古賀達也一覧

第2288話 2020/11/10

「中国」と「共和」の出典

 「中国」と「共和」といっても現代の中国共産党やアメリカ共和党の話しではなく、今回はその出典について紹介します。
 佐藤信弥さんの『周 ―理想化された古代王朝』(注①)で周の歴史を勉強しているのですが、「中国」という用語の初出史料について知ることができました。古代中国の青銅器に記された文字を「金文」と呼び、出土文献として研究対象とされています。その金文に周の第二代成王の時代の「何尊」(注②)と呼ばれるものがあり、それには「中国」の文字が記されており、「中国」という言葉の最古の用例とのこと。
 佐藤さんの解説では、「ここでの中国とは中央の地域というぐらいの意味で、成周周辺のごく狭い範囲を指していると思われる」とのことです。ちなみに、成周とは今の河南省洛陽市付近のようです。
 「共和」の出典はご存じの方も少なくないと思いますが、西周末期の〝暴君〟厲(れい)王に替わり、「共和の政」を行った共伯和(注③)にちなむものです。この「共和の政」は、共和十四年(前834)厲王の亡命先での死亡により宣王が即位し、終わります。なお、厲王(11代)・宣王(12代)・幽王(13代)と西周は続きますが、「共和の政」期間を含め、厲王元年から幽王の末年まで計百八年となり、古代においては長期の在位期間です(注④)。おそらく、ここにも二倍年暦(二倍年齢)の影響が及んでいるのではないでしょうか。

(注)
①佐藤信弥『周 ―理想化された古代王朝』中公新書、2016年。2018年。
②中国社会科学院考古研究所編『殷周金文集成(修訂増補本)』6014。中華書局、2007年。
③精華簡『繋年』による。
④伝世文献(『史記』など)によれば、在位期間は厲王37年、(共和)14年、宣王46年、幽王11年。


第2287話 2020/11/09

新・法隆寺論争(6)

九州王朝鎮魂の寺

法隆寺を「聖徳太子」一族と斑鳩在地氏族らの私的な寺とする若井敏明さんの法隆寺私寺説(注①)と国家(近畿天皇家)による官寺とする田中嗣人さんの説(注②)を紹介しましたが、両者とも天平年間以降は国家の特別な庇護を受けたとする点では共通しています。『法隆寺縁起并流記資財帳』に記された、「丈六仏像」への光明皇后らによる献納が「天平八年歳次丙子二月廿二日」に行われるなど、この時期から大和朝廷による施入が顕著になっていることなどが根拠となっています。
 わたしも同様の施入記事に基づき、拙稿「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」(注③)において、法隆寺を前王朝である九州王朝鎮魂の寺とする説を発表しました。
 釈迦三尊像光背銘に見える「上宮法皇」の命日〝法興三十二年(622年)二月廿二日〟は、『日本書紀』に記された「聖徳太子(厩戸皇子)」の命日〝推古二九年(621)二月五日〟とは異なることから、両者は別人です。また、同光背には母親の名前「鬼前太后」や妻の名前「干食王后」が記されていますが、「聖徳太子」の母親や妻はこのような名前ではありません。更に、「上宮法皇」の「法皇」とは仏門に入った天子を意味し、「法興」という年号も王朝の最高権力者の天子にしか作れません。「聖徳太子」はナンバーツーの「摂政」であり天子ではありませんし、「法興」という年号も持っていません。ですから、この「上宮法皇」を近畿天皇家の「聖徳太子」とすることは無理というものです。しかも、「聖徳太子」の命日や家族の名前は『日本書紀』に記されており、法隆寺で法会が行われた天平八年(736)は『日本書紀』が成立した720年のわずか16年後であり、『日本書紀』を編纂した大和朝廷の有力者たちがそのことを誰も知らなかったとは考えられません。
 したがって、光明皇后らは法隆寺や釈迦三尊像が九州王朝の寺院・仏像であることをわかったうえで、当時、大宰府官内から流行した天然痘の猛威を、滅び去った前王朝(九州王朝・倭国)の祟りと思い、その鎮魂のために「上宮法皇」の命日である天平8年の「二月二十二日」に法会を行い、多くの品々を献納したと思われるのです。古田説では、この釈迦三尊像は九州王朝の天子、阿毎の多利思北孤のためのものとされています(注④)。
 通説では、光背に記された〝法興三十二年(622年)二月廿二日〟を「聖徳太子」の没年月日としますが、それではなぜ『日本書紀』の記述と異なるのかについて合理的な説明ができません。田中さんの官寺説では、同じく官製史書『日本書紀』の記述と異なる理由が、ますます説明困難となります。(つづく)

