古賀達也一覧

第3210話 2024/01/28

「新年の読書」二冊目、

  清水俊史『ブッダという男』(2)

 清水俊史『ブッダという男』(注①)には、次の解説がカバーに記されており、著者の主張や学説的立ち位置が概観できます。

 「ブッダは本当に差別を否定し万人の平等を唱えた平和主義者だったのか? 近代の仏教研究は仏典から神話的装飾を取り除くことで、ブッダを平和主義者で、階級差別や男女差別を批判し、業や輪廻を否定した先駆的人物として描き出してきた。だがそれは近代的価値観を当てはめ、本来の内容を曲解したものにすぎない。では、ブッダの真の偉大さは一体どこにあるのか。これまでのブッダ理解を批判的に検証し、初期仏典を丹念に読みとくことでその先駆性を導き出す革新的ブッダ論。」

 同書は昨年12月10日に発行され、本年1月15日には第二刷が出ていますから、一般読者向けのブッダ論の本(ちくま新書)でありながら、かなり難解な内容であるにもかかわらず、このペースで売れていることに驚きました。

 わたしの同書購入動機は、倭国の仏教受容期研究で、仏典に見える女人救済思想と、「変成男子」という女性蔑視を前提とした救済方法の解釈が、現代日本人の価値観や男女平等主義に基づいていることに違和感を感じていたことにありました。その問題意識を「洛中洛外日記」でも次のように表現してきました(注②)。

 〝現代人の人権感覚からすると、女性が救済(福音書:天国に入る。仏典:成仏する。)されるためには男性にならなければならないという、なんとも屈折した方法であり、これは女性蔑視が前提となった思想です。キリスト教学では、このことをどのように説明しているのかは、不勉強のため知りませんが、仏教研究においては中村元氏が原始経典を根拠に、釈迦の言動を次のように説明をしています。

 「このように婦人蔑視の観念に、真正面から反対していることもあるが、或る場合には一応それに妥協して実質的に婦人にも男子と同様に救いが授けられるということを明らかにしている。そのために成立したのが「男子に生まれかわる」(変成男子)という思想である。この思想はすでに原始仏教時代からあらわれている。」中村元『原始仏教 その思想と生活』NHKブックス、1970年、177頁。

 おそらく、キリスト教も仏教も女性蔑視の時代や社会の中で生まれた宗教ですから、このような「変成男子」思想が必然的に発生したのではないでしょうか。そうであれば、その当時の女性たちは「変成男子」思想を現代人の人権感覚のように女性差別思想(宗教)として退けるのではなく、自らを救済する思想(宗教)として、すがるような気持ちで受容したのではないかとする視点での検証も必要です。その時代の人々の認識を再認識するというのが、古田先生が採用したフィロロギーという学問なのですから。〟「洛中洛外日記」2764話〝「トマスによる福音書」と仏典の「変成男子」思想 (2)〟

 このような漠然とした初歩的な問題意識から、実証的でより深い考察に進むために、清水俊史さんの『ブッダという男』は、初期仏典やブッダが生きた時代のインドの思想状況を知るうえで、とても参考になりました。(つづく)

(注)
①清水俊史『ブッダという男 ――初期仏典を読みとく』筑摩書房、2023年12月。
②古賀達也「洛中洛外日記」2763~2774話(2022/06/15~25)〝「トマスによる福音書」と仏典の「変成男子」思想 (1)~(8)〟


第3209話 2024/01/27

「新年の読書」二冊目、

  清水俊史『ブッダという男』(1)

 この年末年始は、『倭国から日本国へ』(『古代に真実を求めて』27集、明石書店)の編集や『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)の執筆、福岡市と京都市での講演会が重なり、毎年恒例としていた「新年の読書」は『松本清張全集33』(注①)の一冊にとどまっていたのですが、ようやく二冊目の清水俊史『ブッダという男』(注②)を読み始めることができました。

 著者の清水俊史さんは新進気鋭の若手仏教研究者で、自著(注③)出版に当たり東京大学の某教授らから圧力があり、そのことがアカハラとしてマスコミから注目されたこともありました。それが古田先生の『親鸞思想』出版妨害事件(注④)と似ていたことから、同書を「新年の読書」の一冊に選びました。「あとがき」には、アカハラの経緯や著者の苦渋が次のように赤裸々に綴られています。

 「(前略)大学教職に就きたければ出版は諦めろと警告された。(中略)その頃の私は任期付きの研究職にすぎず、立場の弱い者は見殺しにされる現実に打ちひしがれ、筆を折った。(中略)
これまでの研究人生を振り返ると、艱難辛苦が続き、とうとう世俗の栄達には恵まれなかったが、それでも私を応援してくださる声に与ったことは、仏教者として誠に幸いである。才がありながらも十全に開花させる機会を与えられずに消えていった者たちの無念さは如何ばかりであろうか。
菩提資糧に励む名もなき菩薩たちに本書を捧げたい。」

