古賀達也一覧

第3184話 2023/12/20

古田史学の万葉論 (1) 序

 先日の「古田史学の会」関西例会で発表された、大原重雄さんによる万葉28番歌の新解釈(注①)を発端として、「洛中洛外日記」で同28番歌の拙論(注②)などを紹介しました。良い機会でもあり、古田先生の万葉論の再勉強を兼ねて、古田史学における『万葉集』批判や学問の方法などについて紹介することにします。

 わたしの見るところ、古田学派における『万葉集』研究には優れた論稿もありますが、他方、「ああも言えれば、こうも言える」(注③)ような論者の主観に基づく解釈に終始し、学問的論証の成立が不十分不適切な論稿も少なくないように思われます。わたし自身も、古田万葉論は難解で、若い頃は十分に理解できませんでした。今でも、歌の主観的解釈と、学問としての客観的解釈の区別を曖昧に理解しているケースがあり、『万葉集』を文献史学のエビデンスとして使用することの難しさを感じています。

 そこで、古田万葉三部作(注④)を紐解きながら、古田万葉論について一つずつ勉強しなおします。長い連載となりそうですが、しばらくお付き合いください。(つづく)

(注)
①大原重雄〝持統の「白妙の衣」は対馬の鰐浦の白い花のこと〟「古田史学の会」関西例会、12月16日。久冨直子さんとの共同研究。
古賀達也「洛中洛外日記」3181話(2023/12/17)〝万葉28番歌の新解釈〟
②同「洛中洛外日記」3183話(2023/12/19)〝「春過ぎて夏来たるらし」の“季語(風物詩)”〟
③中小路俊逸氏(追手門学院大学教授・国文学。故人)の言葉「ああも言えれば、こうも言えるというようなものは論証ではありません」がある。
古賀達也「洛中洛外日記」1427話(2017/06/20)〝中小路駿逸先生の遺稿集が発刊〟
④古田武彦『人麿の運命』原書房、平成六年(一九九四)。ミネルヴァ書房より復刻。
同『古代史の十字路』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。
同『壬申大乱』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。


第3183話 2023/12/19

「春過ぎて夏来たるらし」の

      〝季語(風物詩)〟

 先日の「古田史学の会」関西例会で、大原さんの発表〝持統の「白妙の衣」は対馬の鰐浦の白い花のこと〟にて紹介された、『万葉集』28番歌の「~らし」の用法についての毛利正守氏の研究(注①)は特に勉強になりました。

 春過ぎて夏来たるらし 白たえの衣ほしたり 天の香具山

 毛利論文によれば、「春過ぎて夏来たるらし」の「らし」に続く言葉として、春が過ぎて夏が来たことを象徴する自然物でなければならず、『万葉集』に見える「~らし」の用法全14首において、28番歌を除く13首が自然物「梅の花、木末(こぬれ)、鶯、霞、なでしこの花、ひぐらし」であるのに対して、この28番歌だけが季節感に乏しい「白妙の衣」であり、特異な一首とされています。

 こうした視点での史料批判が萬葉学の分野でなされていることを知り、わたしが25年前に発表した同歌の解釈「染色化学から見た万葉集 紫外線漂白と天の香具山」(注②)も、同様の問題意識に端を発していたことを改めて認識することができました。拙論では、同歌を初夏の風物詩となっていた「白妙の衣の紫外線漂白(晒し)」の歌としました。すなわち、「~らし」の用法に対応する初夏の風物詩(自然物ではないが、初夏のおとずれを表す古代の人々の営み)と理解するものです。当仮説は繊維加工の業界紙『月刊加工技術』(注③)にも掲載されましたので、転載します。

(注)
①毛利正守「持統天皇御製歌 巻一・二十八番歌をめぐって」『万葉』211号、萬葉学会、2012年。
②古賀達也「染色化学から見た万葉集 — 紫外線漂白と天の香具山」『古田史学会報』26号、1998年。
③同「古代のジャパンクオリティー2 万葉集の中の紫外線漂白」『月刊加工技術』6月号、2015年。

【転載】古代のジャパンクオリティー 2

万葉集の中の紫外線漂白

古賀達也(古田史学の会・編集長)

 万葉集には天皇から庶民に至るまでの歌が約4500首以上も収録されている。しかもその歌の意味がわたしたち現代人にも理解できるというのだから、これはすごいという他ない。世界的に見ても、古代(8~9世紀)の言葉や歌が21世紀の国民にも理解できるというのは奇跡的であろう。これは日本列島では言語を異にする異民族による侵略支配という歴史がなかったことによる。周囲を海に囲まれ、交流が可能な程度に大陸とは適度に離れており、かつ国民性が穏やかで国土も豊かだったのである。
その万葉集に繊維漂白(晒し)の歌があることをご存知だろうか。たとえば次の歌だ。

 多摩川に さらす手作りさらさらに 何ぞこの児の ここだ愛(かな)しき  武蔵の国の歌(3373番歌)