(注)
①若井敏明「法隆寺と古代寺院政策」『続日本紀研究』288号(1994年)
②田中嗣人「鵤大寺考」『日本書紀研究』21冊(塙書房、1997年)
③古賀達也「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」『古代に真実を求めて』第十五集所収(明石書店、2012年)
④古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社 1985年。ミネルヴァ書房から復刻)


第2286話 2020/11/08

古田武彦先生の遺訓(11)

佐藤信弥さんの

『周 ―理想化された古代王朝』拝読

 今日は佐藤信弥さんの『周 ―理想化された古代王朝』(注①)を拝読しました。この本も『中国古代史研究の最前線』(注②)と同様に周史を研究する上で優れた入門書でした。しかも巻末の豊富な参考文献一覧は、わたしのような初学者にとって勉強の導き手となり、ありがたい配慮です。
 佐藤さんの学問的姿勢やお人柄によるものと思いますが、同書も先行説や異説の紹介がなされ、不明確なことや不安定な課題については、そのことをはっきりと示されており、周代史研究における到達点や弱点が読者にわかるように書かれています。このような執筆姿勢は研究者にとって、とてもありがたいことです。
 たとえば周代暦年研究に関わるテーマとして、第五代穆(ぼく)王について次のような記述があります。

 「厲(れい)王の時代から『史記』では周王の在位年数が明示されるようになる。それ以前の周王で在位年数が示されているのは第五代穆王の五十五年のみであるが、穆王の在位年数をめぐっては種々の議論がある。」121頁

 『史記』には穆王が五十歳で即位し、五十五年在位したとあることから、このような百歳を超える寿命記事を信頼できないため、「種々の議論」が発生しているものと思われます。古代中国史研究において、二倍年暦(二倍年齢)という概念(仮説)がないことに、問題の原因があるとわたしは考えています。(つづく)

(注)
①佐藤信弥『周 ―理想化された古代王朝』中公新書、2016年。2018年。
②佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年。


第2285話 2020/11/07

上方落語勉強会特別公演を拝見

 本日、ご近所の京都府立文化芸術会館ホールでの上方落語勉強会特別公演を見に行きました。同会館落成50周年の記念落語会です。もちろん一番のお目当ては桂米團治師匠。コロナ禍で客席も半数に減らされての公演でしたが、久しぶりに大笑いさせていただきました。
 米團治師匠には「古田史学の会」を何かと応援していただいていることもあり、京都市での落語会には都合がつく限り寄せていただいています。古田先生のファンでもある米團治師匠とは、忘れがたい出会いや想い出があるのですが、中でも古田先生最後の公の場となったKBS京都のラジオ番組「本日、米團治日和。」(注①)に古田先生とご一緒に出演させていただいたことは、今でも鮮明に記憶しています。その収録内容は『古代に真実を求めて』19集(古田史学の会編、明石書店。2016年)に掲載していますので、ご覧下さい(注②)。
ご高齢の古田先生の体調を気遣って、30分だけという約束での収録でしたが、先生はなんと2時間も米團治師匠との会話を続けられました。このときの様子が米團治師匠のオフィシャルブログに、次のように記されています。
 なお、公演での米團治師匠の落語は、素人目にもますます磨きがかかったもので、お顔もお父上の米朝師匠(人間国宝)に似てきたように思われました。

(注)
①2015年8月27日にKBS京都放送局で収録し、9月に三回に分けて放送された。その翌月の10月14日に古田先生はご逝去された。
②「古代史対談 桂米團治・古田武彦・古賀達也」(茂山憲史氏〔『古代に真実を求めて』編集部〕による抄録)