 「新年の読書」にこの本を選んだのには、もう一つ理由がありました。それは、釈迦を「男女平等主義者」とする近年の研究動向に疑義を抱いていたわたしに、一つの〝明解〟を与えてくれそうな予感があったからです。(つづく)

(注)
①松本清張『古代史疑・古代探求 松本清張全集33』文藝春秋、1974年。
古賀達也「洛中洛外日記」3196~3198話(2024/01/07~09)〝新年の読書、松本清張「古代史疑」 (1)~(3)〟
②清水俊史『ブッダという男 ――初期仏典を読みとく』筑摩書房、2023年12月。
③清水俊史『上座部仏教における聖典論の研究』大蔵出版、2021年。
④古賀達也「洛中洛外日記」3094~3095話(2023/08/15~18)〝論文削除を要請された『親鸞思想』(1)~(2)〟


第3208話 2024/01/26

志賀海神社、七夕大祭の白龍伝説

志賀島を「龍の都」と詠う〝名にしほふ龍の都〟(注①)の由来を探したところ、志賀海神社の七夕大祭の縁起に「白龍」伝承があることを見いだしました。志賀島の行事や歴史を紹介した『志賀島の四季』(注②)に次の記事がありました。

「七夕大祭は六、七日と二日間のにぎわいで、(中略)神社の七夕縁起は星にかかわりはない。朱雀天皇の代(九三一~九四六年)に干ばつがあり、みかどは「照龍」の額を志賀海神社にささげて祈願すると、境内横を流れる竜大川(いまは天竜川と呼ぶ)から白龍が天に昇り、雨が降った。それが七月七日だった。いらい毎年祈念の祭りが行われている。朱雀帝筆の額は社宝として今も保存されている。〟212~213頁

この伝承が「龍の都」と関係するのではないかとする見解もあるようですが、この朱雀天皇伝承について他に史料根拠も見えず、雨乞いで龍が現れ、雨が降ったという伝承も史実とは考えにくく、また雨乞いが起源となって、その地を「龍の都」と呼ばれるのであれば、全国各地が「龍の都」だけらけになりかねません。しかし、そうしたこともなさそうですから、むしろ、当地が昔から「龍の都」と呼ばれていたので、こうした「白龍」伝説が誕生したのではないでしょうか。もしかすると、九州年号の「朱雀」年間(684~685年)に志賀海神社で雨乞いが行われたという伝承が、「朱雀天皇」の頃の雨乞いとして伝えられたのではないでしょうか。それにしても不思議な伝承です。

(注)
① 「名にしほふたつの都の跡とめて なミをわけゆくうミの中道 (細川)玄旨」『新修福岡市史 資料編中世1 市内所在文書』「東区志賀海神社文書 九―二(掛軸一―二)細川幽斎(藤孝)和歌短冊」、191頁。福岡市史編集委員会、平成二二年。
②森山邦人・光安欣二『志賀島の四季』九州大学出版会、1981年。


第3207話 2024/01/25

『東日流外三郡誌の逆襲』

      の編集作業始まる

八幡書店から発行される『東日流外三郡誌の逆襲』も、わたしの序文と謝辞、八幡書店・武田社長とわたしの対談録を残し、他の全て原稿と画像を提出しました。武田社長からも好評価をいただき、編集作業が始まりました。武田社長からは励ましのお電話と厳しい修正要請が届き、原稿修正に追われています。刊行日程は未定ですが、東京と青森で出版記念講演会を開催できればと考えています。
同書の目次案と掲載原稿(予定)は次の通りです。執筆協力していただいた皆さんへのご報告とお礼を兼ねて紹介します。

『東日流外三郡誌の逆襲』の企画案 2024.01.25改訂
※●は八幡書店に提出済

Ⅰ 序
○東日流外三郡誌とは何か 古田史学の会 代表 古賀達也
●和田家文書研究のすすめ 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
●和田家文書を伝えた人々 秋田孝季集史研究会 会長 竹田侑子
●東日流の新時代を迎えて 弘前市議会議員 石岡ちづ子
●「東日流外三郡誌の逆襲」の刊行に寄せて 古田史学の会・仙台 原 廣通
○〔対談〕東日流外三郡誌の逆襲 八幡書店社長 武田崇元・古賀達也