 大意は、多摩川に晒す手作りの布がサラサラと美しく流れるように、なぜこの娘がこんなにかわいいのだろうか、というもの。川で麻布を晒す作業をしている乙女が何と可愛いことかと、男性が女性を想う歌と解されている。多摩川での晒し作業は、調布とか麻布という地名が今も残っているように、古代から盛んであった。
次の歌も有名だ。持統天皇(女帝、在位690~697年)が飛鳥の藤原宮で詠んだ歌とされる。

 春過ぎて 夏きたるらし 白たえの 衣ほしたり 天の香具山  持統天皇(28番歌)

 国文学界では「春が過ぎたら夏が来るのは当たり前、くどい」と酷評されることもある歌だ。しかし、繊維加工という視点から見ると、古代のジャパンクオリティーを読み込んだ名歌となる。なぜならこの歌は単に洗濯物を干している歌ではない。洗濯するのに季節は関係ないのに、わざわざ「春過ぎて 夏来るらし」と季節を限定しているのには理由があるはずだ。すなわち、その時季に行う紫外線漂白(晒し)の歌なのである。

 紫外線エネルギーは色素を分解するため、染色された衣服にとって好ましくない。しかし、白い衣服であれば適切な量の紫外線により漂白効果が得られる。その適切な量の紫外線こそ、「春過ぎて夏来るらし」の頃の太陽光なのだ。夏の強烈な日射しでは強すぎるし、水分蒸発も早すぎて、紫外線エネルギーによるオゾン発生の前に衣は水分を失ってしまう。だから、この季節が最も紫外線漂白に適していることを古代の人々は経験的に知っていたのだ。

 こうした科学的理解に立ったとき、先の万葉歌は古代人の知恵を読み込んだ、絶妙の歌として蘇る。なお、藤原宮からは香具山は遠すぎて、干した衣など見えないので、この歌は藤原宮で持統天皇が詠んだものではないとする説もある(古田武彦説)。


第3182話 2023/12/18

『東日流外三郡誌の逆襲』の企画案

 『古代に真実を求めて』27集の編集作業も峠を越えて、年末年始にかけて初校ゲラ校正へと進みます。27集は掲載論文が増えましたので、増ページになる見通しです。2023年度賛助会員(年会費5000円)の皆様には、来春(4月頃)には発送できるかと思います。ご期待下さい。

 併行して進めている『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)も依頼原稿が続々と届いており、わたしもリライトを含め原稿執筆に取りかかります。企画構成の見直しも行っており、現状では下記のような案で進めています。こちらも来春頃に刊行できればと考えていますが、八幡書店とも相談しながら、後世に残る一冊にしたいと願っています。

【企画案】
Ⅰ 序
○東日流外三郡誌とは何か 古田史学の会 代表 古賀達也
○和田家文書を伝えた人々 秋田孝季集史研究会 会長 竹田侑子
○東日流の新時代を迎えて 弘前市議会議員 石岡ちづ子
○「東日流外三郡誌の逆襲」の刊行に寄せて 古田史学の会・仙台 原 廣通
○〔対談〕東日流外三郡誌の逆襲 八幡書店 社長 武田崇元・古賀

Ⅱ 真実を証言する人々
○『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見― 古賀達也
○松橋徳夫氏(山王日吉神社宮司)の証言
○青山兼四郎氏(中里町)書簡の証言
○藤本光幸氏(藤崎町)書簡の証言
○白川治三郎氏(青森県・市浦村元村長)書簡の証言
○佐藤堅瑞氏(淨円寺住職・青森県仏教会元会長)の証言
○永田富智氏(北海道史編纂委員)の証言
○和田章子さん(和田家長女)の証言

Ⅲ 偽作説への反証
○知的犯罪の構造 ―偽作論者の手口をめぐって― 古賀達也
○『東日流外三郡誌』の考古学 古賀達也
○伏せられた「埋蔵金」記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同― 古賀達也
○和田家文書に使用された和紙 古賀達也
○和田家文書に使用された美濃和紙 竹内強
○「偽書」を論ず ―「東日流外三郡誌」偽作説の本質―(仮題) 日野智貴
○和田家文書裁判の真相 付:仙台高裁への陳述書2通 古賀達也

Ⅳ 資料と遺物の紹介
○『東日流外三郡誌』公開以前の史料 古賀達也
○『飯詰村史』(昭和二五年)に掲載された和田家文書
○福士貞蔵「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」『陸奥史談』(昭和二六年)で発表された和田家史料
○福士貞蔵文庫に収録された和田家史料
○昭和二十年代の東奥日報記事
○昭和三一~三二年の青森民友新聞に連載
大泉寺の開米智鎧氏「中山修験宗の開祖役行者伝」十一月一日~翌年二月十三日まで六八回、「中山修験宗の開祖文化物語」六月三日まで八十回の連載の紹介。
○佐藤堅瑞『金光上人の研究』の紹介
○開米智鎧『金光上人』の紹介
○石塔山レポート 秋田孝季集史研究会