【桂米團治オフィシャルブログより転載】
2015.09.09《古田武彦さん登場 @KBS京都ラジオ》

 古田武彦さん──。知る人ぞ知る古代史学界の大家です。
 「いわゆる“魏志倭人伝”には邪馬台国(邪馬臺国)とは書かれておらず、邪馬壱国(邪馬壹国)と記されているのです。原文を自分の都合で改竄してはいけません。そして、狗耶韓国から邪馬壱国までの道程を算数の考え方で足して行くと、邪馬壱国は必然的に現在の福岡県福岡市の博多あたりに比定されることになります」という独自の説を打ち立て、1971(昭和46)年に朝日新聞社から『「邪馬台国」はなかった』という本を出版(のちに角川文庫、朝日文庫に収録)。たちまちミリオンセラーとなりました。
 その後、1973(昭和48)年には、「大宝律令が発布される701年になって初めて大和朝廷が日本列島を支配することができたのであり、それまでは九州王朝が列島の代表であった」とする『失われた九州王朝』を発表(朝日新聞社刊。のちに角川文庫、朝日文庫に収録)。
 1975(昭和50)年には、「『古事記』『日本書紀』『万葉集』の記述には、九州王朝の歴史が大和朝廷の栄華として盗用されている部分が少なくない」とする『盗まれた神話』を発表(朝日新聞社刊、のちに角川文庫、朝日文庫に収録)。
 いずれも記録的な売り上げとなりました☆☆☆
 実は、芸能界を引退された上岡龍太郎さんも、以前から古田学説を応援して来られた方のお一人。
 「古田史学の会」という組織も生まれ、全国各地に支持者が広がっています。
 が──、日本の歴史学会は古田武彦説を黙殺。この45年間、「どこの国の話なの?」といった素振りで、無視し続けて来たのです。
 しかし、例えば、隋の煬帝に「日出づる処の天子より、日没する処の天子に書を致す。恙無きや」という親書を送った人物は、「天子」と記されていることから、厩戸王子(ウマヤドノオウジ)ではなく、ときの九州王朝の大王であった多利思比孤(タリシヒコ…古田説では多利思北孤=タリシホコ)であったと認めざるを得なくなり、歴史の教科書から「聖徳太子」という名前が消えつつある今日、ようやく古田学説に一条の光が射し込む時代がやってきたと言えるのかもしれません^^;
 とは言え、古田武彦さんは大正15年生まれで、現在89歳。かなりのご高齢となられ、最近は外出の回数も減って来られたとのこと。なんとか私の番組にお越し頂けないものかなと思っていたところ──。
 ひょんなことから、「古田史学の会」代表の古賀達也さんにお会いすることができたのです(^^)/
 古賀達也さんのお口添えにより、先月、私がホストを勤めるKBS京都のラジオ番組「本日、米團治日和。」への古田武彦さんの出演が実現したという次第!
 狭いスタジオで、二時間以上にわたり、古代史に纏わるさまざまな話を披露していただきました(^◇^;)
 縄文時代…或いはそれ以前の巨石信仰の話、海流を見事に利用していた古代人の知恵、出雲王朝と九州王朝の関係、平安時代初期に編纂された勅撰史書「続日本紀」が今日まで残されたことの有難さ、歴史の真実を見極める時の心構えなどなど、話題は多岐に及び、私は感動の連続でした☆☆☆
 老いてなお、純粋な心で隠された歴史の真実を探求し続けておられる古田先生の姿に、ただただ脱帽──。
 古田武彦さんと古賀達也さんと私の熱き古代史談義は9日、16日、23日と、三週にわたってお届けします。
 水曜日の午後5時半は、古代史好きはKBSから耳が離せません(((*゜▽゜*)))
2015年9月9日 米團治


第2283話 2020/11/04

古田武彦先生の遺訓(9)

精華簡『繋年(けいねん)』の史料意義

 佐藤信弥さんは『中国古代史研究の最前線』(星海社、2018年)で、金文(青銅器の文字)による周代の編年の難しさについて、次のように指摘されています。

〝金文に見える紀年には、その年がどの王の何年にあたるのかを明記しているわけではないので、その配列には種々の異論が生じることになる。と言うより、実のところ金文の紀年の配列は研究者の数だけバリエーションがあるという状態である。〟108頁

 そのような一例として、「精華簡『繋年(けいねん)』」のケースについて紹介します。
 精華簡とは北京の「精華大学蔵戦国竹簡」の略で、精華大学OBから2008年に同大学に寄贈されたものです。2388点の竹簡からなる膨大な史料で、放射性炭素同位体年代測定法によると紀元前305±30年という数値が発表されています。ですから、出土後に散佚し、清代になって収集編纂された『竹書紀年』とは異なり、戦国期後半の同時代史料といえるものです。
 この精華簡のうち、138件からなる編年体の史書を竹簡整理者が便宜的に『繋年』と名付け、2011年に発表しました。西周から春秋時代を経て戦国期までおおむね時代順に配列されており、全23章のうち第1章から第4章までに西周の歴史が記されています。
 先の『中国古代史研究の最前線』によれば、従来、西周が東遷して東周となった年代は紀元前770年とされてきたのですが、この新史料『繋年』に基づいて次々と異説が発表されました。たとえば『繋年』の記事に対する解釈の違いにより、周の東遷年を前738年とする説(注①)や前760年とする説(注②)があり、「東遷の紀年や、『繋年』の記述をふまえたうえで、東遷の実相がどうであったかという問題は、やはり今後も議論され続けることになるだろう。」(注③)とされています。
 このように、二倍年暦(二倍年齢)という概念(仮説)を導入していない、学界の周代暦年研究は未だ混沌とした状況にあるようです。『史記』や『竹書紀年』『春秋左氏伝』などの史料事実(周王らの年齢・在位年・紀年など)をそのまま〝是〟とするような実証的手法では、結論は導き出させないのではないでしょうか。このことを改めて指し示した新史料『繋年』の持つ意義は小さくありません。
 なお、『繋年』については、小寺敦さんにより全章の原文と訓読、現代語訳などが発表されています(注④)。300頁近くの長文の論文ですので、少しずつ読み進めているところです。(つづく)