Ⅱ 真実を証言する人々
●『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見― 古賀達也
●松橋徳夫氏(山王日吉神社宮司)の証言 古賀達也
●青山兼四郎氏(中里町)書簡の証言 古賀達也
●藤本光幸氏(藤崎町)の証言 藤本光幸
●白川治三郎氏(青森県・市浦村元村長)書簡の証言 古賀達也
●佐藤堅瑞氏(淨円寺住職・青森県仏教会元会長)の証言 古賀達也
●永田富智氏(北海道史編纂委員)の証言 古賀達也
●和田章子さん(和田家長女)の証言 古賀達也

Ⅲ 偽作説への反証
●知的犯罪の構造 ―偽作論者の手口をめぐって― 古賀達也
●実在した「東日流外三郡誌」編者 ―和田長三郎吉次の痕跡― 古賀達也
●伏せられた「埋蔵金」記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同― 古賀達也
●和田家文書に使用された和紙 古賀達也
●和田家文書裁判の真相 付:仙台高裁への陳述書2通 古賀達也

Ⅳ 資料と遺物の紹介
●和田家文書の戦後史 ―津軽の歴史家、福士貞蔵氏の「証言」― 古賀達也
●昭和二十六年の東奥日報記事 古賀達也
●昭和三一~三二年の青森民友新聞に連載 古賀達也
大泉寺の開米智鎧氏「中山修験宗の開祖役行者伝」十一月一日~翌年二月十三日まで六八回、「中山修験宗の開祖文化物語」六月三日まで八十回の連載の紹介。
●佐藤堅瑞『金光上人の研究』の紹介 古賀達也
●開米智鎧「藩政前史梗概」と『金光上人』の紹介 古賀達也
●石塔山レポート 秋田孝季集史研究会

Ⅴ 和田家文書から見える世界
●宮沢遺跡は中央政庁跡 安彦克己
●二戸(にのへ)天台寺の前身寺院「浄法寺」 安彦克己
●中尊寺の前身寺院「仏頂寺」 安彦克己
●『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る 安彦克己
●浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
●浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って— 安彦克己
●大神(おおみわ)神社の三つ鳥居の由来 秋田孝季集史研究会 事務局長 玉川 宏
●田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その1 皆川恵子
●秋田実季の家系図研究 冨川ケイ子

Ⅵ 資料編
●和田家文書デジタルアーカイブへの招待 多元的古代研究会 藤田隆一
●役の小角史料「銅板銘」の紹介 古賀達也

Ⅶ あとがき
●「東日流外三郡誌」の証言 ―令和の和田家文書調査― 古賀達也
●新・偽書論 「東日流外三郡誌」偽作説の真相 日野智貴
○謝辞 ―和田家文書史料批判の視点― 古賀達也


第3206話 2024/01/24

好評! 本出ますみさんの新春講演

 わが国を代表するウールクラッサー(羊毛鑑定士)の本出ますみさんを講師に招いて、キャンパスプラザ京都で開催した新春古代史講演会は五十余名の参加があり、盛況でした。講師の本出さんが持ち込まれた羊毛フェルトや花氈(かせん)も大好評でした。本出さんのファンで古代史講演会は初めての方も多く、そのため、わたしの講演では初心者向けの解説を加え、内容も一部変更しました。参加された「古田史学の会」会員の小島さん(宝塚市)からもメッセージが届きましたので、その応答をご紹介します。

 【以下転載】
小島様
新春講演会にお越しいただき、ありがとうございました。古代史の講演を聞くのは初めてという参加者が多かったようですので、初心者向けの話から始めました。会員の方には面白くなかったかもしれず、申し訳ございませんでした。(古賀達也)

 古賀様
メールをありがとうございました。羊、ウール、フエルトの話は大変面白かったです。ウールと羊毛は同じと思っていましたが、直毛?がありその下にウールがある(鳥に例えるなら羽とダウン)とか、カシミアはフエルトにはならないとか、世界各地に羊の固有種がいるのに、日本にはいないことなど初めてのことなので驚きもありました。見ることの難しい正倉院内部の写真とかも初見でした。

 また発掘の話ですが、神域を掘るのは難しそうで大変でしょうが、早く掘れる機会が訪れればと思います。基本的な話は自分の地固めになりますので、自分には結構よかったと思っています。初心をよく忘れますので。
【転載おわり】

 本出さんとは現役時代からのお付き合いで、わたしがウールやポリアミド用染料の開発・マーケティングを担当していたことが御縁となり、知り合いました。そのおり、本出さんが正倉院調査に参加されていたことを知り、その内容を「古田史学の会」で講演してほしいと、五年前ほどからお願いしてきました。調査内容の公表には正倉院を管理する宮内庁の了承が必要とのことで、この度ようやく講演していただくことができました。当初、講演の写真撮影・ネット配信はNGとのことでしたが、宮内庁の承認を得ていただき、写真撮影がOKとなりました。