Ⅴ 和田家文書から見える世界
○宮沢遺跡は中央政庁跡 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
○二戸(にのへ)天台寺の前身寺院「浄法寺」 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
○中尊寺の前身寺院「仏頂寺」 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
○『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
○浅草キリシタン療養所の所在地 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
○浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って— 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
○大神(おおみわ)神社の三つ鳥居の由来 秋田孝季集史研究会 事務局長 玉川 宏
○田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その1 皆川恵子
○秋田実季の家系図研究 冨川ケイ子

Ⅵ 資料編
○和田家文書デジタルアーカイブへの招待 多元的古代研究会 藤田隆一
○役の小角史料「銅板銘」全文の紹介

Ⅶ あとがき
○「東日流外三郡誌」の証言 ―令和の和田家文書調査― 古賀達也
○謝辞 ―和田家文書史料批判の視点― 古賀達也


第3180話 2023/12/13

律令に遺る多元的「天皇」号 (3)

 九州王朝時代の七世紀において、九州王朝の天子の下に複数の「天皇」が併存したと考えているのですが、大和朝廷の律令にもその痕跡が遺っていることに気づきました。『養老律令』儀制令の次の条文中に見える「太上天皇」です(注①)。

『養老律令』儀制令 天子条
天子。祭祀に称する所。
天皇。詔書に称する所。
皇帝。華夷に称する所。
陛下。上表に称する所。 太上天皇。譲位の帝に称する所。 乗輿。服御に称する所。 車駕。行幸に称する所。

 大和朝廷において、天子・天皇・皇帝・陛下の使い分けを規定した条文です。そこには、譲位した天皇に「太上天皇」という天皇号の使用を認めています。しかし、「太上天子」や「太上皇帝」「太上陛下」という使用は定めず、天皇号にのみ「太上天皇」を認めているのです。すなわち、譲位された天皇と譲位した太上天皇という、複数の「天皇」の併存を律令で想定しているのです。これは不思議な規定であり、七世紀における複数の天皇の併存、すなわち「天皇」は複数いてもよいという政治思想を背景を持つことによるのではないでしょうか。

 ちなみに唐の儀式書『大唐開元礼』(732年成立)には次の規定があります。

『大唐開元礼』巻三、「序例、雑制」
「皇帝。天子。夷夏通じて之を称す。 陛下。対揚咫尺上表通じて之を称す。 至尊。臣下内外を通じて之を称す。 乘輿。服御称するところ。 車駕。行幸称するところ。」

 『養老律令』儀制令に似ていますが、決定的に異なるのは、唐では最高権力者としての皇帝・天子はただ一人で、譲位した前皇帝は〝凡人〟となります。比べて『養老律令』では、太上天皇として権力の座に留まります。後代には、上皇として〝院政〟を行い、ときに天皇を超える権力者として振る舞うこともありました。これはわが国の特徴的な制度であり(注②)、七世紀における九州王朝下の〝天子の臣下としての多元的「天皇」の併存〟に淵源を持つものと思われるのです。

 更に、『大唐開元礼』「序例、雑制」には見えない天皇号の規定を持つことや、皇帝ではなく天子を冒頭に置き、その役割を「祭祀に称する所」に限定していることも注目されます。この点についても検討を続けたいと思います。(おわり)

(注)
①『養老律令』儀制令 天子條【原文】
天子。祭祀所稱。
天皇。詔書所稱。
皇帝。華夷所稱。
陛下。上表所稱。 太上天皇。讓位帝所稱。 乘輿。服御所稱。 車駕。行幸所稱。
②滝川政次郎『律令の研究』(昭和六年、1931年)に同様の指摘があり、本稿執筆に当たり示唆を受けた。


第3179話 2023/12/12

城崎温泉にて ―温泉神と宗像三女神―

 今日は朝から家族めいめいに好きな外湯(注①)めぐりです。わたしは城崎文芸館を見学してから、「海内第一泉」の石碑がある「一の湯」(注②)に入りました。午後は「御所の湯」に入る予定です。古田先生も温泉がお好きだったようで、信州松本での講演のおり、当地の浅間温泉に入ることを楽しみにしておられました。先生は富士乃湯を定宿にしておられ、「この湯に一回入ると、寿命が一年延びる」と言っておられたのを、城崎の温泉に浸かりながら思い出しました。

 文芸館で購入した『城崎物語 改訂版』(注③)によれば、城崎温泉の発見譚を舒明天皇の頃とする史料は、城崎の旧家に伝わる『温泉寺縁起』の異本『曼荼羅記』などで、「舒明元年(629年)」に大谿(おおたに)川の渓谷に濁った熱い湯が見つかったと記されているらしい。舒明元年(629年)は九州年号の仁王七年己丑に当たり、原史料には「仁王七年己丑」などとあったのではないでしょうか。

 わたしがこのように考える理由は、論理上の問題として、『日本書紀』成立以前において、年次を記述する方法は、干支か九州年号か中国の年号を用いるしかありません。干支では六十年毎に繰り返しますから、古い時代の年次表記には不向きです。九州年号の場合は、九州年号が使用されていた時代であればピンポイントで年次を特定できますから、今回のケースでは最も適しています。九州年号より前の時代であれば、中国の年号で代用するしかありませんが、歴代中国王朝の年号一覧のような史料が必要です。