(注)
①吉本道雅「精華簡繋年考」『京都大学文学部研究紀要』第52巻、2013年。 
②水野卓「精華簡『繋年』が記す東遷期の年代」『日本秦漢史研究』第18号、2017年。
③佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年。167~168頁。
④小寺敦「精華簡『繋年』訳注・解題」『東洋文化研究所紀要』第170冊、2016年。


第2282話 2020/11/03

古田武彦先生の遺訓(8)

二倍年暦から一倍年暦への干支変換

 周代史料、たとえば『竹書紀年』や『春秋左氏伝』は一見すると一倍年暦で書かれていることから、後代の編纂作業時にその当時採用されていた一倍年暦に変換されているのではないかと、わたしは推定していました。しかしながら、日付干支や年干支の変換作業は暦法についての専門的な知識が必要ですから、かなり困難ではなかったかと漠然と思っていました。
 そのようなとき、周代暦年復元作業の協力要請をしていた西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から次のメールが届きました。

【二倍年暦を一倍年暦に改定する手法】
 添付のExcelのように、15日12月型の二倍年暦を一倍年暦に改定した場合、日付は例えば12月2日から6月17日に変わるが干支は「辛未」と変わらない。30日6月型の場合は例えば1月5日から7月5日に変えても干支は「戊子」と変わらない。つまり、もし甲申の日に日蝕があったのであれば、その日は概ね「朔」であるので(稀に「晦」や「二日」がある)どの暦でもその日は「一日」であって月が置き換わるだけで、干支は変更しない。従って、本来二倍年暦で記述されていたかもしれない「春秋」を後世一倍年暦に置き換えるのは、古賀さんが考えているより簡単だと思う。(西村秀己)

 添付されていたエクセルの表を見ないとわかりづらいかもしれませんが、二倍年暦から一倍年暦に変換する際、日付干支はそのままでよいとのことです(注)。もしかするとそうかもしれないと思ってはいたのですが、わたしは暦法に疎く、自信がありませんでした。
 西村さんの理解によれば、日付干支はそのままでよいわけですから、年干支と月日のみ改訂されているということになります。このような作業仮説に基づき、周代史料の史料批判をまずは行ってみるというアプローチがよさそうです。
 なお、古田先生の遺訓により、周代史料の二倍年暦による史料批判を試み、周代暦年復元のためのプロジェクトを立ち上げたいと考えています。ご協力いただけるプロジェクトメンバーを求めています。(つづく)

(注)1ヶ月15日×12ヶ月型の二倍年暦の場合、例えば12月2日は一倍年暦の6月17日に相当し、日付干支は同じ「辛未」で変わらない。
 1ヶ月30日×6ヶ月型の場合、例えば二倍年暦で二回目の1月5日を一倍年暦の7月5日に変換しても日付干支は「戊子」と変わらない。


第2278話 2020/10/30

『神皇正統記』の国号「日本」説

 今日、古書店で安価(注①)に『神皇正統記 増鏡』(日本古典文学大系、岩波書店)を入手し、読んでいます。『神皇正統記』は、後醍醐天皇に仕えた北畠親房が神代から後村上天皇までの歴史概略などを著したもので、中世の知識人における古代認識を調べるため、再読することにしました。
 同書には国号「日本」について次の解説があり、特に興味深く拝読しました。

 〝大倭ト云コトハ異朝ニモ領納シテ書傳ニノセタレバ此國ニノミホメテ偁スルニアラズ(大漢・大唐ナド云ハ大ナリト偁スルコヽロナリ)。唐書「高宗咸亨年中ニ倭國ノ使始テアラタメテ日本ト號ス。其國東ニアリ。日ノ出所ニ近ヲ云。」ト載タリ。此事我國ノ古記ニハタシカナラズ。推古天皇ノ御時、モロコシノ隋朝ヨリ使アリテ書ヲオクレリシニ、倭皇トカク。聖徳太子ミヅカラ筆ヲ取リテ、返牒ヲ書給シニハ、「東天皇敬(つつしみて)自(もうす)西皇帝。」トアリキ。カノ國ヨリハ倭ト書タレド、返牒ニハ日本トモ倭トモノセラレズ。是ヨリ上代ニハ牒アリトモミエザル也。唐ノ咸亨ノ比ハ天智ノ御代ニアタリタレバ、實(まこと)ニハ件ノ比ヨリ日本ト書テ送ラレケルニヤ。〟『神皇正統記 増鏡』43~44頁