 聞けば、本出さんの叔父様が正倉院の所長だったとのことで、正倉院を護るために正倉院近くの官舎で暮らし、緊急時に備え、正倉院展などで国宝や文化財を倉から出すときは、その一週間前から禊ぎをして臨まれたそうです。こうした人々に護られて、正倉院は今日まで遺ったことを知り、感動しました。本出さんには講演会後の懇親会にも参加していただき、歓談が続きました。あらためて感謝いたします。

 本出さんとわたしの講演テーマは次の通りでした。
〔第一講演〕本出ますみさん 正倉院花氈の素材の定説がくつがえる ―それはカシミヤではなくウールだった―

https://www.youtube.com/watch?v=GoR9DbWtGHY&t=4s

〔第二講演〕古賀達也 吉野ヶ里出土石棺と卑弥呼の墓 ―国内史料に見える卑弥呼伝承―

https://www.youtube.com/watch?v=FfvudMFs6bs

2024.02.05 YouTube講演を作成しました。
竹村氏が、本出ますみ氏に講演を公開することに了解を得ました。
古田史学会インターネット事務局が,講演記録を一本化し、サムネイルとチャプターを設置しました。


第3205話 2024/01/20

「春日なる三笠山」

 福岡県東部の立花山説

 本日、 「古田史学の会」関西例会が開催されました。次回、2月例会の会場は都島区民センターです。西村秀己さんが『古代に真実を求めて』27集全原稿のゲラ校正で多忙のため、代わってわたしが司会を担当しました。

 関西例会でインターネット配信を担当されている久冨直子さん(『古代に真実を求めて』編集部)が初めて例会で発表されました。テーマは、『古今和歌集』の阿倍仲麻呂の歌に詠まれている「春日なる三笠山」を福岡県東部(福岡市東区・糟屋郡)の立花山(367m)とする新説で、大原さんとの共同研究とのこと。

「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に(を) 出でし月かも」
※『古今和歌集』古写本(注①)には「三笠の山を」とあり、月が三笠山から出ると歌っている。流布本では「三笠の山に」と改定されている(注②)。

 通説では奈良県の御蓋(みかさ)山(283m)としますが、この山では低すぎて、月は後方の春日山連峰(600~700m)から出ることから、古田先生は太宰府の東にある宝満山(869m、旧名三笠山)とする説を発表し(注③)、以来、古田学派内では最有力説とされてきました。

 今回の久冨さんの発表では、奈良県の御蓋山説は当然ダメだが、立花山であれば、博多湾岸の海の中道の付け根付近から見ると、三つの峰(東から松尾山・白岳・立花山)が並んで見え、〝三笠〟山と呼ぶにふさわしい。その点、宝満山は〝三笠〟山と呼べるような姿ではないとしました。なるほど一理ある指摘なので、この立花山説は検討に値する新説と思いました。これからの論争や検証により、歴史の真実へと研究が収斂することを期待しています。

 ちなみに、久冨さんの説明によれば、「古田史学の会」案内リーフレットの写真は、立花山上空から見た博多湾とのことです。

1月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔1月度関西例会の内容〕
①懐風藻が記すもう一つの史実 (茨木市・満田正賢)
②大きな勘違いだった古代船「なみはや」の復元 (大山崎町・大原重雄)
③春日なる三笠山は福岡県東部の立花山か (京都市・久冨直子)
④令和六年、年頭の挨拶 (代表・古賀達也)
⑤『日本書紀』中の「オホキミ」と「オホゴオリ」 (東大阪市・萩野秀公)
⑥秦王国は九州の都である 『隋書』帝紀の「倭」を発見 (姫路市・野田利郎)
⑦梁・職貢図の本の紹介 (神戸市・谷本 茂)
⑧野田氏の「邪靡堆」論考への幾つかの疑問 (神戸市・谷本 茂)
⑨多利思北孤の仏教振興と「仏教治国策」 (川西市・正木 裕)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
02/17(土) 会場:都島区民センター