 他方、兵庫県北部には九州年号で年次を記した「赤渕神社縁起」のような古い史料があり、七世紀において、当地域で九州年号が使用されていた可能性は高いと判断しています(注④)。

 もう一つ、城崎には興味深い伝承がありました。「御所の湯」のお隣にある「四所神社」のご祭神が「湯山主神」「多岐津媛神」「多紀理媛神」「市杵島媛神」の四柱であり、当地の温泉の神様と宗像三女神が祀られているのです。この由緒はまだ調べていませんが、北部九州の神様が祀られていることは、九州王朝の当地への影響と考えることもできそうです。なお、城崎温泉の発見を養老四年(720年)とする伝承もありますが(注⑤)、別途、論じる機会を得たいと思います。

(注)
①城崎温泉には各旅館の「内湯」とは別に七つの「外湯」がある。「さとの湯」「地蔵湯」「柳湯」「一の湯」「御所の湯」「まんだら湯」「鴻の湯」。
②江戸時代の医師、香川修庵が「天下一の湯」と推奨したことが「一の湯」の由来。
③『城崎物語 改訂版』神戸新聞但馬総局編、2005年。
④「赤渕神社縁起」には九州年号「常色(647~651年)」「朱雀(684~685年)」が見える。次の拙論を参照されたい。
「赤渕神社縁起の表米宿禰伝承」『倭国古伝』(『古代に真実を求めて』22集)明石書店、2019年。
⑤『温泉寺縁起』に記されたもので、当地を訪れた道智上人が養老四年に温泉を発見したとする伝承。


第3178話 2023/12/11

城崎温泉にて ―神の鳥と狗奴國―

 今日は城崎温泉で最も源泉に近い「鴻の湯」に浸かりました。塩味がする透明な良い湯でした。現地伝承では、舒明天皇の時代、傷ついたコウノトリが山中の池で湯浴みしているのを見た村人により、温泉が発見されたとのこと。これが史実を反映した伝承であれば、「舒明天皇の時代(629~641年)」とあることから、本来は当時の九州年号「仁王」「僧要」「命長」(注①)によりその年代が伝えられ、後世になって『日本書紀』紀年に基づき、「舒明天皇の時代」とする表記に変えられたものと思われます。

 温泉街を散策していて、コウノトリの本来の意味は「神(こう)の鳥」ではないかと思いつきました。神戸(こうべ)の神(こう)です。この思いつきが当たっていれば、城崎温泉は神様が遣わした鳥により発見されたことになりそうです。

 そんな思いつきを妻と娘に話していて、あることに気づきました。『三国志』倭人伝に見える、卑弥呼の邪馬壹国を中心とする倭国と対立していた狗奴國とは、「神(こう)の国」ではなかったか。倭国と敵対した国であったため、獣偏の「狗」という卑字が用いられたと思われます。従って、本来の国名の意味は「神(こう)の国」ではないでしょうか。古田説によれば、狗奴国は銅鐸圏にあった国ですから、ここ城崎温泉は狗奴国そのものではなくても、位置的にはその勢力範囲内か、あるいは近傍の国だったように思います。倭人伝には傍国(注②)として「鬼(き)國」「鬼奴(きの)國」が見え、城崎(きのさき)地名と関係があるのかも知れません。ちなみに、豊岡市気比(けい)からは大正元年(1912年)に銅鐸四個が出土しています。

 このようなことをつらつらと城崎にて考えていますが、まだ学問的仮説には至らない思いつきですし、先行説があるかもしれません。

 なお、夕食はカニ料理で、これ以上は食べられないと思うほど。カニを食べました。日本近海にカニがいてくれてよかった。この国に生まれてよかったと思いました。カニとご先祖様に感謝です。

(注)
①舒明天皇時代の九州年号(『二中歴』による)。
西暦 九州年号 干支
629 仁王 7 己丑 舒明 1
630 仁王 8 庚寅 舒明 2
631 仁王 9 辛卯 舒明 3
632 仁王 10 壬辰 舒明 4
633 仁王 11 癸巳 舒明 5
634 仁王 12 甲午 舒明 6
635 僧要 1 乙未 舒明 7
636 僧要 2 丙申 舒明 8
637 僧要 3 丁酉 舒明 9
638 僧要 4 戊戌 舒明 10
639 僧要 5 己亥 舒明 11
640 命長 1 庚子 舒明 12
641 命長 2 辛丑 舒明 13
②倭人伝には次の傍国、狗奴国記事がある。
「其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。此女王境界所盡。
其南有狗奴國、男子爲王。其官有狗古智卑狗、不屬女王。」


第3177話 2023/12/11

律令に遺る多元的「天皇」号 (2)

 今日は、娘の仕事の日程調整ができたので、定年退職して初めての家族旅行です。城崎温泉に向かう特急きのさき5号の車中でこの「洛中洛外日記」を書いています。

 王朝交代(701年)前の七世紀において、九州王朝の天子の下に複数の「天皇」が併存したと考えた理由は、『日本書紀』に見えない天皇名(◎印)を含む次の「天皇」号史料の存在でした。