 北畠親房は『新唐書』の記事を根拠に、天智天皇の頃から外交文書に「日本」という国号が使用され始めたと認識しています。もちろん一元史観に立った認識ですが、『日本書紀』などの国内史料だけではなく、中国史書をも根拠に仮説を提起しているわけで、この姿勢は学問的なものです。
 しかも、天智から「日本国」という国号使用を始めたという見解は、古田先生の「天智朝による日本国の創建」説(注③)に通じるものがあり、興味を持った次第です。(つづく)

(注)
①ご近所の枡形商店街の古書店では、お客が持参した本三冊を書店の本一冊と交換できるというサービスがあり、それを利用した。良い「買い物」をしたと笑顔で帰宅したら、同書が既に書棚にならんでいた。大昔に買った本の存在を忘れてしまい、最近、よく同じ本の二度買いをしている。二度買いした本三冊を、また別の本に交換するつもりである(嗚呼、情けなや)。
②古賀達也「洛中洛外日記」1664話(2018/05/04)〝もうひとつのONライン「日本国の創建」〟
古賀達也「洛中洛外日記」2184話(2020/07/13)〝九州王朝の国号(10)〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2228話(2020/09/08)〝文武天皇「即位の宣命」の考察(10)〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2229話(2020/09/09)〝文武天皇「即位の宣命」の考察(11)〟
③古田武彦「日本国の創建」『よみがえる卑弥呼』(駸々堂、1987年。ミネルヴァ書房より復刻)に次の記述がある。
 〝新羅本紀の「倭国更号、日本」記事の“発信地”は、当然ながら、日本国それ自身しかありえない。すなわち、天智朝である。その天智九年十二月のことであるから、その翌月たる天智十年正月に、“外国の使臣”を集めて「倭国の終結、日本国・開始」を宣言した、そのための連絡の情報、それがこの記事である。〟ミネルヴァ書房版273頁
 〝「倭国」が白村江で大敗を喫した「六六三」より七年目にして、天智天皇は、その「倭国」の滅亡と、「日本国」の“遺産相続”を宣告したのである。〟同275頁
 〝その二年後、それが今問題の「文武王十年」である。その十二月、他方の「残暴国」たる「倭国」の滅亡が、天智朝側からの宣言として通知され、新たに「日本国」の成立が告げられることになったのである。〟同278~279頁
 ここで古田先生が主張されている、天智十年(六七一)における倭国の滅亡と日本国の成立という仮説は、従来の古田説「七〇一年における倭国(九州王朝)の滅亡と日本国(大和朝廷)の成立」説とは相容れないものであったが、近年、正木裕氏が発表された「九州王朝系近江朝」説により、その先見性が明らかとなった。このことは、わたしが「洛中洛外日記」で示唆してきたところである。


第2277話 2020/10/29

辺境防備兵「戌人」木簡の紹介

 『古田史学会報』160号に掲載された山田春廣さんの論稿〝「防」無き所に「防人」無し〟によれば、「防人」は九州王朝(倭国)の畿内防衛施設「防」に配された守備兵とされ、他方、辺境防備の兵(さきもり)は「辺戌」と呼ぶのが適切とされました。そこで思い出したのですが、以前に読んだ木簡学会編『木簡から古代が見える』(岩波新書、2010年)に〝防人木簡〟の出土が次のように紹介されていました。

〝これまで防人に関する資料は、これらの「万葉集」の防人歌をはじめ、『続日本紀』や法令などに限られ、列島各地の発掘調査においても、なぜか防人に関する資料は全く発見されず、ほとんどその実態はわかっていなかった。
ところが、二〇〇四(平成一六)年、佐賀県の唐津湾に面した名勝「虹の松原」の背後の中原(なかばる)遺跡から“防人”木簡が全国ではじめて発見された。〟『木簡から古代が見える』88頁

 同書によれば、中原遺跡は肥前国松浦郡内にあり、魏志倭人伝にみえる末盧国の故地にあたります。古代から朝鮮半島に渡るための重要拠点とされています。出土した木簡は防人に関する名簿とのことですが、「防人」ではなく「戌人(じゅじん)」と書かれています。「延暦八年」(789年)とあることから8世紀末頃のものとされ、甲斐国から派遣された「東国防人」のことが記された名簿と見られています。