(注)
①延喜五年(905)に成立した紀貫之編纂『古今和歌集』は、貫之による自筆本が三本あったとされるが現存しない。しかし、自筆本あるいは貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)にて校合した二つの古写本の存在が知られている。前田家尊経閣文庫所蔵『古今和歌集』清輔本(保元二年、1157年の奥書を持つ)と京都大学所蔵の藤原教長著『古今和歌集註』(治承元年、1177年成立)である。清輔本は通宗本(貫之自筆本を若狭守通宗が書写したもの)を底本とし、新院御本で校合したもので、「みかさの山に」と書いた横に「ヲ」と新院御本による校合を付記している。教長本は「みかさの山を」と書かれており、これもまた新院御本により校合されている。これら両古写本は、「みかさの山に」と記されている流布本(貞応二年、1223年)よりも成立が古く、貫之自筆本の原形を最も良く伝えている。
②古賀達也「『三笠山』新考 ―和歌に見える九州王朝の残映―」『古田史学会報』43号、2001年。同98号(2010年)に再掲。
同「三笠の山をいでし月 ―和歌に見える九州王朝の残映―」『九州倭国通信』193号、2018年。
同「洛中洛外日記」1842話(2019/02/20)〝九州王朝説で読む『大宰府の研究』(6)〟
同「洛中洛外日記」2825・2828話(2022/09/03~06)〝阿部仲麻呂「天の原」歌異説 (1)~(2)〟
③古田武彦『古代史の十字路』東洋書林、平成十三年(2001年)。ミネルヴァ書房より復刻。

 


古田史学の会 豊中倶楽部自治会館 2024.1.20

2024年 1月度関西例会発表一覧
(ファイル・動画)

YouTube公開動画①②です。

1,懐風藻が記すもう一つの史実
(茨木市・満田正賢)

https://www.youtube.com/watch?v=3bzOp2wWtak

https://www.youtube.com/watch?v=-Kt6gGuKap0

2,大きな勘違いだった古代船「なみはや」の復元
(大山崎町・大原重雄)

https://www.youtube.com/watch?v=-mmSKQyz-_0

https://www.youtube.com/watch?v=Z7ELSWwYwJA

3,春日なる三笠山は福岡県東部の立花山か
(京都市・久冨直子)

https://www.youtube.com/watch?v=jU52kT38ilA

https://www.youtube.com/watch?v=CdUjV5MIPE8

4,令和六年、年頭の挨拶 (代表・古賀達也)

https://www.youtube.com/watch?v=sQRW09NpUoM

5,『日本書紀』中の「オホキミ」と「オホゴオリ」 (東大阪市・萩野秀公)

https://www.youtube.com/watch?v=BmNhyZ44PnM

6,秦王国は九州の都である
『隋書』帝紀の「倭」を発見(姫路市・野田利郎)

https://www.youtube.com/watch?v=0D9Qo5gUm68

7,梁・職貢図の本の紹介 (神戸市・谷本 茂)

なし

8、野田氏の「邪靡堆」論考への幾つかの疑問
(神戸市・谷本 茂)

なし

9,多利思北孤の仏教振興と「仏教治国策」
(川西市・正木 裕)

https://www.youtube.com/watch?v=iGOYpP7Ki2U

https://www.youtube.com/watch?v=SgFla8kI55Q


第3204話 2024/01/19

〝名にしほふ龍の都〟の由来

 『新修福岡市史 資料編中世1 市内所在文書』に次の細川幽斎(藤孝)の和歌が掲載されています(注①)。

「名にしほふたつの都の跡とめて
なミをわけゆくうミの中道  (細川)玄旨」

 「本短冊は『九州道の記』の記述から天正十五年五月のものと考えられる。」との説明文が付記されています。天正十五年は西暦1587年に当たり、当時、志賀島や当地を含む領域がその昔に「たつ(龍)の都」と呼ばれていたことがうかがえます。

 「名にしほふ、たつ(龍)の都」とあることから、〝あの有名な「龍の都」という名前〟の〝跡をとめて〟、〝波をわけ行く海の中道〟という意味と解せます。
細川幽斎(1534~1610年)は戦国武将であり、当時一流の歌人としても知られています。その幽斎が志賀島を訪れたときにこの和歌を詠んだとされていることから、当地が「龍の都」と呼ばれていたことを前提としてこの和歌が詠まれたと考えざるを得ません。しかし、この和歌以外に志賀島が「龍の都」と呼ばれていた史料が見つかりません。例えば『万葉集』には志賀島を歌ったものがありますが、その地を「龍の都」とするものは見えません。

 この和歌の〝名にしほふ龍の都〟の一節から、『古今和歌集』や『伊勢物語』の次の和歌を思い出しました。

「名にし負はば いざ事問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」
(『伊勢物語』九段、『古今和歌集』にも収録)

 この歌は在原業平の作と伝えられており、「都鳥」の名を持つ鳥が詠み込まれています。通説ではこの都鳥をユリカモメとしますが、当時、平安京(京都)にユリカモメはいなかったと考えられています。そこで、冬になると博多湾岸に飛来する千鳥科の都鳥のこととする説をわたしは発表しました(注②)。細川幽斎の「龍の都」、在原業平の「都鳥」、そして「漢委奴国王」金印、これら全てが博多湾の志賀島という接点を有しており、それは偶然の一致ではなく、九州王朝の都が当地にあった痕跡と思われます。(つづく)