○用明~推古期(「歳次丙午年」586年) 「池邊大宮治天下天皇」「大王天皇」「小治田大宮治天下大王天皇」 法隆寺薬師如来像光背銘(注①。七世紀第4四半期頃の刻字か)
「大王天皇」という古い表現(大王)を持つ表記から、原文の成立は七世紀前半まで遡るものと思われる。

○敏達天皇(572~585年)「乎娑陀宮治天下天皇」 船王後墓誌(注②。戊辰年、668年成立)
墓誌の成立が七世紀第3四半期であり、当時、近畿天皇家は「天皇」号を九州王朝から許されていたことがわかる。

○推古天皇(592~628年)「等由羅宮治天下天皇」 船王後墓誌(同上)
同上。

○舒明天皇(629~641年)「阿須迦宮治天下天皇」「阿須迦天皇」 船王後墓誌(同上)
同上。

◎650・651年 「越智天皇」 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年成立) ※『日本書紀』に見えない。
「一帳像具脇侍菩薩八部等卅六像 右袁智天皇坐難波宮而、庚戌年(650)冬十月始、辛亥年(651)春三月造畢、即請者」とあり、「越智天皇」は、652年(壬子)に完成した前期難波宮造営に関わった有力者と思われる。『伊予三島縁起』に「孝徳天皇のとき番匠の初め。常色二年戊申(六四八)、日本国をご巡礼したまう。」という記事があり、伊予国(越智氏の本拠地)から、九州年号の常色二年(684)に難波に番匠(王宮などの造営技術者)を派遣したのが「袁智天皇」ではあるまいか。また、前期難波宮跡から「戊申年」木簡が出土しており、この記事の「常色二年戊申」と関係があるのではないかとする正木裕氏の指摘がある。(注③)

◎661年 「仲天皇」 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(同上) ※『日本書紀』に見えない。
同縁起の次の記事に「仲天皇」が見える。
「爾時後岡基宮御宇 天皇造此寺、司阿倍倉橋麻呂、穗積百足二人任賜、以後、天皇行幸筑志朝倉宮、將崩賜時、甚痛憂勅〔久〕、此寺授誰參來〔久〕、先帝待問賜者、如何答申〔止〕憂賜〔支〕、爾時近江宮御宇 天皇奏〔久〕、開〔伊〕髻墨刺〔乎〕刺、肩負鋸、腰刺斧奉爲奏〔支〕、仲天皇奏〔久〕、妾〔毛〕我妋等、炊女而奉造〔止〕奏〔支〕、爾時手拍慶賜而崩賜之」 ※〔〕内は小字。

 ここに見える「後岡基宮御宇天皇」は斉明、「近江宮御宇天皇」は天智とされる。「仲天皇」は自らを「妾」と称していることから、天智の皇后倭姫王とする説を喜田貞吉は唱えている。

 『養老律令』儀制令皇后条に「皇后・皇太子以下、率土の内は、天皇・太上天皇に上表するときには、臣妾名称すること(「臣」ないし「妾」と自称し、続けて自分の名を言う)。対揚(対面して称揚)するときには、名称すること。皇后・皇太子は太皇太后・皇太后に対して、率土の内は三后・皇太子に対して、上啓するときには、殿下と称すること。自称するときには、みな臣妾とすること。」とある。

◎666年 「中宮天皇」 野中寺彌勒菩薩像台座銘(注④) ※『日本書紀』に見えない。
「丙寅年四月大朔八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇~」の文字が見える。年代や名前から判断して、先の「仲天皇」と「中宮天衲」は同一人物の可能性がある。

○天武期 「天皇」木簡 飛鳥池遺跡(天武期の層位)出土
同遺跡から天武の子ら「大津皇子」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女)木簡も出土しており、この「天皇」は天武と解するのが妥当。

○697年 「大八島国所知天皇」「遠天皇祖御世」「天皇御子」「倭根子天皇命」「天皇大命」「天皇朝廷」 『続日本紀』文武天皇即位の宣命

 これら七世紀の「天皇」号史料によれば、近畿天皇家に限らず、天子の臣下としての「天皇」号を称することを九州王朝(倭国)は制度として採用していたのではないかとする仮説(多元的「天皇」の併存)に至ったのです。(つづく)

(注)
①法隆寺薬師如来像光背銘文。
「池邊大宮治天下天皇。大御身。勞賜時。歳
次丙午年。召於大王天皇與太子而誓願賜我大
御病太平欲坐故。将造寺薬師像作仕奉詔。然
當時。崩賜造不堪。小治田大宮治天下大王天
皇及東宮聖王。大命受賜而歳次丁卯年仕奉」
②船王後墓誌銘文。
(表) 「惟船氏故 王後首者是船氏中租 王智仁首児 那沛故 首之子也生於乎婆陁宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之朝天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第」
(裏) 「三殞亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故 戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自 同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊其牢固永劫之寶地也」
③正木裕「前期難波宮の造営準備について」『発見された倭京 太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)、2018年。
④野中寺彌勒菩薩像台座銘文(異説あり)。
「丙寅年四月大朔八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇大御身労坐之時 誓願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等 此教可相之也」