 この「戌人」木簡は、先の山田さんの考察が妥当であることを示しているようです。参考までに奈良文化財研究所「木簡データベース」から同木簡のデータを転載します。

【本文】・小長□部□□〔束ヵ〕○/〈〉□□∥○甲斐国□〔津ヵ〕戌□〔人ヵ〕○/不知状之∥\○□□家□□〔注ヵ〕○【「首小黒七把」】・○□□〈〉桑□〔永ヵ〕\【「□〔延ヵ〕暦八年○§物部諸万七把○§日下部公小□〔浄ヵ〕〈〉\○§□田龍□□〔麻呂ヵ〕七把§□部大前」】
【寸法(mm)】縦(269)・横(32)・厚さ4
【型式番号】081
【出典】木研28-212頁-(2)(木研24-153頁-(7))
【文字説明】裏面「首小黒七把」は表面の人名と同時に記されたかは不詳。
【形状】二度の使用痕残す。上端二次利用後さらに削って整形。左右二次利用後の削りヵ。
【遺跡名】中原遺跡
【所在地】佐賀県唐津市原字西丸田
【調査主体】佐賀県教育委員会・唐津市教育委員会
【遺構番号】SD502
【内容分類】文書
【国郡郷里】甲斐国
【人名】物部諸万・日下部公小(浄)・□田龍(麻呂)・(雀)部大前・首小黒・□□家□(注)・小長□部


第2275話 2020/10/27

開発途上国のエイジ・ヒーピング現象

 訳あって、「ベイズ統計学(主観確率)」の勉強のため、以前に買った門倉貴史著『本当は嘘つきな統計数字』(幻冬舎新書、2010年)を再読しました。「ベイズ統計学」については別の機会に触れることがあるかもしれませんが、同書に紹介されていた開発途上国のエイジ・ヒーピング現象に興味を持ちました。
 今年、わたしは古代戸籍(大宝二年籍)における二倍年齢の影響について研究をすすめ、来月15日の〝八王子セミナー〟(注①)で発表することになりました(注②)。その研究において、古代戸籍年齢分布に10歳毎の大ピークと5歳毎の小ピークの存在が、先学(注③)により指摘されていることを知りました。
 このような現象はエイジ・ヒーピング(age heaping)と呼ばれ、開発途上国に多く見られることを『本当は嘘つきな統計数字』で知りました。たとえば、インドネシアの「国勢調査」は10年に1度実施されていますが、その結果をみると、人口に関する統計値で、人口を1歳刻みで並べていくと、下一桁に「0」と「5」がつく年齢の人がそうでない人に比べて極端に多くなる傾向が見られます。この5歳刻みのピーク発生をエイジ・ヒーピングと呼びます。その発生理由は、インドネシアをはじめ多くの開発途上国では、自分の年齢をあまり気にしないからだそうです。中には自分の年齢を知らないまま一生を終える人もいるとのこと。
 ですから、「国勢調査」の調査員に年齢を聞かれても、自分の年齢を適当に丸めて答えてしまう人が多く、その結果、5歳毎のピークが発生するわけです。ただ、開発途上国でも、ベトナムのようにエイジ・ヒーピングが見られない国もあり、それらの国に共通する特徴として、十二支が社会的習慣として浸透していることがあります。年齢があやふやでも、みんなが生まれた年の干支を知っているので、調査員が干支を聞けばその人の年齢を把握することができるわけです。なお、インドネシアでは、近年の「国勢調査」に統計的な手法を使って原統計からエイジ・ヒーピングの現象を取り除く補正作業が行われているそうです。
 確かに年干支が社会に浸透している国では、エイジ・ヒーピングが発生していないということは理解できますが、干支が浸透していたはずの7世紀の日本(倭国)において、大宝二年(702)戸籍に10年毎の大ピークが発生している事実を、単純なエイジ・ヒーピングでは説明できません。このことについて、11月14~15日の〝八王子セミナー〟で発表します。

(注)
①「古田武彦記念古代史セミナー2020」、11月14~15日。八王子市の大学セミナーハウスで開催。
②発表テーマ:古代戸籍に見える二倍年暦の影響―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―。
③岸俊男『日本古代籍帳の研究』(塙書房、1973年)
 南部昇『日本古代戸籍の研究』(吉川弘文館、1992年)


第2274話 2020/10/26

新・法隆寺論争(3)

法隆寺持統期再興説の根拠

 法隆寺の再興時期について、和銅年間とする説や持統期には再建されていたとする説があります。持統期での再建あるいは移築説の根拠とされる金石文に、法隆寺に伝わった「観音像造像記(銅板)」があります。その銘文は次の通りです。

「観音像造像記銅板」
(表)
甲午年三月十八日鵤大寺德聡法師片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師三僧所生父母報恩敬奉觀世音菩薩
像依此小善根令得无生法忍乃至六道四生衆生倶成正覺
(裏)
族大原博士百済在王此土王姓

 この「甲午年」は六九四年(持統八年)とされています。この銘文中に「鵤大寺」「片罡王寺」「飛鳥寺」という三つの寺院名があり、これは法隆寺・片岡王寺・元興寺のこととされています。ですから、六九四年(持統八年)には法隆寺(鵤大寺)が存在していたと考えられます。これら三つのお寺の筆頭に記され、しかも法隆寺(鵤大寺)だけが「大寺」とされていますから、比較的大規模な有力寺院と理解せざるを得ません。
 この銘文などを根拠として、持統期での法隆寺再興説に立たれている論者に田中嗣人さんがおられます。田中さんの論文「鵤大寺考」(注①)によれば、法隆寺を「聖徳太子」一族らの私的な寺とする法隆寺私寺説(注②、若井敏明説)への反論として、この「鵤大寺」の「大寺」という表記は「官寺」を指すとして、次のように述べられています。