(注)
①『新修福岡市史 資料編中世1 市内所在文書』「東区志賀海神社文書 九―二(掛軸一―二)細川幽斎(藤孝)和歌短冊」、191頁。福岡市史編集委員会、平成二二年。
②古賀達也「洛中洛外日記」1550話(2017/12/08~)〝九州王朝の都鳥〟
同「洛中洛外日記」2231~2258話(2020/09/15~10/11)〝古典の中の「都鳥」(1)~(5)
同「古典の中の「都鳥」考」『九州倭国通信』202号、2021年。


第3203話 2024/01/18

新春古代史講演会で花氈・フェルトを展示

 新春古代史講演会(1月21日(日)、キャンパスプラザ京都)のレジュメ印刷を本日行いました。今朝も参加問い合わせの電話が4名の方からあり、前評判は良いようです。

 講師の本出ますみさんも、当日は花氈(かせん)やウールフェルトの現物を会場に持ち込み、参加者に見ていただくとのことで、意欲満々です。これらは滅多に見る機会がないと思います。講演内容も初めて一般に公表されるもので、正倉院を管理している宮内庁の了解がようやく得られたものです。

 わたしの講演では、邪馬壹国の女王卑弥呼のお墓について、考古学や現地伝承に基づき、最有力候補地を紹介します。多くの皆さんのご参加をお待ちしています。

__________________________________

新春古代史講演会 2024年1月21日(日)
第一講演13:40〜15:00
正倉院花氈の素材の定説がくつがえる — それはカシミヤではなくウールだった 本出ますみ
https://www.youtube.com/watch?v=GoR9DbWtGHY&t=4s

第二講演15:10〜16:30
吉野ヶ里出土石棺と卑弥呼の墓 ―国内史料に見える卑弥呼伝承 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=FfvudMFs6bs

2024年1月21日(日)
会場:キャンバスプラザ京都 5階演習室
主催古田史学の会
協力:市民古代史の会・京都/古代大和史研究会/和泉史談会/古代史水曜セミナー/市民古代史の会・八尾

2024.02.05 YouTube講演を作成しました。
竹村氏が、本出ますみ氏に講演を公開することに了解を得ました。
古田史学会インターネット事務局が,講演記録を一本化し、サムネイルとチャプターを設置しました。


第3202話 2024/01/17

『倭国から日本国へ』の

     表紙デザイン検討中

 現在、『古代に真実を求めて』27集の四月発刊を目指して初校ゲラ校正作業を進めています。同書のタイトルは編集部が提案した『倭国から日本国へ』とすることで明石書店と合意し、表紙デザインについて明石書店と相談してきました。写真の使用権承諾手続きや、なかなか良い写真が見つからないことなどの問題もあって難航しましたが、ようやく第二案で合意方向となり、明石書店の担当部署で検討が続けられています。

 第一案は、平城京出土の「隼人の盾」を表紙デザインとして使用するものでしたが、第二案は『旧唐書』日本国伝版本の「日本國者倭國之別種也」の部分をデフォルメ・強調し、表紙の背景に使用するデザインです。特集テーマが、倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交代ですので、そのことを象徴したデザインにしたいと考えた結果のアイデアです。明石書店でのデザイン作成と同社ボードの決裁がおりれば正式決定となります。刊行までもう一息です。価格や発行日が決まれば、改めて報告します。なお、同27集は「古田史学の会」2023年度の賛助会員(年会費5000円)には、本年四月頃に本会より発送予定です。ご期待下さい。


第3201話 2024/01/16

『九州倭国通信』No.213の紹介

友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.213を14日の講演会のおりにいただきました。同号には拙稿「孝徳紀・天智紀・天武紀の倭京」を掲載していただきました。『日本書紀』に見える「倭京」とは、九州王朝の倭京(太宰府)や東都難波京、あるいは通説の「飛鳥京」とするのか、『日本書紀』編者の認識に迫った論稿です。これは王朝交代期の権力構造や、九州王朝(倭国)と大和朝廷(日本国)との力関係をどのように理解するのかという、古田学派での最新研究テーマに関わる問題提起であり、まだ結論が出たわけではありません。
また、今村義則さんの「天子と九州年号」や鹿島孝夫さんの「隋使は阿蘇山を見なかった」など、九州王朝研究に関する論稿が掲載されていました。その結論への賛否は別にして、こうした研究論文を興味深く拝読しました。「九州古代史の会」の研究者との学問交流が進めばと願っています。


第3200話 2024/01/15

志賀島は〝たつの都〟

 昨日は九州古代史の会の月例会で講演させていただきました。テーマは「吉野ヶ里出土石棺と卑弥呼の墓」と「九州年号金石文・棟札の紹介」です。会場のももち文化センターで50名ほどの参加者に聞いていただきました。発表の概要については同会機関紙『九州倭国通信』に投稿予定です。