第3176話 2023/12/10

律令に遺る多元的「天皇」号 (1)

 七世紀において、九州王朝の天子の下に複数の「天皇」が併存したのではないかとする、多元的「天皇」という視点(作業仮説)を、近年、わたしは提起してきました(注①)。具体的には、『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年作成)に見える「仲天皇」と「越智天皇」に端を発し、七世紀、九州王朝の時代には近畿天皇家に限らず、多元的に「天皇」号を称することを九州王朝(倭国)は制度として採用していたのではないかとする作業仮説(多元的「天皇」併存試案)に至ったものです。そして、次の例をあげました。

(a) 野中寺彌勒菩薩像台座銘(注②)にある「中宮天皇」は近畿天皇家の天皇とは考えにくく、九州王朝系の女性天皇ではないか(注③)。

(b) 筑紫大宰府の他に「吉備大宰石川王」が『日本書紀』天武紀に見えるが、吉備にも「大宰」を名のることを九州王朝から許された「有力者(石川王)」がいた。そうであれば筑紫大宰と吉備大宰が併存していたことになり、「大宰」という役職が九州王朝下に多元的に併存していたことになる。

(c) 愛媛県東部の今治市・西条市に、「天皇」「○○天皇」地名や史料が遺っている(注④)。管見では、このような情況は他地域には見られず、この地域に「天皇」地名などが遺存していることには、何らかの歴史的背景があったと考えざるを得ないのではないか。

 このように、九州王朝の天子の下に、ナンバーツーとしての近畿の「天皇」が任命されていたとする古田旧説を援用・展開し、近畿以外にも「天皇」号を許された有力者がいたのではないかと考えたものです。

 そして、七世紀における複数の「天皇」の併存という九州王朝の制度が、王朝交代後の大和朝廷の律令にも遺されていたことを見いだしました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2996~3003話(2023/04/25~05/02)〝多元的「天皇」併存の新試案 (1)~(4)〟
同「洛中洛外日記」3024話(2023/05/26)〝多元的「天皇」併存の傍証「野間天皇神」〟
②同銘文は次の通り(異説あり)。
「丙寅年四月大朔八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇大御身労坐之時 誓願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等 此教可相之也」
③古賀達也「洛中洛外日記」327話(2011/07/23)〝野中寺弥勒菩薩銘の中宮天皇〟
同「洛中洛外日記」2332話(2020/12/24)〝「中宮天皇」は倭姫王か〟
④合田洋一『葬られた驚愕の古代史』(創風社出版、2018年)によれば、西条市明里川には字地名「紫宸殿」「天皇」がある。また、当地の文書『両足山安養院無量寺由来』には「長沢天皇」「長坂天皇」「朝倉天皇」が見え、当地の須賀神社祭神は「中河天皇」とのことである。
古賀達也「洛中洛外日記」3123~3127話(2023/09/25~30)〝『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える (1)~(3)〟
同「洛中洛外日記」3126話(2023/09/29)〝全国の「天皇」地名〟
同「洛中洛外日記」3136話(2023/10/15)〝九州と北海道に分布しない「テンノー」地名〟


第3175話 2023/12/09

大宰政庁Ⅱ期創建年代のエビデンス (3)

 大宰府政庁Ⅱ期の創建年代を通説では八世紀初頭としており、その根拠として、土器編年と出土木簡があります。土器編年は基本的に相対編年であるため、暦年とどのようにリンクできるのかという難題があります。そこで重要となるのが木簡の編年(年代観)です。

 政庁Ⅱ期北面築地塀の下層から出土した木簡に「竺志前」と書かれたものがあり(注①)、これは『大宝律令』により筑前と筑後に分割された筑前国を意味することから、同遺構の造営は『大宝律令』(701年成立)以後とされたのですが、この判断は正しいでしょうか。九州王朝説に基づく文献史学による研究では(注②)、九州島の九国への分国は、多利思北孤による七世紀初頭と考えていますが、考古学エビデンスによっても七世紀に遡ると考えています。その根拠は2012年に太宰府市から出土した戸籍木簡です(注③)。

 大宰府政庁の北西1.2kmの地点、国分寺跡と国分尼寺跡の間を流れていた川の堆積層上部から、「天平十一年十一月」(739年)の紀年が記されたものや、評制の時期(650年頃~700年)の木簡が出土しました。その中に、「嶋評戸籍」木簡と一緒に「竺志前國嶋評」と記された木簡がありました。わたしが最も注目したのは「竺志前國」の部分でした。「評」木簡ですから、700年以前ですが、更に「嶋評戸籍」木簡に見える位階「進大弐」は、『日本書紀』天武十四年条(685年)に制定記事があり、その頃の木簡と推定できます。従って、九州島の分国時期は遅くとも685年頃よりも前になります。そうすると、大宰府政庁Ⅱ期下層から出土した「竺志前」を『大宝律令』以後とする根拠が失われるのです。

