を能く除かれたことから能除仙と呼ばれ、大師・太子とも称された。またそれとは別に参仏理大臣(みふりのおとど)と記されたものもあり、意味は不明であるがその読み方から神霊に奉仕する巫とする見方もあった。
 江戸初期、羽黒山の別当であった宥俊や弟子の天宥は、能除が第32代崇峻天皇(~592)の太子であると考え、つてを求め朝廷の文書や記録の中にその証拠となる資料を求めたところ、崇峻天皇には蜂子皇子と錦代皇女がおられたことが判明し、能除仙は蜂子皇子に相違ないと考えるようになる。その頃から開祖について次のように語られるようになる。父の崇峻天皇が蘇我馬子(~626)に暗殺され、皇子の身も危うくなり、従兄弟の聖徳太子(574~622)の勧めに従い出家し斗擻の身となって禁中を脱出し、丹後の由良の浜より船出して日本海を北上し鶴岡市由良の浜にたどり着く。そこで八人の乙女の招きに誘われ上陸し、観音の霊場羽黒山を目指す。途中道に迷った皇子を三本足の八咫烏が現れ、羽黒山の阿古屋へと導く。そこで修行された後羽黒山を開き、続いて月山を開き、最後に湯殿山を開かれた。この日が丑年丑日であったことから、丑年を三山の縁年とするというものである。さらに、文政六年(1823)覚諄別当は開祖蜂子皇子に菩薩号を宣下されたいと願い出て、「照見大菩薩」という諡号を賜った。それ以後羽黒山では開祖を蜂子皇子と称し、明治政府は開祖を蜂子皇子と認め、その墓所を羽黒山頂に定めた。〟

 この解説によれば、「開祖・能除仙」が羽黒山に到着したのは崇峻天皇(~592)暗殺後となりますが、棟札(注②)に記された「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」(588年)では暗殺の四年前となり、年次が矛盾します。そこで注目されるのが、「江戸初期、羽黒山の別当であった宥俊や弟子の天宥は、能除が第32代崇峻天皇(~592)の太子であると考え、つてを求め朝廷の文書や記録の中にその証拠となる資料を求めたところ、崇峻天皇には蜂子皇子と錦代皇女がおられたことが判明し、能除仙は蜂子皇子に相違ないと考えるようになる。その頃から開祖について次のように語られるようになる。」という記事です。
 この説明通りであれば、能除を崇峻天皇の太子としたのは江戸初期からとなり、それ以前は別の〝本来の伝承〟があったのではないでしょうか。棟札の成立が慶長十一年(1606年)の修造時ですから、本来の伝承の一端が「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」として記録されたと思われるのです。この二つの開山伝承の齟齬は重要です。(つづく)

(注)
①「出羽三山神社」ホームページ>御由緒>羽黒派古修験道>開祖・能除仙(のうじょせん)。
 http://www.dewasanzan.jp/publics/index/75/
②『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。