 「本銘文中に法隆寺のことを鵤大寺と表現していることは重要であって、再興法隆寺が官寺の扱いを受けていた良き傍証となりうるのである。(中略)
 まず大寺の意味であるが、一般的には、構造や僧侶数など規模の大きな寺院を意味し、『おおでら』などと称しているが、我が国上代では極めて限定された意味に用いられており、大寺とは官寺を指すことにほかならないのである。」8頁(同、注①)

 また、冒頭の「甲午年」についても六九四年(持統八年)とされ、その理由に次の点を指摘されている。

 「八世紀以前の金石文を検討すると、一般に干支のみで年号を記載するのと、日付記載が文頭にくる例は、大宝(七〇一~三)以前に限られ、また裏面の『此土王姓』を百済王姓の意に解すると、『続日本紀』(以下、『続紀』)天平神護二年(七六六)六月壬子条の百済王敬福の卒伝に、その曽祖父百済王禅広が日本に帰化した事情を述べ、(中略)百済王賜姓が持統朝に行われたことが知られるので、その頃の干支で甲午年は持統八年以外にはありえないので、本造像記が持統八年に記されたことが知られる。」6頁(同前)

 このように田中さんは手堅く論証を進められており、この金石文の存在により、法隆寺の再興が持統期になされたとする見解が有力なものであることを知りました。なお、この田中稿は法隆寺私寺説に対する批判を目的としたものなので、次にその批判の対象とされた若井敏明さんの論稿を読んでみました。そこにはとても興味深い指摘がなされていました。(つづく)

(注)
①田中嗣人「鵤大寺考」『日本書紀研究』21冊(塙書房、1997年)
②若井敏明「法隆寺と古代寺院政策」『続日本紀研究』288号、1994年。


第2273話 2020/10/25

古代ギリシア哲学者の超・長寿列伝

 プラトン著『国家』にみえる教育制度と教育年齢が二倍年齢と理解せざるを得ないことなどを紹介し、ソクラテスやプラトンら古代ギリシアの哲学者たちは二倍年暦(二倍年齢)の世界に生きていたとしました。このことを裏付ける記録が残っていますので紹介します。
 ソクラテス(70歳没)やプラトン(80歳没)に代表される古代ギリシア哲学者の死亡年齢が高齢であることは著名です。たとえば、 紀元前三世紀のギリシアの作家ディオゲネス・ラエルティオスが著した『ギリシア哲学者列伝』によれば、下記〔表〕の通りであり、現代日本の哲学者よりも高齢ではないでしょうか(注①)。これら哲学者はいずれも紀元前4~5世紀頃の人物であり、日本で言えば縄文晩期に相当し、常識では考えにくい高齢者群です。
 フランスの歴史学者ジョルジュ・ミノワ(Georges Minois)は「ギリシア時代の哲学者はほとんどが長生きをした」(注②)とこの現象を説明していますが、はたしてそうでしょうか。やはり、この現象は古代ギリシアでも二倍年暦により年齢計算されていたと考えるべきです。そうすれば、当時の人間の寿命としてリーズナブルな死亡年齢となるからです。中国だけではなく、ヨーロッパの学者にも二倍年暦(二倍年齢)という概念がないため、「ほとんどが長生きをした」という、かなり無理な解釈に奔るしかなかったと思われます。
 その証拠に、古代ギリシアでの長寿は哲学者だけとは限らず、クセノファネス(注③)(紀元前5~6世紀の詩人、92歳没)や、古代ギリシアの三大悲劇作家のエウリピデス(74歳没)、ソポクレス(八九歳没)、アイスキュロス(注④)(69歳没)もそうです。このように、古代ギリシアの著名人には長寿が多いのですが、こうした現象は二倍年齢という仮説を導入しない限り理解困難です。