 このように、政庁Ⅱ期造営を八世紀初頭としてきた根拠が失われたことにより、その造営は七世紀後半まで遡りうることになったわけです。そうすると、政庁Ⅱ期に先行し、七世紀末頃の造営(井上信正説)とされてきた太宰府条坊の年代は更に遡り、わたしの太宰府年代観(政庁Ⅰ期と条坊は七世紀前半~中頃、政庁Ⅱ期造営を670年頃とする)に近づきます。この理解が正しければ、太宰府地域の七世紀の須恵器編年も同様に繰り上がります。詳細な編年見直しには更なる研究が必要ですが、九州王朝の都、太宰府条坊都市の復元研究に大きく影響するものと考えています。(おわり)

(注)
①次の銘文を持つ木簡が出土している。
(表) 十月廿日竺志前贄驛□(寸)□(分)留 多比二生鮑六十具\鯖四列都備五十具
(裏) 須志毛 十古 割郡布 一古
②古賀達也「九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の成立」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
同「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
③当戸籍木簡には次の文字が記されている。
《表側の文字》
嶋評 戸主 建ア身麻呂戸 又附加□□□[?]
政丁 次得□□ 兵士 次伊支麻呂 政丁□□
嶋ー□□ 占ア恵□[?] 川ア里 占ア赤足□□□□[?]
少子之母 占ア真□女 老女之子 得[?]
穴□ア加奈代 戸 附有
《裏側の文字》
并十一人 同里人進大弐 建ア成 戸有一 戸主 建[?]
同里人 建ア昨 戸有 戸主妹 夜乎女 同戸有[?]
麻呂 □戸 又依去 同ア得麻女 丁女 同里□[?]
白髪ア伊止布 □戸 二戸別 戸主 建ア小麻呂[?]
(注記:ア=部、□=判読不能文字、[?]=破損で欠如)


第3174話 2023/12/07

大宰政庁Ⅱ期創建年代のエビデンス (2)

大宰府政庁Ⅱ期の創建年代を通説では八世紀初頭としており、自説(670年頃)とは約四半世紀以上の差がありました。わたしの知るところでは、通説の根拠と論理は次のようです。

(a) 政庁Ⅱ期整地層出土土器(須恵器坏Bなど)の編年が七世紀末から八世紀初頭であり、政庁の造営はそれ以後である。
(b) 同じく政庁Ⅱ期北面築地塀の下層から出土した木簡に「竺志前」と書かれたものがあり、これは『大宝律令』により筑前と筑後に分割された筑前国を意味することから、同遺構の造営は『大宝律令』(701年成立)以後となる。
(c) 政庁Ⅱ期に先行する太宰府条坊の成立が藤原京と同時期の七世紀末とされており、政庁Ⅱ期は八世紀初頭頃の造営となる。

上記の根拠のうち、特に重要なものは(b)の「竺志前」木簡です。この木簡が出土した層位は「大宰府史跡第二六次調査 B地点(第Ⅲ腐植土層)」とされるもので、政庁の築地下の北側まで続く腐植土層です。そこから次の「竺志前」木簡が出土しました。

(表) 十月廿日竺志前贄驛□(寸)□(分)留 多比二生鮑六十具\鯖四列都備五十具
(裏) 須志毛 十古 割郡布 一古

『大宰府政庁跡』(九州歴史資料館、二〇〇二年)では次のように解説しています。

「本調査で出土した木簡は、大宰府政庁の建物の変遷を考える上でも重要な材料を提示してくれた。これらの木簡の発見まで、政庁が礎石建物になったのは天武から文武朝の間とされてきたが、八世紀初頭前後のものと推定される木簡2の出土地点が、北面築地のSA505の基壇下であったことは、第Ⅱ期の後面築地が八世紀初頭以降に建造されたことを示している。この発見は大宰府政庁の研究史の上でも大きな転換点となった。そして、現在、政庁第Ⅱ期の造営時期を八世紀前半とする大宰府論が展開されている。」『大宰府政庁跡』422頁。

この「木簡2」が「竺志前」木簡です。こうした資料根拠(エビデンス)と論理(ロジック)により通説が成立しており、一見すると有力です。(つづく)


第3173話 2023/12/06

大宰政庁Ⅱ期創建年代のエビデンス (1)

 先月の「古田史学の会」関西例会で、わたしは七世紀の都城創建年代について解説し、そのなかで大宰府政庁Ⅱ期の創建を670年頃としたのですが、参加者からその根拠(エビデンス)について質問がありました。関西例会らしい鋭い質問でした。なぜなら通説では八世紀初頭とされており、自説とは約四半世紀以上の差があったからです。そこで、次のように説明しました。

(1) 政庁Ⅱ期に先行した掘立柱の政庁Ⅰ期(新段階)と条坊の造営が、文献史学の研究によれば七世紀前半~中頃と考えられることから(注①)、礎石造りで朝堂院様式の政庁Ⅱ期は七世紀後半の創建と見なせる。
(2) 政庁Ⅱ期と同時期の創建と考えられる観世音寺の創建瓦は老司Ⅰ式であり、同じく老司Ⅰ式・Ⅱ式の創建瓦を持つ政庁Ⅱ期の創建も観世音寺と同時期とできる(注②)。
(3) 老司Ⅰ式・Ⅱ式瓦の発生は七世紀後半と編年されている(注③)。
(4) 観世音寺の創建を「白鳳十年」(670年)とする九州年号史料が複数ある(注④)。
(5) 以上のことから判断して、大宰府政庁Ⅱ期の成立を670年頃とするのは妥当である。