 当地へは前日(13日)に入りましたが、大学受験期間と重なり、福岡市内のホテルが満室のため、新幹線で一駅手前の小倉で一泊しました。当日は会場近くの藤崎駅に三時間ほど早く到着しましたので、隣接する図書館で郷土資料を閲覧しました。同会の講演会に参加するときは、この図書館で時間待ちを兼ねて当地の歴史資料を読むことにしており、数々の知見に触れることができ、重宝しています。今回も思わぬ「発見」ができました。

 『新修福岡市史 資料編中世1 市内所在文書』(福岡市史編集委員会、平成二二年)という分厚い本を読んでいたら、次の不思議な和歌に目がとまりました。

「名にしほふたつの都の跡とめて
なミをわけゆくうミの中道  (細川)玄旨」

 同書「東区志賀海神社文書」191頁に見える「九―二(掛軸一―二)細川幽斎(藤孝)和歌短冊」で、「本短冊は『九州道の記』の記述から天正十五年五月のものと考えられる。」との説明文が付記されています。天正十五年は西暦1587年に当たり、当時、志賀島や当地を含む領域がその昔に「たつの都」と呼ばれていたことを示唆しています。

 わたしはこの和歌のことを初めて知ったのですが、当地が「たつの都」と呼ばれていたなどとは全く知りませんでした。当然、九州王朝説の視点に立てば、九州王朝の都がこの領域にあった時代(邪馬壹国時代から古墳時代前期頃)がありますから、当地がその時代に「たつの都」と呼ばれていた可能性があることに、理屈の上ではなります。そこで、細川幽斎の和歌以外の史料に同様の痕跡が遺されていないかWEB検索しましたが、この和歌以外にはヒットしませんでした。

 本件については調査を続けますが、実は九州王朝の都の名前はほとんど分かっていません。卑弥呼の都が博多湾岸(中枢領域は比恵那珂遺跡・須玖遺跡)の邪馬壹国にあったことは倭人伝に見えますが、その都が何とよばれていたのかは未詳です。七世紀初頭には、『隋書』俀国伝に「都於邪靡堆」とありますが、「邪靡堆(ヤヒタイ)」が都の名称ではなく、地名の可能性も高く、断定出来ません。七世紀前半には太宰府条坊都市が成立したと考えられ、九州年号の「倭京」(618~622年)の存在から、同都市は「倭京」と呼ばれていたと理解できますが、それを和訓で何と呼んでいたのかは諸説あり、検討が必要です。古田説では「倭」を「ちくし」と理解していますから、「ちくしの京(みやこ)」と呼ばれていたとすることもできそうです。七世紀中頃(652年)には、両京制(注)を採用した九州王朝の東都「難波京(前期難波宮)」が造営されており、恐らく「なにわの都」と呼ばれていたと推定しています(太宰府条坊都市は「西都」)。

 他方、大野城から出土した木柱に「孚石都」と読める文字が刻まれていることから、その読解が正しければ、大野城下に広がる太宰府条坊都市が「うきいしの都」と呼ばれていたかもしれません。また、この刻字を「孚右都」と読む説を飯田満麿氏(古田史学の会・元副代表、故人)が発表しています。それであれば、「ふゆの都」と読めそうです。

 このように、九州王朝(倭国)の都の名前の候補として、「たつの都」(龍の都)について研究したいと思います。九州王朝の故地にはまだまだ多くの九州王朝の痕跡や史料が眠っているのではないでしょうか。

(注)隋や唐が長安(西都)と洛陽(東都)の両京制を採用した時期があり、その制度に倣って、九州王朝(倭国)は天孫降臨以来の「伝統と権威の都」として筑前太宰府に「西都」を、評制による全国支配を行うための「権力の都」として難波に「東都」を置く、両京制を採用したとする仮説をわたしは次の論稿で発表した。
○「洛中洛外日記」2675話(2022/02/04)〝難波宮の複都制と副都(4)〟
○「洛中洛外日記」2735話(2022/05/02)〝九州王朝の権威と権力の機能分担〟
○「柿本人麿が謡った両京制 ―大王の遠の朝庭と難波京―」 『九州王朝の興亡』(『古代に真実を求めて』二六集、二〇二三年)
○「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」『多元』176号、二〇二三年。


第3199話 2024/01/12

古田史学の万葉論 (5)

  ―天香具山豊後説の論証―

 古田万葉論の中でも、際だった新説が天香具山=豊後国の鶴見岳説でした。従来の万葉学では、天香具山とあれば大和飛鳥の香具山のこととして歌を解釈してきました。その結果、万葉歌(巻一、二番歌)に見える天の香具山はかなり無理無茶な解釈が横行していました。