〔表〕『ギリシア哲学者列伝』のギリシア哲学者死亡年齢
名前       推定死亡年齢 ディオゲネス・ラエルティオスの注と引用
アナクサゴラス  72歳
アナクシマンドロス 66歳
テュアナのアポロニオス 80歳
アルケシラス   75歳 ある宴会で飲み過ぎて死亡。
アリストッポス  79歳
アリストン    「老齢」
アリストテレス  63歳 ディオゲネスはアリストテレスの死亡年齢を70歳としたエウメロスを批判しており、それが正しい。
アテノドロス   82歳
ビアス      「たいへんな老齢」 裁判の弁論中に死亡。
カルネアデス   85歳
キロン      「非常に高齢」 「彼の体力と年齢には耐えきれないほどの過剰な喜びのため死亡」と言われている。オリュンピア競技の拳闘で勝利した息子を讃えていたときのこと。
リュシッポス   73歳 飲み過ぎて死亡。
クレアンテス   80歳 B・E・リチャードソンによれば九九歳。
クレオブウロス  70歳
クラントル    「老齢」
クラテス     「老齢」 自分のことをこう歌っている。「おまえは地獄に向かっている、老いで腰がまがって」。
デモクリトス   100か109歳
ディオニュシオス 80歳
ディオゲネス   90歳 自分で呼吸をとめて自殺したとも、コレラで死んだとも言われている。
エンペドクレス  60か77歳 祝宴に向かう途中馬車から落ち、それがもとで死亡。
エピカルモス   90歳
エピクロス    72歳
エウドクソス   53歳
ゴルギアス    100、105もしくは109歳
ヘラクレイトス  60歳
イソクラテス   98歳
ラキュデス    「老齢」 飲み過ぎで死亡。
リュコン     74歳
メネデモス    74歳
メトロクレス   「非常に高齢」 自殺。
ミュソン     97歳
ペリアンドロス  80歳
ピッタコス    70歳
プラトン     81歳
ポレモン     「老齢」
プロタゴラス   70歳
ピューロン    90歳
ピュタゴラス   80か90歳
ソクラテス    60歳
ソロン      80歳
スペウシップス  「高齢」
スティルポン   「きわめて高齢」老いて病身、「早く死ぬためにワインを一気に飲みほした」。
テレス      78か90歳 「裸体競技を観戦中、過度の暑さと渇きから疲労し、高齢もあって死亡」。
テオフプラストス 85か100歳以上 「老衰で」死亡。
ティモン     90歳
クセノクラテス  82歳
クセノポン    「高齢」
ゼノン      98歳 転んで窒息死。
(つづく)

(注)
①ジョルジュ・ミノワ『老いの歴史 古代からルネッサンスまで』(筑摩書房、一九九六年。大野朗子・菅原恵美子訳)
②同①、72頁。
③ルチャーノ・デ・クレシェンツォ『物語ギリシャ哲学史 ソクラテス以前の哲学者たち』(而立書房、一九八六年刊。谷口勇訳)
④)同①、66頁。


第2272話 2020/10/25

プラトン『国家』の学齢

プラトンが著したソクラテス対話篇『国家』第七巻に(注①)、国家の教育制度と教育年齢についてソクラテスが語っている部分があります。その要旨は次の通りです。

十八歳~二十歳  体育訓練
二十歳~三十歳  諸科学の総観
三十歳~三十五歳 問答法初歩
三十五歳~五十歳 実務
五十歳~    〈善〉の認識に対する問答法

 これらの修学年齢も一倍年齢とすれば遅すぎます。国家の治者を教育するプログラムとしても、三五歳まで教育した後、ようやく実務に就くようでは教育期間としては長すぎますし、体育訓練が十八~二十歳というのも人間の成長を考えた場合、これではやはり遅過ぎます。ところが、これらを二倍年齢と理解すれば、一倍年齢換算で次のような就学年齢となり、リーズナブルな教育プログラムとなります。

九歳~十歳      体育訓練
十歳~十五歳     諸科学の総観
十五歳~十七・五歳  問答法初歩
十七・五歳~二十五歳 実務
二十五歳~     〈善〉の認識に対する問答法

 これまで紹介した『礼記』や『論語』の年齢記述と比較しても矛盾の無い内容です。更に『国家』第十巻には人間の一生を百年と見なしている記述があり、これも二倍年齢表記と考えざるを得ません。

「それぞれの者は、かつて誰かにどれほどの不正をはたらいたか、どれだけの数の人たちに悪事をおこなったかに応じて、それらすべての罪業のために順次罰を受けたのであるが、その刑罰の執行は、それぞれの罪について一〇度くりかえしておこなわれる。すなわち、人間の一生を一〇〇年と見なしたうえで、その一〇〇年間にわたる罰の執行を一〇度くりかえすわけであるが、これは、各人がその犯した罪の一〇倍分の償いをするためである。」プラトン『国家』第十巻(注②)

 この百年という人間の一生も『礼記』などに記された二倍年齢表記の百歳という高齢寿命とよく対応しており、この時代、洋の東西を問わず、人間の最高寿命が百歳程度(一倍年齢の五十歳)と認識されていたことがわかります。すなわち、ソクラテスやプラトンら古代ギリシアの哲学者たちは二倍年暦(二倍年齢)の世界に生きていたのです。(つづく)

(注)
①田中美知太郎編『プラトン』(中央公論社、一九七八年刊)の解説による。
②同①。