 以上のように述べ、八世紀初頭とする通説の根拠についても説明しました。(つづく)

(注)
①古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年。『古代に真実を求めて』12集(明石書店、2009年)に収録。
正木裕「『太宰府』と白鳳年号の謎Ⅱ」『古田史学会報』174号、2023年。
古賀達也「洛中洛外日記」2955話(2023/03/01)〝大宰府政庁Ⅰ期の造営年代 (1)〟
②同「洛中洛外日記」814話(2014/11/01)〝考古学と文献史学からの太宰府編年(2)〟
③同「洛中洛外日記」1412話(2017/06/11)〝観世音寺・川原寺・崇福寺出土の同笵瓦〟
高倉彰洋「観世音寺伽藍朱鳥元年完成説の提唱 ―元明天皇詔の検討―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
古賀達也「洛中洛外日記」2082話(2020/02/12)〝高倉彰洋さんの「観世音寺伽藍朱鳥元年完成」説〟
④同「洛中洛外日記」405話(2012/04/18)〝太宰府編年の再構築〟
同「洛中洛外日記」458話(2012/08/25)〝『日本帝皇年代記』の九州年号〟
「観世音寺・大宰府政庁Ⅱ期の創建年代」『古田史学会報』110号、2012年。
「観世音寺考」『古田史学会報』119号、2013年。


第3172話 2023/12/05

空理空論から古代リアリズムへ (3)

 八王子セミナーでは「前期難波宮を九州王朝の王宮と決めつけないほうがよいのでは」という意見も出されましたが、その理由がわかりませんでした。というのも、評制が施行された七世紀中頃において、全国統治が可能な宮殿・官衙、その官僚と家族・従者、商工業者、防衛のための兵士ら数万人が居住可能な大都市は、前期難波宮と難波京しか出土していないというエビデンスに基づけば、九州王朝説を是とするのであれば当地を九州王朝複都と理解するしかないと、研究発表したばかりでしたからです。これ以上、どのように説明すれば納得していただけるのか迷いました。そこで、根拠もなく決めつけているわけではないことを改めて説明するために、全国的な戸籍である庚午年籍の造籍作業を例にあげました。

 通説では、庚午年籍は庚午の年(670)に近江朝廷(天智天皇)により造籍された、初めての全国的戸籍とされています。『大宝律令』などにより、庚午年籍は永久保管が全国の国司に命じられており、六年に一度造籍される戸籍の中でも、基本となる重要戸籍とされてきました。戸籍は三十年で廃棄することを律令で定めていますが、庚午年籍だけは永久保存せよと命じているのです。大寶二年七月にも庚午年籍を基本とすることを命じる詔勅が出されています(『続日本紀』)。更に時代が下った承和六年(839)正月の時点でも、全国に庚午年籍を書写し、中務省への提出を命じていることから(『続日本後紀』)、九世紀においても、庚午年籍が全国に存在していたことがうかがえます。

 この庚午年籍を九州王朝説の視点から見れば、白鳳十年庚午の年(670)に造籍された九州王朝の「白鳳十年籍」となります。もちろん造籍を命じたのは九州王朝の天子となります(注)。この全国的造籍作業には膨大な事務作業が必要であることは、容易に推定できるでしょう。

 まず、全国の国司・評督等に統一した書式と記載ルールに基づく造籍方法を伝達し、それに基づく戸籍が全国から都へと提出されます。都では中央官僚が大量の戸籍を整理保管し、それを〝基本台帳〟として、仕丁(労役)や兵士(徴兵)、そして租税などを計算し、全国各地に通達するという事務作業が続きます。恐らく、それら作業を担当した九州王朝の中務省などの役人は数百人に及ぶのではないでしょうか。

 そうした多数の中央官僚による造籍作業が可能な都城は前期難波宮しかありません。同時に官僚の家族、従者、商工業者、兵士等が居住できる大都市も難波京と太宰府条坊都市しかありません。ただし、太宰府条坊都市には、前期難波宮のような全国統治が可能な大規模宮殿・官衙がありませんから、庚午年籍の造籍作業は前期難波宮で行われたとするのが最も妥当なのです(九州島内九ヶ国の造籍作業などは、伝統的に太宰府の官僚が行ったかもしれない)。

 このように、庚午年籍の造籍という古代人が行う膨大な実務作業の現実(リアリズム)を考えたとき、前期難波宮「九州王朝複都」説が論理的(ロジカル)に導き出されるのです。わたしたち古田学派は空理空論をしりぞけ、古代のリアリズムで九州王朝史を復元しなければならないと思います。(おわり)

(注)正木裕説によれば、九州王朝系近江朝による造籍となる。
正木 裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年。

 古賀達也「九州王朝を継承した近江朝廷 ―正木新説の展開と考察―」『古田史学会報』134号、2016年。