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鷗(かまめ)立ち立つ うまし国そ 蜻蛉(あきづ)島 大和の国は 《『万葉集』巻一、二番歌》

 古田先生は万葉歌理解の基本的認識に基づいて、「歌」と「題詞」を切り離し、「歌」そのものの内容から、この歌の舞台を豊後の別府湾近辺(旧名は『和名抄』に「海部郡 安萬」とある)とされ、天の香具山を鶴見岳(標高1375m)とする新説に至りました。詳細は『古代史の十字路』(注①)の第三章「豊後なる『天の香具山』の歌」に記されていますので、興味のある方は同書をご覧下さい。古田先生の疑問点は次のようでした。

〈1〉「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山」とあるが、大和の他の諸山と比べて、飛鳥の香具山は特段に「群山あれど とりよろふ」(意味不詳)と歌うほどの特徴ある山ではない。むしろ周囲との比高約50メートルに過ぎない低山(標高152メートル)である。従って、同歌の「天の香具山」を奈良県飛鳥の香具山とするのは無理だ。
〈2〉しかも、飛鳥の香具山は、「天の香具山 登り立ち 国見をすれば」とあるような、国見をするに相応しい山とは言い難い。
〈3〉「海原は 鷗(かまめ)立ち立つ」とあるのも、不審。香具山に登っても海は見えないし、鷗が飛んでいるとも思えない。奈良盆地に海はなく、当地で詠めるような内容ではないのだ。従来の解釈では、「鷗」をユリカモメのこととするが、様々な池で「鷗」の存在を歌う例は『万葉集』にはない。
〈4〉従来説では、「海原」を香具山の近くの埴安池(1200㎡)と解釈するが、そのような〝ため池〟を「海原」と歌う例も『万葉集』にない。

以上のことから、この歌の「天の香具山」は奈良県飛鳥の香具山ではないとされ、この歌の情景に相応しい地を探されました。そして、次の論証と傍証により、豊後の鶴見岳が最も相応しいとする仮説に至ります。

〈5〉「天の香具山」とあることから、そこは「アマ」と呼ばれた領域である。
〈6〉「蜻蛉(あきづ)島 大和の国は」とあり、これは『古事記』の国生み神話に出現する「大倭豊秋津島」ではないか。「豊」は豊国であり、大分県。秋津は「安岐」の津であり、別府湾に相当する。豊後国の古名が「安萬(あま)」である。こうしたことを『盗まれた神話』(注②)で論証した。別府市内には「天間(あまま)区」(旧、天間村)という地名もある。
〈7〉「海原は 鷗(かまめ)立ち立つ」という表現も別府湾岸であれば、問題ない。
〈8〉この地であれば、別府温泉の湯が「煙」となって立ち上っており、「国原は 煙立ち立つ」という表現がピッタリである。
〈9〉当地には国見をするに相応しい山がある。鶴見岳だ(標高1375メートル)。「天の香具山 登り立ち 国見をすれば」と歌われているように、「国見」が可能な名山である。更に、別府市天間区には「登り立(のぼりたて)」という小字地名も遺存しており、鶴見岳を「天の香具山」とする理解の傍証となっている。
〈10〉鶴見岳には「火男火女(ほのおほのめ)神社」があり、ご祭神は主に「火(ほ)の迦具土(かぐつち)命」である。「火(ほ)」は鶴見岳が火山であることに由来し、「土(つち)」は「津」(港)の「ち」(神の古名)を意味する。語幹は「迦具(かぐ)」であり、この神を祭る鶴見岳は「天(安萬)の香具(かぐ)山」と呼ばれるに相応しい。

 古田先生の論証は更に詳細を究めるのですが、これほどの論証を尽くして、 「天の香具山」豊後国鶴見岳説を提唱されたのです。従来の万葉学では、「天の香具山」とあれば条件反射の如く、奈良県飛鳥の香具山と理解し、それにあわせるためには無理無茶な解釈もいとわなかったことと比べれば、古田万葉論がいかに学問的に優れた、ある意味で極めて常識的・合理的な文献理解に立ったものであるかがわかります。

 この「天の香具山」多元説が一旦成立すると、『万葉集』などに見える「天の香具山」が、どの山を指しているのかという基本作業(史料批判)が全ての研究者に要求され、新たな万葉学(文献史学としての万葉歌の新解釈)がここから成立します。まさに〝新時代の万葉学〟誕生です。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代史の十字路 ―万葉批判―』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『盗まれた神話 記・紀の秘密』朝日新聞社、昭和五十年(一九七五)。ミネルヴァ書房より復刻。